2006年5月25日木曜日

混声合唱と弦楽合奏のための「うろくずやかた」

もう10年くらい前に作曲してお蔵入りしていた旧作を、急に思い立って改作することにしました。もちろん、委嘱でも何でもないので、改作してもお蔵入りする可能性は非常に高いわけですが。
その曲は、以前、二重合唱として作曲した「うろくずやかた」という曲。
このときの作曲のアイデアは二群の合唱のうち、一つの群は旋律を中心に歌い、残りのほうはどちらかというと伴奏部分を歌うという分け方です。普通は、二重合唱の場合、対等な関係として対話をするような書き方をするわけで、そういう意味でちょっと変わった作り方だったと思います。
今になって考えてみれば、伴奏部分だけ歌わされる人はたまりませんね。プロならともかく、各声部の内容があまりに不均衡だと、アマチュア合唱の世界では敬遠されてしまいます。

そもそも、伴奏として書いたのだから、その部分は器楽でも構わないわけです。それで自分の中で一番似合った音色は弦楽合奏でした。
そんなわけで急に思い立って、10年前の曲を弦楽伴奏+混声合唱の形に書き換えました。
もちろん、合唱を弦楽に変えたので単なる音の変換では済まないし、以前付けなかった詩の部分も新たに作曲したりしたので、前の雰囲気を残しつつも、新しい音楽として生まれ変わっています。
今回楽しかったのは、弦楽パートを書いたこと。まだまだ稚拙な部分はあるとは思うけど、やはりいろいろ勉強になります。実際に音になると、もっと嬉しいんですがねぇ・・・
詳しくは、「オリジナル作品一覧」のページをご覧ください。

2006年5月21日日曜日

好きだけどやりすぎ

自分にとって、好きな、あるいはとても気になる芸術家なのだけど、その中には自分にはどうも理解できないというか、ちょっとやり過ぎなんじゃないかと思えるような作品がある、というようなことってないですか。
先日もちょっと書いたプロコフィエフは、私にとってそんな芸術家の一人。
いまや一番気になる作曲家と言ってもいいし、大好きな曲もたくさんあります。残念ながら合唱とはほとんど無縁な作曲家ですが(書いていても、あんまり歌いたくないかも)、創作家として刺激的な作品をたくさん残した重要な人物だと思っています。
最近、実はプロコフィエフのピアノソナタ全集なんてのを買い込んで、ちまちま聴いているのだけど、聞き流している程度では曲の仕掛けがちっとも理解できなくて、未だにそれらは「変な曲」の域を脱していません。要は、理解しようと努力しないと、ただの「変な曲」にしか聞こえないのです。
極度に抽象的で、場合によっては無機的で、それでいて、その奥に潜むイマジネーションの拡がりが時折おぼろげに感じられる、というそんな作品群。ほんとに一瞬、ときどき、気になる面白いフレーズが現れるけど、それ以上に変てこなメロディ、フレーズにも溢れています。7番も十分変てこだと思っていたけど、何だか7番が一番聞きやすい曲にも思えてきました。
そう考えると、プロコフィエフって、自身がちょっと分かりやすく書こうとしたくらいがちょうど気持ちいい作品になるような気もします。名曲、交響曲五番も、それ以前の交響曲に比べれば分かりやすく書かれたように思います。アバンギャルド的態度と、ほどほどの分かりやすさが同居している状態が、プロコフィエフの場合、名曲の条件となっているのでしょう。
ちょっと音楽から離れて、作家の場合だと、安部公房なんかが、私にとってプロコフィエフに対する印象とすごい近いような気がします。好きなんだけど、やりすぎ~みたいな・・・。

2006年5月16日火曜日

女声合唱曲の初演

昨日、浜松ラヴィアンクールのFirst Concertが開かれました。
浜松ラヴィアンクールは、浜松にて活動する少人数女声アンサンブルグループ。現在12名。岸信介先生に指導を仰いでいます。
昨年も書きましたが、合唱コンクールの県大会で岸先生が都合が悪く、私が代わりに指揮をしたのがきっかけでこの合唱団とお付き合いするようになりました。
そして、昨日のコンサートでは、ラヴィアンクールの委嘱で女声合唱曲を初演することができました。初演の指揮は岸先生と思いきや・・・私。そんなわけで、昨日は出演者として、演奏会に参加することに。
その他の各ステージもバラエティに富んでおり、お客さんもたくさん入って、なかなかいい演奏会だったと思います。

