2006年12月31日日曜日

今年劇場で見た映画

今年の締めくくりに、今年一年、映画館で見た映画を全部ご紹介。

キング・コング
・ミュンヘン
PROMISE
THE有頂天ホテル
歓びを歌にのせて
・Vフォーベンデッダ
嫌われ松子の一生
・パイレーツオブカリビアン~デッドマンズチェスト
日本沈没
・スーパーマンリターンズ
グエムル
イルマーレ
・レディインザウォーター
・ペレアスとメリザンド
トゥモローワールド
・犬神家の一族

一般的には多いほうかもしれないけど、それほど映画マニアってわけでもないですよ。

2006年12月29日金曜日

邦人曲を取り巻く環境

邦人曲の特殊性シリーズ、ほっとくとどこまでも書きそうなので、今年も終わりそうだし、今回あたりで止めておきましょう。
今まで言ったことを全部まとめると、音楽的骨格をピアノに任せて奔放に歌い、宗教的祭儀より平和や学術的なテーマを好み、音そのものより歌詞の意味にこだわり、ロマン派的交響曲の世界を指向し、器楽的メロディより言葉のイントネーションの自然さを気にする、そんな曲が喜ばれているのです。
結局のところ、需要の無いところに供給は無いわけで、皆(合唱団)が欲するからこそ、こういった曲が生まれるわけです。

でも、それって本当に観客が聞きたい音楽なんでしょうか?
みんな真っ赤な顔して興奮して歌っているのに、それに子音もしっかり立っているのに、でもポリフォニックなんで何を歌っているかは認識できず、時折聞こえる言葉の断片からはやたらとシリアスな雰囲気だけが漂ってきて、果たしてこの曲を理解しようと努めるべきか戸惑っている会場のお客さんたち・・・そんな光景が目に浮かびます。本当はもっと直接、感性に訴えてくるような音楽が聞きたいのに、考えることを強要されると、ちょっと引いてしまう。
そのくせ演奏会が終わった後に、ロビーに出てきた団員が「ねぇ、どうだったー」と聞くと「うーん、良かったよー」などと社交辞令を交わすのは、演奏会のマナーでもあるわけで、結局のところこういったアマチュアの演奏会は今後とも延々と続くわけです。

もっともっと質が高くて、一般のお客さんが楽しめるような演奏が、聞きたくなるような合唱曲が、必要なのだと思います。
上手い合唱団が増えれば、観客の耳も肥えていくし、音楽批評も的を得たものになっていくでしょう。そうすれば、さらに上手い合唱団が増えていくはずです。
ことは簡単には進まないのでしょう。100年くらいの年月は必要かもしれません。100年経っても、日本に合唱文化が根付いていないかもしれません。でも、そういった上向きのスパイラルを少しずつでも作っていくしか道はないのだと思います。
作る立場から言えば、今まで言ってきた特殊性の要素を少しずつ崩していって、「おっ」と思わせるような世界観が示せれば嬉しいのですけど。

2006年12月26日火曜日

のだめカンタービレの世界

ええ、もちろん見てましたとも。
マンガも読みました(妻が全部持っている)。
正直、面白かったです。多くのクラシック関係者が面白いっていうのも頷けます。確かにとても良く出来ている。リアルとバカバカしさのバランスが絶妙で、ありそうでない音大生の日常に思わず憧れてしまうのです。

しかし、のだめを貫くリアルさというのは、私の思うに「音楽への向き合い方」なのではないか、と思うのです。
よくよく見てみれば、このドラマ、良い音楽をすることが何よりも第一であって、友情や恋愛よりも優先される。実際、素晴らしい音楽というのは才能のある者がひたすら努力することによってしか生まれない、という当たり前でいて、目を背けたくなる現実があるのです。このドラマはそれを真正面から表現しています。
だから、センスの無い人間が一生懸命やってすごく上手くなった、などという感傷的な態度は一切取らないのです。主人公は、二人とも才能に恵まれているという設定。その才能が開花していく様子がストーリーになっているわけです。
たかが音楽、されど音楽。音楽の神様に許された者だけが高みに上がれる不条理な世界。残念ながら、そこでは人間社会の常識は通用しないのです。たとえ傲慢であっても、変態であっても、ホモであっても、音楽の神は無作為に降りてくるのです・・・

2006年12月24日日曜日

邦人曲の特殊性-日本語の縛り

どの言語でも、言語によるメロディへの縛りというのが存在するはずです。
そういう意味では、日本語だけの問題ではないのですが、それでも日本語がメロディに与える影響は、他言語に比べても非常に大きいのではないかという気がします。この話、昔から繰り返し書いている内容でもあります。例えば、これとかこれ
そういうわけで多少重複しますが、改めて日本語の特殊性を挙げてみると:
・高低アクセントの言語なので、メロディに言葉のイントネーションが反映されないと気持ち悪い。
・促音「っ」、撥音「ん、む等」が、一つの音符を要求する。(モーラと呼ばれる単位がビートの基準)
・一単語の音節数が多い。
といった点があると思います。
これらはいずれも、日本語をメロディに載せる際に大きな影響を与える要素です。音楽の重要な要素であるメロディが日本語の影響を受ける以上、外国曲とメロディのフィーリングの違いが出てくることは避けられないことでしょう。
もちろん、それは他言語の曲を歌う醍醐味の一つとなり得ます。フランス語の曲は、やはりフランス語の影響を受けているし、マジャール語の曲は、マジャール語の影響を受けているわけです。それは言語のアイデンティティであり、否定すべきことでは決してありません。

しかし、音楽的要求と言語的要求の対立は、作曲においても演奏においても良くあること。そんなとき、日本語を大事にする、という気持ちが強すぎると、音楽全体にとりとめのない印象をもたらすような気がします。
日本人であっても、合唱であろうとなんであろうと、やはり音楽をまず聞きたいのであって、そこから目を背けると、結局閉鎖的な価値観に閉じこもってしまい、合唱関係者以外を寄せ付けない演奏になってしまうのではないでしょうか。

2006年12月20日水曜日

全身音楽! 上原ひろみ

全身タイツじゃないですよ。全身音楽なんです。
本日、上原ひろみの浜松公演行ってきました。いやあ、良かったです。もう、全身音楽としか言いようがありません。どんな言葉を並べても陳腐になってしまって、伝わらないのがもどかしい・・・ってくらい。

若さゆえの激しさっていうものもあるのかもしれません。しかし、彼女の場合、それは単なるパフォーマンスではなくて、全てが音楽の一部と化している、そんな印象を受けるのです。変拍子でさえ、知的というよりは、過激さの一部であるような気がしました。とまあ、あの弾きっぷりを見ていない人に言っても、わかりづらいと思いますね。やっぱり、音楽はライブが一番ですなあ。
上原ひろみの地元というせいか、恐らくジャズとは無縁な方々も大勢いたようです。後ろの席からは「ねぇ、こういうのってメロディないんだぁ」とか話しているのが聞こえてきて、『メロディ、ちゃんとあるやんけ!』と思わず心の中で突っ込みを入れたくなりました。
会社の人にもたくさん遭遇。ウチの新入社員とか、ウチの事業部長とか、ウチの社長とか、会場で見かけました。

2006年12月16日土曜日

邦人曲の特殊性-交響曲のような組曲

一つのステージで何を演奏しようかと考えたとき、合唱組曲というのはちょうど良いボリュームです。そんなわけで、邦人合唱曲のほとんどは合唱組曲という形で作曲されています。
外国曲はどうかというと、もちろん組曲である場合も多いのですが、単品で書かれることも比較的多く、組曲であることにそれほどこだわりがあるようには思えません。

ただこの問題、単純に組曲で書かれているかどうか、という点だけに納まらない要素があります。
それは、邦人合唱組曲が、単品が寄せ集められて作られた組曲、というよりは、各曲が有機的に結びついたり、組曲全体が一つの作品としての大きなうねりを持つように考えられている、という点です。これは、組曲というよりはむしろ交響曲という感じに近いと思います。
交響曲は全体で一曲であり、各楽章は交響曲という全体の中で演奏されることで初めて意味を持つように考えられています。そのため巨大化した交響曲では、第一楽章の冒頭に立派な序奏があったり、最終楽章の最後はこれでもかという盛り上がりが作られます。第二、第三楽章は、キャラクターの違うスケルツォ、緩徐楽章の小曲が配置され、曲全体に変化が付けられます。

こういった、交響曲的傾向が邦人合唱曲全般に見られると思うのは私だけでしょうか。
私の思うに、日本で合唱に関わる多くの人はクラシック音楽マニアではないかと感じることは多いです。しかも、ここでいうクラシックは、19世紀のドイツロマン派的性格が非常に強いです。もちろん、合唱はポップスか、クラシックか、と聞かれればクラシック音楽に近い傾向を持っているとは思いますが、ブラームスやブルックナー、マーラーのような交響曲と比べると、何か違うような気もします。
恐らく、こういった交響曲指向が、ピアノ伴奏を使う、もう一つの理由になっているのかもしれません。つまり、アカペラより音楽を、よりダイナミックで派手に表現できるからです。
しかし、合唱というのはもともと非常に繊細な音色を持っていて、それを静かな残響のある場所で楽しむ、という感覚が欧米人にはあるのではないでしょうか。その感覚は、ドイツロマン派の大交響曲とは、かけ離れているような気がします。そもそも合唱に何を求めているか、という点において違いがあるのかもしれません。

2006年12月13日水曜日

功名が辻

今年も大河ドラマ、全部見ました。これもHDレコーダのおかげ。
とか言いながら、日曜夜8時のちょっと前に先週分のを見てないことに気付いて慌てて録画を見たりとかで(上書きモードで予約入れてるので)、便利になるのも考えものです・・・。

何といっても、どマイナーな戦国大名の山内一豊(の妻)を主人公としたというのが、良かったのかもしれません。信長も秀吉も家康も、全部客観的に描くことが出来るからです。しかも客観的どころか、かなり悪意を持って描いていたと言ってもいい。信長は「ワシがこの国の王じゃ!」とか言って、半分狂人みたいになってるし、秀吉はボケて失禁しているし。家康はわりとまともだったけど死に際がちょっとマヌケな感じ。
ところが、今回の脚本、敗者に対する思い入れがかなり強いように感じました。具体的には、明智光秀と石田三成。いずれも歌舞伎系の演技者を配し、どこまでも端正で、真っ直ぐなキャラ設定がされていたのはなかなか新鮮。ここまで明智光秀がカッコよくていいのか?というくらい、今までに無い明智像を提示してくれたと思います。これもマイナーな大名を主人公にしたおかげなのか。
全体的には仲間由紀江人気にあやかっている感はありますが、上のような脚本家のこだわりがちらっと見えてなかなか楽しめました。何より、山内、堀尾、中村、というマイナー大名の名前を知ることが出来ました。

来年は信玄ですね。山梨出身者としては、見ずにはいられません。

2006年12月10日日曜日

邦人曲の特殊性-テキストの扱い

前回はテキストそのものでしたが、今回はそのテキストをどのように扱うかという話。
別の視点でいうならば、詩に何を求めているのか、ということかもしれません。となると、自然と話は前回と繋がってきます。
例えば、宗教的なテキストの場合、使われる語句が似通っており、定型的な表現になることも多い。一つの言葉にたくさんの想いや意味が込められていて、その言葉の音響自体が一つの雰囲気やイメージを作り出すかのようです。過去からたくさんの人々が同じ言葉を使い続けていて、その言葉の意味は歴史という地層の中で「意味」を超えた役割を与えられているのかもしれません。
民謡や、その他の土俗的、古代的なテキストも同様の傾向を持っています。こういったテキストに曲が付けられたとき、むしろ曲は言葉の「意味」から解放され、純粋に音楽的な創意工夫のみで作られ易くならないでしょうか。
あるいは、言葉の意味を伝えるという役割より、言葉の音響そのものにその言葉の重要性があったりしないでしょうか。

逆の例で言ったほうが分かりやすいかもしれません。
現代の創作詩の場合、詩自体の意味が大事です。ここで言う「意味」とは、言葉単独よりも、むしろ文章に近い単位となるでしょう。詩を伝える、ということは、詩の内容を伝えるということであり、詩の中の文章の意味を歌で伝えるということです。そういう意味では、ここでいう「意味」とは極めて論理的な要素を持っています。
このような状況において、作曲家は詩の持つ意味を音楽的に表現しようと試み、場合によっては言葉と同じ表現方法を音楽に持ち込もうとします。
こういうスタイルは決して邦人曲特有というわけではないのでしょうが、それでも、多くの邦人合唱曲がそのような表現方法を持っているのは確かなように思います。

歌う側もそれを当然と思っていて、詩が何を主張しようとしているのか、それを合唱の中でどのように表現すべきか、というのが日本における合唱練習の中心課題となっています。
残念ながら、楽曲構造とか、主題の分析とか、そういう音楽的アナリーゼの結果から、自分たちがどのように演奏すべきかというアプローチは、日本のアマチュア合唱の世界ではほとんどされているように思えません。

2006年12月5日火曜日

邦人曲の特殊性-テキスト

エラソーなタイトルを掲げてますが、一マニアの単なるたわ言だと思ってください。かなりアヤしい推論になる可能性がありますので。
そんなわけで、外国曲と邦人曲の肌触りの違いを論ずるなら、やはり何といってもその詩の世界が大きく違うのでは、と思うわけです。
集団が声を合わせて何かを唱えるとき、そこには集団の利益となる何らかの必然が存在するはずです。そのほとんどは、端的に言えば宗教的行為でありましょう。逆に言えば、宗教的行為とは、集団の各自が進んで皆と同じような行動を取ろうとする有様なのかもしれません。
だいたい宗教というものは、過激であればあるほど排他的になります。愛国的な想いも宗教の一種と言えるかもしれません。ある種の激烈さが集団の気持ちを高め、一体感を醸成します。

そもそも合唱というのは、こういった宗教的祭儀の中から生まれたものだと私は思います。
ここで無理やり邦人曲の話に戻すとすると、日本の合唱曲には根本的に宗教性が欠けているのではないでしょうか。それは恐らく、戦後教育や労働運動といったサヨク的土壌の中で日本の合唱が育まれてきた、ということと無縁ではないようにも思えます。だから、国威発揚よりも、国家的犯罪を糾弾するような作品が喜ばれますし、宗教を扱っても、そこには純粋な信仰心よりも、学術的な匂いが嗅ぎ取れます。
また教育的観点から、テキストがどこまでも文学的であろうとしたため、(芸術的と思われている)現代詩の世界に足を踏み入れることになります。私は詩に詳しいわけではないけれど、そういった作品は、どこまでも内省的で観念的、そして陰鬱な気分を持つ印象があり、そういう陰鬱さこそ文学的であり、また歌いこむ価値があると思われている感じがします。

どちらがいいと断じているつもりはないのです。宗教に潜む明快な勧善懲悪的発想は、決して今の世界を幸せにするわけではありません。
しかし合唱の本質と宗教的祭儀の世界が近いものであるならば、邦人合唱にもそういった要素があってもいいのかもしれません。

2006年11月29日水曜日

今年も全国大会ばい。その2

というわけで、今年の演奏の印象など。
ちなみに今年は2団体聞き逃しただけで、あとは全部聞いたんですが、風邪気味なためか興味ない演奏時にはほとんど気絶していました。
個人的には、2年ほど前にヴォア・ヴェールで振ったG2の「The Coolin」に思わず聞き耳を立ててしまいました。ところが、大学の部で連続したG2はまるで葬式のような暗さで、あまりの生気の無さにがっくり。そんなにもったいぶった曲作りはいけません。一般の部で聞いたMODOKIのG2が個人的には1番良かったです。

それにしても、今回の全国大会は選曲の傾向に大きなターニングポイントがあったように感じます。
一言でいえば、合唱のエンターテインメント性を追及する演奏がとても増えたのです。これは、昨年の合唱の祭典の後から私もこのブログで再三言ってきたこと。そういう意味では、何とも嬉しい方向性です。しかし、あまりに多くの団体が同じ方向を向いたのは、それはそれでちょっと奇妙な感じもしたり。
要は、ステージの質を競うならば、音楽の技術だけではなく、ステージトータルの訴求力まで吟味すべきであり、各団がエンターテインメント性を競えば競うほど、各団体の芸術的プロデュース能力が問われるようになるわけです。声楽技術だけでなく、総合芸術としての合唱パフォーマンスを競う、そんな大会に変わっていったら良いと思います。もちろん、単なる演芸会のようなダサダサの演出なんかも出てくるでしょう。そういうのは、容赦なくこき下ろせば良いのです。

個人的に印象に残った演奏、曲は:
1.新潟大学室内合唱団の自由曲、コスティアイネンのミサですが、これがなかなかかっこいい曲。
2.ゾリステンアンサンブルの自由曲もかっこいい! 早速パナムジカに楽譜を買いに行ったら、何と去年の合唱の祭典で購入済だったことが判明。なんだ、持ってたんじゃん。それにしても、この団体の音楽傾向は私の趣味とシンクロします。
3.合唱団まいの「ほら貝の笛」。これはすごい演奏。いささか過度な緊迫感が要求されるけれど、メリハリの利いた音楽作りで、圧倒的な印象を残しました。指揮者独特の世界観が際立っていました。
4.岡崎混声は、昨年に続いてウィテカー作品。鳴り物も派手になりましたが、作品が描写する情景を完璧に再現していた演奏技術にも脱帽。
5.合唱団あるの「アレルヤ」も面白かった。楽譜を買いましたが、無茶苦茶難しい曲。これ、普通の団体にはとても出来ません。作品の持つ世界観には共感するものの、もう少し難易度を下げて作曲するべきだと私には思えます。

今回は審査員も大変だったと思います。
鳴り物付き、振りつき、非楽音の連続、倍音唱法、指パッチン、手拍子、足拍子・・・。今までの声楽技術だけで審査するコンクールで無くなりつつあります。こうなると運営側も少しずつ変わっていくことになるのでしょうね。
例えば、このままだと、ほとんどの自由曲は現代曲だけになってしまいます。ルネサンス・バロック、古典・ロマンなどの音楽的なジャンル分けも必要になってくるでしょう。だいたい、大学、職場、一般なんて分け方は音楽的には、何の意味も成さないのですから。

2006年11月28日火曜日

今年も全国大会ばい。その1

熊本で行われた全日本合唱コンクールに今年も行ってきました。
今年は24日に休みを取って23日に出発し、コンクールの前に2日ほど長崎観光してきました。しかし、23日の長崎の雨がとても寒くて、風邪をひいてしまうという失態。のどが痛くなった後、声がガラガラになった状態で熊本入り。まったく、こんな声で合唱コンクールに来るなんて、何という不届き者でしょう。それとも、コンクールに参加する人の分まで風邪をひいてあげることによって、合唱人の原罪を一身に引き受けたということなのか・・・なんのこっちゃ。

さて、去年の朝日作曲賞の表彰式が1日目の終わりにあったため、今年もそうだと思った方が何人かいたようです。今年はなぜか2日目の終わり、最後の最後に表彰式がありました。てなわけで、お話したかったけどお会いできなかった人が何人かいました。残念。おまけに風邪でマスクしてたので、ちょっと私だと認識しづらかったと思います。挨拶した雨森さんにもスルーされそうになったし・・・。
それからカワイ出版のH氏といろいろ雑談。非常に興味深い業界情報などを聞けましたが、正直言ってちょっとショックな話もあり。要は、出版社は慈善事業じゃないわけで、売れないものは作らないわけです。朝日作曲賞だからといって、誰も買ってくれなければそれは売れない商品と同じこと。

