2004年11月28日日曜日

ブログにしてみる

談話のページの上の部分に、チョコっと書いておいたので既に気付いていると思いますが、この談話のページをブログに移行することにしました。
考えてみれば、ひたすら文章を書きまくっているこのサイトでは、ブログという形式が最も良く合っています。体裁もそれほど気にせずに、思い立ったとき文章を入れていくだけで、それなりの見栄えのするページが出来るので、とても気軽。ふと気付いてみると、多くのページが既にブログで書かれていますので、私も流行りに乗り遅れまいということで、この談話のページ、及び「最近面白かったもの」をまとめて、ブログで書くことにしました。

ブログにするので、今後は一週間に一度といわず、気が向いたら短めの文章を書いていこうかと思います。ただ、何か決めないとずるずると更新しない可能性もあるので、当面は一週間以上は間を空けない、という決まりを自分に課したいと思います。

私のページ、それほどカウンタも激しく廻らないので、読まれているという実感があまりないのですが、先日の全国大会関連で思わぬ方々から「読んでます」という話を伺いました。思いつきでかなりいい加減なことを書いているような気もするのですが、私がいろいろ考えることが少しでも役に立っていたら嬉しく思います。
今後も、マイペースで好き勝手なことを書いていきますが、変わらぬご愛顧よろしくお願いいたします。

2004年11月24日水曜日

興行としての全国大会

松山で開催された合唱コンクール全国大会に行ってきました。
ここ2年、合唱コンクール全国大会は近場だったので聞きに行ってみたわけですが、今年は観光も兼ねるということにして、頑張って四国まで渡ることにしました。コンクールの後、月曜、火曜としまなみ海道を観光して、さっき帰ってきたところです。実は、私、今回生まれて初めて四国に行きました。^^;

さて、例年ですと、選曲や演奏の印象、各団体などの感想などを書くわけですが、三年連続で聴衆として全国大会を聴いているうちに、なんだかこの大会自体を客観的な目で見るようになってしまいました。
正直言うと、全国大会って出場者じゃないと面白くないんですよね。参加する人が一番面白いように、全ての仕組みが出来ているんです。今年は知り合いも多い浜松合唱団が全国大会に出場したこともあって、かなりの知り合いが会場にいたのですが、そのせいもあって余計そう思うのかもしれません。
出場者も、観客なんかほとんど意識していない。意識するのは審査員です。コンクールは、出場者と審査員で完結していて、単に見に行った聴衆はかやの外のようなそんな気がするのです。
今年はアクセスのあまり良くない松山というせいもあったのか、初日の午前中は観客も超まばら。すごい寂しいです。これがこの大会を目指して全国からツワモノが集まってくる場所なのか、とても疑問を感じます。確かに、松山ということでなくても、これまでも会場が熱気ムンムンだったということは少なかったように思います、審査発表時以外は・・・。
そもそも、これだけの団体数がところてん方式で、入れ替わり立ち代りひたすら演奏を続けるというのは、どう考えても聴衆にとって優しい環境とは思えません。それは取りも直さず、出演者主体でスケジュールが組んであるからであり、出場者と審査員の都合でしか考えていないことの証拠でしょう。ただ、こういう突っ込みを入れ始めると、全国大会というシステム自体を否定することになり兼ねないので、これ以上言っても仕方のないことではありますが。
もちろん、じゃあ出ればいいじゃない、という突っ込みはあるでしょう。残念ながら私にはその機会はありそうにないですが。(朝日作曲賞の表彰台にはまた立ちたいですけど・・・^^;。今年はいいとこまでいったのですけどね)

今月の頭に、吹奏楽の全国大会の様子をテレビ番組で特集していたのを見た人もいると思います。(所ジョージ司会の番組)
高校生が毎日のように鬼のような特訓を受けつつ、コンクール全国大会目指して日々頑張っているというスポ根的ノリで、さわやかな感動を誘うような番組構成になっているわけです。恐らく、多くの人が好感を持ってあの番組を見たのではないでしょうか。
私も、学生の頃、こんなに一途に打ち込めるなんて羨ましいなんて思う気持ちもあったのは確かですが、それでもなお、甲子園的ノリで勝ち抜きで音楽の優劣を競うために、各高校が血眼になっている様を見て、何か歪んだものを感じてしまったのです。
以前も、聴衆不在のお稽古系音楽ジャンルの談話を書きましたが、こういった全国大会のあり方が、その方向を助長しているように思えます。もっと、聴衆を増やす方法を、どんな興行であっても考えるべきではないかと、私は思います。

さて、演奏の方ですが、個人的には一般Aでは、ゾリステン・アンサンブル、会津混声合唱団、アンサンブルVine が、そして一般Bでは、なにわコラリアーズ がお気に入りでした。特に、なにわコラリアーズの印象は圧倒的で、もう、かっこいい!の一言しか出ません。
個人的には、アンサンブルが少し破綻してもハリハリ系の声で押してしまうような演奏にはあまり共感を感じないのですが、のきなみそういう団体が金賞を受賞する傾向があるのが、今ひとつ面白くありません。私としては、鳴りが弱くても、指揮者がアンサンブルをきちんと統制し、しかも曲の面白さを彫り深く表現するような知的な演奏が好きです。(まあ、それもあくまで私が判断して、ということですが)


