2006年4月29日土曜日

現代音楽が嫌いな訳

基本的に私は現代音楽が嫌いです。(素人クサい表現ですが…)
もっとも、最近は「自分だって作っているくせに~」とか突っ込まれそうで恐いんですが、それでも現代音楽と言われる音楽作品には、自分が受け付けない何かがあるような気がするのです。

その何かについて、ちょっとある視点を思いつきました。
それは、今聞いている音楽が予測可能か、予測不可能か、という観点です。音楽の中には予測可能な要素と、予測不可能な要素の二つがあり、それらの配分がどのようになっているか、そしてその配分にはちょうどいい塩梅というのがあるのではないか、という考え方です。そして、予測可能な要素が多いほど音楽は単純になりますが、逆に安心感が増えるでしょうし、予測不能な要素が増えるほど、複雑で理解しづらくなることになるでしょう。

具体的な例で考えてみましょう。
例えばJ-POPのような音楽をイメージしてみてください。ほとんどの曲は、一曲の間、テンポが変わりませんし、リズムの基本パターンも変わらないでしょう。つまり、同じリズムパターンが延々繰り返されるわけです。そして、それは非常に音楽の予測可能度を高めます。ある曲を最初の30秒ほど聞けば、だいたいその曲の雰囲気はおおかた予測できるわけです。途中で急にテンポが変わって曲の雰囲気が変わるということは、通常は考えられません。あとは、どのような旋律か、歌い手や楽器のソロはどんな感じか、曲中に面白いブレークが入っているか、そういったものが、わずかに予測不能な要素になるかもしれません。
そんな風に考えると、ポップスは音楽に予測可能な要素の比重が非常に高いといえます。

では、いわゆるクラシック的な世界でいうところの現代音楽はどうか、というと、逆に極端に音楽の予測可能性が低くなっているのではないでしょうか。曲を聴いていても、次に何が来るか全くわからないのです。様式感についても、明確なものがないから、聴く側の拠りどころがありません。それは人間の生理からいうと、むしろ恐怖に値する状況に近いのではないかと私は思います。
次に来るものの予測が不可能だと、人は突然の変化に耐えるために防御をします。その緊迫感はおおよそ、快楽とは別のもののように思えます。

そもそも音楽とは、大勢でリズムに合わせて歌ったり踊ったりしたところから生まれたのではないかと思うのです。多くの人が同時に音楽に参加するためには、音楽的な取り決めが必要です。それはリズムであり、ある特定な様式のようなものであり、つまるところ音楽の予測可能度を高める方向に向かいます。
もちろん、いつでも次の音楽が予測できることが決していいわけではないし、芸術作品として、予測不能な要素を持つ必要はあるとは思います。
それでも、常に何が起きるか分からない、といった音楽は人々に不安しか与えないのではないでしょうか。それこそが、難解で前衛的な現代音楽を嫌いにさせる原因のような気がしています。

2006年4月28日金曜日

音声学入門

合唱をやっていると、日本語以外の曲を歌う機会はたくさんあることでしょう。そんな折に、発音に迷うこともしばしばあります。多くの人が勉強しているはずの英語だって、歌の中ではかなり怪しい発音になっています(英語だからこそ、という面もありますが)。
外国語の発音に関わらず、より言葉をはっきりさせるにはどうしたらよいか、ということを突き詰めていこうとすると、音声が出る仕組みについて興味が向いてきます。
そういったこと全般を扱う学問を音声学といいます。もちろん、合唱との関わりも深いものと思われますが、私の周りで練習の場で音声学的なアプローチをした先生はあまりお目にかかりませんね。ちょっと、専門の学問っぽくなっちゃうので、みんなの食いつきは悪いかもしれません。

こういうことに興味を持つと、すぐに大雑把に知りたくなる性分なので、早速「音声学」の本を読んでみました。もちろん、あんまり難しくないヤツ。
音声学では、IPAという国際的な発音記号を用いて発音を表記します。パッと見ると、母音なんかそれっぽい文字なんですが、かなり分かりにくい記号もあって、これを覚えるのはちょっと難しそう。
ただ、全ての母音、子音が体系だてて整理されていて、「話す」というごく単純な行為も、これだけの多くの要素があることに驚かされます。私たちは、無意識のうちに、声帯や口蓋や舌、唇を巧みに操って、これだけの音を出していると思うと、ちょっと感動します。
そして、これをちょっと意識的に行えば、合唱の練習でもかなり有効なアプローチになるような気がします。

