2004年9月26日日曜日

四日間の奇蹟/浅倉卓弥

最近、本を読んで泣いたことがありますか。
たまには、泣けるような本を読んでみたいと思いませんか。
ということで、本を読んで泣きたいのなら、お勧めはコレ。泣けます。マジに泣けます。オビに書いてあることもあながち嘘じゃありません。泣いているのを見られたくないなら、人のいない場所で読みましょう。

この小説、実は第一回「このミステリーがすごい!」大賞の受賞作品。つまり、この作家、全くの新人作家です。「このミステリーがすごい!」というからには、推理小説なのかと思いきや、実は全くそういう傾向の作品ではなくて、本来ならこの作品、例えば「ファンタジーノベル大賞」を目指すべき作品のような感じなのです。
科学的薀蓄が充分述べられ、ある種の超常現象を扱っているこの小説は、最近のホラー、ファンタジーの系譜とほとんど同じライン上にあるものです。

しかし、それでもこの作品の本質は、恐らく「死」に対する根源的な疑問に対して真摯に挑戦したことであり、それを題材にして、それに悩む登場人物たちが生き生きと描かれている点にあると思います。
特に後半三分の一くらいは本当に泣きっぱなし。この間の、登場人物の健気さ、そしてそれを的確に表現する描写力は、手放しで素晴らしいと感じました。
もし、こんなことが本当に起こりえるのなら、まさに奇蹟としか言いようがない。もはや、これは宗教的世界に属する話になってしまいます。恐らく、この小説の魅力は、全く普通の人々が普通の考えを持って生きている、非常に身近なシチュエーションであるにも拘らず、そこで展開される物語が宗教的体験とでもいえるような厳かで壮大で、まさに「神の御業」としか言いようのない出来事であるというその落差から来ているのではないか、と思えるのです。
中にはキリスト教的モチーフもいくらか現れ、作者自身も宗教的な意味合いをかなり意識しているように思われます。もちろん、特定の宗教の教義に根ざしているという意味でなく、宗教の本質について考えさせるようになっているのです。

もう一つの魅力は、この作品がクラシック音楽を扱っているという点。
主人公である如月は、小さい頃からピアニストになるべく徹底的に英才教育を施されたという設定。しかし、彼は留学先のウィーンで暴漢に遭遇し、左手の薬指を拳銃で撃たれるというアクシデントに見舞われ、ピアニストの夢を絶たれるわけです。
物語り全体は、主人公はある宗教的体験の一番身近にいる目撃者という立場なのですが、そのような主人公の生い立ちが、随所でストーリーと音楽の絡みに繋がります。

音楽、宗教、脳科学、終末医療、こういった著者の造詣の深さ、及び考えがうまく絡み合っているのもさすが。最近の作家は専門知識を使いこなすのが実にうまい。もちろん、作家自身がそういった分野のプロフェッショナルであるはずがないけれど、専門家の言葉にリアリティを与える文章を書けるというのは並大抵の想像力ではダメだろうな、と感じました。

2004年9月25日土曜日

食のアイデア

これまで談話を読んでくれた方は、私の話題にほとんどグルメ系の話題がなかったことをすでに気付いていることと思います。
実際のところ、グルメ的な話題ってどうしても怪しい感じが付きまとって、私としてはどうも苦手なジャンルです。そりゃ、おいしいものを食べた方が嬉しいに決まってるけど、自分が「おいしい」と思うレベルはそんなに高くなさそうだし、テレビや雑誌で宣伝された「おいしい」店を探し歩くほどの根性はありません。超高級料理にとんでもない値段がついていると、なんかもうヤクザな世界に思えてしまいます。
それに時々グルメお奨めということで、値段が張って、確かにおいしいのだけど、異常に量が少ないメニューというのに遭遇したときなど、非常に不満を感じたりすることがありませんか。時にはそういう料理に対して、店側の傲慢な態度すら感じられることがあります。ものすごい味にこだわっているので、量はこれだけしかありませんよ、みたいな。
これじゃお腹の半分にも満たない思って、一緒に食べている人に聞くと、確かにちょっと少ないけどおいしいからいいじゃない、なんて言われたりする始末。でも、お腹が空いたときに、少量しか食べられないのってものすごい欲求不満じゃないですか?

