2004年1月25日日曜日

楽譜を読む その5 -「おらしょ」のII-

いろいろと楽譜から何を読み取るのか書いてきましたが、具体例に乏しく今ひとつ説得感が無かったようで心配しています。私としては、音楽の非常に基本的な面について書いたつもりで、実際には今まで言ってきたことから外れることだってたくさんあるはずです。
そんなわけで、今回は具体的な作品を挙げて、楽譜の中で暗示されている意味を「読んで」みようと思います。曲は今流行りの千原英喜作曲「おらしょ」の第二楽章。実は、ある団体で私も今歌っているところです。この曲、知らない人はゴメンなさい。

まあ、読むといっても、こと細かくアナリーゼしようというわけではありません。今回は、楽譜の書き方からにじみ出る作曲家の気持ちを、演奏側が考えるきっかけになれば良いと思っています。
まずは、全体的なこととして、スラーの書法について。声楽でスラーを使う場合、大まかに分けて、旋律のレガートを指定する場合と、同一母音の音のレガートを指定する場合があると思います。一般的には後者のみの使い方をする作曲家が多いと感じますが、千原氏は両方の意味でスラーを使っています。そのおかげで、楽譜はスラーだらけとなり、場所によっては2重、3重にスラーがかけられます。従って、スラーを見る際、どちらの意味かをまず認識する必要があります。旋律に対する指定なら、ブレスのタイミングもこのスラーより考えることができるでしょう。
練習番号1,2の部分。アーティキュレーション記号が非常に饒舌となります。ここから何を読み取るかは人それぞれだと思いますが、「おらしょ」全体を通してみれば、民謡調(日本風)の歌いまわしにアーティキュレーションが多そうです。楽譜ではなかなか伝わりにくい民謡調の歌い方を千原氏なりになんとか懸命に伝えようとしている感じがします。そういう意味では、日本風の民謡メロディは、やはり西洋風に洗練された歌いまわしにして欲しくない意思をちょっと感じます。
練習番号2では、音価においてもそういったこだわりが見えます。付点音符と3連音符の混在があるのです。もちろん、この細かい音価の指定に対して、きっちりと音価どおりに歌おうと指示するのは野暮な方法で、ここに隠される民謡調の歌いまわしを理解することがまず大事でしょう。
練習番号7以降は、この曲のハイライトとも言える語り調の部分です。日本語の語り調の合唱曲は、これまでもいろいろな作曲家がトライしてきましたが、こういう部分を持つ合唱曲がここまで有名になったのはこの曲が初めてのような気がします。
ここでは、ビートの基本単位が8分音符(場所によっては16分音符)になります。そのため、楽譜全体が黒々となり、多くの歌い手がまず最初に「えー、何これー」みたいな反応をすることでしょう。作曲家としては、もちろん、この部分の音価を全て2倍にして書くことも可能だったでしょう。その方が、譜読みは断然早くなります。それでも、敢えて楽譜が読みづらくなるような、音価の細かさで書いたのか、その意味を考える必要があります。私としては、音価の細かさがある種の切迫感を感じさせ、語り口調をなお促進させる効果を感じます。一般的に語りの雰囲気を出したい場合、作曲家は音価を細かく書くことが多いはずです。
この部分、まさに千原節の真骨頂とも言えるかもしれません。和声感よりも旋律でぐいぐい音楽が進められ、一見ユニゾンに見えながらオクターブ関係の違いで旋律のバリエーションを作ります。男声、女声で旋律は交互に歌われ、高声、低声同士は共に同じ旋律であることが多く、各歌手の分担は変わりながらも音楽全体の太いラインは一本通っています。こういった書法が、声部を増やして響きのバリエーションを増やそうとしてしまう他の作曲家へのアンチテーゼとも思え、千原氏を特徴付けています。
この語り口調が淡白にならないように、いろいろな工夫がされています。この中で、アクセント、スラーが付けられた語句があり、ここをどのように歌うか、考える必要が出てきます。また、5拍子になってからの後半の盛り上がりは単純のように見えながら良く計算されて書かれていて日本語の力をうまく生かしていると感じます。
もう一つ、どうでもいいことですが、練習番号7の男声「てんちをつくりたまいて」と練習番号10の同じところ、3拍目がちょっと違います。浄書屋あるいは作曲家のミスのようにも思えますが(私の楽譜は第1版第3刷)、どちらが正しいとも言えないので、今は取りあえず楽譜どおり歌っています。
練習番号14も少し面白い。というのは、拍子、小節、休符、音価などの表記が急にルネサンス風に変わるのです("forte", "piano"などと書くのも芸が細かい)。ポリフォニーを意識しているように思えますが、その割には主題以外のパートがすぐホモフォニックになり、音楽的な意味でルネサンス風を模倣しているようにはあまり思えません。大体、語り調から流れてきた音楽のクライマックスを受けていて、実際には非常に劇的な部分でもあるのです。しかし、最後のAmenはちょっとばかり中世を感じさせる音使いがされています。この部分の作曲家のこだわりをどう演奏に反映させるかはいろいろな考えがあると思いますが、私には作曲家のちょっとしたお遊びにも感じられ、それほど深読みをする必要はないようにも思えます。

