2006年3月31日金曜日

楽譜が語るもの 臨時記号篇

調号の続きということで、同じく#, bを使う臨時記号のことを考えてみましょうか。

と、ここで青島広志「楽典ノススメ」を紐解いてみると・・・この臨時記号の書き方について、いろいろなルールが載っています。この本、私はかなり好きで、普通の楽典の本には書いてないような記号の心理的側面とか、作曲家の気持ちとか、そういうのがチラチラ書いてあるのが面白い。課題のおふざけもなかなか楽しいです。

この臨時記号の書き方の項も、他の本であまり見たことないような気がします。
例えば、G->A の途中に半音を入れるときは、G->Ab->A ではなく、G->G#->A と書くべき、とか。別にこう書かなくてはいけない、という厳格なものではないにしても、こういうのを読むと、楽譜を書く者のレベルもこういうところに出てしまうよなあ、と感じてしまいます。
実際、Gの半音上の音を Gis で書いても As で書いても全然構わないのですが、そのどちらを選ぶかには、それなりの理由があるはずです。

私がよく迷うのは、タテを強調するか(和声)、ヨコを強調するか(旋律)、といったような判断。
タテで見れば、シャープで書いたほうが、和声的に分かりやすいけども、演奏者が旋律として感じた場合フラットで書いたほうが演奏しやすい場合もあるかもしれません。もちろん、ケースバイケースなのでどちらが良いとは言えないでしょう。
それから、調号を付けないような曲でダブルシャープやダブルフラットを使うものかどうか、とか。そこで調号を付けないと判断したなら、調性を強調するダブルシャープなんかあまり必要無いようにも思えます。もちろん、旋律の形にも寄るとは思いますが。だいたい、完全に無調な曲なら、臨時記号は全部シャープだっていいのかもしれません。
まあ、書くほうもそんな風に迷ったりするわけですから(多分)、たかだかシャープ、フラットとはいえ、迷った末の何らかの意思が入っているはずなのです。

2006年3月29日水曜日

どうせあたしの人生 語呂合わせなんだもん

表題、椎名林檎の6年前のアルバム「勝訴ストリップ」の中の「弁解ドビュッシー」という曲の一節。なんだか、妙に記憶に残る面白いセンテンスです。
それにしても、「勝訴ストリップ」とか「弁解ドビュッシー」とか、へんてこな語彙に溢れる林檎世界は相変わらず。「弁解ドビュッシー」は曲全体が確かに弁解調ではあるけれど、なんでドビュッシーなのよ、と私は問いたい。

とにかく、歌を作ることを椎名林檎風に表現すれば「どうせあたしの人生語呂合わせなんだもん」ということなのです。詩を書くというのは一見衝動的な表現のように見えて、やはり芸術を語る者ならそれなりに思慮を重ね、頭をひねって、意識の上で計算高く行うものだと感じているはず。内から湧き出る原石のような言葉を整理し、ある規制の中でそれを選別していく作業。それはまさに言葉を操るということであり、もう一段くだけて言うなら「語呂合わせ」ということなのでしょう。
この一節、弁解のように見えて、一生歌を作り続ける覚悟を語っているようにも思えるなかなか含蓄のあるセリフだなと、感じています。まさに詩の技法(アルス・ポエティカ)です。

2006年3月25日土曜日

忘れないと誓ったぼくがいた/平山瑞穂

waschika2年前に日本ファンタジーノベル大賞を受賞した平山氏の、この本が受賞後第一作となります。前作の感想はこちら
受賞作である前作は、なんとも陰鬱でエログロ感漂う雰囲気だったのですが、今回はまったく違います。高校生のプラトニックなラブストーリー。文体も何となくポップ。前作は、会話の括弧をあえて使わずにべたに会話の描写をしていましたが、今回は高校生の軽い会話が括弧付きで書かれるので、ページ全体に空白部が多く、すらすらと読めてしまいます。この本なら3~4時間コースってところでしょうか。
実は、この作家のブログが結構面白くて、この本もついついその流れで買ってしまったのだけど、いやなかなか面白かったです。

忘れる、すなわち、記憶を失う、というのは、一種の恐怖なのだと思うのです。
私たちはささいなことをどんどん忘れて年を取っていきます。自分は忘れていても、他人が覚えていたり、あるいはその逆もあったりします。もちろん、思い入れがあるほど、物事は忘れないはずです。だからこそ、大事なものだと思っていたことを自分が忘れていたりするとショックもでかいし、逆に自分が大事だと思っていることを他人が忘れたとき、その意識の差に愕然とすることもあります。この本はそんなささいな日常の恐怖というものを拾い上げ、特殊状況に仕立て上げて、「忘れる」というテーマを多面的に表現しています。
もっとも、やはりこの小説の面白さは、ちょっぴりホロリとさせられるピュアな恋愛の行方にあるのかもしれません。そういう意味では結構売れ線を狙っている感じもします。ドラマ受け、映画受けしそうな雰囲気ありますしね(全体的に映像を意識している感じがする)。
それでも、私はこの作家が基本的に持っている「切なさ」の表現みたいなのが好きです。登場人物の何気ない所作や、言葉にリアリティがあって、それを支えている感性がなかなか私のフィーリングに合う感じがするのです。