その昔私にとって、そういう店の代表格がお寿司屋さんでした。お金持ちじゃないので、お寿司屋に行っても「並」とか「梅」とかしか頼んだ覚えがなくて、その度に何か食べ足りないなあ、と思っていた記憶があります。
しかし、最近ではお寿司屋と言えば回転寿司。それで私は何を言いたいのかというと、回転寿司ってものすごい素晴らしいアイデアじゃないかと、昔から常々思っているのです。
恐らく私同様、昔ながらのお寿司屋さんに不満を持っている人がいて、お寿司屋さんとて世の中金持ちばかりじゃないから、お客が少なくなると余計高い物を出して利益を出そうとするでしょう。そういう流れから、このままだとますますお寿司屋に来る人が減っていっただろうと思うのです。
しかし、回転寿司はその垣根を一気に取り払いました。
好きな物を好きに注文できるという寿司屋が本来持っている形態を、分かりやすい形でデフォルメしたのが、目の前を寿司が回転するというアイデア。これって、最初に考えた人を本当に尊敬します。それから、ネタによって料金が事前に決まっているという安心感というのもあるでしょう。食べる側も、目の前にあるから、ついつい手に取ってしまい多めに食べてしまう。お店にとっても嬉しいシステムなはずです。

もしかしたら最初に考えた人は、ここまで一般的になるとは思わなかったかもしれません。ビジネス特許とか取っていれば莫大なお金が入ってきそうなんですが、そのあたりはどうなんでしょう?
もちろん一般的には、回転寿司なんてチープなお寿司が中心なので、ちゃんと寿司を食べたいならば専門店のほうがいい、と思っている人がほとんどでしょう。しかし現実には、回転寿司にお客がたくさん集まり、私のようにそのアイデアに感銘を受ける人がいるのですから、十分存在意義はあるはずです。

私など、食べ物自体のおいしさもさることながら、こういったレストランや食べ物屋さんのお店のアイデアに感心することが多いです。
これは浜松ローカルだけど、炭焼きレストラン「さわやか」というハンバーグ屋さんのチェーンって結構感心するお店です。いろいろな点でアイデアが素晴らしい。味本来とは関係ないと言われそうですが、目の前で店員が真ん丸いハンバーグを半分に切り、油が辺りに飛び散る様子は、とても食欲をそそります。そのハンバーグも、必ず待合の場所で炭焼きしている様子をガラス越しに見えるようになっています。
バイトであっても店員の教育は徹底されており、店員に対して不快に思うことはまずありません。かなりきっちりとした教育をしているのは間違いありません。定期的に行う創業価格フェアというのも、自らのアイデンティティを非常に意識しているように見え、好感が持てます。

食の話といっても、回転寿司に、ファミレス的なハンバーグチェーン店の話となると、やはりグルメとは程遠いと言われそうです・・・


2004年9月19日日曜日

音のこだわり、音楽のこだわり

最近、クラシック音楽を扱う小説や、テレビ番組などに触れる機会が多いような気がします。
その中で、音楽に対する感動の仕方というのが、どうにも気になることがあるのです。主人公がある音楽を聞いたときに、何かゾクゾクっとした感動を覚え思わず涙してしまった、というような。もちろん、そういう経験は、音楽を聞く人なら誰でもあると思うのですが、それでは何に感動したのかというと曖昧な表現に終始し、それを他人に伝える事は非常に難しいことが多い。だから、人は音楽を評するときに、抽象的、文学的、比喩的な表現を好み、事実を端的に表現する方法をむしろ嫌います。
��とりあえず、この談話を書くきっかけになった文を挙げておくと^^;、昨日(18日)の朝日新聞の新聞小説(篠田節子「讃歌」))

