2006年2月26日日曜日

作曲の始め方2

合唱は高校2年の頃から始めました。
高校時代に合唱曲を作ったことはないのですが、ポップス系の曲を作っていたりしたので、好きなJ-POPの曲を合唱アレンジしたことはあります。ピアノ伴奏の楽譜は雑誌に掲載された弾き語りのヤツを使って、合唱部分だけ作っていました。古い楽譜を紐解いてみたら、私がアレンジした楽譜発見。こんな曲です。「悲しみにさよなら」「君のハートはマリンブルー」「涙のリクエスト」「恋人がサンタクロース」…うぅ、古いなあ。
大学の頃も、ポピュラー曲のアレンジはいろいろしました。合唱団で取り上げたので覚えているのは「青葉城恋唄」。仙台で歌う定番曲ですね。
いろいろな合唱曲を歌っているうちに、ちょっと合唱曲を作ってみようと思い立ったのもこの頃。学園祭の出店での余興とか、団地の公会堂でのミニコンサートとかで歌うポップス風の合唱曲を作ったりしました。それから、堀口大学の詩に曲をつけて昼練で取り上げてもらったりしたっけ。

この頃の自分の感覚としては、アカペラは愛唱曲的なもので、ピアノ伴奏の曲のほうが本格合唱の世界という感じがありました。大学合唱団の定演ではいつもオケ付きの合唱曲をやっていたので、単純に楽器数が多いほど、音楽的に高尚だ、という感覚があったのかもしれません。自分としては当時ピアノ伴奏をしっかり書ける自信が全然なくて、アカペラの曲ばかり作っていました。
就職後は最初ロックバンドでキーボードを弾いたりしてましたが、一年ほどして合唱を再開。そこでまたメラメラと合唱曲を作ってみたいという気持ちに火が付いてきます。その当時の私にとって、合唱曲を本格的に作っていこう、という決意は、イコール、ピアノ伴奏付きの合唱曲を作曲するということと同義でした。何曲か書いては捨てを繰り返し、何となくサマになったかな、と思い始めた頃、当時在籍していた合唱団の先生に自分の曲を見てもらったのです。

合唱曲を作ったって歌ってもらわなきゃ意味ないので、そういう行動は当然とは言えますが、曲の出来によってはかなりイタい人になりかねない。でも、恐らく作曲したいと思う人にはそういう厚顔無恥さが必要なんじゃないかと思います。人には迷惑をかけますが、きちんとエリートコースで作曲家の道を歩んだわけでないのなら、人に発信していくのは大事です。あとは、白い目で見られない程度のさじ加減が出来るかだけですね。

2006年2月21日火曜日

文明崩壊/ジャレド・ダイアモンド

collapseジャレド・ダイアモンド著の最新作、またしても買ってしまいました(前作の感想はここ)。今回は、古今東西の文明を例に挙げ、それらの文明がなぜ崩壊したか、あるいはなぜ生き延びたか、を考察するという内容。これまた、非常な分量で、昨年暮れから読み始めたのだけど、途中でペースダウン。そして、ようやく今読み終えたところ。最初のあたり、もう忘れてます。^^;

そんなわけなんで、面白かったトピックの紹介だけ。
イースター島といえばモアイ像。最初にイースター島に西洋人が訪れたとき、わずかな島民しかいなかったのですが、そこにそんな石像があるということでミステリーとして良く語られます。しかし、実際にはイースター島にはそれなりの文明があったのだけど、環境破壊で文明が崩壊したことが紹介されます。
モアイ像は、まさに文明崩壊の断末魔の叫びみたいなもの。像は、宗教的な意味合いもあったのだけど、部族の勢いの象徴でもあったようなのです。そして、資源が枯渇する→人々の争いが激化、という過程で、それぞれの部族が逆に争うようにモアイ像を作ったり、破壊したりしたそうです。文明が崩壊した後、その像だけが残されたというわけ。
その他、グリーンランドでイヌイットと争い敗れたノルウェー人の文明。そして、古代史から忽然と姿を消したマヤ文明。それらも、文明を存続するのに必要な資源を人々がコントロールすることが出来なかったことが語られます。