2006年3月18日土曜日

楽譜が語るもの 調号篇

というわけで、調号の話の続き。
具体的に例があると分かりやすいですね。と、ここで楽譜棚から三善晃「地球へのバラード」を引っ張り出してみましょう。
ざっと見ると、基本的に全て調号付きで書かれているようです。しかも、かなり頻繁に調号が変わります。この組曲については、その場の調性をなるべく忠実に調号で表す、ということが作曲者の意図のように思えます。これは、恐らく調性内で展開されるメロディがこの曲の魅力であり、作曲者自身が楽譜を通してそれを伝えようと思っているように感じられます。
もちろん、そうは言っても三善晃ですから、「調号なし+臨時記号」で書かざるを得ないようなフレーズはどうしても出現します。例えば、「2.沈黙の名」の中盤「かってわたしが」で、調号なしになります(ハ長調ではない)。それから「5.地球へのピクニック」の中盤「とおいものを~」でやはり調号なしになりますね。いずれも曲が展開され、頻繁に調性を移ろうため、全部臨時記号で対処したほうが良いと判断したためでしょう。これも、そのあたりを気にすることによって、中盤がある種の展開部的な曲想になっていることに気づくことになるはずです。

もう一つ、同じく三善晃の曲で「嫁ぐ娘に」を見てみましょう。
すごいですね~。全く調号なしです。全て臨時記号で対処されています。とはいえ、この音楽は無調音楽とは私には思えません(まあ、いろいろな考え方がありますが)。あくまで、一般的な和声内で解決されている音楽です。
だから部分部分で見れば、調号をつけることが可能な場所も多々あります。
それでも、初志貫徹ということか、この組曲では作曲者は調号を書かないことを選択しました。確かに、トータルで音楽のイメージを考えると、「嫁ぐ娘に」の持つ独特の浮遊感というのがあって、それが調号なし、という書法で象徴的に表現されているようにも思えてきます。

調号を付けても付けなくても、出てくる音には変わりないわけですが、そこには何かしらの意思があります。調号が付くことによって与えられる音楽のイメージもあるし、もちろんその逆もあります。
同じ作曲家でも、作品の性格によって書法は変えますし、それを調べることによって個々の曲で作曲者がどのような意図で曲を作ったのかが明確になってくるのではないでしょうか。

2006年3月15日水曜日

楽譜が語るもの

楽譜と演奏は一対一の関係ではなく、一つの楽譜から無数の演奏が生まれます。楽譜は思っているより全然厳格なものではなく、時には即物的な指示さえ(テンポ指定など)無視されたりします。
逆に、演奏から楽譜を作ることは可能でしょうか?技術ネタとしては面白いかもしれないけど、少なくとも元の楽譜と同じになるなんてことはあり得ないことはすぐにわかるはず。例えば、ある音が楽譜に Fis と記載されているか、Ges と記載されているかは、完全に曲を作る人の恣意に委ねられており、音だけで判断することは不可能です。そういう意味で、楽譜から演奏への流れは不可逆な変換と言えましょう。

つまり何を言いたいかというと、楽譜の情報は一見明確な音像を規定しているように見えて、実は非常にあいまいな要素があると思うのです。同じ記譜をしても、同じ演奏にはならない。また、再現性の高い演奏をしても、そこから正確な記譜を求めることが出来ません。楽譜から演奏者が何を考えてそのように演奏したか、そこにはどうしても演奏者の思考が介在します。また逆に全く同じ演奏になったとしても、幾通りかの記譜法が存在することになり、そこにはどうしてそのように書いたのかという作曲者の思考があるはずです。

ここでは後者の方にちょっとフォーカスしてみたいのです。
全く同じ音になるはずなのに、違う書き方をした場合、そこにどんな意味があるのでしょうか?
では、一つの例。頻繁に転調するような曲があったとします。この曲を書くのに
 1.調号なしで書いて、全部臨時記号で対処
 2.メインと思われる調の調号で書いて、後は臨時記号で対処
 3.転調の度に、調号を変える
他にもあるかもしれないけど、これだけパターンが浮かびますね。もちろん、転調の長さとか、基本的な調性があるかとか、いろんな要素で変わってきますが、それを読み解くだけで何か訴えるものがわかってくるかもしれません。と、ここまで書いて、後は続く(のか?)。

2006年3月9日木曜日

電子楽器の限界

今日、とある演奏会を聴きに行ったのですが、その中で電子オルガンを使ったステージがありました。
あんまり、電子オルガンのソロでクラシック的な演奏を聴いたことがなかったので、久しぶりに嬉しい体験でした。

基本的には、このステージではオーケストラ音楽を志向していて、オルガン一台でオーケストラのような音色を出そうとしています。演奏者もその音色でリアリティのある表現となるよう、うまく演奏していたと思います。電子オルガンもタッチやエクスプレッションペダルで、かなりきめ細かな表現が出来るのですね。
しかし、それでもその音が本物のオーケストラ楽器に聞こえないのは、音が悪いわけではなくて(だいたい本物の音をサンプリングしているわけですから)、もっと別の理由にあるような気がしたのです。