音楽を評論するなどというと随分、大上段に構えた感じがしてしまいますが、普通に音楽活動していれば、あの演奏が良かったとか、あの曲が好き、とか普通に会話することもあるでしょう。普通の音楽の会話なら、まあそんな堅苦しいことを言って、人の話していることに水を差す必要もないのだけど(しかし、ついつい水を差したくなってしまう)、そういった会話の中から人々が音楽を評論する行為の危うさを感じることがあります。
全ての人が小説の主人公みたいに、何も予備知識がなくても、今目の前で繰り広げられている音楽に対して、自分の感覚を素直に表現できるなんてことは実際のところ滅多にありません。自分が聴いたこともない曲だったり、聞いたこともない演奏家だったりすれば、その良し悪しを自分の感覚だけで表現することは一般には至難の業でしょう。相当、自分の考えを持った人でないと難しいはずです。

そういった時に、人々は権威の力を頼ります。
権威主義的な発想はあらゆるところから忍び込みます。まずその演奏家の世間の評価がどのくらいのものなのか、もしそれほど有名でなければ、その人はどんなプロフィールを持っているのか、そういう情報を非常に気にすることになります。
もちろん身近にいるマニアの意見も参考になるでしょう。誰々さんが評価していたから、これはいいものなんだろう、みたいな。
いずれも、自分自身が物の良し悪しを捉える自信がないからこそ、人の評価を頼るわけで、多くの人がそういった無意識に行われる意識の働きに従属させられているのです。だからこそ、小説やドラマで無名な演奏家を「これは素晴らしい」と素人が言ってしまう危うさ、うそ臭さがどうも目に付いてしまうというわけです。

演奏家であれば、やはり演奏そのものに耳が向かいます。合唱している人なら、演奏会の折には、合唱団の発声にどうしても注意がいきます。
しかし、それは自分が合唱をしているからだということに多くの人は気付きません。そういうことは、他ジャンルの演奏会に行けば誰しも気付くはずです。合唱人が吹奏楽やマンドリンオーケストラや純邦楽などの演奏会に行って、「アルトサックスの音が低い」とか「尺八の音色が・・・」なんて評価はしないでしょう。合唱をしているから、合唱のことしか見えないのです。
音楽を演奏する際、私はまず曲の持つ美しさや素晴らしさを伝えたいと思います。その音楽の良さをいかに提示するか、というのが私が演奏するときの尺度です。しかし、合唱の世界に長くいると、いかに正しく美しい音色を出すかという努力だけに終始してしまう可能性があります。そんなことは永遠に無理だというのに!
そういった状態が、私には楽曲そのものを評価することに背を向けさせているように思えます。
小説やドラマでも同じ。多くの場合、演奏会で感動したというのは演奏者に向かう礼賛です。しかし、上でも言ったように演奏者の素晴らしさは、ある程度自分自身が演奏したことがなければ分からないことも多いし、そうでない場合、権威主義の落とし穴にはまりやすくなります。
そう考えると、よく知られていない曲を演奏して、その曲の良さを知ってもらうなどというのは、もっと難しいことではないのか、とすら思えてしまいます。権威の力を借りなくても、自分の感覚で楽曲の良さを感じ取れる、そういった「音楽のこだわり」を持つことは一般にはかなり大変なことなのです。

2004年9月12日日曜日

合唱のPAを考える

合唱が他の音楽に比べて、圧倒的に不利なのは音量が小さいという点だと思います。
合唱団にいれば、ちょっとした機会に、ホール以外で歌うこともあることでしょう。大人数で歌うならそれほど気にならないかもしれませんが、屋外とか、全く響きのない空間だとか、ざわついたオープンスペースだとか、そういう場所で音楽をやる場合、やはり音量の小ささはマイナス要因になると感じてしまいます。
合唱というジャンル自体一般的でない日本において、こういった理想的な環境ではない場合でも、平気で演奏を頼まれるし、歌う側も演奏環境にはあまり気には留めませんが、どうせホール以外の場で歌うのなら、もう少しまともな環境を自分たちで作ってしまいたいものです。

