2005年12月25日日曜日

企業倫理とは?

テレビを見ていたら、今年の事件には、企業の倫理観が欠如したと思われるようなものが多かった、とニュースで報道していました。確かに、最近のマンションの構造計算書改ざん問題、松下の電気ストーブ問題、東証の度重なるミス、JRの脱線事故、などなど思い当たるものは多いです。
そういった事件、事故に対する多くのコメンテータの意見の大半は、最近、日本人に倫理観が欠如しているのではないか、というものです。あるいは、それぞれがやるべき仕事がきちんとしないことに憤慨される方も多い。もちろん、市民側の気持ちとしてはこうした事件、事故、犯罪というものを糾弾し、きちんと責任を取ってもらうべきでしょうが、私には何か本質は別のところにあるようなそんな気がします。

実際、倫理観が欠如した人は、恐らく昔から存在したのだと思うのです。今になって急に増えたとは思えません。要は今まで表面化しなかったのです。
その表面化した原因は何なのか。
一つは、グローバル化、ボーダーレス化による大競争時代のおかげでしょう。情報も交通も限定されていた時代は、それぞれの企業が活躍する範囲は限られていたのですが、今や地方だけでなくて、日本全体、世界全体を相手に回さなければいけない時代です。
簡単に言えば、安くなければ速くなければ競争に勝てない。たくさんの企業が競争に負けて、消えていっています。そんな中で、誘惑に負けて、粗悪品を売ってしまうことがあるのは避けられないことではないでしょうか。鉄道や住宅供給といった生活に根ざしたところでさえ、そういった競争のしわ寄せが来ているわけです。ウチの会社だって、コスト下げようとして安い部品を使ってひどい目にあったこともあります。

もう一つ言いたいのは、世の中のいろいろなことが効率性、便利さを目指すために、規格化され画一化されるようになっているという点。
こういった透明性への希求は、なあなあで済んでいたいい加減な慣習を一つ一つ暴くことにつながります。例えば、構造計算書の話だって、耐震建築のルールが決められていなければ、問題にさえならなかったわけです。JRの運転手だって、効率を追求しなければ、まるで機械のようにミスのない仕事を要求されることもなかったかもしれません。
この社会が効率性を追求すればするほど、規則は増え、私たちの行動には規制が伴うようになります。こういった時代の流れは、一方では正しいことではあるのだけど、私たち一人一人に課せられる義務だって当然増えているわけです。
他人の行動を糾弾する私たち自身、全てのルールを完璧に守っていると断言できますか?
もし、あなたがゴミ出しのルールを守らなくて、大変な事件が発生してしまったらどうしますか?世間はあなたをすごく批判することでしょう。

私は、今事件に登場するプレーヤが法のもとに裁かれるのは仕方ないとしても、感情的に批判するだけのお気楽な態度に組みしたくないのです。いつだって明日は我が身だし、こういった社会自体、私たちがどう考えるべきか、もっと議論の必要があるのではないでしょうか。

2005年12月22日木曜日

変拍子は楽し

変拍子というのは、なぜか私の心をくすぐります。
一般には変拍子というと、現代音楽的で複雑でヘンテコな音楽の要素とみなされている場合も多いです。でも、私の感覚はちょっと違います。現代音楽ほどわからない音楽ではないし、かといって巷に溢れる流行歌より凝っていて面白い、とでもいうか。私にとって変拍子はビート感が強調されるほど魅力的。心の中で、12345と数えながら、「うーん、いったい何拍子なんだ!」というのが好きなんですね・・・
恐らく、変拍子というのは、それそのものの魅力というより、こういった音楽の引っ掛かりを愛するような感性から来ているように思います。それはとても知的な作業にも思えるし、あるいは奇形を愛する気持ちの一種なのかもしれません。
変拍子の音楽といえば、まずはプログレ。曲によっては、変拍子であることそのものが目的の曲もたくさんあるように思います。私としては、キング・クリムゾン、ELPあたりが変拍子と言って思い出されます。「太陽と戦慄」は大好きなアルバムの一つ。3+3+2+2 の十拍子が気持ちいい。
最近では、ブログで感想を書いた上原ひろみも変拍子大好きなアーティスト。最新アルバム冒頭の曲「スパイラル」では、左手でバリバリの変拍子伴奏をつけながら(2+2+3+2+2+2 の十三拍子)、右手で別のリズムを弾くという超絶技巧を聞かせてくれます。

邦人合唱曲では拍子がころころ変わることは珍しくないですが、変わった拍子でずっとリズムが刻まれることは少ないと思われます。7/8 ならそこそこあるでしょうか。
ちなみに、拙作 E=mc^2 では、冒頭の曲の途中より、3+3+3+2+2 の十三拍子で突っ走ります。作る立場としてもこういうの好きなんです。

2005年12月19日月曜日

大河ドラマ「義経」

今年の大河ドラマ、全部見ました。
題材としても申し分なく、そのおいしい題材をなかなかうまく料理していたのではないでしょうか。まあ、ありていに言えば面白かったです。義経っておいしいエピソードが多すぎるんですね。たとえ史実ではないにしても、見るほうとしては予定調和なその世界に安心できるという部分はあるでしょう。
人物の造形もいいですねぇ。清盛、頼朝、藤原秀衡といった大人物の安定感はもちろんのこと、平家のキャストも各キャラが良く立っていたし、源氏の各武将、巴、静といった女性もよく描かれていたとおもいます。
今回のドラマでの最も大きな脚色は、義経の郎党の面々を付け加えたことでしょう。そもそも、弁慶自体その存在も怪しいのに、それに加え、何人もの実在しない家来をドラマに入れるのはそれなりに勇気が入ることだと思います。義経の家来なので、実に素直に皆は働くし、都合のよい場所で情報を仕入れたり、狂言回し的な役割を担ったりもします。何より、義経が置かれた状況や、それに際する心情を、義経の代弁をするようにこの家来に言わせるという役もあります。時にそういうストーリーの進め方が危うい感じもしたのだけど、主人公の代弁者として、彼らの存在は今回のドラマを通してとても大きなものでした。

作品の芯も、義経の「情」と頼朝の「理」を対比させることで、深いテーマを視聴者に突きつけます。
まあ日本のドラマですから、必ず最も「情」を持つ人間は主人公だし、それゆえに愛すべき人物像が作られます。しかし、今回「理」を表現する頼朝も決して悪役ではないのです。むしろ、大きな組織を動かすには、このような血も涙もない冷血な判断も必要なのだ、という当たり前のことをきっちりと表現しています。
みんな心のどこかで、コンピュータや情報が氾濫し、何から何まで規則で固められた規格化した世界観に少しずつ幻滅しながら暮らしているのだと思うのです。何もかも「理」で解決するようなそういう風潮こそ、おかしいと。そんな人々の漠然とした不安を、このドラマがうまく掬い取ってくれたように思います。

2005年12月17日土曜日

楽譜のコピーガード

某出版社から出たコピーガード対策の楽譜を拝見。
なるほど、なかなか面白い仕組み。コピーが出来ないわけじゃないけど、原紙に見えないほど薄く付いていた模様が、コピーすると浮き上がってきて、「コピー禁止」のような文字が写るという仕掛け。恐らく、コピー機がどこから黒と認識し、どこから白と認識するか、その閾値の差をうまく利用して隠れた模様を印刷しているのでしょう。確かに何も知らずにコピーした人がこの文字を見てびっくりして、コピーを止める、という抑止効果はあるのかもしれません。

では、私からもコピー防止用楽譜のアイデアについていくつか。
その1
昔、「飛び出す絵本」というのがあったけど、「飛び出す楽譜」というのはどうでしょう。ページを開くと紙が何かしら立体的な形に飛び出し、そこに楽譜が書いてあるわけです。これなら、コピーはしづらくなるはず。
その2
水に濡れると、印刷されたものが浮き出てくる楽譜。楽譜を見るためには本を濡らさなければいけません。もちろん、そんな状態でコピー機の上に載せる人はいないはず。難点は練習場所が水浸しになること。
その3
黒地に白の印刷の楽譜。コピーしたらトナーを使いまくってしまい、コピー機がすぐにトナー不足で止まってしまうので、それなりにコピーの抑止効果はあるかもしれません。

というわけで、お粗末さまでした。

2005年12月12日月曜日

完全演技者/山之口洋

totalperformer題名からは想像も付きませんが、一種の音楽小説。
��0年代始め、テクノが流行り始めた頃、奇妙なメイクと衣装、エキセントリックなパフォーマンスで、NYで注目を集め始めたネモ・バンドにまつわるストーリー。主人公シュウが、このネモ・バンドに憧れ、そしてそのバンドの一員としてパフォーマンスを始めます。バンドのメンバーとの関係、葛藤を経ながら、ミイラ取りがミイラになる劇的な結末を迎えるのです。
面白いのが、このバンドのリーダー、クラウス・ネモは女声の音域までを持ち、ライブでもオペラアリアを歌ってしまうという設定。小説中にもカストラートについて言及する箇所があるのだけど、一見ロック、ポップミュージックを題材にしながら、随所でクラシック的な(あるいは古楽的な)題材が出てくるのが興味深いのです。(山之口氏のデビュー作では、バッハのオルガン音楽においても相当な薀蓄を垂れていたし・・・)

しかし、それにしても、この小説は何かしら得体の知れない臭いを持っています。この作家からは決して、デカダン的な要素は感じないのだけど、この小説が描く世界は、耽美的で、退廃的、そして背徳的。テンポの良い文体は、主人公の真っ直ぐな若者像を現しているのに、その内容のドス暗さとのギャップに戸惑います。純朴な青年がヤクでトリップしまくるんですよ。
しかし、その陰鬱さも、後半ミステリ風になっていく過程で薄れ始め、最後には落ち着くところにきっちりと落ち着くというのが、この作家のソツのなさなのでしょうか。そのあたり、実にうまいなあと思います。
最後の盛り上がりシーンで、バックに音楽が流れている様子は、まるで映画、演劇的。ポーの「アッシャー家の崩壊」も思い起こさせます。

どうも、ここに出てくるネモというアーティストには、実在のモデルがいるようです。その名も「クラウス・ノミ」。ネットで調べてみると、この小説では、現実のモデルが歩んだ人生をうまくデフォルメして利用しているのがわかります。確かに、いくら創作でも、いきなりデビッド・ボウイが小説内に出てくるなんて大丈夫?と思いましたから。


2005年12月6日火曜日

金春屋ゴメス/西條奈加

gomes第17回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品。
まず、そのタイトルがインパクトでかいです。「金春屋」は”こんぱるや”と読みます。人の名前だと想像は出来ますが、遠い異国が舞台なのかと思いきや、時は近未来の日本、しかも江戸時代の江戸を再現した街が舞台となると知ってまたびっくり。ゴメスの由来は「馬込寿々」という名前の真ん中を取ったあだ名で、これはなかなかのネーミングセンスだと思います。
設定としては、とある実業家が二十世紀初頭、「江戸」を建設し、そこでは文明から何から江戸時代を模した生活を始めます。その江戸国は日本から独立を宣言します。しかし国際的には認められず日本の属領となったのですが、日本側の好意で、独立国家として扱われることになるのです。
そのような大きな舞台装置がまず何といっても面白い。設定部分はさらっと終わるのでいろいろ疑問は残るとしても、近未来なのに電気も車も無いという落差はなかなか滑稽です。しかし、話はその大きな舞台装置そのものには向かいません。この江戸で発生した「鬼赤痢」という疫病をめぐって、金春屋ゴメスを中心とした長崎奉行所が調査を進め、これが人為的なものであることを突き止め、最後に犯人を見つけるというのが基本ストーリー。

物語が動き始めると、設定そのものの面白さから離れ始め、一般的なドタバタエンターテインメントと同じフォーマットをなぞり始めます。それはそれで心地良いのだけど、例年の受賞作品から比べると、いささか独創性に劣るように感じます。
出来れば、自然指向と先端医療の二つの反するベクトルでの悩みをもっと掘り下げると、深みのある小説になるのではないか、そんな気がしました。

2005年11月29日火曜日

CDも買った

最近あまり合唱のCDを買っていなかったのですが、新潟の全国大会では久しぶりに散財。
京都の世界合唱の祭典のCDとDVD、それからオスロ室内合唱団とノルディックボイセスのCDも購入。作曲家ではエリック・ウィテカーの作品集とマンチュヤルヴィの作品集、それから邦人のも一つ。
ウィテカーのも面白かったけど、マンチュヤルヴィのCDがとても良かった。
冒頭がいきなりプシュードヨイク、その他の曲もどれも興味深いです。分かりやすさと現代的な和声感覚、気持ちの良いリズムと私の好きな要素が詰まっています。中には執拗な繰り返しフレーズで、歌手泣かせの曲も。
CDのライナーノーツで作曲家の紹介も載っています。1963年生まれ。音大でなくて、ヘルシンキ大学で英語と言語学を学んだと書いてあります。職業も通訳とか、コンピュータシステムマネージャなんて書いてあります。その一方、合唱団で歌ったり、学生時代オーケストラでティンパニ、ピアノを弾いたり、指揮活動もしている。なかなかマルチタレントな人ですね。こういう人に憧れるなあ。

2005年11月23日水曜日

全国大会に行った その2

今回の全国大会、大学Bの前半5つ、大学Aの前半4つ以外は全部聴きました。
最初の5つが聴けなかったのは、当日朝、浜松から新幹線で行ったのでしょうがないとしても・・・大学Aは、昼休み周りに食事する場所が見つからず、ホール内のレストランで待ち行列に繋がる羽目になり、聴くのはあきらめたのです。そんなわけで、大学の部の演奏のコメントは止めておきます。^^;

全般的には無伴奏化がますます進行し、いわゆる昔ながらのピアノ伴奏付き邦人曲はすっかり少数派となっています。これは私としては好きな傾向。
しかし、そのせいなのか、もう知らない作曲家のオンパレード。ほんとに、まあ、よくもいろんなところから曲を探してくるものです。もう、ニーステッドとかプーランクとかだと、保守的な選曲とさえ思えてしまいます。今年は特にそんな感じだったので、もう全部の作曲家をチェックするのは止めました。
今回の注目作曲家は、ずばりエリック・ウィテカー。2年前にESTが演奏したのが始まりかと思いますが、そのウィテカーを演奏した団体が今年は3団体。来年以降、流行りそうな予感。
というのも、今回圧倒的な印象を残したのが、岡崎混声合唱団の演奏したウィテカー作曲「レオナルドは空飛ぶマシーンを夢見る(Leonard Dreams of His Flying Machine)」。この曲、超カッコいい!題名だけでも十分興味をそそるのですが、曲は期待を裏切らない大変面白いものでした。
レオナルドとは、レオナルド・ダ・ヴィンチでしょう。彼が遺した飛行機のスケッチが、この詩のモチーフなんでしょうか。レオナルドがルネサンス人ということだからなのか、曲はまるでモンテヴェルディのマドリガーレのような雰囲気を強く感じさせつつ、現代的な技法と処理がときどき施されるという趣向。後半になって、リズムが付き、ノリノリの雰囲気になり、カッコいい盛り上がりを作ります。そして、最後は空飛ぶマシーンで消えゆくように、風の音だけが残るというシャレたエンディング。楽譜もCDもゲット。もちろん、自分の周りでは歌えるはずもないですが、作曲する立場としてとても気になる曲です。

さて、一般Aでは、私の一番のお気に入りはアンサンブルVine。素晴らしく整えられた発声とハーモニーで、ひときわ印象が深かったです。曲の雰囲気も非常に私の好みだし、最後の曲の演出も上質なもので、センスの高さを感じさせます。トータルのパフォーマンスとして、とても知的な印象を受けました。
CANTUS ANIMAE, ヴォーカルアンサンブルESTの邦人作品も注目の一つ。最も新しい邦人作品がどのような方向を向いているのか興味が湧きます。二つとも打楽器を使うという点も共通していました。2団体とも、非常に精度の高いアンサンブルを聞かせてくれて、曲の雰囲気を良く伝えていました。それだけに、演奏そのものよりも曲の内容に私自身の興味が移っていたのは事実。
正直に言うと、両曲とも打楽器を使いながら、ビート感が希薄な感じの曲だったのが残念。こういった傾向は前衛的な邦人作品全体に通じるものがあるように思いますがいかがでしょう。

それ以外で印象深かった演奏として・・・
松下中央合唱団の自由曲は良かった。確か、ノースエコーが以前演奏した曲ですね。聞く側にもかなりのテンションを要求しますが、その張り詰めた雰囲気が大きな印象を残しました。
ちょっと毛色が違うところとして、創価学会しなの合唱団もなかなか好印象。東京代表ながら、しなのとはこれ如何に。それはともかく、日本語を非常に彫り深く表現していたのが印象的。信長さんの曲も素晴らしい。

全体的には、面白い団体が関西、中部方面に集中している感じ。関東勢全盛だった数年前とはまた違った雰囲気になってきました。
来年は熊本ですか・・・。自費で行くのはきついなあ。(^^;;;

2005年11月22日火曜日

全国大会に行った その1

週末、新潟の合唱コンクール全国大会に行ってきました。
ここ3年連続で全国大会に行っていましたが、今年はまた別の意味で、全国大会に参加することになりました。
といってももちろん演奏する側で行った訳ではありません。すでにご存知のことと思いますが、拙作が朝日作曲賞の佳作になったため、全国大会の場で行われる表彰式に招待されることになったわけです。
��8年の福岡のときも「だるまさん」の受賞で、全国大会に行ったわけですが、そのとき以来2回目の、チケット代、交通費、宿代連盟持ちの財布の心配のいらない旅となりました。ちょっとばかり優越感。

さてさて、そんなわけなんで、昨年の愛媛のときよりも、いろいろと感慨深い全国大会になりました。
いろいろな方とお会いすることができて楽しかったです。でも、なかなか気の利いたことが言えなかったけれど。
というわけで、演奏云々の前に、今回出会った方たちの紹介をしたいと思います。
●合唱連盟の皆さま
 事務局長の田辺さんを始めとして連盟の皆さまにはお世話になりました。実際、私、ただステージで賞状をいただくだけなんですが、いろいろと気にかけていただきありがとうございます。
連盟の方に、演奏審査で私の曲を歌ったという方がお二人いて、ちょっとお話してくれました。結構、私の曲を気に入ってくれたというような話を聞くと素直に嬉しいですね。私の正直な気持ちは、演奏審査のときだけしか歌われないなんてもったいない!ぜひ、どこかでまた歌って欲しい、といったところですが・・・何とかならないかなあ。
●朝日作曲賞の山内さん
 一緒に賞状をいただいた山内さんとも初めてお会いしました。音大で音楽を教えている本職の方。うぅ、すでに十分貫禄がある感じなんですが・・・。むかし吹奏楽をされていて、やはり器楽中心の作曲をされるようですが、今後、合唱の作曲も増えるのではないでしょうか。
●昔の仲間
 島根のゾリステンアンサンブル(今年は残念ながら全国には行けなかったようですが)のS氏、それから合唱団KMCで参加されていたK氏など、以前静岡にいた合唱仲間と会いました。
●全国大会で会うネット友人たち
 あげさんとか、GiovanniのTachanとか・・・
●メールやり取りをしていたけど、初めて会った方
 会津混声のOさん、お声をかけていただきありがとうございます。「だるまさん」のときはお世話になりました。また、ぜひ拙作を取り上げて欲しいなあ・・・。会津混声は私の好きな団体の一つです。
 今年、北海道代表になった QuaterNotes の指揮者の皆川さんとも会いました。私の古い女声合唱曲を札幌で初演してくれました。そんな彼らが全国大会に来たのは、なんだか嬉しいですね。演奏も非常に声が揃えられていてその精度の高さはすごいと思いました。
●松崎さん
 ご存知の方もいると思います。以前、朝日作曲賞を受賞したこともある作曲家の方。4年前の上野の森コーラスパークで、私と一緒に入賞しました。新潟在住で、実は今回の全国大会でちょっとした仕事をされていたということで昼休みにお会いしました。拙作もお渡ししたので、また批評などいただけるのを楽しみにしています。
●ESTの皆さん
 数年前の宝塚の圧倒的な印象以来、大ファンであるヴォーカルアンサンブルESTの皆さんと、今回ちょっとばかりお近づきになることができました。というのも、私の大学の先輩が最近ESTに参加されていて、全国大会の打ち上げにおいで、と誘われていたのです。
 そんなわけで、土曜日の夜にESTさんの打ち上げに紛れ込ませていただきました。作曲家の鈴木輝昭さん、合唱界重鎮の洲脇さんなども来られてびっくり。しかし、やはりESTって凄いなあと、打ち上げのノリの中でも感じました。本当にみんな練習好きだと先輩にも聞かされましたし、一人一人の合唱への想いというのが本当に強いんですね。今後とも、ますます楽しい合唱を聞かせて欲しいと期待しています。
 指揮者の向井先生にも、ご迷惑かもしれませんが今回の受賞作をお渡しいたしました。またよろしければ、音になったらいいなと・・・いや、そんな大それた事は言えません。

それから、昨年と2年連続で全国出場を果たした浜松合唱団の(良く知った)面々も辺りにうろうろしていて、なんだかはるばる新潟に来たという印象が薄れてしまいそうでした。おまけにウチのヴォア・ヴェールの団員が3人も全国見に来てました。休み時間、ロビーに出れば誰か知り合いと会うというそんな感じの大会でした。

あと最後に、今回の会場のりゅーとぴあは素晴らしいホールです。
音響も品があるし、曲線中心のデザインもなかなかのもの。世の中からは無駄な公共事業と言われそうですけれど。
それでも、こんな音楽専用の立派なホールで全国大会ができるのはとてもよいことだと感じます。全国大会は持ち回りになっていますが、年によってホールに差があるので、そのあたりも何とかならないかなあ、とちょっと感じました。こんないいホールがあるなら、毎年新潟だっていいと思うんですよ。

2005年11月16日水曜日

ヘリウムガスを吸って歌うと音が高くなる?