��日目の夜は、一般Aで参加した浜松ラヴィアンクールの打ち上げに参加。以前も書いたように、県大会では私が振っていたので、全く今回の大会は他人事ではなかったのですが、今年は全国までコマを進めた大変飛躍のあるコンクールだったと思います。さすがに全国一般Aの中ではちょっと見劣りしたけど、まだまだ団として開発の余地はあるなあ、と感じました。
打ち上げは、相変わらずの盛り上がりでしたが、どこかで「泣きスイッチ」が入ったのには驚きましたよ。全国出たんだし、そういう感傷も大事だなあと、まるで他人事のように感じてました(殴らないでー)。

今年の佳作の方は石黒晶(さやか)さんという男性のかた。楽屋裏でいろいろお話できて楽しかったです。神戸女学院で音楽を教えておられる、まさに本職のかた。こんな方と肩を並べるのは本当に恐縮なのですが、その一方、ちょっぴり嬉しかったり。昨年の山内さんといい、朝日賞の応募にベテラン作曲家の方が増えているのは、賞の権威も高まっていい方向かもしれません。(まあ、応募し続けたという意味では私もベテランなのかも)
審査発表を待っている合唱団の方々には、朝日作曲賞の授賞式は余計なセレモニーだよなあ、と感じつつ、来年は拙作の課題曲をよろしくお願いします。来年のG4は「"U":孤独の迷宮」でございます。

2006年11月22日水曜日

邦人曲の特殊性-ピアノ伴奏

邦人曲が洋モノと何が違うって、やはりピアノ伴奏に対する考え方でしょう。
そもそも洋モノの合唱曲にはピアノ伴奏付きのものがほとんどありません。もちろん全然ないとは言いませんが、一般的に芸術性の高い合唱音楽というのは、アカペラであることがほとんど。オーケストラ伴奏、オルガン伴奏のほうがピアノ伴奏よりもまだ多いくらいかもしれません。また、ピアノ伴奏が付いていても、かなりシンプルな伴奏だったり、合唱パートも簡単だったりで、芸術性の追求というよりはすぐに歌える気軽さを意識しているように思えます。
何か根本的に合唱に対するピアノの感覚が違うのです。

もちろん、音楽文化の違い、というのはあるでしょう。恐らく日本の音楽文化というのは明治以来ピアノ中心に発展してきており、全ての音楽の中心にピアノがある。しかし、他の国は違うような気がします。
もしかしたらピアノというのは、あんまりいい比喩じゃないけど、補助輪付きの自転車のような捉え方をされているのかもしれません。ピアノ一台あれば、音楽の和声感やビート感を表現できてしまいます。歌う側は、音楽の骨組みをピアノにまかせ、あとは自由に表情たっぷりに歌うことができます。
悪い言い方をすれば音楽の基礎はおいといて、とりあえず気持ちのいい部分だけいただこう、という風にもとれます。そういう意味で、ピアノ伴奏で歌った場合、アカペラに比べたらソルフェージュ的な正確さを追求される度合いは薄まることでしょう。未だに多くの合唱団が「ウチはアカペラが苦手なんで~」なんて言うのを聞きますが、それは言い換えれば、まあ気持ちよく歌えればいいじゃない、と開き直っているとさえ感じます。

ピアノ伴奏が、そもそも歌が苦手な人のための補助輪のようなものだとしたら、なぜここまで、邦人合唱曲はピアノ伴奏の重要度を高めてしまったのでしょう。
これまた妙なアナロジーを持ち出しますが、この状況はもしかして、マンガ、アニメとかに通じるものがあるのでは、という気がします。少なくとも、日本以外では、マンガ、アニメはお子様向けのものだった。もちろん、最初は日本もそうだったのでしょう。ところが、なぜか才能のある人がマンガやアニメで素晴らしい作品を作るようになり、日本のマンガ、アニメは世界を席捲するほどになりました。
なぜか、ジャンルの入り口(幼児向け、初心者向けというような)にある場所からなかなか離れることができず、そういっている間に、その入り口そのものをすごいジャンルに発展させてしまう、というような性質が日本人にはあるような気がします。
ちょっと関連する話題を以前書いたことがあります。→ここ
しかし、残念ながら、日本のピアノ伴奏つき合唱曲は世界を席捲するには至っていないようですが。

2006年11月19日日曜日

トゥモロー・ワールド

2027年の近未来を扱っているけど、全然SFじゃない映画。ちょっとSFノリを期待していくと外します。
設定は、2009年に人類に最後の子供が生まれて以来、一人も子供が生まれなくなってしまった世界。ロンドンに住むある男が、ひょんなことからテロリストに協力することになり、そこで妊娠した女性と出会って・・・、というように話は展開していきます。
しかし、そのようにあり得ない舞台設定でありながら、そこで見せ付けられる情景はあまりにリアルで救いようのない殺伐とした社会。テロリストや警官たちによる容赦ない暴力と殺戮の嵐。そして、その陰惨さは思わず目を背けたくなるほどです。これは、正直言って、R-15くらいに相当する暴力シーン、戦闘シーンに溢れていると思うのですが、全然そういう制限がないですね。

リアルな戦闘シーンは、そのままシリアスな雰囲気を映画に与えます。
主人公の元妻でテロリストの親玉である女や、主人公をかくまった良き知り合いである老人があっさり殺されてしまうあたり、悲しみというよりは、もうやり場のない怒りを感じるしかなく、その後の主人公の強烈な行動付けになっていきます。
そして、そんなあまりに陰惨な殺戮の嵐の中だからこそ、一人の妊婦が子供を生む、ということの神々しさが引き立ってきます。赤ちゃんの泣き声が、まるで世界の救いの声のごとく感じられるのです。
全体的に、かなり暗くて陰惨で救いようのない映画。しかし一方で、個々人の宗教観、倫理観、そして社会観を揺さぶる力を持った映画だと思いました。
途中で、キングクリムゾンの曲「クリムゾンキングの宮殿」がかかったのもちょっと嬉しかった。音楽はジョン・タヴナーも担当しているみたい。

邦人合唱曲というジャンル

合唱曲を歌っていて、邦人モノと洋モノでなんでこんなに肌触りが違うのだろう、と感じたりしませんか。
例えば、イギリスの合唱曲とフランスの合唱曲でも、もちろん音楽の雰囲気は違うし、言語からくる音楽の拍節感も変わってくるでしょう。さらに、ハンガリー物や北欧物、ちょっと毛色が変わってフィリピンの合唱曲などなど、どれもがもちろんそれなりの特徴を有しています。しかし、それでも、それら同士の違いよりも圧倒的に邦人合唱曲ってかけ離れているような気がするのは私だけでしょうか。

私は高校時代から合唱団でずっと邦人曲を歌ってきましたから、学生時代は合唱曲とはそういうものだと思っていたし、むしろ海外の合唱曲のほうが取っ付きにくくて近寄りがたい雰囲気を感じたものです。ところが、自分自身で曲を作ったり、演奏活動が充実するにつれ、邦人合唱曲に根本的に足りない何かを捜し求めるように、どんどん洋モノの合唱曲に吸い寄せられるようになって来たのは紛れもない事実。
私が作曲する曲は当然全て邦人曲なワケで、よく考えてみると私自身がこれまで曲を作るために考えたことの多くは、その邦人曲に足りない何かを探すことだったような気がします。もちろん、これは洋モノみたいなカッコ良さへの単純な憧れというわけじゃなくて、邦人曲だってもっともっと魅力のある試みができるのじゃないか、という問いなのです。
こんなことを書くとずいぶんエラそうですが、もちろん自分の試みがうまく行っているなどという自信もないわけで、いつもいつも同じような命題が、まるで振り子が振れるように私の意識の中で放浪しています。
そんなわけで「邦人合唱曲」の特殊性みたいなものを、もう少し具体的に、また論じてみたいと思っています。

2006年11月13日月曜日

またしてもぎっくり

うー、忘れた頃にやってくるぎっくり腰。
土曜の朝、椅子に座っていてちょっと身体を動かしたら、腰に突然の激痛が・・・。別に重いものを持ったとか、全然そういうきっかけじゃなくて、もう予測がつきません。今までの時の話は、これとかこれ。前回は、本当に動けなくなったけど、今回はコルセットを付けて動き回れるくらいだからまだ良かった。
それにしても、そんなときに限って本番があったりします。
昨日はヴォア・ヴェールでとある施設に訪問演奏しに行きました。そんなにシビアなステージではないけれど、もっとノリノリで歌ったり指揮したりしたかったんですがね。礼もままならなくて、やな感じに見えたかも。

2006年11月8日水曜日

ラビリンス/スティング

Stingロック歌手スティングが古楽に挑戦した、というのを聞いて思わず触手がのびました。
古楽と言っても、取り上げた作曲家はジョン・ダウランドのみ(他に1曲だけ違う作曲家の作品あり)。CDのライナーノーツには、スティングがこれまでジョン・ダウランドにいろいろな機会に出会ったこと、そしてついにこのCDを出すに至った経緯が書かれています。スティング曰く、ダウランドは400年前のポップなシンガーソングライターなのです。

しかし、これはなかなか面白い取り合わせです。
だいたいルネサンス物って、オペラ上がりの声楽家が声を張り上げて歌うようなものじゃないのです。ポップ系のアーティストの中でもとりわけ味のあるボーカリストのスティングが、ちょっとハスキーな声で奏でるダウランドは、とても雰囲気があり、イギリス的暗さの漂う音楽になっていました。
実際、ダウランドの曲には物悲しいものが多いのです。ライナーノーツによれば、ダウランドは今風に言えばウツだったらしい。ボーカルとリュートだけによるシンプルな音楽の中に、そういったメランコリーが存分に詰まっています。面白いのは、アルバム全体に何箇所か、ダウランドの手紙をスティングが朗読するトラックがあること。手紙の内容は、ダウランドらしさを良く表すものが選ばれているようです。

合唱好きなら有名な「Fine knacks for ladies」「Come again」なども歌っています。かなりドラマチックな歌いっぷりに、我々も学ぶべきことは多いのではないかと思います。

2006年11月5日日曜日

複雑化の罠

前回の続き。
どうも私の書きたいことって抽象論になってしまいます。興味の無い人、多そうだよなあ、と思いつつ、もうちょっと思うことを書いてみます。
私の言うところの「単純」というのは、難しいことを考えるのを止めて、そんなの省いていこうよ、というのとは違うのです。むしろ、単純とかシンプルとか言うことを、そういう風に捕らえている人は、逆に複雑化の罠にはまります。ものごとが少ない場合は一つ一つ処理しても良いけれど、その量が莫大になったとき、そのままのやり方を適用しても複雑化する一方です。そういう意味で、見通しが甘い人ほど、複雑化の罠にはまるのです。
実際のところ、ものごとをシンプルに捉える、というのは、非常にセンスのいることなのです。ある事象から、その本質を読み取り、抽象的な性質を引き出し、分類して整理し、同様な考え方を参照する、という能力が必要なのです。
ちょっとピンと来ないかもしれません。例えば、これからあなたは溜まりに溜まった電子メールを整理するとします。
いまは、電子メールは全て「受信トレイ」の中に溜まっています。これでは、昔来たメールを探したり、特定の話題の話し合いを時系列で追ったりするのは面倒です(これが複雑な状態)。一般的には、メールを整理するために、メーラーの中で、受信トレイ以外のフォルダを作成し、各メールをフォルダに分配すると思います。
別にフォルダを作ることによって、特定の人や団体、話題ごとにメールをまとめることが出来、後で昔のメールを探すことも簡単になります。
私が単純化と読んでいるのは、自分にとってメーラーのフォルダの分類をどのようにしたら良いか、という作業に他ならないのです。この際メールを、話題ごとに分けるか、送り先ごとに分けるか、単純に月ごとに分けるか、いろいろな方法があるでしょう。それによって、自分がどのようにメールを管理したいか、ということが問われることになります。

なぜ、これが芸術活動と関係あるかって・・・?
音楽だって、どのように音楽を組み立てていくかを考えたら、まず拍、小節、それから楽節、というようにだんだん部分の大きさが変わっていきます。各楽節が複数集まって、曲の一構成部品となり、それらがさらに集まって、一つの曲を成します。組曲の場合なら、複数曲で一つのステージを作るわけです。
音符という莫大な情報をどのように分類し、整理し、部分に分けることで階層化するか、そしてそれらの各部分の意味は何か、どのように表現すべきか、そういうようにアナリーゼするプロセス自体を整理することによって、初めて本当の意味での単純さが生まれてきます。

2006年11月1日水曜日

複雑化と単純化

私はマイコンのプログラムを書くのを生業としています。
コンピュータのプログラムにも、良く書けたプログラムとそうでないものがあります。私の見るところ、下手なプログラマというのは、コードをどんどん複雑に書いていく傾向があるように思います。結果的に複雑になったコードを制御しきれずバグの山に悩まされることになります。逆に、非常に良く書けたプログラムというのは、シンプルで単純化されています。プログラムで処理したい内容の本質を捉え、全体構成と細部のバランスが良く取れているのです。
なぜ下手なプログラマのコードが複雑になるかというと、一言でいうなら視野が狭いからではないかと感じます。いま書いている周辺の部分しか目に入らず、その範囲だけで最善であるように書いてしまうのですが、それが全体から見るとひどくバランスが悪くなったりしているのです。

ちょっと観念的でわかりにくいかもしれませんが、同じような話は何にでも通じるような気がするのです。
人々は「スゴイもの」を複雑なものだと捉えがちです。「スゴイもの」→「スゴ過ぎて自分にはよく分からない」→「分からないと何だかスゴく感じる」というような心理的なスパイラルがあるように思うのは私だけでしょうか。
それを逆手に取り、複雑であることがスゴイという思考でものごとを考える人も多いと感じます。
しかし、それは悪しきプログラムと同様、全体と部分の調和が崩れたヘンテコなものを作り出してしまう危険性があると思うのです。

音楽作りも然り。
局部的な部分にだけにどうしても着目してしまい、部分部分を最適化しようとすると、全体の調和が取れない、不恰好なものを作ることになります。
まずは全体を捉え、最も芯になるのは何か、それを明確にすること。その上で芯を通すために、場合によってはひどく単純化して、すっきりさせること。そういった音楽作りこそ、万人に好まれる本当に芸術性の高いモノになるのだと思います。

2006年10月24日火曜日

生命のサイクル

人間の細胞の中には、遺伝情報が格納された46本の染色体があり、そのうちの半分は父親から、そして残りの半分は母親から譲り受けたものです。
よくチープなドラマで、出生の秘密とか言って実は主人公の両親は実の親ではなかった、というようなストーリーがありますが、私にはそんな状況はあり得ないような気がします。なぜなら、両親の身体的特徴やら性向などを、自分自身が受け継いでいると身をもって感じているし、だからこそ自分が今の両親の子供であることはあまりにも明白だからです。
若い頃にきびの出た場所だとか、すぐお腹をこわすとか、腰痛持ちとか、遠視気味だとか、そういった身体的特徴はしっかり遺伝しているし、両親の性向だって少しずつ自分に受け継がれていると実感しています。
例えば、母は華道の先生をしたり短歌集を自費出版するなど、芸術的活動が好きで、自分の創作意欲などは母親から受け継いだように感じます。一方、父からは、理系的な性向を受け継いでいます。父は理系でも技術者でもない商売人でしたが、それでも私には父が正真正銘の理系的人間であったと感じています。しかし残念ながら、自分には父の強力な記憶力はあまり遺伝しなかったようですが・・・

生命のサイクルが回転することによって、そういった遺伝情報は子々孫々に伝えられていきます。「利己的な遺伝子」では、遺伝子は生命個体を乗り継ぎながら次世代に残ろうとする利己的な存在であり、生命個体はそのための単なる生存機械(サバイバルマシーン)に過ぎないと述べています。そして次世代に情報を伝え役割を終えた生命個体はただ朽ちていくのみなのです。
それはそれで非常に深遠なる生命の神秘ではあるのだけど、それでも、それぞれの生命個体は、朽ちていく命に対して悲しみを感じ、悼む気持ちを持たざるを得ません。生命のサイクルは、綿々と続くそういった生命個体の犠牲の上に成り立っていることを、今は深く感じているのです。

2006年10月17日火曜日

大人こそファンタジー

最近、何となく思ったこと・・・
その昔、音楽文化っていうのは若者のためにあるものだと思っていました。実際、CDを買うのはほとんど若者だし、音楽の流行り廃りというのも若者が先導しているように感じていた。
そして、なぜか大人の音楽というと演歌、と相場が決まっています。少なくとも私が若者だった頃は、そんな感じだった。確かに、今でも演歌はオジ様、オバ様たちが好んで歌っていますし・・・
だから、自分が子供の頃、大人になったらみんな演歌を聴くものだと思っていました。なんで、あんな曲がいいんだろう、でもきっと大人になればわかるのかなあ、なんて感じていたのです。
ジャンルのことを言いたいわけではなくて・・・恐らく、今の私たちの世代は年を取っても演歌は聴かないかもしれません。でも、きっとユーミンや陽水やサザンとかが、演歌にとって変わる機能を持つようになるのだと思います。

歌の普遍的な内容はやはり恋愛。
若者が歌いたい歌は、現在進行形のリアルな愛の歌。等身大の自分たちが描写され、ありきたりでもささやかな幸せを願うといった内容が多いのではないでしょうか。自分に身近であるほど共感を得やすいのです。
その一方、大人が歌いたい歌というと、恋愛の現役で無くなった今、恋愛とはもはやファンタジーであり、妄想の世界。ありもしない夢物語を思い描きたいのです。そして、それこそ、大人の歌と若者の歌の違いではないかと、そんなことを感じたのです。

そう考えると、演歌のファンタジー性の高さに気付かされるのです。ファンタジーにやはり大切なのは、舞台設定と、小物。酒場とか、港とか、峠とか、岸壁とか・・・。もちろん地名も多くなります。不思議なことに、具体的な地名が付くほど、その歌詞はファンタジー性を帯びてきます。それは、かすかな想い出や、妄想が働く触媒の役目を果たすからなのでしょう。
そう考えれば、大人が演歌を聞かなければいけないという法はありません。つまり、大人は音楽にファンタジーを求めているのではないかと、思うのです。そして、そう考えれば大人の聞く音楽のトレンドというのが掴めるような気がするのです。

2006年10月12日木曜日

シェイクスピアを読む

芸術に携わる者ならシェイクスピアくらいは読んでおかなきゃ、と何度思って、その度に挫折したことか・・・。なぜか、文庫本は何冊も持っているのだけど、実は一つとして読破したことがなかったのでした。恐らくその理由は、戯曲という形態が今ひとつ自分にしっくりこないのと、古典的で過剰な比喩の数々に意識が朦朧としてしまうからなんでしょう。
今、ヴォア・ヴェールでマンチュヤルヴィ作曲「四つのシェイクスピアの歌」を練習中で、先日も合唱祭でその中から2曲を演奏したわけですが、せっかくこういう曲を練習しているのだし、もう一回シェイクスピアを読んでみようと思いたったのです。
もちろん読むのは、今練習している曲の詩が入っているヤツ。まずは、「マクベス」から。
ああ、今まで何でマクベスから読み始めなかったんだろう、と思いましたよ。だって短いんだもの。3~4時間くらいで読めました。もちろん長編になれば、もっと複雑になり、内容も重厚になるのだろうけど、シェイクスピアの雰囲気をまず知るには、短いものから入るのがやはり良いような気がします。
ちなみに、「四つのシェイクスピアの歌」の三曲目「Double,Double Toil and Trouble」がマクベスから引用された詩。物語では、三人の魔女が気味悪い魔法のスープを歌いながら作っている、という設定。この魔女たちがマクベスに予言を語るのですが、それが物語りを動かすきっかけになったり、オチの伏線になったりします。