それは端的に言うとダイナミックレンジではないかと思うのです。
電気を使った場合、必ず電気回路によってダイナミックレンジが規定されてしまいます。デジタルになると、デジタル信号が何bitかで、ダイナミックレンジが決まってしまいます。音が小さいほどSNが悪くなるので、デジタルの場合、なるべく高いレベルで出力したくなります。
しかし、自然の音って、そうじゃないんですよね。静寂はどこまでも静かだし、どんな弱音もホワイトノイズに埋もれるなんてことはあり得ない。強音は、人間の耳が壊れるまで、いくらでも大きくできます。要するに自然楽器の音は、スピーカで出す音楽では到底かなわないくらいのダイナミックレンジを持っているんです。
だからこそ、生楽器では音の質感がぜんぜん変わってきます。サンプリングされた音は、どこかで表現のレンジも圧縮されてしまっているのです。もしかしたら、そのあたりが電子楽器の一つの大きな限界なのでは、とちょっと思ったのです。

2006年3月6日月曜日

THE 有頂天ホテル

いやー笑いました、ほんとに。気が付いたら、涙流してました、笑いすぎて。
恐らく誰が見ても、楽しめる映画だと思います。細かいこと抜きに単純に面白いです。こういう映画は見て良かったって思えますね。

確かに単純に面白いんだけど、実はすごく良く出来ている映画だと思います。私が何回か言っているのは、邦画に芸術作品としての「構造性」が足りないということ。しかしこの映画、日本的な笑いを多用しているにも関わらず、ストーリー全体はとても緊密な構造性を持った精度の高い芸術作品だと感じました。
日本アカデミー賞を総ナメにした「Always」だって、エピソードの寄せ集め的な映画で、題材は良かったけど構造性があるとは思えなかった。しかし、この有頂天ホテルは、うまいなあ、とほんとに思います。
基本的にいろいろな人のいろいろなエピソードが絡み合いながら話が進むわけですが、それらの主題が微妙に交錯しながら、無関係なはずだったエピソードが終盤で繋がっていきます。ラッキーアイテムのマスコットが、一回りして結局元に戻るあたり、構造性の極致といえますね。さすが、三谷幸喜、才能あります。

笑いのキーワードとしては、誰もが持っている恥部をとことん掘り下げるというか、それがまあ、掘り下げすぎというか、そういうところにあるのでしょう。
クネクネダンスも、みんなの想像を掻き立てたまま、結局一度も画面に現さないところがいいですね。
あと、かっこつけて嘘をついたり、アクセサリーについつい手を出して鏡の前でくるくる廻ったり・・・思わず日常生活でやってしまいそうな個人の恥部をどこまでも拡大させていくっていうのが、三谷氏の芸風なのでしょう。

古畑任三郎なんかも以前より、日本ドラマ離れした構造性の高さを感じていました。
実は構造性が高くなるほど、古典的な形式をわざと使ったりするなんてことがあるのかもしれません。ラヴェルとか、ストラヴィンスキーとかなんかもそんな感じだし(いきなり音楽の話になるけど)。

2006年3月2日木曜日

賞を取るということ

ご存知のとおり、トリノオリンピックでは日本勢惨敗でしたね。
今回のオリンピックで一番印象に残っているのは、女子モーグルで5位だった上村愛子さんの言葉。「どうやったらメダルが取れるんでしょうね。未だに謎です」っていうようなことを言っていました。
なんだか、じんわりと響いてくる言葉です。これまで一生懸命がんばってきて、何とかメダルを取りたかった。その悔しさがひしひしと伝わるのです。
順位というのは恐ろしいものです。どんな僅差であっても、順位という絶対的な指標の中で、序列化させられてしまいます。その僅差は、例えば当日の天候とか、競技場のコンディションとか、その日の食事とか、直前に話かけた人の言葉とか、実はそんなもので変わってしまうものかもしれません。そんなあやふやなもののために、4年間それだけを思い続け、練習にいそしむというのはどんな気持ちなんでしょう。
確かに私のような門外漢には、順位というのはとても分かりやすい指標です。世界の選手が頭から順に並べられ、一度にレベルを把握することが出来ます。選手にとっても、銀や銅より金のほうが嬉しいし、メダルは無いより、あったほうがいいに決まっています。でも、4位と3位の違いは、単純な実力差だけではないはずです。
そして、私たちはもっとそのことに想像力を費やしても良いと思います。

私事を振り返ると、やはり作曲コンクールなんかに同じ思いを感じますね。
本当は、絶対的な指標など無いのに、○○賞を取ったとか、取れなかったとか、そういうことで判断される。所詮コンクールなんて、そのとき集まった作品の中の相対評価なのに、賞暦は何やら絶対的な肩書きとして認識されるようです。
むろん、応募するのだから賞を取りたいのだけど、ほんとにどうやったら取れるのか、未だに謎ですよ。