よくパーティグッズなどで、ヘリウムガスを吸って、変な声になるやつありますよね。
最近ちょっとした折にそんな話をしたのだけど、そのときは何も疑問を持たず、ヘリウムガスを吸って歌うと音が高くなる、と思ったのです。
しかし、よくよく考えてみるとどうにも理屈が合いません。
ヘリウムガスは比重が軽いので、音速が速くなる、とそこまではいいのですが、音速が速いとピッチが高くなるというのはちょっとおかしい。もし、仮にピッチが2倍高くなるのであれば、2秒間の歌が1秒間に短縮されなければいけません。でも、ヘリウムガスを吸って話すと、しゃべるスピードまで速くなるわけじゃないですよね。
ネットで検索してみると、怪しい説明がたくさん。
音速が速くなるが、波長が変わらないから音程が高くなる、などと書かれた説明もありましたが、そんなバカな。音速が速くなればその分波長が長くならなきゃおかしいじゃないですか。
もう一つ、面白い話もありました。ヘリウムガスの中で音を鳴らすと、ピッチが変わるものと変わらないものがあるのです。ギターやラジカセはピッチは変わらない。でもリコーダーはピッチが高くなります。確かに、リコーダーの場合、音速で気柱の長さが変わるからピッチは高くなりそう。
そんなわけで、ヘリウムガスで人の声が変わるのは、声のピッチが高くなる、というような単純な話ではないということにようやく気付いたのです。

・・・というわけで、私が得た結論。
簡単に言えば、ヘリウムガスを吸ったときには、ピッチではなくて、音色が変わるのです。
人間の声は、声帯が振動して音の元を作りますが、その音は身体で共鳴して大きくなり、口や鼻の中で音色が作られます。口や鼻で作られる音色は、母音ごとに周波数特性が違っていて、そういった特性のことをフォルマントというのですが、ヘリウムガスを吸うと、そのフォルマントが高い周波数に移動するのです。
結果的に、声の倍音構成が高い方に変わります。そのために聴感上は音が高くなって聞こえてくるのでしょう。そして大事なことは、いくらヘリウムガスを吸ったとしても、声帯が出している基本ピッチは変わってはいないのです。

2005年11月13日日曜日

異星の客/R・A・ハインライン

Stranger超分厚い文庫本、二月近くかけてようやく読み終えました。私の場合、読書が長期戦になってしまうと、寝る前に朦朧としながら読み続けるので、なかなか内容が頭に入らずさらに長期戦になってしまいます。この本もなかなか面白かったのだけど、あまりに長くて、今となると最初の方、あんまり覚えてなかったりして。
��・A・ハインラインによるSF小説であるこの話は1961年に書かれた、この分野では古典と言われても良いような作品。後書きによると、60年代にこの小説はバカ売れして、ヒッピーの聖典とも言われたとか。確かに、SFとは言いながら、作品に現われるガジェットや、通信などの方法に古さを感じてしまうのは致し方はないでしょうが、そのあたりを責めるのはルール違反でしょう。

ストーリーは、火星人によって育てられた人間が地球に戻ってくるのですが、その男スミスを巡って、世界連邦政府の対応や周辺の人々との確執が始まります。いったんは老作家のもとで暮らすことになったスミスですが、今度は彼が新興宗教まがいのサークルを設立し、そして最後に・・・となるお話。
作者が言いたかったことの一つが、同じく有名なSF小説、「ソラリス」と共通しているような感じを受けました。つまり、全く未知の生物というのは、未知の感覚と、未知の文化と、未知の倫理観を持っているという点です。ソラリスよりはよほど人間には近いのですが、だからこそ人間文化との違いを際立たせることによって、逆に人間が常識だと思っていることを、意識の俎上にあげた上でひっくり返してしまおうという、そんな意図を持った作品。
おかげで、かなり人間にとってのタブーに近いところに踏み込む箇所があります。
例えば、火星では死んだ者を皆で食べるという習慣があることになっている。もっとも火星人は肉体がなくなることは死とは言わず、この小説はでは分裂と呼び、その後長老として精神的に人々の心の中に住むことになるらしいのです。
また、スミスは後半で宗教団体のようなサークルを作るのですが、そこは何というか、いわばフリーセックスのような巣窟となっています。水を分け合うことで水兄弟となり精神的に結びつくことを和合生成と言うのですが、火星人には性がなく、地球人同士で同じようなことを行うのに最も適した行為とスミスが考えたのがセックスだということになるわけです。
恐らく、このようにある閉鎖的な集団で濃密な精神のつながりを持つような生き方、に当時のヒッピーが強く共感したのかなとも思えるし、事実、この小説が発表された後、同じような宗教団体を作った人も現われたとか。

もう一つ、面白いネタとして、この小説の中にグロクする、という動詞が随所に現われます。グロクは火星語で「わかる」とか「認識する」とかに相当するらしいのですが、ハインラインは敢えて造語としてこの言葉を、小説の中で頻繁に使用しています。そしてついにこの言葉、辞書にも載ってしまったらしい。最近では、アップルのスティーヴ・ジョブスが演説の中でこの言葉を使った、とかいう記事も発見しました。
そんなわけで、SFといいながら60年代アメリカに大きな影響を与えたこの本、なかなか秀逸です。SFというよりは、人間の常識とは何か、そういった本質的な疑問を私たちに投げかけます。それと同時に、政治家、宗教家たちの言動への風刺に満ちているのも面白いという、社会的な楽しみも備えています。

2005年11月12日土曜日

無伴奏合唱の作曲 その2

��続きました)
要するに、私が言いたいのは、アカペラにはアカペラの美学というものがあるということ。
それに気付いている合唱人は結構多いと思うのですが、逆に指揮者や作曲家でも気付いていないと思われる人もいるような気がします。
ではアカペラの美学とは何ぞや、とここで文章で書こうとすると、なかなか簡単には言えないのですが、やはりいくつかポイントはあると思います。
一つは、ダイナミクスを拡げたり音の数を増やすよりも、旋律の絡みや、シンプルな動機、旋律が発展していく、といったような書法。そもそも、アカペラが大オーケストラに音量的にも色彩的にもかなうはずもなく、そういう指向を持った音楽をあえてやる意味はないのです。それよりは、各旋律が共有するビートの中でどのように関係性を持ち、相互に影響させていくのか、そういうことに主眼を置いた手法こそ、歌う側も聞く側も楽しいのではないでしょうか。
従って、そういう意味では、ディビジョンを増やして、テンションをたくさん含む和音を鳴らそうとするのも、アカペラ書法としては、あまり良くないと私には思われます。といいながら、こういった書き方は邦人アカペラ合唱曲の一つの特徴でもあり、私も実際には完全に逃れることは出来ていません。
前回も言ったような、”メロディ+ディビジによる分厚い和声”というような曲はたくさん見かけますし、そういう曲を日本語の意味を考えて情感を込めて歌う、というのが日本的アカペラ唱法といってもいいでしょう。本来、音楽のシンプルな気持ち良さを追求すべきであるアカペラに演歌的装飾が施されてしまうのです。
だからこそ、ディビジをできるだけ廃し、各パートの動きをできるだけ際立たせた、そういった書き方をしていきたいと日々思っているところです。


2005年11月10日木曜日

無伴奏合唱の作曲

オリジナル作品一覧を見てもらえばわかりますが、ここ十年来、私は無伴奏、すなわちアカペラ合唱曲ばかり書いています。
作曲を始めたときもアカペラでしたが、このときはピアノ伴奏がうまく書けなかったから。それからピアノ伴奏付きの曲を何曲か書いたのだけど、自分自身の合唱活動とシンクロするように、私の作曲の傾向がすっかりアカペラに移ってしまいました。
もちろん、アカペラとピアノ伴奏付きの曲は作り方も異なるわけですが、実際のところ、そういう差にどれだけの人が敏感に気付いているのか疑問に感じたりもします。
単純に考えれば、ピアノ伴奏曲の方が音符の数が多いから、作曲のレベルも高いように思われますし、何しろ派手で壮大な曲を作ることが可能ですから、一般ウケもいいでしょう。そういった表面的な効果から、ピアノ伴奏の曲はまだまだ広く好まれています。私はそれ自体は全然否定しないし、邦人合唱曲の数々の名曲があることも良く知っています。
問題なのは、そういった音楽傾向を単純にアカペラ合唱に対しても求めてしまうような態度です。
アカペラで、やたらと高音で派手なエンディングがあったりするのは(まあ、人のことは言えませんが)、本来的にアカペラの特質を生かしているとは思えません。

もう一つ、重要な点も指摘したいです。
通常、音楽は、メロディ、ハーモニー、リズムといった要素で考えられるわけですが、単純にあるパートをメロディに、他のパートをハーモニーとリズムに、という書き方はアカペラでは決して好まれないということです。その一つの表れがルネサンスポリフォニーに対する嗜好であることは確かでしょう。しかし、作曲する側がそういうことを考えずに、メロディ主体の音楽をそのままアカペラにしてしまうと、かなり安直な作曲になる場合があります。
自分としては、そういう安易さに陥らないことを肝に銘じているのですが・・・(続くのか?)

2005年11月5日土曜日

楽器フェアに行く

日本における楽器関係の最大(?)のイベント、楽器フェアがパシフィコ横浜で開催されています。昨日、この楽器フェアに行ってきました。
実はこんな仕事をしていながら、楽器フェアに行ったことはなくて、来てみたら意外と楽しかった。このイベントは、恐らく楽器ビジネスをしている人よりも、実際に楽器演奏をしている人のほうが絶対に楽しめると思います。国内で商売している多くの楽器メーカや貿易会社が店を出していて、ここに来れば、いろいろな情報を直接仕入れることが出来るし、詳しいことを聞くことも出来ます。
残念ながら、私はたいして弾ける楽器も無いので、ピアノや、管楽器、エレキギターなど、専門性の高いブースはあまり縁がありませんでしたが、それでも楽器好きの熱気みたいなものは感じました。
せっかくなので写真つきで雰囲気などお伝えしようと思います。

gakki1



ムーグから出展されているテルミン




gakki2 リコーダーアンサンブルの風景




gakki5 二胡の専門ブースも




gakki4 チェレスタの中身を開けて展示




gakki6極めつけはコレ。白鍵だけのピアノ。黒鍵が嫌いな人の福音となるのか?どこが「ド」かわからない、という噂も・・・



2005年10月29日土曜日

スパイラル/上原ひろみ

spiralややミーハー的なファンとなりつつありますが、上原ひろみの3rdアルバムを購入。弊社の食堂でポスター付きで出張販売しておりました。
まあ、所詮ジャズ、フュージョンは門外漢なので、その筋の専門的なことは言えないのですが、やっぱりそれでも、上原ひろみはいいなあ、と肌で感じられます。もちろん、演奏の確かさというのもあるのだけど、全て彼女自身が作曲しており、それぞれの曲から感じられる創造性のようなものが、私の感覚に合うのだと思います。
今回のアルバム、今までに比べると、ちょっとキャッチーなメロディが減って、全体的に渋さが増しているような・・・。中盤に組曲風の作品があるのだけど、私には組曲である必然がちょっとわかりません。こういう世界に挑戦するのなら、曲の構成にもう一ひねりあるといいのだけど。
でも、その組曲の中、「リヴァース」「エッジ」という曲のプログレ感は大変よろしい!ピアノでなくて、ハモンドオルガンで弾いたら、往年のプログレの世界になっていくに違いありません。

初回プレス限定の特典DVDには、前アルバムの一曲分のライブ映像が収められています。相変わらず、にこやかに、そして身体全体で音楽を表現する、彼女のパフォーマンスが見られます。私など、これこそライブの面白さだなあと思うのだけど、フュージョンに詳しい友人には、どうも彼女の仕草がわざとらしく、あるいはあざとく感じてしまうらしい。なるほど、正統派の人たちから見ると、そういう見られ方もするよなあとちょっと納得。
そのDVDで彼女が使っている真っ赤のシンセサイザーは、スウェーデンのメーカの Nord Lead という機種。これ、プロの中では愛好者が多く、主張のはっきりした製品で、私も欲しいと思う逸品の一つ。日本のメーカには、一点突破型のこんな製品はなかなか作れないんです。こういうシンセ選びのセンスなんかも、ジャズの世界に留まっていない彼女のありようを表しているように思います。

2005年10月25日火曜日

メンデルスゾーンを歌う

日曜日、アンサンブルムジークの日独交流コンサートが浜松アクト中ホールで開催され、出演してきました。
アンサンブルムジークは女声合唱団ですが、今回は男声も集め、ドイツから来た合唱団とジョイントで演奏するという企画です。
合唱の曲目はメインがメンデルスゾーン作曲ラウダシオン、あとモテットの"Mitten wir im Leben sind"も歌いました。
はっきり言って、音楽的な好みがますますロマン派から離れている今、メンデルスゾーンなんてもっとも縁遠い状態なんですが、やはり歌ってみるとなかなか面白いんですね。ラウダシオンは全体的にメロディがキャッチーで、印象的なフレーズも多いです。曲もバラエティに富んでいます。それでも、やはりロマン派的な雰囲気が色濃く漂っていて、正直もう少し刺激のある音が欲しいよな・・・とは感じていましたが。
今回、実は一番歌っていて楽しかったのは8声のアカペラのモテット"Mitten wir im Leben sind"
この曲はいい!確かにロマン派的な雰囲気はあるのだけど、不思議にアカペラのモテットとなると、メンデルスゾーンもメロディをメインにするような書き方はしないのですね。重層的なポリフォニーの世界と、時々各パートに現われる印象的なフレーズが良くマッチした、非常に素晴らしい合唱曲です。長さは8分くらいでしょうか。コンクールでも使えそうな曲。
本番直前にドイツ人が加わったりしたので、演奏の精度自体は決して高くは無かったかもしれませんが、シビアなアカペラ合唱の醍醐味を味わいました。

本番後の打ち上げも楽しかったですね。ドイツ人との交流大会となりました。お互いにいろいろな曲を歌いあったり、片言の英語でいろいろ話したり。このパーティが練習開始以来、一番楽しかったという噂も。

2005年10月20日木曜日

指揮者視点で歌う~音量

音量バランスというのは、どんな音楽ジャンルであっても、最も大事なものであり、音楽をやる者なら誰でも苦労していることの一つです。レコーディングの場でも、最後にミックスダウンという作業があって、ここで各パートの音量バランスを丁寧に調整して、一つの音楽にしていくわけです。PAを使ったコンサートでも、専門のPA担当者が本番中にも慎重に音量調整やイコライジングを行っています。
これがナマのアンサンブル音楽の場合、つねに演奏者が自身の演奏状況を把握し、フィードバックをかけ、音量調整をしなければなりません。しかし、レコーディングやPAのプロの世界に比べると、それは何とも心もとないように思えます。

実際、人数が増えて大編成になってくると、もはや演奏者には全体の音響を把握しづらくなり、一人一人の調整では効かなくなってきます。ここで指揮者の指示が必要なわけです。指揮者が練習やリハーサルを通して、音量の指示を出したなら、当たり前のことだけど演奏者は忠実に守らなければいけません。
演奏者は常に、自分の耳に聞こえる音と、聴衆に聞こえる音が違うことを意識しなければならないし、その違いを指揮者の指示を通して、理解する努力が要ります。これも指揮者視点で歌うことの一つではないでしょうか。

そうはいっても、音量バランスは繊細で難しい問題。指揮者視点といっても、実際に音を聞けるわけではないから、頭の中で想像するしかないのですが、今度はその想像力の質が問われることになってしまいます……

2005年10月19日水曜日

指揮者視点で歌う

私はベースですが、合唱におけるベースの泣き所は高音ではないかと思います。男声の場合、あきらかに実声と裏声の変わり目がはっきりしている人が多く、その直前の音域では咆え声になる人は結構多い。小さな音量で実声で高音を出すのは、恐らくベースが一番下手なのではないでしょうか。(あくまで一般的に)
曲にもよりますが、そういった箇所ではどう歌うべきでしょう。きちんと歌えない自分がいやで、意地でもきちんと歌おうと頑張る人もいることでしょう。確かに3回に1回くらいの確率できちんと歌えるかもしれないけど、それじゃ演奏を聞かせるには忍びない。
もちろん、指揮者の指示があればそのとおりにすべきですが、うまく歌える確率が低い場合、あえて歌わない(あるいは、裏声で抜いてしまうというような)という選択肢もあるはず。もちろん、歌い手としては困難から逃げているように感じるかもしれません。それでも、無理して歌うより歌わない方がまし、ということは、正直あると思うのです。
実際、歌わない、というのは極端すぎますが、それでも今合唱団全体の中で、自分がどのような音を出すべきかということを考えて歌えば、別の歌い方がある場合だってあります。ただ、そのように団全体の音楽を考えて歌うのはそんなに簡単ではないと思います。
恐らく、そんな風に考えることができるのは指揮者経験者だけじゃないかとも思えます。指揮をしたことがある人は、指揮者が何に苦労するかも知っているから、歌い手として不本意なことでも受け入れるだけの素地があるのです。
ときどき、自分の声楽的満足感を満たすために合唱をやっているような人も見かけますが、実はそういう人が一番たちが悪かったりします。いい演奏のためには、もっと一人一人が指揮者の視点で歌うべきなのですが、それを実感してもらうにはどうしたらいいのでしょうね。

2005年10月15日土曜日

タイトル変更

実は私が最初にインターネット上にホームページを立ち上げて10年が経ちました。
考えてみれば随分長い間やってるんだなあ、とも思うけど、10年前とはネット環境も全然違っているし、ブログなんて昔は考えもできなかった。だから、同じことをやり続けたという実感もさしてないのです。それでも「日曜作曲家の午後」というタイトルで長らくやってきて、それなりに愛着は感じてきましたし、ネットでも認知されてきたと思います。
自分のトレードマークともなるタイトルを変えるのはあまり良くは無いけど、10年経ったということもあり、ふとタイトルを変更したくなりました。そう思うと、自分でわざわざ日曜作曲家というのも、何だか作曲活動にエクスキューズをしているようで良くない気がするし、人に歌ってもらう以上は、それなりに自信と責任を持たなきゃいけません。
そんなわけで新タイトルを「アルス・ポエティカ~音と言葉を縫いつける」としてみました。
アルス・ポエティカはラテン語で詩の技法という意味になります。ある意味、曲を作るということは広い意味で詩を書くこととそう変わらないのではないか、そんなつもりで「詩」の技法と名付けてみました。
「音と言葉を縫いつける」というのは、まさに歌を作る仕事そのものではないでしょうか。表現は堀口大学の詩「縫ひつける」を借りてます(タダタケ作曲のやつが有名ですね)。
リンクをしていただいている方々は、リンク先が変わるわけではないですので、暇なときにでもタイトル変更にご対応ください。よろしくお願いします。

2005年10月13日木曜日

見ちゃった…「吹奏楽の旅」

テレビで「吹奏楽の旅」というのをやっていて、思わず見てしまいました。去年も談話でちょっと書いたような・・・
いやあ、基本的には面白いですよ。それに、番組も、これぞ青春って感じの作りになっていて、思わず泣けてしまいます。
ああいう大人数の団体というのは、ほんとにささいなことで笑ったり泣いたりの集団トランス状態に陥ってしまう。先生が怒ることに正当性なんてなくてもいいんです!大事なことは、みんなの気持ちが一つになること。そして、それこそが一体感のある演奏を生むのです。先生もそれをわかっていて、わざと怒っているという気さえする。
しかし、それでもなお、あの集団トランス状態は、先生の気持ちをも巻き込むほど気持ち良いものなんでしょうね。そしてその舞台装置として、全国大会をヒエラルキーの頂点としたコンクールシステムは、彼らにとって無くてはならないものです。そこに数々の人間ドラマが生まれ、高校生が成長していくのですから…

別に嫌味で言っているわけじゃないですよ^^;
この番組が追求している気持ち良さというのは、誰にでも共通に感じることのできるものだと思います。
でもこれじゃ、一般の部の団体の立つ瀬が無いよなあと。そして、そこに話が移ると、ようやく音楽論になっていくわけですよ。そして、コンクールで賞を取るとはどういうことか、こういったジャンルが一般的な音楽の中からちょっと浮いているのは何故なのか、その疑問の迷宮を彷徨っていくことになるのです。

2005年10月8日土曜日

ハーモニーに載った

ハーモニー秋号が来ました。今回はもちろん世界合唱の祭典の記事がほとんどだけど、そんな中で朝日作曲賞の記事も載っています。
応募者としては、いろいろな情報が書いてあるこのページは年に一回のもっとも気になる記事の一つです。組曲公募になって応募数が減ったのが、まただんだん増えているなあ、とか、女声男声混声の比率とか…。審査員のコメントも一字一句が気になります。去年に続き、拙作が演奏審査に残ったので、恐る恐る自作品の評価を読みました。
今年は岸先生がコメント書いていてびっくり。でも比較的好意的な内容でしたね。「複雑すぎる」というのは、全くそのとおりで(^^;)、作曲コンクールとの付き合い方には未だに悩みの連続なのです。確かに、送る前から『ちょっとやり過ぎかなあ』とは思っていたんですが。

拙作の題名や各曲名を見てびっくりした人もいるかもしれません。
組曲自体が結構ネタ系なんですが、こういう曲ってなかなか日本にないと思うのです。今年は、相対性理論発表から100年を記念して世界物理年と決められましたし、そういう意味で、思いがけずタイムリーなネタにもなりました。一見風変わりなテーマですが、こういう題材こそ、合唱エンターテインメントの可能性を拡げるのではないかという思いもあります。音楽的にもいろいろと冒険をしています。
そんなわけですので、この曲に興味がある方、Don't hesitate to contact me!!