2006年10月8日日曜日

ハーモニー秋号

春号の楽譜掲載に次いで、今回の秋号にも私の記事が載っています。何といっても、一等賞なんで誇らしい気分になりますね。それに、審査員の先生がどんな評価をしてくれるのか、その記事も大変楽しみにしていました。
そして、今年の審査員のコメントは作曲家の西村朗氏。
いやー大変、嬉しいコメント。曲の本質をホントにうまく短いセンテンスでまとめてくれていて、さすがだなあと思いました。あの中の「意味がないような、あるような・・・」というくだりでは、曲の微妙な仕掛けをちゃんと分かってくれたことに、心の中で思わず拍手喝采。それにしても、ここまで持ち上げてくれると、こんなに誉められてもいいものかと、ちょっと不安になります。
この記事で、拙作に興味を持ってくれる人が増えることを期待したいと思います。

さて、別の記事でちょっと気になったところ。
「科学の目が見た合唱の発声」という記事で、結論となっている合唱の声と、オペラの声は違う、というのはまあ納得するにしても、中盤のコンピュータ分析については、ちょっと???という感じ。倍音って何の音に対する倍音をどうやって計ったんでしょう。不協和倍音って言葉も初めて聞いたし・・・。科学と言いながら、かなりアヤしい雰囲気です。

2006年10月5日木曜日

MIDIマニア

基本的に、MIDIシーケンサとしてCubase SX3を使っているのですが、これはいわゆる音楽制作ソフトというヤツで、正直言って MIDIシーケンサとしてはかなり使いづらいと思います。そもそも、昔ながらのDTMとは、おおよそ発想が違っているわけです。
私の場合、MIDIで打ち込んで、ぎちぎちに作品を作るというようなことはしないのですが、それでも自作品をホームページで聴ける程度のMIDIデータは自分で作りたいもの。とりあえず、人に自分の曲を聴いてもらうには、MIDIは大変重宝します。

そんなわけで、もうちょっといいMIDIシーケンサはないものかと思っていたのです。ヤマハのSOL2でも悪くないのだけど(使い方は良く知っている)、いまさら3万円も出して買うほどのものでもないし・・・などと考えていたのですが、ふと思い立って、フリーのMIDIシーケンサを探してみました。
そうしたら、あるわあるわ。結構、立派なものもあって、正直驚きました。フリーウェアでこれだけのものが流通していれば、そりゃウン万円もするソフトが売れるわけはないですね。
確かに、市販のソフトに比べると、??といった動きをすることもあるし、バグも結構多そうだけど、タダでコレだけ出来れば十分。複数のソフトをダウンロードして比較してみたのですが、しばらくは、これを使ってみることにしています。

2006年10月2日月曜日

イルマーレ

オリジナル版を見た手前、やはり今公開中の「イルマーレ」を見ないわけにはいきません。
さて、感想の第一声としては・・・、悪くは無いけど、オリジナルの韓国版のほうが面白いかなあ、という感じ。
基本的に、ファンタジックなイメージだったオリジナルから、ハリウッド版はリアルな現実感を重視し、ストーリーもなるべく分かり易くさせようと努力している感があります。
あと、やはりお国柄が出るのでしょうか。やはりアメリカ映画っていうのは、すごくきちっと論理的整合が取れていないと製作側が満足しない、というような側面があるように感じます。特に、この映画、設定が大変面白いのだけど、タイムマシン的ネタというのは簡単にパラドックスが作れてしまうので、その穴のふさぎ具合に製作側の違いが現れます。例えば、駅で忘れた小物は、韓国版ではヘッドフォンステレオなのだけど、ハリウッド版では、ケイトが愛読している本。この本の内容を、映画のストーリーとオーバーラップさせたり、本自体が思わぬところで現れたり、いかにもハリウッド的な伏線のはり方。だけど、一度韓国版を見ていると、そういった小細工が逆に小賢しく感じられてしまいます。
もちろん、オリジナルのストーリーの面白さがあったからこそ、今回のリメイクになったのだけど、”待つ恋愛”みたいなテーマに変わってしまったのが、ファンタジー度を下げてしまった気がします。
なんか、「ソラリス」のハリウッド版リメイクを見たときの印象とすごく似ていますね・・・


2006年9月28日木曜日

あり得ない正確さ

映画なんかもCGを使えば、あり得ないような情景や動きだって映像を作れちゃう時代です。
そんな時代、私たちにとって何が大事かといえば、その映像が本物かどうか判断できる能力だと思うのです。もちろん、CGの細かい技術のことを知る必要は無いけど、目の前にある映像を本物だと無邪気に信じたり、逆に、何でもかんでも「こんなのCGだよ」とか言って思考停止してしまうのは良くないことです。ものすごい注意力は必要ないけど、ちょっと考えてみればわかることは、やはりきちっと考えてみて欲しいのです。

音楽の世界でも、もはや私にも区別が付かないくらい、生演奏と変わらないほどリアルなコンピュータの音声合成が可能になっています。
例えば、映画音楽で聴けるオーケストラ演奏なんかも、最近はほとんど生演奏ではないのではないでしょうか。コンピュータ上で音符を打ち込んで、リアルなオーケストラサウンドで再生させれば、かなりのクオリティのものが出来ます。最近の音楽制作用オーケストラ音のサンプリングライブラリーには、楽器独自の奏法(ポルタメント、トレモロ、ピッチカート、ミュートなど)のサンプリング音もたくさん入っていて、これらを効果的に使えば、まるで本物のオーケストラが鳴っているかのような音楽が作れます。(ただし、これらのサンプリングライブラリはとんでもなく高価ですが)

もう一つ、最近のレコーディングでは、ピッチ補正という技術がふんだんに使われるようになっています。
だいたい、歌をレコーディングをすると、テイクを重ねるほど疲れが出てきます。しかし、「このテイク、勢いがあるんだけど、音程が悪いんだよなあ~」という悩みは、いまどき全てこのピッチ補正が解決してくれるのです。
今や、ほとんどのレコーディングでピッチ補正が使われているそうです。ここ数年にリリースされたCDでは、どの歌手も非常に音程が良くなっているはず。
だからこそ、歌を歌っている我々は、あまりにもピッチが正しすぎる歌に対して、もっと懐疑の耳を持たねばなりません。人間の能力は、良く考えれば誰にでもわかります。あり得ない正確さに対して、これからの時代、もっと敏感になる必要があると思うのです。

2006年9月23日土曜日

韓国映画二つ

先週、映画館で初めて韓国映画を見ました。「グエムル」っていう映画です。
突然、グエムルという怪獣が人々を襲い、主人公はさらわれた自分の娘を助けにグエムルと対決する、という内容。グエムルの描写はむちゃくちゃリアルでスゴイ。もちろんCGなのだろうけど、まるでほんとにいるような臨場感があり、人々を襲うシーンはとても良く出来ていました。
しかし、正直言ってちょっとこの映画、焦点の定まらない、奇妙な内容でした。もちろん韓国人じゃないと分からない、という場面もあるのかもしれません。しかし、笑うべきシーンなのか、泣くべきシーンなのか、それさえ分からないようなヘンテコなところもあるし、米軍の扱いとか、賄賂の横行とか、貧困問題とか、そういう社会問題が何のひねりも無く挿入されている感じで、伝えたいことが空回りしています。
とある雑誌には、このようなシュールな設定をすることで、社会の矛盾をあぶりだそうとした、などという監督の言葉があり、確かにその考え方はとても共感するのだけど、残念ながら、そこであぶりだされた物は監督の意図したものとは違うものだったような気がします。本当はカフカの「変身」みたいな感じにしたかったんでしょうかね。

うーん、やはり韓国映画ってそんなものなのかなあ、と思っていたとき、同じく韓国映画「イルマーレ」を家で鑑賞。これ、妻がBSで放映していたのを録画したものでした。内容は時を超えて文通を始めた二人の、ちょっと不思議な恋愛ファンタジー。
この映画はとても素晴らしい。映像も美しいし、ストーリーのアイデアも面白い。それに、そのストーリーが脚本やカメラワークの上手さでとても良く引き立っています。全体的にファンタジック、あるいは寓話的で、リアルな社会問題など一切無いのも私にとっては高得点。
全体的に、事件でどんどんストーリーを動かしていくようなハリウッドタイプの映画でなく、とつとつと静かに時が流れるヨーロッパ的な匂いのする映画でした。かなりシブめですが、これはマジでお薦め。
ちなみに、今週末からハリウッドリメイク版のイルマーレが封切られますね。主人公はキアヌ・リーブス。こちらも見てみたいです。

韓国映画といっても一括りにはやはりできません。グエムルは韓国でヒットしたと聞きましたが、イイものとヒットするものが違うっていうのは、これは世界中どこでも、どんなジャンルでもあることですしね。

2006年9月18日月曜日

フューチャー・イズ・ワイルド

Future500万年後、1億年後、そして2億年後、地球上にはどんな生物が住んでいるのだろう。
この疑問に対して、十分な科学的検証を用いながら、未来の生物というものを空想してみたというのが本書の内容。一見、科学読み物のように見えて、そこに書かれているのは全て実在しないものであるわけで、これはある意味、大掛かりなファンタジーなのだと思いました。
この本には、一切、人類は描かれません。あくまで一つの動物種としての人間は、多くの動物と同じように絶滅しているのが前提。私たちが未来を描こうとするとき、無意識のうちに必ず人間の未来を考えるものだと思っているのだけど、そこから離れて考えると、何とスリリングでダイナミック、そして夢に溢れた未来があるのでしょう。逆説的だけど、そもそもこの本のそういった基本姿勢は、科学的にすごく健全な感じがします。

あくまで科学的、というのがミソで、時代が進むほど、現在からは想像もつかないヘンテコな生物が出現します。最終章の2億年後がやはりスゴイ。地球環境の激変で、脊椎動物はほぼ絶滅し、巨大化した昆虫が活躍しています。シロアリの末裔、テラバイツは巨大な巣を作り、その中で藻類を栽培します。
また、陸でも海でもイカが勢力を振るいます。体長20メートルの巨大イカ、レインボースクイドが身体の色を変えながら海の王者となる一方、陸に上がったイカが熱帯雨林の中で、体重8トンのメガスクイドへと進化します。
コンピュータグラフィックによる挿絵もたくさんで、空想上の動物がたくさんのイラストで楽しめるのも、本書の楽しさ。想像力への新しい刺激が欲しい方に最適。
結構流行っているようで、公式サイトも充実しているようです。

2006年9月12日火曜日

指揮で悩むこと

しつこく指揮ネタで・・・
人の指揮をアレコレ言うのはできても、なかなか自分でうまく実践できないこともあります。練習の方法とか、団員の集中力を高めるとか、そういうのでなくて、あくまでバトンテクニックとして。

例えば、すごくゆっくりなテンポの6/8は、2拍子みたく円運動で振るか、それとも6つに分割するか。もちろんケースバイケースなのだけど、どちらとも言えない微妙なテンポの場合、困ったりしますね。円運動で振って、なんか間が持たなかったり、間を持たせようとして体まで棒について行ったりして、ちょっとダサい感じになったり・・・。だけど分割すると、歌っている側がすぐに固めに反応してくるので、それで困ったり。
それから、何といっても指揮の一番難しいところ(それゆえに、一番指揮が重要な場所)は、rit.して、次の出を指示するところ。もちろん、これもどんな拍子で、どんなテンポかによってずいぶん違います。例えば、次のテンポがとても遅いとき、アインザッツも長めになってしまい、コンパクトに次のフレーズに入れなくて、違和感を感じることがあります。ルネサンス物なんかはたいてい2/2拍子で、二分音符のアインザッツだとちょっと間が空きすぎるような場合がありませんか?そんなとき、私は四分音符のアインザッツで指示したりします。もっともその場合は、歌い手に口で説明して「こうしたら出てね~」とか言っちゃうんですが。
あと、指揮初心者が苦手なのは、弱起の指示。
もちろんそれなりに長い経験があったって、最初にその部分を振るときは、ちょっとばかりぎこちなかったり。振りながら、次のフレーズの頭が弱起であることを発見して「あっ、やばい!どうしよう」みたいな。実際、弱起の指示って、単に棒の動きだけでなくて、表情での促し方とか身体の浮き具合とか、そういう部分が意外に大切。そして、それこそ、経験の賜物だったりするわけです。

2006年9月8日金曜日

指揮雑感

だいたい、指揮なんてとてもあやしい役割です。
重要視される割には、上手い下手といった基準もあるようでないし、歌い手側も人によって好みは様々です。

以前、合唱センターに指揮法を勉強しに行ったことがあって(こちら参照)、これは正直言って今でもためになったと思っています。
その理由の一つは、そこで学んだことが指揮で表現したい音楽性云々といったことでなくて、本当に純粋にバトンテクニックであったということがあります。いわゆる斎藤メソドというヤツ。指揮の手の動きを分類化し、どのような箇所でそれを使うか、という即物的かつ実践的な内容でした。
たまたま、そういう経験のおかげで、逆に世の指揮者がいかに自己流で、場合によっては全く解読不可能な動きをしているか、と思うようになりました。

私にとって、指揮者を見る一つの視点は、いかにその指揮が几帳面であるか、ということです。
指揮者というのは、往々にして感情的、扇情的、表現過多になってしまう危険性があります。それは、音楽が表現しようとすることを表情や仕草で模倣しようとするからで、しかし、そんなことはたいていの場合、指揮者本人の独りよがりである場合が多いのです。
私が言う几帳面さとは、例えば、同じような箇所は同じに振り、アインザッツでなるべく次のテンポの指示をしようとし、音量や入り、切りの指示が明瞭な、そういった振り方のこと。それは自然に出来るといった類のものではなく、指揮者が意識的にそうやろうとしてしている積極的な行為のことです。
本番であってもそういう指揮をきちんとしている人は、音楽作りも良く考えているように感じられますし、恐らく練習時の段取りも非常に良く、効率的な練習をしていると思います。
正直、良い指揮者と呼ばれる人が必ずしも几帳面なタイプでないことは良くあることですが、少なくとも几帳面な指揮者は(几帳面でない人より)良い指揮者である、と私は言いたい。

2006年9月4日月曜日

指揮の練習

前回書いたラヴィアンの指揮ですが、本番前合計4回の練習がありました。私が来る前にすでに音も取ってあり、後は私が振るだけ、の状態から練習が始まったのでした。
私はもちろんプロの合唱指揮者として活動しているつもりではないので、これってかなり厳しいシチュエーションなんです。いつも指揮している合唱団では、音取り段階から自分が前でやっているので、大体音を取っている間に曲のイメージや指揮の方法なんかは自然に出来てきます。ところが、初めて行った練習で音が取れていて(しかも岸先生の指揮で一度本番経験あり)、そんな状態で初めて指揮を振るというのは、身が縮むような思いなのです。
もちろん初めての練習前には、楽譜を読んだり、テープを聴いたりして、指揮のイメージを何とか作ろうと努力してはみました。だけど、やはり最初の練習は随分うろたえてしまったように思います。やはり私の中でしっくりくる振り方が決まるまで、数回の練習は必要でした。

こういう話って指揮をされている方としたこともないので、ほかの指揮者の方はどんなふうに解決しているのか、私には皆目検討がつかないのです。
もちろん歌も、みんなと歌わないとなかなか音が取れないとか、そういうこともあると思います。でもそれって、ちょっと素人くさい。うーん、そういう意味では私はまだまだ指揮者としてはかなり素人クサいのかもしれません。
もちろん初めての練習前に、楽譜を読んだだけで曲作りをイメージし、振り方まで決めてしまう、なんてことを要求されるわけではないのだけど、それでも、ある程度それなりに振りつつ、さりげなく指揮の仕方を修正していくっていうのは経験豊かな指揮者ならきっと自然に出来ているんだなあ、と実感しています。

2006年8月28日月曜日

今年もコンクール

95年に当時やっていた合唱団でコンクールに出て以来、気が付くと毎年コンクールに出ています。昨年、毎年出ていた職場合唱団もコンクールに出ないことになって、ついにコンクールと縁が切れたかと思いきや、とある女声合唱団を振ることになったのでした。(去年の記事はここ
というわけで、今年も浜松ラヴィアンクールの指揮者としてコンクールに参加。
県大会は指揮者の岸先生が来れないので、私はその代打なのですが、県で落ちると関東大会で岸先生が振れなくなるので、県大会をパスしなければいけないという妙なプレッシャーがあります。
それでも、ラヴィアンのメンバーは非常に個人レベルが高く、ピッチが悪いとか、発声がどうのとか、そういうことなしに音楽作りそのものを楽しませてもらえる、というのがラヴィアンを振る最大の楽しさ。それに歌い手もすぐに反応してくれるので、逆に指揮者の力量が鮮明に現れてしまうという怖い合唱団でもあります。

さて、本日の県大会の結果、幸いにも県代表をゲット。しかも全部門を通してのグランプリも頂いてしまいました。演奏そのものにはいくつか傷はあったんですけどね・・・。でもまあ、努力が報われた感じがして素直に嬉しいです。
関東は岸先生の指揮になりますが、ぜひ関東も頑張ってもらって、全国に行けるよう応援しています。合言葉は「熊本で会おう!」です。

2006年8月24日木曜日

メダラ/ビョーク

Medullaビョークが、アイスランド出身か、アイルランド出身かで妻と口論。ネットで調べていたら、最新アルバムが「声」を中心に作ったという記事を読んで、早速そのCDを買ってみました。最新と言いながら、実は2年前の発売ではありますが。
最初に聴いて、こりゃあ凄い!の一言。何がどう凄いか、と言われても困るのだけど、こんなのポップスとかじゃ全然なくて、超アバンギャルドですよ。一般の人が聞いたら、「全然わかんな~い」とか言われそうな感じ。もちろん、これだけの前衛なつくりはビョークだからこそ許されるし、評価されるのかもしれませんけど。

「声」を中心に作ったと言っても、アカペラのハーモニーというのとは全然違います。声は音楽の素材として徹底的に分解され、その断片をコンピュータ上で再構成したといった感じ。それでも、人の声の持つ多彩な表現が追求されており、ビョークの特徴的な歌声と相まって、作品全体が芸術的な域まで高められていると感じました。
柴田南雄的とでも言えそうな音の洪水、オカルト一歩手前の気味悪さ、ヒューマンビートボックスの軽快なリズム、そういった多面的な声の表現を追及しているにもかかわらず、その音楽からどこまでも寒々とした寂寥感を覚えるのはビョークならではなのでしょうか・・・
CDの解説にあったビョークの言葉が印象的。「文明も何もいらない。手と足と血と肉、そして声さえあれば」
ちなみに、ビョークはアイスランド出身です。合ってたのは妻でした。^_^;

2006年8月21日月曜日

林檎の声が嫌い?

