2002年10月26日土曜日

アルジャーノンに花束を/ダニエル・キイス

帯にもあるとおり、トレンディドラマ枠で、この小説のテレビ番組が始まりました。
実際のところ、私にはほとんどこの小説を気にしたこともなかったのですが、どんなところにも、「感動の名作!」と書かれており、最近急に気にしだしたのです。
テレビ番組で最初に見たとき、手術によって精薄者が天才になるというようなストーリーだということがわかり、これってうまく描いてあるのなら、私的にも非常に面白いと思える内容なんじゃないかなと思い始めました。
文庫本の裏にある小説の紹介では、こんな風に書かれています。
「超知能を手に入れた青年の愛と憎しみ、喜びと孤独を通して人間の心の真実に迫り、全世界が涙した現代の聖書」
現代の聖書とは大きくでたなあ、と思いましたが、確かにこの紹介文に違わない、実に実に感動的な小説でした。マジに泣けました!

簡単にストーリーを紹介しましょう。
32歳になっても幼児程度の知能しかない、いわゆる精神薄弱者であるチャーリー・ゴードンは頭が良くなる手術を受けます。とはいえ、この手法はまだ実験段階であり、チャーリーはいわば始めての人体による実験となったわけです。
この手術により、チャーリーは次第に頭が良くなります。ついには、この手術をした教授たちを凌駕する知能を手に入れますが、チャーリー自身の研究によりこの効果は一過性しかなく、またもとの知能に戻っていくことを自ら発見します。そして、最後には知能がついに元に戻っていってしまうのです。ちなみにアルジャーノンとは、同じ手術を受けたネズミの名前で、チャーリーがこの効果に永続性がないことを知るきっかけを与えています。
この小説はチャーリーによる、自身の身の上に起こることの経過報告、という形で書かれています。いわゆる日記風小説なわけです。物語の冒頭と最後は、日本語訳ではほとんど漢字がなく、句読点もない、幼児風の文体となっています。そして、この文章表現を見るだけで、チャーリーが次第に頭が良くなる様子、あるいは元に戻っていってしまう様子が的確にわかるのです。
まず、この基本的なアイデアそのものが、非常に面白いと思いました。そして、この小説の感動は、この構造なしに語れないものです。

さて、はっきり言ってしまえば、この小説における感動とは非常にヒューマニズムに根ざしたものです。確かに全体的なアイデアはSF的とも言えますが、著者は徹底して人間の精神活動を分析し、この架空な設定の中にも各人物の行動にリアリティを与えることに成功しています。
何人かの(いろいろな意味で)魅力的な人間が現れます。
まず何といっても、この小説に感動を添える大きな役割を果たしているのは、チャーリーが通っている精薄者の学校で教えているアリス。チャーリーは知能を得るに従い、このアリスに好意を寄せるようになります。アリスもチャーリーを愛しますが、この二人の愛はチャーリーの目まぐるしく変わる知性に翻弄されます。特に終わりのほうでチャーリーが元に戻っていくときの彼女の献身がどうにもいたたまれなくて、これが涙を誘わずにいられないのです。
チャーリーの母親も重要な人物だと思います。自己中心的な発想でしかものを考えられない、精神的に未熟な母親が実にリアルに描かれています。チャーリーは頭が良くなるにつれ、昔の母親の記憶をどんどん思い出します。妹が生まれるまで、精薄者であるチャーリーを無理やりにでも正常にしようと頑張る様子。ところが、妹が正常な人間として生まれると今度はチャーリーが疎ましく思えるようになり、自分たち家族の幸せを阻害するものとして敵視し始め、ついに自分の家から追い出してしまいます。父親は終始一貫してあるがままのチャーリーを受け入れようと説得しますが、ほとんど狂気じみた振る舞いでチャーリーを追い出してしまいます。そして、チャーリーはそのときのことも克明に思い出すのです。
しかし、その母親をチャーリーが頭が良くなってから訪ねたとき、彼女はすでにまともな精神状態の人間ではありませんでした。この事実がまた、私たちの心を締め付けます。ヒステリックで思い込みが激しく未熟な精神の持ち主の末路とでも言うのか・・・彼女はまた精薄者の息子を持つという精神的な重荷に絶えられなかった被害者でもありました。
それほど重要でないが、やはり感動を誘った人物として、ギンペイがいます。彼はチャーリーとともにパン屋で働いていた従業員です。手術を受けたあと頭が良くなったチャーリーはギンペイが不正に値引きをして、その差額を客と分け合っている事実に気がつきます。チャーリーはその不正を見過ごすことが出来ません。そして、ギンペイにそのことを注意するのです。それまで白痴同様だったチャーリーが急に頭が良くなって、ついに自分の不正を問いただすなどということをされたギンペイは、もうすでにチャーリーはただの嫌なやつにしか思えなくなってきます。
ところが、物語の最後の最後、知性が元に戻ってしまい、パン屋に舞い戻ってきたチャーリーがいじめられて、それをギンペイが助けてやるところなど、やはりほろりとさせられます。

なんだか、こう書いていると細かいことばかり書いているような気がします。
ただ、実際のところ、一般に言われているように、頭が良くなることが本当に幸せなことだろうか、というような単純な問いかけだけで出来ている小説ではないと私は言いたいのです。確かに頭が良くなるにつれ、周りの人々の愚かさに気付き、それゆえに孤独になっていく様は非常にうまく描かれていると感じました。
しかし、恐らくもっと根深い問題として、知性と、その知性をうまく扱うだけの精神的な成長とのアンバランスさもうまく表現しているように思うのです。実際のところ、この手術の効果はあくまで知能面だけであり、その知能の成熟と衰退の時期が、精神的な成熟と衰退と微妙にずれているところが、この小説の構成のうまさだとも感じます。

SFの設定として若干無理があるのを感じるのは、頭が良くなっていって20ヶ国語を扱えるようになるだとか、ピアノ協奏曲を作曲するだとか、その他様々な理論を習得してしまい専門家の無知をさらけ出してしまうとか、割と天才について過激な描写をしているところです。まあ、そのあたりは物語の本筋とは関係ないし、一般の人々が天才だと思うようなことを半ば俗っぽく表現してあげたということなのかもしれません。

この小説は1966年に発表されており(私の生まれた年!)、すでに古典の領域に入るくらい有名なものらしいのです。それにしては、よく今まで私のアンテナに引っかからなかったなあ、と思います。
SF好きでなくても、ヒューマンもの好きでなくても、この小説の持つ根源的なテーマは多くの人を感動させることは確かなようです。