2005年10月6日木曜日

複素数の逆襲

仕事の関係で今更ながら信号処理の勉強をやっています。
大学時代のおぼろげな記憶のかなたから、フーリエ変換やらZ変換やらを呼び起こすというか、正直言って初めて理解するというか、そんな状態なわけですが、実は結構楽しんでいます。恐らく、それは現実に音を扱うことを仕事にしたり趣味にしたりした関係なのでしょう。そういった理論が現実世界とどう結びついているのか、今になってとても実感するのです。

そんな中で、全ての基礎となるのが、この複素数というヤツ。高校のときにみんな習ったはず。
二乗したら負の数になるという虚数なんてのが現われて、この実数と虚数の組み合わせの複素数で数字を現すわけです。だいたい、この虚数というヤツは何なんだ、と高校の頃の私はどう思ったか定かではないけど(受験のためだ、なんて冷めてたかもしれない)、だいたいほとんどの人が拒否反応を示すのではないでしょうか。

しかし、この複素数は我々を取り巻く様々な技術の中で応用されています。
デジタル信号処理も複素数が一番最初の入り口。これがないことには何も始まらない。
数学に明るくない私のような者が言うのもなんですが、複素数っていうのは、いわば「見えない次元」なのかな、と思います。音は単なる空気の振動だから、一次元のデータなのに、これを複素数を使って二次元化すると、いろいろな解析が出来るようになるのです。もちろん、その解析にはオイラーの公式という驚くべき式の威力のおかげもあるのですが……
相対性理論でも、不変と思われた時間を三次元に加えて、四次元的に考えることでうまく説明がつくのと似ています。自分たちの位置とは異なる別の次元に昇ることによって、見えなかったことが見えるようになる、というのは普遍の真理なのかも。

2005年9月30日金曜日

合唱エンターテインメントを作曲の立場で考える~聴き手のため?歌い手のため?

自分自身もずっと合唱を続けてきて、そんな活動の中で曲を書いていると、あ~こんな風に書くと歌う人は嫌がるだろうな、なんて想像出来てしまいます。なんだかんだいって歌う側は、自分のパートにメロディがあるのが嬉しいわけです。だから、シブい和声の穴埋め処理に追われたり、ひたすら同じフレーズを繰り返したり、同じ音程をずっと続けたり、ハミングしかなかったり、なんていう曲があると不満を隠さない人も多い。
合唱作曲家もその辺りを妙に心得ていて、各パートにきちんとおいしい箇所を散らせてあげたりなんかするし、盛り上がりの場所でも全パートが気持ちよくなるような音域や動きになっていたりします。実際、こういう曲は歌い手の評判は高くなるのだけど、果たして聴く側はどうなのか?

先日の世界合唱の祭典でも、自分が聴く側になったときの気持ち良さって、歌う側の気持ち良さとは違うんじゃないかと思ったのです。
例えば、大賞賛を浴びたオスロ室内合唱団。会場内に一人一人が散らばって歌ったときは、私も近場の人の声を聴けました。ある曲の中では、各自が同じ音程をずっと小音量で歌い続けるのですが、それが合唱全体になると素晴らしい音響を作り出すのです。まず同じ音程、音量をずっと保つその発声の技量に驚いたのだけど、歌手にとってみればマシーンに徹するようなそんな表現は必ずしも嬉しくはないはず。
しかし考えてみると北欧の合唱音楽というのは、歌い手に非常に厳しい発声技術を求めるストイックなタイプの曲が多いような気がします。半音でぶつけたままロングトーンで延ばすとか、クラスター的な密集和音の曲とか、高音でも小音量を求めたりとか……。しかし、そういった表現は、発声がよく訓練された歌手の演奏にかかると、何ともいえない神秘的な美しさを表現することが出来るのです。
アマチュアの場合、それほど高い声楽的性能を持っていないのは仕方がないけど、所詮合唱で人を感動させるのは人の声なわけで、それを際立たせようとする曲作りこそ、本来求められるべきだとは思います。しかしながら、アマチュア全盛の日本においては、歌い手が嫌がる曲というのはなかなかメジャーにはなれないような気がしてしまいます。

2005年9月26日月曜日

マタイの字幕操作をするの巻

以前こんな記事を書いてしまったせいなのか、ある演奏会の字幕操作係の役を頼まれることになりました。
その演奏会とは、浜松バッハ研究会創立20周年記念演奏会であるバッハの「マタイ受難曲」。いまさら言うまでも無いバッハ畢生の大作、そして最も字幕をつけて聴きたいと思われる合唱音楽であります。
今回はアクトシティ浜松の中ホールに、ホール奥のパイプオルガンを覆い隠すほどの大きなスクリーンを出し、パソコンでパワポの書類を表示する、という形です(まさに、私が以前書いた話)。パワポの書類自体は団員の方が作成したので、私の役目はその構成に従ってパソコンのカーソルキーを押すことでした。もちろん、事前に資料は頂いていたので、通し番号を自分の楽譜に全部書き写しておきました。驚くなかれ、パワポは全部で441枚。全曲で約3時間とはいえ、この切り替えは結構忙しかったです。楽譜を追いながらですから、気分は演奏家みたいなものでした。
私がいた場所は、ホール後方にある映写室。窓から会場全体は見えるのだけど、ナマの音声は完全にシャットアウト。音は全てモニターです。それからプロジェクターが熱を持つせいなのか、部屋は冷房で相当冷やされていました(意外とつらかった…すぐトイレ行きたくなるし)。

ナマの音声でないのがやりづらかったのは、意外な盲点でした。
モニターの音量も十分でなく(本番ではモニタースピーカを追加してもらった)、ステージの息遣いがいまいち私まで伝わらないのです(しかもプロジェクタのファンの音が結構うるさい)。視覚はナマでも、音声が電気を通しちゃうと、その場所はどうも演奏とは別世界になってしまい、自分が会場全体に字幕を見せているんだというリアリティがとても薄く感じられてしまうのです。ホール内にいないので映写室で一人、カーソルキーを叩いても、どこからも反応がなく、すごく不安になります。でも、世のPA屋とか放送局とかの人たちってそういう状況できっと仕事しているんですよね。
さて、肝心の字幕操作ですが、正直言いましょう。三箇所間違いました。_ _;
そのうちの二箇所はほとんど気付かれていないようでしたが、一箇所、バラバを赦免するくだり、エヴェンゲリストのセリフを楽譜一段分(3小節くらい)早く出してしまった・・・。後で何人かに指摘されました。ごめんなさい。

個人的には、字幕を出すタイミングをいろいろ考えたつもりでしたが、あんまりみんな意見してくれなかったなあ。自分が思っているほど、そんな微妙じゃないのでしょうか。
私は、曲頭では指揮者より先走って出さないように、逆にエヴェンゲリストが歌う聖書句の部分は、映画の字幕っぽいタイミングを心がけたのですが…
演奏会は、お客もかなりたくさん入っていたようです。演奏はいくつか事故はありましたが^^;、なかなか熱い演奏だったのではと思います。私も、なかなか体験できないことをさせてもらい、楽しかったです。ありがとうございました。

2005年9月17日土曜日

音楽の生存価/福井一

seizonka音楽そのものについて考察する場合、これまではどうしても哲学的、社会学的、心理学的といったような人文系アプローチが主でした。しかし、こういったアプローチは論ずる者の嗜好が強く反映されてしまったり、科学的な検証が必要な場合に不適当なデータ処理をしてしまうなど、問題が多かったのは事実です。また、芸術は崇高なものであり、その神秘を剥ぐことに抵抗を感じる、というような芸術至上主義が音楽愛好家には根強く存在し、音楽そのものの研究が偏見無く行われることは難しいのは確かでしょう。
この本では、まずそういった現状に対し、強い口調で非難します。そして、今こそ科学的視点から音楽を解きほぐそうと主張します。
実は著者の方向性は、私の感覚とおおむね同じです。私は、いつでも真理を知りたいし、適当な段階で神様を持ち出してそれで良しとはしたくないのです。その結果、この著者は進化心理学に興味を感じ、その学問が人間と音楽について何かしらの解答を引き出してくれるのではと期待しているようです。私も以前、進化心理学について、こんな談話を書きました。

そんなわけで、この本、音楽の価値をいかに「科学的」に解明するのか、それを論じた本なのです。
著者は音楽が人間の生存にとって、無くても良いもの、などではなく、人類進化の過程で必要があって生まれたものだという考えを持っているようです。そして、その考えを証明するために、様々な研究を続けています。
ただし、中盤以降、本の内容は脳科学中心になり、正直かなりしんどくなりました。
それでも、なかなか面白いネタはありました。例えば、男性ホルモンの一つであるテストステロンは、音楽と非常に関係が深いらしいのです。男性の場合、テストステロンが多いほど(男性的であるほど)音楽の能力は低くなり、逆に女性はテストステロンが少ないほど(女性的であるほど)音楽の能力は低くなります。つまり、一般的に、音楽家の男性は女性的でおっとりしていて(そういえばカマっぽい人も多いかも^^;)、女性は男勝りであることが多い、ということになります。さて、皆さんは納得しますか。
進化心理学の話が出た割りには、本のほとんどは脳科学を扱っており、若干肩透かしを食らった気分でしたが、全体的にはなかなか面白い本です。この分野の研究がすすめば、いずれ何故人は音楽に熱狂するのか、あるいはどんな音楽が人々を熱狂させるのか、そういったことがわかってくるのかもしれません。

2005年9月11日日曜日

チャーリーとチョコレート工場

映画「チャーリーとチョコレート工場」を見ました。
ティム・バートン節炸裂って感じです。ティム・バートンが悪ノリして、やりたい放題作ることが出来た映画。「マーズアタック!」もそういう映画でしたが、あまり興行成績が良くなくて(おふざけが過ぎたのか)、その後好き放題に作らせてもらえなかった、という話も聞きます。「猿の惑星」「ビッグフィッシュ」と手堅く来て(それでも「ビッグフィッシュ」は十分バートン世界だったけど)、今回、はじけましたって感じ。
なので、人によっては若干眉をひそめたくなるような悪趣味と写るかもしれません。でも、このナンセンスさ、シュールなお笑い感覚がやっぱりティム・バートンの真骨頂。ブラックな味わいが好きなら、この映画はウケると思いますよ。
では、この映画、マニアックであまりウケないかというと、そうでもなさそうです。昨日の初日より結構人が入っているし、内容そのものはわりと手堅く作ってある感じ。途中で脱落していく子供たちも典型的なやなタイプで、見る人の共感を得そう。最後に、ビッグフィッシュとシチュエーションが似た泣かせの場面もあります。
それでもねぇ、あの途中で入るウンパルンパ(?)の歌が、バートン的バカバカしさの極致。なんだか途中でミュージカル映画を見ているような気になりましたよ。あの曲だけ売りだしたら意外と売れるかも。

三つ子の魂百まで…

ただいま、部屋の物置と化しているクローゼットを整理中。
高校、大学時代の教科書、ノートなどがぼろぼろのケースの中にしまってあったので、ホームセンターで収納ボックスを買ってきて、中身を入れ替えていました。
そんなとき、思わず中に入っているものをつい懐かしく読んでしまうもの。その中に、大学の合唱団で、私が一人で執筆して団内で発行した「合唱のための和声学」なんて冊子が見つかりました。うーん、懐かしい。そんなこと、やってたんですねぇ。恥ずかしい部分も無いわけではないけど、意外と十九年前の私、良くやってるじゃないですか!難しくて誰も読まないよーと当時も言われましたが、確かにヘビーです、これをまともに読もうとすると。
冊子の内容は、最初に三和音の構成音とその連結の説明、それから四和音の説明、そして後半は愛唱曲の和声分析を何曲もやってます。書いてあることが、実は、恐ろしいほど今の自分の考えと同じで、ちょっと驚き。これは喜んでいいものなのか?おまけに取り上げられている愛唱曲も今でも私が好きな曲ばかりだったりするんですね・・・
三つ子の魂百までと思い知らされた出来事でした。

2005年9月7日水曜日

合唱エンターテインメントを作曲の立場で考える~みんなシリアス好き?

やはり日本人って、芸術というとシリアスでなきゃいけない、という感覚が強いんじゃないでしょうか?
あらためてそう言うと納得してくれる人は多いのだけど、いざ自分たちが何か演奏しようという段になると、みんなやっぱり芸術って高尚じゃなきゃいけない!って感じてるんですよね。もう何百年も前の作曲家なんて神様みたいに崇拝しちゃうし、宗教音楽だけを好んで歌うのもそういう意識があるからだと感じます。
そして邦人曲の場合、メッセージ性の強いテキスト、あるいは内向的で哲学的なテキスト、それに派手なピアノ伴奏を持った劇的な音楽か、ビート感の薄い起伏の少ない音楽がつけられ、深い精神性を持った曲として広く歌われたりする場合が多い(どんな曲が当てはまるか、具体的に想像してみましょう^^;)。

そういった楽曲を否定するつもりは全くありません。音楽芸術のあり方として、創作家が理想を追い求めた結果の一つであることは確かです。
しかし、それが深い考え無しに(見せかけの)芸術の高尚さを有難がる人々の要求に答えたものだとしたら、私はあまり嬉しくない。いつしか創作家自身が、そのようなスタイルの中で高尚な芸術家を気取り始めていくことになるでしょう。しかし、それは部外者からみれば滑稽に見えるだろうし、創作家の態度としてある意味、安易と言えます。
そんな今こそ、エンターテインメントの意識を持って人々を楽しませるという目的で書かれた音楽が必要だと思います。本来、芸術というのはそういうものではなかったでしょうか。新しくて楽しいものが人々に受けるのです。古い価値観の人には受け入れられないかもしれない。しかし、新しい流れが一般化され、その一方人々の興味から次第に外れてしまった芸術は、古典芸能化していくのみなのです。
常に、聴衆に向き合い、コンテンポラリーであり続ける努力が、創作家には必要ではないかと私は考えています。

2005年9月6日火曜日

マトリックス on DVD

��年前に公開された映画マトリックスリローデッドとレボリューションズ。当時の感想はこちら。ここで最後に言っているように、ようやくこの3部作のDVDをついに購入。といってもセットでなくて、安くなっていたので結局バラ買いすることに。
あらためてマトリックスを見直すと同時に、ネットでマトリックスの説明をしているサイトなどを見て、ようやく内容が見えてきました。
それにしても、こんなセリフがややこしかったり、思わせぶりだったりしたら、理解しろというのが無理ですよ。そもそも製作側は理解させることを目指していないのだと思います。物語の裏に潜む設定を、なるべく表面に出さずに、わざと多義的に残しているのです。こういったやり方は、どうも日本のアニメの影響のようだけど、個人的にはあまり感心しません。
結果的に、素人目には、マトリックスはシリーズを追う毎に面白くなくなっているように見えます。いろいろな意味で、新しいモノを提示したのが最初のマトリックス。結局、そのインパクトに後の二つは勝てなかったのではと思えます。
しかし、それでも、リローデッドから提示されているマトリックスの世界というのは、興味深いものがあります。マトリックスは仮想現実空間であり、全てはプログラムによって記述されています。従って、登場人物も全てコンピュータ上で動作するプログラムなのです。マトリックスでは、あらゆる現象がプログラムの動作のアナロジーとして表現されます。そういった世界観にソフトウェアエンジニアの私としては、惹かれる部分があるのは確か。
結局、ネオの役割はソースに行って、マトリックスをリロードすることです。実際、ネオの5人の前任者も同様にしてきました。そうすることによって、マトリックスは新しくバージョンアップされるのです。これがシステムの設計者(アーキテクト)、及びオラクルと呼ばれる預言者が考えたマトリックスのシステムです。
このシステムには、役割を終え、削除されるべきプログラム(オブジェクト)なのに削除を拒んでいる者、すなわち漂流者(エグザイル)がいます。キーメーカーも、スミスもその一人。これあたりは、お行儀の悪い書き方をしたプログラムが、RAMをどんどん使っていって解放しない感じをうまく表現しているように見えますね。
コンピュータシミュレーションの仮想現実が、ほとんど現実と変わらないほどの完成度に達したとき、まさにマトリックスのような世界が生まれるのでしょうか・・・

2005年8月30日火曜日

雇われ指揮者をするの巻

これまで私が指揮した団体は、全て仲間で立ち上げた合唱団ばかりで、いわゆる団員扱いで指揮をしているものばかりでしたが、昨日の合唱コンクール静岡県大会で、浜松ラヴィアンクールという女声合唱団の雇われ指揮者をさせていただくという体験をしました。もともと岸先生が振っている団体なのですが、この日、別の催しで先生が来れないということで、なぜか私が代役を務めることに。
本番を含め計5回の練習。かなり精鋭メンバーとは言え、女声10人というのはコンクール的には不利だし、当たり前だけど、女声合唱団の指揮って初めてなので不安はあったのですが、それでも面白そうという好奇心のほうが先に立ったのは事実。
それに、自由曲のフェルミの曲がなかなか気に入りました。曲の作りがシンプルなのだけど、決して安易ではないし、むしろ随所にシブい音の配列があります。曲調もシリアスでなく、音楽そのものの楽しさを強調した感じで、うまく歌えばかなり印象深い曲だと感じました。
大まかには岸先生の作りを踏襲したつもりですが、まあ指揮の見栄え自体が全然違うし(^^;、若干、好きにやらしてもらったので、最初は団員のかたも戸惑ったかもしれません。どうもご迷惑をかけました。
心配された結果でしたが、幸いなことに金賞・県代表になりました。とりあえず責任は果たしたかな。おまけに、個性的な演奏をした団体に贈られる中村賞を頂くなんていうオマケもつきました。

練習途中、うまく指揮できないフレーズがあったりしてあせったりもしましたが、全体的には結構楽しくやらしてもらいました。何より皆さんお上手で、私が言ったことにきっちり対応してくれたのはとても嬉しかった。こういう団体で指揮できるのはやはり気持ちいいですね。
久しぶりに女声合唱曲でも書いてみようかな・・・