このブログをずっと読んでいただいている人は知っているとは思いますが、ただ今、椎名林檎に心酔中。
すでに6年前からかなり気に入ってはいたのだけど(これとかこれとか)、最近はライブDVDを良く見ています。
これがねぇ、本当にカッコ良いんですよ。贔屓目に見なくても、彼女の音楽性の高さ、芸術性の高さは特筆すべきと思っているのだけど、なかなか世間的にはそうでもないみたい。って結局、単なるファンの戯言なのか・・・
で、妻に「いいでしょ、コレ」とか言うと、「椎名林檎の声が嫌い!」と返されます。うーん、それがいいのに。
確かに、合唱をやっていると、林檎的歌唱の世界とは全く相容れないものがあるのは確か。高い声で張り上げる声は喉をつぶしたようなキツい発声で、あんな声のままで歌い続けたら、いずれ声が潰れるんじゃないかと心配するくらい。逆に言えば、椎名林檎の声帯は、異常に強いのだと思います。あの声質で絶叫し続けて、これまで歌手活動を続けているんですから(ついでにタバコもがんがん吸っているようだし)。

私は正しい発声じゃないから、あんな歌い方は嫌いだ、などと野暮なことは言いませんよ。
あの声だからこそ表現できる世界があるし、エキセントリックな表現者として、その個性はますます際立つのです。ステージでの妙に芝居ぶった振りなんかも、彼女がライブをSHOWとして、一つの芸術作品として作り上げようとする芸術魂を感じます(しかし、普通のJ-POPファンにはそれも気に入らないのだろうけど・・・)。

歌というのは、みんなの気持ちを前向きに高揚させようとするポジティブな側面があるのと反対に、個人の内省的な心情を切々と歌い上げるという機能もあるのだと考えます。そして、椎名林檎は明らかに後者のタイプの表現者なのだけど、それゆえにアングラ的なマニアに支持されているように思われるのは、私には不本意なのです。

2006年8月13日日曜日

演奏における個性について

合唱の演奏における個性とは何でしょう?
また、演奏において理想的な個性とはどういったものでしょうか?
正直言って、日本の合唱団体において、「個性」など求めるべくも無い、というのが私の感想。芸術的な意味での個性を合唱に求めるなら、合唱団はもっと芸術家たらねばなりません。合唱団員一人ひとりが、自分がクリエーターである、という自覚を持っているでしょうか。あるいは合唱指揮者も、個性的な芸術観を持って、世界にそれを問うというくらいの気合を持っているでしょうか。
もちろんそれをアマチュアに求めるのは酷かもしれません。まずはプロこそ、芸術団体としての個性を追求してもらいたいものです。

で、つまり何を言いたいかというと・・・、自分もアマチュア合唱に携わる一人として、もっともっと芸術的でありたい、と願いつつも、なかなか自分の意識と皆の意識の差を感じるなあ、ということなんです。
各団員が演奏家として観客に感動を与えようと考える意識がやはり薄いと思うのです。むしろ彼らは、練習を通して、作曲家や指揮者の音楽観に触れあい、そのことを享受しているだけに見えます。まだ気持ちは、楽しませる人ではなくて、楽しむ人なんです。これでは、演奏会でお客を唸らすなど夢また夢です。
また、合唱コンクールで上位に入る団体などは、非常に意識の高い人たちが多いのは確かです。しかし、その彼らですら、音楽をピッチや発声のような基準だけで判断しようとしてしまっているように見えます。現状のコンクールなんかで、本当の芸術としての洗練度などわかろうはずがありません。合唱と無関係な人を唸らせてこそ、本当の芸術の仲間入りとなるのです。
人をどうやったら唸らせられるのか、そこに個性が大きく関わってきます。厳しい市場に晒されることによって、自分たちはどういった音楽を、どのように表現するのか、というような「個性」を初めて意識せざるを得なくなるのだと思います。

2006年8月9日水曜日

個性って何?

もうちょっと一般論にしてみましょう。
そもそも、個性って何でしょうね。「あの人は個性的だね」ってどんなときに言われるんでしょう。
上記のような使い方なら、「変わってる」「エキセントリック」とまで言うには忍びないという状況が思い浮かびます。まあ、普通は個性的というのは、ポジティブなイメージがあるので、性格的にもポジティブな人間が個性的と言われ易いわけです。
こういう「個性的」の感覚は、芸術一般を評するときにも現れるようです。非常に新しくて、斬新な感じを受けた場合、「個性的」とか言われたりします。
誰にとっても、新しいことを初めて評価する、というのは大変難しいことです。だから、普通は保守か、革新か両極端にまで振れないと、評価は高くならないような気がします。そして、その極端に振れた革新に対して「個性的」と呼ぶのでしょう。(逆に極端な保守に対しては「実力のある」とか「安定した」といった表現でしょうか)
極端だからこそ普通の人にも分かりやすいのですが、だからこそ、芸術としての価値が高いかどうかは、もっと慎重に考えるべきでしょう。そんな分かりやすい個性に、懐の深い芸術価値があるほうが稀なのです。
私の感覚では、本当の個性とか、芸術の価値というのは、もっと身近にあるものであり、新しさは表面的にはなく、内面にあるものだと思うのです。内面の新しさは、気付くことが難しいのも確か。それこそ、評価する個人の審美眼が問われることになるでしょう。そもそも、一言で表現できるような個性こそ、怪しいものなのです。
だからこそ、クリエータや表現者が個性的であろうと考えるとき、その考えが浅いほど、イタいモノを作ることになってしまいます。真の革新とは、さりげなく、しかし、ぶれないものである、と私は信じます。

2006年8月8日火曜日

応募は迷いの連続

かっこつけても仕方ないので正直に書きますが、作曲コンクールへの応募は迷いの連続でもあります。
そりゃ、応募するのだから入賞したいのは当たり前。応募するという行動は、入賞という大目標なくしては語れません。ということは、応募のために曲を書くということは、どうしたら入賞できるか、と考えることでもあるわけです。
真っ白な五線譜を前にしたとき、作曲家には無限の可能性があります。どんな音符だって書いてもいいんです。しかし、自由さは不自由さの裏返しでもあります。無限の可能性に眩暈を覚え、その不自由さから逃れようとして、様式にすがろうとします。この様式というものを、どういうものと捉えるかで、作品の質はずいぶん変わってきます。
例えば、もう10年以上アカペラを書き続けた私ですが、ピアノ伴奏付きの作曲というのは一つの誘惑でした。もっとも、近頃ピア伴の曲を書いていないし、そんな自分が書いても納得いくような曲が書けるわけはないと思うのですが、それでも毎年ピア伴の曲が入賞していると、やっぱりピア伴かなあ、と迷ったりしました。しかし結局、私は初志貫徹、アカペラで通しました。

賞を取ることと、自分らしさの追及は、微妙にすれ違います。本来、そんなことを意識すべきではないと考える方も多いと思いますが、逆に、それさえ計算ずくで意識すべきだという考え方もあります。そもそも、自分が大切にしようとしている自分らしさが、一般的に評価に値するものなのか、そういう疑問だってあるのです。そのとき、どこまで自分の信念を貫けるのか、私のようなアマ作曲家には何とも判断しがたいのです。だって、私を評価してくれる市場そのものがまだほとんどないのですから。
自分らしさ、あるいは個性、と呼ばれるようなものは、果たして計算して出るものでしょうか?それとも自然と滲み出るものでしょうか?そんな疑問にさえ自分が答えていかなければ、音符を紡ぐ準備さえままなりません。
結局、今の私の心境は、無欲の勝利、などというのはあり得ない、というところに至っています。
間違っていようとも、考えに考え抜くこと、良い意味で計算ずくであること、そしてより抽象度のたかい個性を見つけ出すこと、自分が強く羽ばたきたいなら、どこまでも狡猾であるべきではないかと、今はなんとなく感じています。

2006年8月5日土曜日

歌うネアンデルタール/スティーヴン・ミズン

Singneand音楽をキーワードに、人類の進化について考察を進めているというのが本著の内容。はっきり言ってヘヴィーですが、細かく読むと、刺激的内容に溢れていて、自分自身の人間観、音楽観にいろいろ影響を与える面白い本でした。
普通の動物と違う「人間」の性質を調べるには、もちろん脳科学のようなアプローチも重要ですが、実は進化心理学的なアプローチというのが、とても有効なのです。つまり、普通の動物から今の人間に進化してきたという事実は、人類が進化してきた過程で、人間的な形質が付加されてきた歴史の連続に他ならず、それを調べることが人間らしさの解明に近づくと思われるからです。
つまり人間らしさ、というのは、ほぼ心の問題です。心以外の機能は、人間は他の哺乳類とそう大差ないのです。この本では、特に音楽に照準を当て、この心の問題と音楽の関係を一つ一つ解き明かそうとしています。

第一部では、音楽が人に与える影響を論じ、脳障害者の例より、言語と音楽を扱う脳の領域の分布を探します。また、音楽が感情とどのような関係にあるか等が書かれています。
第二部は、進化心理学的アプローチで、猿人と呼ばれる状態から、ネアンデルタール人、そして人間(ホモ・サピエンス)と続く進化過程と、そこで発展しただろうと思われる人類のコミュニケーション、そしてその手段について考察します。
著者の意見は、人類には言語以前に音楽に非常に似た原始言語(本著内では「Hmmmmm」と呼ぶ)があったのでは、ということ。そして、そこで獲得された遺伝子が人間の脳内に存在していて、それが今の人間の音楽への嗜好と関係している、と論じています。特にネアンデルタール人は、そのような原始言語を発展させており、今の人間より音楽能力が高かったのでは、と述べています。
なるほど、これは面白い、と思わせる箇所は多数あります。そもそも、言語より音楽のほうが、よりプリミティブなコミュニケーション手段だったというのは、大変楽しい推理で、私たちの音楽観にも影響を与えるのでは、という気がしています。

2006年8月1日火曜日

気になる作曲家 マリー・シェーファー

ひところ、合唱界で流行ったマリー・シェーファーですが、最近某団体でガムランを振ることになり、私もようやくシェーファーと関わることになりました。
合唱作曲家としてシェーファーは日本でも比較的知られているものと思いますが、一般的にはサウンドスケープという言葉の提唱者として知られているようです。私自身は、サウンドスケープをアカデミックな立場で関わったことはないので適当なことは言えませんが、訳せば「音の風景」ということで、私たちの周りにある音、音響を風景として感じるといったような意味なのでしょうか。
しかし、逆に風景、情景としての音を音楽にする、と考えると、これはまさにシェーファーの作風に繋がるわけです。一見、シェーファーの音楽は、オモシロ系、キワモノ系、飛び道具系、といったような作品だと思われてしまうことが多いのでしょうが、それは私たちが合唱コンクール的なモノの見方に毒されているからかもしれません。

合唱といえば、歌詞にメロディが充てられ、それにハーモニーが付いているもの、と考えがちですが、もしかしたら人間の声で何かの音を模倣する、というのはもっと根源的で原始的な人間の習性なのでは、とか思ってみたりします。
��00万年前、まだ人類の祖先が十分に言語を獲得していなかったころ、彼らは獰猛な獣が来ることをどうやって仲間に伝えたでしょう?その獣の様子を真似したのではないでしょうか。そして、そんな感じで彼らは、何かを真似ることで何かを指示し、そして言語を発展させたということはないでしょうか。
ちょっと大それた推論ですが、自然の音を真似ることが、一つの芸術表現として我々に強い印象を与えるのは、そんな背景があるような気がします。そして、シェーファーはその可能性に気付いた稀有な創作家なのかもしれない、と私には思えます。

2006年7月25日火曜日

日本沈没

もう、ストーリーとかぜんぜん覚えてないんだけど、確か小学校二年くらいのときに、連続ドラマで「日本沈没」を放映していて、それが大好きで、毎週見ていたような記憶があります。当時の私にとって、日曜日の夜は「日本沈没」→「風と雲と虹と」が黄金パターンでした。(←と思ったけど、どうも放映した年が違うみたい。あれ?)
そんなわけで、なんだか懐かしくて映画、見に行きました、「日本沈没」。
いや、悪くないですよ、全体的には。人物造形とか、セリフとかがもう少し練れていればリアリティが増した気がしますが、恐らくこの映画では主人公の恋愛はそれほど重要ではないので、まあどうでもいいです。

やはり、この映画の見どころは、日本が大災害に見舞われ、どんどん沈没していく、その描写そのものにあると言っていいのではないでしょうか。ハリウッドのディザスタームービーとは比べ物にならない痛々しさがそこにはあります。そして、なぜかこの映画を見終わったあと、たまらなく日本という国がいとおしく感じられるのです。(そんな殊勝な気持ちになったのは私だけ?)
でも、日本という土地が無くなって、日本人が世界各地に散らばったら、日本という国はいったいどうなるのでしょう。もしかしたら、世界中を漂流する民族として、かえって日本人としての自覚が高まるかもしれません。そう、まるでイスラエルの民のように・・・
まあ、そこまでこの映画を見て考える必要はありませんが、そんな感じで想像を逞しくさせるような面白い題材であるのは確かです。
それから、ラストもわりと泣けますよ。

2006年7月23日日曜日

回想ってほどでもない話

承前。
「限りないもの、それは欲望~」と歌ったのは井上陽水。
賞をとる前は、取ることが最大の目標であったわけですが、取った後は、作曲家としてもっともっと活躍したいと思うもの。
朝日作曲賞は一度取ってしまうと、もう次回からは応募できません。それに、一度だけ賞を取っても、課題曲として歌われた後、その後も活躍している方というのは実は非常に少ないように思います。現実的には、朝日作曲賞を一度取っただけで、その後作曲家として活躍できるというのは大きな幻想です。これは、作曲家としての力の問題だけではなく、合唱指揮者や合唱界のマインドみたいなものの一つの表れなんだとも感じます。(要するに、十分な経歴が無いとなかなか作曲家として認めてくれない)
幸い、私が「だるまさん」で受賞した後、朝日作曲賞は組曲応募に変わり、二回取れない規定も以前の受賞者には適用されなくなりました。それに加えて、これまでの4分以内という規定から、20分以内の組曲になって、より総合的な力を評価してもらえる、ということも新しい朝日作曲賞の大きな魅力。そんなわけで、組曲応募になってから数回は見合わせたものの(「上野の森コーラスパークの作曲コンクール」に出したりしたので)、またまた朝日作曲賞を狙ってみようとチャレンジ開始したのでした。

2006年7月20日木曜日

回想っぽい話

何だかんだ言って、結局私の作曲活動は、朝日作曲賞(合唱連盟の課題曲公募)と共に歩んできたような気がします。
そもそも最初に課題曲公募に応募したのが私が大学生の頃。80年代後半だから、まだ朝日作曲賞と呼ばれてなかったころです。今思えば、送ったものは全くド恥ずかしい代物なんですが、せっかく作ったんだから送ってやれ、というような気分だったのでしょう。
気合を入れて応募し始めたのが、90年代中頃くらいからでしょうか。それから数年は、もちろん箸にも棒にもかからずというような状態が続きました。
「だるまさんがころんだ」はもともと神奈川の作曲コンクールあたりを狙って書いたものですが、神奈川のコンクールも20回で中止になり、行く先を失っていました。
「だるまさん」は全体で1曲のつもりだったのだけど、冒頭部は自分でもそこそこ書けていた感じがしたんで、変則的だけど、最初の部分を切り売りして朝日作曲賞に応募することに。曲も長いし6声ということもあって、課題曲としては難しくてちょっと無理かな、と思っていたら・・・まさかの受賞。このときは本当に驚きました。でも、本当に嬉しかった。

朝日作曲賞のおかげで、いろいろな方に名前を覚えていただけたと思います。出版も出来たし、CDも出すことが出来ました。
有名な指揮者の先生がたでさえ、私を作曲家扱いで応対していただいたりして、本当に恐縮しました。そして、こうやってだんだんと自分の作品が歌われていったら嬉しいなあ、と漠然と思っていたのです・・・

2006年7月14日金曜日

悲願の受賞!

先ほど合唱連盟から電話がありまして、今年度の朝日作曲賞を受賞した旨、連絡がありました。
組曲応募になって、また受賞できて本当に嬉しいです!
ここ2年、譜面審査を通過しながら、賞無し、佳作、と来たんで、今度こそとは思っていましたが、世の中そう簡単にはいかないよな・・・という冷めた気持ちも感じつつ、微妙な心持ちの日々でした。結果的には、1ステップずつ上がっていった格好になって、自分の努力の賜物なのか、はたまた運命の巡り合わせなのか計りかねているところです。
何はともあれ、嬉しい!!。「だるまさん」のときも、この賞をきっかけに自分の活動の幅が広がったので、今回もまた大きく期待しています。
まだまだ実感が沸きませんが、まずは第一報ということでお知らせいたします。細かいことはまた後日。

2006年7月8日土曜日

私のデジタルライフ

新聞などによると、すでにかなりの人がインターネットで商品の情報を検索したり、実際に購入していたりしているそうです。しかし、自分の周りの人に聞いてみると案外、インターネットの使い具合も人それぞれで、まばらな感じな気がします。
私など、本、CD、DVDなどはもうほとんどアマゾンで買っています。最近は、ちょっとした電気製品(PC周辺機器、AV機器など)もほとんどネットで購入。特に現物を確認する必要の無い場合は、大物でもネットを使ってしまったりします。しかし、周りでは同様にネットで買う人ってそんなに多くないみたいで、Webページにクレジットカード番号を書いたりするのに抵抗感があるようですね。

では、逆に世の中で流行っていて、自分がまだやってないものって何かというと…
一つは、iPodなどの携帯音楽プレーヤ。最近は本当に多くの人が音楽を聞きながら外を歩くようになりました。私も以前よりウォークマンは持っていたんですが、常日頃持ち歩き音楽を聴く、という習慣には至っていませんでした。確かに、iPodのようにとんでもない数の音楽が入れられるというのは、昔のウォークマン時代とはまた別の感覚なのかもしれませんが、まだまだ、私の中では飛びつくほどのモノになっていません。
同様に、iTMSなどの有料音楽配信サービスもまだ使ったこと無し。CDはアマゾンで買うものの、まだ曲のデータだけ買うという形はやったことありません。ただ、とりあえず1曲だけ欲しい場合とか便利だし、なかなか手に入りそうにない音源だとかが買えるようになると、いずれ使ってみるかもしれませんね。
あとやってないものを箇条書きにしてみると
・ネットオークション:まだまだモノは新品で買いたいという感覚が強いです。
・SNS:プレーヤーズ王国はやっているものの、あんまりそういうコミュニティ内の付き合いって積極的になれなさそう。
・動画配信:GyaOとか有名みたいですが・・・まだリサーチ不足で、何が楽しいかわかってません。

2006年7月1日土曜日

Requiem/Karl Jenkins

Kjrequiemアディエマスで有名なあのカール・ジェンキンスがレクイエムと題したアルバムを出しました。ちなみに前作の話題はここ
アディエマスを聴いていれば分かりますが、このジェンキンス氏は声楽の世界にもいろいろ通じているようです。そんな彼がレクイエムと題したアルバムを出すのも、私には意外には感じませんでした。基本的な楽曲構成はモーツァルトのレクイエムに近い感じ(「インパラディスム」があるけど)。しかし、もちろん中身は純粋なクラシックでは無く、いくつかの面白い仕掛けがあります。

興味深いのは、中に3曲ほど、日本の俳句をテキストとした曲が入っていること。曲自体は、これぞヒーリング、と言わんばかりの内容…スローテンポ、オスティナート音形の繰り返し、それに尺八っぽい音色などなど。
正直言うと、これらの俳句の曲はちょっとばかり首を傾げたくなります。あからさまに日本的なイメージを強調しているにもかかわらず、MIDI打ち込みっぽい尺八の音、ピッチ補正をバリバリにかけたようなコーラスの声(あまりに不自然に均整が取れている)、まるでわざと機械っぽく作っている感じさえしてしまいます・・・でも、まさかそんな深い意味は無いとは思いますが。
全体的には、オーケストラ&合唱サウンドながら、ビートが利いていて、一般ウケしそうな音楽作りなのだけど、いささか安易な部分も見受けられるような気がしました。それでも、ラクリモサの叙情性とか、なかなかイケてる曲もあります。ある意味、カール・ジェンキンスは、クラシックをポピュラーっぽく聴かせる術(ポピュラーをクラシックっぽく?)をよく知っている音楽家なのかもしれません。