こういった場合、マイクで音を拾ってスピーカーで出す、いわゆるPAをもっと活用すべきではないかと思います。
クラシックなのだから、マイクで拡声したくない、という意見もあるでしょうが、それならばそもそも劣悪な音環境の中で歌うこと自体、拒否すべきです。いろいろな場所で歌って、合唱の、歌の魅力を知ってもらいたいと思うならば、それを最大限聞かせる努力をやはりするべきではないでしょうか。
そういう意味で、PAは生音楽にとって少しも悪いことではないし、むしろ生音楽の魅力をきちんと音響に反映できるようなPAのテクニックというものがもっと研究されたらいいのにと思っています。
PA屋さんも、合唱の知識はないので、たまにPAを使って演奏するときなども、なかなか思い通りのセッティングをしてくれないのが現状です。だから、合唱とPAの技術、両方に長けた人が合唱における理想のPAというのを考えて欲しいなあ、などと思っています。

私自身、あまりPAに詳しいわけではありませんが、以下、自分の知っている範囲で、合唱におけるPAというのを考えてみましょう。
最大の問題は、スピーカーの位置、マイクの位置、モニタースピーカーの位置です。お客に聞かせるスピーカーの位置は、会場の形にもよるのでなんとも言えませんが、歌う側にとって問題なのはマイクの位置と、モニタースピーカーの位置。
そんなに立派なPAを期待するわけにもいかないので、実際にはステレオマイク一本とか、少し遠めにマイク二本立てるとかくらいが現実的なパターンでしょうが、会場の広さによってはあまり遠くにマイクが置けないかもしれません。マイクが近くなるほど、マイクに近い人の声がもろに入ってしまいます。後で演奏の録音など聞くと、○○さんと仲間たち、みたいな演奏になっていたなんてこともしばしば。
そうすると、特定の人の声がマイクでたくさん拾われないように、マイクは多くの人から等距離になるように、結果的には合唱団から少し離すような位置がベターでしょう。それから、指向性の高いマイクを使わないという手もあるかもしれません。
合唱団に対するモニタースピーカーというのはどうしたらよいものでしょう。合唱団的な考えだと、後ろから声が聞こえてくることを好む人もいそうですが、一番後ろの人からさらに自分たちの声が聞こえてくるのは変だし、そもそもモニタースピーカーが前を向いていたら、その音自体をマイクが拾ってしまい、音響設定が難しくなってしまいます。最悪ハウリングも起こるかもしれません。
となると、前かあるいは横からモニタースピーカの音が流れるというのが良いでしょう。また、合唱の場合、モニタースピーカの音は、自分たちの声の確認というより、ホールで歌っているような気分、という要素もあるかもしれません。そうなると、直接音よりもリバーブ成分を大めにしてやったほうが良いような気がします。いたずらに人の声の直接音が聞こえると、もっと自分も出さなければいけないような気分になり、一人一人が大きめに声を出してしまう危険性もあるでしょう。
ミキサーのセッティング自体は、それほどやることはないと思います。ただ、良質なリバーブ(残響)が得られるようなエフェクタは欲しいところです。

マイク二本(あるいはステレオマイク一本)、モニタースピーカ二つ、メインスピーカ二つ、あとミキサーがあればちょっとしたPAは出来るはずです。とは言え、合唱団でこういう機材を揃えるのはちょっと金銭的に大変です。ミキサーなどは最近安いものも多くなってきましたが、PA用スピーカはちょっと値がはってしまいます。