2006年4月21日金曜日

ハーモニーで一番面白かった記事

さて、このハーモニー、肝心な部分を誤植してくれる困った機関紙ですが、面白い記事もあります。
春号の私のベストワン記事は、千原英喜氏のM4の曲紹介。
こんな文章を書ける人だとは知らなかったです。すごい才能。それに内容も面白い。
作曲家にはこういう高尚な(?)冗談系文章を書く人がたまにいますが、千原氏もそういう天性を持っている人なんだと感じました。これまで、どちらかというとお固いイメージがありましたが、この文章で一気にファンになりました。この調子で、万葉調とか、平安調とか、新しいパターンを期待したいところです。

しかし、よく考えてみると、千原氏の合唱曲って、単にテキストの素材が古いというだけでなく、それを自ら選択、構成しているという意味では作詞に近い行為をしているとも言えるのではないでしょうか。それに楽譜にも、本人による随分たくさんの解説文が載っていますね。
千原氏の合唱作品を眺めると、そこにある詩に単に曲を付けるという行為から、もう一段大きなレベルでの創作を楽しんでいるように見えます。一つの組曲には明確なコンセプトがあり、そのコンセプトに基づいて、ゼロから全体の構成を作りあげています。時に古文に、時にラテン語にと、素材の選択もまた自由自在であり、その発想は極めて豊かです。それは、声楽曲の作曲というよりは、むしろ器楽曲に近い考え方であり、その考えをもう少し進めれば、声は単に歌であるばかりでなく、音楽の素材だという側面も強調されるようになるわけです。
それが、邦人曲の中では新鮮に映ります。
シンプルでメロディに溢れているのに、どこか機能的で、理知的な感じ。素材の由来を抜きにすれば欧米の合唱曲に似たフィーリングさえ感じるのです。

2006年4月15日土曜日

楽譜が語るもの ダブルシャープ&フラット篇

前ちょっと触れたダブルシャープ、ダブルフラットについて、もうちょっと掘り下げてみましょうか。
しかしまあ、なんでこんな記号があるの?と疑問に思う方もいるかもしれません。もちろん、ダブルシャープや、ダブルフラットという記号が無くても同じ音を記譜することは可能ですが、それで失われる情報があるからこそ、これらの記号の意義があるわけです。

具体例で言うと、ロ長調(調号に#が5つ)の調で、例えば B → D# → G#m みたいなコード進行があった場合、真ん中のコード D# の第3音は Fisis すなわち、Fの音のダブルシャープの音で記譜されます。もちろん、鍵盤で弾くときは G の鍵盤を叩きます。だから、記譜上は G にナチュラルを付けて書いたって構わないわけです。
それでも、こういった和音進行の場合、移動ドでいうところの「ソ」が半音上がって導音化し、その音がさらに「ラ」に向かう、という感覚を大事にしたいのです。それが、この和音進行のキモの部分であり、他の調と同様に記譜者がその気持ちを伝えるためには、ダブルシャープを用いざるを得ないということになります。
だからこそ、楽譜を読む人にも、その感覚が伝わらなければ意味がないのです。変化音が導音としての役割を持つという感覚、その意識を持っている人がどのくらいいるかは、アマチュア合唱の世界ではちょっと不安な気もしますが、それは勉強してもらうしかないでしょうね。
ピアノのような和音を奏でる楽器の場合、また別の側面もあるかもしれません。例えば、上記 D# の和音を楽譜に書くとき、D#, Gナチュラル、A# じゃ、弾くほうも長三和音とはとても認識できなくなります。

もっとも、ダブルシャープやダブルフラットが出てくるような調は、調号の多い、使用頻度の多くない調であることが多いので、ダブルシャープ、ダブルフラット自体、頻繁に見るものではありません。だからこそ、余計に見慣れないものに拒否反応してしまいます。
それでも、ダブルシャープやダブルフラットで書くことしか表現できないことがあります。見た目のわずらわしさに囚われず、そのココロを理解してほしいのです。

2006年4月11日火曜日

あの~、長谷部雅弘とは、どこのどなたでございましょう?