2006年6月26日月曜日

ルフトパウゼ/篠崎史紀

Luftpauseとある方からN響コンマスの篠崎さん(その風貌よりマロと呼ばれているらしい)の初エッセイの本を頂き、早速読んでみました。
最初にこんなこと言うと申し訳ないんだけど「ウィーンの風に吹かれて」という副題が、何となくキザっぽいし、モーツァルト礼賛とか、わが街ウィーン、などという目次を見ると、ナルシスティックでいかにもクラシックオタク向けに書きました、と言う雰囲気をちょっと感じて引いていました。
ところが、読み始めるとこれが面白い。
すいません、第一印象からかなりイメージが変わりました。やはり何はともあれ、N響コンマスなのです。単なるナルシストに務まるもんじゃありませんよね。著者の音楽に対する姿勢というのに、大変刺激を受けました。

特に面白かったのは、指揮者論のところ。いくつか引用してみましょう。
「指揮者とは、音楽を再構築する人、そしてそれに即興性をプラスする人だから、たとえば本来、四拍子をどう振るとか、ここでこうやったら見やすいから分割するなどというのは指揮者の仕事ではない。」
「目の前の欠点、今起きたミスを直すことに終始する指揮者など、弾き手の誰も望んでいない。」
「たとえばピアノなら、バイエルしか弾けない腕で演奏会を開こうという人はいないのに、バイエルひとつ弾けなくても指揮者はできるから不思議な職業だ。」
「いわゆるマスコミが取り上げる世の中の有名指揮者と、私たち奏者が尊敬する指揮者のあいだにはそれなりのギャップがあるのも本当だ。」
「言葉が多すぎる指揮者はありがたくない。リハーサル中、際限なくしゃべられたのでは、「で、一番おっしゃりたいことは何なのでしょう」と聞きたくなってしまう。」
「抽象的な言葉を並べるのではなく、自分のイメージを奏者に向かって具体的に提示できなければ、その曲をよく理解していることにはならない。」

ずいぶん、書き連ねてしまいましたが、どうでしょう。面白そうだと思いませんか?プロの世界ですから、我々アマチュア合唱の世界と違うのは当然としても、プロとは何なのか、一つの指針になると思います。

2006年6月23日金曜日

アマテラス/坂東玉三郎・鼓童

昨日、京都南座で公演中の、坂東玉三郎と鼓童のコラボレーションによる「アマテラス」を観てきました。とりあえず、なんで平日の昼に京都にいるのという疑問はスルーしてください。
以前こんな話題を書いたのですが、それ以来なかなか鼓童のコンサートには行く機会がなくて、実は今回がついに初めての鼓童体験となったわけです。
それも、2年前にテレビで見たときと同じ、坂東玉三郎とのコラボレーション。そして、題材が日本神話によるものと、気になる要素がいっぱい。これは何としても見てみたいと思ったわけです。

で、やはり想像を違わぬ素晴らしい公演でした。
生で聞く和太鼓の迫力もさることながら、彼らの卓越した打楽器アンサンブル能力、そしてアマテラスのストーリーの面白さ、それを和太鼓と踊りのみで表現するその方法、演出上の様々な工夫、演奏だけでない鼓動のメンバーの演技力、これら一つ一つが印象深く、全く新しい芸術空間を表出していました。
この公演は、単なる音楽の演奏ではありません。しかし、演技はあるけどセリフがないので、芝居とも言い切れないのです。基本的には、打楽器を中心とした音楽は常に鳴り続けていて、それに合わせて、役付きの人たちが演技あるいは踊りを踊る、といった感じのステージです。
舞台装置は、演劇のような明確なセットがあるわけでなく、オペラの前衛的演出のような、抽象的、象徴的な簡素なモノでした。そういう意味では、一般受けする大衆的な舞台芸術とは一線を画しているかもしれません。

アマテラスのストーリーは、いわゆる天の岩屋戸の神話をモチーフにしたものです。玉三郎はもちろんアマテラス役。個人的に面白かったのは、アマテラスとスサノオの兄弟の会話のようなやり取りを打楽器だけで表現したところ。会話の調子やその雰囲気を、会話の具体的内容抜きに、踊りと音楽のみで表現し、結果的にスサノオがアマテラスの言うことを聞かなかった様子をとても良く表していました。音楽の表現方法の一つとして、興味深いものを感じました。
実演の鼓童を聞いて、ますます鼓童ファンになりました。また機会があれば見に行きたいです。


2006年6月21日水曜日

アマ論、プロ論

アマチュアとプロの差はなんだろう、とは良く言われる問いだと思います。
最近、私はこんなふうに考えています。アマチュアとは、演奏者自らの歓びを追求する人たちであり、プロとは、聴衆の歓びを追求する人たち、であると。
演奏者が楽しんで演奏すれば、きっと聴衆も楽しいはずだ、という意見もあろうかと思います。が、それは恐らく、きわめてアマチュア的な発想でしょう。
むしろ、聴衆の歓びと演奏者の歓びの差は何なのか、という問いをするべきです。例えば、演奏する曲目にそれは大きく反映されるでしょう。
アマチュア合唱の世界ならば、長い練習期間をかけて演奏会の準備をしますから、演奏者がその練習期間に耐えうるだけの曲を選びます。そういった曲には、テキストの格調高さ、シリアスさ、気持ちの込めやすさ、といった要素があるでしょうし、団の実力にもよりますが、歌謡性の高いものよりも厳格な音楽性を求めるかもしれません。また、編成の大きさも歌い手の満足感を高める大きな要素です。もちろん、こういう音楽が鑑賞に堪えうる物であるならば、アマチュア的であるとしても、十分価値のある音楽活動です。

しかし、日本中にこれだけの合唱団が存在し、そして毎年数多くの合唱曲が生産されているにも関わらず、合唱をしている人以外に、合唱音楽が聴かれないのはなぜでしょう?
それは、まさにプロの不在ゆえではないかと思うわけです。もちろんプロ合唱団は存在しますが、数が少なすぎです。これだけ合唱人口があるなら、それに見合う数のプロ合唱団があったっていいのに。
プロであるなら、演奏家がその音楽に満足しようがしまいが、聴衆の歓びを満たすことが要求されるはずです。だから私は、そういったことを基準にした合唱曲、合唱表現のあり方、指導者、そして演奏家がもっと増えて欲しいと思っています。そして、市場原理の中で、プロ同士が切磋琢磨するような状況が出来ないものでしょうか。

合唱界の有名指揮者の方々には指導者であるよりも、アーティストになって欲しいのです。

2006年6月14日水曜日

フェルマーの最終定理/サイモン・シン

Fermat別に本物の数学の論文を読んだわけではありません。見ればわかりますが。
これは、フェルマーの最終定理に挑戦した数学者たちのドラマを描いたノンフィクションです。
数学だなんて難しい、と思う必要はありません。数式は多少は出てきますが、その部分に関しては中学程度の学力で分かる程度。それをこの著者サイモン・シン(訳:青木薫)は、素人にもわかるようにうまく説明しています。
何といっても、三百年以上もの間、解かれることのなかったこの定理に、どんな人たちが挑戦し、そして敗れ去ったか、そしてどうやってついにこの問題が解かれたのか、その過程を読みながら追体験していくことはスリリングだし、謎を解くために一生をかけた男たち(女性学者もいましたが)のロマンがこの本からひしひしと伝わってくるのです。
私も数学の世界は詳しくないけど、へぇ~と思うような事実もたくさん知り、勉強になりました。登場人物もなかなか魅力的です。ピュタゴラス、ケプラー、オイラー、ゲーデルといった有名人も出てきます。決闘で死ぬ前の晩に、自分の研究を一晩でまとめて手紙を残したガロアとか、女性にふられて自殺をしようとするがフェルマーの最終定理のアイデアを思いつき自殺を延期したヴォルフスケール(結局、自殺した彼はその遺産をフェルマーの最終定理を解いたものへの懸賞金とする遺言を残す)といったドラマティックな逸話の数々。これだけでも、十分楽しい読み物です。この物語の最後、アンドリュー・ワイルズが1994年に最終定理の証明を完成するくだりは感動のクライマックスです。

実は、そのような大問題であるにも関わらず、フェルマーの最終定理というのは非常にシンプルな問いです。xのn乗+yのn乗=zのn乗(nは3以上)を満たす、x,y,z の整数解は存在しない、というもの。
正直言って、ワイルズが証明した筋書きの説明については全くわからなかったけど、素数の話とか、パズルの話とか、数学的な小ネタに満ちているのもこの本の面白さの一つです。

2006年6月10日土曜日

E=mc^2を歌おう

せっかくハーモニーに載ったんだから、旬のうちに歌おう、ということで「E=mc^2 PartII」 をウチの団(ヴォア・ヴェール)で、静岡県の合唱祭(6/18)において歌うことにしました。
この楽譜を見て、「うわー、変な曲!」と思っている方も多いかと思います。確かに、世の中にこういう曲はあんまりないかもしれませんが、歌ってみると、それほど難しいわけではありません。
というか、この曲を歌うと、まるでソルフェージュの練習のような状況になります。# や b はそれほど多くないし、割と普通のダイアトニックスケールの感覚で音は取れます。ただ、テンポが速いのと、シンコペーション、3連符などリズムのバリエーションが結構あるので、パッと見て歌うには難儀するようです。そんなわけで、歌う側もかなりソルフェージュ力を試されます。逆に言えば、ソルフェージュ力を試すために、この曲を使ってみるというのもアリかも。
ほんとうは、もう少し曲の仕掛けを曲作りに繋げていきたいのですが、まだまだ音符を追うのが精一杯で、恐らく本番で十分に曲の面白さを表現できるかは厳しいかもしれません。それでも、「lae lae lae lae」を強調することで、聞いた感じの面白さは出てきますし、中盤から後半にかけての盛り上がりも、それなりに印象は与えられるような気がしています。あとは、各パートが落ちないことを祈るばかり。

ちなみに、この曲は、以下のようなイメージをもって作ったものです。
相対性理論の説明をするような本には、大概、ロケットが話の中に出てきます。ロケットでなくても、何らかの非常に高速で動く乗り物です(電車とか)。そして、このロケットから出した光はどうなるのか、というように話は展開します。その説明の中で、ロケットは観測者に向かって光速に近い速度で近づき、そしてすぐ横を通り過ぎ、また光速で去っていくのです。
この曲はいわば、自分に近づき、間近を通り、そして去っていくロケットの描写です。まるで、ある駅を通過する新幹線をホームで見ているような、そんなスピード感を想像してみてください。

実際、ハーモニーに載ったとはいえ、そうそう歌われるとは思えません。どうせ、変な曲だし~。
もし少しでも興味があるようでしたら、6/18に浜松のアクトシティ中ホールで、この曲が響き渡るはずですので、よろしかったらいらしてください。

2006年6月2日金曜日

嫌われ松子の一生

かなり前から、しつこいくらいに映画の予告編で見せられて、最初のうちはバカバカしそうだなあ、と思っていたんですが、どうもなんか気になるんです。公開が近づくにつれ、メディアなどから面白そうな雰囲気が漂ってきて、ちょっと見てみるか、という気持ちに変わっていきました。
そんなわけで見てしまいました。「嫌われ松子の一生」。
何といってもタイトルがインパクトありますね。原作は読んでいないけど、不思議な吸引力のあるタイトル。

映画を見終わっての率直な印象は、もう~濃すぎる、という感じ。映画全体が超ハイテンションです。役者の演技が、というわけでなくて、ストーリーの展開、映像効果(色彩、アングル、魚眼の使用、花の氾濫などなど)、音楽(まるでミュージカル)といったいろんな要素が、全てテンション高いんです。はっきり言ってやり過ぎです。もうちょっと抑えるべきだとは思いますが・・・、それがこの映画の売りとも思えるし・・・うーん。
それに、このくどいとも言える各種効果の割りに映画全体が長いです。観ているほうもくたくたです。私は後半、このテンションの高さにちょっと付いていけなかったかなあ。

しかし、それでも、この映画にはクリエータ魂が炸裂しているのを感じました。外見上のバカバカしさに惑わされると気が付かないかもしれないけど、かなりの芸術センスを感じます。
特殊映像効果ばかりで、映画が平坦になってしまったキャシャーンと違うのはそういうところ。ストーリーに破綻がなく、(私がよく言うところの)構造性がきちんとしており、小ネタの仕掛けもうまい。
それに、陰惨でショッキングなシーンと、バカバカしいくらいのファンシーなシーンを共存させるという大胆さ、シリアスなシーンの中にも笑いを失わないこと、それでいて、きちんと役者の演技で思わずほろりとさせられること、一つ一つがプロの作りです。「ダンサーインザダーク」の陰鬱さ、「チャーリーとチョコレート工場」のバカバカしさを高度なレベルで結合したとでも言いましょうか・・・

中学教師から風俗嬢、殺人犯、そして最後はほとんど浮浪者、といたる転落そのものの人生。人々から後ろ指を指される一方で、男たちに愛を捧げ続ける神のような存在でもあったことを仄めかせて、人生の幸せとは何か、結論の出ない命題を見る者に提起します。
そういう意味では内容は極めて重厚です。しかし、その表現方法は、そうとう軽薄です。そして、そんな芸術のあり方に個人的には共感を覚えてしまいました。

2006年6月1日木曜日

パソコンはなぜ腹が立つのか

パソコンを使っていて何が腹立たしいのか?
パソコンを擬人的に考えると、その動きの不自然さが理解できるように思います。
例えば、朝一番に会って「おはよう」と声かけても、すぐ返事するわけでもなく、少し経ってから「しばらくお待ちください」などと言われたらどう思います?
何か反応してくれるならいいんです。声をかけたり、物事を頼んだりすると、いきなり全く動かなくなったりして、10秒ほどたってからようやく動き出したりすると、こちらもイライラしてきます。10秒経って必ず復帰してくれるならいいけど、1分待っても戻ってこなかったらどうしますか? あきらめてリセットする場合もありますよね。
実社会でそんな人がいたら、まあ相手にしてもらえないでしょうし、まともなコミュニケーションなんかできません。私たちは、そんなコミュニケーション不全のパソコンを一生懸命なだめながら使っているわけです。

要するに、パソコンには人間にとって当たり前の「反応」というヤツがないんです。
もちろん、アラートのウインドウとか出てくることもありますが、おおよそ、リアルな人間の反応とは違う他人行儀な言葉ばっかり。
私も技術者ですから、どうしてパソコンってそうなっているのか、多少は理解しているつもりです。
パソコンに人間らしい「反応」を求めるには、恐らく今のままで不可能で、ハードウェアやOSレベルの対応が必要になってくるでしょう。そういう部分をきっちり考えたパソコンやOSが出てくれればいいんですけどね。(まあ、Mac は Windows よりはまだマシですが)

2006年5月25日木曜日

混声合唱と弦楽合奏のための「うろくずやかた」

もう10年くらい前に作曲してお蔵入りしていた旧作を、急に思い立って改作することにしました。もちろん、委嘱でも何でもないので、改作してもお蔵入りする可能性は非常に高いわけですが。
その曲は、以前、二重合唱として作曲した「うろくずやかた」という曲。
このときの作曲のアイデアは二群の合唱のうち、一つの群は旋律を中心に歌い、残りのほうはどちらかというと伴奏部分を歌うという分け方です。普通は、二重合唱の場合、対等な関係として対話をするような書き方をするわけで、そういう意味でちょっと変わった作り方だったと思います。
今になって考えてみれば、伴奏部分だけ歌わされる人はたまりませんね。プロならともかく、各声部の内容があまりに不均衡だと、アマチュア合唱の世界では敬遠されてしまいます。

そもそも、伴奏として書いたのだから、その部分は器楽でも構わないわけです。それで自分の中で一番似合った音色は弦楽合奏でした。
そんなわけで急に思い立って、10年前の曲を弦楽伴奏+混声合唱の形に書き換えました。
もちろん、合唱を弦楽に変えたので単なる音の変換では済まないし、以前付けなかった詩の部分も新たに作曲したりしたので、前の雰囲気を残しつつも、新しい音楽として生まれ変わっています。
今回楽しかったのは、弦楽パートを書いたこと。まだまだ稚拙な部分はあるとは思うけど、やはりいろいろ勉強になります。実際に音になると、もっと嬉しいんですがねぇ・・・
詳しくは、「オリジナル作品一覧」のページをご覧ください。

2006年5月21日日曜日

好きだけどやりすぎ

自分にとって、好きな、あるいはとても気になる芸術家なのだけど、その中には自分にはどうも理解できないというか、ちょっとやり過ぎなんじゃないかと思えるような作品がある、というようなことってないですか。
先日もちょっと書いたプロコフィエフは、私にとってそんな芸術家の一人。
いまや一番気になる作曲家と言ってもいいし、大好きな曲もたくさんあります。残念ながら合唱とはほとんど無縁な作曲家ですが(書いていても、あんまり歌いたくないかも)、創作家として刺激的な作品をたくさん残した重要な人物だと思っています。
最近、実はプロコフィエフのピアノソナタ全集なんてのを買い込んで、ちまちま聴いているのだけど、聞き流している程度では曲の仕掛けがちっとも理解できなくて、未だにそれらは「変な曲」の域を脱していません。要は、理解しようと努力しないと、ただの「変な曲」にしか聞こえないのです。
極度に抽象的で、場合によっては無機的で、それでいて、その奥に潜むイマジネーションの拡がりが時折おぼろげに感じられる、というそんな作品群。ほんとに一瞬、ときどき、気になる面白いフレーズが現れるけど、それ以上に変てこなメロディ、フレーズにも溢れています。7番も十分変てこだと思っていたけど、何だか7番が一番聞きやすい曲にも思えてきました。
そう考えると、プロコフィエフって、自身がちょっと分かりやすく書こうとしたくらいがちょうど気持ちいい作品になるような気もします。名曲、交響曲五番も、それ以前の交響曲に比べれば分かりやすく書かれたように思います。アバンギャルド的態度と、ほどほどの分かりやすさが同居している状態が、プロコフィエフの場合、名曲の条件となっているのでしょう。
ちょっと音楽から離れて、作家の場合だと、安部公房なんかが、私にとってプロコフィエフに対する印象とすごい近いような気がします。好きなんだけど、やりすぎ~みたいな・・・。

2006年5月16日火曜日

女声合唱曲の初演

昨日、浜松ラヴィアンクールのFirst Concertが開かれました。
浜松ラヴィアンクールは、浜松にて活動する少人数女声アンサンブルグループ。現在12名。岸信介先生に指導を仰いでいます。
昨年も書きましたが、合唱コンクールの県大会で岸先生が都合が悪く、私が代わりに指揮をしたのがきっかけでこの合唱団とお付き合いするようになりました。
そして、昨日のコンサートでは、ラヴィアンクールの委嘱で女声合唱曲を初演することができました。初演の指揮は岸先生と思いきや・・・私。そんなわけで、昨日は出演者として、演奏会に参加することに。
その他の各ステージもバラエティに富んでおり、お客さんもたくさん入って、なかなかいい演奏会だったと思います。

さて、昨日初演した作品は「長田弘の詩による三つの女声合唱曲」という作品で、組曲というよりは、三つの小品というような感じで作りました。もちろんアカペラ。
しかも、今回の作曲は、自ら div.なしという制限を課し、三声だけでどこまで多彩なアカペラ表現が出来るかにチャレンジしました。自分で言うのもなんですが、詩の面白さもあり、3曲それぞれ特徴を持った楽しい曲になったと思っています。おまけに、それを自らの手で初演することになったので、なるべくその特徴を生かそうと思ったのですが・・・さて、演奏の方はどうでしたでしょうか。
アカペラですが、div.無し、ということで、一般の女声合唱団でも取り上げやすいと思います。ご興味のある方は、どうぞ遠慮なくお問い合わせください。