千原氏の音楽の面白さは、音そのものの多様さというより、楽譜表記の多様さという側面があるように感じます。それはテキスト重視の音楽作りとうまくリンクし、演奏者側に考える余地を残させます。つまり、楽譜表記においてその表記の物理的側面よりも、そう書いた作曲家の意思を読み取ることがことさらに重要であり、それがこの作品を歌う楽しみの一つにもなっているように私は感じます。

2004年1月18日日曜日

嫌いな技術

様々な電気製品がマイコンで制御されるようになり、それに伴ってますますたくさんの機能が付くようになっています。
もちろん、マイコンが様々な制御をやってくれるということは、複雑な手順をボタン一つで順序どおりにやってくれるというような動作であったり、何十、何百通りもあるような方法を記憶してくれたりするような、まさにコンピュータが得意とする仕事を私たちのかわりに行ってくれるということです。
私自身も技術者の端くれとして、電気製品の機能を考えたり、実際に設計して実装したりする仕事をしているわけですが、その中でどうにも気に入らない機能、技術というのがあります。それは、機械自体が自分で考えてくれて、なんらかの処理を自動にしてくれるような機能です。それがほぼ決まりきった結論しかあり得ないような推論ならいいのですが、どうにも理解できない形で動作条件が変わるようなものは、どうも不備がありそうで自分にはいい印象を感じることが出来ません。

最近私が買ったものから具体例を挙げましょう。
昨年クルマを買いましたが、私の買ったカーナビ付きのクルマにはIT-NAVI SHIFTという機能がついています。これ、パンフレット読んでいたときから、上で言ったような機能の匂いを感じ、どうにも使う気になれませんでした。
どんな機能かというと、クルマにはエンジンやらミッションの制御にもかなりマイコン化が進んでいて、人間が操作しなくても勝手にスロットルを動作させたり、ギヤ比を変えたりすることが出来ます。実際、天候や現在速度などの条件によって、最も良い動作になるように設定されているはずですが、この動作がカーナビ情報とリンクすることによって、道路の状況によって勝手にギヤ比を変えてくれるというのが、このIT-NAVI SHIFTなのです。例えば、下り坂だと認識すれば、少しギヤ比を高くして、エンジンブレーキがかかるようになり、スピードが速くならないように制御するというのです。
こういう機能に、興味がある人も多いと思います。しかし、技術者な私としては、「もし○○だったら~」というフレーズがたくさん浮かんできて、逆にどうにも安心できなくなります。だって、走っていたら勝手にミッションのギヤ比が変わっていくんですよ。すごく怖くないですか。
思いつく限り上のフレーズを挙げてみると、前も談話でいいましたがカーナビの道路情報は必ずしも完璧ではありません。例えば、カーナビに書かれていない道路を走ったらどうなるのでしょう。あるいは工事で、道路勾配が地図情報と変わっていたらどうなるのでしょう。また、実際の道路で走らなければ気付かないような条件もあるのではないでしょうか。視界とか、混雑しやすさとか。
もちろん設計側は、安全サイドに振るように設計していると思いますが、だからこそ、動作するときとしないときの境界が使っている側に予測できなくなり、そこに恐怖感を感じてしまうのです。
クルマを買ってから、まず私はこのIT-NAVI SHIFT機能をオフにしてしまいました。