2005年8月26日金曜日

クムラン/エリエット・アベカシス

qumranかなり厚めの文庫本で、読むのに随分時間がかかってしまいました。
この本、主人公が失われた死海文書の捜索を行うというのが基本的なストーリーなのだけど、ミステリー仕立てながら、ついにキリスト教の誕生の秘密にまで到達してしまうという、とんでもない小説。これを若干27歳の女性の哲学者が書いたというのも驚き。
殺人事件も起きるから、まあミステリーと言えるのだけど、どちらかと言うと途中から読者の興味は、失われた死海文書にいったい何が書かれていたのか、ということに移ってきてしまうのです。そして、どうもその失われた古文書には初期キリスト教に関することが書かれていて、死海文書研究チーム、考古学者、雑誌記者、ユダヤ教のラビ、そしてローマの信仰教理省、といった面々が、入り乱れつつその古文書の行方を追っていきます。
といっても、話自体は全然ドタバタじゃない。主人公によるユダヤ教の神秘体験とか、神学的な討論とか、クムラン、エルサレム等の地から沸き立つ霊感の描写とか、そういうことに執拗にページを費やしていて、その感覚を楽しむためにはそれなりにキリスト教、ユダヤ教の知識が必要なのも確か。そして、それゆえにキリスト教圏でこの本が結構ヒットしたというのも頷けます。
何といっても、この作者、饒舌です。ストーリーの流れよりも心理描写や風景描写に異常なほど言葉を注ぎます。途中で主人公は女性雑誌記者に対して恋愛感情を持つのですが、この恋愛感情の描写にも相当力が入っています。それにしても女性作家が、男性の恋愛感情を綿々と綴ったり、宗教的修行にとって女が邪魔であるといった内容を延々と書いたりしているのは奇妙な感じがします。よほど、客観的に世の中を見る術が身に付いているのか、それとも単に男勝りなのか・・・

後半でキリスト教の秘密がだんだん明らかになるわけですが、いくらエンターテインメントとは言え、まあ、これだけの創作をよくやってしまったものですね。場合によっては、キリスト教徒を敵に回しかねないけど、純粋な知的好奇心を満足させるには十分に練られていて(作者のユダヤ、キリスト関連の知識には非常に驚きます)、今の時代ならそれなりに許されてしまうものなのかもしれません。

聖書やキリスト教、死海文書、といったキーワードに反応するようならこの本はお奨め。単なるミステリーと勘違いして読むとかなりきついかも。

2005年8月24日水曜日

モーグ博士死去

シンセサイザーの生みの親と言われている、ロバート・A・モーグ博士が亡くなったそうです。71歳。
知る人ぞ知るムーグシンセサイザーの開発者。本人は若い頃、テルミンが元で電子楽器に興味を持ち始めたとのこと。そんなオマージュもあってか、モーグ博士の会社から今もテルミンが発売されています。(実はウチにある)
私もいちおう電子楽器開発者の端くれですから、モーグ氏の死に時代の変化を感じてしまいます。
��0年前に産声を上げたシンセサイザーは、全てアナログ回路によって作られていました。今見ると、もうツマミとケーブルのお化けという感じ。でも、音楽と機械が好きな私のような若者は、そんな大掛かりな機械に憧れたものです。私にとってムーグシンセサイザーの音と言えば冨田勲でした。いかにも電子音という音なのだけど、そこから繰り出される音楽はとても幻想的なものでした。実は、最近も「バミューダトライアングル」のCDを買いなおしたばかり。

今や電子楽器は全てデジタルだし、あんなにツマミだらけの楽器もあまりありません。
逆にパラメータは複雑化し、世のさまざまなものと同様、コンピュータ化していきました。そんな今だからこそ、まだムーグシンセサイザーに郷愁を感じている人たちもまだたくさんいます。
シンセサイザーの一時代を築いたモーグ博士は、楽器製作者として、永遠に名を残す人物となることでしょう。

2005年8月19日金曜日

合唱エンターテインメントを作曲の立場で考える

大それたお題になってしまいましたが・・・

まずは、合唱で扱う詩について考えてみましょう。
このネタ、昔も何度か書いた気がします。これとか、これとか。今回はもう少し視点を変えてみましょうか。

もし、ある詩がその曲に深い印象をもたらすのだとすれば、そのために、まずその詩が、実演奏の中で聴衆に聞き取られなければなりません。これって、当たり前のことのように思えるけど、実際、とても難しいことだと思いませんか。何か、一つ邦人合唱曲を思い出してください。そして、その実演の中で、詩が聞き取れるか考えてみてください。もちろん、長い間練習してきた曲なら、詩の内容もわかっているかもしれません。でも、その曲を初めて聴く人が、一回の実演奏でその詩を聞き取れるでしょうか?
その曲が、実演奏の中で詩を聞き取ることを明らかに放棄しているような曲なら、構わないのです。それは一つの作曲のあり方だと思います。しかし、そうでないのなら、演奏側も、作曲側も、詩を聴衆に伝える努力をしなければいけません。もちろん、全ての詩を聞き取れなくてもいいかもしれませんが、この言葉だけは伝えたい、というのは作る側にも必ずあるはずです。
詩の形式から、詩の内容が聞き取れない理由を考えてみましょう。
一つは、詩の文章が長いと、メロディの中で日本語が間延びされてしまい、記憶にとどめるのが難しいということがあるでしょう。以前の談話にも書いたように、日本語は単位音符あたりの意味量が少なく、情報が冗長になりがちです。アルファベット系の言語の方が、そういう意味では分があると言えるでしょう。
もう一つは、詩が難解な言葉である場合です。これは、例えば古語であったり、非常に抽象度の高い比喩であったり、ある種のシュールな言葉の連なりであったりする場合も含みます。頭の中にすんなり入ってくる言葉でないと、人は知らず知らずのうちに言葉を拒否してしまうのです。特に音楽の中に使われる言葉は、単純で直接的なほど印象が深いものです。
と考えていくと、詩の意味が伝わるためには、詩そのものが、文章の短く、単純で直接的な言葉であることが望まれます。作曲家が詩を選ぶ権利を持っているのなら、そのことをまず深く考慮するべきでしょう。
いくらかの邦人作曲家は、上記の詩選びと逆の方向を指向しているように思えます。そして私には、そういう曲は、それゆえに面白くないのではないか、という気さえしているのです。
「文章が短く、単純で直接的な言葉」は、一見、詩の質を低く見積もられます。しかし、それはむやみに難しい言葉を礼賛するスノビズム的な発想になりかねません。どのような言葉が連なっていようと、良い詩は良い、というただそれだけのことなのに。

2005年8月15日月曜日

エンターテインメントを求めて

合唱におけるエンターテインメントの話題、微妙にホットな感じなので、調子に乗ってもう少し考えてみましょう。

たいてい合唱団の演奏会でエンターテインメントといえば、流行曲やアニメソングなどの合唱アレンジのステージといったところでしょう。もちろん、これだって構成やアレンジや演出に凝れば、質の高いエンターテインメントのステージを作ることができるはずです。まあ、たいていはそこまで出来る人材が団内にいないわけですが・・・
実際、エンターテインメント=お楽しみステージ、みたいな発想では、上のような選曲のステージをすることくらいしか思いつかないのですが、私の言いたいところのエンターテインメントというのは、もっと根本的な演奏に対する表現者の姿勢のようなものなのです。

簡単に言えば、聴衆を、すなわちお客様を、どれだけ満足させられるか、というこの一点につきます。全ての考え方をここから逆算して考えるのです。
ですから、当たり前ですが、美しい発声で歌うことも、正しいピッチで歌うこともエンターテインメントにつながります。それは聴衆に感銘を与える演奏になるからです。
そして何より大事なのは、今演奏する曲の内容を聴衆にしっかり理解してもらうことです。曲の理解なくしてお客様が楽しめるわけがないのです。その辺りをショートカットしたいという誘惑が、ポピュラーステージに繋がる訳ですね。
だから、歌い手が曲を理解していなければ、お客が理解できるわけが無いし、誰も理解できない曲なら、そもそも演奏する必要などないのです。
曲の内容を伝えるために、例えばちょっとした演出があったり、所作があったりしたって構わないのです。お客が曲を理解する補助になるのなら、どんなことでもするべきです(ちょっと前に盛り上がった字幕とか)。
先日のノルディックボイセスの現代曲も、(正直意図はわからなかったけど)演奏の演出が楽しくて、お客を十分に引きつけることに成功していました。バリバリの現代曲だって、良質なものなら多くの人が楽しめるはずなのです。それでなければ、演奏会でやる意味がない。現代曲は難解、という発想そのものが私は嫌いです。演奏する側も聞く側も理解できない音楽にどんな楽しみがあるというのでしょう。まあ、わからないことを楽しむというひねくれかたもあるのかもしれませんが。

聴衆に感銘を与える、満足してもらうためには、もちろん様々な局面があります。
ほとんどの聴衆が日頃合唱を聞いていない人ならば、今自分たちが披露しようとしている合唱曲の魅力をどのように伝えるのか、それをもっともっと考えなければなりません。それは、自分たちがさらに合唱について勉強することにもつながります。
そして、そのもっと前の段階、そもそも選曲の段階で、聴衆に楽しんでもらえる曲を選ばなければなりません。これが今のところ最も大きな問題です。聴衆まで楽しんでくれるような合唱曲が、今の邦人曲にどれだけあるのか、と思うかもしれません。でも、たくさんあるはずですよ。それを探す眼こそが、技術スタッフに求められているのです。
不肖、この私も、エンターテインメント性を求めた曲を作り続けているつもりなんですけどね・・・

2005年8月9日火曜日

郵政解散に寄せて

本来、政治ネタを書くような場所ではありませんが、たまには備忘録も兼ねて、政治のことなど書いてみようかな・・・。
昨日、郵政法案が参院で否決され、小泉首相は衆院解散に踏み切りました。
私はこの場で法案の中身について意見を言うつもりは毛頭ありません。興味があるのは、ある意見を通そうとするのに、政治家各人がどのような行動を取ったかということです。これは、ひいては我々が会社や様々な集団の中でどのような政治的活動を行うのか、あるいはどう行うべきなのか、考えるのによいきっかけになると思うのです。
もっと言えば、欧米と日本の政治風土の差、のようなものを私たちが考える良い機会とも思います。
欧米では大統領や首相の在任期間が長いし、権力も集中していて、やりたいことが十分やれるし、そのため改革もドラスティックで、その分、反対派の行動も過激です。アメリカだって、政権が民主党から共和党に変わっただけで、戦争をバンバンやっちゃう国に大変化してしまうわけです。
それに比べると、日本の政治は複雑で難しい。どんな議論だって完全に意見が一致することなどあり得ないのに、それでも集団の維持を最優先にしようとする力学が強い。だから、意見を曲げても賛成、反対することもあるし、そういった恩を売る行為によって、意見が違うものたちが持ちつ持たれつの微妙な関係を続けるのです。
こういった曖昧な関係に敢然と立ち向かったのが小泉首相でした。
それだけのことをやれる人格自体尊敬に値するのですが、こういった日本的な政治風土の中で、欧米的な政治行動を貫いたのはまさに変人といわれる所以です。いや、欧米にいたらそれが普通なのだけど、日本では変人になっちゃうんですね。

それでも、日本で生きていくためには、「変人」であり続けるわけにはいかないんです。それは、誰もが経験していることだと思います。人の意見をよく聞き、適宜そういった反対者の意見を取り入れながら、肝心なところは引かない、といった強さ、そしていったん自分の意見がマイノリティだと分かったとき、強い主張はせずに、小さな要求だけでも反映させてもらう粘り強さ、そういった政治態度が実際私たち(日本人)の生活では求められているように思います。
たまに上のような議論を収拾しようとする流れから外れるような人がいますが、そういう人は煙たがれてしまうんですね。みんなの意見をうまくまとめられる人物こそ、一般的には高度に政治能力のある人間なのです。

私たちが政治的にどう成熟していくのか、なかなかこれは難しい問題です。しかし、少なくとも、国民一人一人が選挙に行って意思表示をするという習慣を持つことが、その最低ラインの必要条件だと思えます。それは自己主張をしない日和見的な態度から脱する第一歩にもなるからです。

2005年8月4日木曜日

世界の中の日本

世界合唱の祭典で、日本の団体が演奏した曲目は、やはり民謡をベースにしたものとか、日本的な素材を元に作曲されたものが中心になりました。
しかし、よくよく考えてみると、こういった曲って、それほど日頃合唱団で歌っているわけではないんですね。むしろ、敬遠されがちと言ってもいいでしょう。実際、日本で歌われている合唱曲の多くは、現代詩人の書いた詩に、ピアノ伴奏付きのドラマチックな音楽をつけたものが主流です。しかし、そういった音楽が、このシンポジウムで紹介されないのなら、私たちが日頃楽しんでいる合唱活動は、世界の場に持っていけるものではないことを暗に仄めかしているような気がしてしまいます。

そういった二重構造にどこか釈然としないものを感じます。
確かに、日本的な素材を用いた合唱曲の方が外人ウケは良いでしょう。しかし、だからといって日本人が世界に通用するために、そういった民族系のものをやるべきだと考えるのは、むしろ逆説的に西洋史観的な立場に立っているように思えてしまいます。
欧米人が、純日本的、あるいはアジア的、アフリカ的、のようなエキゾチックなものを楽しみたいと思うのは、意識の裏に、中心に対する"周辺"と感じる気持ちがあるように思います。少なくとも合唱を含めたクラシック音楽は西洋中心に発展してきたわけですから、誰とても西洋中心史観で見てしまうのは当たりまえです。

こういった態度は例えば、西村朗氏の作曲態度に非常に顕著に思いました。彼は日本的、アジア的なものを作曲の中に取り入れることを、自身のアイデンティティとしています。しかし、そういった発想こそ西洋中心史観のたまものとも思えるのです。海外で三島由紀夫がよく読まれるのと同じ構造です。無論、芸術的価値が高いものであれば、どんなアプローチであっても最終的には構わないでしょうけど。

なんだか否定的な言い方になってしまいましたが、何が正しいのか断定するつもりはありません。
ただ、私としてはありのままの自分たちを見てもらい、そして評価してもらいたい。民謡の世界にどっぷり浸かって生活しているのならともかく、そうでないのなら、自分たちの好きな歌を歌えばいいと思います。他人が面白いと思うものを先回りして考えすぎてしまうと、その意図が透けて見えた場合、何だか居心地の悪さを感じます。
本当に自分の心から伝えたい言葉が見つかったときこそ、クールかつホットな演奏ができるのではないでしょうか。そして、そのときが本当のスタートラインになるような気がするのです。

2005年8月2日火曜日

世界合唱の祭典 ワークショップの紹介

私が聞いたワークショップは、既に紹介した鈴木雅明氏の「バッハのモテット」以外は、「日本の合唱音楽」(新実徳英/松平頼暁/中村透/西村朗)、「ラテンアメリカの合唱音楽」「アジアの合唱音楽」に行きました。
ナマの作曲家を拝みに行こう、というのが基本的な動機。だけど、ほとんど日本人相手に、講師も慣れない英語でしゃべるというのは正直厳しかったのも事実。ただ、それぞれの作曲家の人となり、考え方、方向性を知ることが出来たのは良かったと思います。
ラテンアメリカの合唱では、本国の出版状況が良くないという点について、さんざんこぼしていました。自国の作曲家が曲を書いても、アメリカに行かないと楽譜が買えないという状況らしい。そういう国もあるのですね。ブラジルの合唱曲はいずれもリズミカルな楽しさを強調したもので、アンコールで使えそうな面白い曲を皆で歌いました。
アジアの合唱では、韓国の作曲家の自作品紹介と、台湾のブヌン族の倍音唱法のレクチャーでした。倍音唱法はマジですごかったですよ。パソコンでスペクトルアナライザ(音声の周波数分析)を立ち上げて、リアルタイムにグラフを見ながら倍音を制御した声を聞かせてくれました。人間の声で高次倍音をあんなように制御できるとは驚きです。口の中の空間を舌で二つに分割したりして、特定倍音を出すのだそうです。電子楽器でレゾナンスをいじったような電子的な音が鳴っていました。でも、相当修行しないと、体得出来なさそう・・・

世界合唱の祭典 北欧マジック

コンサートの中で飛びぬけて印象が強かったのは、いずれも北欧の合唱団。
まずは、初日のオスロ室内合唱団。もう曲がいいとか悪いとか、そんな問題じゃない。音色だけで人を感動させられる、というのはとんでもないことです。本当に、ただのドミソがハモっただけで、澄み切っていて、それでいてストレートな響きのある声で、もう涙が出そうなくらい感動。ビンビンに鳴ったまま、ピアノからフォルテまで変幻自在に声がコントロールされているのです。全ての曲が一つなぎになるような、クールでシャレたステージングもまたよかった。大体ですね、皆んな背が高くてかっこいいんですよ。指揮者も長身ですらっとした(ちょっと攻撃的なイメージの)女性で、これがまたかっこいい。民謡ベースのシンプルな曲が中心だったのですが、その圧倒的な響きにもうただただ驚いていました。こんな声は、絶対日本人には無理です。正直、世界との壁を感じてしまいました。
もう一つ、面白かった団体は、同じくノルウェーのノルディックヴォイセス。ここは6人のボーカルアンサンブル。古楽から現代まで抜群のアンサンブルセンスで軽々とこなします。初日の「鳥の歌」では、もう鳥の歌声で、これでもかというくらい音楽を崩していくのに、アンサンブルの骨格が崩れないのは、もう一言プロの技としか言いようがありませんでした。土曜日に演奏した現代曲も面白かった。はっきり言って歌ではなくて、パフォーマンスに近いのだけど、彼らのプロとしての演奏魂に触れた気がしました。当然のことながら、一人一人がソリストとして活躍できるほど素晴らしい声の持ち主なのだけど、ひとたびアンサンブルになると、これが一糸乱れぬディナーミク、アゴーギグを聴かせます。この団体が根本的に持っているユーモアセンスも堪能。この芸風は、キングスシンガーズにとても近いものを感じました。
ちょっと特殊ものですが、デンマークのヴォーカルラインはマイクを使った合唱団。いわゆるヴォイパ付き。アカペラだけどなぜか30人近い人数。もちろん、一人一人がかなりの実力ですが、マイクワークも相当研究していると思いました。私自身はマイクを使った合唱の可能性というのは興味はあるのだけど、残念なのは彼らが単なるポップスのアレンジに留まっている点です。演奏した曲もミディアムテンポが多く、曲のバリエーションに乏しい感じがしました。マイクを使うからこそ、もう少しレパートリーの可能性を追求して欲しい気がします。例えばアディエマスみたいな・・・

北欧以外の演奏では、コンゴのラ・グラースとか、インドネシアのパラヒャンガン大学が、歌と踊りで楽しませてくれたのが印象的でした。人を楽しませるということをきちんと追求している姿勢は見習うべきだと思いました。

結局、私が思ったのは、日本の合唱にはエンターテインメントが足りない、ということです。アマチュア中心、コンクール中心という日本の合唱界の現実が、演奏活動をますます内輪なものに、そしてシリアスなものへと変えてしまいます。どうやったら聴衆が楽しむのか、そういう最も基本的なことを外国の合唱団から学んだような気がしました。今回の合唱の祭典がきっかけにそういう機運が日本に高まればいいのですが・・・


2005年8月1日月曜日

世界合唱の祭典 BCJに酔う

かねてから日本で一番うまい合唱団だと、私が個人的に勝手に思っているBCJが、今回の合唱の祭典に参加しました。
BCJはご存知の通り、鈴木雅明氏が指揮を務めるバッハを演奏する団体。なんと、演奏会に先立ち、指揮者である鈴木雅明氏がワークショップにてバッハのモテットの演奏に関する講義を行いました。もちろん、私はこれを聴きに行きました。ワークショップの部屋はちょっと狭くて、立ち見が出るほどの盛況でしたし、多くの方が大変興味を持って来られたことが実感できました。
何といっても、鈴木雅明氏のレクチャーは大変うまかったと思います(私が参加したワークショップの中で一番よかった)。英語が極めて堪能で、そもそも、人前でしゃべるのが大変うまい。私にとって良かったのは、それでも日本人の英語ということで(発音がわかりやすい)、かなり聞き取りも出来たこと。ま、相当、頭をつかいましたけど・・・

このワークショップの凄かったことは、BCJのトップクラスの歌い手が参加しており、生演奏付きでの曲解説になったこと。セミナーの演奏で、こんなむちゃくちゃうまい演奏聞けるなんて、誰も思ってなかったと思います。
個人的に印象に残った話としては、ドイツ語を母語にしない我々だからこそ、歌い手に質問されてもちゃんと答えられるように調べたりするので、逆に理解が深まるきっかけになる、と言っていたこと。必ずしも日本人がバッハを歌うことをハンデとは思っていないところが素晴らしい。知的なアプローチが必要だからこそ、曲や歌詞について調べざるを得ない環境にいる彼らが良い演奏をできるのだと思いました。

最後の質問コーナーで出た話も面白かった。BCJがヨーロッパで演奏会を開いた際、ほとんどのジャーナリストが絶賛してくれたそうですが、一つだけ批判があったそうです。いわく「あまりに言葉をはっきり言い過ぎている」。本人たちは、言葉をはっきり出すことに一生懸命になって練習していたのに、それが思わず批判の言葉になってしまった、というのは、ある意味、彼らの努力が報われたといえるのかもしれませんね。