2006年5月11日木曜日

朽ちていくヘッドフォン

ヘッドフォンは、仕事でも家でも大変お世話になっている機材。
家では、夜中に一人、電子ピアノを叩いたり、楽譜・シーケンスソフトでプレイバックしたりするとき、ヘッドフォンはかかせません。でもなぜか、普通に音楽を聞くときは滅多に使わないのですが・・・
体に触れるこういう小物は、安いものを買ってはいけないと思い、そこそこの値段のものを使っています。低音もしっかり出るし、耳をすっぽり覆うので音に集中できます。

しかし、こういったタイプのヘッドフォン、長い間使っていると、耳当ての部分の黒い薄皮が破れてくるのです。会社のヤツも家のヤツも両方とも破れてきました。耳当て自体はスポンジで出来ていて、そのスポンジの外側を黒い薄皮が覆っているのですが、いったん破れ始めると連鎖的にこの皮が少しずつ剥がれていきます。
何が嫌かって、この細かく破れた皮が、耳の周辺に貼りつくこと。ふと気づくと、耳に妙にくっきりした黒い点が付いていて、慌てて耳を払う羽目に。
最近は、フローリングの床の上に落ちていたり、お風呂に浮いていたりして、妻にかなり迷惑がられています。
そういや、会社のもウチのもオーディオテクニカ製だったか…

2006年5月4日木曜日

音楽の予測可能度

音楽が前衛的、実験的になるほど、先の展開が読めなくなり、予測不能度は高くなります。音楽は、一般の人々にとって予測可能であることが気持ち良さにつながるという前提をすると、予測不能な音楽に対する嫌悪感をうまく表現できることになるわけです。つまり、次に何が来るか分からない不安、これこそが現代音楽が一般的になり得ない理由ではないか、ということです。これが、前回書いた内容の骨子。

この話を発展させるために、そもそも、予測可能ってどんな状態を言うのか、これが問題です。
恐らく、人によってかなりイメージが異なっているように感じます。そこで、まず具体的に私のイメージを紹介してみます。
よく音楽の要素として、メロディ、ハーモニー、リズムの三つが挙げられますが、私は最も予測可能度に影響するのはリズムだと考えています。テンポ、およびリズムの種類が一定であることが、恐らく音楽の予測可能度を最も高くする方法ではないでしょうか。
次は、メロディの要素。これは例えば、メロディの中でどの音価が支配的か、あるいは急激なメロディの音程跳躍がないか、大きなメロディの流れの中に小さな繰り返しの要素があるか、といったことが影響すると思われます。当然、音価に統一性がなく、跳躍もたくさんあって、メロディ内に繰り返しが少ない、といった場合、予測可能度が低くなってくるでしょう。
最後にハーモニーの要素。一つにはメロディとも絡んできますが、調性感といったものが挙げられるでしょう。次に、典型的な和音展開かどうか、といったところでしょうか。当然ながら、調性が一定で、和音展開も常識の範囲を超えないほど予測可能度は高くなります。
ハーモニーの要素がそれほど重要ではないのは、音楽全体を見据えたとき、それほど本質的なものと思えないからです。我々が親しんでいる和音というのはせいぜいここ300年くらいの西洋音楽に由来するものです。しかし、音楽にとって、メロディやリズムというのは、非常に根源的な音楽のアイデンティティに根ざしているような気がします。

それからもう一つ大事なのは、芸術音楽として、予測可能度が高いことが大事なのではなく、ほど良い予測可能度を持っていることが重要だということです。
もし、あまりに予測可能度が高いと、音楽に従事している人にとっては変化の乏しい退屈な音楽に感じられるでしょう。従って、芸術性が高いものほど、予測可能度は低くなる方向に向かうと考えられます。
しかし、それにも限度というものがあるだろう、というのが私の考えなのです。その限度をどこに引くべきか、それこそが今の作曲家に課せられた重要な課題であるように思えるのです。

2006年4月29日土曜日

現代音楽が嫌いな訳

基本的に私は現代音楽が嫌いです。(素人クサい表現ですが…)
もっとも、最近は「自分だって作っているくせに~」とか突っ込まれそうで恐いんですが、それでも現代音楽と言われる音楽作品には、自分が受け付けない何かがあるような気がするのです。

その何かについて、ちょっとある視点を思いつきました。
それは、今聞いている音楽が予測可能か、予測不可能か、という観点です。音楽の中には予測可能な要素と、予測不可能な要素の二つがあり、それらの配分がどのようになっているか、そしてその配分にはちょうどいい塩梅というのがあるのではないか、という考え方です。そして、予測可能な要素が多いほど音楽は単純になりますが、逆に安心感が増えるでしょうし、予測不能な要素が増えるほど、複雑で理解しづらくなることになるでしょう。

具体的な例で考えてみましょう。
例えばJ-POPのような音楽をイメージしてみてください。ほとんどの曲は、一曲の間、テンポが変わりませんし、リズムの基本パターンも変わらないでしょう。つまり、同じリズムパターンが延々繰り返されるわけです。そして、それは非常に音楽の予測可能度を高めます。ある曲を最初の30秒ほど聞けば、だいたいその曲の雰囲気はおおかた予測できるわけです。途中で急にテンポが変わって曲の雰囲気が変わるということは、通常は考えられません。あとは、どのような旋律か、歌い手や楽器のソロはどんな感じか、曲中に面白いブレークが入っているか、そういったものが、わずかに予測不能な要素になるかもしれません。
そんな風に考えると、ポップスは音楽に予測可能な要素の比重が非常に高いといえます。

では、いわゆるクラシック的な世界でいうところの現代音楽はどうか、というと、逆に極端に音楽の予測可能性が低くなっているのではないでしょうか。曲を聴いていても、次に何が来るか全くわからないのです。様式感についても、明確なものがないから、聴く側の拠りどころがありません。それは人間の生理からいうと、むしろ恐怖に値する状況に近いのではないかと私は思います。
次に来るものの予測が不可能だと、人は突然の変化に耐えるために防御をします。その緊迫感はおおよそ、快楽とは別のもののように思えます。

そもそも音楽とは、大勢でリズムに合わせて歌ったり踊ったりしたところから生まれたのではないかと思うのです。多くの人が同時に音楽に参加するためには、音楽的な取り決めが必要です。それはリズムであり、ある特定な様式のようなものであり、つまるところ音楽の予測可能度を高める方向に向かいます。
もちろん、いつでも次の音楽が予測できることが決していいわけではないし、芸術作品として、予測不能な要素を持つ必要はあるとは思います。
それでも、常に何が起きるか分からない、といった音楽は人々に不安しか与えないのではないでしょうか。それこそが、難解で前衛的な現代音楽を嫌いにさせる原因のような気がしています。

2006年4月28日金曜日

音声学入門

合唱をやっていると、日本語以外の曲を歌う機会はたくさんあることでしょう。そんな折に、発音に迷うこともしばしばあります。多くの人が勉強しているはずの英語だって、歌の中ではかなり怪しい発音になっています(英語だからこそ、という面もありますが)。
外国語の発音に関わらず、より言葉をはっきりさせるにはどうしたらよいか、ということを突き詰めていこうとすると、音声が出る仕組みについて興味が向いてきます。
そういったこと全般を扱う学問を音声学といいます。もちろん、合唱との関わりも深いものと思われますが、私の周りで練習の場で音声学的なアプローチをした先生はあまりお目にかかりませんね。ちょっと、専門の学問っぽくなっちゃうので、みんなの食いつきは悪いかもしれません。

こういうことに興味を持つと、すぐに大雑把に知りたくなる性分なので、早速「音声学」の本を読んでみました。もちろん、あんまり難しくないヤツ。
音声学では、IPAという国際的な発音記号を用いて発音を表記します。パッと見ると、母音なんかそれっぽい文字なんですが、かなり分かりにくい記号もあって、これを覚えるのはちょっと難しそう。
ただ、全ての母音、子音が体系だてて整理されていて、「話す」というごく単純な行為も、これだけの多くの要素があることに驚かされます。私たちは、無意識のうちに、声帯や口蓋や舌、唇を巧みに操って、これだけの音を出していると思うと、ちょっと感動します。
そして、これをちょっと意識的に行えば、合唱の練習でもかなり有効なアプローチになるような気がします。

2006年4月21日金曜日

ハーモニーで一番面白かった記事

さて、このハーモニー、肝心な部分を誤植してくれる困った機関紙ですが、面白い記事もあります。
春号の私のベストワン記事は、千原英喜氏のM4の曲紹介。
こんな文章を書ける人だとは知らなかったです。すごい才能。それに内容も面白い。
作曲家にはこういう高尚な(?)冗談系文章を書く人がたまにいますが、千原氏もそういう天性を持っている人なんだと感じました。これまで、どちらかというとお固いイメージがありましたが、この文章で一気にファンになりました。この調子で、万葉調とか、平安調とか、新しいパターンを期待したいところです。

しかし、よく考えてみると、千原氏の合唱曲って、単にテキストの素材が古いというだけでなく、それを自ら選択、構成しているという意味では作詞に近い行為をしているとも言えるのではないでしょうか。それに楽譜にも、本人による随分たくさんの解説文が載っていますね。
千原氏の合唱作品を眺めると、そこにある詩に単に曲を付けるという行為から、もう一段大きなレベルでの創作を楽しんでいるように見えます。一つの組曲には明確なコンセプトがあり、そのコンセプトに基づいて、ゼロから全体の構成を作りあげています。時に古文に、時にラテン語にと、素材の選択もまた自由自在であり、その発想は極めて豊かです。それは、声楽曲の作曲というよりは、むしろ器楽曲に近い考え方であり、その考えをもう少し進めれば、声は単に歌であるばかりでなく、音楽の素材だという側面も強調されるようになるわけです。
それが、邦人曲の中では新鮮に映ります。
シンプルでメロディに溢れているのに、どこか機能的で、理知的な感じ。素材の由来を抜きにすれば欧米の合唱曲に似たフィーリングさえ感じるのです。

2006年4月15日土曜日

楽譜が語るもの ダブルシャープ&フラット篇

前ちょっと触れたダブルシャープ、ダブルフラットについて、もうちょっと掘り下げてみましょうか。
しかしまあ、なんでこんな記号があるの?と疑問に思う方もいるかもしれません。もちろん、ダブルシャープや、ダブルフラットという記号が無くても同じ音を記譜することは可能ですが、それで失われる情報があるからこそ、これらの記号の意義があるわけです。

具体例で言うと、ロ長調(調号に#が5つ)の調で、例えば B → D# → G#m みたいなコード進行があった場合、真ん中のコード D# の第3音は Fisis すなわち、Fの音のダブルシャープの音で記譜されます。もちろん、鍵盤で弾くときは G の鍵盤を叩きます。だから、記譜上は G にナチュラルを付けて書いたって構わないわけです。
それでも、こういった和音進行の場合、移動ドでいうところの「ソ」が半音上がって導音化し、その音がさらに「ラ」に向かう、という感覚を大事にしたいのです。それが、この和音進行のキモの部分であり、他の調と同様に記譜者がその気持ちを伝えるためには、ダブルシャープを用いざるを得ないということになります。
だからこそ、楽譜を読む人にも、その感覚が伝わらなければ意味がないのです。変化音が導音としての役割を持つという感覚、その意識を持っている人がどのくらいいるかは、アマチュア合唱の世界ではちょっと不安な気もしますが、それは勉強してもらうしかないでしょうね。
ピアノのような和音を奏でる楽器の場合、また別の側面もあるかもしれません。例えば、上記 D# の和音を楽譜に書くとき、D#, Gナチュラル、A# じゃ、弾くほうも長三和音とはとても認識できなくなります。

もっとも、ダブルシャープやダブルフラットが出てくるような調は、調号の多い、使用頻度の多くない調であることが多いので、ダブルシャープ、ダブルフラット自体、頻繁に見るものではありません。だからこそ、余計に見慣れないものに拒否反応してしまいます。
それでも、ダブルシャープやダブルフラットで書くことしか表現できないことがあります。見た目のわずらわしさに囚われず、そのココロを理解してほしいのです。

2006年4月11日火曜日

あの~、長谷部雅弘とは、どこのどなたでございましょう?

ハーモニー春号、楽しみに待っていたら思いっきり誤植じゃないですか!!P87をご覧ください。私の名前は「雅弘」じゃなくって、「雅彦」だってば。
朝日作曲賞の山内さんの名前と混じっちゃってますよ。まあ、同じような名前が二人入賞したのが罪といえば罪なのかもしれないけど・・・しかし、この場所、フォントが大きいだけに、誤植の罪はもっとでかいス。
そんなわけなんで、次号では、同じくらいのフォントの大きさで^^;、誤植のお詫びを出していただきましょう。

検索で引っかかりやすいように、あえてタイトルを間違った名前にしてみました。さて、これで辿りつく人いるかな。
以上、まだまだマイナーな作曲家の切実な叫びでございました。

2006年4月8日土曜日

プロコフィエフ ピアノソナタ7番

プロコフィエフのピアノ協奏曲のCDにおまけのようについていたピアノソナタ7番。最初に聞いたときに「変な曲」と思って以来、ずっと聞かず嫌いだったのですが、最近になってちょっとお気に入りになってきました。
プロコフィエフのピアノソナタの中では一番の人気作だし、解説書によれば二十世紀のピアノ音楽の最高傑作の一つとさえ言われている有名な作品。
ただ、プロコフィエフの一番過激なところが強調されていて、正直言って、一般の人から見ればかなり前衛的な感じがすると思います。何といっても、主題がほとんど無調っぽい。十二音の音列から出来ていると言われると信じてしまうくらいです。
しかし、一度そのプロコフィエフ的鋭角な旋律の中に潜む美的感覚にはまると、不思議と心地良く感じてくるようになるのです。楽曲の形式はむしろ古典的なくらいで、主題の回帰も非常に分かりやすいのです。荒々しいまでのリズムと、透徹したリリシズムの対比がまた素晴らしく、曲全体がうまく引き締まっています。
とここまで書いたのは、第一楽章の話。
第二楽章もなかなか叙情的でいいのだけど、何といっても面白いのは第三楽章。
7/8拍子で一気に駆け抜けるこの楽章、クラシックというよりはプログレです。これはすごい!これをベースとドラムとハモンドオルガンかなんかで編曲すればELPみたいな音楽になるかも。音もちょっとポピュラーっぽいというか、ブルースっぽい感じさえします。
左手に現れる「ダッダーッダッ」(曲知っている人しかわからないかも~)が、全体のビート感を締めていて、この曲の特長的なフレーズになっています。ここをいかに強調して弾くかが演奏家に問われることになるでしょうね。
この緊張感の持続を強要するような、どこまで聞く者の耳を捉えて離さない吸引力はほんとに感嘆に値するのです。

2006年4月2日日曜日

歓びを歌にのせて

スウェーデンで大ヒットした映画。浜松では三日間だけ上映があり、見てきました。
全日本合唱連盟も後援している合唱を題材とした映画です。
内容は、著名な指揮者ダニエルが体調不良で引退しますが、隠遁先の村の聖歌隊の指導をすることになります。彼の指導によって聖歌隊のメンバーの気持ちにいろいろ変化が起こり、そして聖歌隊はコンクールに参加することになり・・・というような展開。

このあらすじだけ見ると、「天使にラブソングを」とか「スウィングガールズ」とか、ああいう雰囲気を思い浮かべるわけですが、さすがヨーロッパ映画、一味も二味も違います。
何というか、映画作りにおける時間感覚の違い、というのが根本的な部分にあるんですね。ヨーロッパ映画ってリアルな日常を、ほんとうにリアルに描こうとする。もちろん、映画だから過剰な演出もあるし、デフォルメする部分もあるわけですが、常に観る人を飽きさせないようなスピーディな展開とか、メインキャラクターの力強さでぐいぐい引っ張るようなそういうハリウッド映画的なほうには決して向かいません。
何が過剰かって、各登場人物が、"みんなの前でそこまで言うか~?"みたいなことをバンバン言っちゃうところ。いい年をした大人が「ずっとお前は小学校の頃からそうやってボクのことをいじめてきたんだ」って突然キレたり、聖歌隊のおじいさんがおばあさんに「実は、私は小学校の頃からあなたが好きだった」と言い出したり。なぜか、トラウマが全て小学校から始まっているのも可笑しいです。

それはともかく、この映画の面白さは、一人の芸術家の出現が、保守的だった村の人の心を少しずつ変えていくその過程にあるのでしょう。別にダニエルは全然かっこいい感じでもないし、人々をがんがん引っ張るようなカリスマ性があるわけでもない。社交的じゃないし、衝動的な一面もある。ある意味、不器用な性格なわけです。
しかし、だからこそ、彼が伝えようとする音楽の精神的な側面が、聖歌隊のメンバーの心を侵食していくわけです。音楽をすることが、生活の中で抑圧されてきたそれぞれの想いを解放することに繋がっていきます。そういう音楽の効能を、リアルに描いているっていうのが、この映画の最大の見所でしょう。
映画そのものの肌触りは巷でよく見る映画とはずいぶん違うけど、音楽が人々の心を解放するという普遍的なテーマはやはり観る人を感動させるものですね。

2006年3月31日金曜日

楽譜が語るもの 臨時記号篇

調号の続きということで、同じく#, bを使う臨時記号のことを考えてみましょうか。

と、ここで青島広志「楽典ノススメ」を紐解いてみると・・・この臨時記号の書き方について、いろいろなルールが載っています。この本、私はかなり好きで、普通の楽典の本には書いてないような記号の心理的側面とか、作曲家の気持ちとか、そういうのがチラチラ書いてあるのが面白い。課題のおふざけもなかなか楽しいです。

この臨時記号の書き方の項も、他の本であまり見たことないような気がします。
例えば、G->A の途中に半音を入れるときは、G->Ab->A ではなく、G->G#->A と書くべき、とか。別にこう書かなくてはいけない、という厳格なものではないにしても、こういうのを読むと、楽譜を書く者のレベルもこういうところに出てしまうよなあ、と感じてしまいます。
実際、Gの半音上の音を Gis で書いても As で書いても全然構わないのですが、そのどちらを選ぶかには、それなりの理由があるはずです。

私がよく迷うのは、タテを強調するか(和声)、ヨコを強調するか(旋律)、といったような判断。
タテで見れば、シャープで書いたほうが、和声的に分かりやすいけども、演奏者が旋律として感じた場合フラットで書いたほうが演奏しやすい場合もあるかもしれません。もちろん、ケースバイケースなのでどちらが良いとは言えないでしょう。
それから、調号を付けないような曲でダブルシャープやダブルフラットを使うものかどうか、とか。そこで調号を付けないと判断したなら、調性を強調するダブルシャープなんかあまり必要無いようにも思えます。もちろん、旋律の形にも寄るとは思いますが。だいたい、完全に無調な曲なら、臨時記号は全部シャープだっていいのかもしれません。
まあ、書くほうもそんな風に迷ったりするわけですから(多分)、たかだかシャープ、フラットとはいえ、迷った末の何らかの意思が入っているはずなのです。

2006年3月29日水曜日

どうせあたしの人生 語呂合わせなんだもん

表題、椎名林檎の6年前のアルバム「勝訴ストリップ」の中の「弁解ドビュッシー」という曲の一節。なんだか、妙に記憶に残る面白いセンテンスです。
それにしても、「勝訴ストリップ」とか「弁解ドビュッシー」とか、へんてこな語彙に溢れる林檎世界は相変わらず。「弁解ドビュッシー」は曲全体が確かに弁解調ではあるけれど、なんでドビュッシーなのよ、と私は問いたい。