もう一つ、年末に流行りのHD+DVDレコーダを買いました。SONYのスゴ録というやつ。
知っている人も多いと思いますが、この中に「おまかせまる録」という機能があります。キーワードを入れておけば、レコーダが勝手にそのキーワードに適合すると思われる番組をサーチして、録画しておいてくれるというもの。
これ、結構多くの人が「この機能を使いたい」と言うのですが、どうも私としてはやはり気に入らないのです。この機能で番組をサーチする元になる情報はEPGによる番組情報なのですが(←EPGの電子番組表は超便利!!)、この情報には限られた文字しか書かれておらず、例えばタレント名を入れてからといって、必ずそのタレントが出ている番組を全て取ってくれるわけではないでしょう。もちろん、その程度のことは予期して使えば良いのでしょうが、そのぐらいのザル的な番組の集め方なら、本当に自分がみたいと思う番組をこの機能で見ようなどとは誰も思わなくなるのではないでしょうか。
実際マニュアルを読むと、いろいろと細かい動作条件が書いてあります。例えば、自分が録画予約した時間にまる録対象の番組があったら、自分が予約した番組が優先されます。また、HDの残量が少なくなると古いものから勝手に削除されていきます。その他にも怪しい条件がいくつかあって、こんなこと細かく気にするくらいなら、こんな機能使わなくてもいいと私は考えてしまいます。
少なくとも、勝手に録画してくれる機能が便利と思えるためには、予約番組が重なったときのことを心配しなくてもいいように、チューナが複数なければいけないと思います。また電子番組表の情報量ももう少し多くないといけないでしょう。
これだけの条件が揃わないと、何も気にせずに録画してくれるはずの機能が、この機能を使うがためにいろいろ気にしなくてはならないジレンマに陥ってしまうような気がするのです。

この、機械が自分で考えて自動に○○する、というのが本当の意味で信頼おけるものになるためには、もっともっと製品企画者が思う以上にたくさんの情報と、たくさんのリソースを必要とするように思います。上で紹介した機能も、将来的には当たり前になるのかもしれませんが、現状ではまだまだ動作に不信感を感じてしまうのは私だけでしょうか。

2004年1月11日日曜日

楽譜を読む その4 -曲のマクロ構造-

以前も言いましたが、マクロ構造とは、例えば音楽の形式のように、一つの楽曲がどのような部分を持っていて、どのように連なっているのかを表すような言葉だと思ってください。
しかし、なぜ音楽には形式なんてものがあるのでしょう。
どんな創作物においても、ある程度の規模になってくると構造性が必要になってきます。ここでいう構造性とは、全体を構成する各パーツが明瞭に分かれているということであり、また各パーツが何らかの類似性を持つことで全体の統一を図るといったものです。
構造といって、最もわかりやすい例でいうならやはり建築物でしょうか。いろいろな切り口はありますが、例えばどんな家でも、家の中が全て一つの空間になっているということはないでしょう。一つの家には部屋がいくつかあり、台所、トイレ、お風呂、玄関があります。そのように機能ごとに空間が分割されているから、家として私たちが便利に使えるわけです。