現在でも、ルワンダ、ハイチ、中国、オーストラリアでどのような問題が起きているか、が紹介されます。オーストラリアもかなりやばい状態なんだということを初めて知りました。

要は、我々は環境問題をクリアしなければ、今後生き抜くことは難しい、ということを作者は言っています。
古代文明が崩壊するのは、閉ざされた環境で環境破壊が起こるからですが、今の時代グローバル化が進んでおり、世界規模で人の行き来もあります。そういう意味では、地球自体がその閉ざされた環境であるとも言えるのです。つまり、地球に住む我々が今の環境破壊を止めないと、地球文明が崩壊し、全員が死に絶えてしまうわけです。
内容はかなり科学的であり、信憑性は高いものと思われます。なるほど、これは大変な状況なのです。

2006年2月18日土曜日

作曲の始め方

って、別に偉そうに作曲の仕方を書こうってわけではなくて。
自分がそもそも曲を書き始めたのは何でだったんだろう、と思い起こしてみたのです。
ホームページの音楽歴にもありますが、元はといえば高校時代にポップス風の曲を作り始めたところから始まります。その後、会社に入って数年くらいまで、そんな感じでポップスの曲を作り続けていました。もちろん、シンガーソングライターみたいなものに憧れがあったわけですが、それでもどうしても音楽の道を歩みたくて、単身上京するとか、大学中退するとか、そういう人生を選択するような勇気などさらさらなく、気が付けば単なるサラリーマンになっていました。

もちろん三十代後半の今となっては、音楽をやるために道を外さなくて良かった、と正直思います。
同じような夢を持っている人はゴマンといます。たくさんの人が、アーティストになりたい、音楽家になりたい、と思っていることでしょう。そのために勉強して、実力をつけたいとも思うでしょう。
でも、実際には有名になれるアーティストなどほんのわずか。実力の差もあるだろうけど、運みたいなものもあるし、そこには理屈では割り切れない世界が待っています。たいていの人間は、その世界に飲み込まれ、夢破れていくのです。
今は楽器設計という形で、音楽と関わっているのもなかなか心地良いと感じています。

そんなわけで、私がポピュラー曲から合唱曲の作曲にくら替えしたのは、なかなか面白い選択だったと今でも思います。合唱くらい狭いジャンルなら、そもそもそれだけで職業にするのは無理だろうし、それなら趣味として割り切ることも出来ます。そして、たまたま最初期の曲を所属していた合唱団で演奏することに決まったことが、その後も合唱曲を書き続けるきっかけになりました。
そのまま、諦めずによくここまで来たものです。数年おきに中途半端にご褒美があったりして、意外と合唱作曲家としてやっていけるかも、などという甘い考えに未だに囚われているせいでしょうか。


2006年2月15日水曜日

PROMISE

中国映画「PROMISE」観ました。ちなみに、一般には真田広之が出演しているということで話題になっている映画。
ブログには、自分にとって面白かったものしか書かないつもりなので、本来ならここで紹介するほどのモノじゃないんですが・・・。2年前に観た邦画「キャシャーン」のときと同様、何というか、映画全体にイタさを感じてしまったので、あえてその話をしたいのです。(「キャシャーン」のときの話はここ
キャシャーンのときとまさに同じ話で、この映画にも構造性が欠如しています。同じように寓話的、ファンタジー的、そしてアート的なものを志向している中国映画「HERO」は高度な構造を持った映画だったのですが・・・。
しかし、この映画、どこがクライマックスなのか良くわからない。どこもかしこも手が込んでいて、音楽も派手。結果的に逆にストーリーの起伏が無くなっています。後で考えると確かに筋は通っているんだけど、見たときにはどうも内容がピンとこないのです。それに、ファンタジーなら何でもあり、という悪いパターンも垣間見えます。何でもあり、に説得力がなければ、ただいたずらに見ている人を混乱させるだけです。結果的に、作り手のその場その場での思い入れが、全体の流れに悪影響を及ぼしているように見えます。