とにかく、歌を作ることを椎名林檎風に表現すれば「どうせあたしの人生語呂合わせなんだもん」ということなのです。詩を書くというのは一見衝動的な表現のように見えて、やはり芸術を語る者ならそれなりに思慮を重ね、頭をひねって、意識の上で計算高く行うものだと感じているはず。内から湧き出る原石のような言葉を整理し、ある規制の中でそれを選別していく作業。それはまさに言葉を操るということであり、もう一段くだけて言うなら「語呂合わせ」ということなのでしょう。
この一節、弁解のように見えて、一生歌を作り続ける覚悟を語っているようにも思えるなかなか含蓄のあるセリフだなと、感じています。まさに詩の技法(アルス・ポエティカ)です。

2006年3月25日土曜日

忘れないと誓ったぼくがいた/平山瑞穂

waschika2年前に日本ファンタジーノベル大賞を受賞した平山氏の、この本が受賞後第一作となります。前作の感想はこちら
受賞作である前作は、なんとも陰鬱でエログロ感漂う雰囲気だったのですが、今回はまったく違います。高校生のプラトニックなラブストーリー。文体も何となくポップ。前作は、会話の括弧をあえて使わずにべたに会話の描写をしていましたが、今回は高校生の軽い会話が括弧付きで書かれるので、ページ全体に空白部が多く、すらすらと読めてしまいます。この本なら3~4時間コースってところでしょうか。
実は、この作家のブログが結構面白くて、この本もついついその流れで買ってしまったのだけど、いやなかなか面白かったです。

忘れる、すなわち、記憶を失う、というのは、一種の恐怖なのだと思うのです。
私たちはささいなことをどんどん忘れて年を取っていきます。自分は忘れていても、他人が覚えていたり、あるいはその逆もあったりします。もちろん、思い入れがあるほど、物事は忘れないはずです。だからこそ、大事なものだと思っていたことを自分が忘れていたりするとショックもでかいし、逆に自分が大事だと思っていることを他人が忘れたとき、その意識の差に愕然とすることもあります。この本はそんなささいな日常の恐怖というものを拾い上げ、特殊状況に仕立て上げて、「忘れる」というテーマを多面的に表現しています。
もっとも、やはりこの小説の面白さは、ちょっぴりホロリとさせられるピュアな恋愛の行方にあるのかもしれません。そういう意味では結構売れ線を狙っている感じもします。ドラマ受け、映画受けしそうな雰囲気ありますしね(全体的に映像を意識している感じがする)。
それでも、私はこの作家が基本的に持っている「切なさ」の表現みたいなのが好きです。登場人物の何気ない所作や、言葉にリアリティがあって、それを支えている感性がなかなか私のフィーリングに合う感じがするのです。

2006年3月18日土曜日

楽譜が語るもの 調号篇

というわけで、調号の話の続き。
具体的に例があると分かりやすいですね。と、ここで楽譜棚から三善晃「地球へのバラード」を引っ張り出してみましょう。
ざっと見ると、基本的に全て調号付きで書かれているようです。しかも、かなり頻繁に調号が変わります。この組曲については、その場の調性をなるべく忠実に調号で表す、ということが作曲者の意図のように思えます。これは、恐らく調性内で展開されるメロディがこの曲の魅力であり、作曲者自身が楽譜を通してそれを伝えようと思っているように感じられます。
もちろん、そうは言っても三善晃ですから、「調号なし+臨時記号」で書かざるを得ないようなフレーズはどうしても出現します。例えば、「2.沈黙の名」の中盤「かってわたしが」で、調号なしになります(ハ長調ではない)。それから「5.地球へのピクニック」の中盤「とおいものを~」でやはり調号なしになりますね。いずれも曲が展開され、頻繁に調性を移ろうため、全部臨時記号で対処したほうが良いと判断したためでしょう。これも、そのあたりを気にすることによって、中盤がある種の展開部的な曲想になっていることに気づくことになるはずです。

もう一つ、同じく三善晃の曲で「嫁ぐ娘に」を見てみましょう。
すごいですね~。全く調号なしです。全て臨時記号で対処されています。とはいえ、この音楽は無調音楽とは私には思えません(まあ、いろいろな考え方がありますが)。あくまで、一般的な和声内で解決されている音楽です。
だから部分部分で見れば、調号をつけることが可能な場所も多々あります。
それでも、初志貫徹ということか、この組曲では作曲者は調号を書かないことを選択しました。確かに、トータルで音楽のイメージを考えると、「嫁ぐ娘に」の持つ独特の浮遊感というのがあって、それが調号なし、という書法で象徴的に表現されているようにも思えてきます。

調号を付けても付けなくても、出てくる音には変わりないわけですが、そこには何かしらの意思があります。調号が付くことによって与えられる音楽のイメージもあるし、もちろんその逆もあります。
同じ作曲家でも、作品の性格によって書法は変えますし、それを調べることによって個々の曲で作曲者がどのような意図で曲を作ったのかが明確になってくるのではないでしょうか。

2006年3月15日水曜日

楽譜が語るもの

楽譜と演奏は一対一の関係ではなく、一つの楽譜から無数の演奏が生まれます。楽譜は思っているより全然厳格なものではなく、時には即物的な指示さえ(テンポ指定など)無視されたりします。
逆に、演奏から楽譜を作ることは可能でしょうか?技術ネタとしては面白いかもしれないけど、少なくとも元の楽譜と同じになるなんてことはあり得ないことはすぐにわかるはず。例えば、ある音が楽譜に Fis と記載されているか、Ges と記載されているかは、完全に曲を作る人の恣意に委ねられており、音だけで判断することは不可能です。そういう意味で、楽譜から演奏への流れは不可逆な変換と言えましょう。

つまり何を言いたいかというと、楽譜の情報は一見明確な音像を規定しているように見えて、実は非常にあいまいな要素があると思うのです。同じ記譜をしても、同じ演奏にはならない。また、再現性の高い演奏をしても、そこから正確な記譜を求めることが出来ません。楽譜から演奏者が何を考えてそのように演奏したか、そこにはどうしても演奏者の思考が介在します。また逆に全く同じ演奏になったとしても、幾通りかの記譜法が存在することになり、そこにはどうしてそのように書いたのかという作曲者の思考があるはずです。

ここでは後者の方にちょっとフォーカスしてみたいのです。
全く同じ音になるはずなのに、違う書き方をした場合、そこにどんな意味があるのでしょうか?
では、一つの例。頻繁に転調するような曲があったとします。この曲を書くのに
 1.調号なしで書いて、全部臨時記号で対処
 2.メインと思われる調の調号で書いて、後は臨時記号で対処
 3.転調の度に、調号を変える
他にもあるかもしれないけど、これだけパターンが浮かびますね。もちろん、転調の長さとか、基本的な調性があるかとか、いろんな要素で変わってきますが、それを読み解くだけで何か訴えるものがわかってくるかもしれません。と、ここまで書いて、後は続く(のか?)。

2006年3月9日木曜日

電子楽器の限界

今日、とある演奏会を聴きに行ったのですが、その中で電子オルガンを使ったステージがありました。
あんまり、電子オルガンのソロでクラシック的な演奏を聴いたことがなかったので、久しぶりに嬉しい体験でした。

基本的には、このステージではオーケストラ音楽を志向していて、オルガン一台でオーケストラのような音色を出そうとしています。演奏者もその音色でリアリティのある表現となるよう、うまく演奏していたと思います。電子オルガンもタッチやエクスプレッションペダルで、かなりきめ細かな表現が出来るのですね。
しかし、それでもその音が本物のオーケストラ楽器に聞こえないのは、音が悪いわけではなくて(だいたい本物の音をサンプリングしているわけですから)、もっと別の理由にあるような気がしたのです。

それは端的に言うとダイナミックレンジではないかと思うのです。
電気を使った場合、必ず電気回路によってダイナミックレンジが規定されてしまいます。デジタルになると、デジタル信号が何bitかで、ダイナミックレンジが決まってしまいます。音が小さいほどSNが悪くなるので、デジタルの場合、なるべく高いレベルで出力したくなります。
しかし、自然の音って、そうじゃないんですよね。静寂はどこまでも静かだし、どんな弱音もホワイトノイズに埋もれるなんてことはあり得ない。強音は、人間の耳が壊れるまで、いくらでも大きくできます。要するに自然楽器の音は、スピーカで出す音楽では到底かなわないくらいのダイナミックレンジを持っているんです。
だからこそ、生楽器では音の質感がぜんぜん変わってきます。サンプリングされた音は、どこかで表現のレンジも圧縮されてしまっているのです。もしかしたら、そのあたりが電子楽器の一つの大きな限界なのでは、とちょっと思ったのです。

2006年3月6日月曜日

THE 有頂天ホテル

いやー笑いました、ほんとに。気が付いたら、涙流してました、笑いすぎて。
恐らく誰が見ても、楽しめる映画だと思います。細かいこと抜きに単純に面白いです。こういう映画は見て良かったって思えますね。

確かに単純に面白いんだけど、実はすごく良く出来ている映画だと思います。私が何回か言っているのは、邦画に芸術作品としての「構造性」が足りないということ。しかしこの映画、日本的な笑いを多用しているにも関わらず、ストーリー全体はとても緊密な構造性を持った精度の高い芸術作品だと感じました。
日本アカデミー賞を総ナメにした「Always」だって、エピソードの寄せ集め的な映画で、題材は良かったけど構造性があるとは思えなかった。しかし、この有頂天ホテルは、うまいなあ、とほんとに思います。
基本的にいろいろな人のいろいろなエピソードが絡み合いながら話が進むわけですが、それらの主題が微妙に交錯しながら、無関係なはずだったエピソードが終盤で繋がっていきます。ラッキーアイテムのマスコットが、一回りして結局元に戻るあたり、構造性の極致といえますね。さすが、三谷幸喜、才能あります。

笑いのキーワードとしては、誰もが持っている恥部をとことん掘り下げるというか、それがまあ、掘り下げすぎというか、そういうところにあるのでしょう。
クネクネダンスも、みんなの想像を掻き立てたまま、結局一度も画面に現さないところがいいですね。
あと、かっこつけて嘘をついたり、アクセサリーについつい手を出して鏡の前でくるくる廻ったり・・・思わず日常生活でやってしまいそうな個人の恥部をどこまでも拡大させていくっていうのが、三谷氏の芸風なのでしょう。

古畑任三郎なんかも以前より、日本ドラマ離れした構造性の高さを感じていました。
実は構造性が高くなるほど、古典的な形式をわざと使ったりするなんてことがあるのかもしれません。ラヴェルとか、ストラヴィンスキーとかなんかもそんな感じだし(いきなり音楽の話になるけど)。

2006年3月2日木曜日

賞を取るということ

ご存知のとおり、トリノオリンピックでは日本勢惨敗でしたね。
今回のオリンピックで一番印象に残っているのは、女子モーグルで5位だった上村愛子さんの言葉。「どうやったらメダルが取れるんでしょうね。未だに謎です」っていうようなことを言っていました。
なんだか、じんわりと響いてくる言葉です。これまで一生懸命がんばってきて、何とかメダルを取りたかった。その悔しさがひしひしと伝わるのです。
順位というのは恐ろしいものです。どんな僅差であっても、順位という絶対的な指標の中で、序列化させられてしまいます。その僅差は、例えば当日の天候とか、競技場のコンディションとか、その日の食事とか、直前に話かけた人の言葉とか、実はそんなもので変わってしまうものかもしれません。そんなあやふやなもののために、4年間それだけを思い続け、練習にいそしむというのはどんな気持ちなんでしょう。
確かに私のような門外漢には、順位というのはとても分かりやすい指標です。世界の選手が頭から順に並べられ、一度にレベルを把握することが出来ます。選手にとっても、銀や銅より金のほうが嬉しいし、メダルは無いより、あったほうがいいに決まっています。でも、4位と3位の違いは、単純な実力差だけではないはずです。
そして、私たちはもっとそのことに想像力を費やしても良いと思います。

私事を振り返ると、やはり作曲コンクールなんかに同じ思いを感じますね。
本当は、絶対的な指標など無いのに、○○賞を取ったとか、取れなかったとか、そういうことで判断される。所詮コンクールなんて、そのとき集まった作品の中の相対評価なのに、賞暦は何やら絶対的な肩書きとして認識されるようです。
むろん、応募するのだから賞を取りたいのだけど、ほんとにどうやったら取れるのか、未だに謎ですよ。

2006年2月26日日曜日

作曲の始め方2

合唱は高校2年の頃から始めました。
高校時代に合唱曲を作ったことはないのですが、ポップス系の曲を作っていたりしたので、好きなJ-POPの曲を合唱アレンジしたことはあります。ピアノ伴奏の楽譜は雑誌に掲載された弾き語りのヤツを使って、合唱部分だけ作っていました。古い楽譜を紐解いてみたら、私がアレンジした楽譜発見。こんな曲です。「悲しみにさよなら」「君のハートはマリンブルー」「涙のリクエスト」「恋人がサンタクロース」…うぅ、古いなあ。
大学の頃も、ポピュラー曲のアレンジはいろいろしました。合唱団で取り上げたので覚えているのは「青葉城恋唄」。仙台で歌う定番曲ですね。
いろいろな合唱曲を歌っているうちに、ちょっと合唱曲を作ってみようと思い立ったのもこの頃。学園祭の出店での余興とか、団地の公会堂でのミニコンサートとかで歌うポップス風の合唱曲を作ったりしました。それから、堀口大学の詩に曲をつけて昼練で取り上げてもらったりしたっけ。

この頃の自分の感覚としては、アカペラは愛唱曲的なもので、ピアノ伴奏の曲のほうが本格合唱の世界という感じがありました。大学合唱団の定演ではいつもオケ付きの合唱曲をやっていたので、単純に楽器数が多いほど、音楽的に高尚だ、という感覚があったのかもしれません。自分としては当時ピアノ伴奏をしっかり書ける自信が全然なくて、アカペラの曲ばかり作っていました。
就職後は最初ロックバンドでキーボードを弾いたりしてましたが、一年ほどして合唱を再開。そこでまたメラメラと合唱曲を作ってみたいという気持ちに火が付いてきます。その当時の私にとって、合唱曲を本格的に作っていこう、という決意は、イコール、ピアノ伴奏付きの合唱曲を作曲するということと同義でした。何曲か書いては捨てを繰り返し、何となくサマになったかな、と思い始めた頃、当時在籍していた合唱団の先生に自分の曲を見てもらったのです。

合唱曲を作ったって歌ってもらわなきゃ意味ないので、そういう行動は当然とは言えますが、曲の出来によってはかなりイタい人になりかねない。でも、恐らく作曲したいと思う人にはそういう厚顔無恥さが必要なんじゃないかと思います。人には迷惑をかけますが、きちんとエリートコースで作曲家の道を歩んだわけでないのなら、人に発信していくのは大事です。あとは、白い目で見られない程度のさじ加減が出来るかだけですね。

2006年2月21日火曜日

文明崩壊/ジャレド・ダイアモンド

collapseジャレド・ダイアモンド著の最新作、またしても買ってしまいました(前作の感想はここ)。今回は、古今東西の文明を例に挙げ、それらの文明がなぜ崩壊したか、あるいはなぜ生き延びたか、を考察するという内容。これまた、非常な分量で、昨年暮れから読み始めたのだけど、途中でペースダウン。そして、ようやく今読み終えたところ。最初のあたり、もう忘れてます。^^;

そんなわけなんで、面白かったトピックの紹介だけ。
イースター島といえばモアイ像。最初にイースター島に西洋人が訪れたとき、わずかな島民しかいなかったのですが、そこにそんな石像があるということでミステリーとして良く語られます。しかし、実際にはイースター島にはそれなりの文明があったのだけど、環境破壊で文明が崩壊したことが紹介されます。
モアイ像は、まさに文明崩壊の断末魔の叫びみたいなもの。像は、宗教的な意味合いもあったのだけど、部族の勢いの象徴でもあったようなのです。そして、資源が枯渇する→人々の争いが激化、という過程で、それぞれの部族が逆に争うようにモアイ像を作ったり、破壊したりしたそうです。文明が崩壊した後、その像だけが残されたというわけ。
その他、グリーンランドでイヌイットと争い敗れたノルウェー人の文明。そして、古代史から忽然と姿を消したマヤ文明。それらも、文明を存続するのに必要な資源を人々がコントロールすることが出来なかったことが語られます。

現在でも、ルワンダ、ハイチ、中国、オーストラリアでどのような問題が起きているか、が紹介されます。オーストラリアもかなりやばい状態なんだということを初めて知りました。

要は、我々は環境問題をクリアしなければ、今後生き抜くことは難しい、ということを作者は言っています。
古代文明が崩壊するのは、閉ざされた環境で環境破壊が起こるからですが、今の時代グローバル化が進んでおり、世界規模で人の行き来もあります。そういう意味では、地球自体がその閉ざされた環境であるとも言えるのです。つまり、地球に住む我々が今の環境破壊を止めないと、地球文明が崩壊し、全員が死に絶えてしまうわけです。
内容はかなり科学的であり、信憑性は高いものと思われます。なるほど、これは大変な状況なのです。

2006年2月18日土曜日

作曲の始め方

って、別に偉そうに作曲の仕方を書こうってわけではなくて。
自分がそもそも曲を書き始めたのは何でだったんだろう、と思い起こしてみたのです。
ホームページの音楽歴にもありますが、元はといえば高校時代にポップス風の曲を作り始めたところから始まります。その後、会社に入って数年くらいまで、そんな感じでポップスの曲を作り続けていました。もちろん、シンガーソングライターみたいなものに憧れがあったわけですが、それでもどうしても音楽の道を歩みたくて、単身上京するとか、大学中退するとか、そういう人生を選択するような勇気などさらさらなく、気が付けば単なるサラリーマンになっていました。

もちろん三十代後半の今となっては、音楽をやるために道を外さなくて良かった、と正直思います。
同じような夢を持っている人はゴマンといます。たくさんの人が、アーティストになりたい、音楽家になりたい、と思っていることでしょう。そのために勉強して、実力をつけたいとも思うでしょう。
でも、実際には有名になれるアーティストなどほんのわずか。実力の差もあるだろうけど、運みたいなものもあるし、そこには理屈では割り切れない世界が待っています。たいていの人間は、その世界に飲み込まれ、夢破れていくのです。
今は楽器設計という形で、音楽と関わっているのもなかなか心地良いと感じています。

そんなわけで、私がポピュラー曲から合唱曲の作曲にくら替えしたのは、なかなか面白い選択だったと今でも思います。合唱くらい狭いジャンルなら、そもそもそれだけで職業にするのは無理だろうし、それなら趣味として割り切ることも出来ます。そして、たまたま最初期の曲を所属していた合唱団で演奏することに決まったことが、その後も合唱曲を書き続けるきっかけになりました。
そのまま、諦めずによくここまで来たものです。数年おきに中途半端にご褒美があったりして、意外と合唱作曲家としてやっていけるかも、などという甘い考えに未だに囚われているせいでしょうか。