さて、昨日初演した作品は「長田弘の詩による三つの女声合唱曲」という作品で、組曲というよりは、三つの小品というような感じで作りました。もちろんアカペラ。
しかも、今回の作曲は、自ら div.なしという制限を課し、三声だけでどこまで多彩なアカペラ表現が出来るかにチャレンジしました。自分で言うのもなんですが、詩の面白さもあり、3曲それぞれ特徴を持った楽しい曲になったと思っています。おまけに、それを自らの手で初演することになったので、なるべくその特徴を生かそうと思ったのですが・・・さて、演奏の方はどうでしたでしょうか。
アカペラですが、div.無し、ということで、一般の女声合唱団でも取り上げやすいと思います。ご興味のある方は、どうぞ遠慮なくお問い合わせください。


2006年5月11日木曜日

朽ちていくヘッドフォン

ヘッドフォンは、仕事でも家でも大変お世話になっている機材。
家では、夜中に一人、電子ピアノを叩いたり、楽譜・シーケンスソフトでプレイバックしたりするとき、ヘッドフォンはかかせません。でもなぜか、普通に音楽を聞くときは滅多に使わないのですが・・・
体に触れるこういう小物は、安いものを買ってはいけないと思い、そこそこの値段のものを使っています。低音もしっかり出るし、耳をすっぽり覆うので音に集中できます。

しかし、こういったタイプのヘッドフォン、長い間使っていると、耳当ての部分の黒い薄皮が破れてくるのです。会社のヤツも家のヤツも両方とも破れてきました。耳当て自体はスポンジで出来ていて、そのスポンジの外側を黒い薄皮が覆っているのですが、いったん破れ始めると連鎖的にこの皮が少しずつ剥がれていきます。
何が嫌かって、この細かく破れた皮が、耳の周辺に貼りつくこと。ふと気づくと、耳に妙にくっきりした黒い点が付いていて、慌てて耳を払う羽目に。
最近は、フローリングの床の上に落ちていたり、お風呂に浮いていたりして、妻にかなり迷惑がられています。
そういや、会社のもウチのもオーディオテクニカ製だったか…

2006年5月4日木曜日

音楽の予測可能度

音楽が前衛的、実験的になるほど、先の展開が読めなくなり、予測不能度は高くなります。音楽は、一般の人々にとって予測可能であることが気持ち良さにつながるという前提をすると、予測不能な音楽に対する嫌悪感をうまく表現できることになるわけです。つまり、次に何が来るか分からない不安、これこそが現代音楽が一般的になり得ない理由ではないか、ということです。これが、前回書いた内容の骨子。

この話を発展させるために、そもそも、予測可能ってどんな状態を言うのか、これが問題です。
恐らく、人によってかなりイメージが異なっているように感じます。そこで、まず具体的に私のイメージを紹介してみます。
よく音楽の要素として、メロディ、ハーモニー、リズムの三つが挙げられますが、私は最も予測可能度に影響するのはリズムだと考えています。テンポ、およびリズムの種類が一定であることが、恐らく音楽の予測可能度を最も高くする方法ではないでしょうか。
次は、メロディの要素。これは例えば、メロディの中でどの音価が支配的か、あるいは急激なメロディの音程跳躍がないか、大きなメロディの流れの中に小さな繰り返しの要素があるか、といったことが影響すると思われます。当然、音価に統一性がなく、跳躍もたくさんあって、メロディ内に繰り返しが少ない、といった場合、予測可能度が低くなってくるでしょう。
最後にハーモニーの要素。一つにはメロディとも絡んできますが、調性感といったものが挙げられるでしょう。次に、典型的な和音展開かどうか、といったところでしょうか。当然ながら、調性が一定で、和音展開も常識の範囲を超えないほど予測可能度は高くなります。
ハーモニーの要素がそれほど重要ではないのは、音楽全体を見据えたとき、それほど本質的なものと思えないからです。我々が親しんでいる和音というのはせいぜいここ300年くらいの西洋音楽に由来するものです。しかし、音楽にとって、メロディやリズムというのは、非常に根源的な音楽のアイデンティティに根ざしているような気がします。

それからもう一つ大事なのは、芸術音楽として、予測可能度が高いことが大事なのではなく、ほど良い予測可能度を持っていることが重要だということです。
もし、あまりに予測可能度が高いと、音楽に従事している人にとっては変化の乏しい退屈な音楽に感じられるでしょう。従って、芸術性が高いものほど、予測可能度は低くなる方向に向かうと考えられます。
しかし、それにも限度というものがあるだろう、というのが私の考えなのです。その限度をどこに引くべきか、それこそが今の作曲家に課せられた重要な課題であるように思えるのです。