それにしても、寓話的、アート指向の映像美というのは中国映画の特徴なんでしょうか。
この映画でも、だだっ広い砂漠、草原、何もない川原、幾何模様風の建築、といった現実からは程遠いシーンがたくさん出てきます。軍隊も真っ赤、真っ黒、真っ白にきれいに色分けされる。HEROのときは、きれいだなあ、と思ったけど、今回はいささか辟易としてきました。こういう映像美こそ、ちょっとアマチュアくさくはないかと、そんな気がしてきました。
絶世の美女役のヒロイン、どこか菅野美穂に似てます。だからどうってわけじゃないけど。

2006年2月10日金曜日

日本語を歌う3

日本語ってなかなか子音の存在を感じるのが難しい言語なのかなと思います。
言葉の最小単位というのが、いわゆる「あいうえお」の五十音であり、これらはすでに「子音+母音」という形で構成されているため、子音のみが独立して存在することができないのです。英語でもドイツ語でも、語尾に子音のみがくることがあるし、一つのシラブルでも、子音が重複していたり、母音の後に子音が来たりすることもあり、言語の最小単位としての子音を意識せざるを得ないのではないでしょうか。

そのせいかどうなのか、日本人は子音の扱いがうまくないのではないか、という気がしています。
歌を歌う際、言葉を伝えるために、子音を立てて強調させたいこともあります。そういったときの対処が、もう一つ的を得ていないのです。
簡単に言えば、子音を強調しようとすると、単に息の量を増やして、力で子音を出そうとします。息の量が増えれば、子音だけでなく母音も強調されてしまいます。子音を立てるというより、そのシラブルだけ異常に強調されてしまうことになります。
子音だけを強調するにはどうしたら良いでしょう。私がよく言うのは、「強く」ではなくて「長く」です。息の量は変えないまま、子音をなるべく長い時間出せば、子音のみ強調されるはずです。
もちろん、そういう表現をしたとしても、感覚的にシラブルから子音要素を抜き出すことが出来ない人は、「長い」子音という感覚がどうも掴めないようです。その場合は、実際音にして、こういう風に歌って、と実例を示すしかないかもしれません。

発声練習の中で、子音の存在を感じさせるために、発語の練習を増やしてみてもいいかもしれませんが、まだ具体的な方法は思いついていません・・・

2006年2月7日火曜日

椎名林檎と戸川純

東京事変のnewアルバム「大人」買ってしまいました。椎名林檎モノはなんだかんだ言って買ってしまいます。談話でも何度か感想を書きました(これとかこれとか)。
椎名林檎を最初に聞いたときから感じていたのは、戸川純との類似性です。なぜか、私はこういったエキセントリックな表現者というのが好きで、というか、彼らの屈折せざるを得なかった(?)表現意欲にとても共感してしまうのです。
椎名林檎はずいぶん売れてしまったので、マイナー路線を突っ走った戸川純とはちょっと雰囲気も違うのですが、微妙な共通点も多い。
いくつか挙げてみると・・・
・歌唱の独自性(声の良さより、不健康なセクシャリズムを感じさせる。巻き舌もあり)
・旧仮名遣いや懐古趣味的な表現
・歌詞を書く。しかもかなり濃い。(しかも極めて内向的)
・ソロ活動の後、バンドを結成しボーカルを担当する。(椎名林檎は「東京事変」、戸川純は「ヤプーズ」)

