2004年12月30日木曜日

詩のボクシング

去年はどうも見逃したようなんですが、今年の詩のボクシングの全国大会の番組を見ることができました。
以前も2回、この番組の模様を談話に書いたりしていますが、いやー、これほんとに面白いですよ。合唱曲を作っているおかげで詩に触れることは多いのだけど、詩を楽しむということに関して、現在最もアグレッシブな試みであるのがこの詩のボクシングと言っていいと思うのです。
文字として書かれる詩よりも語られる詩という要素を重視したこの試みは、歌われる詩という要素と相通ずるものがあります。いずれにしても、音声を通して人に語りかけるからです。特に詩のボクシングの場合、語る人たちのキャラクターがとりわけ大きなファクターとなってきます。それが、逆に一般の人から見ると、ちょっと寒いイメージを持たれるのかもしれないけれど、それは表面的なものの見方でしょう。舞台で何かを表現しようとするとき、恥ずかしいとか寒いとかいう印象はもっと払拭されなければならないものです。それはもちろん合唱にも当てはまります。
今回の優勝者、林木林さん、強烈なキャラだけが印象に残りがちですが、斜に構えた皮肉たっぷりな表現の中に、独特の比喩をちりばめた才能の高さを感じました。
それにあのキャラはどう考えても作為的ですよ。いくらなんでも、あういう詩を作りながら、あそこまで人そのものが素でダサい感じであるとは思えない。髪型、服装をわざとダサくして、しかもノーメイクの眼鏡顔。猫背でおどおどしながら歩き、徹底的に自己卑下した雰囲気を醸し出しています。準決勝時に詩人の紹介があったのですが、昔のちょっと美人な写真を見て、完全に彼女が作為的なキャラ作りをしていることを確信しました。
その準決勝の「雨ニモマケズ」のパロディは面白かった。生真面目で盲目的な宮沢賢治好きには噴飯ものかもしれないけど、ああいうパロディの精神を持っている日本人は少ないと思います。そして決勝の木と水が逆転している世界もすごいと思った。
世の中には市井にいながら、クリエイティヴな活動をしている方がたくさんいるんだなと、個人的には大変勇気付けられた気がしました。

2004年12月29日水曜日

ソロとアンサンブル

普通クラシックの世界で歌をやっているといえば、オペラのアリアや歌曲などをソロで歌うような活動でしょう。妻もそういう世界に片足を突っ込んでいるわけですが、実際、こういう世界にはいろいろ怪しい人たちが多いのです。声楽といえばイタリアオペラ、というような方々は世の中にたくさんいるらしく、またそれを指導する人たちもそういった価値観の中にどっぷり浸かっています。
そういう人たちの中には、合唱を毛嫌いしたり、一段低いものと捉える方々も多いらしい。もちろん、一般的には合唱団にソリスト級の人たちはそれほどいないでしょうし、どちらかというとアマチュア音楽的な世界ではあります。それでも、音楽をするために必要なアンサンブル力というのは合唱では求められます。
ソリスト的な歌いまわしとアンサンブル重視の歌いまわしはもちろん両立しないわけではありませんが、本質的な意味において相反する関係であるのかもしれません。
つまり、ソリストにとって自分自身の存在感を示すことは何より大事なことであり、そのため伴奏から意図的にはみ出たりすることはむしろ演奏者の色を出すことに繋がります。印象という点でいえば、単純に高音が出せたり、音量が大きかったりという要素も重要でしょう。そこまでいかなくとも、若干のビブラートとか、一音符内での音量操作などもソリスティックな歌いまわしには欠かせません。
逆に合唱団の中では、音量や音質に統制を取る必要が出てきます。アンサンブルというのは一種の規制であり、制約を課せられたゲームのようなものです。本来はその制約の中でいかにドラマを作っていくのか、というのが音楽の中で大事な要素なのですが、アマチュア合唱の場合、制約を守らせるのに精一杯な現実があります。
ところが、それがソリストの世界から見ると、ただの規制をはめられた音楽というように見えてしまっているのではないかと思うのです。
どんな音楽活動であれ、アンサンブルの楽しさを知らないことは大変残念なことに思います。しかし声楽家と呼ばれている人たちには、意外とこのアンサンブル能力が低い人が多いように感じます。それは、あたかも合唱に対するアンチテーゼのようです。
私が所属しているアンサンブルグループのムジカチェレステの忘年会でこんな話をしたのですが、ソロ活動もしている人たちは、ソロの人たちにももっとアンサンブルの楽しさを知って欲しい、と言ってました。本当にそのとおりなのだけど、なかなか振り向いてはくれないようです。
逆に、私にはもっとソリスティックな歌の能力を求められていて、頑張ります、というしかない状態なのでした。