音楽の形式も同様に、いろいろなパーツが一つにまとまって一つの楽曲を構成していて、例えば3部形式とかロンド形式というのは、そのパーツの構成方法をカタログ化したものだということができるでしょう。音楽の形式が、先ほど言った建築物と決定的に違うことがあります。それは、音楽の形式は空間ではなく、時間軸上に配置されているものであり、人間がそれを把握するためには「記憶」というメカニズムが必ず必要になってくるという点だと私は思います。
例えば3部形式の曲があって、ABA’というような構成だったとします。この音楽を聞いた人は、2回目にA’が現れたときに、最初に演奏されたAが記憶していれば、また主題が現れたということを理解できます。記憶していなければ、音楽の構造性に気付かぬまま、まるで一つの部屋しかない家に住むがごとく、その音楽に違和感を感じるに違いありません。
私が音楽のマクロ構造の理解と演奏への反映として言いたいのはまさにこのことです。演奏家は、まず音楽の構造を明確に示す必要があります。そうでなければ聴衆は、その音楽を聞くことがただの苦痛になってしまうからです。そのためには、曲中の各パーツの役割を認識し、そのパーツの役割を十分強調した音楽作りをすることが必要になりますし、同じ主題を持ったパーツは同じように演奏することによって「同じである」ということを示すことが必要です。

私が最近ちょっと疑問に思っているのは、例えば同じ主題がもう一度現れるような再現部において、多くの演奏家が、前回現れたときと違うように演奏すべきだと思っていることです。センスのない芸術家ほど、一つのものにたくさんのコトを詰め込みたがります。素人とプロの差はだいたいこういうところに現れると私は思います。まして、演奏家は(アマチュアほど)同じ曲を何度も練習するわけで、余計同じ主題を、勝手にいろんな意味を込めて変化させて演奏したくなるのかもしれません。
だからこそ、私は敢えていいたいのですが、上記のように聴衆の立場に立って考えるなら、同じ主題はなるべく同じように演奏するのがまず基本的な考え方としてあるべきだと思うのです。
もちろん、実際には必ずしもそうでない例はたくさんあるでしょう。例えば、ベートーヴェンの交響曲などもう聴衆の多くの人が曲を知っているような場合、敢えて新しい解釈を施すことによって演奏のオリジナリティを表現したいという場合などです。
しかし、合唱の場合、自前の演奏会に来てくれる客がそれほど合唱のことを知っているとも思えないし、私自身だって世の中知らない曲ばかりです。いろいろ過剰な意味を込めたがる貧乏根性より、構造を示した明快な演奏の方が、聴衆のレベルを問わずいい演奏として評価されると私は思います。

2004年1月4日日曜日

古代への憧れ

人類が発展していくにつれて、近代戦争における兵器の凶暴化、環境破壊などに、人々が大いに不安を感じているのは確かなことでしょう。毎日のようにテレビで放送される世界各地の紛争、また自然破壊による災害などは私たちに不安を与えます。多くの人たちが、こういった現実に対して、技術の進歩や文明の発展が正しかったのか、疑問を持ち始めています。もちろん、その一方でさらに便利を求めて新しい技術を発展させようとする流れもあるわけで、私たちの社会はいろいろな矛盾を孕みながらも、進歩を止めることがありません。
その一つの反動として、素朴な古代社会に憧れを抱くという気持ちもあると思います。事実、私自身も、まだ国家さえなかったような大昔の質素な生活に一つのユートピアを描いていたのは確かです。その頃には、ちょっとした小競り合いはあったかもしれないけど、大量に人を殺すようなこともなかっただろうし、ましてや環境が破壊されるなどということもなかっただろうと私たちは想像します。

「最近面白かったこと」にも紹介した、ダイアモンド著「銃・病原菌・鉄」及び「人間はどこまでチンパンジーか?」を読んで、実はそういった単純な古代への憧れの気持ちを、若干修正すべきだと考えるようになりました。
自然界は実際、血も涙もない激烈な戦場なのです。チンパンジーさえ、隣のテリトリーの集団を一匹ずつ襲って壊滅させるというような行動を取るそうです。その他の動物を見ても、同種の動物の殺し合いは非常にたくさんの事例があります。例えば、未開の原住民(アフリカやニューギニアなど)の暮らしにおいても、各集団同士の争いはかなり熾烈で、場合によっては完全に他の集落を滅ぼして(皆殺しにして)しまうようなこともあります。
もちろんこれらの事例は、数少ない食料を奪い合う熾烈な環境だからこそ起こりうるのかもしれませんが、何百万年もかかって作り上げられた人間の精神活動における遺伝子には、(自分を守ってくれるような)身内に優しく、自分たち以外の集団に敵対心を持つ、そういったプログラムがされているような気がしてなりません。少なくとも、「利己的な遺伝子」に書かれているように、同種の動物に対して殺しあうことを抑制するような、種の保存的な考え方は持ち合わせてはいないことは確かです。

