2004年12月30日木曜日

詩のボクシング

去年はどうも見逃したようなんですが、今年の詩のボクシングの全国大会の番組を見ることができました。
以前も2回、この番組の模様を談話に書いたりしていますが、いやー、これほんとに面白いですよ。合唱曲を作っているおかげで詩に触れることは多いのだけど、詩を楽しむということに関して、現在最もアグレッシブな試みであるのがこの詩のボクシングと言っていいと思うのです。
文字として書かれる詩よりも語られる詩という要素を重視したこの試みは、歌われる詩という要素と相通ずるものがあります。いずれにしても、音声を通して人に語りかけるからです。特に詩のボクシングの場合、語る人たちのキャラクターがとりわけ大きなファクターとなってきます。それが、逆に一般の人から見ると、ちょっと寒いイメージを持たれるのかもしれないけれど、それは表面的なものの見方でしょう。舞台で何かを表現しようとするとき、恥ずかしいとか寒いとかいう印象はもっと払拭されなければならないものです。それはもちろん合唱にも当てはまります。
今回の優勝者、林木林さん、強烈なキャラだけが印象に残りがちですが、斜に構えた皮肉たっぷりな表現の中に、独特の比喩をちりばめた才能の高さを感じました。
それにあのキャラはどう考えても作為的ですよ。いくらなんでも、あういう詩を作りながら、あそこまで人そのものが素でダサい感じであるとは思えない。髪型、服装をわざとダサくして、しかもノーメイクの眼鏡顔。猫背でおどおどしながら歩き、徹底的に自己卑下した雰囲気を醸し出しています。準決勝時に詩人の紹介があったのですが、昔のちょっと美人な写真を見て、完全に彼女が作為的なキャラ作りをしていることを確信しました。
その準決勝の「雨ニモマケズ」のパロディは面白かった。生真面目で盲目的な宮沢賢治好きには噴飯ものかもしれないけど、ああいうパロディの精神を持っている日本人は少ないと思います。そして決勝の木と水が逆転している世界もすごいと思った。
世の中には市井にいながら、クリエイティヴな活動をしている方がたくさんいるんだなと、個人的には大変勇気付けられた気がしました。

2004年12月29日水曜日

ソロとアンサンブル

普通クラシックの世界で歌をやっているといえば、オペラのアリアや歌曲などをソロで歌うような活動でしょう。妻もそういう世界に片足を突っ込んでいるわけですが、実際、こういう世界にはいろいろ怪しい人たちが多いのです。声楽といえばイタリアオペラ、というような方々は世の中にたくさんいるらしく、またそれを指導する人たちもそういった価値観の中にどっぷり浸かっています。
そういう人たちの中には、合唱を毛嫌いしたり、一段低いものと捉える方々も多いらしい。もちろん、一般的には合唱団にソリスト級の人たちはそれほどいないでしょうし、どちらかというとアマチュア音楽的な世界ではあります。それでも、音楽をするために必要なアンサンブル力というのは合唱では求められます。
ソリスト的な歌いまわしとアンサンブル重視の歌いまわしはもちろん両立しないわけではありませんが、本質的な意味において相反する関係であるのかもしれません。
つまり、ソリストにとって自分自身の存在感を示すことは何より大事なことであり、そのため伴奏から意図的にはみ出たりすることはむしろ演奏者の色を出すことに繋がります。印象という点でいえば、単純に高音が出せたり、音量が大きかったりという要素も重要でしょう。そこまでいかなくとも、若干のビブラートとか、一音符内での音量操作などもソリスティックな歌いまわしには欠かせません。
逆に合唱団の中では、音量や音質に統制を取る必要が出てきます。アンサンブルというのは一種の規制であり、制約を課せられたゲームのようなものです。本来はその制約の中でいかにドラマを作っていくのか、というのが音楽の中で大事な要素なのですが、アマチュア合唱の場合、制約を守らせるのに精一杯な現実があります。
ところが、それがソリストの世界から見ると、ただの規制をはめられた音楽というように見えてしまっているのではないかと思うのです。
どんな音楽活動であれ、アンサンブルの楽しさを知らないことは大変残念なことに思います。しかし声楽家と呼ばれている人たちには、意外とこのアンサンブル能力が低い人が多いように感じます。それは、あたかも合唱に対するアンチテーゼのようです。
私が所属しているアンサンブルグループのムジカチェレステの忘年会でこんな話をしたのですが、ソロ活動もしている人たちは、ソロの人たちにももっとアンサンブルの楽しさを知って欲しい、と言ってました。本当にそのとおりなのだけど、なかなか振り向いてはくれないようです。
逆に、私にはもっとソリスティックな歌の能力を求められていて、頑張ります、というしかない状態なのでした。


2004年12月24日金曜日

温故知新

新しいモノに価値を見出すことは本当に難しいことです。
ほとんどの場合、新しいモノといっても玉石混交で、とりあえず批判しておけば8割くらいは当たることでしょう。まあ、責任のない立場なら何を言っても構わないわけで、それだけに人々の批評の言葉は当人が思っている以上に保守的なものなのです。
しかしそもそも古いモノが優れているのは当たり前なのです。なぜなら優れたものしか残っていないからです。だからそれをもって昔の方が良かったなどと言うのは的外れなのだと思います。
人は皆、自分の手が届かない場所にあるモノに憧れます。古いモノは古いが故に手が届かず、だからこそ永遠に超えることのできない憧れになり得ます。だから、今の時代にバッハを好きな人が、「バッハと同時代に生きたかった」などというのは、おおよそ見当違いな発言になる可能性があります。もしバッハの時代に生きていたら、平気でバッハを批判していたかもしれないのです。
古いモノに価値を見出すことは簡単だけど、そのスピリットを受け継ぎ、新しいことを生み出すことはいかに難しいことか。新しい価値を作り出そうとするとき、作り出すというそのものの苦労だけでなく、過去にとり憑かれた人々の深層心理とも戦わねばならないからです。

2004年12月18日土曜日

ゲノムが語る23の物語

041218
遺伝子関係の科学読本。
人の持つ23本の染色体が、それぞれの章になっていて、その染色体内にある遺伝子をネタにいろいろな話題を提供するという体裁がなかなかセンスが良いのです。
とはいえ、なかなかヘビーな一冊です。いろいろな面白いことが書いてあるにもかかわらず、夥しい専門用語の数で(ちゃんと説明されてはいますが)正直言ってなかなか頭に残らないのが悲しいところ。
しかし、これを読んで思ったのは、遺伝子の仕組みがまるでデジタル信号を扱うコンピュータのようなものだということ。何億年もかけて生命は自然とこのような仕組みを作り出したというのはまさに脅威。とはいえ、今では用をなさなくなったジャンクDNAであるとか、複製の際のコピーミスであるとか、実際の遺伝子の動作は完璧というわけではなく、これが病気や老化や、あるいは進化の原因であるわけで、この辺りを理解しようとすると相当ヘビーな内容になってきます。
「利己的な遺伝子」でもあるように、全てのコピーの最小要素は遺伝子であり、遺伝子一つ一つが利己的に振舞う、と言う考え方は、具体的な例でいろいろ示されます。ジャンクDNAである用をなさない遺伝子が人の遺伝子に寄生していたり、父譲りの遺伝子と母譲りの遺伝子間で闘争があったり、一つの個体の中でさえ、各遺伝子同士が自分を残そうと躍起になっているのです。
この他、遺伝子と知能の問題、個人の識別の問題、遺伝病の話、遺伝子操作にまつわる倫理的な話、と様々な話で構成されています。

2004年12月17日金曜日

ローズとハモンド

仕事の関係で、往年の名機と呼ばれる二つの楽器に触る機会がありました。
一つはローズの電気ピアノ。もう一つはハモンドオルガンB-3というやつ。いずれも60年代、70年代の音楽シーンを語る上でかかせない楽器です。
音そのものは、今でもシンセに載せられたりして聴いたことのある感じはあるし、当時の有名なアーティストが使ったあの音と同じ音だ、という楽しみもあったのだけど、個人的にはあれを作り上げた技術者魂みたいなものに感銘を受けたのです。
両方とも、今から見れば恐ろしく不安定な楽器で、例えばローズなど、買ったばかりではまともな音が出なかったらしいのです。蓋を開けて、一つ一つの鍵盤についている音叉のようなものを締めているネジで音を調整しなければいけません。また、各鍵盤の消音用のフェルト部分もかなりバラつきがあって、ここも調性が必要。実際に音を出す鉄の棒にも針金のようなものが巻いてあって、この位置を変えるとピッチが微妙に調整できるのです。
ハモンドのほうは、音に関する不安定さはそれほどないのだけど、例えば近接するトーンホイールがクロストークしてしまい、鍵盤のピッチとは違う、若干の変なピッチの音が聞こえてきます。電源を入れるときも、車のエンジンみたくスタータを廻さないといけないんです!
いずれも、電子技術が無かった頃の話なので、技術的には仕方ないにしても、これだけの仕組みを電気的、機械的に作り上げたそのアイデアと努力は、ひしひしと伝わりました。電気を使うとはいえ、これはやはり生楽器なのです。楽器というのは、本来常にこういう不安定さと紙一重にあって、それが使う側の愛着を誘ったり、その人にしか出せない音を生む原動力になったりするわけです。
ローズもハモンドも時代の流れに淘汰され、今では影も形もありません。しかし、こういう楽器を作りたいという設計者の意志があれば、今の時代だってもっとクセのある面白い楽器が作れるのだと思います。私としては、ビンテージ物のこれらの楽器の音色を単に礼賛するより、そういったこだわりを持って楽器を開発したその意志にロマンを感じてしまうのです。

2004年12月16日木曜日

千と千尋の神隠し

今頃見ました。しかも先週テレビを録画していたのを忘れてました。
たまたま、月曜日の英会話のとき、イギリス人の先生が「I couldn't understand」と言っていて、そのときはいくら日本的な雰囲気とはいえ、分からんことはないだろうと思ったんです。映画は結構好きな人なんだけど。(日本にいたら、映画くらいしか楽しみが無いのかも)
その話を聞いて、自分が録画していたのを思い出し、ようやく見たというわけです。流行ったのがずっと前のことだったので、すっかり映画を取り巻く評判を忘れていたのですが、確かに英語の先生が「わけわからん」といった理由はわかりました。これは、とんでもなくシュールなお話だったのですね!
私はこういったシュールさは好きです。ドロドロのゲロゲロな感じがうまく表現できるのはアニメだからこそ。実写じゃシャレにならない映像になってしまいます(その前に、へんてこりんなキャラが実写じゃ無理)。
脈略がなく、とんでもない方向にどんどん話が向かうこの映画は、以前も書いたけど「未来世紀ブラジル」を思い起こします。ただし、そこはやはり宮崎駿、どんなにシュールでも、人の良さ(ブラックな味わいの少なさ)、少女趣味的傾向は健在です。もちろん、その辺りが万人に受ける要因でもあるのですが。
しかし、すごい想像力だなあと思いますね。これだけのキャラ、オブジェのデザインを考え出すその底知れないイマジネーションに感服です。それを堪能するだけでも、宮崎ワールドの価値は十分あると思います。

2004年12月13日月曜日

久しぶりの本番

今日は、静岡県芸術祭の合唱部門にヴォア・ヴェールで参加してきました。
��月に演奏会をやって以来、今年は小ステージの縁が無くて久しぶりの本番になったのですが、今日都合の悪い人が5人もいてステージに乗った人は13人。申請の人数よりも減ってしまった…
練習の出席率も必ずしも良くは無いので、全体的にのんびりしたムードの合唱団になりつつあります。まあ、居心地は良いのだろうけど、これではなかなかうまくなりません。今日演奏したバーバーの Reincarnations も4月以来、8ヶ月以上歌っているのだけど、歌いきれている感じがどうも出てこないのです。
ここ数回の練習でやはり気になったのはピッチの問題。
私の周りではこういった小アカペラ合唱団ばかりなので、もういつでもピッチの問題だらけなんですが、どれだけ苦労してもやっぱり王道というのは見つからないんですね。日によっても違うし、歌う場所によっても違うし、指揮者が言ってしまった一言でさらに悪化してしまう場合もあります。考えてみれば、何十人という人たちが一つのハーモニーを作る際、一人が何かアクションしたくても、一瞬ではどうするのが一番正しいことなのかは判断がなかなかつきません。
それに微妙なずれだと、上がっているのか下がっているのか、やはり一瞬ではなかなか判断しづらい。指揮者が「低い、低い」と言って、もともと上がってずれていたのが、どんどんずれていくのは良くあること。最近はそういう間違いが怖くて、よほど確信が無いと低いとか、高いとか私も言わなくなりました。^^;
まあ、そんなこんなでピッチを良くするにはどうするか考え始めると、どんどん思考は袋小路に入っていくのです。
団員が20人を超えると、ピッチ的に安定状態に向かうような力学が働くような気がするのですが(つまり1パートが5人くらいになれば)、それ以下だと、個人の能力や気まぐれに左右されることが多くなるわけです。そんなことを考えると、やっぱりとりあえずは人数だよなあ、と思うのですが、不思議に私の関わる合唱団の人数は20名を超えたことがないのです。

2004年12月7日火曜日

太陽の塔/森見登美彦

第十五回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した森見登美彦の「太陽の塔」を読みました。
いやー笑った、笑った。面白かったです。
言ってしまえば、もてない男たちが、世の恋愛至上主義を嘆きながらも、やはり心の底ではささやかな幸せを求めて止まない心情みたいなものが垣間見える、とっても恥ずかしい大学生のお話。そう、青春というのはとめどもなく恥ずかしいものなのだと思うのです。誰にもいえない恥ずかしい体験を、赤裸々に書くこと、ただし直球でなくて、相当な変化球で、これがこの小説の目論見でしょう。
だから、とても共感できてしまう。全てがあまりに恥ずかしいからです。もちろん、笑いを追及するあまりあり得ないような話も出てきますが、そこに横たわる恥ずかしい感情は、誰にでも経験のあるものです。
そういったわけで、この小説、エンターテインメントというよりは、むしろ純文学に属する小説だと私には思えます。この小説にはストーリーなどほとんどなく、ストーリーに無関係な妄想がむくむくと行数を侵食しているからです。
それでもラストシーンはバカバカしくも幻想的で、情景が思い浮かぶような、不思議な面白さを感じました。泣きながら笑いながら、この部分読みました。このあたり、実は結構技巧的に書かれてもいるとも思えました。


2004年12月5日日曜日

MJってブスなのか?

今年公開されたヒーロー映画、スパイダーマン2はなかなか良くできた映画で、結構面白かったのですが、実は私まだ1のほうを見ていなかったのです。先日テレビでスパイダーマンをやっていて、ようやく1を見れました。
こちらもなかなか面白かった。1も2も大枠でみれば単純なストーリーだし、想像の範囲を超えない典型的なヒーローモノ映画なんですが、スパイダーマン自身の苦悩や、悪者が悪者になるまでの苦悩などがきちんと描かれていて、微妙に人を引き込むのがうまいなあ、と感心しています。
その中でも、主人公のピーターと幼なじみのMJとの恋愛の行方というのが、もう一つの面白さとしてうまく絡んでいるわけですが、どうも世間一般の評価では、MJ役のキルスティン・ダンストが美人じゃない、とかブサイクだとか、ひどいことを言われているみたい。
映画では誰もが憧れる高嶺の花的存在。しかも女優になりたいとか言ったり、いろんな言葉の端々にタカビーな匂いが漂っています。そういう役どころ自体が、ヒロインの割りには嫌われる原因なのかもしれないけど、でも私には、だからこそリアルに思えるわけです。美人だからこそタカビーに振る舞い、さらにそれをいつも遠くから見つめていることしかできない主人公の純朴さが強調されるわけですね。
それで、MJって皆さん、ブスだと思います?確かに、目元の鋭さと頬の張リ具合が、オバサンっぽい雰囲気を醸し出しているのかもしれません。日本人好みじゃない美人って感じがします。
でも、例えばヨーロッパの奇抜なデザインの車を、「うゎ、へんな車!」と思うか「へぇーかっこいい!」と思うかの違いみたいな、何かしら文化的な美醜の違いを思わず感じたりするんです。こういう端正な欧米系美人というのは、日本人には向かないのかもしれません。
いや、それとも、いつも悪者にからまれて絶叫している感じが、単にはまっているという配役なんでしょうか。

2004年12月3日金曜日

全国大会で買った楽譜

全国大会に行って思わぬ出費になるのが、パナムジカの出店で買う楽譜代。
今年の購入楽譜は、コスティアイネンのMISSA IN DEO SALUTARE MEUM、モチュニク:Christus est natus、トルミス:古代の海の歌、千原英喜:どちりなきりしたん、といったところ。毎年、演奏を聞いたあと、思わず楽譜を買うのはいいのだけど、その後歌うでもなし、本棚の肥やしになっていくわけです。

もちろん、楽譜を買ったら、ピアノでたらたら弾いてみたりします。
よく、一流の指揮者、作曲家は楽譜を見るだけで頭の中で音楽が鳴る、なんて言いますが・・・、そういう話を聞くと、私などついつい反発したくなっちゃいます。どうも人々は音楽の能力を、そういう技術力で測るのが好きらしい。まあ、人の頭の中でどんな音が鳴っているか、頭をかち割ったってわからないんだから、「私は鳴るよ」なんて言われても否定はできないわけですが。
そんなわけで、そんな能力のない私は一生懸命ピアノを叩くのですが、ピアノの技術も無いので、数ページ弾いていると弾くのに精一杯になって曲の輪郭がぼやけてしまうのです。そして、やっぱり音源が欲しいなあ、とか思うわけです。まあ、苦労してMIDIで打ち込んでもいいのだけど、最近は面倒になってきました。
かくして、音像も明らかにならないまま、またまた本棚に合唱楽譜がたまっていくのでした。

今回ゲットした楽譜の中でとりわけ異色なのがトルミスの曲。はっきり言って弾くのは簡単です。ただ、歌詞をつけたあの独特の感覚は声でないとわからないし、楽譜上では淡白な白玉の和音も、分厚いハーモニーがあればこそ映えてくるわけで、そう考えてみるとやはりトルミス、恐るべし、と今更ながら思うのです。
この曲は、極小的な和音構成よりも、曲の構成力こそ評価されるべきなのでしょうね。

2004年11月28日日曜日

ブログにしてみる

談話のページの上の部分に、チョコっと書いておいたので既に気付いていると思いますが、この談話のページをブログに移行することにしました。
考えてみれば、ひたすら文章を書きまくっているこのサイトでは、ブログという形式が最も良く合っています。体裁もそれほど気にせずに、思い立ったとき文章を入れていくだけで、それなりの見栄えのするページが出来るので、とても気軽。ふと気付いてみると、多くのページが既にブログで書かれていますので、私も流行りに乗り遅れまいということで、この談話のページ、及び「最近面白かったもの」をまとめて、ブログで書くことにしました。

ブログにするので、今後は一週間に一度といわず、気が向いたら短めの文章を書いていこうかと思います。ただ、何か決めないとずるずると更新しない可能性もあるので、当面は一週間以上は間を空けない、という決まりを自分に課したいと思います。

私のページ、それほどカウンタも激しく廻らないので、読まれているという実感があまりないのですが、先日の全国大会関連で思わぬ方々から「読んでます」という話を伺いました。思いつきでかなりいい加減なことを書いているような気もするのですが、私がいろいろ考えることが少しでも役に立っていたら嬉しく思います。
今後も、マイペースで好き勝手なことを書いていきますが、変わらぬご愛顧よろしくお願いいたします。

2004年11月24日水曜日

興行としての全国大会

松山で開催された合唱コンクール全国大会に行ってきました。
ここ2年、合唱コンクール全国大会は近場だったので聞きに行ってみたわけですが、今年は観光も兼ねるということにして、頑張って四国まで渡ることにしました。コンクールの後、月曜、火曜としまなみ海道を観光して、さっき帰ってきたところです。実は、私、今回生まれて初めて四国に行きました。^^;

さて、例年ですと、選曲や演奏の印象、各団体などの感想などを書くわけですが、三年連続で聴衆として全国大会を聴いているうちに、なんだかこの大会自体を客観的な目で見るようになってしまいました。
正直言うと、全国大会って出場者じゃないと面白くないんですよね。参加する人が一番面白いように、全ての仕組みが出来ているんです。今年は知り合いも多い浜松合唱団が全国大会に出場したこともあって、かなりの知り合いが会場にいたのですが、そのせいもあって余計そう思うのかもしれません。
出場者も、観客なんかほとんど意識していない。意識するのは審査員です。コンクールは、出場者と審査員で完結していて、単に見に行った聴衆はかやの外のようなそんな気がするのです。
今年はアクセスのあまり良くない松山というせいもあったのか、初日の午前中は観客も超まばら。すごい寂しいです。これがこの大会を目指して全国からツワモノが集まってくる場所なのか、とても疑問を感じます。確かに、松山ということでなくても、これまでも会場が熱気ムンムンだったということは少なかったように思います、審査発表時以外は・・・。
そもそも、これだけの団体数がところてん方式で、入れ替わり立ち代りひたすら演奏を続けるというのは、どう考えても聴衆にとって優しい環境とは思えません。それは取りも直さず、出演者主体でスケジュールが組んであるからであり、出場者と審査員の都合でしか考えていないことの証拠でしょう。ただ、こういう突っ込みを入れ始めると、全国大会というシステム自体を否定することになり兼ねないので、これ以上言っても仕方のないことではありますが。
もちろん、じゃあ出ればいいじゃない、という突っ込みはあるでしょう。残念ながら私にはその機会はありそうにないですが。(朝日作曲賞の表彰台にはまた立ちたいですけど・・・^^;。今年はいいとこまでいったのですけどね)

今月の頭に、吹奏楽の全国大会の様子をテレビ番組で特集していたのを見た人もいると思います。(所ジョージ司会の番組)
高校生が毎日のように鬼のような特訓を受けつつ、コンクール全国大会目指して日々頑張っているというスポ根的ノリで、さわやかな感動を誘うような番組構成になっているわけです。恐らく、多くの人が好感を持ってあの番組を見たのではないでしょうか。
私も、学生の頃、こんなに一途に打ち込めるなんて羨ましいなんて思う気持ちもあったのは確かですが、それでもなお、甲子園的ノリで勝ち抜きで音楽の優劣を競うために、各高校が血眼になっている様を見て、何か歪んだものを感じてしまったのです。
以前も、聴衆不在のお稽古系音楽ジャンルの談話を書きましたが、こういった全国大会のあり方が、その方向を助長しているように思えます。もっと、聴衆を増やす方法を、どんな興行であっても考えるべきではないかと、私は思います。

さて、演奏の方ですが、個人的には一般Aでは、ゾリステン・アンサンブル、会津混声合唱団、アンサンブルVine が、そして一般Bでは、なにわコラリアーズ がお気に入りでした。特に、なにわコラリアーズの印象は圧倒的で、もう、かっこいい!の一言しか出ません。
個人的には、アンサンブルが少し破綻してもハリハリ系の声で押してしまうような演奏にはあまり共感を感じないのですが、のきなみそういう団体が金賞を受賞する傾向があるのが、今ひとつ面白くありません。私としては、鳴りが弱くても、指揮者がアンサンブルをきちんと統制し、しかも曲の面白さを彫り深く表現するような知的な演奏が好きです。(まあ、それもあくまで私が判断して、ということですが)


2004年11月13日土曜日

「幼年連祷」の一節に想う

大学時代に歌ったことのある「幼年連祷(曲:新実徳英、詩:吉原幸子)」の一節をふと口ずさむことがあります。

「わらはないでいいひとが わらふのだった
死なないでいいけものが 死ぬのだった」

自分自身はこの言葉に思わず共振し、歌っていても妙に気持ちがこもったことを覚えています。
こういった言葉を聞いたとき、最初の一文で、例えば私腹を肥やす政治家、経済人だとか、人々を混乱に陥れるテロリストとか、暗躍するヤクザとか、その他、人を貶めて高笑いをしているような人々を想像し、それに対して、次の文で繊細で傷つきやすい人々を想像するかもしれません。そういった社会の矛盾をこの言葉に託して想いを込めるというのもあるでしょう。
さらに言うなら、こういった想いはどこまでも自分個人に向かい、繊細で傷つきやすい「けもの」を自分自身に投影し、自分はこの社会で生きていくにはナイーブ過ぎるんだなどとナルシスティックに夢想してしまうといったこともあるはずです。そのとき、「笑わないでいい人」は自分の身近にいるリアルな対象を想像しているかもしれません。
そのような思いを代弁してくれる言葉として、この詩の一節はとても印象的に響きます。

ところが、この言葉で表される気持ちってとてつもなく傲慢なんじゃないかと、ふと思ったのです。
自分の人生においては自分は自分でしかないわけで、常に自分は自分を正当化しようとし、自分の考えの範囲内において正義であろうとします。しかし、相手にも同様に相手の中の正義があるはずです。そのとき自分以外の考えを、相手の正義として考慮できないのは自分の怠慢なのではないでしょうか。世の中のあらゆる衝突、紛争は恐らく常に正義と正義の戦いなのです。そういった悲劇を繰り返さないためにも、私たちには相手の正義を少しでも理解しようとする想像力がもっともっと必要なのではないでしょうか。
だからこそ上の一節が、内向的ではあるにせよ、自分の正義の殻に閉じこもり、特定の人に対して「笑わないでいい人」と言い切ることに危うさを、そして傲慢な気持ちを感じるような気がしてきたのです。
もちろん、これはこの詩の、あるいはこの詩人の価値について論じているわけではありません。この言葉に共振してしまう心情について言っているのです。自分を憐れむところで思考停止することは、やはり傲慢さの一部なのではないかと。

こういったシリアスな話題は不得手ですが^^;、傷つく自分ばかりにフォーカスするあまり、傷つけている自分を忘れてはいけない、という自戒の念もあるのかもしれません。年齢を重ねると発言権も増してくるし、人を動かすことも多くなります。しかし、周りにいる人々が全て、その人の正義に基づいて行動しているのだということを常に想像することは必要なことだなあ、としみじみ感じています。

2004年11月6日土曜日

フロー体験

たまたまちょっとした折に、「フロー体験」という言葉を聞いて、興味深かったので、その紹介をしましょう。
フロー体験というのは、ごく大雑把に言えば、あることに熱中して、寝食も忘れ、没頭しているような状態のことを言います。
このような体験には、以下のような特徴があります。