そして、その夜のBCJの演奏は本当に素晴らしかった。
私がなぜ、彼らの演奏を素晴らしいと思うのか。BCJの合唱団員一人一人は、ソロでもやっていけるほどの優れた歌手です。実際彼らの何人かは曲中でソロを取っていました。しかし、ひとたび、合唱のパートの一人となると、アンサンブル重視の歌い方にきっちりと切り替え、ボリュームバランスや、パート内の揃えなどに最新の注意を払っているのがよくわかるのです。
究極の合唱には、歌い手個々人の知性がどうしても必要です。BCJはその事実をあらためて我々に突きつけているように思うのです。
もちろん、レパートリーが限られている、というのも、演奏の純度の高さの一要因ではあるでしょう。それにしても、あれだけのメンバーを揃えているこの団体は、もう日本では最高レベルの合唱団の一つであると断言できます。

世界合唱の祭典in京都に参加

7.27~8.3にかけて開催されている世界合唱の祭典(第7回世界合唱シンポジウム)の、前期日程に参加してきました。今日日曜日がちょうど折り返しで、月曜日からまだ三日間、合唱漬けの日々は続きますが、後ろ髪を引かれる思いで帰ってきました。
それにしても、前期だけでも、超濃かった。一つ一つの演奏が本当に興味深くて、毎日毎日が感動の日々です。少し言い過ぎのように思われるかもしれないけど、これは参加者みんなの実感ではないでしょうか。前期だけでも、ガラコンサートを含め、計7回のコンサート。どのステージも印象的だったけど、あまりに多すぎてどんどん前の演奏の印象が薄れていってしまいます。それはそれで贅沢な悩みという感じ。
ワークショップもいろいろ刺激になりました。全部英語というのは確かにきつかったけど、分かりにくさは自分の聞き取りレベルの低さだけの問題だけではなかったように思います。それでも、それぞれの講師が工夫を凝らし、講義だけでなく演奏、映像などを使ってやってくれたので、話の流れくらいは皆つかめたのではないでしょうか。

ワークショップとオープンシンギングの会場は京都国際会館、コンサートは京都コンサートホールで行われました。ちょっと奇妙だったのが、ワークショップとコンサートの合い間の度に、地下鉄に乗る民族大移動が行われること。近場に住んでいる方にはいい迷惑だったかもしれません。日本人だけでなくて、外国人も含めて、みんな首から名札をぶらさげて、地下鉄の改札口から大勢で移動するのは妙な風景でした。
京都コンサートホールは初めて行きましたが、素晴らしいホールですね。合唱の良さを十二分に発揮できる場所だと思います。こんなホールで、世界中の一線級の演奏を聞けたことは本当に幸せなことでした。

さすがに一週間、会社を休みのは厳しいので、私は前半のみの参加としました。そんなわけですので、前半の内容の印象深かったものについて、何回かにわたって紹介したいと思います。

2005年7月26日火曜日

アイランド

人によってはB級映画とか言われそうだけど、私は好きです。こういうの。
土曜日から公開された「アイランド」見に行きました。時は近未来、人々は施設の中で、アイランド行きを唯一の楽しみにしながら管理された生活をしている・・・というところから始まります。実は、彼らはクローン人間だったということが段々わかってくるのですが、普通は気持ち悪く描かれるはずのクローンが今回の主人公というのがミソでしょう。クローンであってもれっきとした人間であり、喜怒哀楽を持ち、人を愛する。そして、納得のいかないことに疑問を感じ、自ら行動しさえする。クローンが主人公になったために、余計に生命をモノのように扱う会社側(マッドサイエンティストとも言うべきか)の非人間性、非倫理性が際立つわけです。
とはいえ、そんな深いテーマを直接聴衆に投げかけるというよりは、どちらかというとアクションやSF的ガジェットの数々のほうが楽しめます。派手なカーチェイスや、ビルから落ちるところとかなんか、マトリックスの二番煎じ的な感じもしました。空中を走るバイクや、RENOVATIO(ラテン語で「復活」)という名前のクルーザーも近未来的な乗り物として、なかなかいいセン行っていると思いました。
クローンと本物が並んで「こっちが本物だ」と両方が言うという場面、結構好きですよ。クローンだから出来る演出だと思います。施設にいたクローンの友人たちと同じ顔の人間が、実際の社会の中でちらほら出てくるあたりも小技が効いています。
最後はあまりに派手なカタルシスを迎えるわけですが、まあ、こういうのはハリウッド映画としては仕方のないところでしょう。
設定の中に今ホットな倫理的テーマが潜んでいるために、単なるアクションムービーになっていることに不満な人もいるでしょうが、いや、このくらいで問題提起するというのもアリかなと私は思います。

2005年7月21日木曜日

芸術家論 「身を削る」度

何かと物事を二つのベクトルに分けて考えるのが好きな私ですが、今日は、ちょっと変わった視点で、芸術家を分けてみましょう。
名付けて、芸術家の「身を削る」度。
芸術作品を仕上げようとする場合、その芸術家がどのような態度で創作活動に向かうか、その心境を考えてみてください。例えば、創作しようとしている作品世界がどこまでもその芸術家の精神世界とつながりを持っているような人、逆に言えば、その人の精神的世界の束縛から作品が離れることが出来ないようなタイプの芸術家を「身を削る」度が高いと呼びましょう。
なぜ、これが「身を削る」かというと、こういったタイプの人々は、あたかも一生のうち使い果たせる生命力の総量が決まっていて、その生命力を削りながら、作品を作っているように思えるからです。
逆に、様々な技法を駆使し、作品を鑑賞する人たちへのサービス精神が旺盛で、なおかつ依頼主の要求に良く答えることができるようなタイプの芸術家は、職人性が高いと言えるでしょう。
もちろん、最初のような「身を削る」タイプと職人タイプが、全く別方向のベクトルを持っているとは言いませんが、かなりの確率で、その方向性は背を向き合っているような気がします。

「身を削る」タイプの芸術家は以下のような特徴があると思われます。
基本的に短命。あるいは病気持ち。精神疾患がある。自殺する人が多い。寡作である。自分の身の回りの事件が作品の内容に大きく影響する。どの作品も雰囲気が似ている。内向的で人間嫌い。なぜか貧乏。
逆に、職人タイプのイメージはこんな感じ。
多作。生命力が強い。子供をたくさん作る。テレビにも良く出る。社交的で社会的にも成功し、金持ちになる。様々なタイプの作品を作る。

まあ、誰もがはっきりどちらかに分かれるわけではないけど、誰がどちらか考えると面白いですね。
普通、自分の幸せを考えれば職人タイプに憧れるけれど、「身を削る」度が高いと、妙に卑屈になって、どんどん職人から遠ざかろうとする気がします・・・

2005年7月18日月曜日

百年の孤独/ガルシア・マルケス

Solitude1967年にこの小説「百年の孤独」は、コロンビアの作家、ガルシア・マルケスによって発表されました。この本は、当時スペイン語圏で大ベストセラーとなったようです。1982年、ガルシア・マルケスはノーベル文学賞を受賞します。
多くの人に絶賛される名作ということで読み始めましたが、正直言ってちょっとしんどかった。いや、つまらない、ということではないのです。むしろ、十分面白い本だと思いました。ただ、かなり分量があるし、翻訳文体もちょっときついし、同じような人物名が多くて理解するのが大変。
また、この小説の独特の語り口や、話の進め方が、とても面白いのだけど、一般的な小説とちょっと肌触りが違うのです。一言で言えば、叙事詩的です。ひたすら、出来事中心で述べられていきます。事件の細かい描写とかがほとんどない。ぽんぽんと時系列に出来事が羅列されます。結局、この小説はマコンドという街の百年間の出来事をひたすら記した小説というコンセプトなのですが、風景描写や心理描写が普通の小説と比べるとかなり少ないのです。

しかし、だからこそ、この小説の面白さが成り立っていると言えるのでしょう。
百年もの長い間の出来事がひたすら書かれることによって、時はすすんでも人々の営みは延々と繰り返されるのだという当然の事実を私たちに想い起こさせます。別に心理を描かなくても人物は描けます。誰がどんな事件を引き起こして、どのように行動したのか、それをひたすら書き綴るだけで人物像は浮き上がります。貪欲な冒険心を持つ人、男を狂わすほどの色香を漂わせる女、人の世話を見続けることで満足する人、放蕩に明け暮れひたすら浪費してしまう者、どこまでも保守的で厳格な規律を尊ぶ者、そして革命に身を捧げる男・・・こういった様々な登場人物が現われ、ブエンディア一家の盛衰が語られていくのです。

もう一つの傾向は、非現実と現実が、全く何の断わりもなく無造作に並置させられている、という点があります。これはマジックリアリズムと呼ばれますが、こういった幻想性が、現代を舞台にしてもなお、神話的なイメージを残します。
何しろ、長大なこの叙事詩は、もう力技で読者を幻想の世界に引き入れます。その世界での不思議な出来事の数々はしかし、私たちの日常とまた、それほど変わらないものでもあるのが、この壮大な話の魅力なのだと思います。

2005年7月12日火曜日

朝日作曲賞・佳作を頂きました

昨年に続き、今年も朝日作曲賞の譜面審査を通過することができ、いろいろと期待しつつ、妄想を膨らませつつ、演奏審査の日を指折り数えていました。
昨年のハーモニーでの堀内さんの記事によると、朝日作曲賞の知らせは当日夜11時頃、電話で来るらしい。お願い、電話来て!と思いながら、家でひたすら待っておりました……。しかし結局、連絡は来ず。もしやと思い、夜11時頃 asahi.com を見てみると……朝日作曲賞決定の記事が!
そこで、私は落選したことがわかりました。朝日作曲賞は、埼玉の山内さん。何と、吹奏楽の朝日賞と同時受賞。いけませんねえ、両刀使いは…^^;。実際、作曲家としてかなり活躍されているようですね。

しかし先ほど、正式に手紙が届き、幸いなことに拙作が佳作に入っている旨、連絡がありました。
朝日作曲賞まで手が届かなかったのは残念だけど、佳作を頂けたのは素直に嬉しいです。今後の励みになります。新潟の全国大会では、賞状を頂きに行くことになります。
受賞作の情報に関しては、また掲載したいと思いますのでお待ちください。

2005年7月6日水曜日

芸術家論 その2

前回言った二つのベクトルをもっと分かりやすい言葉にするなら、「技術力」と「独創性」ということになるでしょうか。むろん、こういった価値基準の提案は、単に話を明快にするためのもので、現実にはそんな単純に物事を分析することは難しいことです。なので、あくまで抽象的な想念上の概念だと思ってください。

ちなみに今日、私が何を言いたいかというと、創作家の本当の価値は、一般大衆が判断するには難しく、専門家の長い間の評価の蓄積があってようやく定まるものであり、流行り廃りで音楽、芸術を消費する今の時代は、創作家の真の価値が理解されるのに、かなり危険な状況であると感じるのです。
情報があっという間に伝わる今の時代、「売れる」ものがあれば人々はすぐに飛び付きます。消費者だけじゃありません。「売れる」もの周辺からさらに新しいビジネスを狙っている人もたくさんいるのです。そんな時代、大衆が火をつけたひとときの流行りで、とたんにあるモノが売れてしまう、という現象が最近多いように思います。これは、音楽でも同じ、クラシックや合唱というマイナーなジャンルでさえ、その傾向があります。後で思うと、なぜみんなこれほど同じ曲を歌ったのか、不思議に感じるほどです。

このように情報が早い時代に、的確に創作家の価値が評価されるためには、結局、我々大衆が、消費者が十分な審美眼を持つ必要があります。そうでないと、能力のある創作家が報われないことになります。
創作物を享受する人たちは、少しでもどんな「技術力」があって、どのような部分に「独創性」を感じるのか、的確に判断する眼を持つことが大事なのです。そして、そういう意見交換がもっと活発になれば、また面白いことになるなあと感じます。

2005年7月2日土曜日

芸術家論

前回の記事で、「天才」などという言葉をいささか軽く使いすぎたような気がしてきました。実感からすれば、その通りなのだけど、ちょっと誤解されそう。

それで、そもそも芸術家の価値って何だろう、という、これまた答えが無いような話をちょっと書きたくなりました。私たちは、それぞれ自分の好きなアーティストに心酔したりするとき、どんな心理があるものなのでしょうか。そして、多くの人に支持される芸術家には、どんな特質が備わっているんでしょう。
芸術家の価値を現すのに、私は二つのベクトルを考えてみました。一つは「技術・能力・才能」というべきもの、もう一つは「個性・唯一・斬新さ」というようなものです。
最初のベクトルは、その創作家の純粋な創作における技術力のことです。何をもって技術力と呼ぶかは議論があるにしても、芸術家、創作家の価値に、その人の技術力、あるいは広義の才能のようなものが大きな影響を与えていることは誰もが認めることでしょう。例えば、私はラヴェルの書法を素晴らしいものだと感じます。自分がどんなに考えても、あんなに響きがきれいでツボにはまっていて、しかも理路整然としている音符の羅列を作ることができないと感じます。これは純粋に能力の差だと、自分が曲を書く人だからこそ思うのです。そこには、個人の能力の超えることの出来ない壁というのが、悲しいかな厳然と存在します。
さて、もう一つのベクトルの個性の問題は、ちょっと扱いが難しい。芸術家である以上、その作家、作曲家ならではの個性があるはずです。それがあるからこそ、そのアーティストを好む人が現われるわけですから。ですが、「個性的」という言葉はときに独り歩きし、最先端のアーティストであるために「個性的」な自分がどんどんインフレーションしてしまう危うさを孕んでいます。つまり斬新であること自体が自己目的化してしまうのです。誰もやらなかったことを初めてやるということは、確かに価値あることです。しかも、一般大衆はそういう果敢な態度の芸術家を、いわゆる芸術家的な人間だと認めやすい。この場合、芸術家が遺した作品よりも、芸術家のカリスマ的な人格自体が権威を高めているなんてことも起きてきます。

実際に創作活動を行ってみると、芸術家に対する価値観が若干変わってくるように思います。
上のように、世の多くの人は(一見)個性的であるアーティストを支持したい傾向があります。しかし、その個性の怪しさに気付くと、やはり創作家としての純粋な技術力こそが重要な問題に思えるようになります。同じく創作に関わるからこそ、技術力の有無とか、自分よりスゴイ能力差があって愕然としたりとか、そういうリアルな感想を抱くものだと思います。
ところが、ある程度の技術力を持っている創作家の価値は、今度こそ「個性、唯一性」のような尺度で測らざるを得なくなります。そこで問われる個性とは、一般の人にはなかなか気付かない、非常に微妙なものかもしれません。それでも、やはり芸術家の価値は、最後には個性のようなもので問われるべきなのだと私は思うのです。


2005年6月29日水曜日

0番目の男/山之口洋

zeroban実は私、この作家自身に興味があるんです。
東大出て、松下電器で技術者になり、ソフトウェア開発のプロとして書籍も出すほどの活躍をしていたのに、文学賞を取って、あっさり作家に転向。寡作ながら質の高い作品を書き、直木賞候補にもなりました。
私もソフト開発の一端を担うものですが、私から見ても「オブジェクト指向プログラミング」の本を書く人なんて神様みたいなものですよ。いまどきなら、それだけの活躍だけでも相当稼げるはず。
しかし、です。そんな人が小説を書いて、それがいきなり文学賞を取っちゃう。なんというか、何でもこなしちゃうスゴイ人のように思えてしまうんです。本を読んでいても、本当にそつがなく、文章も確か。どこで作家修行をしたのかと問いただしたくなります。でも、恐らく小さな労力で、これだけの能力を手にしてしまったような気がしてなりません。もしこの人が、何らかの音楽的手ほどきを受けていれば、きっと作曲賞だって取れちゃうじゃないだろうかと思います。だいたい、デビュー作の「オルガニスト」では、バッハやオルガンに関する薀蓄がふんだんに語られますし。
本人はきっとそうは思わないだろうけど、この人は天才の部類に入る人なのだと私は感じます。
だから、ストーリーそのものの興味より、この作家、山之口洋氏のつむぐ文章、世界観、小説作法に興味を感じて読み始めたのがこの本。すごい、やな読者ですね・・・
というわけで、そんな山之口氏が書いたこの小説、面白くないわけがありません。
中篇だけど、落としどころがうまい。題材のネタにも本当に隙がない。いや、逆に言うと、この隙のなさが、この作家を大衆的にしない一因なんだなとも思ったり。技術的にむちゃくちゃな設定は、技術者としてやはり絶対書けないのだと推察します。だからこそ、理を通そうとして、技術設定には饒舌になってしまう。
ああ、それがまた、私の羨望を掻き立てます。創作家の才能の秘密を知りたい私は、そうやってどうでもいいことに日夜頭を悩ませているのです。
うーん、全然本の紹介してない・・・

2005年6月26日日曜日

バットマンビギンズ

渡辺謙が出演するということで話題の多かったバットマンビギンズ、見に行きました。なかなか面白かった。今回は、ビギンズということで、主人公ブルースウェインにどのようなことが起きて、バットマンが誕生したのかが語られます。中盤、バットマンのいろいろな武器や、例のスーパーカー(バットモービル)が作られる由来が出てきて、とんでもない話ではあるけど、そうやってバットマンが段々作られていく過程が面白かったりするわけです。
ただ私にとって、バットマンと言えばやはりティム・バートンなのですが、当然ながら、今回の映画はティム・バートンものとはかなり違います。今回はどちらかと言うとスパイダーマンに近いテイスト。ティム・バートンはもっともっと、おとぎの国の話にしちゃうんです。悪役もピエロのような哀しさを持っています。ゴッサムシティなんかも全然雰囲気違いますね。今回の場合、超近代都市にアジア的スラム街がドッキングしたような街になってました。非常にリアルな設定で、ティム・バートンが持っていたファンタジー要素、寓話的要素がほとんど無くなりました。まあ、監督が変われば、同じようにやって欲しいなどとは思わないので、それはそれでいいんですが、それでも、私的にはバートンのバットマンのほうがやはり好きですね。
それでも、全体的には小ネタも利いているし、ちょっぴりシリアスな雰囲気を持ちつつ、カーチェイス含む派手なアクションシーン満載の今回のバットマン、面白い映画だと思いました。

2005年6月19日日曜日

四日間の奇蹟

去年、原作を読んで感動したので、映画のほうも見に行ってしまいました。
やっぱり、原作の力は偉大です。映画はほぼ原作に忠実に作られていて、例え映画化されても原作の持つ素晴らしさがきちんと伝わってくることに驚きました。映画化されてすごくつまらなくなっていたらどうしよう、と思ったんですがね。やはり、この小説はスゴイと思いました。
逆に言えば、この映画化、あまりに原作に忠実過ぎるかもしれません。原作を知っている人が見ると、思い出して結構泣けるのだけど、読んでない人にはどう感じるのか心配です。かなり静かで穏やかな雰囲気で淡々と物語が進行するので(そのやり方はいいと思う)、ストーリーを単に消化しているようにも感じてしまいます。(まあ、それでも泣けるのだから原作の力が偉大)
もう一つ、賛否両論ありそうなのが、人格が乗り移った後、何度か千織役が真理子として表現するところです。見た目は千織なのに、中身は真理子、という状況を説明するために、本当に真理子役を使ってしまうのはいささか危険かもしれません。監督としては、かといって、映像エフェクトで薄く真理子を重ねるとか、そういうのがいやだったのでしょう。確かに、それだと逆に安っぽくなるかもしれません。そう考えると、これが最善とも思えるけど、難しいところです・・・
そんなわけで映画も泣けます。セカチューなど間違っても見に行きませんが、こういうファンタジーは大好きです。

2005年6月13日月曜日

堪能!ナマ上原ひろみ

今日は、浜松合唱団の演奏会を振り切って(^^;、となり(アクト大ホール)で開催されていたヤマハジャズフェスティバルを見に行きました。
浜松ジャズウィークと称して、毎年この時期に開催される催しなのですが、実は今まで一度も見に行ったことがありませんでした。今年は、あの上原ひろみが出演するということで、チケット発売当日に券をゲットしたのです。さすがに今回は、あっという間にチケットが売れたそうです。一ヶ月以上前から完売となっていたように思います。
今日の演奏会は、最初が上原ひろみ、2ステが金子晴美、3ステがエリック宮城率いるビッグバンド、という構成。はっきり言いましょう。上原ひろみのステージが一番良かった!!
もう見に行ったかいがありました。久しぶりにいい演奏会に出会った気分。もう、ミーハーと言われてもいいです。上原ひろみ、スゴイ。ライブを見てさらにファンになりました。
もうライブパフォーマンスが、完全に独自の世界を作っているんです。ちょっとプログレ気味な曲も大好きだし、演奏はワイルドで、ノリノリ。身体全体から音楽が溢れているという感じ。ピアノ弾いていても、足を上下に大きく揺らしリズムを取ったり、弾いているうちにテンションが上がって、腰が浮いてきて、ついに立ち上がるほどの状態になったり。嫌味でなく、本当に自然にそういったアクションが出てくるんです。演奏もメリハリが付いていて、切れの良さが心地よく、もうホール全体を自分の世界で満たしていました。
今回は凱旋公演ということで、浜松出身の上原ひろみ自身も、思い入れが強かったのではないでしょうか。故郷を想って書いたというピアノソロの曲も、情感がとてもこもっていたように思います。
私にとって、他の2ステージは完全におまけでした。50分ほどだけど、上原ひろみのライブをナマで聞けてそれだけで大満足です。