ハーモニー春号、楽しみに待っていたら思いっきり誤植じゃないですか!!P87をご覧ください。私の名前は「雅弘」じゃなくって、「雅彦」だってば。
朝日作曲賞の山内さんの名前と混じっちゃってますよ。まあ、同じような名前が二人入賞したのが罪といえば罪なのかもしれないけど・・・しかし、この場所、フォントが大きいだけに、誤植の罪はもっとでかいス。
そんなわけなんで、次号では、同じくらいのフォントの大きさで^^;、誤植のお詫びを出していただきましょう。

検索で引っかかりやすいように、あえてタイトルを間違った名前にしてみました。さて、これで辿りつく人いるかな。
以上、まだまだマイナーな作曲家の切実な叫びでございました。

2006年4月8日土曜日

プロコフィエフ ピアノソナタ7番

プロコフィエフのピアノ協奏曲のCDにおまけのようについていたピアノソナタ7番。最初に聞いたときに「変な曲」と思って以来、ずっと聞かず嫌いだったのですが、最近になってちょっとお気に入りになってきました。
プロコフィエフのピアノソナタの中では一番の人気作だし、解説書によれば二十世紀のピアノ音楽の最高傑作の一つとさえ言われている有名な作品。
ただ、プロコフィエフの一番過激なところが強調されていて、正直言って、一般の人から見ればかなり前衛的な感じがすると思います。何といっても、主題がほとんど無調っぽい。十二音の音列から出来ていると言われると信じてしまうくらいです。
しかし、一度そのプロコフィエフ的鋭角な旋律の中に潜む美的感覚にはまると、不思議と心地良く感じてくるようになるのです。楽曲の形式はむしろ古典的なくらいで、主題の回帰も非常に分かりやすいのです。荒々しいまでのリズムと、透徹したリリシズムの対比がまた素晴らしく、曲全体がうまく引き締まっています。
とここまで書いたのは、第一楽章の話。
第二楽章もなかなか叙情的でいいのだけど、何といっても面白いのは第三楽章。
7/8拍子で一気に駆け抜けるこの楽章、クラシックというよりはプログレです。これはすごい!これをベースとドラムとハモンドオルガンかなんかで編曲すればELPみたいな音楽になるかも。音もちょっとポピュラーっぽいというか、ブルースっぽい感じさえします。
左手に現れる「ダッダーッダッ」(曲知っている人しかわからないかも~)が、全体のビート感を締めていて、この曲の特長的なフレーズになっています。ここをいかに強調して弾くかが演奏家に問われることになるでしょうね。
この緊張感の持続を強要するような、どこまで聞く者の耳を捉えて離さない吸引力はほんとに感嘆に値するのです。

2006年4月2日日曜日

歓びを歌にのせて

スウェーデンで大ヒットした映画。浜松では三日間だけ上映があり、見てきました。
全日本合唱連盟も後援している合唱を題材とした映画です。
内容は、著名な指揮者ダニエルが体調不良で引退しますが、隠遁先の村の聖歌隊の指導をすることになります。彼の指導によって聖歌隊のメンバーの気持ちにいろいろ変化が起こり、そして聖歌隊はコンクールに参加することになり・・・というような展開。

このあらすじだけ見ると、「天使にラブソングを」とか「スウィングガールズ」とか、ああいう雰囲気を思い浮かべるわけですが、さすがヨーロッパ映画、一味も二味も違います。
何というか、映画作りにおける時間感覚の違い、というのが根本的な部分にあるんですね。ヨーロッパ映画ってリアルな日常を、ほんとうにリアルに描こうとする。もちろん、映画だから過剰な演出もあるし、デフォルメする部分もあるわけですが、常に観る人を飽きさせないようなスピーディな展開とか、メインキャラクターの力強さでぐいぐい引っ張るようなそういうハリウッド映画的なほうには決して向かいません。
何が過剰かって、各登場人物が、"みんなの前でそこまで言うか~?"みたいなことをバンバン言っちゃうところ。いい年をした大人が「ずっとお前は小学校の頃からそうやってボクのことをいじめてきたんだ」って突然キレたり、聖歌隊のおじいさんがおばあさんに「実は、私は小学校の頃からあなたが好きだった」と言い出したり。なぜか、トラウマが全て小学校から始まっているのも可笑しいです。

それはともかく、この映画の面白さは、一人の芸術家の出現が、保守的だった村の人の心を少しずつ変えていくその過程にあるのでしょう。別にダニエルは全然かっこいい感じでもないし、人々をがんがん引っ張るようなカリスマ性があるわけでもない。社交的じゃないし、衝動的な一面もある。ある意味、不器用な性格なわけです。
しかし、だからこそ、彼が伝えようとする音楽の精神的な側面が、聖歌隊のメンバーの心を侵食していくわけです。音楽をすることが、生活の中で抑圧されてきたそれぞれの想いを解放することに繋がっていきます。そういう音楽の効能を、リアルに描いているっていうのが、この映画の最大の見所でしょう。
映画そのものの肌触りは巷でよく見る映画とはずいぶん違うけど、音楽が人々の心を解放するという普遍的なテーマはやはり観る人を感動させるものですね。