明確な目標とフィードバック
 目の前にこれをやりたいという明確な目標が存在していて、それをやりながら常にその結果をフィードバックでき、対応を調整できる。
能力とのマッチング
 ちょうど自分の能力に手頃な内容で、かつ自己表現として他人に認めてもらえる状況にある。
注意の集中
 その状態にいるとき、非常に強く集中している。
統制感覚
 自分がやっていることが全て統制出来ているという感覚がある。
客観的意識が無くなる
 それをやっている自分自身を客観的に認識することが無くなり、自分がやっていることに全ての感覚が集中している。他のことに感覚が向かない。
時間感覚の喪失
 時間の感覚が無くなり、ふりかえってみると時間が速く去ったように感じる。
自己目的的経験
 その行為から生ずる報酬のために行うのではなく、その行為自体が大きな快楽であり、自分に対する大きな報酬となっている。

たまたま、この話を聞いたときは、画家が絵を描いているとき、このような状態にあると言っていました。
ただ、そのときの話ではこのような体験をしたことがない人は 1/3 くらいいて、逆に 1/5 くらいの人は日常的に経験しているとか。要するに、こういった体験が出来ることは、その人のパーソナリティに依存していると言えるでしょう。

もちろん、私もこういった感覚の中に身を置く楽しさを知っているつもりです。あらためて、フロー体験という言葉として定義されると、自分がやっていたことの本質がちょっとわかってきたような感じがします。恐らく、多くのクリエータの人が日常的に体験していることなのではないでしょうか。
重要なのは、最後の自己目的的という特徴です。
芸術家が芸術作品を作り上げたいと思う気持ちは、その行為自体が持っている快楽にあるのではないか、というのは中々興味深い示唆です。芸術作品を作る動機というと高邁な目標や、神がかり的な精神状態で表現されることが多いですが、それはまさにこのフロー体験という言葉で表すことができるものなのではないか、とそう思えます。

2004年10月31日日曜日

正しいピッチで歌うには その2

前も書いたとおり、ピッチが悪いという指摘には、音楽の様々な要素が絡み合っているものです。
音程を語る際、単純なピッチという物理的意味だけでなく、音楽一般理論としての常識、曲の文化的文脈にも依存するはずです。もちろん、実際には先回言った発声、呼吸といった声楽的な問題が一番大きいに違いありません。

ただ、実際アカペラ作品を歌う場合、歌い手側が直面する問題は、もっと具体的でシビアな内容です。
声部間でピッチが崩れたとき、誰に合わせたらいいか、というようなことを瞬間的に判断しなければなりません。このような苦労をするのは、いつも間に挟まれる内声部であることが多いのですが、もちろん外声部だって合わせようがないということもあります。
こんなとき、みんなベースを良く聞いて、とか言ってベースにピッチの基準の責任を負わしたりします。もちろん、ベースがきちんと歌わなきゃいけないのはいつでも正しいことではありますが、ベースに合わせることが一般的に正しいかどうかは何ともいえないでしょう。メロディ側に合わせるという考え方だってあります。もちろん、合わせられる側が大きく崩れないというのが大前提ではありますが。

実際には、アカペラのピッチに関しても人間関係とは別の、演奏時に起きる力関係^^;というのがあるわけです。音楽の屋台骨を支えるメンバーが何人かいて、そのメンバーのピッチ感に左右されることもしばしば。よくそういう人のことを核になる、なんて言いますが、核になっているメンバーとはいえ、所詮アマチュア合唱団員ですから、本番で思わず崩れる場合があります。本来ならば、そういうときに音楽全体が崩れないように、個々のメンバーが他人に依存しないだけの自立した音楽表現力を持たなければいけないのですが、なかなかそれは難しいことです。
パート内の核となる人、というのが音楽に大きな影響を及ぼしているにも関わらず、練習中に前に立つ指導者がそれを具体的に言うのはやはり気が引けます。指揮者はあくまで団に対して指示をするのであり、それをどのように咀嚼して表現するかは歌い手側の領分だ、という言い方もできるでしょうが、プロ合唱団じゃないし、実際には合唱団は指揮者の(見た目には)言うなり状態です。
こういうところが、アマチュア合唱指揮の難しさだな、と本当に思うわけです。練習中に核になる人だけに注意するわけにもいかず、逆にそれ以外の人たちを指定するわけにもいかず、直して欲しい人は一向に直してくれず、直さなくていい人が余計に反応してしまうのは良くあること。まあ、指示に繊細であるから上手に歌えるし、鈍感だから表現力が弱いことにも繋がるわけですが、それが一緒くたになっていることが歌い手側の合唱団の心地よさに繋がっているのかもしれません。だから、このような状態でピッチの指示を続ければ、パート内のピッチのずれは広がる一方です。

なかなか、現実の音楽を構成する各人の機能を明確にすることは難しいものです。本当にやってしまえば、うまく歌えない人を糾弾することになり、結果的に団の雰囲気を悪くします。あるいは、歌えない人を歌わなくさせる雰囲気を作ってしまいます。
実際には、合唱団の中に流れるある種の緊張感、張り詰めた雰囲気のようなもの、が結局のところ必要なのかもしれません。コンクールに一生懸命取り組む団体はそういう雰囲気も作りやすいのかもしれませんが、それだけの気合を入れるのも一苦労。そうなると、パート全体に対する指示でお茶を濁しながら、日々の練習を費やすということになるわけです。
いずれにしてもアカペラのピッチ精度は、団内の核メンバーに依存することが多く、この辺りを指揮者がうまく押さえることが隠れたポイントなのかなとも最近思ったりするのです。

2004年10月24日日曜日

台風23号のつめ跡

といっても、深刻な話題じゃなくて・・・(いや、あやうく私にとって、深刻なことになりそうだったのだけど)。
先日の台風の晩、うちの一帯が停電になったのです。
たいていの停電なら、数分して元に戻ったりするものですが、この日は午後7時過ぎから2時間近い停電。台風だったので私も会社から早く帰ってきてその時間は家にいたのでした。
停電になってから、暗闇の中で懐中電灯を探したり、ローソクを付けたりして、少しばかり災害の不安さを体験した気分。困ったことは、同時に断水になったこと。恐らくうちのマンションでは電気で水を汲み上げているのでしょう。電気が来ないと、本当に何も出来なくなっちゃうことを実感。

さて、停電だけなら良かったのですが、停電になったときパソコンを立ち上げていて、その後復帰した後に、もう一度パソコンを立ち上げなおすと、なんとパソコンがうんともすんともいいません。どうも停電になったときに、故障してしまったようなのです。
2年前に買ったものですが、スペックとしてはまだまだ十分使えます。それなのに、パソコン買い替えというのは出費がきつい。それに、ネットでライセンス登録したソフトとかは一体どうなるんですか?
メーカー製なら、修理に出すという手もありますが、ショップブランドだし、その辺りはあまり望めません。それで、新しいパソコンを買うか、自力で直してみるか、ここ数日いろいろ悩んでいたのです。
そもそも症状は、スイッチを押しても何も動作しない、というもの。立ち上がっている途中で止まってしまうのならマザーボードやHDのクラッシュなどが考えられますが、どう考えても電源かその制御部です。頑張れば直せないものかと考えてはみたものの、私もそれほどPCに詳しいわけじゃありません。

悩んでもしょうがないので、昨夜、PCを買ったDOS/Vパラダイスの浜松店に聞いてみたのです。
保証期間が過ぎているので、どこが故障したか調べるのには3000円を頂きますという話。仮に、そこで故障箇所が見つかったとしても、たとえ2年前の物とはいえ部品はもう無いから、例えば故障箇所がマザーボードなら、PCの買い替え以外は選択肢がないだろうということ。マザーボードだけ、最新のものに取り替えられないか、と聞くと、CPUのスロットの方式やRAMなどスペックはどんどん変わっているので、そこだけ最新のものに取り替えるのは無理だと言います。まあ、知っている人には当然の話ですが、確かにPCの進歩は早くて、2年前のものでさえ交換部品がないことは想像がつく範囲かもしれません。
それでも、単純な故障であることを期待して、3000円の出費が無駄になる覚悟で、今日、ドスパラ浜松店に行ってきたのです。
しかし、店員は故障箇所がどこであっても、2年前のものだと修理は無理である可能性が高いことをしきりに説明します。電源でさえ、ファンの位置が最近は違っていて、新しい電源は2年前のものに付かないこともあるらしい。
それから、もう一つとんでもない話があって、この3000円の点検では、HDを全て消去するとのこと。これはもう、自宅で使っているPCが壊れたから点検する、というサービスなんかじゃなくて、PC自作する人が部品を組み上げたら動かないというトラブルを解決するようなサービスであることにようやく気付いたのでした。
結局お店の人とやり取りしているうちに、PCを持ってきているなら電源だけでも見ましょうか、というやさしい提案をしてくださり、その場で、動作する電源を取り付けてチェックをしてもらいました。
そしてなんと、嬉しいことに電源を変えたらPCは無事BIOSが立ち上がるところまで動作をしたのです。
電源を変えるだけなら、きっと何とかなります。結局、ドスパラ浜松店では電源は入手できなかったので、その足で別のPCパーツショップへ。
そうは言っても、どこでどういうオチがあって、取り付けられないという事態になるか分かりません。しかもたいてい、そういうことを店の人に尋ねても、いまどきはそれほど親身になって話は聞いてくれないのです。実際、ユーザが持っているPCの環境は千差万別で、そういう状況に店の人は対応できないのが実態でしょう。ですから、PCのパーツを買うときは自己責任で、自信を持って買うのが王道なのです。
とはいえ、買ってきたら取り付けられなかった、のではショックが大きい。その店で、最も安い中国製の電源(1800円)を購入することを決断。写真で見る限り、ファンの位置も良さそうです。

というわけで、無事この記事をアップできているということは、その電源、ちゃんと動作してくれて、元通りPCは生き返ったということなのです。
いやー良かった、良かった。
確かに電源は、ケースと微妙にサイズが違っていて、ぴったしじゃなかったですが、ネジで無理矢理止めてしまいました。結局、3000円どころか1800円でこのトラブル解決しました。
政府の方へ。台風23号の被害総額に長谷部家のPC修理代、1800円を加えてください。

2004年10月18日月曜日

正しいピッチで歌うには

合唱の技術的な話としてピッチに関してはいろいろ書いてきたりしましたが、こういったストレートな問いはこれまでの談話ではなかったように思います。
正しいピッチで歌う方法があれば、まあ、すでにみんなやっているわけで、そんな解決方法がないからこそ、いろいろ悩むわけです。最近は、少人数のアカペラ合唱をやる団体も増えてきて、かなりの団体がピッチの問題を抱えていると思いますし、コンクールの批評などでもピッチの指摘を書かれることは多いでしょう。

私とても偉そうに書ける分際じゃありません。
指揮をしているときは、ピッチが悪いと言うことは出来ます。でも誰に対してどう指示すべきかは悩むものです。逆に自分が歌っている立場になると、ただ聞いているときよりは絶対に気付きにくくなります。別のことに気を取られて歌っていると、今度はピッチが悪くなってしまうという感じで、同時に複数のことを考えながら歌うのは難しいものです。それもたいていの場合、自分が歌っているときは自分では気付かず、人からピッチが悪いと指摘を受けたとき、指摘そのものが怪しい場合もあって^^;、実際のところどうすべきなのか自分でも良くわからないのです。
つまり、ピッチというのは本来極めて確かな定義がある物理量であるにもかかわらず、実際の練習の場では、そのような明確な基準で指摘されたり、的確な手順で修正されているとは思えない実態があるわけです。今、低いと思ったパートに対して、指揮者が「低い」と言うだけの練習なら、恐らく合唱団のピッチは良くはならないでしょう。

他人の演奏に対して「ピッチが悪い」とか「ハモっていない」というのは、厳密な意味において、全て正しい指摘になってしまうわけで、ついつい誰でも言いたくなってしまう便利な批評言葉です。しかし、実際、ピッチが悪いと感じる評価基準そのものが人によって様々で、なかなか額面どおり受け取っていいものかどうか難しい場合もあります。
私の考えるに、微妙なピッチの問題は音色の問題も大きいと思うのです。ピッチが悪いことが気になる音色というのがあります。言葉を変えれば、ピッチが悪いと思われやすい音色です。むろん、平べったく声楽的でない発声はそういう音色の代表格ですが、鋭く固い音色であるほど、ピッチ的な指摘を受けやすい(もちろん発声の指摘も受けやすい)音色なのでしょう。かといって、輪郭をぼかすような音色は、最終的には少人数合唱団に必ずしもいい音楽をもたらしません。
あとは、呼吸の問題。ブレスの安定度。音程は正しそうでも、息の量にムラがあると、どうしても歌声は不安定に聞こえます。不安定な歌い声は、それだけでピッチが悪いと指摘されやすくなります。
そういう意味では、ピッチに対して、ピッチそのものを直そうとするより、本質的には音色、呼吸といったような発声技術を整えていくことが必要だと思われます。ピッチが悪くなりそうな箇所というのは、割と一般化出来ます。例えば同じ音が続く箇所とか、開口系母音に変わったときとか、ピッチの跳躍が大きいときなどが挙げられます。そういう一般ルールを知るだけでも、多少意識して歌うことができるようになるかもしれません。
まあ、そうはいっても一般合唱団でそこまで通常練習の中でやることは実際難しいし、ボイトレ自体が定義された体系をなかなか持っていないという現実もあり、ますます練習の進め方に対する悩みは深まります。

実際のところ、ピッチの問題は音楽のあらゆる様相に関わっていて、やはり単純ではないのだと感じます。
つまるところ、ピッチの良し悪しは歌い手個人個人の耳の良さに依存してしまうのですが、耳の良さは音楽経験だけで培われるものではありません。知識や文化的背景によっても、ピッチを感じる精度は変わります。例えば、ある程度和声の知識があれば、今歌っている和音が何なのか、自分が和音の第何音を歌っているのか、それを知るだけでも和音精度を上げる手がかりがつかめます。ただし、和声知識は指揮者であってもかなり怪しいので、なかなか望むべくもありません。同様に、純正の和音に関する知識や音律の知識なども多少の参考にはなるはずです。
もう一つは、音楽が聴衆に与える効果、というのをどれだけ読みきれるか、という点も重要です。テンポが速く、音符が細かい音楽では、ピッチ精度は低くなりますが、聴衆の判断できる精度も悪くなります。だから、ことさらにそういう箇所のピッチを一生懸命練習するのは効果的とは思えません。逆に、一つの和音が比較的長く聞こえる場所こそ、きっちりと和音合わせをする必要があります。もちろん、そこだけ練習して出来ても、流れの中でやらないと意味がない場合というのもあるので、どのように細切れにして練習するかは指揮者のセンスが問われますが。
そういう練習の中で、誰が何を気をつければピッチが良くなるのか、的確な指摘とはどういうものなのか、またいろいろ考えてみたいと思います。

2004年10月11日月曜日

スウィングガールズ

はっきり言って、青春ドタバタものなんですが、これがなかなか楽しませてくれます。
若者向けなのに、きざでかっこよいセリフなんかしゃべらせず、ひたすら等身大の高校生の容赦ないダサい描写がリアル。こういった感性って、日本人の心に普遍的だなあって思います。結局、かっこなんか付けられないおっちょこちょいの人間が人情だけで突っ走る、そういう爽快さを私たちは欲しているのです。寅さんしかり、釣りバカ日誌しかり。伊丹十三モノなんかもそういうところがあります。
そうはいっても、この監督、なかなかいいセンスしてますよ。クドい、とか、あり得ない!とか言われる一歩手前まで来ている設定なのに、それなりに納得させるだけの脚本のパワーがあり、それに合った役者の演技を引き出しています。誰一人、演技が下手とか思えなかったし。
ギャグもきちんと笑わせます。滑ったりしない。一つには、思いがけないタイミングを狙っていて、想像がつかないことがあるでしょうし、一発芸的ナンセンスギャグなんかじゃなく、ちゃんと意味的に面白いギャグを心がけているというのが好感持てるのです。

やっぱり主題が音楽というのがいいですね。
まあ、実際にはこんなに簡単に楽器が出来るようになるわけはないし、途中で仲間が増えるところなんかも映画的でいい加減な設定なんですが、それでも少しずつ楽器が吹けるようになっていく、という悦びをほんのちょっとだけ味あわせてくれます。
中学に入った頃、ブラバンに入った人が、一生懸命マウスピースをくわえて練習していたのを思い出します。はたから見ると、何で簡単に鳴らないんだろうと思うのですが、最初は本当に鳴らないんですよね。もちろん、私なんか今だって鳴らすことは不可能です。でも金管をやっている人は、唇の振動だけで音出しちゃうんですね。ちなみに、浜松でやけにラッパを吹ける人が多いのは、どうも浜松祭りのせいらしい、ということが私にはわかってきました。

スウィングというのは、かなり曖昧な感覚で、人によっても思うところは違うのですが、ここでは裏拍を感じるアフタービート的なことをスウィングに象徴させてクラシックとの違いを引き立たせています。そういうあたりは、映画の分かりやすさに繋がっていて、脚本のうまさに舌を巻きます。
本来、ビッグバンドジャズなんていうのは、もう十分ふるーい音楽でシブ過ぎるのですが、逆に今時だと新鮮なんでしょうかねえ。基本的にジャズというのは内向的に向かわないイメージがあって、それが有り余る女子高生パワーとうまく一致するのかもしれません。女子高生とビッグバンドジャズという取り合わせにも、なかなか面白いものを感じました。

先の展開が分かっちゃいるけど、楽しめちゃう。そういう映画です。
特に、アンサンブルで音楽やっている人は爽快感を覚えることでしょう。実際にはこんなにうまくいかないんですけどね。

デザインの日産

昨年、新車を買った話は、ここやここで書きました。
車を買うときはもちろんいろいろなことを検討して車種を決めるわけですが、買ったことをきっかけに、その後も車の新車情報などがやけに気になってしまうというのは良くあることです。
日産車のオーナーになったからかどうかはわかりませんが、最近はかなり日産贔屓。国産自動車メーカーの中で、日産の車だけやけに垢抜けて見えるのは私だけでしょうか?

よほどのカーマニアでなければ、いまどきの車にエンジン性能やら、コーナーリング性能の違いを求める人はそれほどいないでしょう。というか、語る人は多いけど、それが購買行動までは結びつかないのだと思います。実際には、スペースユーティリティや使い勝手、デザイン、車全体が醸し出す雰囲気のようなもので車種を決めているのでしょう。車というと高い買い物ですから、人々は慎重になる。そこでどんな車を選ぶかは、ある意味、その人の嗜好性を非常に良く表すものとなります。
私は、結局、見た目のデザインに惚れてプリメーラにしたわけですが、そういう感性の人から見ると、今の日産のデザインって今までの国産車のイメージとは一線を画していて、工業製品のデザインとしてどれも素晴らしいものに感じます。

プリメーラはもちろんのこと、日産の伝統の車種、スカイラインもかっこいい。もうちょっと歳を取っていてお金があれば、これでも良かった、と思う車です。それから、恐らく自分では買わないようなスポーツタイプですが、フェアレディZとか、最近出たムラーノなんかも、近未来イメージの車がそのまま飛び出てきたような感じで、思わず見とれます。マーチやティーダのようなコンパクトカーでも、どこか一皮向けた洒脱さを感じます。
全体的なイメージとしては、ボディー全体が丸みを帯びているのが特徴でしょう。サイドも平坦ではなくて、必ずデザイン的に何らかの処理をしてあります。ヘッドライトやテールランプも取ってつけたような真四角でなく、車の丸みの流れと一体感を持たせていて、デザインの統一感の引き立て役になっているのです。
このデザインの印象は、ヨーロッパ的、とりわけフランス、イタリアの南欧的なイメージです。そう考えてみると、最近の車種のネーミングは英語からイタリア語っぽくなっていますね。ティーダとか、ムラーノとか、フーガとか、プリメーラとか。イタリア語なら日本語との相性もいいし、英語よりエキゾチック感があるのかもしれません。フランス語だとちょっと嫌味になりそう。

しかし、こういった価値観が日本市場において無批判に受け入れられているわけではないでしょう。
上のような丸さは、スペースユーティリティの悪さや、運転時の視界の悪さを引き起こします。どうしても、車体全体が大きくなってしまい、コンパクトでかわいらしさを求める日本人にはちょっと合いません。日産で今最も売れている車はキューブで、そういった日本人の心理にフィットしているのでしょうが、上のようなラインナップとは明らかに異質なデザインです。
これまでヨーロッパ車に乗りたいと思っていた人たちをどれだけ引き付けられるかが日産の勝負のしどころでしょうが、外車であること自体に悦びを見出している人を振り向かせるのは無理でしょう。そういう意味では、日本人にヨーロッパ的感性の工業デザインが受け入れられるかどうかが、今後の日産の浮沈を左右するのではないでしょうか。

最近だと、マツダなんかもヨーロッパ的なものを意識してますね。どの車も同じ顔をしているという戦略は、日本メーカー的発想じゃなくて、一本筋の通ったものを感じさせます。

2004年10月4日月曜日

激しい週末~関東大会など

本日、毎年恒例の合唱コンクール関東大会に参加してきました。
それにしても、この週末はハードでした。というのも、この忙しいというのに昨夜名古屋に行ってきたからです。

昨日(2日土曜日)、関東大会のための練習をお昼の12時から3時までやった後、一路名古屋へ。名古屋で活動しているコールクリアスカイの演奏会を見に行くためです。この演奏会で、拙作「アステカのうた」を演奏するので聴きにいったというわけです。「アステカのうた」は私が指揮する合唱団では、長い間取り上げていたのですが、それ以外の合唱団で取り上げてもらえるのが恐らくこれが初めてだったのではないでしょうか。ちなみに、今回ジョバンニから発売されたCDでも、コールクリアスカイが「アステカのうた」を録音してくれています。
さて、この合唱団、団員がかなり若く、とても勢いのある合唱団です。演奏会のプログラムもかなり意欲的。正直、この人数で一晩でやるには少々多すぎかなという感じはしました。演奏自体はいろいろと傷はあるにしても、合唱団全体で伝えたいことが明確で、こだわりを強く感じた演奏でした。「アステカのうた」も日本語を非常に大事にして歌ってくれたのは、とても好感が持てます。密集和音の多い、音の取りにくい曲ですが、かなりの精度で歌ってくれていたと思います。より歌詞の意味を咀嚼して、例えば終曲のちょっとエッチな感じがうまく表現できているとさらに嬉しかったのです。

終演時間も遅く、新幹線の終電が間に合わなくなるので、打ち上げは後ろ髪を引かれながらもパスすることにして、ジョバンニの木村さんと店員?のFちゃんと夕食してから駅まで送ってもらうことにしました。
その後、車で名古屋駅まで送ってもらったのですが、意外に道路が混んでいる。車中では楽しく雑談していましたが、だんだん終電の時間が近づき気になってきました。しかし、時間は刻々と去っていくのに、車はなかなか進みません。そして・・・・なんと、終電までに駅に着くのが間に合わないという事態になってしまったのです!
いや、マジにあせりました。その後、浜松まで帰れる電車は東海道線のムーンライトながらという夜行列車のみ。仕方がなく、このチケットを名古屋駅で買って、その出発までの空いた一時間あまり、結局、コールクリアスカイの打ち上げにお邪魔することになったのでした。
それにしても、打ち上げ会場に私が現れたときの皆の喜びようといったら・・・。顔が引きつりながらも、皆の歓迎を受けて、おいしいビールをいただきました。ほんのちょっとでしたが、何人かの方とお話できて楽しかったです。

そんなわけで、夕べ家に着いたのが夜中の一時半過ぎ。
翌日は関東大会で、早めに集まって声出しするので、朝6時40分の新幹線で静岡に向かう予定。おかげで、結局昨夜は4時間ほどしか寝れませんでした。
今日は、あいにくの雨。本当は、会場近くのお城の中で発声練習しようと思っていたのですが、仕方がなく会場の静岡市民文化会館の入り口の前で、発声練習をすることに。関東大会恒例の朝練習は、地元ということもあってか、残念ながら例年よりあまりしっかりした練習が出来ませんでした。
職場の部は、全体の中で朝一番。そして我々の出番はその2番目。大会開始後、早々に本番のほうは終わってしまいました。ちなみに結果ですが、昨年とほぼ同じ結果です。今年は最低人数8人での参加だったので、もうビリにならないだけでもマシというのが、正直な感想。来年は、もう無理かなあ・・・。

さて、その後は、恒例の一般の部の鑑賞会。
睡眠不足だったこともあり、気が付くと何度も意識を失ってはいましたが、結局、お昼の後の一団体を除いて、全部聴いてしまいました。
特に一般の部Aは、若い同年代の団員が集まっている団体がとても多くなっています。これって、やはり学校のOB,OGじゃないかなあ、などと勘ぐってしまいます。高校時代のコンクールへの情熱を忘れられない人たちが集まって作ったみたいな・・・
そういう団体の中でも、すごく時間をかけてきちっと作っているのが伝わる演奏がいくつかありました。若いということもあって、やはり時間が十分あるのでしょうか。それならば、本当に羨ましい。
山梨県のS.C.Gioiaという団体、初めて聞く名ですが、マドリガーレの歌い方を徹底的にこだわっていたのが印象的。メッサディボーチェ的歌い方をとことんまで先生が叩き込んだのが良くわかりました。埼玉県のアンサンブル g/fは、声が統制されていて、完璧に揃えられていました。ここの声はすごいと感じました。ただ、統制されすぎたのか、歌の表現が少し弱かったかもしれません。
結構衝撃的なのが神奈川県の横浜室内合唱団海~kai~。コスチュームがいきなり派手で目を奪われます。曲の沖縄民謡に合わせたのでしょうか。そして、リズムに合わせて、指揮者をはじめとした全員がうねうねと動きながら歌うスタイルは、ちょっと怪しい。しかし、よくよく聞いていると、指導者が非常に細かいところまで丹念にこだわって音楽を作っていることが伺え、そのセンスはなかなかのものと感じました。

