2005年12月25日日曜日

企業倫理とは?

テレビを見ていたら、今年の事件には、企業の倫理観が欠如したと思われるようなものが多かった、とニュースで報道していました。確かに、最近のマンションの構造計算書改ざん問題、松下の電気ストーブ問題、東証の度重なるミス、JRの脱線事故、などなど思い当たるものは多いです。
そういった事件、事故に対する多くのコメンテータの意見の大半は、最近、日本人に倫理観が欠如しているのではないか、というものです。あるいは、それぞれがやるべき仕事がきちんとしないことに憤慨される方も多い。もちろん、市民側の気持ちとしてはこうした事件、事故、犯罪というものを糾弾し、きちんと責任を取ってもらうべきでしょうが、私には何か本質は別のところにあるようなそんな気がします。

実際、倫理観が欠如した人は、恐らく昔から存在したのだと思うのです。今になって急に増えたとは思えません。要は今まで表面化しなかったのです。
その表面化した原因は何なのか。
一つは、グローバル化、ボーダーレス化による大競争時代のおかげでしょう。情報も交通も限定されていた時代は、それぞれの企業が活躍する範囲は限られていたのですが、今や地方だけでなくて、日本全体、世界全体を相手に回さなければいけない時代です。
簡単に言えば、安くなければ速くなければ競争に勝てない。たくさんの企業が競争に負けて、消えていっています。そんな中で、誘惑に負けて、粗悪品を売ってしまうことがあるのは避けられないことではないでしょうか。鉄道や住宅供給といった生活に根ざしたところでさえ、そういった競争のしわ寄せが来ているわけです。ウチの会社だって、コスト下げようとして安い部品を使ってひどい目にあったこともあります。

もう一つ言いたいのは、世の中のいろいろなことが効率性、便利さを目指すために、規格化され画一化されるようになっているという点。
こういった透明性への希求は、なあなあで済んでいたいい加減な慣習を一つ一つ暴くことにつながります。例えば、構造計算書の話だって、耐震建築のルールが決められていなければ、問題にさえならなかったわけです。JRの運転手だって、効率を追求しなければ、まるで機械のようにミスのない仕事を要求されることもなかったかもしれません。
この社会が効率性を追求すればするほど、規則は増え、私たちの行動には規制が伴うようになります。こういった時代の流れは、一方では正しいことではあるのだけど、私たち一人一人に課せられる義務だって当然増えているわけです。
他人の行動を糾弾する私たち自身、全てのルールを完璧に守っていると断言できますか?
もし、あなたがゴミ出しのルールを守らなくて、大変な事件が発生してしまったらどうしますか?世間はあなたをすごく批判することでしょう。

私は、今事件に登場するプレーヤが法のもとに裁かれるのは仕方ないとしても、感情的に批判するだけのお気楽な態度に組みしたくないのです。いつだって明日は我が身だし、こういった社会自体、私たちがどう考えるべきか、もっと議論の必要があるのではないでしょうか。

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