2005年6月10日金曜日

愛知万博に行ってきた

昨日、有休取って、愛知万博に行ってきました。浜松からだと車で1時間半ほど。そんな遠くはないけど、車で朝7時頃出発、帰ってきたのが夜11時で、メチャクチャ疲れた…
ひねくれ屋の私としては、企業パビリオンより、外国館を楽しもうと思っていたのだけど、外国のパビリオンって、どれも、エンターテインメントと展示のバランスが中途半端で、正直いまいちだった。これなら、もう展示中心というのもありかと思ったのだけど、いまどき音と映像、ライティングや現代美術、前衛オブジェ、のようなものじゃないといけない、と思っているのでしょうか。私的にはどうも外している気がしましたね。
個人的に良かったのは、マンモスの前に見るソニーの超横長画面、後は頑張って90分ならんだトヨタのパビリオン(というか、その他はほとんど見てないんですが)。トヨタは人気があるだけあって、やはり良かったですね。技術者的には、あのロボットや車の動きがどこまで仕込みで、どこまでリアルタイム制御なのかとても気になります。完全に仕込みだけではあの動きは無理なはず。ということは、各ロボットや車はそれなりの自律した制御システムを持っているような気がします。
それから、仕事柄、楽器演奏ロボットも気になりますね。あのラッパを吹く口はどんな仕組みになっているんでしょう。人間の唇みたいだったら気持ち悪いかも。トロンボーンはスライドじゃなくて、バルブが改造して付けられていたんですね。さすがにスライドは難しいのか。上から吊り下げられた女性ダンサーにも、思わず目が釘付けになりました。

2005年6月8日水曜日

プレ王に新曲登録

プレ王こと、プレイヤーズ王国にアカペラ多重録音作品の第二弾をアップしました。今回は「五木の子守唄」です。どうしても聴きたいという方は、Unit1317のページまでどうぞ。
しかし、今回は(も)かなり下手です。自分の声を聞いていると耳を覆いたくなります。いや、多分これを聞いた人も苦笑するに違いありません。まあ、よくこんなものを人様に聞かせるもんだなあと・・・
本当に、リアルグループやトライトーンの歌のうまさが身に染みてわかります。彼らは完璧なリズム感とハーモニー感のみならず、音楽の中にグルーブ感があり、さらにそれらがきちんと歌になっているんですよね。いやもう、ただただ脱帽です。歌の下手さは、どんな録音技術でもカバーできないんです。
そこまで言うなら、公開しなきゃいいのに、と言われると言葉もありません。素人がアカペラ録音するとこうなるという見本だと思って笑ってやってください。

2005年6月5日日曜日

In The Middle Of Life/The Real Group

TheRealリアルグループの最新アルバムにして、日本デビュー版になるCDを聴きました。リアルグループは知る人ぞ知る、有名なスウェーデンのアカペラバンド。今年で結成20周年だそうです。このCDの解説の中に、メンバーの自己紹介が載っていたのですが、彼らは1962-3年生まれなんですね。随分昔からいたから、結構な歳なのかなと思ったら、自分よりちょっと年上なだけじゃないですか。(-_-;;
さて、このCDですが、さすがリアルグループと唸らされる演奏の数々。歌のうまさ、ハーモニーの確かさは格別です。お気に入りな曲もいくつか見つかりました。曲のバリエーションも多く、楽しんで聞ける一枚です。
ただ今回は、このアルバムで気になったことを少し書いてみたいのです。
一聴して気になるのは、打ち込みの多用と、バンドの音の模倣への傾斜です。数曲聴いたとき、今回はついに本物のバンドを入れてしまったかと思いましたよ。どうやらそういうわけではなさそうですが、曲によっては明らかにサンプリング&打ち込みによって作られている部分があります。私としては、アカペラバンドのくせに、生で歌わないで、そういうやり方をするのは気に入らない、と言いたいわけじゃないのです。むしろ、録音技術の力に頼るのは、ちゃんとポイントが絞ってあれば構わないと思っています。
ただ、その結果、彼らが作りたいサウンドが、通常のバンドが奏でる音を声で模倣することを指向しているように思えてならないのです。つまり、ベース+ドラムのリズム隊、キーボードやギターなどのハーモニー系、メロディ、といった役割分担があまりにはっきりとしすぎたアレンジなのです。
これは、諸刃の刃だと思います。アカペラのようなマイナーな世界からポップ界での成功を狙おうとして、ポップ調にしたい気持ちはわかります。だけどアカペラだから良かったところまでスポイルしてしまってはもったいないし、これなら別にアカペラじゃなくていいじゃん、と言われかねません。
アカペラならではの書法というのはあります。全員が歌えるのだから、一曲を通して一人がリードボーカルである必要はないし、場合によってはもっとポリフォニックな処理をしたって面白いでしょう。ヴォカリーズのバリエーションだっていろいろあるはず。そう考えると、初期の方が音楽的にはアグレッシブだった感じがします(いやそんなに詳しくないですが)。
ちなみに、ジャケットの裏に "The voice is the only instrument used on this album." なんて書いてあるんですね。いくつか信じがたい音もあるのだけど、恐らくいろいろな技(エフェクトなど)を使ってサンプラーへの録音をしたのだと推察します。 だけどこのリズムの音は、やりすぎなのでは・・・

2005年6月1日水曜日

字幕をつけたらどうだろう

先日、某演奏会を聴きに行って、ふと思ったのです。
合唱のコンサートこそ、字幕があったらいいんじゃないでしょうか。
ポリフォニーなら歌詞を聞き取ることはまず不可能だし、そうでなくても外国語の歌詞を聞いて意味まで理解できるなんて通常の合唱コンサートではあり得ないと思われます。もちろん、そのために歌詞対訳をプログラムに入れたりするわけですが、演奏中は暗くなって読めないし、事前にしっかり読んでいる人もそう多くはないはず。
もし、演奏中に何らかの形で舞台上のどこかに字幕で歌詞を表示したら、視線もそのままで済み、多くの人がそれを見るのではないでしょうか。曲の進行と歌詞表示をリンクさせれば、曲が詩の内容を表現しようとしていることをより直接的に観客に伝えることが出来るはず。せっかく、詩の意味を考えて練習してきたのだから、その成果をきっちり聞いてもらいたいものです。
何度か言っていますが、観客の立場で演奏のことを考えることはとても重要です。そのためには、観客が自分たちの演奏をより理解してくれる方法を考える必要があると思います。少なくとも、団員にチケットを買わされた一般の人々にとっては、外国の合唱曲なんてほとんど聴いたことがないような曲ばかりなはず。であれば、プログラムの説明だけでなく、もっと積極的に観客にアピールする方法を探しても良いと思うのです。
最近だと、プロジェクタとスクリーンのセットも割と一般化しているのではないでしょうか。自前で買うのは大変ですが、借りるくらいなら何とかなるかも。後は、パワポかなんかで歌詞表示をPCで作って、本番は誰かにオペレータをやってもらう、というのはどうでしょう。やっぱり、ちょっと大掛かりかな・・・

2005年5月26日木曜日

ダブ(エ)ストン街道/浅暮三文

dabestonまた妙な本を読んでしまいました。シュールなファンタジー小説です。主人公が夢遊病の彼女タニアを追って、ダブエストンという不思議な土地に辿り着き、そこで様々な奇怪な経験をしていくというお話。この変てこさは、どこかで体験したような・・・と思ったら、佐藤哲也の「熱帯」という本を思い出しました。そういえば、同じく半魚人も出てくるし。
あり得ない設定で、あり得ない人々を描くこういうファンタジーは、しかし実は著者の物語へのバランス感覚や、細かい博学さなどが思いっきり浮き彫りにされます。確かに、この人、博学っぽいし、物語を読ませるための微妙な切なさというのを良く知っていると感じました。結局、ファンタジーってただの何でもありな妄想じゃ全然ダメなんですよね。ある意味、全人格的な表現であるのです。
タニアの足跡は、手紙という形で随所に現れます。手紙って、なんか切なくていいですねえ。今や、メールを送ればすぐに届くという時代、そしてインターネットで調べれば何でも分かる時代。あるものを探してさまよい歩く、それ自体が目的だなどという感覚は考えられない世の中。だからこそ、手紙で伝わる想いというのがアナクロながらも、印象深いイメージを与えるのでしょう。
実は小説中、ちょっと気になったことが・・・。主人公が「私」という一人称小説だったのに、ある部分、「ケン」と三人称になるときがあります。作者は意識的にやっているんでしょうか。いや、まあどうでもいいことですが。

2005年5月22日日曜日

楽譜を読む-プーランク/Hodie Christus natus est その2

曲の構成は大まかに、1番-2番-3番-コーダ、となっています。突然の変化を要求される音量記号も、良く見てみるとそれぞれの番で共通になっています。いずれも真ん中に pp->mf->pp->f という変化があるのです(若干の違いはあります)。そういう意味では、演奏者は、この1番、2番、3番の繰り返しを鮮明に表現すべきかどうか、をまず考える必要があるかもしれません。(もちろん曲調が一様なので、変にいじくるより同じ調子で突っ走る方がカッコいい、というのアリでしょう)
もう少し、ミクロ的な視点で楽譜を見てみます。
私が気になるのが、歌い手にはかなりきつい音程の跳躍です。プーランクの曲の一般的な傾向として、こういう書き方は良くみますが、この曲は顕著です。ベースにおける7度や9度の跳躍など、歌い手としては泣けてきます。
練習番号3からの内声は、場合によって声部が交錯します。同じ和音を鳴らすなら、もっと簡単に書けるはずなのに、声部を交錯させてまで音程を跳躍させているというのは、教科書的には褒められたものではないはず。この心はどんな風に汲んだらよいでしょう?
プーランクのいたずら心とか、歌手への嫌がらせっていう理由もアリかも。部分的にはそうとしか思えないような場所もありますし・・・
ただ、全体的にアップテンポの派手な曲であることを考えると、曲全体が持つ鋭角的な表現を、難しい跳躍を入れることによって敢えて演奏に要求しているようにも感じます。まあ普通はこういう善意な解釈をするんでしょうが。

2005年5月18日水曜日

楽譜を読む-プーランク/Hodie Christus natus est

たまたま今、某団体で練習しているプーランクの「Hodie Christus natus est」の楽譜を私なりに読んでみようと思います。
私自身はプーランクの研究家でもなんでもないので、下記の内容の正否は保証しませんが、私ならこう読む、といったレベルの話だと思っていただければよいかと思います。
さてこの曲、比較的演奏機会も多く、コンクールなどでも良く聞きます。近代曲のなかでも、かなりメジャーな部類の曲なのではないでしょうか。
歌詞も有名なもので、多くの作曲家が付曲しているものです。
まず、この曲の大きな特徴は、アップテンポで完全なホモフォニックであるという点。それにも関わらず、ほとんど同一の主題がひたすら繰り返されている、という点がまず誰にでもわかると思います。(メロディよりもモチーフのようなもので組み立てられている)
ホモフォニック&同一主題の執拗な繰り返し、という曲の基本構造のため、曲調の変化はもっぱら音量によって行われます。それも、cresc. dim. のような指示でなく、subito のように、フレーズごとの極端な音量操作を要求されます。
曲の構成は、歌詞が全部で三回、順序に沿って繰り返されます。曲調もほぼ三回同じように繰り返されます(仮にこれを1番、2番、3番と呼びましょう)。最後は Gloria in excelsis Deo, Alleluia がコーダのように何回か繰り返されて派手に終わります。
調は基本的にC調ですが、1番、3番では途中 C-mol っぽくなります。2番では、E-dur さらに G-dur になり、3回の繰り返しに若干の和声的な変化が加わっています。
長くなりました。続きはまた後ほど・・・

2005年5月14日土曜日

ヘルツとセント

知っているようで意外と知らない人が多いのが、ピッチの単位のヘルツとセント。
ヘルツは一秒間に何周期あるか、を表した値です。またセントは100centを半音として、音の間隔を示したものです。例えばドとソの間は700centの間隔があります(もちろん平均律の場合)。
上記のようにヘルツは周波数で、音の絶対的な高さを表すことが出来ますが、セントは音楽的に分かりやすくするために対数を取った値なので、絶対的な高さを表すことが出来ません。つまり、1000Hz の音というのはあるけれど、1000cent の音というのはないのです。セントはあくまで音の相対的な距離を表すために使います。
音楽には、この対数的感覚が必要なことがままあります。音量のデシベル(dB)も、もとはといえば対数値。人間の知覚に近い感覚で音現象を数値化しようとするとどうしても対数的処理が必要になります。
二つのピッチ f1(Hz) と f2(Hz) のセント差は、以下のような式で求められます。
セント値 = 1200 × log 2 (f1/f2)
これを自然対数で計算できるようにすると
セント値 = 1200 × (( ln f1 - ln f2 )/ln 2)
となります。
自然対数の ln などというと、「わ、わけわからん」と言われそうですが、Windows の電卓で数値を入れて ln を押せばすぐ値は得られます。
例えば、500Hz と 520Hz のセント差を求めたければ、
ln 500 = 6.214…、 ln 520 = 6.253…、 ln 2 = 0.693…
となるので、セント値はだいたい 67.9cent となります。(間違ってないよね)
暇な方は計算してみてください。

2005年5月9日月曜日

合唱講習会で歌う

ハンガリーのコラール・エヴァ先生をお招きして、浜松市合唱連盟が主催した合唱講習会がありました。
今回、公開レッスンのモデル合唱団としてヴォア・ヴェールも参加。ハンガリーの先生によるレッスンという貴重な体験をさせてもらうことができました。
公開レッスンの前は、コダーイシステムによるソルミゼーションの紹介。いわゆる移動ドの話です。ただ、移動ドというとどうしても泥臭い話になりがちだけど(固定ド派が反発する)、ハンドサインをやると不思議にみんな熱心になってしまうんですね。ハンドサインって、ちょっとゲーム感覚で面白い。あげくの果てには、「これなら音取りできるようになるかも~」と言う人が現れる始末・・・。まあいいんですが。
実際のところ、ハンドサインの意義は、楽譜の読み方を教わる前の子供に音程感覚を付けるための道具としてあるわけで、五線譜を知ってしまった人にはあんまり意味ないし、そもそも音程感覚が付いていなければ、移動ドで言おうが、ハンドサインを使おうが音程は悪いままなはず。
それでもゲーム感覚の面白さがあるから、こういった講習会ではハンドサインは掴みとして使えるよなあと感じてしまいます。まあ、通常の練習の中で、息抜きでやってみてもいいかもしれませんが。(その前にみんなを移動ド派にしなければならないけど)
さて、公開レッスンのほうは、コダーイのシンプルな曲を私がゆっくり目に練習して持っていったら、本番、随分軽快なテンポに修正され、皆は大変だったようです。でも突然の曲作りの変化に付いていけるようになる、というのも大切なことで、それなりに合唱団としては有意義だったのではと思っています。

2005年5月8日日曜日

マジャールに困る

ハンガリーの合唱曲は、日本中でも相当歌われているはず。
無伴奏合唱を良くやる団体なら、一度はコダーイ、バールドシュなどの曲を歌うものだと思います。最近の作曲家でも、オルバーンやコチャールなど、ハンガリーの曲は良く歌われています。それほどメジャーなハンガリー合唱曲なのに、みんなマジャール語とどうやって格闘しているのでしょうか?
合唱団の頑張り屋が辞典と文法書を買って、歌詞の発音や意味を調べているのでしょうか?CDに訳詩が載っているかもしれませんが、自分の欲しい曲がそうそう、うまい具合に入ってなどいません。だいたい日本でこれだけ歌われているのならもう少しマジャール語の情報があってもいいと思うのは私だけ。(いや、きっとたくさんいるに違いないのですが・・・)
発音くらいなら、巷にあるハンガリー語(マジャール語)の本で多少は調べられるけど、歌詞の意味をきっちり訳そうと思うと、それだけではいかにも心もとない。やはり、その筋の方々のしっかりした訳に触れたいものです。
自分で訳そうと思うと、英語だって相当ヤバイですよ。詩というのは、どんな言語であれ、かなり文法から逸脱するもの。以前、英語の詩を訳してみたとき、さっぱりわからない部分もあったりして、こりゃ自分でやるもんじゃないなあ、と思わず感じました・・・。

2005年5月4日水曜日

ユージニア/恩田陸

Eugeniaすっかり読書感想文ブログと化しています。^^;
今日の本は、今流行り(?)の恩田陸。基本的に私が好んで読むようなタイプではないわけですが、何となく気になって読んでみました。しかも、この小説、結構実験的な作りになっているんです。そういう意味では楽しめたし、この作家の底力を感じることができました。
内容は、とある地方都市で起きた17人が死亡した毒殺事件の真相が、章毎に関係者のモノローグで段々明らかになっていくという流れになっています。章毎に語る人物が違い、それぞれが扱う時間も違います。読者は、時系列に事実を感じていくのではなく、一つの事件の像が、章毎に少しずつクリアになっていくという体験をしていきます。しかし、それは決して難しい作業ではありません。良く考えてみれば、第三者がある事件を調べる作業というのは、ほとんどこういうパターンになるわけで、そういう意味ではこの小説の構造は非常に面白い試みと言えるでしょう。読者自身が、謎解きをしていく主体になった気分を味わうからです。
ただまあ、私としては、この作家が基本的に持っているファンシー的雰囲気が、ちょっと気恥ずかしかったです。ありていに言えば少女趣味的な感じ。あらすじから感じる事件の異常さ、陰惨さは、少女趣味に覆われ、おとぎの国の出来事のようにさえ感じます。少女趣味の手にかかれば壮年でやり手の刑事さえ、折り紙の名手となってしまうのですから・・・。

2005年4月28日木曜日

神鳥-イビス/篠田節子

ibisuこの本、以前、篠田節子の本をまとめ買いして、読まずに積まれていたもの。ふいに読み始めたら止まらなくなって、結局一気読みしてしまいました。マジ、恐いです。恐くて恐くて、でも先を読まずにいられない。気が付くと全部読んでしまい、その後も恐さが後を引くというたちの悪い小説。
内容は、人気バイオレンス作家と、女性イラストレータのコンビが、明治時代の画家、河野珠江の壮絶な絵画の謎を追っていくうちに、時空を超えた恐怖体験を味わうというもの。スケベ男とカタブツ女の凸凹コンビは、2時間ドラマ的な俗っぽいキャラ設定。こういうあたりはエンタメ小説の王道なのだけど、しかしこの作品の恐怖感はありきたりのものではありません。しかも、結末も結構救いがない。「リング」なんかもそうだけど、これも単純なハッピーエンドで終わらないタイプのホラー。思わず、小説の後の出来事を想像しちゃって、それがまた尾を引きます。
おかげで、夕べはなんだか目が冴えちゃって、あんまり眠れなかったのです・・・

2005年4月26日火曜日

密会/安部公房

mikkai自分では安部公房という作家を結構好きなつもりだったのだけど、ここのところ「箱男」「密会」と二冊読んで、あらためてその前衛的な作風に触れると、好きだなんて軽はずみに言えないような気がしています。
何というか・・・、読むのにとても頭を使わせるのです。毎日少しずつ読んでいると、ちっとも頭に入ってきません。集中して一気に読む必要があるのです。
さて、この「密会」、どんな話かというと、大まかに言えば、ある男の妻が突然、救急車に連れて行かれ、男は妻の行方を捜すために、病院の大迷宮の中をさまよっていく・・・といったところ。しかし、二本のペニスを持つ馬人間、この男に好意を持つ女秘書、自慰行為を続ける溶骨症の少女、といった変態的なキャラがこの男を翻弄していきます。
ある意味、ハチャメチャなのだけど、シュールというのとはちょっと違う。バカバカしくなりそうな設定なのに、どこまでもシリアス。それに、小説の時間構造が操作されているため、読者は何度かわけがわからなくなります。それらも計算ずくのようで、そうでもないような気もするのです。
それにしても、この小説の中の病院は、忘れがたいほど幻想的なイメージを読後に残します。本当に夢の中の情景のよう。それを楽しむだけでも、この本を読む意味はあるかも。
最後の場面で、自分の妻と思しき女が、大衆の面前でオルガスムコンクールなんてのに参加している、なんてシチュエーションはまるでアダルトビデオのようだけど、こういったストーリーを平気で紡いでいく安部公房という作家、やはり私にはとても不可解なのです・・・