一般の部Bでは、川越牧声会があの鳴り声でラインベルガーのドッペルのミサ曲を聞かせてくれたのが絶品。もちろん代表に。
そして、なんともう一つの代表は、地元の浜松合唱団がゲット!!いやーおめでとう、浜松合唱団の皆さん。私も全国大会では応援しますよ!全国では、さらに良い演奏が出来るように頑張ってください。

2004年9月26日日曜日

四日間の奇蹟/浅倉卓弥

最近、本を読んで泣いたことがありますか。
たまには、泣けるような本を読んでみたいと思いませんか。
ということで、本を読んで泣きたいのなら、お勧めはコレ。泣けます。マジに泣けます。オビに書いてあることもあながち嘘じゃありません。泣いているのを見られたくないなら、人のいない場所で読みましょう。

この小説、実は第一回「このミステリーがすごい!」大賞の受賞作品。つまり、この作家、全くの新人作家です。「このミステリーがすごい!」というからには、推理小説なのかと思いきや、実は全くそういう傾向の作品ではなくて、本来ならこの作品、例えば「ファンタジーノベル大賞」を目指すべき作品のような感じなのです。
科学的薀蓄が充分述べられ、ある種の超常現象を扱っているこの小説は、最近のホラー、ファンタジーの系譜とほとんど同じライン上にあるものです。

しかし、それでもこの作品の本質は、恐らく「死」に対する根源的な疑問に対して真摯に挑戦したことであり、それを題材にして、それに悩む登場人物たちが生き生きと描かれている点にあると思います。
特に後半三分の一くらいは本当に泣きっぱなし。この間の、登場人物の健気さ、そしてそれを的確に表現する描写力は、手放しで素晴らしいと感じました。
もし、こんなことが本当に起こりえるのなら、まさに奇蹟としか言いようがない。もはや、これは宗教的世界に属する話になってしまいます。恐らく、この小説の魅力は、全く普通の人々が普通の考えを持って生きている、非常に身近なシチュエーションであるにも拘らず、そこで展開される物語が宗教的体験とでもいえるような厳かで壮大で、まさに「神の御業」としか言いようのない出来事であるというその落差から来ているのではないか、と思えるのです。
中にはキリスト教的モチーフもいくらか現れ、作者自身も宗教的な意味合いをかなり意識しているように思われます。もちろん、特定の宗教の教義に根ざしているという意味でなく、宗教の本質について考えさせるようになっているのです。

もう一つの魅力は、この作品がクラシック音楽を扱っているという点。
主人公である如月は、小さい頃からピアニストになるべく徹底的に英才教育を施されたという設定。しかし、彼は留学先のウィーンで暴漢に遭遇し、左手の薬指を拳銃で撃たれるというアクシデントに見舞われ、ピアニストの夢を絶たれるわけです。
物語り全体は、主人公はある宗教的体験の一番身近にいる目撃者という立場なのですが、そのような主人公の生い立ちが、随所でストーリーと音楽の絡みに繋がります。

音楽、宗教、脳科学、終末医療、こういった著者の造詣の深さ、及び考えがうまく絡み合っているのもさすが。最近の作家は専門知識を使いこなすのが実にうまい。もちろん、作家自身がそういった分野のプロフェッショナルであるはずがないけれど、専門家の言葉にリアリティを与える文章を書けるというのは並大抵の想像力ではダメだろうな、と感じました。

2004年9月25日土曜日

食のアイデア

これまで談話を読んでくれた方は、私の話題にほとんどグルメ系の話題がなかったことをすでに気付いていることと思います。
実際のところ、グルメ的な話題ってどうしても怪しい感じが付きまとって、私としてはどうも苦手なジャンルです。そりゃ、おいしいものを食べた方が嬉しいに決まってるけど、自分が「おいしい」と思うレベルはそんなに高くなさそうだし、テレビや雑誌で宣伝された「おいしい」店を探し歩くほどの根性はありません。超高級料理にとんでもない値段がついていると、なんかもうヤクザな世界に思えてしまいます。
それに時々グルメお奨めということで、値段が張って、確かにおいしいのだけど、異常に量が少ないメニューというのに遭遇したときなど、非常に不満を感じたりすることがありませんか。時にはそういう料理に対して、店側の傲慢な態度すら感じられることがあります。ものすごい味にこだわっているので、量はこれだけしかありませんよ、みたいな。
これじゃお腹の半分にも満たない思って、一緒に食べている人に聞くと、確かにちょっと少ないけどおいしいからいいじゃない、なんて言われたりする始末。でも、お腹が空いたときに、少量しか食べられないのってものすごい欲求不満じゃないですか?

その昔私にとって、そういう店の代表格がお寿司屋さんでした。お金持ちじゃないので、お寿司屋に行っても「並」とか「梅」とかしか頼んだ覚えがなくて、その度に何か食べ足りないなあ、と思っていた記憶があります。
しかし、最近ではお寿司屋と言えば回転寿司。それで私は何を言いたいのかというと、回転寿司ってものすごい素晴らしいアイデアじゃないかと、昔から常々思っているのです。
恐らく私同様、昔ながらのお寿司屋さんに不満を持っている人がいて、お寿司屋さんとて世の中金持ちばかりじゃないから、お客が少なくなると余計高い物を出して利益を出そうとするでしょう。そういう流れから、このままだとますますお寿司屋に来る人が減っていっただろうと思うのです。
しかし、回転寿司はその垣根を一気に取り払いました。
好きな物を好きに注文できるという寿司屋が本来持っている形態を、分かりやすい形でデフォルメしたのが、目の前を寿司が回転するというアイデア。これって、最初に考えた人を本当に尊敬します。それから、ネタによって料金が事前に決まっているという安心感というのもあるでしょう。食べる側も、目の前にあるから、ついつい手に取ってしまい多めに食べてしまう。お店にとっても嬉しいシステムなはずです。

もしかしたら最初に考えた人は、ここまで一般的になるとは思わなかったかもしれません。ビジネス特許とか取っていれば莫大なお金が入ってきそうなんですが、そのあたりはどうなんでしょう?
もちろん一般的には、回転寿司なんてチープなお寿司が中心なので、ちゃんと寿司を食べたいならば専門店のほうがいい、と思っている人がほとんどでしょう。しかし現実には、回転寿司にお客がたくさん集まり、私のようにそのアイデアに感銘を受ける人がいるのですから、十分存在意義はあるはずです。

私など、食べ物自体のおいしさもさることながら、こういったレストランや食べ物屋さんのお店のアイデアに感心することが多いです。
これは浜松ローカルだけど、炭焼きレストラン「さわやか」というハンバーグ屋さんのチェーンって結構感心するお店です。いろいろな点でアイデアが素晴らしい。味本来とは関係ないと言われそうですが、目の前で店員が真ん丸いハンバーグを半分に切り、油が辺りに飛び散る様子は、とても食欲をそそります。そのハンバーグも、必ず待合の場所で炭焼きしている様子をガラス越しに見えるようになっています。
バイトであっても店員の教育は徹底されており、店員に対して不快に思うことはまずありません。かなりきっちりとした教育をしているのは間違いありません。定期的に行う創業価格フェアというのも、自らのアイデンティティを非常に意識しているように見え、好感が持てます。

食の話といっても、回転寿司に、ファミレス的なハンバーグチェーン店の話となると、やはりグルメとは程遠いと言われそうです・・・


2004年9月19日日曜日

音のこだわり、音楽のこだわり

最近、クラシック音楽を扱う小説や、テレビ番組などに触れる機会が多いような気がします。
その中で、音楽に対する感動の仕方というのが、どうにも気になることがあるのです。主人公がある音楽を聞いたときに、何かゾクゾクっとした感動を覚え思わず涙してしまった、というような。もちろん、そういう経験は、音楽を聞く人なら誰でもあると思うのですが、それでは何に感動したのかというと曖昧な表現に終始し、それを他人に伝える事は非常に難しいことが多い。だから、人は音楽を評するときに、抽象的、文学的、比喩的な表現を好み、事実を端的に表現する方法をむしろ嫌います。
��とりあえず、この談話を書くきっかけになった文を挙げておくと^^;、昨日(18日)の朝日新聞の新聞小説(篠田節子「讃歌」))

音楽を評論するなどというと随分、大上段に構えた感じがしてしまいますが、普通に音楽活動していれば、あの演奏が良かったとか、あの曲が好き、とか普通に会話することもあるでしょう。普通の音楽の会話なら、まあそんな堅苦しいことを言って、人の話していることに水を差す必要もないのだけど(しかし、ついつい水を差したくなってしまう)、そういった会話の中から人々が音楽を評論する行為の危うさを感じることがあります。
全ての人が小説の主人公みたいに、何も予備知識がなくても、今目の前で繰り広げられている音楽に対して、自分の感覚を素直に表現できるなんてことは実際のところ滅多にありません。自分が聴いたこともない曲だったり、聞いたこともない演奏家だったりすれば、その良し悪しを自分の感覚だけで表現することは一般には至難の業でしょう。相当、自分の考えを持った人でないと難しいはずです。

そういった時に、人々は権威の力を頼ります。
権威主義的な発想はあらゆるところから忍び込みます。まずその演奏家の世間の評価がどのくらいのものなのか、もしそれほど有名でなければ、その人はどんなプロフィールを持っているのか、そういう情報を非常に気にすることになります。
もちろん身近にいるマニアの意見も参考になるでしょう。誰々さんが評価していたから、これはいいものなんだろう、みたいな。
いずれも、自分自身が物の良し悪しを捉える自信がないからこそ、人の評価を頼るわけで、多くの人がそういった無意識に行われる意識の働きに従属させられているのです。だからこそ、小説やドラマで無名な演奏家を「これは素晴らしい」と素人が言ってしまう危うさ、うそ臭さがどうも目に付いてしまうというわけです。

演奏家であれば、やはり演奏そのものに耳が向かいます。合唱している人なら、演奏会の折には、合唱団の発声にどうしても注意がいきます。
しかし、それは自分が合唱をしているからだということに多くの人は気付きません。そういうことは、他ジャンルの演奏会に行けば誰しも気付くはずです。合唱人が吹奏楽やマンドリンオーケストラや純邦楽などの演奏会に行って、「アルトサックスの音が低い」とか「尺八の音色が・・・」なんて評価はしないでしょう。合唱をしているから、合唱のことしか見えないのです。
音楽を演奏する際、私はまず曲の持つ美しさや素晴らしさを伝えたいと思います。その音楽の良さをいかに提示するか、というのが私が演奏するときの尺度です。しかし、合唱の世界に長くいると、いかに正しく美しい音色を出すかという努力だけに終始してしまう可能性があります。そんなことは永遠に無理だというのに!
そういった状態が、私には楽曲そのものを評価することに背を向けさせているように思えます。
小説やドラマでも同じ。多くの場合、演奏会で感動したというのは演奏者に向かう礼賛です。しかし、上でも言ったように演奏者の素晴らしさは、ある程度自分自身が演奏したことがなければ分からないことも多いし、そうでない場合、権威主義の落とし穴にはまりやすくなります。
そう考えると、よく知られていない曲を演奏して、その曲の良さを知ってもらうなどというのは、もっと難しいことではないのか、とすら思えてしまいます。権威の力を借りなくても、自分の感覚で楽曲の良さを感じ取れる、そういった「音楽のこだわり」を持つことは一般にはかなり大変なことなのです。

2004年9月12日日曜日

合唱のPAを考える

合唱が他の音楽に比べて、圧倒的に不利なのは音量が小さいという点だと思います。
合唱団にいれば、ちょっとした機会に、ホール以外で歌うこともあることでしょう。大人数で歌うならそれほど気にならないかもしれませんが、屋外とか、全く響きのない空間だとか、ざわついたオープンスペースだとか、そういう場所で音楽をやる場合、やはり音量の小ささはマイナス要因になると感じてしまいます。
合唱というジャンル自体一般的でない日本において、こういった理想的な環境ではない場合でも、平気で演奏を頼まれるし、歌う側も演奏環境にはあまり気には留めませんが、どうせホール以外の場で歌うのなら、もう少しまともな環境を自分たちで作ってしまいたいものです。

こういった場合、マイクで音を拾ってスピーカーで出す、いわゆるPAをもっと活用すべきではないかと思います。
クラシックなのだから、マイクで拡声したくない、という意見もあるでしょうが、それならばそもそも劣悪な音環境の中で歌うこと自体、拒否すべきです。いろいろな場所で歌って、合唱の、歌の魅力を知ってもらいたいと思うならば、それを最大限聞かせる努力をやはりするべきではないでしょうか。
そういう意味で、PAは生音楽にとって少しも悪いことではないし、むしろ生音楽の魅力をきちんと音響に反映できるようなPAのテクニックというものがもっと研究されたらいいのにと思っています。
PA屋さんも、合唱の知識はないので、たまにPAを使って演奏するときなども、なかなか思い通りのセッティングをしてくれないのが現状です。だから、合唱とPAの技術、両方に長けた人が合唱における理想のPAというのを考えて欲しいなあ、などと思っています。

私自身、あまりPAに詳しいわけではありませんが、以下、自分の知っている範囲で、合唱におけるPAというのを考えてみましょう。
最大の問題は、スピーカーの位置、マイクの位置、モニタースピーカーの位置です。お客に聞かせるスピーカーの位置は、会場の形にもよるのでなんとも言えませんが、歌う側にとって問題なのはマイクの位置と、モニタースピーカーの位置。
そんなに立派なPAを期待するわけにもいかないので、実際にはステレオマイク一本とか、少し遠めにマイク二本立てるとかくらいが現実的なパターンでしょうが、会場の広さによってはあまり遠くにマイクが置けないかもしれません。マイクが近くなるほど、マイクに近い人の声がもろに入ってしまいます。後で演奏の録音など聞くと、○○さんと仲間たち、みたいな演奏になっていたなんてこともしばしば。
そうすると、特定の人の声がマイクでたくさん拾われないように、マイクは多くの人から等距離になるように、結果的には合唱団から少し離すような位置がベターでしょう。それから、指向性の高いマイクを使わないという手もあるかもしれません。
合唱団に対するモニタースピーカーというのはどうしたらよいものでしょう。合唱団的な考えだと、後ろから声が聞こえてくることを好む人もいそうですが、一番後ろの人からさらに自分たちの声が聞こえてくるのは変だし、そもそもモニタースピーカーが前を向いていたら、その音自体をマイクが拾ってしまい、音響設定が難しくなってしまいます。最悪ハウリングも起こるかもしれません。
となると、前かあるいは横からモニタースピーカの音が流れるというのが良いでしょう。また、合唱の場合、モニタースピーカの音は、自分たちの声の確認というより、ホールで歌っているような気分、という要素もあるかもしれません。そうなると、直接音よりもリバーブ成分を大めにしてやったほうが良いような気がします。いたずらに人の声の直接音が聞こえると、もっと自分も出さなければいけないような気分になり、一人一人が大きめに声を出してしまう危険性もあるでしょう。
ミキサーのセッティング自体は、それほどやることはないと思います。ただ、良質なリバーブ(残響)が得られるようなエフェクタは欲しいところです。

マイク二本(あるいはステレオマイク一本)、モニタースピーカ二つ、メインスピーカ二つ、あとミキサーがあればちょっとしたPAは出来るはずです。とは言え、合唱団でこういう機材を揃えるのはちょっと金銭的に大変です。ミキサーなどは最近安いものも多くなってきましたが、PA用スピーカはちょっと値がはってしまいます。

2004年9月5日日曜日

語られる言葉

今週のニュースで何回か見たのは、アメリカの共和党大会の様子。
政治の話をしたいわけではないけど、私にとってはとても興味深いのです。何故かというと、アメリカと日本のあまりの国民性の違いに驚くからです。
だいたい、日本で党大会と言えば、国会議員や地方議員が集まって、ダラダラと長い話をして、最後に「ガンバロー!」とか言って終わるのが関の山。ところが、ニュースの共和党大会を見ると、議員だけじゃない市井の人が集まり、演説者がうまいことを言う度に歓声が上がり、話し手も聴き手もものすごいハイテンションです。しかも、全員で「もう4年!」とか言って叫ぶんですよ。

そもそも、事実上二大政党のアメリカでは、国民は民主党か共和党しか選ぶことができないわけです。ところが、国民の大多数はそのどちらかの陣営にしっかりカテゴライズされます。大半が無党派層である日本とは違い、たった二つの政党にほとんどの国民の支持は分かれるのです。
話によれば、各政党の支持層はそれぞれコミュニティがあり、例えば住んでいる場所だけで支持政党は分かるほどだそうです。つまり、同じ政党支持層は同じような場所で同じような仕事をしているわけです。共和党支持者が住む町に民主党支持者が住もうとしようものなら激しいバッシングに合い、結局引っ越さざるを得なくなるそうです。
アメリカでは個人の意志がはっきりしていて自己責任でモノを考えることができる成熟した人々が多い、と一般には言われています。確かに、自己主張は激しいが、その主張は必ずしも個人一人の意志で形成されたものではありません。その人が住んでいる場所、親の環境、職場によって、彼らはきっちりとカテゴライズされ、その枠内で決められた政党を支持しているように思えます。
そういう意味では、信頼がおける政党がない、という日本人のほうがよほど個人単位で支持政党を考えているような気さえしてしまいます。

アメリカにおいて、支持政党というのが宗教のようだと考えるのはなかなか言い得て妙です。例えば、カトリックとプロテスタントのような。
国民は、宗教を選択しなければいけません。そうしなければ、様々なコミュニティからの特典が得られないからです。両陣営ともその勢力が拮抗しており、だからこそ勢力争いは熾烈を極めます。現在の政権に不満があれば、大規模なデモも起こりますし、逆に支持者による集会もそれに対抗して行われます。日本人が、エセ正義感でデモ行進するのとは訳が違います。彼らは身も心も宗教に染まっており、その閉ざされた正義感の中で極端に熱くなっているのです。それは日本人からしてみれば、極めて排他的な考え方でしょう。

宗教は人々を熱狂させます。
彼らは自分たちが熱くなるために、優れた演説を好みます。人々を高揚させるような演説が出来る人がヒーローになるのです。そこでは、冷静で知的な言葉はあまり必要ありません。敵を攻撃し、単純な言葉で自分たちを鼓舞する、そういった言葉を短く、鋭く、そしてうまい比喩で話せる人間が優れたリーダーだと見なされるのです。
こういった文化で育った言語というのは、当然ながら強弱アクセントが激しいものになるのかなと思えます。日本語では、どんなにかっこ良く演説しようと思っても、ああいった熱狂を生む感じが想像できません。日本語の演説というと、ダラダラ話して、肯定か否定か文末の意味が不明確になり、意味のないお世辞に溢れた、アメリカの演説と対極にあるような感じが容易にイメージできます。

自己主張しやすく、人々に影響を与える、そういう言葉、「語られる」という要素が、圧倒的に日本語に足りないような気がしています。それは恐らく、日本の文化にそのように言葉で人を扇動するというような必然性がなかったからなのかもしれません。また、日本人はそういった行動を冷めた目で見る傾向があります。校長先生の話とか、社長の話で歓声が上がって、人々が盛り上がるなんて日本では想像も出来ないでしょう!
その中でも小泉首相は、日本語でアメリカナイズされた演説が出来る稀有な政治家に思えます。就任当初よりは勢いがなくなりましたけど。

2004年8月31日火曜日

日本人の外国語

もう十年来、英会話に苦しめられ、今なお英語の苦手意識から逃れられない私ですが、まるで逆に吸いつけられるように、ここ十年ほど英語の合唱曲ばかり指揮しています(例:ラター「Five Childhood Lylics」、ホルスト「5つのパートソング」、そして今、バーバー「生まれ変わり」)。まるで、指揮者の立場から英語に復讐しているような気持ちですが、そんな具合だと歌う側はたまらないかもしれませんね。

やはり合唱の場合、外国語の発音としてはラテン語が最もとっつきやすいのだと思います。イタリア語は、独特なアクセント感覚が身に付けば、それほど怖くないでしょう。やはり合唱の中では、英語、ドイツ語といった子音が多い言語が日本人の不得意とするものになるのではないでしょうか。
ドイツ語の場合、逆に語尾子音などをきちっと指導する指揮者も多いのですが、英語となると下手に学校で習っていたりするので、各自に妙なクセがついていて中々、ほんとうの英語っぽくならないのです。

以前、こんな話を書きましたが、やはり外国語と日本語との感覚の違いとして、「長音」「促音」「撥音」の問題があるような気がします。
日本語のリズムでは、これらの音はいずれも一拍分の長さを与えられます。ところが、ローマ字にして外国人に読ませても、日本人と同じ感覚では読んでくれません。
例えば、「きょう、がっこうへいった」とローマ字で書いて、外国人に読ませると
「きょ、がこえいた」みたいな感じで、詰まって発音することが多いのです。これは外国人の場合、延ばす音(長音)、跳ねる音(促音)が一拍分の長さとして感じないために起こることです。これは逆に言えば、日本人の英語が英語っぽく聞こえない理由は、日本語の長音、促音、撥音に似た発音に時間を割いてしまう傾向があるからではないでしょうか。

私の最近のブームは撥音に関する注意で、これを直すだけでかなり英語っぽい感じが出てくるように感じられます。英語で撥音といった場合、具体的には「n」「m」といった発音が語尾子音にある場合ということになります。
例えば「and」という単語があったら、なるべく「n」に時間をかけないように注意します。場合によっては、ほとんど「n」を歌わない程度にしてしまいます。そうすると、何となく英語に近くなった感じがしてきます。それほど、日本人は「ん」という発音に時間をかけすぎているように思えるのです(もちろんケースバイケースなので、あくまで一般論ということで)。
この場合、リエゾンをうまくしていけばさらに良い感じになりますが、実際には指示しないと歌い手はリエゾンしてくれないことが多く、細々とうるさいことと思いながらも、ついつい練習で突っ込みを入れてしまう私なのでした。

2004年8月23日月曜日

やっぱりプロは違う

先週もプロ合唱団について書きましたが、今日は本物のプロ合唱団、東京混声合唱団の掛川公演に行ってきました。
県内の合唱愛好家が集うかと思いきや、観客のほとんどは妙齢の女性ばかり。しかも、よく見てみたらそういう観客層をとても意識した選曲になっているわけです。地元の合唱団と合同ステージもあり、典型的な地方巡業コンサートでありました。
東京に住んでいれば、東京混声合唱団の意欲的な選曲の数々を聞くこともできるのでしょうが、なかなか地方に住んでいると、こういったあからさまな地方巡業公演くらいしか耳にできないのが悲しいところ。それでも、そういうスタイルの中で、最大限お客様に楽しんでもらえることを配慮した、別の意味でのプロらしさを感じた演奏会でもありました。

やっぱりプロ合唱団は声が違う。当たり前ですが。
どんなに素人が一生懸命練習したって、素材が違っているのだから仕方ありません。一人一人がまず圧倒的な声楽的素質を持っています。それに、一頃の東混のイメージと違って、発声もくせがなくパート内の音色もよく揃っています。こういうのはやはり指揮者が、少しずつ指導していった成果なのかなと思えます。以前聞いたときより(かなり前ですが)団員も若い人が多く、それがアンサンブルの精度の高さに貢献しているように感じました。

唯一の東混らしい現代曲は「追分節考」。しかし、これもある意味、合唱を知らない人もいろいろな意味で楽しめる曲なんですね。
やっぱり自分のすぐ横で、バカでかい声で歌われたら、そりゃ面白いですって。音楽自体もいつ何が起こるか分からない緊迫感がある。何かあると、聴衆がすぐそちらのほうを向いて、「あっ今度はあっち」みたいに囁きながら聞いているのをみると、これも中々良い選曲だなあと感じます。
ただ、私はこの曲、初めて聞いたのですが、想像の範囲を超えるほどスゴいとも思えなかったのが正直なところ。
例えば「俗楽旋律考」を朗読させる意味、というのは実演で伝えることが不可能です。今日もそこまでプログラムに書かれていなかったし、聞いている側としてはただ、わけわからん音響の素材でしかないわけです。そういうことで作曲家としてはいいのか私には疑問が残りますが、実際のところ、演奏する側がウケの良い前衛曲として重宝している以上の意味を感じられませんでした。

後は、愛唱曲といいながら、シェーファーのガムランがあったりするあたりは良いサービスです。「ヤコブの息子」あたりもこの手のレパとしては良いかもしれません。「島唄」のアレンジも東混ならではの演奏でなかなか映えていました。

それで、今回ほとんどのオバ様たちが何に満足して帰ったかというと、やはり指揮者、大谷氏の華麗なステージングだったと思います。うまいですよ、大谷さん、お客を笑わすのが。合唱指揮者というとマジメな感じがありますが、こういう軽薄な笑いが取れる指揮者というのは、プロ合唱団にとって必須だと思いました。下手な曲目解説よりも、きっちりとこれから演奏する曲の内容を伝えていたと思います。私は、シリアスぶる指揮者より、こういう洒脱さがあるほうが、結果的に音楽的にも奥行きのある演奏ができるのでは、と思っています。

演奏会自体は、プロを感じさせるなかなかのものでしたが、こういう団体がもっともっと一般的になるにはどうしたらよいのでしょう。
私のようなマニアは、もっと純粋な合唱曲を、しかもアカペラで、きっちり歌ってくれるような演奏会を期待してしまいますが、それだとやはり合唱マニアしか喜ばないのですよね。実際、定期演奏会ではそういったプログラムばかり歌っているわけで、東混のメンバーも地方巡業と定期演奏会のレパートリーの落差には気持ちの切り替えに苦労しているのではと思いますが、実際どうなんでしょう。
最近私は、編曲ステージでももっとオリジナリティのある、創造的なステージができると思っています。そういう方向性もプロには是非真剣にトライしてもらいたいのです。