2006年2月15日水曜日

PROMISE

中国映画「PROMISE」観ました。ちなみに、一般には真田広之が出演しているということで話題になっている映画。
ブログには、自分にとって面白かったものしか書かないつもりなので、本来ならここで紹介するほどのモノじゃないんですが・・・。2年前に観た邦画「キャシャーン」のときと同様、何というか、映画全体にイタさを感じてしまったので、あえてその話をしたいのです。(「キャシャーン」のときの話はここ
キャシャーンのときとまさに同じ話で、この映画にも構造性が欠如しています。同じように寓話的、ファンタジー的、そしてアート的なものを志向している中国映画「HERO」は高度な構造を持った映画だったのですが・・・。
しかし、この映画、どこがクライマックスなのか良くわからない。どこもかしこも手が込んでいて、音楽も派手。結果的に逆にストーリーの起伏が無くなっています。後で考えると確かに筋は通っているんだけど、見たときにはどうも内容がピンとこないのです。それに、ファンタジーなら何でもあり、という悪いパターンも垣間見えます。何でもあり、に説得力がなければ、ただいたずらに見ている人を混乱させるだけです。結果的に、作り手のその場その場での思い入れが、全体の流れに悪影響を及ぼしているように見えます。

それにしても、寓話的、アート指向の映像美というのは中国映画の特徴なんでしょうか。
この映画でも、だだっ広い砂漠、草原、何もない川原、幾何模様風の建築、といった現実からは程遠いシーンがたくさん出てきます。軍隊も真っ赤、真っ黒、真っ白にきれいに色分けされる。HEROのときは、きれいだなあ、と思ったけど、今回はいささか辟易としてきました。こういう映像美こそ、ちょっとアマチュアくさくはないかと、そんな気がしてきました。
絶世の美女役のヒロイン、どこか菅野美穂に似てます。だからどうってわけじゃないけど。

2006年2月10日金曜日

日本語を歌う3

日本語ってなかなか子音の存在を感じるのが難しい言語なのかなと思います。
言葉の最小単位というのが、いわゆる「あいうえお」の五十音であり、これらはすでに「子音+母音」という形で構成されているため、子音のみが独立して存在することができないのです。英語でもドイツ語でも、語尾に子音のみがくることがあるし、一つのシラブルでも、子音が重複していたり、母音の後に子音が来たりすることもあり、言語の最小単位としての子音を意識せざるを得ないのではないでしょうか。

そのせいかどうなのか、日本人は子音の扱いがうまくないのではないか、という気がしています。
歌を歌う際、言葉を伝えるために、子音を立てて強調させたいこともあります。そういったときの対処が、もう一つ的を得ていないのです。
簡単に言えば、子音を強調しようとすると、単に息の量を増やして、力で子音を出そうとします。息の量が増えれば、子音だけでなく母音も強調されてしまいます。子音を立てるというより、そのシラブルだけ異常に強調されてしまうことになります。
子音だけを強調するにはどうしたら良いでしょう。私がよく言うのは、「強く」ではなくて「長く」です。息の量は変えないまま、子音をなるべく長い時間出せば、子音のみ強調されるはずです。
もちろん、そういう表現をしたとしても、感覚的にシラブルから子音要素を抜き出すことが出来ない人は、「長い」子音という感覚がどうも掴めないようです。その場合は、実際音にして、こういう風に歌って、と実例を示すしかないかもしれません。

発声練習の中で、子音の存在を感じさせるために、発語の練習を増やしてみてもいいかもしれませんが、まだ具体的な方法は思いついていません・・・

2006年2月7日火曜日

椎名林檎と戸川純

東京事変のnewアルバム「大人」買ってしまいました。椎名林檎モノはなんだかんだ言って買ってしまいます。談話でも何度か感想を書きました(これとかこれとか)。
椎名林檎を最初に聞いたときから感じていたのは、戸川純との類似性です。なぜか、私はこういったエキセントリックな表現者というのが好きで、というか、彼らの屈折せざるを得なかった(?)表現意欲にとても共感してしまうのです。
椎名林檎はずいぶん売れてしまったので、マイナー路線を突っ走った戸川純とはちょっと雰囲気も違うのですが、微妙な共通点も多い。
いくつか挙げてみると・・・
・歌唱の独自性(声の良さより、不健康なセクシャリズムを感じさせる。巻き舌もあり)
・旧仮名遣いや懐古趣味的な表現
・歌詞を書く。しかもかなり濃い。(しかも極めて内向的)
・ソロ活動の後、バンドを結成しボーカルを担当する。(椎名林檎は「東京事変」、戸川純は「ヤプーズ」)

ただし、椎名林檎の場合、作曲の腕がかなり高くメロディメーカーとしての才能があります。戸川純は自分ではほとんど作曲はしません。音楽性にはかなりの差があるように思います。
ヤプーズにもいくつか名曲はあるのだけど、残念ながら全体的にはショボい曲が多いです。戸川純の場合、それよりは初期の「玉姫様」とか、ゲルニカのほうが面白い。
そうそう、ゲルニカはすごいですよ。上野耕路の奏でる壮大なオーケストレーションの上に、戸川純の変幻自在のヴォーカルが炸裂しています。一見キワモノなんだけど、オーケストラ部分だけでもかなり聞き応えがあります。
そんなわけでただ今、ゲルニカの「電離層からの眼差し」を聞いてます。

2006年2月3日金曜日

日本語を歌う2

もう少し具体的に、日本語の歌い方を考えてみましょう。
ここのところ私がこだわっているのは、文節をいかに浮かび上がらせるか、ということです。
一音符が一シラブルである以上、日本語はメロディに対して意味内容を表すのに大変冗長です。この冗長さが、場合によって言葉の意味を把握するのを困難にさせます。要するに時間が経たないと、単語が完成しないのです。
なので、歌い手は積極的に、文節を浮き上がらせ、単語を聞き取れるように歌ってあげる必要があるのです。

単に子音をしっかり、とか、口を大きく開けて、というだけでは、全部の音を明瞭にするだけで、文節を示すためのメリハリが付かなくなると感じます。言葉をしっかり伝える努力は、ときに逆の方向に音楽を向けてしまうのです。
ちょっと単純化してしまいますが、私は以下の点に注意したいと思っています。
1.文節の最初のほうにアクセントをおく
2.助詞の音量、音色を引き目に操作
特に、2は重要で、短い音符が連続するならやり易いのですが、日本語の曲の場合、助詞が長い音価の音に与えられることが多く、この音をどのように歌うかが聞きやすさの大きなポイントになると考えています。

例えば「わたしは~」と歌う場所があったとしましょう。「」は助詞なのに、何拍も延ばす必要がある場合、この「」はどう歌いましょうか?
私は、この「」で膨らませて歌う人にはどうもセンスを感じません。「わたし」に比べて、「」はもっと抑えたトーンであるべきで、仮に音価が長くても、そこはそう感じさせるように歌わなければ、「わたしは」という文節が浮かんでこないと思うのです。

2006年2月1日水曜日

日本語を歌う

ハーモニーのタダタケ氏の連載は、結構その視点が自分にフィットして、共感を感じています。
やっぱり言葉をどう発するか、ということにすごく気を使うのですね。全体的に、具体的な方策より、その先は自分で考えてね、というような一般的な内容が多いのですが、それでも言葉を立たせて歌うために重要な示唆に富んでいると思います。

実は、一番伝わると思っていて伝わっていないのが母国語なのかと思ったりします。
たとえば、英語を話している場合、うまく聞き取れないと、聞き取れない自分をしっかり認識していて、だからこそ聞き返したり、愛想笑いで誤魔化したりしてしまうわけです。日本語の場合どうでしょう。意味をちゃんと理解してないのに「そうだよね~」「うん、うん」「へえ~」なんて勝手に相槌を打ってしまったりしませんか。
だから、話すほうも結構適当になる。さんざん長い話をしたのに、後で話した相手に聞くと、何にもわかってなかったりすることありませんか。
そういった、暗黙に相手がわかってくれるという安心が母国語にはあると思うのです。
コミュニケーション力に長けている人は、実際のところ、話し言葉の主語述語がしっかりしていたり、正確な言葉遣いをしたり、メリハリの利いた話し方をしています。それなりの技を持って、話をしているのです。
日本語の歌を歌うにも、そういった技があると思います。それは気持ちの問題なんかじゃなくて、出来る人は自然に身に付いているような、それでいて言葉で説明するのが難しいような、そんな法則があるはずです。

日本語だからこそ、逆にそういった技ではなくて、気持ちだけで解決しようとしがちです。そうならないように、言葉の発し方を、冷静に、かつ客観的に判断する力が演奏者に必要です。ハーモニーの記事は、その大切な鍵を紹介しているように私には思えます。

2006年1月28日土曜日

合唱アレンジした曲

今日の練習で、「東京事変」の1stアルバムより「夢のあと」という曲(詞・曲 椎名林檎)を編曲してみんなに歌ってもらいました。CDを聞いたら結構耳に残る曲で、かなり気に入ったのですが、さて歌わされたみんなはどう思ったことやら。
さすがに東京事変はマイナー過ぎますが、ポップス系などは自分が気に入った曲じゃないと、あんまり合唱アレンジする気がしないのは確か。
今日は、ここ数年で自分が編曲した作品を紹介したいと思います。ちなみに全部アカペラです。

・五木の子守唄(民謡) - 混5 多重録音用
・よさこい節(民謡) - 混5 多重録音用
・リンゴ追分(美空ひばり) - 混5 for ムジカ・チェレステ
・川の流れのように(美空ひばり) - 混4 for ムジカ・チェレステ
・お祭りマンボ(美空ひばり) - 混4 for ムジカ・チェレステ
・ははうえさま(一休さんのエンディング) - 混4 for ヴォア・ヴェール
・やつらの足音のバラード(はじめ人間ギャートルズのエンディング) - 混4 for ヴォア・ヴェール
・亜麻色の髪の乙女(島谷ひとみ) - 混4 for ヴォア・ヴェール
・Silent Night - 混5 for ムジカ・チェレステ

2006年1月22日日曜日

第5回詩のボクシング全国大会

正月に録画しておいたのをようやく見ました。
いやー、面白いです、詩のボクシング。もちろん、詩を朗読するわけだから、詩の良さとか、言葉の連なりの自然さとか、そういう部分は大事なのだけど、見た人はわかると思いますが、もはやこれは全人格的な表現なんですね。
人が、たくさんの観客の前で一人で立たされて、そこで何を話すのか、どんな動きを、どんな表情で、どんな音色で発するのか、そういうこと一つ一つが全て聞く人の印象を左右させるわけです。
特に、今回は「詩」としてのレベルの高さを追求するよりも、自分語り的な人が多かったです。私としては、よりレベルの高い詩を持ってきた上で、全人格的な表現を追及して欲しかったというのが正直なところ。戦争とか障害者とか介護とか、のようなシリアスな題材で自分語りするというのは、考えさせることを強要しているみたいで、あんまり居心地が良くはなかったです。
私としては、今回、常に昆虫を詩の題材に使うGOKUさんの詩のレベルが一番高かったと思います。単なる昆虫マニアではなく、そういった道具を詩的な感性にうまく絡ませていて独自の世界を築いていました。
あと、詩がやはりうまい、と思ったのは準決勝まで残った石井さん。語りもちょっと独特だけど、主婦の平凡な生活を語っているにもかかわらず、その視点はまさに詩人のそれだったと思います。
詩を音楽的リズムの中で語った児玉さんも、その方法論はなかなか興味深かったです。ただ「蛇にピアス」的なデカダン少女のお決まり文句の羅列がいまいち。内容がもう少し面白ければなあ。
決勝はいささか反則的な技で北海道代表の大学生が優勝。私も涙流して笑ったけど、あれじゃ大学生のコンパのノリですよ。私はGOKUさんのほうが良かった。

それにしても、いつ見ても新しいものが次から次へと出てきます。表現する者にとって、その心意気を感じるだけでも大いに刺激になるイベントです。世の中には表現されていないコトがまだ山ほどあるのです。

2006年1月15日日曜日

アイリッシュ・フルートとハープ

浜松市楽器博物館のレクチャーコンサートシリーズで、「アイリッシュフルートとハープ」と題されたコンサートに行ってきました。
出演は守安功&雅子夫妻。二人とも1980年代からアイルランドに毎年数ヶ月滞在し、現地の名もない演奏家と交流しつつ、日本でアイルランド音楽を広める活動をされています。その様子はドキュメンタリー番組としてまとめられ、アイルランド国営放送で放映されたとか。最近は、古い失われたアイルランド音楽を発掘し、演奏するなど、アイルランドの音楽にかかわる多面的な活動をしているようです。
そもそもこのコンサートに行ったのは、妻が大学時代、この先生にリコーダーを教わっていて、変わった先生だと話を聞いていたからですが、守安氏はその大学も今は辞めてしまったようです。さんざんと「某有名私立大学」を辞めて、と言っていましたが、「私立」を強調するあたりがこの人一流のシャレなんですね。(つまり「国立」なのに私立ということ^^;)

非常に楽しく興味深いコンサートでした。ただ、その面白さのほとんどは、守安氏のキャラによるものと言っていいでしょう。何しろ、話がうまい。それに強烈な個性です。もう、大学の先生になんか、納まってられない人です。
アイルランドで多くの人たちと仲良しになり、広く人の輪を広げて、そういった中で草の根的な演奏活動をする、といったことがまるで天職のような人です。2時間近く、人をまったく飽きさせないテンションは、もうただ者ではない感じ。

音楽も大変面白かった。はっきり言って、アイルランドの音楽は素朴の一言です。旋律もほとんどダイアトニック音だけで構成されています。
それだけに演奏から滲み出る情感のようなものが、よく伝わってきます。旋律には即興の装飾や、効果も多く、それだけに演奏者の裁量の度合いが大きい。守安氏の笛、雅子氏のハープ、そして太鼓は、素朴ながらとても印象深く、心の奥底を震わせるような音楽でした。
雅子氏もただ者ではないですね。太鼓、ハープ、コンサーティーナ(小型のアコーディオン)を自在に操るには、相当な音楽センスが必要です。経歴にはないけど、相応の音楽経験があるに違いありません。
というわけで、なかなか楽しい音楽を聞かせていただきました。

2006年1月14日土曜日

鑑賞してますか

朝日新聞の「鑑賞してますか」という連載、なかなか面白かったです。
特に10日付の「総クリエータ時代」という見出しのやつは興味深かった。最近、自費出版がとても増えているのだそうです。出版費用はもちろん筆者負担ですが、装丁も充実しており、流通用のコードもついて普通の出版物と同じように取り寄せが可能なのだとか。
ネットでは、誰もが音や映像を配信することが可能になり、その気になればラジオ番組、テレビ番組さえ、個人が発信することが可能です。

鑑賞者であることをあっさりと飛び越えて、作る側に回る人が増えているのはなぜか?
記事の中では「そもそも日本では、純粋に芸術をみる鑑賞者は非常に少なく、特に地方では文化教室での自己表現が中心。展覧会や発表会も先生の作品を見に行く場合が多い」と書かれています。
崇高、高尚な鑑賞体験より、作る、あるいはイベントに参加して仲間を探す・・・こういった我々の傾向が、ネットでより強調されているのかもしれません。

まあ、実際クリエータの真似事をしている私としては返す言葉もないわけですが、小説を書いたり、作曲をしたりとまで行かないにしても、上の話は合唱にも当てはまるような気がします。
鑑賞者としての十分な体験がないにも関わらず、自ら演奏活動を楽しんでいるような人はたくさんいることでしょう。合唱団で活動するのは、所詮、自己表現の一つであり、実際各団員は、鑑賞される演奏者としての自覚には乏しいような気がします。
合唱団のコンサートに来てくれる人も結局、団員の友人、親類縁者です。その人たちは、海外の有名合唱団のコンサートには間違っても聴きには行かない。知り合いだから聴きに行っているわけです。
でも、その文化活動の質を高めるには、どうしても一人一人の芸術に対する審美眼が必要です。そして、そのためには各人の芸術鑑賞の体験がもっと必要なのですが・・・

2006年1月10日火曜日

キング・コング

むちゃくちゃ面白かったです!
三時間もの長尺映画。相当複雑なストーリーかと思いきや、ストーリーは極めて単純。はっきりいえば、ストーリーの面白さを楽しむようなタイプの映画じゃありません。そういうと、派手なドンパチで楽しませるような単細胞な映画のように思われるかもしれません。確かに、派手なドンパチは楽しめます。しかし、それでも、その映像の圧倒的なイマジネーションとか、どこまでもハラハラさせるような展開とか、ちょっとした仕草から醸し出される感情表現とか、そういったものが全て一級品のものなのです。

映像は本当に凄かったですね。髑髏島の原住民の要塞、恐竜や巨大昆虫の数々、断崖絶壁の島の自然、荒れ狂う海原、そして古きニューヨークの摩天楼、そこからの眺め、全てが本当にリアルです。もちろん、CGをふんだんに使っているのでしょうが、ああいう情景を最初に考える人が必ずいるわけで、そのイマジネーション力に脱帽。
あと、中盤の逃げ回るシーン。これでもか、これでもか、というくらい過剰なアクションシーン満載です。巨大テーマパークのアトラクションを1時間体験させられるような感じ。いささか、長すぎるのではとも思いましたが、ここまでやればどんな鈍感な人でも絶対楽しめるはず。
終盤は、コングの仕草だけで泣けるシーンが山盛り。ドンパチばかりじゃありません。ちゃんと感動できます。

何といっても、主役ナオミ・ワッツがいいですね~。
ジャングルの中を、下着同然の女が泥だらけ、傷だらけになって逃げ回るわけですよ。これは、ちょっと人選を誤るとぜんぜん違う映画になってしまいます。お色気たっぷりのグラマー女優だと、これはまた違った楽しみに映画が変わってしまいますし、アンジェリーナ・ジョリーみたいな女優だと、逃げ回ることがポジティブな行動になってしまいます。
清楚な顔立ちのスレンダーな美女というのが、こういったシチュエーションにぴったり。こんな美女が顔をゆがめて絶叫するからこそ、そのリアリティが増してくるわけです。彼女が逃げ回るシーンを見るだけでも、この映画一見の価値があるかも。
清楚な顔立ちの美女、恐ろしいシチュエーション+絶叫となると、「リング」シリーズ、そしてこの「キング・コング」と、すっかりナオミ・ワッツの独壇場となってしまったようです。

2006年1月2日月曜日

音楽と言語/T・G・ゲオルギアーデス 訳:木村敏/講談社学術文庫

musiclang明けましておめでとうございます。
今年最初の記事は、音楽の本の紹介です。
恐らくアカデミックな場所にいる方には、有名な本なのだと思います。実際、この本自身はもう五十年以上も前に書かれたものです。
内容を簡単に紹介すると、音楽と言語の関連について、ミサ曲を題材に音楽史的に分析したというもの。しかし、その内容は言語の内容だけに止まらず、作曲の諸理論などにも言及していきます。また、後半はかなり哲学的な考察が中心になっていきます。正直言って、非常に論理密度の高い文章で、読むのには根気が必要です。
それでも、特に合唱に携わる人にとって、この本には興味ある内容がふんだんに書かれていると思います。特に序盤、ラテン語が持つ抑揚がどのように旋律に反映されているのかというあたり面白いし、音楽が発展しドイツにその中心舞台が移るにつれ、ドイツ語の持つ特質が音楽にどのように反映したのか、そのあたりの考察はとてもスリリングです。
これまでも、日本語の持つ言語構造がメロディを激しく規制していて、そこに西洋音楽との深い断絶があると、何度か私は言及してきましたが、一口に西洋音楽といっても、ラテン語とドイツ語は全然違うし、そこから生じる音楽も異なるものだということ、つまりはこの問題はどんな言語にも伴うものなのだという当たり前のことに、ようやく気付いたような気がします。
演奏の場にいる人だけでなく、合唱音楽を作曲しようとする人にも大きな示唆を与えてくれる一冊です。