2004年12月24日金曜日

温故知新

新しいモノに価値を見出すことは本当に難しいことです。
ほとんどの場合、新しいモノといっても玉石混交で、とりあえず批判しておけば8割くらいは当たることでしょう。まあ、責任のない立場なら何を言っても構わないわけで、それだけに人々の批評の言葉は当人が思っている以上に保守的なものなのです。
しかしそもそも古いモノが優れているのは当たり前なのです。なぜなら優れたものしか残っていないからです。だからそれをもって昔の方が良かったなどと言うのは的外れなのだと思います。
人は皆、自分の手が届かない場所にあるモノに憧れます。古いモノは古いが故に手が届かず、だからこそ永遠に超えることのできない憧れになり得ます。だから、今の時代にバッハを好きな人が、「バッハと同時代に生きたかった」などというのは、おおよそ見当違いな発言になる可能性があります。もしバッハの時代に生きていたら、平気でバッハを批判していたかもしれないのです。
古いモノに価値を見出すことは簡単だけど、そのスピリットを受け継ぎ、新しいことを生み出すことはいかに難しいことか。新しい価値を作り出そうとするとき、作り出すというそのものの苦労だけでなく、過去にとり憑かれた人々の深層心理とも戦わねばならないからです。

2004年12月18日土曜日

ゲノムが語る23の物語

041218
遺伝子関係の科学読本。
人の持つ23本の染色体が、それぞれの章になっていて、その染色体内にある遺伝子をネタにいろいろな話題を提供するという体裁がなかなかセンスが良いのです。
とはいえ、なかなかヘビーな一冊です。いろいろな面白いことが書いてあるにもかかわらず、夥しい専門用語の数で(ちゃんと説明されてはいますが)正直言ってなかなか頭に残らないのが悲しいところ。
しかし、これを読んで思ったのは、遺伝子の仕組みがまるでデジタル信号を扱うコンピュータのようなものだということ。何億年もかけて生命は自然とこのような仕組みを作り出したというのはまさに脅威。とはいえ、今では用をなさなくなったジャンクDNAであるとか、複製の際のコピーミスであるとか、実際の遺伝子の動作は完璧というわけではなく、これが病気や老化や、あるいは進化の原因であるわけで、この辺りを理解しようとすると相当ヘビーな内容になってきます。
「利己的な遺伝子」でもあるように、全てのコピーの最小要素は遺伝子であり、遺伝子一つ一つが利己的に振舞う、と言う考え方は、具体的な例でいろいろ示されます。ジャンクDNAである用をなさない遺伝子が人の遺伝子に寄生していたり、父譲りの遺伝子と母譲りの遺伝子間で闘争があったり、一つの個体の中でさえ、各遺伝子同士が自分を残そうと躍起になっているのです。
この他、遺伝子と知能の問題、個人の識別の問題、遺伝病の話、遺伝子操作にまつわる倫理的な話、と様々な話で構成されています。

2004年12月17日金曜日

ローズとハモンド

仕事の関係で、往年の名機と呼ばれる二つの楽器に触る機会がありました。
一つはローズの電気ピアノ。もう一つはハモンドオルガンB-3というやつ。いずれも60年代、70年代の音楽シーンを語る上でかかせない楽器です。
音そのものは、今でもシンセに載せられたりして聴いたことのある感じはあるし、当時の有名なアーティストが使ったあの音と同じ音だ、という楽しみもあったのだけど、個人的にはあれを作り上げた技術者魂みたいなものに感銘を受けたのです。
両方とも、今から見れば恐ろしく不安定な楽器で、例えばローズなど、買ったばかりではまともな音が出なかったらしいのです。蓋を開けて、一つ一つの鍵盤についている音叉のようなものを締めているネジで音を調整しなければいけません。また、各鍵盤の消音用のフェルト部分もかなりバラつきがあって、ここも調性が必要。実際に音を出す鉄の棒にも針金のようなものが巻いてあって、この位置を変えるとピッチが微妙に調整できるのです。
ハモンドのほうは、音に関する不安定さはそれほどないのだけど、例えば近接するトーンホイールがクロストークしてしまい、鍵盤のピッチとは違う、若干の変なピッチの音が聞こえてきます。電源を入れるときも、車のエンジンみたくスタータを廻さないといけないんです!
いずれも、電子技術が無かった頃の話なので、技術的には仕方ないにしても、これだけの仕組みを電気的、機械的に作り上げたそのアイデアと努力は、ひしひしと伝わりました。電気を使うとはいえ、これはやはり生楽器なのです。楽器というのは、本来常にこういう不安定さと紙一重にあって、それが使う側の愛着を誘ったり、その人にしか出せない音を生む原動力になったりするわけです。
ローズもハモンドも時代の流れに淘汰され、今では影も形もありません。しかし、こういう楽器を作りたいという設計者の意志があれば、今の時代だってもっとクセのある面白い楽器が作れるのだと思います。私としては、ビンテージ物のこれらの楽器の音色を単に礼賛するより、そういったこだわりを持って楽器を開発したその意志にロマンを感じてしまうのです。