2004年8月16日月曜日

もし、プロ合唱団を作るなら その2

前この題で話(ここ)を書いた後、合唱団のことをほとんど書いてないことに気付きました。
だいたい、前のとき鼓童のことをなぜ書いたかというと、彼の音楽もさることながら、その活動方法に驚いたからです。
彼らはほとんど毎日を、同じ楽団員と一緒に生活しているようなものです。一年の 2/3 は演奏ツアー。残りは佐渡島で、次のツアーに向けての練習です。もちろん、そういう形で興行として成り立っているから、というのもありますが、しかしそれを実現させたのも彼ら自身の力のはずです。
一般的なクラシックの演奏なら、一部の超有名演奏家以外は演奏で食べていけるわけはないので、副業を持ったりしなければなりません。副業を持てば、同じメンバーでの練習時間は減ります。
例えば、プロ合唱団を作ることを考えた場合、その合唱団に所属するだけで食べていけなければ、アマチュア合唱団の指導とか、個人の演奏活動とか、他の団体にも所属するとか、声楽の先生になるとか、そういう副業をせざるを得ないものと思われます。(かなり勝手な想像ではありますが)
結局のところ、そういった別の活動をしなければいけないから、合唱団に関わる時間が少なくなります。一緒に練習する時間が少なければ、それは演奏の質になって現れます。そうなると、耳の肥えた聴衆からは批判の声が増えてしまうわけです。

それで私は思うのです、ならば、もっと毎日のように練習するようなプロ合唱団というのはあり得ないものかと。ある程度、声楽的な資質を持った人が長時間一緒に練習すれば、パート内で音色も揃ってくるだろし、団全体のグルーブ感も出てくるでしょう。そして、もっと自由自在な表現が可能になったりしないでしょうか。そう考えると、佐渡島のような田舎にこもるというのは、一つのやり方なんだなと思うのです。ここなら、他の活動なんてやりようがないですから。
以前、某プロ合唱団の演奏会で、本当に本番前に数回しか合わせてないような演奏を聞いて、残念に思ったことがあるのです。ルネサンス曲で恐らく音取りも簡単だったというのもありますが、音楽がほとんど練られていないのは聞いていてよくわかりました。スケジュール的に厳しい、という事実もあるでしょうが、これでは人の心を打つ個性的な団体には永遠になれないでしょう。

確かに、寝ても醒めても同じ人たちと一緒にいて、そういうメンバーでアンサンブル団体を作ろうというのは、プロっぽくない発想かもしれません。しかし、新しいタイプの合唱団を作って、合唱のイメージを変えるようなグループを作ろうと思ったら、そのくらいの気合は必要だと思います。
アマチュアの世界でさえ、イベント型合唱団や、自治体の村おこし的オケ付き合唱演奏会の単発型合唱のほうが気楽に参加できていい、という人もいるのですから、これでは中々演奏の質は上がらないわけです。当たり前のことですが、時間がかかっても同じメンバーで(もちろん遅刻・欠席なし)長い練習時間をかけることが良い合唱を作る条件だと私は思います。それが実際には、ほとんど実現されていないのです。

2004年8月9日月曜日

変なオペラ 魔笛

今日、浜松市民オペラの公演でモーツァルトのオペラ魔笛の演奏会に行ってきました。
ちなみに、浜松市民オペラの前回の話はこちら。ここ2回は、創作オペラということで個人的にも興味があったので見に行ったのですが、今回は特に魔笛に惹かれたというわけではなく、妻が役をもらって出演しているので見に来いという指令が出たので?応援がてら見にいったというわけです。ちなみに妻の役は「第一の少年」でした。
合唱団やオーケストラなど知り合いも多く、そういう意味では楽しみながら聞かせていただきました。主要キャストは、実力派の歌手を揃えたのか、どの役もなかなか上手で、地方で開催されるオペラとしてはそれなりにレベルが高かったような気がします。しかも、どの役も声質、体格、演技などのバランスが絶妙で、それぞれはまり役だったのではないでしょうか。笑いを取る部分の演技も良かったと思います。
舞台全体は比較的セットが少なく、シンプルな感じです。演出全体は市民オペラということもあり過激なものではありませんが、舞台のシンプルさはなかなかのセンスを感じました。場の後ろに度々現れる三角形は、このオペラ全体で意識されている「3」という数字に由来しているものだと思われます。木のシルエットが、椰子の木に見えたのは、この舞台が南国であるという設定なのでしょうか。と思ってパンフを見たらエジプト・・・

それにしても、この魔笛というオペラは、良く言われるように本当に変なストーリーですね。
まず基本的にストーリーが破綻してます。どうも最初に予定していたストーリーを製作途中で変えたという話もあるらしい。しかも、その変えたストーリーと言うのが秘密結社フリーメーソンの教義に基づくものになっているわけです。
それが、実際にオペラを見ていると、新興宗教にはまってしまったようななんとも怪しい雰囲気です。ああいう風に見せられて、ザラストロが偉大な人物に見えるでしょうかね。あれじゃ、教祖様じゃないですか。
それに細かい部分も、何かその場その場が面白ければいいという感じで作られた感じで、なんだか筋が通っていません。そもそも三人の少年は何者なのか?パパゲーノは結局、試練を乗り越えたのか?乗り越えてないのならなんでハッピーになれるのか?それに、与えられた試練って結構ちゃちいなあ。死んでしまうかもしれないとか脅していたくせに、笛を吹きながらドアから入って出てくるだけじゃないですか。
あと全体を覆う女性蔑視的な表現もなかなか笑えます。女というのは、男を誘惑し徳のある人間になるのを妨げるとでも言いたげなフレーズがありました。その割には、タミーノとパミーナ、パパゲーノとパパゲーナが結ばれてそれなりに祝福されてしまったりします。この辺りは、時代背景もありますし、単純には言えない部分ではありますが。

まあ、いろいろと突っ込みを入れても、もはやこの作品はそんなレベルで語るような存在ではないというのが一般の正しい認識でしょう。
モーツァルトが死ぬ年に書かれた最後のオペラであり、レクイエムと平行で書かれており、街のしがない興行師などとなぜ手を組んだのか、といったような晩年のモーツァルトに関わる謎とこのオペラが密接に繋がっているということが、人々の関心の元になっているのだと推察します。それほど、つまりモーツァルトは偉大だということなのです。恐らく、オペラ単体の魅力というよりは、モーツァルトが書いたという属性によって有名になったオペラなのではないでしょうか。
もちろん、ここで書かれているモーツァルトの音楽は一級品には違いありません。それぞれの立場の人が、それぞれの気持ちを同時に歌うような重唱の場面は、さすがモーツァルト!という感じがします。

2004年8月2日月曜日

韓国ドラマブーム

ウチでもはまっている人がいて、最近この手のドラマばかり見てます。HDレコーダに録画されているタイトルも、気が付くと「冬ソナ」とか、そういうのがずらっと並んでます。まあ世の中これだけブームなのだから、わざわざあれこれ言うのもなんですが、それにしてもどうも私にはいただけない感じがしてます。^^;

だいたいですねー、事件多すぎです。
この手のドラマにありがちな、交通事故、記憶喪失、出生の秘密、白血病、禁断の愛・・・などなどの定型的な事件のオンパレード。毎日がこんなに派手な事件の連続だと、普通の人は生きちゃいけませんよ。
それに、毎回のように涙を流す主人公たち。会えば泣く、会えなければ泣く、怒れば泣く、悪口を言われて泣く、おいおい、そんなに毎回泣いてたら、なんか涙の価値が下がってしまいませんか?
主人公たちが、芸能人だったり、ピアニストだったり、会社経営者だったりと、普通じゃない人たちばかりなのも気になります。まあ人気のありそうな職業を選んでいるのでしょうが、会社経営や芸術関係の人たちばかりというのは、いかにもという感じでリアリティを感じないのです。

繰り返し流される主題歌なども、なんか不思議ですね。これって、ものすごく日本の歌謡曲とかに似ています。しかも二十年くらい前の。
このまま日本語の歌詞を付ければ日本の歌謡曲として成り立ちそう。(中森明菜も歌っているらしい)
そういうところが、日本人の心を捉えているのだろうけど、なんか微妙に日本の歌謡曲がパクられているような気がして、どうも素直にこれらの音楽を聞けません。

なんてことを書き連ねると、世の中の多くの韓国ドラマファンを敵に回しそうです。
確かに過剰な設定、過剰な演出は目に付くものの、日本のドラマに足りなかった何かが恐らくこれらの中に潜んでいるのでしょう。私が感じるのは、登場人物の純朴さ。性格とか行動とか、そういうのじゃなくて、単純にファッション、風俗の感じ方とかが日本より少し素朴なのです。それが、若者の風俗の行き過ぎに若干の懸念を感じている三十代、四十代の人々に受ける理由になっているのでしょう。

あのドラマを見て、例えば韓国人は涙もろいんだ、とか、なるべくそういう感想を私は持たないようにしています。それこそ、韓国人はあのドラマを韓国の等身大の姿だと思われたくないと感じているでしょうから。
逆のことを考えてみてください。日本のドラマを外国で放送して、ああ日本ってこんな風俗なんだ、なんて思われたくないでしょう?所詮ドラマはドラマです。
むしろ、なぜ日本でこういうドラマがウケてしまったのか、というのは分析する価値はあるかもしれません。

2004年7月26日月曜日

歌に求められているもの

またまた乱暴な分け方をしてしまいますが、音楽が人に与える影響は、「音響」と「メロディ」に分けられると思います。

「音響」とは、編成とか、それに由来する音色の違いとか、ホールの響きとか、打楽器の力強さとか、ステレオ効果とか、音環境全般を取り巻くものが私たちにもたらすイメージのことです。前々回書いた、鼓童の音楽の魅力とは和太鼓による音響の迫力であり、楽器演奏自体がパフォーマンス化したその舞台空間にあるのだと思います。同種の面白さは例えば、バリ島のケチャのような音楽。これもピッチのない掛け声をリズムとパフォーマンスで規律化したものだと言えるでしょう。
映画音楽でも未だにオーケストラ的音響が使われるのは、映画の持つ壮大な雰囲気や、勇壮な心持を表すのにオーケストラ音楽の音響は非常に重要な役割を示しているからだと思います。
音楽がどのような空間で、どのような楽器で演奏されるかというのは、人の印象に大きな影響を与えます。そして、クリエータ側は、まずこの音響的な側面を非常に重視します。

その一方、音楽のもっとも根源的なアイデンティティとして、メロディがあると思います。
合唱をやっていると、メロディが人に与える影響は、本当に強いものだと実感します。私たちは人生において、自分が熱中したものに関連する音楽や、遠い昔に何度も聴かされたような音楽に特別に郷愁を感じます。合唱のステージで唱歌をアレンジしたものがうけるのは、多くの人が小中学校時代にそれらを覚え、そして歌い継がれた曲たちだからでしょう。そういう意味では、なつかしの映画音楽であるとか、アニメ主題歌集であるとか、こういったポピュラーステージも根は同じで、そのメロディを聞かせて、久しぶりにあの頃の郷愁を感じさせることで人々を楽しませるわけです。
こういった音楽の力は本当に強いと思ったりします。演奏がいくら下手でも、涙を流して喜んでくれる人たちだっているのです(それを自分たちの音楽の力だなどと思ってはいけない)。
それらがとびきりの名曲というわけではないかもしれません。それでも、ある一時代を象徴する音楽は、人々の心に音楽の価値以上のものをもたらします。メロディは、どのような編成で演奏されても必ず人々の記憶を呼び覚まします。このとき、音楽の評価は音響の力を超えたところに持っていかれてしまいます。

歌を歌うものとして、上のような効果は無視できないことです。日々の練習は、ピッチやリズムを合わせ、音楽の表現を高めるような音響的側面が大きいわけですが、メロディとして何を歌うのか、それをもっと戦略的に考えることはできるでしょう。
オリジナル合唱曲はもちろん芸術性の追求として必要なものではあるのですが、残念ながら一般大衆の興味はそこまでついてきてくれません。演奏家のアイデンティティとして、歌の持つ郷愁をいかに提示するかというのももっと追求すべきことのように思います。
例えばNHKがやるような「懐かしのあのメロディ」なんていう番組は永遠になくならないでしょう。若い頃はバカにしていたのに、そこで選ばれる曲がだんだん私たちの射程距離に入ってきた感じがします。もう10年、20年したら、そういった番組でピンクレディやキャンディーズの曲をなつかしながら聴くんだろうなあ。

ときにオリジナル合唱曲の面白さは何か、と考えたときに、どうも私たちは独りよがりなものを作り続けているような気がしてしまうのです。
テキストの精神性のようなものに依拠したメッセージ性の強いもの、時間密度の極端に濃いものは、簡単には理解してもらうことは不可能です。もちろん、過去の多くの名作のようにいずれ多くの人に理解されるだろうと楽観的に考えてもいいのだけれど、私としては、上記のように合唱という音響特性をもっともっとアピールするような音楽であるとか、逆に民謡、唱歌アレンジなどのメロディを楽しませるもの、という観点で作品が作られても良いのかな、と最近は感じています。

2004年7月18日日曜日

なんとかならないかスパムメール

今、私のところにも毎日10通ほどスパムメールがやって来ます。
DMだって十分うるさいのに、自分とは全く関係ないスパムメールを毎日のように削除するのは、全くバカバカしい行為です。
まあ、HP上でメールアドレスをさらしているので、何のメールが来てもおかしくは無い状態ですが、他人からのメールを受け付けたいから公表しているわけで、スパムの嵐から解放されるためにアドレスを変えるのもまた口惜しく、未だに何も対策していません。
実際、プロバイダにもスパム対策のサービスはあるのですが、送信先も受信先も毎日のように違い、タイトルでも特定の文字列では判定できないとなるとそういうサービスもほとんどお手上げです。
まだ10通程度なのでいいですけど、これが100通とかなったらマジメに考えないとやっていけないでしょうね。そうなる可能性は、十分あるわけですし。

そう考えると、ネットの世界というのはつくづく不思議なもののように思えます。
どんな通信手段だって完璧というものはありません。しかし、ツールが便利になればなるほど、結局行き着くところは「人間」の問題なんだなあ、と最近は感じたりするのです。
電子メールの良さは、パソコンの前にいるだけで、世界中の誰にでも自由に手紙を出せるということです。距離という障壁、手続きの面倒さという障壁が無くなれば、送りたい人にとってはどこまでも便利なツールです。送るのに不便だったり、お金がかかったりしたからこそ、通信量が抑えられていたのであり、お手軽になればなるほど全体の通信量が増えるのは当然のことでしょう。
送る人が自由になった分、送られる人の迷惑さという、今まで考えもしなかったことがクローズアップされます。不必要なものなら送られれば捨てればよい、と昔なら思えたのですが、「捨てる」という行為さえ莫大な時間になってしまう、ということまで予想することは出来ませんでした。
所詮、便利なツールを作っても使うのは人間です。人間が、このツールをどのように使うのか、それをきちんと規定しなければ、結局のところツールは使えないのです。法を犯すことにためらいを感じない人がすこしでも商売で儲けようと思えば、こういったツールをいくらでも悪用することは出来ます。使う人の道徳心などに期待するレベルではなくなってきているのです。

携帯のメールでも、アダルトサイトのメールを頻繁に受信します。こちらは特に削除するようなこともしていませんが、老若男女みさかい無くこのようなメールが送られるとは、今までの常識では考えられませんでした。通信にお金がかかったからこそ、昔はノッてきそうな人だけに連絡していたのでしょうが、メールを送るコストがタダになれば、そんなまどろっこしいことはしないのは当たり前です。プログラムさえ書けば、何もしなくたって自動的にメールを送ることは出来るのですから。
しかし、その結果、誰のみさかいも無くああいうメールが送られてくる世の中って何か間違っている・・・と思いませんか。世の中にあるノイズが、オープンな環境によって、簡単にかたぎな世界に流れてしまうのです。

いま、考えようによれば、ネット社会は管理化のほうに行くか、オープン化のほうに行くか、迷っているような気がします。
例えば、世の中の全ての人の行為が管理されれば、世の中の悪を取り締まるのに非常に効率が良くなるでしょう。しかし、そんな世界は誰も望まない。逆に、何も管理せずにオープン化すれば、様々な利益を世界中の人々が享受できるのと同時に、一部から発せられるノイズがどこまでも凶悪になることを容認することになります。

スパムメールを根本的な意味で退治するのは不可能に思えます。例えば、あるアドレスから一定時間内に大量にメールが出るのを取り締まるのならDMと区別する方法が必要ですし、そうやったとしてもスパムの発信先を転々と変えるような手法が現れれば、あっという間に上の方法は意味が無くなります。
結局のところ、自分自身がメールに対してフィルターをかける方法を考えていかざるを得ないのでしょうか。

2004年7月11日日曜日

もし、プロ合唱団を作るなら

ちょっと前に、こんな話を書いて、聴衆不在の合唱界を活性化するために、合唱のイメージを変えるようなスーパープロ合唱団が出来たら・・・なんて書きました。もちろん、具体的なイメージがあるわけでもありません。それでも、電子バイオリンを持ってステージ上を動き回るセクシー弦楽四重奏団や、中国の民俗楽器を演奏する12人の女性バンドとかがマスコミの注目を集める時代なのですから、アイデア次第でなんかできそうな気がしてきませんか。そんなわけで、たまにはちょっと妄想系に入ってみましょう。

といいながら、いきなり別話題ですいませんが、先週テレビで、「鼓童meets玉三郎」をという番組をやっていて、これに私は非常に感銘を受けたのです。(また再放送されるようなので、気になる方はお見逃しなく。鼓童のHPはこちら)
鼓童はいわずと知れた和太鼓の演奏集団。実は私、まだ一度もコンサートに行ったことはないのですが、この番組を見て、今度は絶対に行きたいと心に誓ったのでした。
彼らの本拠地は佐渡島です。一年の1/3を佐渡で、1/3を国内ツアーで、1/3を海外ツアーで過ごしているそうです。プロといっても都会でない場所に本拠地を置き、そこでひたすら練習を重ねるような、そういうプロ団体というのはクラシックの世界では聞いたことがありません。もちろん、日本の伝統的な音楽を中心にすえ演奏活動するわけで、その意識を保つためにも都会でなんか暮らしちゃいけないのかもしれません。でも、音楽演奏に対するそういった精神的な態度は、全く恐るべきものです。

このテレビ番組の中でも、そういった彼らの音楽への真摯な態度を感じることが出来ました。
自分たちだけで作ってきた今までの音楽がマンネリ化していないか、それに疑問を抱き、玉三郎を演出家として招きます。最初は、私も玉三郎なんて音楽家じゃないし、なんか眉唾だなあと思っていました。しかも、なんで女形の人ってカマっぽい話し方になっちゃうのかな、なんてことを考えながらぼんやりテレビを見ていたのですが、なんだか段々面白くなってきます。よくよく聞いていると、玉三郎の言うことは、やっぱりなかなか奥が深いのです。芸術全体の普遍的な考え方みたいなものをしっかり捉えていて、鼓童のメンバーとやりあいながらも一つずつ音楽を仕上げていく様子に、だんだん惹きこまれていきました。
それに、玉三郎ってなかなか音楽の素養も高そうです。古典芸能全般に関して、一通りのことができちゃうんですね。それに気づいたとき、ようやく、なんで鼓童が玉三郎を呼んだのか、その理由が分かった気がしました。
印象的なシーンは、鼓童のメンバーの一人が、ある民謡を玉三郎に歌い聞かせたところです。本当に情感がこもっていて、聞いていた玉三郎も思わずホロリ。歌の本当の力を垣間見た気分でした。
鼓童のメンバ、実は歌もステージでかなり歌います。もちろん民謡に根ざした旋律なんですが、合唱で中途半端に民謡を歌っている私たちが本当に恥ずかしくなるくらい、日本の叙情世界にどっぷり浸かった彼らの歌声は聞くものの心を揺さぶるものです。
��鼓童は伝統音楽に関するワークショップなどもやっていて、その中で「ヴォイス・サークル」なんてのもあるようです。ちょっと興味あり)

もはや世界的に成功を収め十分なネームバリューもある鼓童のように、しっかりした芸術的目的意識を持ち、独自の音楽を作り続けるようなそういったプロ合唱団というのは出来ないものでしょうか。
合唱団というわけではないけど、歌関係でちょっと気になるのはイギリスのADIEMUSというグループ(というか、カール・ジェンキンスによるプロジェクト的団体らしい)。このバンドも、ちょっとエスニックな不思議な「歌」の世界を追求している面白い音楽を作り続けています。

まだまだ、歌でも、新しい表現方法でありながら人々の心を打つ、そういった個性ある音楽を作ることは可能だと私は信じています。

2004年7月4日日曜日

ティム・バートンにはまる その2

シザーハンズを観ました。
はさみの手を持つ主人公エドワードって、もうこれ監督のティム・バートン自身じゃないの、と感じてしまいました。この映画、構想から脚本まで、ほぼティム・バートンが手がけていて、ストーリーから映像まで、何から何までもがティム・バートン色に満ち溢れています。
そして、主人公の人造人間エドワード。突然街に連れてこられるまで一人で城に住んでいたので、街の人たちと正常にコミュニケーションが取れない。街の人は、ちょっと異質なエドワードを最初は大歓迎し、チヤホヤともてはやすのだけど、一つ歯車が狂い始めると、まるで手のひらを返したように迫害し始めます。
映画の中では、なぜエドワードがはさみの手なのか、明確な説明はありませんが、この映画に対してそのことを突っ込むのは野暮というものです。なぜなら、このファンタジーにとって「はさみ」は極めて象徴的なモチーフと思えるからです。
映画の中で「はさみ」は、独創的な形に植木を刈ったり、髪の毛を切ったりする、芸術性を表現するための道具であると同時に、近くにいる者を思いがけず傷つけてしまったり、時として暴走する怒りの感情で凶暴な凶器に変わってしまったりします。まさに、「はさみ」は、芸術家的資質を持ちながら、他者とのコミュニケーションを不得手とした人間の、そしてそれはティム・バートンの人間性そのものを象徴しているように思えてしまいます。
そう思うと、この映画も、太宰治の「人間失格」とか、谷崎潤一郎の「異端者の悲しみ」のような、自身の青年期の不安定な心理を語った自叙伝的な芸術作品と言えるかもしれません。

それにしても、ここまで作家性が強烈に発揮されるような映画監督というのは本当に珍しいと思います。
だからこそ、ティム・バートンにはマニアックな支持層が多いのでしょうが、このような個性ある作家性を持った映画監督が活躍できるアメリカの映画産業というのも大したものです。
もっともティム・バートン自身は、いろいろと映画の内容に口出しされたり、肩越しに撮影をチェックされるようなハリウッドの環境にいろいろ不満を述べたりしていますが、まあ経営側から見れば当たり前のことでしょう。本当かは知りませんが、「マーズアタック!」でティム・バートンが好き放題に作った結果、興行的に失敗してしまい、しばらくティム・バートンはお仕着せのテーマでしか撮らせてもらえなかったという話もあります。
それでも、30ちょっと前の若輩者にバットマンの映画監督を任せるというのは、やはり日本では無理だろうなあ、と思います。

話はそれますが、映画作りというのは、チーム作業によるものなわけで、以前私が書いたこんな話がやっぱり当てはまるんだろうなあと感じます。
恐らく、日本の映画監督というのは現場監督そのものであり、大勢の人たちを一言で動かすだけのカリスマ性、及び事務能力が必要とされているのではないでしょうか。だから、まず人間的に頼りがいがあり、人々の信頼も厚いというようなそういう人(経営者のような)であることが要求されているような気がします。
それに比べると、少なくともティム・バートンの例を見る限り、アメリカ映画では映画監督の芸術性をきっちり判断するような審美眼を制作側が持ち合わせているし、映画に携わる人たちも、監督の人柄でなく(だけでなく)、芸術性を信頼しているように思えます。
それは、どのようにすれば良い映画が作れるかわかっているからであり、もう少し悪く言えば、何が売れるのかという意識を明確に持っているからなのでしょう。
芸術のことを考えれば考えるほど、そういった日本と海外の審美眼の違いに見えざる壁をいつも感じてしまうのです。

2004年6月28日月曜日

誤解の多い楽譜表記

楽譜表記には様々なルールがあって、正直なところ、多くの人が間違った解釈をしているものもあると思います。
楽譜を書く作曲家とて、全ての表記に精通しているわけでもなく、書き方を間違えることだってあります。指揮者、演奏者など何をかいわんやです。かなり怪しい解釈が世の中には横行しているのではないでしょうか。
最近気になった二つの事例を紹介しましょう。

一つは、テヌートとスタカートが同時についている記号。これ、どういう意味か分かりますか。
テヌートは音を十分延ばして演奏するし、スタカートは音を切って演奏します。全く逆の定義と思われる二つの記号が一つの音符に付いているこの記号はどのように演奏すれば良いのでしょう。
この記号を見て、「でも、何となくどう演奏すれば良いか分かるような気がする」なんて、したり顔で言わないように気をつけましょう。
確かに、テヌートは以前も書いたように、裏の意味も多く、必ずしもスタカートと逆の音楽記号とは言い切れない側面があります。しかし、テヌートとスタカートが両方付いているこの記号、そんな微妙な意味を持つ記号なんかじゃないですよ!
名前はテヌート・スタカートでも良いのですが、意味が分かりやすい名前で言えば「メゾ・スタカート」となります。要するに、スタカートが少し弱まったものです。スタカートの場合、ただの点ではなくて、縦長の棒で表現する「スタカーティシモ」もありますので、合わせて覚えると良いでしょう。

もう一つは、「piu f(ピューフォルテ)」という表記です。実は、私も最近まで正確な定義を誤解していました。
この問題、ちょっと前に某合唱団で話題になりました。曰く「普通の f(フォルテ)と piu f ではどちらが大きいか?」という疑問です。さて、あなたは正確に答えることが出来るでしょうか。
私はそのとき、piu は意味を強調するのだから、piu f は f より音量は大きいのではないか、と考えました。恐らく、そのように思う人も多いのではないでしょうか。
確かにそれで結果的には間違いでないケースは多いですが、正確な定義は違います。piu は、「前に比べて、その意味を強調して」という接頭語です。だから、piu mosso (ピューモッソ)は「前より速く」という意味になるのです。前より速くするわけで、前がなければこの記号に意味はなくなります。だから piu mosso が曲の冒頭に置かれることはありません。
それから、f や p は、本来、その場を「大きく」「小さく」させるという非常に即物的な記号でした。それより、piu f は、「前より音量を大きく」という定義になるわけです。
もし楽譜上のある長いフレーズに、「p → piu f → mp」という順番で書いてあったら、このときの「piu f」はその前の「p」より強くするというだけの意味しか持たず、むしろ作曲家の意図としては「p」と「mp」の中間くらいの音量を出して欲しいと考えるべきでしょう。
定義として言えばそうなのですが、実際にはそういう使い方は誤解を招きやすく、「piu f」で突然大きな音を出されかねません。一般には、絶対音量としての通常の f, mf, mp, p などの記号と、相対音量の指定である piu f, mono f などの意味合いが、多くの人から理解されていないように思います。
ですから、実際に、音量で piu や meno が使われる場合は、次のようなパターンが多そうです。

・mp → p → piu p → pp : mp から pp まで段々音量を下げていく。
・pp → meno p → p → mp :逆に meno p は前より弱くせずに、
 つまり大きくして、という意味になる。
・mf → f → piu f → ff : もちろん mf から ff まで段々音量を上げていく。
・ff → meno f → f → mf :上と同じく、meno f は ff より強くなく、
 つまり小さくして、という意味になる。
piu p, mono p が p の周辺で利用され、piu f , mono f が f の周辺で利用されることが多く、そうすれば結果的な意味は間違えにくくはなるものの、そのおかげで本当の定義に気づかれないということが多いのも事実でしょう。

最初の「普通の f と piu f ではどちらが大きいか?」の答えはこんな感じでしょうか。
「f は絶対的な音量指定だが、piu f は相対的な音量指定なので、二つの音量を比べることは出来ない」



2004年6月20日日曜日

ピアノが伴奏なのはいけないこと?