ただし、椎名林檎の場合、作曲の腕がかなり高くメロディメーカーとしての才能があります。戸川純は自分ではほとんど作曲はしません。音楽性にはかなりの差があるように思います。
ヤプーズにもいくつか名曲はあるのだけど、残念ながら全体的にはショボい曲が多いです。戸川純の場合、それよりは初期の「玉姫様」とか、ゲルニカのほうが面白い。
そうそう、ゲルニカはすごいですよ。上野耕路の奏でる壮大なオーケストレーションの上に、戸川純の変幻自在のヴォーカルが炸裂しています。一見キワモノなんだけど、オーケストラ部分だけでもかなり聞き応えがあります。
そんなわけでただ今、ゲルニカの「電離層からの眼差し」を聞いてます。

2006年2月3日金曜日

日本語を歌う2

もう少し具体的に、日本語の歌い方を考えてみましょう。
ここのところ私がこだわっているのは、文節をいかに浮かび上がらせるか、ということです。
一音符が一シラブルである以上、日本語はメロディに対して意味内容を表すのに大変冗長です。この冗長さが、場合によって言葉の意味を把握するのを困難にさせます。要するに時間が経たないと、単語が完成しないのです。
なので、歌い手は積極的に、文節を浮き上がらせ、単語を聞き取れるように歌ってあげる必要があるのです。

単に子音をしっかり、とか、口を大きく開けて、というだけでは、全部の音を明瞭にするだけで、文節を示すためのメリハリが付かなくなると感じます。言葉をしっかり伝える努力は、ときに逆の方向に音楽を向けてしまうのです。
ちょっと単純化してしまいますが、私は以下の点に注意したいと思っています。
1.文節の最初のほうにアクセントをおく
2.助詞の音量、音色を引き目に操作
特に、2は重要で、短い音符が連続するならやり易いのですが、日本語の曲の場合、助詞が長い音価の音に与えられることが多く、この音をどのように歌うかが聞きやすさの大きなポイントになると考えています。

例えば「わたしは~」と歌う場所があったとしましょう。「」は助詞なのに、何拍も延ばす必要がある場合、この「」はどう歌いましょうか?
私は、この「」で膨らませて歌う人にはどうもセンスを感じません。「わたし」に比べて、「」はもっと抑えたトーンであるべきで、仮に音価が長くても、そこはそう感じさせるように歌わなければ、「わたしは」という文節が浮かんでこないと思うのです。

2006年2月1日水曜日

日本語を歌う

ハーモニーのタダタケ氏の連載は、結構その視点が自分にフィットして、共感を感じています。
やっぱり言葉をどう発するか、ということにすごく気を使うのですね。全体的に、具体的な方策より、その先は自分で考えてね、というような一般的な内容が多いのですが、それでも言葉を立たせて歌うために重要な示唆に富んでいると思います。

実は、一番伝わると思っていて伝わっていないのが母国語なのかと思ったりします。
たとえば、英語を話している場合、うまく聞き取れないと、聞き取れない自分をしっかり認識していて、だからこそ聞き返したり、愛想笑いで誤魔化したりしてしまうわけです。日本語の場合どうでしょう。意味をちゃんと理解してないのに「そうだよね~」「うん、うん」「へえ~」なんて勝手に相槌を打ってしまったりしませんか。
だから、話すほうも結構適当になる。さんざん長い話をしたのに、後で話した相手に聞くと、何にもわかってなかったりすることありませんか。
そういった、暗黙に相手がわかってくれるという安心が母国語にはあると思うのです。
コミュニケーション力に長けている人は、実際のところ、話し言葉の主語述語がしっかりしていたり、正確な言葉遣いをしたり、メリハリの利いた話し方をしています。それなりの技を持って、話をしているのです。
日本語の歌を歌うにも、そういった技があると思います。それは気持ちの問題なんかじゃなくて、出来る人は自然に身に付いているような、それでいて言葉で説明するのが難しいような、そんな法則があるはずです。

日本語だからこそ、逆にそういった技ではなくて、気持ちだけで解決しようとしがちです。そうならないように、言葉の発し方を、冷静に、かつ客観的に判断する力が演奏者に必要です。ハーモニーの記事は、その大切な鍵を紹介しているように私には思えます。