2004年12月16日木曜日

千と千尋の神隠し

今頃見ました。しかも先週テレビを録画していたのを忘れてました。
たまたま、月曜日の英会話のとき、イギリス人の先生が「I couldn't understand」と言っていて、そのときはいくら日本的な雰囲気とはいえ、分からんことはないだろうと思ったんです。映画は結構好きな人なんだけど。(日本にいたら、映画くらいしか楽しみが無いのかも)
その話を聞いて、自分が録画していたのを思い出し、ようやく見たというわけです。流行ったのがずっと前のことだったので、すっかり映画を取り巻く評判を忘れていたのですが、確かに英語の先生が「わけわからん」といった理由はわかりました。これは、とんでもなくシュールなお話だったのですね!
私はこういったシュールさは好きです。ドロドロのゲロゲロな感じがうまく表現できるのはアニメだからこそ。実写じゃシャレにならない映像になってしまいます(その前に、へんてこりんなキャラが実写じゃ無理)。
脈略がなく、とんでもない方向にどんどん話が向かうこの映画は、以前も書いたけど「未来世紀ブラジル」を思い起こします。ただし、そこはやはり宮崎駿、どんなにシュールでも、人の良さ(ブラックな味わいの少なさ)、少女趣味的傾向は健在です。もちろん、その辺りが万人に受ける要因でもあるのですが。
しかし、すごい想像力だなあと思いますね。これだけのキャラ、オブジェのデザインを考え出すその底知れないイマジネーションに感服です。それを堪能するだけでも、宮崎ワールドの価値は十分あると思います。

2004年12月13日月曜日

久しぶりの本番

今日は、静岡県芸術祭の合唱部門にヴォア・ヴェールで参加してきました。
��月に演奏会をやって以来、今年は小ステージの縁が無くて久しぶりの本番になったのですが、今日都合の悪い人が5人もいてステージに乗った人は13人。申請の人数よりも減ってしまった…
練習の出席率も必ずしも良くは無いので、全体的にのんびりしたムードの合唱団になりつつあります。まあ、居心地は良いのだろうけど、これではなかなかうまくなりません。今日演奏したバーバーの Reincarnations も4月以来、8ヶ月以上歌っているのだけど、歌いきれている感じがどうも出てこないのです。
ここ数回の練習でやはり気になったのはピッチの問題。
私の周りではこういった小アカペラ合唱団ばかりなので、もういつでもピッチの問題だらけなんですが、どれだけ苦労してもやっぱり王道というのは見つからないんですね。日によっても違うし、歌う場所によっても違うし、指揮者が言ってしまった一言でさらに悪化してしまう場合もあります。考えてみれば、何十人という人たちが一つのハーモニーを作る際、一人が何かアクションしたくても、一瞬ではどうするのが一番正しいことなのかは判断がなかなかつきません。
それに微妙なずれだと、上がっているのか下がっているのか、やはり一瞬ではなかなか判断しづらい。指揮者が「低い、低い」と言って、もともと上がってずれていたのが、どんどんずれていくのは良くあること。最近はそういう間違いが怖くて、よほど確信が無いと低いとか、高いとか私も言わなくなりました。^^;
まあ、そんなこんなでピッチを良くするにはどうするか考え始めると、どんどん思考は袋小路に入っていくのです。
団員が20人を超えると、ピッチ的に安定状態に向かうような力学が働くような気がするのですが(つまり1パートが5人くらいになれば)、それ以下だと、個人の能力や気まぐれに左右されることが多くなるわけです。そんなことを考えると、やっぱりとりあえずは人数だよなあ、と思うのですが、不思議に私の関わる合唱団の人数は20名を超えたことがないのです。