最近、合唱の新作の紹介などで気になるのは、「この作品におけるピアノパートは単なる伴奏ではなく・・・云々」というような記述があること。
まあ、こんな記述が気になるのは私くらいなものかもしれません。一般的には、そのように書かれているほうが、ピアノパートもより音楽的に手を抜かずに書いたんだ、というように理解されているような気がします。

「単なる伴奏」という言葉に過剰に反応するわけではないですが、伴奏って、私が感じる以上に不当に悪い印象を持たれている言葉だなと感じます。それは言うまでもなく、主旋律を音楽のメインと捉え、旋律と伴奏が主従の関係であると考えるところから端を発しているのでしょう。
もちろん、音楽の機能的な観点から言えば主従の関係は出てくるでしょうが、音楽的なレベルの優劣関係はあるはずがありません。ましてや、そういうパートを一段低く捉えるような貴賎の関係では、絶対無いはずです。

伴奏というのは、音楽的にレベルの低い行為などではなく、あくまで音楽の機能上の役割を示したものにすぎません。
ですから、私の感覚からすれば、作曲家は自信を持って伴奏パートとして伴奏パートを書くべきで、中途半端にピアニスティックなピアノパートは、音楽上の機能を不明瞭にさせてしまうような気がします。
伴奏には、伴奏の美学があるのです。それを肯定するならば、もっとシンプルで分かりやすい音楽であっても、強いアイデンティティを持つ音楽は十分作れるはずです。
海外のピアノ伴奏つき合唱曲というのは、そのあたりの割りきりがはっきりしていて、邦人合唱曲に慣れた目から見れば、物足りないくらいに思えてしまいます。しかし、本来、合唱にピアノで伴奏を付けるというのはこういうことを言うのではないか、という原点を感じさせます。

伴奏が必要な音楽形態と、必要ないものの音楽形態とでは、おのずと表現の仕方が変わってきます。
伴奏が必要な場合というのは、一言で言えば旋律をメインに聞かせたい場合であると言えるでしょう。だから、歌曲であるとか、ヴァイオリンソナタであるとか、単旋律楽器とピアノの組み合わせが基本です。
ですから、ピアノ伴奏つき合唱も、基本的にはそういった音楽形態の延長で捉えるのが、最もわかりやすいと私は思います。そこで双方が、対等な関係を主張するような音楽とするなら、ピアノは適当な楽器と思えないし、あまりに双方が非対称すぎます。非対称になる原因の一つとして、声楽側は歌詞として言葉を表現することが出来るというのもあるしょう。
また、対等な関係とは、演奏テクニックで人を堪能させるような協奏曲風の音楽作りを指向するもので、シリアスな表現よりはむしろエンターテインメントを指向するものだと私は考えます。そういう意味でも、現在のピアノの派手な合唱曲は、どこかバランスの悪い感じがしてしまうのです(特にエンターテインメントを指向しているとも思えないので)。

伴奏が必要ないものは、基本的に同属楽器によるアンサンブル音楽のような形態になると思われます。もちろん、曲中では各楽器に対して伴奏的役割や旋律的役割という音楽的機能はあり得ますが、それは常に固定されません。そしてそれこそが同属楽器のアンサンブルの面白さです。弦楽四重奏などを中心とした室内楽がこういった音楽に当てはまるでしょう。
そして、もちろん無伴奏合唱曲というのは、こちらの部類に入る音楽です。だからこそ、各声部がもっとスリリングに拮抗しあう音楽こそ、無伴奏合唱の面白みを表現していると思うのです。

2004年6月14日月曜日

ティム・バートンにはまる

「最近面白かったもの」にも書きましたが、先日観た「ビッグフィッシュ」という映画にいたく感動しました。
映画監督はティム・バートン。そのあと、ティム・バートン関係の情報をいろいろネットで見るうちに、この監督の独特な感性や、映像美の世界に非常に興味を感じるようになりました。

実は、ティム・バートン監督の「バットマンリターンズ」も結構好きな映画で、このDVDは既に持っていたのですが、その後、「マーズアタック」「エドウッド」のDVDを買って、目下、ティム・バートン映画にはまっているところです。「猿の惑星」は劇場で見ました。ただし、名作と言われている「シザーハンズ」はまだ観てません。近いうちに、こちらもDVD購入予定。

それにしても何が私を惹きつけるのか。
もちろん、ファンタジックな感じとか、ブラックユーモア満載とか、カルトへの偏愛とか、そういった要素も面白いし、多くの人が語っているわけですが、そういうことを小道具として、極めて等身大な一個人のリアルな心理を、細やかに表現しようとすることこそ、この人の本質的な特徴だと感じます。

そもそもファンタジーは現実感のないおとぎ話であればいい、というわけではないと思います。
むしろ実態は逆で、いかに現実世界には正視に耐えない厳しい現実があるのか、それを暗示的に表現することこそ、ファンタジーの役目であり、それを表現者が婉曲に告発することが、その痛快さに繋がっていると感じるのです。
もちろん、社会の醜い側面を、非常に正攻法で告発するような表現方法もあります。こういう作品は実に男らしくて雄々しいものです。しかし、現実はそんなに単純ではないのです。誰かが成功すれば、誰かがひどい目に遭うのが世の現実。だからこそ、正攻法での告発は常に矛盾を孕んだものになります。残念ながらみんなが幸せにはなれないのです。
ファンタジーは、恐らくそういった現実を肯定し、世の不条理を告発しつつ、社会全体の幸福でなく、個人のささやかな幸福を描きます。だからこそ、リアルな社会を描いた作品よりも、個人にとってリアルなものとなる可能性があります。

「バットマンリターンズ」は一見、ドタバタなアメリカンヒーロー物の映画のように思われがちですが、そういった外見を取り除くと、バットマン、キャットウーマン、ペンギン男、の哀しさが非常に際立ちます。
むしろ主人公であるべきバットマンはちょっと影が薄く、キャットウーマンやペンギン男のエピソードが異常に哀しく心に響きます。この二人とも、実に自己表現の下手な、小心者なキャラです。普通の映画なら、どんな虐げられた人間でも、きっちり自己表現してテキパキと行動して、「実際にはあんなにうまくいかないよなあ」となってしまうわけですが、ティム・バートンはそういった嘘がつけないのです。
ドギマギしてへんてこなことを口走ったり、すぐにカッとなって暴力を振るってしまったり、それでいて一人になるとそんな自分に自己嫌悪を感じて落ち込んだり、そういった人々の行動をティム・バートンは愛します。私には、監督自身がそういう想いを絶えず感じ続けた人だったと思えてなりません。

こういうベースがあって、ティム・バートンが映画の中にちりばめる小道具が生きてきます。
例えば、悲しい事件はいつもクリスマスシーズン。人々が最も楽しむはずのクリスマスだからこそ、その哀しみは倍化されます。
暴力シーンは、現実感からいつも遊離していて、ファンタジックですらあります。そしてファンタジーだからこそ、容赦ない残酷さで表現できます。「バットマンリターンズ」や「マーズアタック」などでは、自分の前に集まる多くの人々に向かって、突然発砲を始め、バタバタと人々が死んでいくシーンがあります。
それから、奇形な人間、あるいはサーカスなどのモチーフが度々現れます。「ビッグ・フィッシュ」などは、まさに良い例で、身長5mの怪物とか、シャム双生児とか、狼男が率いるサーカス団など、ティム・バートン的世界の住人がたくさん現れます。

ついさっき見た「エド・ウッド」ですが、こちらはシリアスな伝記映画で、ちょっと傾向は異なりますが、自分の夢のために突っ走るB級映画監督エド・ウッドの存在自体がファンタジーに思えて、映画界の現実をコミカルに告発しているようにも感じました。

2004年6月6日日曜日

音楽演奏のモチベーション その2

ある種、閉鎖的ともいえる日本のお稽古系音楽ジャンルは、恐らく以下のような連鎖が進んでしまうのだと思うのです。
1.優秀な演奏家を輩出するために、コンクールが行われる。
2.格付けが欲しいアマチュア演奏家が、コンクールを演奏の上達のモチベーションに感じ始める。
3.上位入賞者の傾向が、それ以降のコンクールの雰囲気を先導するようになる。
4.差がつく部分のインフレーション現象。技術指向、特殊効果などを持つ曲など。
5.聴衆不在の閉ざされた世界観が作られる・・・
もちろん、どんな音楽ジャンルにおいてもコンクールが全てなんてものはないはずですし、合唱でもコンクールに参加しない人はやまほどいます。しかし、それでも合唱音楽に詳しくない人から見れば、全般的には閉鎖的なお稽古系ジャンルと思われてしまうフシはあります。

結局のところ、問題なのは聴衆不在ということなのだと前から思っているのです。
自分たちが演奏会を開いたって、チケットは団員が一生懸命売るのが当たり前。本来なら、プレイガイドに置いておくだけで十分お客さんが集まるというそんな演奏会にしたいものです。
まあ、日本における合唱演奏会では夢また夢といったところでしょう。プロの合唱団だって、主催者側がチケットをさばく努力をしなければ、全くお客が集まらないというのが実態ではないでしょうか。

まずは、演奏者と聴衆の間に市場を作らなければいけません。
そのためには、すでに市場が出来上がっている地方の状況など参考にすべきでしょうが、合唱の場合、本場のヨーロッパとでは歴然とした市場性の違いがあります。
言うまでもなく、欧米において合唱音楽の母体となる場所は教会であり、キリスト教であるという点です。今でも、多くの外国人作曲家が扱うテキストの多くは宗教に由来するものです。欧米人のほとんどは、小さい頃からクリスマスにはキリスト生誕の話を聞いて育ち、キリストの受難と復活を教えられ、文化の隅々までキリスト教文化が浸透していることを肌で感じます。
教会に行けば、聖歌を歌い、ミサを聴きます。荘厳なオルガンの調べと合唱の歌声は、日常の延長にあり、宗教的な敬虔な心理と一体となっていると思われます。
そう考えると、少なくとも日本においては欧米の合唱事情をそのまま持ち込むことは全く不可能のように思われます。

結局、私が考えるのは、そのジャンル発のスーパースター、アイドル的存在が必要だということです。
アイドルなんていうと、若者が追っかけをしてキャーキャー騒がれるようなイメージもありますが、これからの高齢化社会、若者だけでなくもっと高齢の人たちのアイドルがあってもいいじゃないですか。
少なくとも、彼らを見たい人がいるのなら、彼らは労せずしてチケットを売りさばくことができるでしょう。多くの人が見たいと思えば、需要が増え、同じような団体も現れるかもしれません。そうすれば、市場ができます。市場が出来れば、市場に残るための競争が生まれます。
市場という言い方は、音楽の場合、抵抗感を覚える人もいるかもしれません。ただ、私は金銭的な意味だけでなく、演奏者と聴衆の間に生まれた需要と供給の関係について、市場性という言葉をあえて使っています。

だからこそ、現在の合唱界の一線級の演奏家の皆さんには、そのような合唱界を飛び出すスーパーグループにまずなって欲しい、と思っています。そのためには、伝統的な様式に縛られない、もっと現代的な感覚を持ったディレクターが必要です。そういう活動をすると、ときに堕落したなどと言われるものですが、そんな保守的な意見を気にしてはいけません。
有名な合唱指揮者の方々にも、あちこちの合唱団で指導するだけでなく、プロとして通用するスーパーグループを作って欲しい、と私は切に願っているのですが。


2004年5月30日日曜日

音楽演奏のモチベーション

エレクトーンはご存知の通り、今や電子オルガンの代名詞ともなっているヤマハの電子楽器製品です。このエレクトーンを取り巻く世界って、ちょっと合唱にも似ているなあ、と思ったのが今回の話題。

エレクトーンはヤマハ音楽教室を中心としたシステムの中で使われる、いわばお習いごと系の楽器として、広く日本中に知られています。過去にヤマハ音楽教室で学んだ子供たちが大人になり、その中でエレクトーンの魅力にはまり演奏に熟練した人たちがまたエレクトーン講師となって、子供たちを教えます。こういった世代循環を音楽教室というシステムで作り上げながら、一定のタイミングで新製品を投入し、顧客を維持する方法こそ、何十年にも渡ってヤマハが作り上げたビジネスモデルです。

エレクトーン愛好家がエレクトーンを弾きたい、習いたい、と思うのは、もちろん二段鍵盤、足鍵盤で音楽を一人で自由に作り出せるエレクトーンという楽器の魅力もさることながら、グレードと呼ばれる演奏熟練度を認定するシステムや、エレクトーンコンクールといった、音楽教育システムの環境という点も見逃せません。事実、多くのエレクトーン愛好家がグレードの認定試験や、コンクール出場のために、一生懸命演奏の練習をしているわけです。
日本では、10万円を超えるようなキーボード類などほとんど売れていない現状において、100万円近いエレクトーンが新商品発売後にたくさん売れるのは、この世界を知らない人にとって驚くべき現実です。

こういった事実を見ると、音楽演奏におけるモチベーションにおいて、演奏の格付けみたいなことが、いかに日本人の気持ちをくすぐるのか、ということを考えずにいられなくなります。
もちろん、正直なことを言えば、演奏にウマイ、ヘタはつきものだし、良い演奏を目指して切磋琢磨することは大事なことです。またコンクールにおける序列は、参加する人さえ必要悪だと思っているし、その評価も絶対的だと信じているわけではないでしょう。それでも、なおかつ、自分の演奏の格付けに人々がこだわるのは、日本の音楽事情に非常に特徴的のように思えます。

理由はともあれ、演奏がうまくなるために努力することは良いことなのですが、その一方それに対する弊害もあると思います。
一つは、誰のために演奏するのか、ということです。自分の演奏の格付けというのは、他人を必要としない自己実現の世界であり、そこにはどうしても聴衆の存在が見えなくなることが多くなりがちです。その音楽世界に市場性があるとすれば、それは楽器あるいは楽譜の供給者と、演奏者の間にしか成立しません。演奏者と聴衆の間に市場がなかなか成り立たないのです。市場が成り立たないというのは、端的にいえば需要と供給のバランスが取れていないということです。
もう一つは、演奏の序列化を明確にするため、演奏に対する技術的要素の占める割合が高くなる可能性があります。難曲を演奏できることこそ、演奏家の能力の証として分かりやすいことだからです。もちろん、そうでない評価をする人もいるでしょうが、そういう評価が一般的になるのは難しいことでしょう。

聴衆不在で、技術指向になれば、世界は閉鎖的になりがちです。その音楽世界が広がるには、よりもっと大きな視点が必要になってくると思います。
エレクトーンに関しては、仕事の関係であまりヘタなことは言えませんが^^;、その環境に閉鎖的体質があるのは確かで、もっともっと一般的な楽器になるための施策が必要だと思われます。そして、合唱もまた然りでしょう。

といっておいてなんですが、そのエレクトーンの宣伝です。
新型エレクトーン"Stagea"が発売されました!!エレクトーンに興味を持った皆様へ、サイトはこちらです。

p.s. エレクトーンコンクールの審査員に西村朗が名を連ねているんですね。

2004年5月23日日曜日

さらに構造について

「楽譜を読む」でも書いたように、芸術作品の様々な要素の組み立て方として、マクロ構造と、ミクロ構造という二つの視点があると思います。

ミクロ構造とは、時間単位としては非常に小さく、その作品の最小構成単位をどのように配置するか、そしてそのための技術、というようなものを表しています。文学で言えば、文法的な問題、語彙の問題、文章のスタイルの問題なんかでしょうし、映画で言えば、カット内のアングルや照明効果や色調とかでしょうし(もちろん専門家の意見は違うかもしれません)、音楽で言えば、和声法であり対位法であり、管弦楽法といった技術的側面を指します。

その一方、マクロ構造とは、芸術作品全体の構成のことを意味します。ある作品を構成するいくつかのパーツをどのように配置し、またそれぞれのパーツにどのように関連性を持たせるか、なおかつそのような工夫をすることによって、最終的に作品をどのような方向性に仕上げていきたいのか、というような考え方です。
ミクロ構造が、それぞれの芸術ジャンルにおける個別な技術的側面にフォーカスするのに対して、マクロ構造とは、様々な芸術に共通のもっと一般的な芸術的センスのようなものを扱うというイメージがあります。
私たちは、様々な芸術において、その道の専門家になるにつれ、その道の技術的な鍛錬を重ね、それぞれの技術に長けていくわけです。従って、技術的で専門的な話題を扱おうとすればするほど、その話はミクロ構造に向かっていくように私は感じます。また同様に、技術力や専門性を誇示したいアーティストほど、ミクロ構造に彼の執念を注いでいきます。例えば、なぜロマン派の音楽に比べると現代音楽のほうが曲の時間が短いのか考えてみれば、こういった考察はそれほど間違っていないようにも思えます。

しかし、誰もが感じているように、どのジャンルにおいても芸術性の高さを持っているアーティストは、芸術一般におけるセンスそのものを持っており、そのようなアーティストは無意味に難解なミクロ構造指向は持っていないものです。
そして、そういう才能を持つ人ほど、マクロ構造の方面に多大な才能を発揮しているように感じます。
先週の談話はそういった一つの象徴として、敢えて超有名な「新世界より」について書いてみました。この曲について書くこと自体、いささかルール違反な気もしますが、メロディの甘さや和声的な凡庸さをあげつらって技術レベルが低いというような指摘に対して、なぜこの名曲が、多くの人が愛するに足るほどの名声を勝ち得たのか、それについて反論してみたいという気持ちがあったわけです。

残念ながら、音楽の世界においては、マクロ構造を楽しむようなそういう作品は最近は作られなくなりました(というか一般には知られていません)。ポップスの影響などもあり、一曲の長さは短くなり、芸術領域の創作においてはミクロ構造に注力するほうが大多数のように思います。
その一方、小説に関しては、エンターテインメント性の高いものがたくさん現れ、昨今は非常にレベルの高い小説が次々出ています。映画の世界でも、邦画はいまいちですけど、多くの人が興味を持っており、そのような芸術性の高さを楽しむことができる貴重なジャンルの一つになっていると思います。

それぞれの時代において、最も大衆に愛された芸術ジャンルに才能を持ったアーティストは集まります。
そして、それぞれの芸術を読み解くために、マクロ構造は、芸術に対するアーティストの根源的なモチベーションに触れる大切な鍵なのかもしれない、と私には思えます。
だからこそ、芸術に触れる多くの人にも、細かい技術的な側面だけでなく、作品が持つ一般的な芸術性にもっともっと気が付いて欲しいし、そういうことに言及していって欲しいと感じます。

2004年5月16日日曜日

ビッグ・フィッシュ

はっきりいって無茶苦茶泣けました。
監督のティム・バートンといえば、バットマンなどが有名。実は、バットマンは私の結構好きな映画で、どうもこの監督の作品とは波長が合いそうです。SF、ファンタジー的なストーリーが必ず基調になるという点、そして独特のユーモアセンスが特徴的な感じがします。
この映画、従来のこの監督の作品とは系列が異なるように思えますが、とんでもない、バリバリのファンタジー作品です。しかし、微妙に現実とファンタジーが交錯しているところがこの作品の独特のところかもしれません。

筋を簡単に紹介しましょう。
ホラ話が大好きな父さん(エドワード)と絶交状態にある息子(ウィル)が、父の危篤の報を聞いて、久しぶりに父のもとに帰ります。二人は再会しますが、相変わらずホラ話が大好きな父。
そして、実際、映画のほとんどの話は父のホラ話が中心になっていきます。故郷の英雄になる父。不思議な街での経験。母(サンドラ)との出会いとプロポーズ、そして結婚。軍隊時代の冒険、セールスマン時代の冒険談など。
父と息子の確執は続き、息子は父の話の一体どこまでが本当なのか疑念を持ちますが、ついに父の最期のとき、あれほどホラ話を嫌っていた息子が、今までの父のホラ話をまとめて、逆に父にホラ話を語るのです。

何しろ、次から次へと出てくるエドワードの冒険談がとても面白い。ある種、ハチャメチャな展開ともいえるのですが、それがストーリーをシュールにさせ、ますますファンタジーの度合いを深めていきます。
個人的には、何回か出てくる詩人役がとても面白かった。過去に名を成した詩人と、不思議な街で出会うのですが、そのとき詩人が書いていた詩のあまりの幼稚さが笑えます。しかも、その詩人、銀行で再会したとき、「今、何の仕事してるの?」と聞くと「銀行強盗さ」といって、いきなり銃を出す、そのナンセンスさ。そして、エドワードはその銀行強盗をいきなり手助けする羽目に。
一つ一つのエピソードに、必ずひねりの効いたユーモアが現れ、そのセンスに非常に共感を感じます。

そして、感動するのは、何といってもラストシーンのウィルのホラ話です。
その伏線は、エドワードが小さいとき魔女に自分の死に様を教えてもらったが、その死に様自体は誰にも話したことがない、という形で張ってあります。
一体その話を、いつエドワードがしてくれるのか期待しているうちに、エドワードは危篤になってしまうわけです。そして、エドワードの死に様のホラ話を息子ウィルがすることによって、ホラ話が大好きだった父の生き様を、ウィルはようやく肯定できるようになるわけです。
そして、そのホラ話の中では、これまでの登場人物がエドワードを川で出迎え、そしてウィルによって川に流されたエドワードは「大きな魚」に変身して、川の中に消えていきます。
・・・・うーん、やられた!という感じ。この大きな魚は、映画冒頭のエピソードで出てくるのですが、あんまりにもファンタジーな、きれいなラストじゃないですか。各エピソードの中に出てきた、登場人物全てが、エドワードの最期に集まるというのも泣けてきますね。
そんなわけで、すっかり私はこの映画に、はめられてしまったわけです。

最近、談話で映画の時間軸上の構造の話などしましたが、やっぱり、いい映画はしっかりした構造を持っているなあ、とあらためて実感。ファンタジーだから何でもアリ、で設定をメチャメチャには絶対しません。細かいところだけど、前にあった同じ場所のシーンの中で同じ小ネタが使われていたりとか、後々重要になる事柄を最初の方でわざと強調した映像にする、といったような構造的な仕組みがキチンと出来ているのです。

名曲の条件 -「新世界より」の場合-

クラシック音楽の中で、誰でも知っているというくらい有名な曲といえば、やはりこのドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」ではないでしょうか。逆に相当なクラシックマニアからはあまりにベタな曲すぎて、分かりやすくて大衆的というようなレッテルを貼られ、音楽的な価値が高くないと見なされるようなことがままあるように感じます。
大体、ドイツ音楽的な音の徹底的な構築性を重んじるような価値観からすれば、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、グリーグなどの有名曲は、泣きのメロディで大衆を惹き付けているだけの俗っぽい音楽と思われているようです。

名曲とは何か、と言われたとき、どうしても上記のような見解の相違というのが現れます。つまり、一般に大衆に良く知られた曲は確かに名曲とは言われるけれど、一方で低俗的だと考えられ、実際の音楽的価値はそれほど高くないと主張する人たちが出てくるのです。
超大衆曲を音楽的に大して価値がないと言い切るのは、どうもスノビズムの匂いを感じて、個人的には良い気はしませんが、そういう自分も実は同じような判断をふと漏らしてしまうこともあるような気がします。(合唱曲で言えば「大地讃頌」とか「海の詩」とかそういう感じでしょうか^^;)
それにしても、そういった超名曲にはそう足らしめる要素があるわけで、私たちはそれから学ぶべきことはたくさんあると思うのです。

この「新世界より」も非常に微妙な評価を得ている曲だと思います。私は、交響曲の良き聞き手でもないし、ドヴォルザークの人そのものについても詳しくないので、これから書く内容には若干の心配がありますが、今の気持ちを正直に言うと「新世界より」には名曲足らしめる条件が見事に揃っているのではないか、と私には思われるのです。

この曲は、交響曲としての格調高さ、壮大さと、その一方で、分かりやすい旋律、大衆性が、モザイク状に配置されていて、その微妙な配置加減のおかげで、両方のおいしい部分をしっかり堪能できるようになっている、と私は感じます。
この曲の一般的な評価の中には、例えば展開部の展開技法や対位法的、和声学的な実験精神を賞賛するようなものはまずないでしょう。交響曲としての「新世界より」の特徴は、恐らくかなり凡庸で、典型的な交響曲の枠を飛び越えるものではありません。しかし、だからこそ、交響曲として安心して聞ける、という要素になっていくわけです。
また、この曲の旋律の分かりやすさは、ペンタトニック、あるいは四七抜き、とでも言える旋法に依存していると思われます。これが、普通の交響曲に現れる旋律とかなり雰囲気を異なるものにしているのです。