環境においても、例えば、人間が移り住んだ多くの大陸や島で、たくさんの種類の動物が絶滅したことがわかっています。アメリカ大陸には1万数千年前にベーリング海峡を渡って人類が移り住んだといわれていますが、人類はその大陸にいた大型哺乳類を乱獲し、すごい勢いで人口を増やしながら、わずか千年くらいで人類は南アメリカの最南端まで達し、その時点で、アメリカ大陸にいた大型哺乳類はほぼ姿を消したと言われています。その他の小さな島々も同様です。
ユーラシア大陸では、乱獲して大型哺乳類が絶滅する前に、家畜として育てることが発明され、自分たちの食料を支える手段として牧畜が発展しました。これが、ユーラシア大陸とアメリカ大陸の文化発展の差に大きくつながったということです。
しかし、このようにある動物種が絶滅していくことは、地球の歴史の中で何度も起こっていることです。数万年前の人間に、地球環境のことなど考える余裕さえなかったでしょう(もっとも現代の人間と同じくらいの知性はすでに持っていたはずですが)。環境破壊と自然界の生存競争は表裏一体を成していて、一体どこからが環境破壊なのか私には明確に線引きをすることが出来ません。

現在の多くの人々は日々食べていくために苦労するようなことはなくなりました。そのような環境になって初めて、平和を求めたり、環境破壊を憂うようになったのかもしれません。ある動物種が、このようなことを考え行動するようになったこと、それ自体ある意味驚くべきことです。平穏な日々や自然との共生を求めて古代的世界を羨むのは、せいぜいファンタジーに酔いしれる程度の趣味でしかないと最近は思います。もちろん、そのファンタジー自体魅力的ではありますが、意外と今の私たちも捨てたもんではないな、とちょっとばかり楽観的に感じたりしています。


2004年1月3日土曜日

銃・病原菌・鉄/ジャレド・ダイアモンド

このところ、個人的に興味のある分野として、進化心理学や遺伝子の話、人類の進化などの話題をよく書いていたのはご存知の通り。結局のところ、これらの共通点というのは「人間」ということなのだと思うのです。人間とは何か?どうして、このような特殊な動物が生まれたのか?人間がこのような社会をどうやって作ったのか?そういった、人間に対する興味、人間がこれまで段階的に発展してきた過程に対する興味というのが、どうも最近の私のテーマのようです。
そして、この興味に対して、ほとんどストレートに答えてくれるのがこの本。著者ダイアモンドは、最後の氷河期が終わった13000年前をスタートラインとして、各大陸に移り住んだ人間たちがどのようにして文明を発達させたか、またその文明のレベル差が生まれたのはどうしてか、二つの文明が不幸な出会いをしたとき、その優劣を決定したものは何だったのか、を科学的なアプローチで詳細に解説したのが本書なのです。題名でほとんど察せられると思うのですが、例えば、アメリカ大陸をヨーロッパ人が発見した後、そこに昔から住んでいたインディアン、アステカ帝国、インカ帝国が次々と滅んでしまった、その原因を象徴するものとして、この「銃・病原菌・鉄」という言葉が一つのキーワードになっているわけです。