2004年12月7日火曜日

太陽の塔/森見登美彦

第十五回日本ファンタジーノベル大賞を受賞した森見登美彦の「太陽の塔」を読みました。
いやー笑った、笑った。面白かったです。
言ってしまえば、もてない男たちが、世の恋愛至上主義を嘆きながらも、やはり心の底ではささやかな幸せを求めて止まない心情みたいなものが垣間見える、とっても恥ずかしい大学生のお話。そう、青春というのはとめどもなく恥ずかしいものなのだと思うのです。誰にもいえない恥ずかしい体験を、赤裸々に書くこと、ただし直球でなくて、相当な変化球で、これがこの小説の目論見でしょう。
だから、とても共感できてしまう。全てがあまりに恥ずかしいからです。もちろん、笑いを追及するあまりあり得ないような話も出てきますが、そこに横たわる恥ずかしい感情は、誰にでも経験のあるものです。
そういったわけで、この小説、エンターテインメントというよりは、むしろ純文学に属する小説だと私には思えます。この小説にはストーリーなどほとんどなく、ストーリーに無関係な妄想がむくむくと行数を侵食しているからです。
それでもラストシーンはバカバカしくも幻想的で、情景が思い浮かぶような、不思議な面白さを感じました。泣きながら笑いながら、この部分読みました。このあたり、実は結構技巧的に書かれてもいるとも思えました。


2004年12月5日日曜日

MJってブスなのか?

今年公開されたヒーロー映画、スパイダーマン2はなかなか良くできた映画で、結構面白かったのですが、実は私まだ1のほうを見ていなかったのです。先日テレビでスパイダーマンをやっていて、ようやく1を見れました。
こちらもなかなか面白かった。1も2も大枠でみれば単純なストーリーだし、想像の範囲を超えない典型的なヒーローモノ映画なんですが、スパイダーマン自身の苦悩や、悪者が悪者になるまでの苦悩などがきちんと描かれていて、微妙に人を引き込むのがうまいなあ、と感心しています。
その中でも、主人公のピーターと幼なじみのMJとの恋愛の行方というのが、もう一つの面白さとしてうまく絡んでいるわけですが、どうも世間一般の評価では、MJ役のキルスティン・ダンストが美人じゃない、とかブサイクだとか、ひどいことを言われているみたい。
映画では誰もが憧れる高嶺の花的存在。しかも女優になりたいとか言ったり、いろんな言葉の端々にタカビーな匂いが漂っています。そういう役どころ自体が、ヒロインの割りには嫌われる原因なのかもしれないけど、でも私には、だからこそリアルに思えるわけです。美人だからこそタカビーに振る舞い、さらにそれをいつも遠くから見つめていることしかできない主人公の純朴さが強調されるわけですね。
それで、MJって皆さん、ブスだと思います?確かに、目元の鋭さと頬の張リ具合が、オバサンっぽい雰囲気を醸し出しているのかもしれません。日本人好みじゃない美人って感じがします。
でも、例えばヨーロッパの奇抜なデザインの車を、「うゎ、へんな車!」と思うか「へぇーかっこいい!」と思うかの違いみたいな、何かしら文化的な美醜の違いを思わず感じたりするんです。こういう端正な欧米系美人というのは、日本人には向かないのかもしれません。
いや、それとも、いつも悪者にからまれて絶叫している感じが、単にはまっているという配役なんでしょうか。

2004年12月3日金曜日

全国大会で買った楽譜

全国大会に行って思わぬ出費になるのが、パナムジカの出店で買う楽譜代。
今年の購入楽譜は、コスティアイネンのMISSA IN DEO SALUTARE MEUM、モチュニク:Christus est natus、トルミス:古代の海の歌、千原英喜:どちりなきりしたん、といったところ。毎年、演奏を聞いたあと、思わず楽譜を買うのはいいのだけど、その後歌うでもなし、本棚の肥やしになっていくわけです。

もちろん、楽譜を買ったら、ピアノでたらたら弾いてみたりします。
よく、一流の指揮者、作曲家は楽譜を見るだけで頭の中で音楽が鳴る、なんて言いますが・・・、そういう話を聞くと、私などついつい反発したくなっちゃいます。どうも人々は音楽の能力を、そういう技術力で測るのが好きらしい。まあ、人の頭の中でどんな音が鳴っているか、頭をかち割ったってわからないんだから、「私は鳴るよ」なんて言われても否定はできないわけですが。
そんなわけで、そんな能力のない私は一生懸命ピアノを叩くのですが、ピアノの技術も無いので、数ページ弾いていると弾くのに精一杯になって曲の輪郭がぼやけてしまうのです。そして、やっぱり音源が欲しいなあ、とか思うわけです。まあ、苦労してMIDIで打ち込んでもいいのだけど、最近は面倒になってきました。
かくして、音像も明らかにならないまま、またまた本棚に合唱楽譜がたまっていくのでした。

今回ゲットした楽譜の中でとりわけ異色なのがトルミスの曲。はっきり言って弾くのは簡単です。ただ、歌詞をつけたあの独特の感覚は声でないとわからないし、楽譜上では淡白な白玉の和音も、分厚いハーモニーがあればこそ映えてくるわけで、そう考えてみるとやはりトルミス、恐るべし、と今更ながら思うのです。
この曲は、極小的な和音構成よりも、曲の構成力こそ評価されるべきなのでしょうね。