上記の交響曲としての格調高さを仮に交響曲性、分かりやすい旋律を歌謡性、という言葉で表現しながら、簡単にこの曲を見ていきましょう。
第一楽章は、かなり渋い交響曲性を持った序奏から始まります。だんだんと緊張感が高まり、さあ第一主題だ、となって、コロッと歌謡性の高い第一主題が現れます。うまくやらないと、このギャップが大きすぎてこけてしまう可能性がありますが、このつなぎは非常に自然に感じるのがスゴいと思います。
提示部の各主題は、いずれも歌謡性の高いメロディですが、交響曲性を持った化粧を少しずつ施されます。展開部に入ってから、交響曲性が前面に出てきますが、第一楽章の展開部はそれほど長くありません。そして再現部で、また歌謡性が高くなります。しかしまた、コーダがいかにも交響曲といった壮大な雰囲気になっていきます。
第二楽章は超有名なあの旋律。「遠き山に日は落ちて」ってやつですね。何がすごいかといえば、この主題は、動機(モチーフ)や単旋律レベルの長さでなくて、ほとんど有節歌曲の一番分といえるほどの長い旋律だということです。つまり、普通の歌がまるまる交響曲の一つの楽章の中の主題として収まっているのです。展開を必要とする楽章では不可能なことですが、極端に歌謡性に振れるそういう方向性は、ある意味アバンギャルドな精神なのかもしれません。
第三楽章はスケルツォ。主題は交響曲性が高いのですが、それにサンドイッチされるトリオ部分は、かなり歌謡性が高い旋律です。つまり、ここでも交響曲性と歌謡性が交互に現れます。
第四楽章の冒頭も、かなり有名な部分。これぞ交響曲、という気持ち良さですね。この勇壮さはショスタコーヴィッチの第5番第4楽章の冒頭と同類の感覚です(私にとって)。「新世界より」では、前の楽章の主題が後の楽章で現れることがありますが、この第4楽章では、これまで出てきた主題が次々と現れ、音楽が展開されます。
この方法、実に巧みに感じます。循環主題というほど、きっちりと計画された感じではなくて、本当にうまいタイミングで、前の楽章の主題が出てきて、聴いた人が「そうそう、このメロディなら覚えてる!」と思わず感じるようになっているのです。この感覚は、長大な音楽にとって非常に重要な要素だと私には思えます。

前の主題がいろいろ絡みながら、最後はもういかにも交響曲だ!というエンディングで見事に終わるこの曲、もうどんな素人でも「ブラボー!」と叫びたくなっています。
こういう作りが大衆迎合的と言われるのかもしれませんが、このような微妙な配置、構造性(先週の映画の話を思い出します)こそこの曲の魅力であり、個々の音楽技術でなく、総合的な音楽の構想力、提示力にやはり敬服するのです。

2004年5月9日日曜日

映画の面白さについて

映画の構造性の話、もう少し書いてみます。
実は、私、最近かなり映画を見に行っています。数年前、浜松のTOHOシネマズが自宅から歩いて10分くらいのところに出来て、暇なときふらっと見に行くようになりました。シネマイレージの会員になると、鑑賞履歴がネット上で見れるのですが、それによるとここ一年で20本は見てます。もちろん、超映画マニアから見れば、少ないほうではありますが。

さて、私が先週構造性と呼んだものについて、もう少し具体的な例を示した方が良いかもしれません。
端的に言えば、構造性とは、ストーリーのメリハリであり、映画を見た人が論理的に納得するための仕組みのようなものです。例えば、序盤で作品の背景、状況、世界観をいかに自然に、かつ丁寧に伝えるかというような点、中盤で、クライマックスに達するまで、どのように緊迫感を盛り上げていくか、あるいはどういう順序でストーリーを展開させ、子ネタ(伏線張り)を散らばせておくか、という点、そしてクライマックス自体をどのように作るか、映画全体の納得感をどうやって感じさせるか、そして何よりどのように終わらせて、観客をどういう気持ちにさせたいのか、という点などが挙げられます。
ただし、こういった映画の流れはエンターテインメント性の高い映画に特徴的であり、ジャンルで言えば、SF、サスペンス、アクション、ホラーといった作品にとって重要な要素です。実は、こういったことが当てはまるのは、ほとんどアメリカ、つまりハリウッド映画なのですね。

目をハリウッド映画から転じてみると、他の国の映画などでは、若干、構造性が希薄になる様な気がします。一カットが長くなったり、映画の主題からそれるようなセリフやシーンがあったりなどします。また、人を驚かすような効果音、音楽も少なくなります(これ逆に振れると最悪←キャシャーンなど^^;)。もちろん、扱う話題も上記のようなジャンルからちょっと離れてきます。例えばフランス映画なら、退廃的な恋愛映画のようなジャンルが面白いし、日本映画なら、やはり人情モノのようなストーリーが安心して観ていられます。
そういったハリウッド映画以外のところで、ハリウッドを真似た映画を作ろうとすると、上記のような構造性の追及が甘くなり、非常に中途半端な作品になってしまいます。レンタルビデオで、フランスのSF映画なんか見たことがありますが、これもかなりトンデモな代物でしたね。やはり、根本的にそういう文化が足りないのでしょう。
もちろん、ハリウッド映画以外のところでは、自分たちの得意領域をもっともっと切り開いて、安易に流行りものに追随しないほうが良いとも思えるのですが、それでも正直言うと、同じ映画制作者として、もう少し何とかならんのかなという気持ちもあったりします。

アメリカ映画でないのに、逆に極端に構造性を追及した映画が昨年ありました。「最近面白かったこと」にも書いた中国映画「HERO」です。ここで書いた私の文での構造性とはもっと狭い意味で使っていますが、話が入れ子構造になっているという点において、この映画では構造性そのものを前面に押し出しているのです。もちろん、入れ子構造は、一般的に回想シーンなどであり得ますが、映画のほとんどが複数の回想シーンで出来ている、というのは滅多に見られません。
さらに、この入れ子構造が二重になったりすると、もはや見ている人はワケが分からなくなりますが、さすがにそういう映画に出会ったことはありません。実験精神の旺盛な人に、是非一度そういう映画を作ってみてもらいたいものです。

ハリウッド映画を批判する人も多いと思います。私も、あまりに勧善懲悪なアメリカ的な発想に辟易とすることがありますが、それでも、映画作りのきめ細かさはさすがだなあ、と素直に感じます。

2004年5月2日日曜日

映画から構造について考える

音楽作品の構造の問題について、これまでも何回か書いてきました。

実は、今回の話は音楽とは全然関係ないところから始まります。
一般的にいえば、日本の映画はやはりハリウッド映画にはどうしてもかなわないのです。特にSF映画。だからこそ、何としても面白い日本のSF映画に出会いたくて、ついついいろいろ見に行ってしまうのです。
先日、話題の「CASSHERN(キャシャーン)」を見に行ってきました。俳優陣もすごいし、予告編を見ると結構面白そう。世紀末的な世界観にも惹かれるし、宇多田ヒカルのダンナが監督というのもちょっと気になる、ということで公開前から興味は持っていたのです。

さて、感想はというと、正直に言えば見事なくらいはずしたという感じ。邦画の面白くない一典型を垣間見た気分なのです。
まあ別に大して良くなかった、というくらいならこんな文章は書かないのですが、この面白くなさには、非常に語るべき何かがあるような気がするのです。芸術作品としてのこの映画の問題点を、反面教師としてちょっと考えてみたくなるような、そんな気分なのです。
もちろん、この映画を楽しんで見た方もいらっしゃるでしょうから、面白くなかったのはあくまで私自身の個人的な意見ということを承知してください。

結局のところ、この映画の問題点とは構造性の欠如ではないかと思うのです。
全編、プロモーションビデオを作るような感覚で出来ていて、とにかく特殊映像技術のオンパレード、バックミュージックのオンパレードです。全てに力が入りすぎたせいで、逆に全体が平坦になってしまっているのです。おかげでストーリーの起伏が無くなってしまい、表現の力点が伝わってきません。どのシーンももったいぶった作り方で(山場で使われるような技法)、ストーリーのテンポ感も悪く、かなりダレてきてしまいました。
何度か繰り返される反戦メッセージも、メインのストーリーとどうも遊離している感じがするし、取ってつけた感じがしないでもありません。ここで見せられる戦争のおぞましさの表現も、どこかステロタイプな気がします。

大きな作品には必ず構造が必要だと何回か言ってきました。これは、映画であっても音楽であっても同じことだと思います。
一発アイデア的な作品なら、小さい作品、短編のほうが絶対映えるはずだし、逆に小さなアイデアをただたくさん積み重ねて大きなものを作ってしまうと、かなりいびつなものになってしまいます。
大雑把に言えば、面白くない邦画というのはたいていこの構造性が欠如しているような感じがします。場面場面でまるで思いつきで作ったように話が展開していき、ストーリー全体が一貫していなかったり、論理的に破綻していたりこともしばしば。ハリウッド映画ならB級映画であっても、もう少し気の利いた伏線の張り方をしています。
この構造性の欠如はもしかしたら、日本人の特性とも思えるのですがいかがでしょう?

さて、映画のキャシャーンですが、もちろん悪いことばかりではありません。
ハイテクと重化学工業がミックスしたような独特な機械デザインとか、アジア的な雰囲気、町並みや情景の作り込みなど、洋画のSF映画を凌駕する出来だと思います。小物はとてもよく出来ているのです。


2004年4月25日日曜日

楽譜を読む -「いつからか野に立って」篇-

今、某男声合唱団で練習している木下牧子作曲「いつからか野に立って」の楽譜を読んでみます。

まず曲のマクロ構造は、比較的分かりやすいと思います。
主題は「いつからかのにたって~」のメロディ。これが構造を探るキーポイントになります。
��~20小節が、まず一まとまり。これを[A]としましょう。その後の、21~38小節が、[A']。
ここから、曲調が変わります。39~91小節までが中間部の曲想が激しい部分。これを[B]とします。
最後にまた主題が現れます。92~113小節が、[A"]。つまり全体的には [A]-[A']-[B]-[A"] という感じです。構造的観点から見ると、[A][A'][A"]の類似性を際立たせること、また逆にこの三つの違いを浮き立たせること、が曲作りのポイントになってくると思われます。

さて、この曲、私がイメージしていた従来の木下作品といくらかテーストが変わっているように感じます。ディヴィジョンが極力押さえられていること、ユニゾンが効果的かつさりげなく挿入されていることなど、少人数アカペラを意識しているように感じます。
こういった曲の登場を待っていた男声合唱ファンはたくさんいたことでしょう。最近の邦人男声合唱曲では、久々にヒットの予感です。

また、アカペラ邦人曲ではあまり見ない2/2拍子。これはルネサンス音楽を思わせるビート感で、合唱人的には素直に受け入れられると思います。作曲家は緻密な曲を書こうと思えば思うほど、音符の音価が細かくなるものです。そういった傾向が強まると、結果的に、2/2のような拍子から益々離れていくわけです。
ある程度快活な音楽を2/2で表現したこの曲は、そういった意味でもかなり歌い手のニーズを意識しているように感じます。フレーズもテンポの速さを強調する感じではなく、2分音符によるビート感で大らかに流れるようなメロディを中心に作られています。

アーティキュレーション記号で気になるのは、アクセントとテヌートです。
全体的にアーティキュレーション記号の数も抑えられているのですが、だからこそ、わざわざ書いてある記号には、作曲者の強い意図が込められます。
特に[A][A'][A"]では、主題の類似性を表現するための音楽的な要請によるものと考えられます。(例:4小節「てんの」、24小節「それだと」、94小節「ひだりのては」の三つにはいずれもテヌートがついている)
例外としては、34小節の「くるしみが」にテヌートが付いている部分が挙げられます。
また、同母音を表す以外のスラーの使われ方が、この曲中でたった一箇所、29小節「ゆびさきから」に現れます。この二つには、何らかの解釈が必要になってくるかもしれません。

中間部の作りですが、曲的にはかなりドラマチックな展開になっています。
いくつか面白いところなど。
49小節から始まる「このわたしが」の連呼。各パートが現れる拍の間隔が、3→2→2→2→1→1→1→1となります。なんとなく数理的秩序を楽しむ作曲家の姿勢が垣間見えます。もちろん、こういった書法からは切迫感を表現したいことが伝わります。
57小節は「まさに」「わたしは」「しょうしつ」・・・と高声と低声が交互に歌いながら、dim.が指示されています。これは、私が消失していく様子を音楽的に表現しようとしたものだと思われます。マドリガーレで言うところの音画的手法とでもいいましょうか。

73小節以降の連呼表現は、割と邦人合唱曲の典型的な盛り上がり方と言えるかもしれません。非常に面白いのですが、少人数アカペラ的作曲で進めていた曲調が、ここだけ大人数的になってしまった感があります。
とはいえ、この曲のハイライトシーンであるこの部分の作り方によって、聞く側の印象を大きく変えることになるでしょう。
「いきたい」の後の休符が二分休符→四分休符→八分休符になり、言葉と音楽のビートがずれ出したところが、面白い部分です。ソルフェージュ的な難しさに囚われず、スマートにこの音楽が要求する「魂の叫び」みたいなものを表現したいところです。
その後、「みたしていった」では、和声的な開放感が感じられ、この曲の表現の頂点に達します。

以上、どう歌うべきかでなく、あくまで楽譜に何が書いてあるか、という観点で思うままに書いてみました。


2004年4月18日日曜日

合唱ビジネス

合唱を取り巻くビジネス環境についてちょっと考えてみましょう。
とはいっても、実際にそういう世界の内部にいるわけではないので、少し的を外した話もあるかもしれませんが、お許しを。

ビジネスである以上、儲けが出なければ始まりません。儲けが出るということは需要があるということであり、そこそこの大きな市場である必要があります。
合唱の世界で需要のありそうな分野といえば、私の想像するに、まず歌謡曲等の編曲作品だと思います。日本の合唱団全体の数からいえば、多くはママさんコーラスでしょうし、そうでなくてもカルチャーセンターやPTAの集まりでも歌を取り上げることも多いでしょう。最近だとゴスペル、アカペラ繋がりで歌を始める人も多いかもしれません。実際に、新刊楽譜を見れば、編曲の市場はそれなりに大きいことは伺えます。
入り口は何であれ、合唱人口が増えることは良いことです。ここから入った人がさらに合唱の世界に親しんでもらうためには、編曲の質の向上は必要です。質が高いとは演奏が難しいということではありません。合唱の特性を把握し、合唱で最も気持ちよく響くような編曲であることが望ましいことは言うまでもないでしょう。作り手も、また供給側も、合唱オリジナルの世界よりレベルの低いものと捉えずに真摯にこの市場を見つめなおすなら、もっと拡がりが見込めるような気がしています。
ただ、この世界、指導者自体に怪しさがあるという話もあるかも・・・

次に大きな市場はやはりコンクールでしょうか。特に中学、高校。
コンクールの功罪を云々するならば、この市場性を語ることはどうしても必要になります。儲けになるなら、そこに人は群がるからです。コンクールをすれば、関連書籍(楽譜、ハーモニーなどの機関紙)もそれなりに出ますし、講習会、ボイトレ、ピンポイントの指導や審査員への謝礼、また演奏の音源(特急CDとか)等など。
ビジネスという意味では、もう一ひねりすれば、コンクールに対して面白い商品・サービスというのも成り立つかもしれません。団員一人一人を狙うモノか、団に一つあればいいモノかにより市場規模は違うでしょうが、大きな市場であることは確かです。(例えば、喉を保護するための「合唱用マスク」とか^^;)

ところで、合唱楽譜の市場性とはどんなものでしょう。
私の想像では、オリジナル合唱曲は、ほとんど採算が取れないのではないかと思います。例えば、1500円の楽譜を1000部売っても売り上げは150万円。卸値にして、印税、紙の原材料費、印刷代、それから浄書等の制作費(これはバカにならないでしょう)を引けば一作品あたりの利益はどれくらいになるでしょうか。
1000部というのは少ない設定と思われるかもしれません。もちろんある程度売れる楽譜ならいいですが、その一方で圧倒的な数のほとんど演奏されない曲というのはあります。下手をすると1000部だって出ません。おまけに、合唱団単位で楽譜をコピーなどされれば、メーカにとっても大変な痛手です。
実際のところ、この程度の数量だと、演奏会情報から、合唱団できちんと楽譜を買ったかどうか、コピーしたかなんてある程度わかってしまいます。本気でコピーを防ぎたいのなら、そこまで調べてもよいような気がします。
上記のようなことを考えると、メーカー側もだんだんとモノを作らない仕組みを考えるようになります。それが、昨今流行のオンデマンド出版ということになります。これなら、楽譜制作費だけで済み、売り上げからコストを引いた利益が制作費を超えれば儲けになり、在庫の不安を感じる必要はなくなります。

だからこそ、この辺りはもう少しメーカー側が工夫すれば、面白い商品を作れると思うのです。
オンデマンドなら、組曲の中の一曲だけ、ピースにして売ってもよいし、楽譜の表紙の色なども合唱団の要望に答えるなどのサービスもありでしょう。またその会社が持っている版権内なら、望みの選曲による愛唱曲集の制作なども出来るかもしれません。つまりオンデマンドからもう一歩進んで、オーダーメイドという発想にしたらどうかということです。
そのために、楽譜売り場にはサンプル品だけ置いて、各店でオーダーメイドが発注できるような仕組みも必要になるでしょう。

お客側だけでなく、楽譜メーカ同士の関係として、例えば版権自体を売買するような市場とかはあり得ないでしょうか。各社が、売れ線の組み合わせ楽譜を出すために、他メーカの版権を買い取るなんていうことはあったりするのでしょうか。

2004年4月13日火曜日

演奏会の準備でやったこと

ヴォア・ヴェール第二回演奏会が終了しました。ご来場された皆様、大変ありがとうございました。

演奏会で思ったことといっても、演奏に関してはいつも反省ばっかりになってしまうので、今回は私がやった雑用のことなど。

ある程度の大きな合唱団なら、技術スタッフと運営スタッフが分かれて、演奏会の準備の細々なことなどは担当を決めてやったりするものだと思いますが、ヴォア・ヴェールくらい小さい団だと、少人数でさっさとやってしまったほうが楽だったりします。
そんなわけで、代表の岡さんと私で今回はほとんど演奏会の準備をやりました。前回は、準備担当者もいたのですが、今回はずっと休団中だったので本番のステマネだけやってもらいました。
ちなみに、岡さんは宣伝関係。チケットの出入り、お金関係は私の妻が担当。

まずは昨年暮れ辺りに後援取り。
今回は面倒だったこともあり数を絞って、宣伝で効果のありそうなところだけ後援を取りました。市内の公民館にチラシを置くために浜松市文化協会、それからマスコミ関係は静岡新聞。

それから、チラシ、チケット、プログラムの印刷モノ。
チラシ、チケットがないと演奏会が始まりません。いつも悩むのは、チラシのデザイン。これこそ、絵心のある人に頼めばいいのだけど、ダラダラとなりかねないのが心配で結局自分でやってしまいます。しかし、デザイン系はやっぱり自信がなくて、今回はいまいちだったかも(auの市松模様の携帯を意識している^^;)。

プログラムは、第一回のときと同様、CDのライナーノーツのサイズ(12cm×12cm)。CDでも聞きにきたようなつもりで、という意味と、その後CDを作ったときにケースにうまく収まるようにという実益を兼ねています。今後もこのサイズは、ヴォア・ヴェールの演奏会のトレードマークにしたいと思います。
問題なのは、他の団体のチラシを挟んだときの見てくれですが、まあこちらはお客さんに我慢してもらいましょう。
歌詞は今回は、外国語の曲だけ訳詩を載せて、日本語の詩は著作権処理が面倒だったので、プログラムに載せませんでした。アンケートでは欲しいという人もいたけど、やはり歌だけで歌詞を聞き取れるように歌いたいものです。

その著作権処理。
今回は私の初演作品もあるので、演奏会自体の申請の前に、先ず自作品の作品登録を行います。
去年の暮れ辺りに、インターネットを使うJASRAC作品登録の申請を行い、自宅で簡単にオンライン作品登録が出来るようになりました。実は、それまで全然作品登録をやってなくて、最近になってようやくわずかな著作権収入を得ています。
というわけで、そのオンラインの作品登録システムで、自作品の登録を行います。
そして、その後で、今度は演奏会の作品使用料の申し込み。こちらも、インターネットでダウンロードした書式に必要事項を書き込んでFaxするだけ。あとは、利用明細と請求が送られてきます。
今回は、自分で作品登録して、自分で使用料を払うというなかなか他の人はやらないことを一人でやって楽しんでいます。でも、結構JASRACって手数料たくさん取るんだよね。

そんなわけで、今回の初演作、詩集「食卓一期一会」よりの演奏、楽譜などに興味のある方は、ご連絡ください!

2004年4月4日日曜日

英語の発音

先日、ヴォア・ヴェールの練習で、英会話の先生に英語の発音をみてもらう機会がありました。

よく合唱している人の間では、英語の歌の発音は難しいなんて言われますが、そうはいっても(しゃべれないにしても)学校教育で英語を習ってきた優位は揺るがないと私は思っています。
もちろん、イタリア語のように、ほとんど発音のことは気にすることがないくらいの言語もありますが(イタリア語の曲の場合、マドリガーレであることが多く、発音よりアクセントのような語感に気を使いますね)、それでも英語の取っ掛かりは悪くないはずです。

しかし、逆に英語が世に溢れているからこそ、本来の発音に近づけないという状況ももちろん存在するわけです。
世にあまりに多いカタカナ英語のため、ネイティヴから見ると英語っぽくない発音が蔓延しています。それをそのまま歌を歌うときにやってしまうのです。

今回、先生に最も何度も指摘された発音は「th」の子音の発音です。
これはご存知の通り、上下の歯で舌を挟み、後ろに舌を抜いていくときの子音なのですが、当然こんな子音は日本語にはないので、私たちは、「ザ、ディ、ゾ」などのカタカナでこの発音を発想してしまいます。現実に、カタカナ化された英語も世の中に溢れかえっています。
特に良くないのは「the」が「ザ」になること。
あまりに日本人の中でこの慣習が根付いてしまっているので、「ザ」という発音の束縛からなかなか逃れることができません。私は以前より、「ザ」っていうくらいなら「ダ」のほうが近い、と言ってきましたが、計らずも先生からは相当注意されました。
特に、「z」の子音と近接するときに、区別がつかなくなって、ネイティヴ的にはかなり気になるようです。
例えば、「Now is the month of Maying」という歌詞の、「is the」の部分。カタカナ的に「イズザ」になり、子音が結合してしまって「イザ」ぐらいに歌ってしまいます。しかし、「z」と「th」の発音は明らかに違うわけで、「イズ」と歌った後に、すぐに舌を前に出して「th」の発音に移行する必要があります。

もちろん、「r」と「l」の違いも指摘されました。これは、英会話の先生ならお決まりの指摘なのかもしれません。
日本人が歌の中で普通に「ラリルレロ」といえば、大体「l」の発音に近くなるわけですが、「r」っぽく発音するためには、カタカナで言えば「ゥ」(小さいウ)が付くような感じがしました。ただ、これは実際の歌の中ではちょっと難しいです。先生に言われたわけではないですが、語頭であれば少し巻いてしまうという手もあると思います。まあ、意見は分かれるところですけど。

それから「f」と「h」。何気なく歌っていると、気が付くと「f」が「h」になってしまっているわけです。
ただ私見では、日本人でも「f」の発音は比較的浸透していて、下唇を噛みながら、という発音は日本語になくても、割と出来るような気がしています。ですから、実は逆のパターンで「h」を「f」にしてしまう、という間違いも見逃せません。無意識のうちに、英語っぽくやろうとしてしまうのですね。

さて母音ですが、私たちが心配していたほど母音の問題はありませんでした。むしろ、問題あるとしたら発声のほうかもしれません。
ただし、一つだけ注意されたことがあります。短母音の「i」は、日本人の感覚だと、「イ」と「エ」の中間くらいになったほうが英語っぽくなります。
「this」「still」「bitter」など、あまりに日本的な「イ」だと英語っぽく感じられません。少し「エ」を混ぜると、ちょっと英語っぽい発音になるようです。

2004年3月28日日曜日

MIDIを使う -音楽のブレ-

MIDIでデータを打ち込むとき、楽譜どおりのタイミングで入力されただけでは、どうしても機械っぽい演奏になることは避けられません。これをいかに音楽的にしていくかを考えることは、私たちが音楽的だと思う音楽とはいったいどのように演奏されるのか、を考えることに他なりません。
例えば、8ビートのリズムでハイハットが「チッチッ・・・」と1小節あたり8回刻んでいるとします。全ての音を同じ音量で打ち込むと、もうまさに機械的なノリになってしまうわけです。このとき各音のヴェロシティ値を「強弱中弱強弱中弱」という感じでばらけさせてみます。すると、かなり人が演奏した雰囲気が出てきます。
楽譜どおりのタイミングで打ち込んでも、音量制御をするだけでかなり音楽的にはなってくるのですが、クラシックのようなアゴーギグの激しい音楽の場合、やはりタイミングもずらしてあげないと不自然な感じにはなってしまいます。
以前も書いたような6/8拍子のリズム感の例もありますし、メロディパートならかなり大胆な制御をしてあげた方がよいでしょう。

いっぽう、アマチュア演奏家にとって最も切実な音楽的スキルは楽譜どおりに演奏するということです。
特にテンポが速くて音符が多いようなパッセージでは、メトロノームを使うなどして、何度も何度も練習します。(合唱の人も、こういう努力が必要だと常々思うのですが・・・)
演奏レベルがそれほど高くない人は、テンポ感も一定ではないし、そもそも楽譜どおりの音を出すことにも難儀します。レベルの差の程度はあれ、実際には世の多くの演奏愛好家は、いかに楽譜どおりに弾けるか、ということが大きな関心事だと想像します。

音楽的な演奏というものを考えるときに、MIDI打ち込み時のアプローチと、自分が演奏するときのアプローチはいわば、全く別方向のベクトルを持っていると私は思うのです。
そういう意味で、この両方を体験することは、音楽の真実を極めようとする人にとって非常に有用ではないでしょうか。
実際のところ、音楽的な演奏を研究するためにMIDIの打ち込みをやっている人というのは聞いたことはありませんが、仕事柄、ものすごく凝りに凝ったMIDIデータを見ることもあり、その中身を見ると、音量、タイミングだけでなく、ピッチベンドによるピッチのブレの表現なども入っていて、びっくりすることもあります。一般的には、仕事でもなくそんなデータを作ること自体、オタクな世界の話で、健全な音楽活動とは思われないフシはありますが、それでもこういう作業は決して無意味なことではないと思うのです。