この本、上下巻二冊もあり、相当な分量ですが、実は一緒に同じ著者による「人間はどこまでチンパンジーか?」という本も購入し、この半月ほど、ダイアモンド氏による著作にずっとはまりまくっていました。
読んでいて感じたのは、先ず何といってもこのダイアモンド氏が超博学であること!もともと生物学の研究者らしいのだけれど、もちろん自身の研究に近い進化、遺伝などの話はもちろんのこと、動植物に関する内容、歴史・言語に関する内容など、どれも最新の研究による一線級の話題ばかりで、この人の恐ろしいほどの知識欲、そしてそれらを貪欲に吸収できるその能力にまず驚きます。それが、若干、勇み足的な推論をしてしまうこともあるように感じますが、氏の考え方全般は非常に理知的かつ論理的であり、ジャンルを超えて様々な知識があるからこそ初めて見える、人類史全体にわたる真理に近づいているのだと思うのです。

この本の主題は、簡単に言ってしまえば、ユーラシア大陸で生まれた文明が、結局、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、アフリカ大陸で独自に発展した文明を駆逐してしまったのは何故か、という問いに対する答えということになります。もちろん、その象徴的な話題として、スペイン人によるアステカ文明の滅亡やインカ帝国の滅亡の話題にも触れます。また、オーストラリアや、太平洋上の小さな島々に住む原住民が、いかにヨーロッパ人に駆逐されてしまったかについても語られます。
もちろん、これらの文明の衝突に際し、銃による大量殺戮があったのは確かですが、実はヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌が、ほとんど壊滅的なダメージを与えたということも大きな要因の一つなのです。なぜ、ヨーロッパ人に比べてその他の大陸の人間の方が病原菌に対する免疫力がなかったのか、この辺りはパッと考えると逆のようにも思えるのですが、実は農業や牧畜によって富が集約され、たくさんの人間が集まる都市が出来たからこそ病原菌が発生しやすくなり、長い歴史による淘汰によってヨーロッパ人が病原菌に強い体質になっていくことが説明されるのです。しかもその病原菌は家畜由来のものが多く、家畜を持たなかった人々には免疫力が全くなかったことも大きな理由の一つです。

ヨーロッパ文明が、その他の大陸の原住民による文明を駆逐した直接の原因は、もちろん銃・病原菌・鉄ということになるのですが、それではその遠因となるものは何だったのでしょうか。
全く同じスタートラインから始めて、大陸ごとに文明の発展度が違ったのは、何故でしょうか?ダイアモンド氏はこの答えとして、民族に能力差があるという考え方に対して、明確に否定の態度を取ります。むしろ、こういった考え方を否定するためにこの本が書かれたとも私には思えます。
この原因は、簡単に言ってしまえば、環境の差によるもの、という一言に尽きるわけです。そして、どういう環境の差がこのような文明の差を生じさせたのかを、詳細に綴ります。もちろん最も大きな差は、狩猟採集生活から、農業、牧畜などによる食糧生産への社会の移行ということになるわけで、環境がこの移行にどのように影響したかが大きな焦点となります。
また、農業や牧畜、兵器などの技術の伝播がどのように行われたも重要です。技術は様々なものが同時多発的に起こったわけでなく、あるところで生まれた技術が広く伝播することで世の中に広まります。ユーラシア大陸は東西に広く、同じような天候と環境だったからこそ、技術が伝播しやすかったのですが、アフリカやアメリカ大陸は南北に長く、技術が伝わる前提となる環境が異なっていたことで、技術の伝播がほとんどありませんでした。アメリカ大陸では、ヨーロッパ人が来るまで、インディアン、アステカ、インカ同士はお互いの存在さえ全く気付いていなかったのです。

この本を読んだあとのイメージは、今までの私が漠然と思っていたことをかなり修正したものとなりました。
人種は人類の歴史を通して、私が思っていた以上にかなりダイナミックに変化しています。全ての人種が同じような人口比率のままだったわけでなく、時には一つの人種(集団)が完全に滅んでしまったり、同じ土地に住む人間が完全に置き換わってしまったりするように、人間の集団に対しても大きな目で見れば生物進化の淘汰に近いことが起こっているのです。これは、人間そのものに対してだけでなく、例えば言語のような文化の部類に入るものでも、容赦なくダイナミックな滅びと拡大が起こっています。
人間、文化、というものを考える際、大きな手助けになる一冊、もとい二冊だと思います。