2004年9月5日日曜日

語られる言葉

今週のニュースで何回か見たのは、アメリカの共和党大会の様子。
政治の話をしたいわけではないけど、私にとってはとても興味深いのです。何故かというと、アメリカと日本のあまりの国民性の違いに驚くからです。
だいたい、日本で党大会と言えば、国会議員や地方議員が集まって、ダラダラと長い話をして、最後に「ガンバロー!」とか言って終わるのが関の山。ところが、ニュースの共和党大会を見ると、議員だけじゃない市井の人が集まり、演説者がうまいことを言う度に歓声が上がり、話し手も聴き手もものすごいハイテンションです。しかも、全員で「もう4年!」とか言って叫ぶんですよ。

そもそも、事実上二大政党のアメリカでは、国民は民主党か共和党しか選ぶことができないわけです。ところが、国民の大多数はそのどちらかの陣営にしっかりカテゴライズされます。大半が無党派層である日本とは違い、たった二つの政党にほとんどの国民の支持は分かれるのです。
話によれば、各政党の支持層はそれぞれコミュニティがあり、例えば住んでいる場所だけで支持政党は分かるほどだそうです。つまり、同じ政党支持層は同じような場所で同じような仕事をしているわけです。共和党支持者が住む町に民主党支持者が住もうとしようものなら激しいバッシングに合い、結局引っ越さざるを得なくなるそうです。
アメリカでは個人の意志がはっきりしていて自己責任でモノを考えることができる成熟した人々が多い、と一般には言われています。確かに、自己主張は激しいが、その主張は必ずしも個人一人の意志で形成されたものではありません。その人が住んでいる場所、親の環境、職場によって、彼らはきっちりとカテゴライズされ、その枠内で決められた政党を支持しているように思えます。
そういう意味では、信頼がおける政党がない、という日本人のほうがよほど個人単位で支持政党を考えているような気さえしてしまいます。

アメリカにおいて、支持政党というのが宗教のようだと考えるのはなかなか言い得て妙です。例えば、カトリックとプロテスタントのような。
国民は、宗教を選択しなければいけません。そうしなければ、様々なコミュニティからの特典が得られないからです。両陣営ともその勢力が拮抗しており、だからこそ勢力争いは熾烈を極めます。現在の政権に不満があれば、大規模なデモも起こりますし、逆に支持者による集会もそれに対抗して行われます。日本人が、エセ正義感でデモ行進するのとは訳が違います。彼らは身も心も宗教に染まっており、その閉ざされた正義感の中で極端に熱くなっているのです。それは日本人からしてみれば、極めて排他的な考え方でしょう。

宗教は人々を熱狂させます。
彼らは自分たちが熱くなるために、優れた演説を好みます。人々を高揚させるような演説が出来る人がヒーローになるのです。そこでは、冷静で知的な言葉はあまり必要ありません。敵を攻撃し、単純な言葉で自分たちを鼓舞する、そういった言葉を短く、鋭く、そしてうまい比喩で話せる人間が優れたリーダーだと見なされるのです。
こういった文化で育った言語というのは、当然ながら強弱アクセントが激しいものになるのかなと思えます。日本語では、どんなにかっこ良く演説しようと思っても、ああいった熱狂を生む感じが想像できません。日本語の演説というと、ダラダラ話して、肯定か否定か文末の意味が不明確になり、意味のないお世辞に溢れた、アメリカの演説と対極にあるような感じが容易にイメージできます。

自己主張しやすく、人々に影響を与える、そういう言葉、「語られる」という要素が、圧倒的に日本語に足りないような気がしています。それは恐らく、日本の文化にそのように言葉で人を扇動するというような必然性がなかったからなのかもしれません。また、日本人はそういった行動を冷めた目で見る傾向があります。校長先生の話とか、社長の話で歓声が上がって、人々が盛り上がるなんて日本では想像も出来ないでしょう!
その中でも小泉首相は、日本語でアメリカナイズされた演説が出来る稀有な政治家に思えます。就任当初よりは勢いがなくなりましたけど。