2005年4月23日土曜日

多重録音しよう -エフェクト篇-

最近のDAWと呼ばれるレコーディング用ソフトの面白い点は、プラグインと呼ばれるソフトエフェクトをかけることができるというのがあります。
プロのスタジオ録音というと、どでかいミキサーがあって、コンプレッサ、イコライザ、リバーブ、ディレイ、コーラスといった専用エフェクトの機材をそれに繋げて音を加工したりするわけですが、そういった過程がパソコン上でシミュレーション出来てしまうのです。こういった技術の発展で、実際のところ、プロのレコーディング作業も最近ではかなり変わっているようです。
そんなわけで、それだけのエフェクターが自由に使えればプロ並みの音を作ることができるはずですが・・・、どんなに道具が揃ってもそれらの効果的な使い方を知らなければ、プロ並みの音は出ないんです。当たり前だけど。そういったノウハウは、音楽雑誌などに詳しいのだけど、結局音を聞いて自分で判断する必要がある以上、その判断力こそがプロである証になるわけですね。
そんなわけで、まだまだ自分でもエフェクトの使い方がこなれているとはいえません。特にボーカルレコーディングのみなので、コンプレッサ、リミッタあたりがもう少し、上手に使えればと思います。いくらエフェクトをかけても歌はうまくなりませんが、かなり聴きやすくなることは確かです。
素人くさいエフェクトのかけかたの代表格は、リバーブ(残響)を派手にかけてしまうこと。これだけは、陥りまいと全体的には浅めにかけています。

2005年4月19日火曜日

コンスタンティン

なんというか妙な映画だなあ~というのが率直な印象。
悪魔とか天使とか神様とか、そういうのがたくさん出てきて不思議なことがたくさん起こるのだけど、それが出来るなら何でもありじゃん、と突っ込みながらも、ストーリーに出てくる各キャラの行動のせこさがいまいち解せません。
キリスト教の天使とか悪魔に関する言葉が頻出しますが、知識層を楽しませようとする魂胆がちょっと見えたりして、あんまり素直に反応できなかったのが正直なところ。あれはね、こういう意味なんだよ、とか自慢したがる連中が出てきそう・・・
結局ストーリーで良くわからなかったことがたくさんあったけれど、映画の雰囲気だけ楽しんだ感じ。映像はとてもファンタジックで良かったです。それだけでも見る価値はあるかも。
正直言ってかなりシブい映画でした。一つだけ忠告。もし見に行くようでしたら、エンドロールが終わるまで席を立たないでください。

2005年4月16日土曜日

新聞小説「讃歌」/篠田節子

新聞小説なんてこれまで読み続けた試しはなかったのだけど、今回、朝日新聞の新聞小説「讃歌」ついに読みきりました。本日の掲載が最終回。毎日読み続けていると、時間がなくてもここだけは読みたいという、そういう気持ちを経験することが出来ました。
それで、この小説、どんな話かというと、人の心を揺さぶるヴィオラ演奏家、柳原園子のドキュメンタリーテレビ番組を作る小野が主人公で、番組の放映から柳原園子がブレークし、クラシック界での異例のヒットとなる一方、園子に対して賞賛と批判が渦巻いていく、といった感じ。そして、ついに最後には園子が自殺して話は終わります。
最初の頃は、音楽の素晴らしさの描写がなんか陳腐な感じがしていたのだけど、それはどうも作為的だった感じがしてきます。つまり園子の音楽は、表情過多な日本的で演歌的な演奏なのだけど、クラシック界の正統的な批評家からは、彼女の音楽が演奏の基本も出来ていないような質の低いものと捉えられるわけです。
そこに、視聴率を稼ぎたいテレビ製作会社、CDを売りたい音楽事務所などの思惑が絡みます。小野はクラシックには縁がない素人という設定。だから、その小野が最初の段階で園子の演奏に心奪われるというのが、ある意味この小説の象徴的なエピソードになるのです。
いい音楽とは何か?こういった疑問を投げかけてくるなかなか味わいのある小説でした。作家の篠田さん自身も確か、弦楽器を練習されているとか。そうやって音楽のプロの世界を深く知れば知るほど、一般大衆との音楽の認知の乖離が生じてくる、その不条理がこの小説でよく表現されていると思いました。

2005年4月15日金曜日

恥ずかしい歌声公開

さんざん多重録音ネタを書いていたのだから、出来た作品は公開しなければ説得力ありません。というわけで、恥ずかしながら私と妻と二人で多重録音した作品を、ネット上にアップしました。
場所は、ヤマハの「プレイヤーズ王国」というアマチュア音楽愛好家のための音楽投稿サイト。「Unit1317」というプレーヤ名で登録してあります。場所はここ。アップ曲は、高知県民謡の「よさこい節」です(もちろん私のオリジナルアレンジ)。
妻は、まあ、いちおうソプラノとして活動しているから良いとしても、私の歌はかなり恥ずかしいです・・・(特に喉が締まったテナー声)。今度はもっと自分のパートが低くなるようにアレンジしなければ。
そんなわけですので、まずは私の環境で製作した多重録音作品、よろしかったら聞いてみてください!

2005年4月9日土曜日

フォルテ、ピアノの数

フォルテが二つ(ff)あればフォルテシモ、三つあれば(fff)フォルテッシシモ。
曲によっては、4つついたり、場合によっては6つついたりしますが、音量記号としての f, p っていくつまで意味があるものでしょうか。
私は昔から、こういった表現記号のインフレーション状態があまり好きではなく、過剰に楽譜に言葉を書き込んだり、f, p をたくさん重ねて書いたりしないようにしてきましたが、その一方、そういう表現の過剰さにこそ、作曲家の個性を発揮されている人もいます。
だいたい本来、「強く」と「弱く」を二つ表現するために、フォルテ、ピアノが生まれ、その中間を埋めるために mf, mp があるのですから、そういう経緯からいうと私的には、フォルテシモ、ピアノシモが(要するに二つまで)が意味ある表現の限界だと思っています。(と言いながら、fff, ppp も書いたことがあるけど)
��つ以上になると、もはや気持ちの問題。だから、三つなら、とんでもなく「強く」あるいは「弱く」と言えるわけですが、4つになると正直首をかしげますねえ。こういう表記があるだけで、mf, mp の差なんかどうでもいいじゃんと思えてしまいます。
だから、フォルテ、ピアノをたくさん重ねて使う場合、よほど作曲側は抑制しなければならないと私は思います。そうでないと、結果的に音楽全体をぞんざいに扱われかねないからです。逆に、演奏側としては、作曲者がどういった基準で音量記号を書いているか気にするだけでも、作曲側の気持ちが透けて見えてくるのではないでしょうか。

2005年4月7日木曜日

スタインバーグから来たDVD

先週くらいか、突然スタインバーグ社からDVDが送られてきました。スタインバーグ社とは、私が使っている音楽製作ソフト「Cubase SX」を作っている会社。
そのDVDの中身は、スタインバーグ社の製品である Cubase 及び Nuendo を使った音楽製作の様子を、作曲からCDを作るための最終のマスタリングの過程まで紹介したものです。約1時間半のこのDVD、内容はかなりマニアック。Cubase といっても素人もたくさん使っているわけで、ほとんどプロ向けと思えるこの内容を、スタインバーグ製品を持っているユーザに無料で送ってくるのは何とも大判振る舞いに思えてしまいます。
スタジオでのマイキングや、超高価なエフェクタの使いこなし方、はたまた歌手の褒め方まで(!)、まあ雰囲気を知るにはなかなか面白い内容ですし、私も仕事柄、実際のレコーディングの様子を知るには良い勉強になります。
このDVD、実はくらしき作陽大学の音楽デザイン学科(?)で実際に使う教材らしい。こういった音楽製作やスタジオワークに憧れる若者は多そうですが、東京の専門学校ならともかく、なかなかシブい場所でシブいことを教えてるんですね・・・
ちなみにDVDのメインキャストであるキーボーディスト吉川洋一郎って、戸川純がボーカルを務めるアングラバンド、ヤプーズのメンバー。実はヤプーズのCD、私、結構持ってるんです。思わず親近感が。

2005年4月4日月曜日

多重録音しよう その2

多重録音とは何かというと、つまり、一度に全パートを録音せずに、一パートずつ別々に録音するということなわけです。従って、アカペラでいうなら、ソプラノ、アルト、テナー、ベースと4パートなら4回別々に取るわけです。
このとき要求されるアンサンブル能力というのは、通常の合わせのときとまた少し異なるものです。指揮者と演奏者全体がその場その場で音楽を作り出すような通常のアンサンブルのシチュエーションと違って、常にガイド用に作られたクリック音やカラオケを基準にし、それに各演奏者が合わせるという作業が必要になるのです。それは一見、アンサンブルによる生きた音楽感覚をスポイルするように思えますが、まあはっきり言わせてもらうと、私のような素人レベルではそんな偉そうなことを言えるレベルじゃないという状態だったりします。
だいたい、クリック音に合わせて歌っているつもりなのに、全然走っていたりとか、フレーズの難しさにテンポ感が連動していて、リズム感のない情けない録音となって、容赦なく自分の下手さ加減が暴露されるわけです。
もちろん、一発取りのほうが全体の雰囲気やアンサンブルの面白さをよく捉えることが出来るのでしょうが、それはある程度うまく歌える人たちの話。まず自分自身の演奏家としてのソルフェージュ力と、敢然と向かい合う必要があります。そこで打ちのめされてだいたいやる気をなくしてしまうのだけど・・・
こういった録音の便利機能として、特定の箇所だけ録り直しすることができます。いわゆるパンチイン、パンチアウトというヤツです。ただ、これもなかなか難しくて、後で特定箇所だけパンチイン録音すると、音量とか音質とか、歌いまわしなんかが前後と微妙に違ったりして、意外と難しいことが分かります。こういったときなど、音楽の流れというものの大事さを痛感します。

2005年3月29日火曜日

多重録音しよう その1

その1と書いといて、後が続くかはともかく・・・ちょっと書き始めたネタなので、もう少し詳しく書いてみます。
まずは必要なものから。
最初にパソコン。なるべく速いヤツ。同時に数トラックの波形をリアルタイム演算するので、クロックは高いのが望ましいでしょう。
それからPC用のオーディオIF。ヤマハならUW500というのがありますが、まあそんな感じのものはいろいろなメーカーから出ています。もちろん、マイク入力付きが良いでしょう。
当然、マイクも必要。マイクはもちろん性能がいいほうが良いに決まっているけど、2万円も出せばそこそこのものは手に入ると思います。
そして、最後に多重録音のソフト。最近はDAW(Digital Audio Workstation)などと呼ばれています。私は、現在スタインバーグ社の Cubase SX3 を使用しています。
とりあえず、これだけあれば始められますが、このほかに MIDI音源、DTM用のミキサーなどがあると便利ですね。

2005年3月27日日曜日

多重録音

何度もやりかけて、なかなか進まないのが、この多重録音活動。
やりたい音楽は、ジャズ・アカペラから、ルネサンスまで、歌ならもう何でもありのつもり。実は、何回かトライして、何曲か作ったりしたのだけど、人様に公表するに耐えるべきものではありません。
ただ、この活動、個人的にはいろいろな魅力があると思っています。私が合唱で不満に感じる事は個人レベルのソルフェージュ力の弱さであり、それを何となく良しにしてしまう体質です。こういう能力は、1パート一人で歌う場合にはかなり重要になりますし、ましてや録音となるとゴマカシがききません。他の音楽ジャンルに比べると、合唱が「歌」であるが故に、アンサンブルよりも情感を重要視してしまう傾向があるように思うのです。まあ、多重録音したからといって何がどう変わるわけではないのだけど、自分でいろいろ歌って録音すれば気付くことも多いのではないかという気はしています。
ただし、一発取りではないので、テンポの揺れに対しては制限がかかります。どうしてもガイド音頼りだけでは、バラバラに取った各パートのテンポを揃えるのは難しいのです。だから、扱おうとする音楽も結局、ポピュラー・ジャズ系か、逆にルネサンス・バロック系になってしまいます。普通のクラシックな合唱曲をやる場合、多重録音と割り切って、合唱っぽくしないようなアプローチも必要かもしれません。
逆に、最近は、個人で簡単に録音して編集する環境が充実してきて、例えば録音後に、いろいろなエフェクトをかけたり、時間軸方向でずらしたり、はたまたピッチを修正してしまったり、なんてことが可能になっています。もちろん、うまく歌った方が制作にはよほど効率的ではあるけれど、録音技術を楽しむという側面もこの活動にはあるわけです。

2005年3月21日月曜日

こんなCD買ってみた

minyo何のため…という明確な目的もないんですが、「決定版・ふるさとの民謡」なんていうCDを5つも買ってみました。全10巻シリーズなんですが、そのうちの5つです。残りも買うかは未定。
割りと有名どころも入っているし、正直言って観賞用というよりは資料用であるのは確か。何か面白い編曲できないかなあなんてちょっと考えています。
民謡だからといって日本的な音とか、日本の叙情みたいなものを表現してみたいというのとは、ちょっと違う感覚です。だいたい、いまの時代、民謡を聞いて、「やっぱ民謡っていいよね~」なんてセリフは私には言えません。むしろ、私にとっては民謡は一種のエキゾチズムを感じさせ、それこそが面白いと思う要素であったりするわけです。面白い音素材の一つと言ってもいいかもしれません。
それにしても、このシリーズ、東北地方は各県毎にCD出ているのに、その他は関東とか四国とか九州になっちゃうんですよね。東北というのは民謡の宝庫なんでしょうか?(それともCDの企画者が東北地方だけ頑張って、その後、気合が抜けたのか)

2005年3月14日月曜日

ローレライ

架空戦記っていうんでしょうか。でも、ローレライシステムというのが超能力だったという設定は、なかなか面白いなと感じました。太平洋戦争をそのまま描けばどうしてもシリアスになっちゃうし、戦闘シーンを楽しませようと思うなら、こういったSFチックにしてしまうほうが、エンターテインメントとしては王道かも。
だいたい、テレビや映画で太平洋戦争を扱うというのは大変難しいと思います。私ならそういう題材を自ら扱おうという気にはならないでしょう。近い出来事ゆえに、一つの事象を見ても様々な見方があり、どのような見つめ方をしても全体像を捉えることが出来ないからです。もちろん、実際にこういう題材を扱う場合には、ある見方に固定するしかないのですが、それがときに危うく映ります。
例えば、主人公の艦長は特攻を嫌っています。生きることの必要性を何度も説きます。もちろん、今の我々から見ればそれはすごくまっとうなことだけど、あの時代にあのような言動が可能でしょうか。本当は心の奥底でみんなそう思っている、というのも私は嘘だと思います。そのくらい社会状況による常識の違いは大きいと思います。映画だから許されるとは思うけど、私としては少し気になってしまうんです。
だから、いっそのこと、私などもっと架空度を高めた方がいいんじゃないかと思います。もっとSF度を高めたりするとか、そういう形で。でも、それはそれで批判を受けそうですが。
とても濃いキャスティングでしたが、物語がもう少し濃くても良かったような気が。この基本ストーリーならもっとハラハラ、ウルウル作れそうな気がするんですけど。

2005年3月6日日曜日

となり町戦争/三崎亜記

tonari評判の話題作、読んでみました。確かに、これは面白い!シュールだけどリアル。この作家は、どの辺りをシュールにして、そしてどのあたりをリアルにするか、そのさじ加減の按配さで、批評性が高く、かつ抽象度の高い物語構築をしていくのが実にうまいです。
例えば、シュールさというのは物語の基本設定である戦争が、町という自治体組織の重要な事業の一つになっていること(小説中、「戦争事業」と表現される)。さながら、地方活性化のために公共事業を推進する行動原理のよう。そして、戦争でありながら、具体的な戦争描写(戦闘の様子、人が死ぬ様子)が一切ないこと。ただし、戦争描写が一切ないことによって、逆説的に身近な人が戦死していく事実だけが心に重く響きます。
リアルさというのは役所仕事の杓子定規さ、特にこの点、作者がどこまでも丹念に描きたかったことの一つでしょう。その証拠に任命書やら申請書やら記録書といった役所書類の数々が小説の中に度々挿入されています。この辺り、安部公房みたい。戦争であっても議会の手続きやら何やらの承認が逐一必要だったり、偵察業務に性欲処理の業務などがあるのもかなりのブラックさ。
もっとも作者の描く世界は、シニカルな現状批判にそれほど近づかず、後半に行くにつれ、もっとリリカルで淡い哀しさを表現しようとします。最後のオチで、初めて戦争のリアルさを主人公が感じるあたり秀逸。ちょっと泣けます。アイデア勝利ではあるけれど、そのアイデアを実現する手腕にも驚かされた小説でした。

2005年3月4日金曜日

歌の習熟と脳回路

合唱団で新曲を練習しているときに、例えばほとんど同じフレーズだけどちょっとだけ違う、というようなフレーズが別の箇所にあったとします。その曲を初めて歌う人は、その箇所でつい前に歌ったように歌ってしまい、ちょっとだけ違う部分に思わず引っ掛かってしまうことが良くあります。その度に、なんでこっちとあっちで音が違ってるんだよーと思わず突っ込みを入れたくなります。
その他にも、例えば1番、2番があるような有節歌曲的な曲の場合、2番のときに間違って1番の歌詞を歌ってしまったり、逆に歌ってしまったりすることもしばしば。これも直前に歌ったフレーズを歌詞ごと覚えていて、何も考えないで歌うと、それがそのまま口に出てしまうのでしょう。
こういった例を考えると、どうも人間には、直前にしたことを丸々覚えておいて、同じようなことがあった場合、何も考えないと直前にしたように動いてしまうような仕組みがあるような気がするのです。
もう一つ、歌とは関係ない例ですが、早口言葉で「あかまきがみ、あおまきがみ、きまきがみ」なんてのがありますが、これ最後の「きまきがみ」というのが鬼門で、思わず「きまきまみ」とかなっちゃうんですね。ほんとに直前に言った「きま」という記憶が、速くしゃべらないといけないという意識の中で、脳髄反射的に出てしまうのではないかと思えます。
こういった脳内の回路は、コンピュータの心臓部、CPUのキャッシュ機能を思い起こさせます。キャッシュ機能とは、CPU内にある高速RAMに直前に実行したプログラムを取っておいて、取っておいたプログラムと同じプログラムを実行することがわかると、外部メモリにアクセスせずに、内部の速いキャッシュメモリからプログラムを読み込むという仕組み。最初から最後まで全て処理内容が違うプログラムというものはほとんどなく、実際には同じ処理が何度も何度も繰り返されるということがほとんどなため、キャッシュメモリがあるとCPU自体が速くなくても、処理全体が非常に速くなるというわけです。
ということは、人間の脳の中にもキャッシュ機能があって、直前に行った行動が常に取っておかれてあるということはないでしょうか。そして、前と似た行動を取る場合、わざわざ意識的に考えなくても、直前にやった行動をキャッシュから引き出し、無意識に再生するようになっているのかもしれません。
本当のところはもちろん全く分かりませんが、脳科学者にこのアイデアの是非を聞いてみたいですね。

2005年2月24日木曜日

平和への道程/カール・ジェンキンス

jenkinsアディエマスで有名なカール・ジェンキンスのソロアルバムを購入。といっても4年前の発売のものですが。
カール・ジェンキンスは元々プログレの残党で、曲のあちらこちらにプログレの片鱗が見えてなかなか面白いのだけど、それにもまして私が興味を感じるのは、この人、かなり合唱音楽に近いんじゃないかと思えること。アディエマスの曲の中にも、かなり合唱っぽい曲があるし。
それで、このCDを聞いて、始めに思わずぶっ飛んでしまいました。最初の曲 "The Armed Man" とありますが、これ五百年前のフランスの俗謡「ロムアルメ」なんです。この曲、つい先日のコンサートで歌ったばかり(というか私はぎっくり腰でパスしたステージだったのだけど^^;)。このメロディが、派手なオーケストレーションで繰り返され、壮大な曲に変わってました。さらに驚いたのが、3曲目の「Kyrie」では(このCD全体がミサ曲っぽくなっている)、何とパレストリーナのミサ・ロムアルメから「Christe eleison」が丸々引用されていたのでした。自分の活動とリンクしていて、何か思わず運命的な感じさえしてしまいました。
全体的には、いささか音楽的に統一が取れていない感じはありましたが、合唱とオーケストラを使い、アディエマス的な気持ち良さも兼ね備えたなかなか面白いアルバムでした。