音楽の世界ではどうしても曖昧で主観的な評価がまかり通ってしまいます。
これはこれで仕方のないことではありますが、どこか心の片隅で、音楽の良さを客観的に評価したい、という気持ちも存在します。そのためには、人間らしい演奏のブレとは何なのか、そういうことを学術的に扱うようなことがもっとあってもいいような気もしますが、それは音楽の神秘性を剥ぎ取るような行為にもつながり、演奏家、評論家にとってはそれほど嬉しいことでもないのかもしれません。

2004年3月22日月曜日

「白い巨塔」の人間模様

全部というわけではないけど、結構見てました。フジテレビでやっていた「白い巨塔」。
最初はなんだか、それぞれのキャラがステレオタイプな人物像のように感じていたけど、だんだんとリアルな感じに思えてきて、なかなか楽しめたテレビドラマだったと思います。

際立ったキャラと言えば、やはり主人公の財前五郎(唐沢寿明)。
出世をすること、そして権力を得ることこそ自らの生きる目標だと考え、その目的のために一途に行動する極めて上昇志向の高い人間。いまどき、こんな見え透いた行動を取る人っているか、と私には感じられるのだけど、もちろんテレビだから極端にするというのはあるけど、意外といるのかもという気もしてきました。
私はメーカーの技術屋さんですが、こういう職場には、あまり財前的な人間はいないのでしょう。しかし、実際に世の中に起きている事件とか見ると、そんな世界もあるのかなあ、という気になってきます。
もちろん、社会の中で生きている以上、なんらかの上昇志向的な気持ちは必要だとは思うわけですが、その気持ちが過剰になると、他人を蹴落としたり、お金で買収したり、手下をコマのように扱い、上におもねるような態度を取ったりするようになる。そういう行動が、典型的に描かれていて、こりゃ誰が見ても嫌われる奴だよなあ、と私には思えるのですが、そうでもないのでしょうかね。

その対極が、財前の友人である里見脩二(江口洋介)。
これもまた極端です。自分の所属する組織に背いてまで、正しい事を曲げようとしない正義の象徴のような人物。これなどは、会社で行われている不正行為などを、自分が見て見ぬふりをできるのか、そういう問題提起を私たちに対して与えているのかもしれません。
しかし、そのために自分の社会的地位が危うくなるのなら、普通は組織に背きませんよね。特に日本的な社会なら。
もっとも今なら、匿名で内部告発というのもアリなので、昔に比べれば多少は精神衛生上良くなっているのかもしれませんが、なかなか職場の人間を敵に回すような行為はそう簡単にはできないでしょう。

このある意味、極端な二人が、なぜか学生時代からの親友で、反発しあいながらも、結局お互いが一番気になる存在だというこの設定、なんとなく女性の視点が感じられます。
女性作家って、結構、男の友情みたいのが好きだったりして。確かに、原作は山崎豊子、脚本も井上由美子と女性ですね。(ちなみに、井上由美子って「北条時宗」の脚本も担当)

それからもう一つ、このドラマの面白さは、やはり癌の専門家である外科医が、最後に癌で死ぬ、その因果というか、誰もが死ぬ間際の財前の気持ちを考えたくなる、そういう部分にあるのかなあ、と私には思えました。

2004年3月14日日曜日

MIDIを使う -コンピュータは合唱団になれるか-

映画の世界ではCG(コンピュータグラフィックス)がもう一般的になり、SFなどで実写ではあり得ないような映像を作ることが出来るようになりました。ここ10年くらいのCGの進歩は凄まじく、今では素人ではわからないほど、実写のクオリティに近づいているような気がします。俳優はブルーバックのスクリーンの前で演技をするだけ。あとはCGの映像と合体させれば、その場面は完成です。まさに映画作りそのものがバーチャルで完結できるシステムです。

音楽の場合、これまでも言ったようにMIDIのおかげで、早くから人が演奏しなくても音楽が作れる環境が出来ていました。
それに加え、最近はハードディスク内に波形を溜め込んでおき、そこから直接音を出せるようになりました。そのおかげで、大量に波形をコンピュータ内にストックすることが出来るようになり、リアルにサンプリングした音源を使えば、生と違いがわからないくらいのクオリティの音楽製作は可能になっています。
一番難しいと思われるオーケストラサウンドでさえ、各楽器のいろいろな音域、奏法、強弱ごとのサンプリングをしたデータが販売されており(かなり高額なもので素人には手が届きませんが)、これを使えば本物のオーケストラと区別がつかないほどのサウンドを作り出すことが出来ます。実際のところ、最近は映画音楽などでも、本物のオーケストラを使ってないケースも増えているのではないでしょうか。

音楽において、バーチャル化が適用できなかった最後の砦が人間の声です。こればかりは人を集めて、歌わせるしか方法がありませんでした。
ところが、ついに人間の声についても、かなりのクオリティで自動に作れるようになってきています。既にご存知のかたもいるかもしれませんが、ヤマハが発表したVOCALOID(ボーカロイド)がその技術を利用した製品です。
上のページで直接、内容を見てもらえば良いのですが、簡単に内容を紹介すると、MIDIのような楽音情報に加え歌詞情報を与えることによって、実際に歌っている声を自動生成するというソフトなのです。
ここで出てくる声は、歌声ライブラリというデータベースによって変えることが出来ます。この歌声ライブラリとは、例えばある歌手にいくつかのフレーズを歌ってもらって、その中の子音、母音、歌い口などの情報を切り取りデータベース化したものです。ボーカロイドはこのデータベースを元に、音程と歌詞情報から全く別の歌を生成していきます。
ちなみに、これはヤマハの製品として世の中に出されるわけではありません。上で言ったデータベースを作ってくれる他社にライセンスを供与する形になります。従って、実製品はそれぞれの歌声ライブラリを作るメーカから出されることになります。

私も仕事柄、何度か実際の音を聞いたことがあります。(上記のページでもサンプル音を聞くことが出来ます)
もちろん、本物の歌声と区別がつかないほど完璧というわけではありません。特定子音が奇妙に聞こえたり、シラブルの繋がりがおかしかったり、やはり時々電子的な音に聞こえたりします。しかし、従来の電子的に合成された声のような、一本調子な感じとか、奇妙な電子的な感じではありません。うまくピンポイントで使えば、何気なしに音楽を聞いたならコンピュータで合成された音とは気が付かないレベルまで達していると思います。

これを何に使うかは、むしろアーティスト次第です。ボーカルはアーティストらしさの最も基本的な部分ですから、メインボーカルを差し替えるようなことはまれだと思いますが、例えば、実際の音楽製作の現場で、バックコーラスを雇うよりボーカロイドの品質で十分と判断できれば、こちらのほうが制作費が安く上がります。恐らく、そういった現実的なシチュエーションで使われることが多いと思います。
もちろん、この声自体をフューチャーした現代音楽的、実験音楽的な利用もあるでしょう。
まだ歌声ライブラリの数は少ないですが、音楽製作のコストダウンのために使われるのなら、合唱団の歌声ライブラリもいずれ作られると思います。そうなると、パソコン上で、実際に歌ってくれる合唱の打ち込みも可能になります。
実際、合唱の音源って、選曲のための参考資料に使いたい場合がほとんどで、ある程度曲の雰囲気が分かればいいのならボーカロイドで作っちゃえばいいじゃない、という選択肢も十分ありえます。
さて、誰かこの商売してみませんか?(選曲資料用邦人合唱曲シリーズとか^^;)

2004年3月7日日曜日

MIDIを使う -フランジング問題-

MIDIで打ち込みをするときの具体的なテクニックについて、ちょっと書いてみます。
興味のない人は多いとは思うけど、私は音楽活動を続けるならMIDIを知っていると結構便利だと思っています。これは単に日ごろの音楽活動の中でMIDIを活用するということだけでなく、打ち込みをやっていると、漠然と感じていた音楽性の良し悪しに、数値的な指標を感じることが出来るようになるのです。これって、理系的に音楽を解析したいと思う人にとって、なかなか興味深い経験だと思うのです。

例えば、6/8拍子の曲を楽譜どおりにベタ打ちしたとします。まずは音楽性も何もないつまらない音の羅列です。
次に、1拍目と4拍目の音を少しだけ大きくします(ヴェロシティ値を上げる)。そうすると、少し6/8拍子のリズム感が出てきます。さらに、このリズム感を極めようとするなら、1拍目、4拍目の音符を少し長めに(後ろにだけでなく、少し前のめり気味にも)設定します。もちろん、その分、他の音符は縮まります。
これ、真面目にやるとかなり気が遠くなるような作業ですが、ここまでやればMIDIの表現力は格段にあがるでしょう。ここで得た教訓は、実際の演奏の場で実践することにより自分自身の音楽性も高まるかもしれません。

MIDIで音楽性を高める話題はきりがありません。
また、思いついたときにでも書きますが、今回はフランジング問題について紹介しましょう。
MIDIで打ち込みした人なら経験あるのが、このフランジング問題。
例えば、合唱の打ち込みで、ソプラノとアルトがユニゾンである場合、ソプラノで打ち込んだデータをアルトにコピーすれば、簡単にデータ作成ができます。このとき、ソプラノとアルトを別音色で設定してあれば問題ないのですが、MIDI上で全く同音色に設定すると、ユニゾンで分厚くなるはずの音が、なぜかシュワシュワしたり、パワー感のないふ抜けた音になってしまうのです。
全く同じ音が同時に出るのなら、音量も2倍になって良いはずです。普通はそう思うのですが、ここに電子音ならではの悲しい宿命があるわけです。
原因は二つあります。一つは、シーケンサのデータ上で同時に発音するように設定されていても、実際には同時に発音していないという問題。ソプラノパートの発音情報と、アルトパートの発音情報は、音源に別々に送られてきます。現在のMIDIの転送レートでも 1msec 程度の遅れがあるし、また音源の発音処理スピードによっては、もう少し発音時間に差が出ます。
もう一つの原因は、同じ音色だと、電子楽器なら全く同じ波形を出すという当たり前の事実があります。
これら二つの原因を合わせると、全く同じ波形を少しだけずれたタイミングで発音することになるわけで、このとき特定周波数帯域で波形の干渉が起こってしまうのです。なぜ起こるかは、まあここでは置いておきますが、これは電子楽器ならではの問題と言えるでしょう。

この問題に対する決定的かつ簡単な方法はありません。上の6/8拍子の例のように、涙ぐましい努力で、このフランジングを少しずつ取り除くしか手がないのです。
どのようにして取るかというと、微妙な発音の遅れはどうしようもないので、音色を少し変えたり、ユニゾンであっても、微妙に発音タイミングを変えたりして、データをばらけさせるという地道な作業を行うのです。単純にばらけさせただけでは、フランジングの度合いがしょっちゅう変わるだけで本質的には変わりません(ただし、かなりずらしても音楽的に問題なければ、これも効果的です)。これにプラスして、フィルターで音色の度合いを変えたり、ピッチを微妙に変えてあげたりします。
私の場合、昔はそこまで気合を入れたりしてましたが、最近は面倒で、例えばアルトパートにはコピーせず、ソプラノの音量を少しだけ大きくするなどしてました。ただ、こうすると楽譜情報とMIDIデータが同一でなくなり、例えば、音取りテープの作成などでは逆に不便になってしまいます。
最近は、フランジングももうどうでもいいや、というちょっと投げやりな感じになってきました。(^^;
ちなみに、ものすごい単純で、かなり効果のある方法が一つだけあります。全部、リアルタイムで手弾きで録音するのです。これなら、データは不揃いになるのでかなりフランジングは防げますが、弾けるくらいなら打ち込みなんかしない、という突っ込みはあるかもしれません。

この問題って、意外とメーカー側が本腰で対応しているとは思えないのです。
音源側で対策するのは難しいとしても、シーケンサーの機能で、フランジング対策用の機能とかあればいいのに、とか思ってしまいます。

2004年2月29日日曜日

MIDIを使う

いきなり結論なんですが、やっぱり生の音楽が一番いいんです。
自分が書いた楽譜を生で演奏してもらったとき、やっぱり望外の喜びがあります。それは、何人かの人が自分の作品のためにわざわざ練習して、演奏してくれたという気持ちだけではなくて、実際に音を生で聞いたその音像そのものに感激するのです。合唱の場合、耳が肥えてしまったせいもあり^^;、その度合いは若干減るものの、それでも生の音響で聴く音楽というのは、それだけで人の心を揺さぶる何かが絶対にあります。
自分が初めて合唱に快感を感じたのも、恐らくそんな経験から来ているのではないかと思うのです。決められたスコアどおりに歌えば、それらが有機的に結合し、大きな意味のある音が生まれる、そんな快感が音楽のアンサンブルにはあります。

前置きが長くなりましたが、私のこのサイトではいくつかのMIDIデータが聞けるようになっています。
もとよりMIDIの表現力は生に比べるべくもありません。しかし、パソコンで音楽を聴く人は、そんなことを考慮してくれるはずもなく、チープなMIDIの奏でる音楽を聞いて、「なんかつまんない音楽だなあ」なんて思ってたりしないだろうか、とすごく不安になってしまうのです。
これは、実際にMIDIの打ち込みをしたことのある人なら分かってもらえると思うのですが、例えば自分の大好きな音楽を打ち込みで再現したいとき、ベタ打ち状態(テンポもボリュームもほとんどいじらず、音符だけを入力した状態)だと目も当てられない、つまらない音楽にしかならないものです。
ここから、どれだけ時間をかけて、こまかくテンポを揺らしたり、ボリュームをいじったり、タイミングをずらしたりするか、によってMIDIデータが少しでも聞けるレベルになるかが変わるわけですが、もうこれはDTMマニアの世界です。
私のように作曲の道具に使っている程度だと、はっきり言ってそこまでやる気にはなれないし、実際、MIDIを作曲、編曲、あるいは教育などのツールとして使っている人なども同じような想いを感じていると思います。

以前もMIDIについての談話を書きましたが、MIDIそのものの敷居の高さもあり、実際には多くの人がMIDIについて理解してはいないし、パソコンで簡単にMIDIが聞けても、その音楽のショボさがどこに由来するのか気付くべくもありません。
私としては、仕事でもこの世界に関わる身として、いろいろと思うところがあるのですが、実際のところ、多くの人がMIDIを理解して使いこなしてもらうような方向に市場が向いていないのは確かなのです。現在の電子楽器にはたいていMIDI端子はついていますが(もっとも最近はUSB端子でMIDIをやり取りします)、MIDIを活用しているのは、ポピュラー系の音楽製作の用途がほとんど。これらはDAW(Digital Audio Workstation)と呼ばれるシーケンス&波形編集ソフトをホストアプリとしたシステムの中で使われるのが今のトレンド。
MIDIが依然こういった市場向けにしか考えられていないのは残念なことで、私は結構、楽譜をベースとしたクラシック系の音楽にももっとMIDIが使われるようなシチュエーションは存在すると思っているのですが、あまり一般にはそうは考えられていないようです。

合唱で言えば、MIDI音源による音取りテープの作成なんて活用法があります。私は大学時代、選曲のために、当時のシーケンサで合唱曲を何回か打ち込んだことがあります。今は、当時よりずっと楽になっていますし、合唱団でMIDIによる音取りテープを作るというのも、そこそこ広まっているように思いますが、それでも、もっとMIDIの使い勝手や表現力が高まれば、さらに使われるようになると思うんですけど・・・。

2004年2月22日日曜日

4度堆積和音とその理論化

新しい音楽を作るために4度堆積で和音を作ったらどうか、などと言いましたが、実際のところ、この試みは、古くは既にドビュッシー、スクリャービン、シェーンベルグ等によって試されたと言われています。要するに100年も前から、いろいろな作曲家が考えていることなんですね。

私なりに、4度堆積ベースで作られる音楽を、ちょっと類型化してみましょう。
一つは、3度堆積ベースの音楽の補完的に使われるような場合。簡単に言えば、テンション音を4度堆積で追加するというような方法。結局は3度堆積和音を4度堆積的に記述するわけで、ドミナント、トニックなどの和音の関係性は通常の機能和声内で把握できる範囲となります。もちろんこの場合、テンション音の度合いが高くなり、ジャズっぽい雰囲気になっていくと思います。
たいていの理論書で出てくる4度堆積というのは、この方法が記述されていることが多いのですが、基本的にはアッパー・ストラクチャー・トライアドみたいに、テンション音の加え方を類型化して手グセ化するための、ジャズ・フュージョン的、インプロビゼーション的な理論になっているように感じます。

クラシック音楽的に4度堆積といった場合、もう少しアバンギャルドな雰囲気を漂わせ始めます。
ただし、その中でも保守的な使われ方としては、ダイアトニック音のみで(要するに#やbがない)音楽を構成するときに、この4度堆積を使うやり方。うーんと、うまく説明できないんですが・・・、ドビュッシーの「沈める寺」みたいな感じというか。
まあ、この曲も3度堆積の和音中心で出来ているのですが、時折「ソ、ド、レ」みたいな、sus4っぽい和音が出てきます。通常、sus4は長3和音か短3和音に解決するわけですが、もし解決されないsus4が出てきたら、4度堆積的な発想をする必要が出てきます。なぜなら、4度堆積和音を展開すると、sus4和音になるからです。
ダイアトニック音中心で音楽が構成されれば、そこには明確な調が存在します。調性を感じさせながら、浮遊感のある4度堆積を使うことによって、和音というよりは、スケールで音楽が作られているようなそんな雰囲気を感じさせます。個人的には、結構好きな響きなので、いろいろと研究してみたいとは思うのですが。
ときに、解決されないsus4和音は日本的な雰囲気を漂わせたりします。これも多用するとセンスを疑われますが、上記のダイアトニック的4度堆積が、場合によっては民族音楽的な感じを出すようにも思えます。

類型化といっても残るは、その他のもっと複雑な使い方。ダイアトニック音中心でなければ、もはや響きはますます抽象化の一途をたどり、かなり現代的な雰囲気を醸し出します。こうなると各作曲家のいろいろな方法が出てくるわけですが、果たして聞く側がそのような音楽を期待しているかは疑問の余地はあります。
例えば、4度堆積で構成音が3つまでなら上記のようにsus4的に捉えられるのですが、構成音が4つになるともはや3度堆積ベースで換算することが出来なくなり、既知の響きからは遠ざかっていくでしょう。

そう考えてみると、4度堆積和音は100年以上前から使われているにもかかわらず、ポップスなども含め必ずしも一般化している響きとは言い難いのではないでしょうか。
確かに、音楽のスタイルに関する流行り廃りは当然あるものですが、音楽が理論的に進化したといえるのは、もしかしたら古典期くらいまでで、現在のほとんどの人々が新しい音楽に求めている気持ち良さというのは、音の複雑な構成や抽象化した響きではないような気がしています。100年経っても公式化され得ない理論は所詮メインストリームにはなり得ないのかもしれません。
音楽理論というのは、それ自体で独立した世界観を作ってしまいがちです。しかし、理論などとは無縁に音楽を楽しむ大多数の人々がいることは厳然とした事実であり、この4度堆積の利用に対しても、常に音楽の気持ちよさを忘れない程度の節度を持って使うべきだとあらためて思います。

2004年2月15日日曜日

4度堆積和音

通常、和音は3度の堆積によって作られます。
まずはわかりやすく表にしてみましょう。

和音の構成音 root 3rd 5th 7th 9th (11th) 13th
階名 ド ミ ソ シ レ (ファ) ラ

13th の3度上は root(根音)から2オクターブ上のドになるので、3度堆積の和音の構成音は13thまでということになります。
見てわかるように 13th まで、3度重ねで全部の音を使うと、結局「ドレミファソラシ」の音階の全部の音を含むことになります。ちなみにファはrootに対してアヴォイドノートとなるので、テンション音で11thが使われることはまずないと言っていいでしょう。
と、ここまで読んで、今日読むのはやめるかと思ったあなた、ちょっと待って!とりあえず面倒なところは読み飛ばしても話はわかるようにするつもりですので。

さて、新しい音楽を作曲してみたい、と思う人なら、コンテンポラリーな音楽にも多少は興味はあるはずだし、自分なりの新しい音の組み合わせ方を開発してみたいと思うものです。広く知られているものとしては、シェーンベルクの12音技法とか、そこから発展したセリー音楽などがあります。
それならば、先ほど言ったように現在の和音の作り方が3度の堆積なら、3度以外の堆積があったっていいじゃない、というアイデアが浮かびます。
ちょっと具体的に考えてみると、2度堆積はほとんどクラスターみたいになって和音の識別が難しそうです。5度を超えると3度あるいは4度の組み合わせで記述できることになり、堆積していることそのものの意味が希薄になります。そう考えると、4度堆積ベースで和音を作ろうというアイデアが、残されることになります。

実は、上のような筋道でなくても、4度堆積というのはジャズ的にも使われることがあるようです。以前書いたモードの話と関連が出てくるのですが、調性を曖昧にする象徴的な方法として、モード的旋律と共に良く使われます。
例えば、「ミ」「ラ」「レ」と和音を弾いたとき、rootが「ド」でも「レ」でも「ミ」でも「ファ」でも、どんな音でもそれなりのテンション音(7th,9th,13th)に当てはまります。4度堆積による和音構成が、どのrootの和音でも使えるということは、逆に各和音の機能上の意味が希薄になることに繋がります。その結果、4度堆積を連続することによって、機能和声感が減ることになるわけです。

この4度堆積の一つの魅力というのは、決して耳障りな不協和音にならない、ということがあると思います。調性から離れるというと、へんてこで汚い和音が連続する現代音楽的なものをイメージしますが、4度というのは5度の裏返しであり(「ド」「ソ」は完全5度、裏返った「ソ」「ド」は完全4度)基本的に協和音程だと言えるでしょう。
協和音程をベースにしつつ、既存の機能和声から離脱できるということは、新しくかつ美しい響きを求めようとする作曲家のチャレンジ精神を刺激するのに十分なものです。

私が、4度ベースで作られた合唱曲を初めて意識したのは、数年前に某男声合唱団で歌ったヒンデミットの曲。かなりシブい音がして、一般ウケはしそうにはないものの、ちょっと興味を感じました。
最近、鈴木輝昭氏の楽譜を何冊か買ったのですが、この人のハードなアカペラ曲も、かなり4度堆積ベースの香りが漂っています。以前より、一体この音の組み合わせ方は何なんだー!ワケ分からん!と思っていたのだけど、これに気付いてから、ちょっとばかり親近感を感ずるこのごろ。


2004年2月9日月曜日

子供文化の精神的故郷-遠足-

日本は子供の文化だ、という先週の話、一人一人が子供に対して、どんな思いを抱くのか、そんなところにも反映しているように感じます。もし、自分の人生の好きな年代はと聞かれたら、多くの人が子供時代と答えるのではないでしょうか。社会全体でも、子供を見る眼差しというのは基本的に暖かいものです。

時々、会社に向かう電車の中で、小学校低学年、あるいは幼稚園と思われる大量の子供集団と遭遇することがあります。身なりからすると、遠足というわけでもなさそうなので、なんらかの課外授業なんでしょう。それにしても、もうその騒ぎといったらありません。もっともうるさいのは、ほとんどはあちらこちらで騒いでいる子供を先生が大声で注意している声だったりするのですが。
いくらうるさいと言ったって、あれだけの子供相手に、一般客はどうすることも出来ませんから、ただ黙って耐えるしかありません。そういう光景をほほえましく感じて、思わず子供に話しかけてしまう人徳のある人なら良いのですが、私のような狭量な人間は、窓を見てしょうもないことで奇声を上げたり、吊り輪でぶら下がってたりするのを見るたびに、一人イライラを募らせているわけです。

自分が子供の頃、どうだったかなと思えば、遠足で電車に乗ったりするのは、ほんとに楽しいことだったように思うのです。
そりゃ、たくさんの人数で、学校以外の場所に行ったら、一人で行くよりも絶対楽しいですよね!
もちろん、子供の頃なんて、自分がどれだけ周りの大人に迷惑をかけてたかなんて思いもしなかったことでしょう。先生に注意されたって、それで周りの人の迷惑まで思い至るような賢い年齢であるはずもありません。

それで、もしかして、遠足、あるいは修学旅行といった学校での行事って、日本人的メンタリティの醸成に非常に大きな影響を与えているのではないかとちょっと思ったりするのです。
もし、あれを文字通り、街に出ることは、電車の乗り方や公共のマナーなどの社会勉強をするためだと思っていたら大間違いだと思います。皆さんは、遠足で、自分の社会性、公共性が向上したと思いますか?事実は逆じゃないでしょうか?
つまり、自分が大きな集団の中にいて団体行動を取るならば、何でも許されてしまう、という感覚を身に着けてしまったりしないでしょうか。逆に、遠足に遭遇した側は、大挙して人が押し寄せれば何も言えないわけで、子供が大量に公共の場にいたらほほえましく思うことを強要されることにつながります(ちょっと被害妄想的^^;)。
まあ、日本人の海外旅行といえば団体の旅行で、大人になっても修学旅行気分は消えないものです。それでも、旅行の準備やもろもろを何から何まで自分でやるのは面倒だし、たくさん人がいれば安心だし、などと思って、ついつい団体旅行で行ってしまうのはやはり学校時代に育てられたメンタリティの賜物ではないかと思ってしまうのです。そういう行動は、欧米的な洗練された旅行のスタイルとはやっぱり違うものでしょう。

オバサンになってもオジサンになっても、集団になれば子供のようにうるさくなるものです。たくさんの人の中にいることによって、気分も大きくなります。傍から見ると迷惑なものですが、中にいると気が付かないものなのでしょう。
日本人が集団でいるときの社会的、公共的なモラルの低さは、実は遠足に起因しているのではないかと、ちょっとばかり私は疑っています。