2004年11月13日土曜日

「幼年連祷」の一節に想う

大学時代に歌ったことのある「幼年連祷(曲:新実徳英、詩:吉原幸子)」の一節をふと口ずさむことがあります。

「わらはないでいいひとが わらふのだった
死なないでいいけものが 死ぬのだった」

自分自身はこの言葉に思わず共振し、歌っていても妙に気持ちがこもったことを覚えています。
こういった言葉を聞いたとき、最初の一文で、例えば私腹を肥やす政治家、経済人だとか、人々を混乱に陥れるテロリストとか、暗躍するヤクザとか、その他、人を貶めて高笑いをしているような人々を想像し、それに対して、次の文で繊細で傷つきやすい人々を想像するかもしれません。そういった社会の矛盾をこの言葉に託して想いを込めるというのもあるでしょう。
さらに言うなら、こういった想いはどこまでも自分個人に向かい、繊細で傷つきやすい「けもの」を自分自身に投影し、自分はこの社会で生きていくにはナイーブ過ぎるんだなどとナルシスティックに夢想してしまうといったこともあるはずです。そのとき、「笑わないでいい人」は自分の身近にいるリアルな対象を想像しているかもしれません。
そのような思いを代弁してくれる言葉として、この詩の一節はとても印象的に響きます。

ところが、この言葉で表される気持ちってとてつもなく傲慢なんじゃないかと、ふと思ったのです。
自分の人生においては自分は自分でしかないわけで、常に自分は自分を正当化しようとし、自分の考えの範囲内において正義であろうとします。しかし、相手にも同様に相手の中の正義があるはずです。そのとき自分以外の考えを、相手の正義として考慮できないのは自分の怠慢なのではないでしょうか。世の中のあらゆる衝突、紛争は恐らく常に正義と正義の戦いなのです。そういった悲劇を繰り返さないためにも、私たちには相手の正義を少しでも理解しようとする想像力がもっともっと必要なのではないでしょうか。
だからこそ上の一節が、内向的ではあるにせよ、自分の正義の殻に閉じこもり、特定の人に対して「笑わないでいい人」と言い切ることに危うさを、そして傲慢な気持ちを感じるような気がしてきたのです。
もちろん、これはこの詩の、あるいはこの詩人の価値について論じているわけではありません。この言葉に共振してしまう心情について言っているのです。自分を憐れむところで思考停止することは、やはり傲慢さの一部なのではないかと。

こういったシリアスな話題は不得手ですが^^;、傷つく自分ばかりにフォーカスするあまり、傷つけている自分を忘れてはいけない、という自戒の念もあるのかもしれません。年齢を重ねると発言権も増してくるし、人を動かすことも多くなります。しかし、周りにいる人々が全て、その人の正義に基づいて行動しているのだということを常に想像することは必要なことだなあ、としみじみ感じています。

2004年11月6日土曜日

フロー体験

たまたまちょっとした折に、「フロー体験」という言葉を聞いて、興味深かったので、その紹介をしましょう。
フロー体験というのは、ごく大雑把に言えば、あることに熱中して、寝食も忘れ、没頭しているような状態のことを言います。
このような体験には、以下のような特徴があります。

明確な目標とフィードバック
 目の前にこれをやりたいという明確な目標が存在していて、それをやりながら常にその結果をフィードバックでき、対応を調整できる。
能力とのマッチング
 ちょうど自分の能力に手頃な内容で、かつ自己表現として他人に認めてもらえる状況にある。
注意の集中
 その状態にいるとき、非常に強く集中している。
統制感覚
 自分がやっていることが全て統制出来ているという感覚がある。
客観的意識が無くなる
 それをやっている自分自身を客観的に認識することが無くなり、自分がやっていることに全ての感覚が集中している。他のことに感覚が向かない。
時間感覚の喪失
 時間の感覚が無くなり、ふりかえってみると時間が速く去ったように感じる。
自己目的的経験
 その行為から生ずる報酬のために行うのではなく、その行為自体が大きな快楽であり、自分に対する大きな報酬となっている。

たまたま、この話を聞いたときは、画家が絵を描いているとき、このような状態にあると言っていました。
ただ、そのときの話ではこのような体験をしたことがない人は 1/3 くらいいて、逆に 1/5 くらいの人は日常的に経験しているとか。要するに、こういった体験が出来ることは、その人のパーソナリティに依存していると言えるでしょう。

もちろん、私もこういった感覚の中に身を置く楽しさを知っているつもりです。あらためて、フロー体験という言葉として定義されると、自分がやっていたことの本質がちょっとわかってきたような感じがします。恐らく、多くのクリエータの人が日常的に体験していることなのではないでしょうか。
重要なのは、最後の自己目的的という特徴です。
芸術家が芸術作品を作り上げたいと思う気持ちは、その行為自体が持っている快楽にあるのではないか、というのは中々興味深い示唆です。芸術作品を作る動機というと高邁な目標や、神がかり的な精神状態で表現されることが多いですが、それはまさにこのフロー体験という言葉で表すことができるものなのではないか、とそう思えます。