2005年2月20日日曜日

教育と国民性

ゆとり教育の見直しという話題がニュースを賑わせていますが、今日の新聞に学習到達度世界一と言われるフィンランドの教育事情に関する記事がありました。世界一ということで日本からの視察も多いそうなのだけど、実際のところ授業時間は日本より全然少ない。しかも、今後は日本で言うところの総合学習のようなものが増えるらしいのです。
しかし、もっとその根を質すと、個人主義が根ざしている社会で、生徒間、学校間の成績の競争のようなものもないし、授業に関する学校の裁量もかなり大きいのです。中学卒業時に十分な成績でなければ、もう一年やり直すことも可能。それに対して「落ちこぼれ」などというレッテルが貼られることもないのだとか。
これだけ見ると、なんて羨ましい環境だろうと思うのですが、実際のところ教育問題というのはその社会の有り様を反映する鏡のようなもので、国民性の違いが大きく影響しているように感ずるのです。つまり上記のシステムの影には、必ず自分のことは自分で解決しなければならない厳しい自己判断を要求する社会という側面が隠されていると思います。
翻って、日本の教育を考えると、知識の詰め込みに対する批判が常にありますが、日本の教育が判断力よりも知識の詰め込みに終始するのは、日本の社会が知識のある人を要求していることの裏返しでもあるわけです。
社会生活では、常に物事を決めるために判断しなければいけません。恐らく欧米では、判断力のある人に判断を任せる方法をベストと考える。それはスピーディではあるけれど、独裁も招きやすい。だからこそ、正しい判断が出来る人こそ社会から望まれます。
では、日本はというと、個人の判断よりも話し合いでの結論が求められる。スピーディさよりも表面的な一致団結を求めるというわけです。だから、そういう意思決定の場では、判断力よりも、判断するための材料をたくさん提示できる人が望まれる。つまり知識の多い人が何より重宝されるのではないか、とそんな気がするのです。
教育というのは、結局その社会でどんな人材が要求されるか、というのを反映せざるを得ないわけですから、恐らく外国の例というのは簡単には日本で実施するのは難しいことではないでしょうか。

音楽を聞かない

作曲家などと冠したページを立ち上げながらこういうのはなんだけど、最近落ち着いて音楽を聞くことがだいぶ少なくなってしまいました。30代~50代の男性というのが一番音楽からは遠ざかっている年代のようだけど、まあその人たちが音楽を聞かない理由は忙しくて音楽なんて聞く暇が無い、というところが実際のところでしょう。
翻って私の場合、考えてみると、仕事の忙しさは昔からそう変わらないし(まあ商品開発している技術屋なんで、それなりには忙しいわけですが)、家に帰っても時間がないというわけではない。実際のところ、最近は本や映画を楽しんでいることのほうが多くて、そっちの方に時間が割かれているようです。そういえば、CDもここのところ買ってません。興味のあることというのは、年々変わっていくもので、今は小説を読むのがマイブームといったところでしょうか。
なんとなく、音楽を聞くことが、ただ純粋に音楽を楽しむことに結びつかなくなったのかな、と思ったりします。常に、自分の行うことに「意味」を求めようとしているというか。自分自身が新しい価値を創造しようとするなら、そのものについて徹底的に考え抜かねばならないと日頃思ってはいるものの、考えることが創作にストレートに反映するわけではないことも確か。作り続けることを人から要求されていないと、考えることに明け暮れてますます音楽活動から遠ざかりそうで心配になります。たまには、棚にあるCDを片っ端から聞いてみましょうか。

2005年2月12日土曜日

ステップフォード・ワイフ

ニコールキッドマン主演のこの映画、なかなか楽しめました。これは想像以上に私にとってヒットです。
全体的に寓話的な雰囲気で作られているのが私の好みに合います。特に前半、全てのノリが過剰で、えげつなくて、こういったジョークセンスが面白かった。この感覚は「未来世紀ブラジル」に通じるものがありますね。最初の、主人公のジョアンナ(ニコールキッドマン)が作るテレビ番組の悪乗りぶりはかなりおバカ。それに、ステップフォードという不思議な街の人々の不思議な行動も、ひとつひとつバカバカしくて、風刺に満ちています。このバカバカしさだけを見るとくだらないと思う人もいるかもしれないけど、何を風刺しているかというところまで考えてみると結構深いものを感じます。古き良き時代のアメリカ、キリスト教に深く帰依し、貞淑で夫に無条件に尽くす妻、そういった環境を愛することは、いわゆるアメリカの保守層に対する辛辣な風刺に読めます。そう考えると、ちょっとこの映画はある種の政治的メッセージを潜ませているようにも感じます(要するに民主党寄り)。
さて、ステップフォードの妻たちにはどんな秘密があるんだろう、とわくわくして見ていると、話は思いがけずSFっぽくなってきます。そしてついに主人公のジョアンナまで、洗脳されてしまいます。うわー、ここで終わったらかなり渋いぞ(まさにラストに救いのない「未来世紀ブラジル」そっくり)、と期待を膨らませていると、さすがにハリウッド映画、最後は予定調和な勧善懲悪に向かって大どんでん返し。きちんとこの街の秘密が暴かれるのです。まあ、このあたりは仕方はないのかもしれませんが、最後のどんでん返しでのSF設定には穴がありまくりで、若干萎えてしまいました。
いや、それでもこの寓話的で風刺に満ちたSFチックなこの映画、私のツボを刺激しました。先日のレークサイドマーダーケースとは逆のことを言いますが、終盤で安直なカタルシスを追求しないと、もっと私好みの映画になると思いました。まあ、でもこの辺りが落としどころでもあるのかなあ。

2005年2月10日木曜日

執拗な繰り返し

何度も書くようですが、トルミスの合唱曲ってうまいなあって思うのです。
基本的には、同じメロディの執拗な繰り返しなのだけど、それを取り囲む和声やリズムのバリエーションで音楽がだんだん変容していくパターンが多いです。そして、そういう曲を聴くと、そうそうそれでいいんだよね、と個人的には納得できちゃうんです。
合唱は、少なくとも日本では閉鎖的な音楽ジャンルなので、作曲家も聴衆より演奏家に向けて書いている側面があるように思います。歌い手は器楽的なフレーズや、単純な音符を嫌い、メロディを歌うことを指向します。だから、とりわけピアノ伴奏の比重は高まります。そういう歌い手の心理からすれば、メロディの単純な繰り返しや、白玉音符でひたすら和音作りを強いられる音符は敬遠されるでしょう。
ところが、聴く側から合唱を捉えたとき、トルミスのようなシンプルさ、繰り返しの執拗さ、コーラスによる単純なハーモニーの美しさというのは、どれも美点のように思えてきます。いわばヒーリング系の気持ちよさなのかもしれませんが、良く作られていれば飽きるということはありませんし、シンプルだからこそ人の声のデモーニッシュな側面が強調されるような気もしてきます。
シンプルな楽曲の芸術性云々は置いておくとしても、聴いて気持ちいいものをもっと演奏していきたいな、と思います。歌い手も、歌う側の論理だけに凝り固まっていないか、素直な気持ちで音楽を捉えなおしてみて欲しいのです。

2005年2月7日月曜日

ぎっくり腰

正月にちょっと腰を痛めて、少し良くなったかなと思いつつも何となく違和感を感じ続けていたのですが、金曜の朝、突然ぎっくり腰に襲われたのです。
こりゃやばいと会社を休んで、しばらくベッドに横たわっていると、それ以降、立ち上がることもままならないほどになってしまいました。腰が痛くなって、こんなに動けないのは初めてで、本当にそのときは救急車でも呼ぼうかとマジで思いましたよ。
そんなわけで金曜日は寝たきり状態でした。土曜日に医者にいってブロック注射してもらったり、座薬を入れたりして、ようやく動けるほどにはなってきました。
こんな時期に、なんと今日はチェレステの演奏会で本番。結局、長丁場の1ステージはパスし、2,3ステージはお辞儀もままならない状態でしたが、なんとか舞台に立ちました。皆さん、ご迷惑をおかけしました。まあ、それでも今日は大分よくなってはいましたが。
トイレもままならないほど、動けないというのは本当に情けないです。介護してくれる人がいないと生きていけない人の気持ちがちょっと分かった気がしました。

2005年2月4日金曜日

脳が聞く音楽

意外と音楽そのものを大学などで研究している人は多いようです。
最近は脳の研究もさかんなので、脳がどのように働いて我々の意識を作るのか、そういうことを考えるのに音楽というのは結構いい題材なのかもしれません。
音楽を耳で聞いてそれを脳がどのように分析するのか、そしてそれに対して私たちはどのように反応するのか、楽器を練習しているときはどのように脳が反応しているのか、どうやって人は音楽演奏に習熟していくのか、これらを知ることは人間というものを知る上で重要なことであると同時に、音楽とは何者なのか、ということを明らかにすることに他ならないと思うのです。
最近の研究によると、音楽を聞いたり演奏したりするときは、特定の脳の部分だけが使われるわけではないそうです。音楽を楽しむときは脳の様々な領域が反応します。音楽というのは、脳に対していろいろな働きかけをしているのです。音楽を論理的に聞く部位があったり、あるいは感情的に聞く部位があったり、テンポの違いで反応する脳の部位が違ったりするそうです。また音楽体験によって、脳そのものの回路が変更され、より興味の強い音響に反応するように変わっていきます。
こういった話は、音楽が人間生活の諸相に対して様々な影響を与える力があることの証左のようにも思えます。逆にだからこそ、音楽の神秘はそう簡単には解き明かせそうにないかもしれません。

2005年2月1日火曜日

静岡県のアンコン

昨日、静岡県のアンサンブルコンテストに参加。昨年はヴォア・ヴェールが念願のグランプリ受賞だったので、今年はちょっとシャレで男声と女声で分かれて出ることに。結果は推して計るべし・・・。女声は銀賞、男声は銅賞でした。今年は混声のレベルが高くて、とても太刀打ちできませんでした。
とはいえ、男声組、1月になってからたった四回の練習しかしてないし、結局全員揃ったのが当日だったし・・・というあんまり自慢できない状態だったのは確か。もう少しみんながこなれていれば声も出てきたかな、とは思いましたが。
それにしてもアンコンというのは、人数が少ないだけに、人数差や発声の力の差で露骨に順位が付いてしまいます。レベルが高いコンクールならともかく、静岡県のアンコンくらいだと曲作りって大した影響が無いような気がしたりして。

2005年1月27日木曜日

構想とはどこまで

とても有名な作家でも、インタビューなどを読んだりすると、小説のプロットがあまり明確ではないまま書き始めたり、書いている途中にいろいろなアイデアが投入されたりとか、要するに素人が思っているほど、きっちりと構想を建てた上で作品を作っていないような感じを受けたりします。
むしろ、ある作品を書く際、徹底的に取材したり素材を集めたりして、構想やプロットを練って、準備万端整えた状態で書き始めるということ自体、一般的でないのかもしれません。
ところが、一般の方の中には、プロならば事前に構想を練るような、きっちりとした仕事の仕方を絶対しているはずだと確信しているような人も見受けられます。作品の全てを制御していることが、優れた芸術家としての証であると感じるからでしょう。
でも、やはり実際はそうではないのでしょう。理知的な作業は時として、爆発的な高揚感とか、ここしか使えない素晴らしいアイデアとかをスポイルする方向に向かわせます。それが、芸術本来が持つパワーを削ぐことに繋がることが多いと私は思うのです。
作曲の場合、相当理知的な作業だと思われるフシがあり、構想が十分練られていることが前提で楽曲分析されていることが多いように思いますが、どうなんでしょうねえ、もっと芸術って不確かで、曖昧で、非論理的な部分に根源的なパワーがあるんじゃないかって気もするのですが。

2005年1月22日土曜日

レイクサイド マーダーケース

昨年は映画趣味にますます拍車がかかり、結局23本の映画を鑑賞しました。基本的にはSF・ミステリー・ファンタジー系に傾いていて、このジャンルでまともな作品がなかなか出ない邦画には正直縁が薄い状態です。
さて、今年最初に見た映画は今日封切られた邦画「レイクサイドマーダーケース」。なぜ見ようと思ったかというと・・・、邦画にしてはなかなか渋そうな設定だということ。あとは、20年以上前にファンだった薬師丸ひろ子がどんなになったか興味があったこと。あと、金八先生の鶴見杉田ペアが夫婦役で出るというシャレ(ちょうど私たちが中学生だった頃に流行ったんで妙な感慨があるわけです)というのも見逃せません。杉田かおるの最近の報道のおかげで映画も注目を浴びたか?
ところが、午前中ということもあったのでしょうが、客席はガラガラ。それに、想像以上に内容が渋くて、こりゃーヒットしないだろうなあというのが率直な感想。
でも、まるで心理劇のような登場人物の閉鎖環境での会話のやり取りがものすごくリアル。人間ドラマがとても良く描かれています。この脚本、これまでの邦画にはないリアリティがあります。それを各役者がうまく表現している。あういうタメの入った演技は、恐らく監督の好みなんでしょうね。テレビドラマのような安直さが無くてとても好感を持ちました。
ただ、邦画全体的な特徴として、監督個人の力が強すぎるのか、「売れる」ために必要な作品の客観性がどうも足りないのです。監督の目指す芸術性と、商業的な成功は一致しない場合のほうが多いのは確かです。しかし、芸術家が売れることより自身の信じる芸術性ばかりを強調するのは、常に健全であるとは思いません。現代音楽の状況などにも似ています。
この映画、かなりいいセン言っていますが、一般にもう少しウケる客観性を持ちえるには、もう少し終結感があるはっきりしたエンディングが必要。最後の最後の怪しいシーン、多義的でちょっと売れセン映画としてはいただけません。あと、いくつかの伏線が解決されないまま残っていたりします。
後は見る側が、流行のスターとかドンパチの激しさだけで面白さを評価しないほど成熟するのを待つしかないでしょうね。

2005年1月17日月曜日

ラス・マンチャス通信/平山瑞穂

LasMaすでに気付かれていることと思いますが、ここのところファンタジーノベル大賞受賞作品を立て続けに読んでます。想像をはるかに超えた様々な異世界を味わいたいと思うなら、この賞を取った作品を読むのが良いでしょう。毎年毎年、いろんなタイプの異世界を持つ作品が続々と生まれてくるからです。そして、本作品、出版されたばかりの昨年の受賞作。
これはすごい!江戸川乱歩のような怪奇幻想世界と、カフカのような不条理世界、そして社会に馴染めず不当な扱いを受ける「僕」の生き様の描写の執拗さは生半可ではありません。ストーリーに一つの大きなテーマがあるわけではなく、「僕」の流浪の生活が各章毎に違う状況で語られます。このあたりの流れをどう読者が感じるかは分かれると思います。情けない主人公の鬱々とした様を延々と読まされるのを嫌う人もいるでしょう。しかし、本来、作者が書きたかったのは、自分なりに正義感と現実のバランスを保ちながら生きているのに、それでも報われない自分、といったそんなリアルな社会的現実ではないかとも思えます。ここで、「僕」を貶める人物は、いずれもこういった内向人間の天敵のような存在です。その描写は実にリアルです。この細やかさは作者の人生観なしに語れないのではとも思います。
もう一つ、この小説に特徴なのは、この薄気味悪い世界に漂うエログロ感。スカトロっぽかったり、SMぽかったり、人形愛みたいなのがあったり。まあ、私は嫌いじゃないですよ。主人公の姉や、由紀子の言動のなかに潜むエロティシズムにも味わいがあります。第四章にある三人暮らしにも微妙な羨望を感じたりして。
ネットでこの小説の記事を見ていたら、とあるところに受賞時から最終章をほとんど差し替えたという記事を発見。思わず、なるほど。感動のラストがありちょっと泣けるのだけど、出版に際し、そんなふうに読みやすく変えていたんですね。

2005年1月16日日曜日

第四間氷期/安部公房

4thK自分では好きな作家だと思いながら意外と読んでないのがこの安部公房。何といっても「砂の女」の面白さが圧巻なわけですが、じゃ他の本はどんな内容だったかというとなかなか思い出せなかったりします。
そんなわけで、久しぶりに安部公房の長編を読みました。小説自体が書かれたのは昭和33年という、はるか昔のこと。この小説、いわばSF小説なのですが、たしかに昔に書かれただけのことはあってSF的要素は古色蒼然という感もあるのだけれど、小説自体が訴えたいことは時代を超えても全く色褪せていないのです。「砂の女」もそうなのですが、あり得ない状況、信じられないような状況をSF的設定で作って、その中で、一体自分とは何者なのか、ということを主人公を通して語るというのが、安部公房の基本的なスタンスのように見えます。
この小説の場合、主人公は「予言機械」の設計者という設定。ある殺人事件などに巻き込まれていくうちに、一緒に開発している部下の言動に疑いを持ち始めます。話の途中までは、そういった謎がどんどん膨れ上がっていきます。しかし、広がり始めた話はむしろ主人公自身の話に収斂するようにどんどん狭まっていき、ついに自分自身を陥れていた張本人として、予言機械内に生成された主人公の第二次予言値(主人公の別人格のようなもの)が現れるにいたって、加速度的に謎が解かれます。そして、全てを知った主人公が殺される寸前で話は突然終わるのです。
安部公房にとってのSFとは単に未来を描きたいというより、主人公をシュールな状況に追い詰めるための道具なのだと思えます。そして、その中で、世界の中でまるで自分ひとりが孤立しているような不安、を執拗に表現しているように感じます。

2005年1月13日木曜日

2005年・・・かあ。。

いろいろな書類に年号を書くときに2005年と書くと、あらためて年が変わったんだなあと思います。去年までは、なんとなく21世紀になった余波でだらだらと年が進んだ感じがするんだけど、2005年って、もう21世紀になって5年が過ぎてしまったんですねえ。
80年代、90年代、と言うのと同様に今を0年代というのなら、もうその半分が過ぎてしまったわけです。改めて考えてみると、この0年代というのはどんな時代なのだろう、と思っても何も思い浮かばなかったり。
私ごとで言えば、何かあったようであんまりなかった5年とも言えます。こうやって、そう大きなことも起こらないまま、これからの年月も過ぎてしまうのでしょうか。
今年はすっごくいいことがありますようにと頼んだ、1月4日にガラガラの神社での初詣の効力に、早くも疑問を感じている今日この頃。

2005年1月7日金曜日

バルタザールの遍歴/佐藤亜紀

050106かなり渋い小説なんだけど、よくよく考えてみると、金と酒と女まみれの堕落した男の話。それでも、格調高い文体や文章の端々に現れる博学な引用に、ただただ眩暈を感じてしまいます。1930年代のヨーロッパを舞台にした話で、いろいろな街の雰囲気や、退廃的な風情がとてもよく伝わってきます。そういった、文章の巧さ、比喩や表現の巧さだけで読めてしまう、そういった感じの小説なのです。
第3回ファンタジーノベル大賞受賞作品。もちろん、ファンタジー要素はあります。主人公は一つの肉体に二人の精神が宿ってしまっているという設定。それでも、これがSF的、ホラー的にならないのは、超常現象であるにも関わらず、主人公や登場人物がいとも簡単にこの状況を受け入れてしまうという作品設定の妙があるわけです。だから、ファンタジーというよりも、単なる退廃的なある男の冒険談として読めてしまう。
こういったデカダン的な身の崩し方に憧れる人もいると思います。そんな方にはお奨めです。


2005年1月4日火曜日

嫌いな技術-横長テレビ-

正月で実家に帰ったら、新しい薄型液晶テレビがありました。最近、薄型が流行ってますから、うちもいつ買おうかなと思っていますが、なかなか値が高くて手が出ません。
この手のテレビ、いまほとんど横長のサイズなんですね。妻の実家にもこの横長テレビがあって、行く度に違和感を感じています。私はどうもこの横長サイズのテレビというのが気に入らないのです。
なぜって、普通のテレビ放送の画面を無理矢理横に伸ばすから、元の画像がすごく歪むじゃないですか。わざわざ上下を少しカットして、両側を少し横に延ばしたりするから、画面の横側に写っている人ほどデブに見えてしまいます。美形の女優さんだってこれじゃ台無しです。
文字が横に流れるようなときに、横長の画面の歪みは顕著になります。両横に文字が写っているとき、文字は横に長くなるんですが、真ん中に行くと、ぎゅっと縮まる。字を見ていると、こんなにへんてこに画面のサイズをいじっているのがわかって、こんな画面でいいのかと突っ込みたくなります。
世の中、技術が進んでテレビの画像などもどんどんきれいになっていくのに、こういうことに無頓着な人が多いのはとても不思議です。だいたい、私だって映像の質にそれほどこだわるタイプじゃありません。だけど、オリジナルの画像の意図を著しく損ねるような横長サイズの画面だけはどうしてもいただけません。
こういう感覚、木を見て森を見ず、というふうに私には思えるのだけど、これだけ世の中に横長サイズのテレビが売れているのを見ると、私のこだわりの方がマイノリティなのか、妙な不安を感じるこの頃。
私のうちは、もちろん横長じゃありません。しかし、薄型テレビで横長じゃないサイズなんてあんまり見た覚えないし、今度買うときには横長を買わざるを得ないんでしょうか。