2004年2月1日日曜日

大人の文化、子供の文化

今や、日本発のアニメ、マンガは世界中に輸出され、一つの文化として日本が世界に発信できる重要なものの一つになっているような気がします。
当然、日本でアニメ、マンガがこれだけ流行ったのは需要があったからであり、何か日本人の心にフィットするものがあるのかもしれません。なぜ、日本でアニメやマンガの文化がこれほど発達したかは、いろいろな論がありそうですが、私は日本人が根本的に持っている幼児性指向みたいなものの反映ではないかと思ったりするのです。
日本人の幼児性といってもにわかには同意してもらえないかもしれませんが、それでも人々が好んでマンガを読んだり、女性がキャラクターグッズを集めていたり、10代のアイドル歌手がもてはやされたりするのを見るとそんな気がしてしまいます。
子供は社会性がまだ低いので大人がいろいろな場面で注意してあげる必要があります。そう考えると、子供に注意してあげるような余計なお世話的仕組みというのが、社会全体で見て結構多いと思います。横断歩道をはじめ、交通関係など、繰り返し繰り返し注意を促すような音が出されます。「クルマがバックします」とか「左に曲がります」とか、そんなことを言いながら走っているトラックも時々あるし、電車内でも、映画館でも、演奏会でも必ず「ケータイの電源は切ってください」とか、まめに注意されます。まあ、それで気が付いて切ることも多いわけですが、こういった公共の場での過剰な注意は、あたかも学校で先生が子供にこんなことはしちゃだめよ、と教えているような気にさせられます。
そもそもケータイがこれだけ爆発的に広がるのも日本っぽい。しかも、各社が矢継ぎ早に入れる機能というのは、着メロ(最近は歌まで歌う)だったり、毎日キャラクターをダウンロードする機能だったり、ゲーム機能だったりします。ケータイそのものの機能アップというより、子供向けとも思える遊びにつながるものばかりです。カメラ付きケータイもビジネスの場よりはプライベートで使うことが前提となっているはず。同じような小型デジタル機器でも海外ではビジネス向けに使われるPDAはそれなりに売れていますが、日本ではあまり売れません。

私は日本以外に住んだことはないですが、それでも自分の印象ではヨーロッパなど大人の文化の香りがします。
むしろ子供っぽいことが恥ずかしいと思うような感覚です。映画など見ても、何か独特の雰囲気を持っていたりします。
ヨーロッパに比べると、アメリカなどは若者の文化という感じです。アメリカ文化から感ずるある種の激しさ、暴力性、安直なまでの正義感みたいなものは若者に由来するものではないかと思います。

音楽の世界で言えば、それでもポップスやロックが商業的音楽の中心ではあるわけですが、依然クラシック音楽の中心地はヨーロッパだし、日本で売れている音楽というのはアイドル系の歌謡曲といったところでしょう。
実際のところ、日本では大人になると音楽を聞かなくなってしまう人が圧倒的に多いように思います。学生時代なら同年代の歌手のアルバムを良く聞いたりしますが、年を取るにつれ市場に聞きたくなるような音楽が無くなってしまうのです。せいぜい、自分が若かった時代の曲を聴いて、「いやあ、あの頃の音楽の方が質が良かったよなー」などというのが関の山です。どうも、年を取ってから聴く音楽というのは、昔流行った曲を聴いてあの頃は良かった、と思うためのもののようです。

何度聴いても飽きない新鮮さがある、そういう音楽こそ大人の音楽たるゆえんだと思います。
いたずらにヨーロッパ礼賛するわけではないけれど、大人になって文化の担い手であることを放棄してしまう日本人が、少しでもそういった文化の魅力に気が付いて欲しいと思うのです。

2004年1月25日日曜日

楽譜を読む その5 -「おらしょ」のII-

いろいろと楽譜から何を読み取るのか書いてきましたが、具体例に乏しく今ひとつ説得感が無かったようで心配しています。私としては、音楽の非常に基本的な面について書いたつもりで、実際には今まで言ってきたことから外れることだってたくさんあるはずです。
そんなわけで、今回は具体的な作品を挙げて、楽譜の中で暗示されている意味を「読んで」みようと思います。曲は今流行りの千原英喜作曲「おらしょ」の第二楽章。実は、ある団体で私も今歌っているところです。この曲、知らない人はゴメンなさい。

まあ、読むといっても、こと細かくアナリーゼしようというわけではありません。今回は、楽譜の書き方からにじみ出る作曲家の気持ちを、演奏側が考えるきっかけになれば良いと思っています。
まずは、全体的なこととして、スラーの書法について。声楽でスラーを使う場合、大まかに分けて、旋律のレガートを指定する場合と、同一母音の音のレガートを指定する場合があると思います。一般的には後者のみの使い方をする作曲家が多いと感じますが、千原氏は両方の意味でスラーを使っています。そのおかげで、楽譜はスラーだらけとなり、場所によっては2重、3重にスラーがかけられます。従って、スラーを見る際、どちらの意味かをまず認識する必要があります。旋律に対する指定なら、ブレスのタイミングもこのスラーより考えることができるでしょう。
練習番号1,2の部分。アーティキュレーション記号が非常に饒舌となります。ここから何を読み取るかは人それぞれだと思いますが、「おらしょ」全体を通してみれば、民謡調(日本風)の歌いまわしにアーティキュレーションが多そうです。楽譜ではなかなか伝わりにくい民謡調の歌い方を千原氏なりになんとか懸命に伝えようとしている感じがします。そういう意味では、日本風の民謡メロディは、やはり西洋風に洗練された歌いまわしにして欲しくない意思をちょっと感じます。
練習番号2では、音価においてもそういったこだわりが見えます。付点音符と3連音符の混在があるのです。もちろん、この細かい音価の指定に対して、きっちりと音価どおりに歌おうと指示するのは野暮な方法で、ここに隠される民謡調の歌いまわしを理解することがまず大事でしょう。
練習番号7以降は、この曲のハイライトとも言える語り調の部分です。日本語の語り調の合唱曲は、これまでもいろいろな作曲家がトライしてきましたが、こういう部分を持つ合唱曲がここまで有名になったのはこの曲が初めてのような気がします。
ここでは、ビートの基本単位が8分音符(場所によっては16分音符)になります。そのため、楽譜全体が黒々となり、多くの歌い手がまず最初に「えー、何これー」みたいな反応をすることでしょう。作曲家としては、もちろん、この部分の音価を全て2倍にして書くことも可能だったでしょう。その方が、譜読みは断然早くなります。それでも、敢えて楽譜が読みづらくなるような、音価の細かさで書いたのか、その意味を考える必要があります。私としては、音価の細かさがある種の切迫感を感じさせ、語り口調をなお促進させる効果を感じます。一般的に語りの雰囲気を出したい場合、作曲家は音価を細かく書くことが多いはずです。
この部分、まさに千原節の真骨頂とも言えるかもしれません。和声感よりも旋律でぐいぐい音楽が進められ、一見ユニゾンに見えながらオクターブ関係の違いで旋律のバリエーションを作ります。男声、女声で旋律は交互に歌われ、高声、低声同士は共に同じ旋律であることが多く、各歌手の分担は変わりながらも音楽全体の太いラインは一本通っています。こういった書法が、声部を増やして響きのバリエーションを増やそうとしてしまう他の作曲家へのアンチテーゼとも思え、千原氏を特徴付けています。
この語り口調が淡白にならないように、いろいろな工夫がされています。この中で、アクセント、スラーが付けられた語句があり、ここをどのように歌うか、考える必要が出てきます。また、5拍子になってからの後半の盛り上がりは単純のように見えながら良く計算されて書かれていて日本語の力をうまく生かしていると感じます。
もう一つ、どうでもいいことですが、練習番号7の男声「てんちをつくりたまいて」と練習番号10の同じところ、3拍目がちょっと違います。浄書屋あるいは作曲家のミスのようにも思えますが(私の楽譜は第1版第3刷)、どちらが正しいとも言えないので、今は取りあえず楽譜どおり歌っています。
練習番号14も少し面白い。というのは、拍子、小節、休符、音価などの表記が急にルネサンス風に変わるのです("forte", "piano"などと書くのも芸が細かい)。ポリフォニーを意識しているように思えますが、その割には主題以外のパートがすぐホモフォニックになり、音楽的な意味でルネサンス風を模倣しているようにはあまり思えません。大体、語り調から流れてきた音楽のクライマックスを受けていて、実際には非常に劇的な部分でもあるのです。しかし、最後のAmenはちょっとばかり中世を感じさせる音使いがされています。この部分の作曲家のこだわりをどう演奏に反映させるかはいろいろな考えがあると思いますが、私には作曲家のちょっとしたお遊びにも感じられ、それほど深読みをする必要はないようにも思えます。

千原氏の音楽の面白さは、音そのものの多様さというより、楽譜表記の多様さという側面があるように感じます。それはテキスト重視の音楽作りとうまくリンクし、演奏者側に考える余地を残させます。つまり、楽譜表記においてその表記の物理的側面よりも、そう書いた作曲家の意思を読み取ることがことさらに重要であり、それがこの作品を歌う楽しみの一つにもなっているように私は感じます。

2004年1月18日日曜日

嫌いな技術

様々な電気製品がマイコンで制御されるようになり、それに伴ってますますたくさんの機能が付くようになっています。
もちろん、マイコンが様々な制御をやってくれるということは、複雑な手順をボタン一つで順序どおりにやってくれるというような動作であったり、何十、何百通りもあるような方法を記憶してくれたりするような、まさにコンピュータが得意とする仕事を私たちのかわりに行ってくれるということです。
私自身も技術者の端くれとして、電気製品の機能を考えたり、実際に設計して実装したりする仕事をしているわけですが、その中でどうにも気に入らない機能、技術というのがあります。それは、機械自体が自分で考えてくれて、なんらかの処理を自動にしてくれるような機能です。それがほぼ決まりきった結論しかあり得ないような推論ならいいのですが、どうにも理解できない形で動作条件が変わるようなものは、どうも不備がありそうで自分にはいい印象を感じることが出来ません。

最近私が買ったものから具体例を挙げましょう。
昨年クルマを買いましたが、私の買ったカーナビ付きのクルマにはIT-NAVI SHIFTという機能がついています。これ、パンフレット読んでいたときから、上で言ったような機能の匂いを感じ、どうにも使う気になれませんでした。
どんな機能かというと、クルマにはエンジンやらミッションの制御にもかなりマイコン化が進んでいて、人間が操作しなくても勝手にスロットルを動作させたり、ギヤ比を変えたりすることが出来ます。実際、天候や現在速度などの条件によって、最も良い動作になるように設定されているはずですが、この動作がカーナビ情報とリンクすることによって、道路の状況によって勝手にギヤ比を変えてくれるというのが、このIT-NAVI SHIFTなのです。例えば、下り坂だと認識すれば、少しギヤ比を高くして、エンジンブレーキがかかるようになり、スピードが速くならないように制御するというのです。
こういう機能に、興味がある人も多いと思います。しかし、技術者な私としては、「もし○○だったら~」というフレーズがたくさん浮かんできて、逆にどうにも安心できなくなります。だって、走っていたら勝手にミッションのギヤ比が変わっていくんですよ。すごく怖くないですか。
思いつく限り上のフレーズを挙げてみると、前も談話でいいましたがカーナビの道路情報は必ずしも完璧ではありません。例えば、カーナビに書かれていない道路を走ったらどうなるのでしょう。あるいは工事で、道路勾配が地図情報と変わっていたらどうなるのでしょう。また、実際の道路で走らなければ気付かないような条件もあるのではないでしょうか。視界とか、混雑しやすさとか。
もちろん設計側は、安全サイドに振るように設計していると思いますが、だからこそ、動作するときとしないときの境界が使っている側に予測できなくなり、そこに恐怖感を感じてしまうのです。
クルマを買ってから、まず私はこのIT-NAVI SHIFT機能をオフにしてしまいました。

もう一つ、年末に流行りのHD+DVDレコーダを買いました。SONYのスゴ録というやつ。
知っている人も多いと思いますが、この中に「おまかせまる録」という機能があります。キーワードを入れておけば、レコーダが勝手にそのキーワードに適合すると思われる番組をサーチして、録画しておいてくれるというもの。
これ、結構多くの人が「この機能を使いたい」と言うのですが、どうも私としてはやはり気に入らないのです。この機能で番組をサーチする元になる情報はEPGによる番組情報なのですが(←EPGの電子番組表は超便利!!)、この情報には限られた文字しか書かれておらず、例えばタレント名を入れてからといって、必ずそのタレントが出ている番組を全て取ってくれるわけではないでしょう。もちろん、その程度のことは予期して使えば良いのでしょうが、そのぐらいのザル的な番組の集め方なら、本当に自分がみたいと思う番組をこの機能で見ようなどとは誰も思わなくなるのではないでしょうか。
実際マニュアルを読むと、いろいろと細かい動作条件が書いてあります。例えば、自分が録画予約した時間にまる録対象の番組があったら、自分が予約した番組が優先されます。また、HDの残量が少なくなると古いものから勝手に削除されていきます。その他にも怪しい条件がいくつかあって、こんなこと細かく気にするくらいなら、こんな機能使わなくてもいいと私は考えてしまいます。
少なくとも、勝手に録画してくれる機能が便利と思えるためには、予約番組が重なったときのことを心配しなくてもいいように、チューナが複数なければいけないと思います。また電子番組表の情報量ももう少し多くないといけないでしょう。
これだけの条件が揃わないと、何も気にせずに録画してくれるはずの機能が、この機能を使うがためにいろいろ気にしなくてはならないジレンマに陥ってしまうような気がするのです。

この、機械が自分で考えて自動に○○する、というのが本当の意味で信頼おけるものになるためには、もっともっと製品企画者が思う以上にたくさんの情報と、たくさんのリソースを必要とするように思います。上で紹介した機能も、将来的には当たり前になるのかもしれませんが、現状ではまだまだ動作に不信感を感じてしまうのは私だけでしょうか。

2004年1月11日日曜日

楽譜を読む その4 -曲のマクロ構造-

以前も言いましたが、マクロ構造とは、例えば音楽の形式のように、一つの楽曲がどのような部分を持っていて、どのように連なっているのかを表すような言葉だと思ってください。
しかし、なぜ音楽には形式なんてものがあるのでしょう。
どんな創作物においても、ある程度の規模になってくると構造性が必要になってきます。ここでいう構造性とは、全体を構成する各パーツが明瞭に分かれているということであり、また各パーツが何らかの類似性を持つことで全体の統一を図るといったものです。
構造といって、最もわかりやすい例でいうならやはり建築物でしょうか。いろいろな切り口はありますが、例えばどんな家でも、家の中が全て一つの空間になっているということはないでしょう。一つの家には部屋がいくつかあり、台所、トイレ、お風呂、玄関があります。そのように機能ごとに空間が分割されているから、家として私たちが便利に使えるわけです。

音楽の形式も同様に、いろいろなパーツが一つにまとまって一つの楽曲を構成していて、例えば3部形式とかロンド形式というのは、そのパーツの構成方法をカタログ化したものだということができるでしょう。音楽の形式が、先ほど言った建築物と決定的に違うことがあります。それは、音楽の形式は空間ではなく、時間軸上に配置されているものであり、人間がそれを把握するためには「記憶」というメカニズムが必ず必要になってくるという点だと私は思います。
例えば3部形式の曲があって、ABA’というような構成だったとします。この音楽を聞いた人は、2回目にA’が現れたときに、最初に演奏されたAが記憶していれば、また主題が現れたということを理解できます。記憶していなければ、音楽の構造性に気付かぬまま、まるで一つの部屋しかない家に住むがごとく、その音楽に違和感を感じるに違いありません。
私が音楽のマクロ構造の理解と演奏への反映として言いたいのはまさにこのことです。演奏家は、まず音楽の構造を明確に示す必要があります。そうでなければ聴衆は、その音楽を聞くことがただの苦痛になってしまうからです。そのためには、曲中の各パーツの役割を認識し、そのパーツの役割を十分強調した音楽作りをすることが必要になりますし、同じ主題を持ったパーツは同じように演奏することによって「同じである」ということを示すことが必要です。

私が最近ちょっと疑問に思っているのは、例えば同じ主題がもう一度現れるような再現部において、多くの演奏家が、前回現れたときと違うように演奏すべきだと思っていることです。センスのない芸術家ほど、一つのものにたくさんのコトを詰め込みたがります。素人とプロの差はだいたいこういうところに現れると私は思います。まして、演奏家は(アマチュアほど)同じ曲を何度も練習するわけで、余計同じ主題を、勝手にいろんな意味を込めて変化させて演奏したくなるのかもしれません。
だからこそ、私は敢えていいたいのですが、上記のように聴衆の立場に立って考えるなら、同じ主題はなるべく同じように演奏するのがまず基本的な考え方としてあるべきだと思うのです。
もちろん、実際には必ずしもそうでない例はたくさんあるでしょう。例えば、ベートーヴェンの交響曲などもう聴衆の多くの人が曲を知っているような場合、敢えて新しい解釈を施すことによって演奏のオリジナリティを表現したいという場合などです。
しかし、合唱の場合、自前の演奏会に来てくれる客がそれほど合唱のことを知っているとも思えないし、私自身だって世の中知らない曲ばかりです。いろいろ過剰な意味を込めたがる貧乏根性より、構造を示した明快な演奏の方が、聴衆のレベルを問わずいい演奏として評価されると私は思います。

2004年1月4日日曜日

古代への憧れ

人類が発展していくにつれて、近代戦争における兵器の凶暴化、環境破壊などに、人々が大いに不安を感じているのは確かなことでしょう。毎日のようにテレビで放送される世界各地の紛争、また自然破壊による災害などは私たちに不安を与えます。多くの人たちが、こういった現実に対して、技術の進歩や文明の発展が正しかったのか、疑問を持ち始めています。もちろん、その一方でさらに便利を求めて新しい技術を発展させようとする流れもあるわけで、私たちの社会はいろいろな矛盾を孕みながらも、進歩を止めることがありません。
その一つの反動として、素朴な古代社会に憧れを抱くという気持ちもあると思います。事実、私自身も、まだ国家さえなかったような大昔の質素な生活に一つのユートピアを描いていたのは確かです。その頃には、ちょっとした小競り合いはあったかもしれないけど、大量に人を殺すようなこともなかっただろうし、ましてや環境が破壊されるなどということもなかっただろうと私たちは想像します。

「最近面白かったこと」にも紹介した、ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」及び「人間はどこまでチンパンジーか?」を読んで、実はそういった単純な古代への憧れの気持ちを、若干修正すべきだと考えるようになりました。
自然界は実際、血も涙もない激烈な戦場なのです。チンパンジーさえ、隣のテリトリーの集団を一匹ずつ襲って壊滅させるというような行動を取るそうです。その他の動物を見ても、同種の動物の殺し合いは非常にたくさんの事例があります。例えば、未開の原住民(アフリカやニューギニアなど)の暮らしにおいても、各集団同士の争いはかなり熾烈で、場合によっては完全に他の集落を滅ぼして(皆殺しにして)しまうようなこともあります。
もちろんこれらの事例は、数少ない食料を奪い合う熾烈な環境だからこそ起こりうるのかもしれませんが、何百万年もかかって作り上げられた人間の精神活動における遺伝子には、(自分を守ってくれるような)身内に優しく、自分たち以外の集団に敵対心を持つ、そういったプログラムがされているような気がしてなりません。少なくとも、「利己的な遺伝子」に書かれているように、同種の動物に対して殺しあうことを抑制するような、種の保存的な考え方は持ち合わせてはいないことは確かです。

環境においても、例えば、人間が移り住んだ多くの大陸や島で、たくさんの種類の動物が絶滅したことがわかっています。アメリカ大陸には1万数千年前にベーリング海峡を渡って人類が移り住んだといわれていますが、人類はその大陸にいた大型哺乳類を乱獲し、すごい勢いで人口を増やしながら、わずか千年くらいで人類は南アメリカの最南端まで達し、その時点で、アメリカ大陸にいた大型哺乳類はほぼ姿を消したと言われています。その他の小さな島々も同様です。
ユーラシア大陸では、乱獲して大型哺乳類が絶滅する前に、家畜として育てることが発明され、自分たちの食料を支える手段として牧畜が発展しました。これが、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の文化発展の差に大きくつながったということです。
しかし、このようにある動物種が絶滅していくことは、地球の歴史の中で何度も起こっていることです。数万年前の人間に、地球環境のことなど考える余裕さえなかったでしょう(もっとも現代の人間と同じくらいの知性はすでに持っていたはずですが)。環境破壊と自然界の生存競争は表裏一体を成していて、一体どこからが環境破壊なのか私には明確に線引きをすることが出来ません。

現在の多くの人々は日々食べていくために苦労するようなことはなくなりました。そのような環境になって初めて、平和を求めたり、環境破壊を憂うようになったのかもしれません。ある動物種が、このようなことを考え行動するようになったこと、それ自体ある意味驚くべきことです。平穏な日々や自然との共生を求めて古代的世界を羨むのは、せいぜいファンタジーに酔いしれる程度の趣味でしかないと最近は思います。もちろん、そのファンタジー自体魅力的ではありますが、意外と今の私たちも捨てたもんではないな、とちょっとばかり楽観的に感じたりしています。


2004年1月3日土曜日

銃・病原菌・鉄/ジャレド・ダイアモンド

このところ、個人的に興味のある分野として、進化心理学や遺伝子の話、人類の進化などの話題をよく書いていたのはご存知の通り。結局のところ、これらの共通点というのは「人間」ということなのだと思うのです。人間とは何か?どうして、このような特殊な動物が生まれたのか?人間がこのような社会をどうやって作ったのか?そういった、人間に対する興味、人間がこれまで段階的に発展してきた過程に対する興味というのが、どうも最近の私のテーマのようです。
そして、この興味に対して、ほとんどストレートに答えてくれるのがこの本。著者ダイアモンドは、最後の氷河期が終わった13000年前をスタートラインとして、各大陸に移り住んだ人間たちがどのようにして文明を発達させたか、またその文明のレベル差が生まれたのはどうしてか、二つの文明が不幸な出会いをしたとき、その優劣を決定したものは何だったのか、を科学的なアプローチで詳細に解説したのが本書なのです。題名でほとんど察せられると思うのですが、例えば、アメリカ大陸をヨーロッパ人が発見した後、そこに昔から住んでいたインディアン、アステカ帝国、インカ帝国が次々と滅んでしまった、その原因を象徴するものとして、この「銃・病原菌・鉄」という言葉が一つのキーワードになっているわけです。

この本、上下巻二冊もあり、相当な分量ですが、実は一緒に同じ著者による「人間はどこまでチンパンジーか?」という本も購入し、この半月ほど、ダイアモンド氏による著作にずっとはまりまくっていました。
読んでいて感じたのは、先ず何といってもこのダイアモンド氏が超博学であること!もともと生物学の研究者らしいのだけれど、もちろん自身の研究に近い進化、遺伝などの話はもちろんのこと、動植物に関する内容、歴史・言語に関する内容など、どれも最新の研究による一線級の話題ばかりで、この人の恐ろしいほどの知識欲、そしてそれらを貪欲に吸収できるその能力にまず驚きます。それが、若干、勇み足的な推論をしてしまうこともあるように感じますが、氏の考え方全般は非常に理知的かつ論理的であり、ジャンルを超えて様々な知識があるからこそ初めて見える、人類史全体にわたる真理に近づいているのだと思うのです。

この本の主題は、簡単に言ってしまえば、ユーラシア大陸で生まれた文明が、結局、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸で独自に発展した文明を駆逐してしまったのは何故か、という問いに対する答えということになります。もちろん、その象徴的な話題として、スペイン人によるアステカ文明の滅亡やインカ帝国の滅亡の話題にも触れます。また、オーストラリアや、太平洋上の小さな島々に住む原住民が、いかにヨーロッパ人に駆逐されてしまったかについても語られます。
もちろん、これらの文明の衝突に際し、銃による大量殺戮があったのは確かですが、実はヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌が、ほとんど壊滅的なダメージを与えたということも大きな要因の一つなのです。なぜ、ヨーロッパ人に比べてその他の大陸の人間の方が病原菌に対する免疫力がなかったのか、この辺りはパッと考えると逆のようにも思えるのですが、実は農業や牧畜によって富が集約され、たくさんの人間が集まる都市が出来たからこそ病原菌が発生しやすくなり、長い歴史による淘汰によってヨーロッパ人が病原菌に強い体質になっていくことが説明されるのです。しかもその病原菌は家畜由来のものが多く、家畜を持たなかった人々には免疫力が全くなかったことも大きな理由の一つです。

ヨーロッパ文明が、その他の大陸の原住民による文明を駆逐した直接の原因は、もちろん銃・病原菌・鉄ということになるのですが、それではその遠因となるものは何だったのでしょうか。
全く同じスタートラインから始めて、大陸ごとに文明の発展度が違ったのは、何故でしょうか?ダイアモンド氏はこの答えとして、民族に能力差があるという考え方に対して、明確に否定の態度を取ります。むしろ、こういった考え方を否定するためにこの本が書かれたとも私には思えます。
この原因は、簡単に言ってしまえば、環境の差によるもの、という一言に尽きるわけです。そして、どういう環境の差がこのような文明の差を生じさせたのかを、詳細に綴ります。もちろん最も大きな差は、狩猟採集生活から、農業、牧畜などによる食糧生産への社会の移行ということになるわけで、環境がこの移行にどのように影響したかが大きな焦点となります。
また、農業や牧畜、兵器などの技術の伝播がどのように行われたも重要です。技術は様々なものが同時多発的に起こったわけでなく、あるところで生まれた技術が広く伝播することで世の中に広まります。ユーラシア大陸は東西に広く、同じような天候と環境だったからこそ、技術が伝播しやすかったのですが、アフリカやアメリカ大陸は南北に長く、技術が伝わる前提となる環境が異なっていたことで、技術の伝播がほとんどありませんでした。アメリカ大陸では、ヨーロッパ人が来るまで、インディアン、アステカ、インカ同士はお互いの存在さえ全く気付いていなかったのです。

この本を読んだあとのイメージは、今までの私が漠然と思っていたことをかなり修正したものとなりました。
人種は人類の歴史を通して、私が思っていた以上にかなりダイナミックに変化しています。全ての人種が同じような人口比率のままだったわけでなく、時には一つの人種(集団)が完全に滅んでしまったり、同じ土地に住む人間が完全に置き換わってしまったりするように、人間の集団に対しても大きな目で見れば生物進化の淘汰に近いことが起こっているのです。これは、人間そのものに対してだけでなく、例えば言語のような文化の部類に入るものでも、容赦なくダイナミックな滅びと拡大が起こっています。
人間、文化、というものを考える際、大きな手助けになる一冊、もとい二冊だと思います。