2006年12月31日日曜日

今年劇場で見た映画

今年の締めくくりに、今年一年、映画館で見た映画を全部ご紹介。

キング・コング
・ミュンヘン
PROMISE
THE有頂天ホテル
歓びを歌にのせて
・Vフォーベンデッダ
嫌われ松子の一生
・パイレーツオブカリビアン~デッドマンズチェスト
日本沈没
・スーパーマンリターンズ
グエムル
イルマーレ
・レディインザウォーター
・ペレアスとメリザンド
トゥモローワールド
・犬神家の一族

一般的には多いほうかもしれないけど、それほど映画マニアってわけでもないですよ。

2006年12月29日金曜日

邦人曲を取り巻く環境

邦人曲の特殊性シリーズ、ほっとくとどこまでも書きそうなので、今年も終わりそうだし、今回あたりで止めておきましょう。
今まで言ったことを全部まとめると、音楽的骨格をピアノに任せて奔放に歌い、宗教的祭儀より平和や学術的なテーマを好み、音そのものより歌詞の意味にこだわり、ロマン派的交響曲の世界を指向し、器楽的メロディより言葉のイントネーションの自然さを気にする、そんな曲が喜ばれているのです。
結局のところ、需要の無いところに供給は無いわけで、皆(合唱団)が欲するからこそ、こういった曲が生まれるわけです。

でも、それって本当に観客が聞きたい音楽なんでしょうか?
みんな真っ赤な顔して興奮して歌っているのに、それに子音もしっかり立っているのに、でもポリフォニックなんで何を歌っているかは認識できず、時折聞こえる言葉の断片からはやたらとシリアスな雰囲気だけが漂ってきて、果たしてこの曲を理解しようと努めるべきか戸惑っている会場のお客さんたち・・・そんな光景が目に浮かびます。本当はもっと直接、感性に訴えてくるような音楽が聞きたいのに、考えることを強要されると、ちょっと引いてしまう。
そのくせ演奏会が終わった後に、ロビーに出てきた団員が「ねぇ、どうだったー」と聞くと「うーん、良かったよー」などと社交辞令を交わすのは、演奏会のマナーでもあるわけで、結局のところこういったアマチュアの演奏会は今後とも延々と続くわけです。

もっともっと質が高くて、一般のお客さんが楽しめるような演奏が、聞きたくなるような合唱曲が、必要なのだと思います。
上手い合唱団が増えれば、観客の耳も肥えていくし、音楽批評も的を得たものになっていくでしょう。そうすれば、さらに上手い合唱団が増えていくはずです。
ことは簡単には進まないのでしょう。100年くらいの年月は必要かもしれません。100年経っても、日本に合唱文化が根付いていないかもしれません。でも、そういった上向きのスパイラルを少しずつでも作っていくしか道はないのだと思います。
作る立場から言えば、今まで言ってきた特殊性の要素を少しずつ崩していって、「おっ」と思わせるような世界観が示せれば嬉しいのですけど。

2006年12月26日火曜日

のだめカンタービレの世界

ええ、もちろん見てましたとも。
マンガも読みました(妻が全部持っている)。
正直、面白かったです。多くのクラシック関係者が面白いっていうのも頷けます。確かにとても良く出来ている。リアルとバカバカしさのバランスが絶妙で、ありそうでない音大生の日常に思わず憧れてしまうのです。

しかし、のだめを貫くリアルさというのは、私の思うに「音楽への向き合い方」なのではないか、と思うのです。
よくよく見てみれば、このドラマ、良い音楽をすることが何よりも第一であって、友情や恋愛よりも優先される。実際、素晴らしい音楽というのは才能のある者がひたすら努力することによってしか生まれない、という当たり前でいて、目を背けたくなる現実があるのです。このドラマはそれを真正面から表現しています。
だから、センスの無い人間が一生懸命やってすごく上手くなった、などという感傷的な態度は一切取らないのです。主人公は、二人とも才能に恵まれているという設定。その才能が開花していく様子がストーリーになっているわけです。
たかが音楽、されど音楽。音楽の神様に許された者だけが高みに上がれる不条理な世界。残念ながら、そこでは人間社会の常識は通用しないのです。たとえ傲慢であっても、変態であっても、ホモであっても、音楽の神は無作為に降りてくるのです・・・

2006年12月24日日曜日

邦人曲の特殊性-日本語の縛り

どの言語でも、言語によるメロディへの縛りというのが存在するはずです。
そういう意味では、日本語だけの問題ではないのですが、それでも日本語がメロディに与える影響は、他言語に比べても非常に大きいのではないかという気がします。この話、昔から繰り返し書いている内容でもあります。例えば、これとかこれ
そういうわけで多少重複しますが、改めて日本語の特殊性を挙げてみると:
・高低アクセントの言語なので、メロディに言葉のイントネーションが反映されないと気持ち悪い。
・促音「っ」、撥音「ん、む等」が、一つの音符を要求する。(モーラと呼ばれる単位がビートの基準)
・一単語の音節数が多い。
といった点があると思います。
これらはいずれも、日本語をメロディに載せる際に大きな影響を与える要素です。音楽の重要な要素であるメロディが日本語の影響を受ける以上、外国曲とメロディのフィーリングの違いが出てくることは避けられないことでしょう。
もちろん、それは他言語の曲を歌う醍醐味の一つとなり得ます。フランス語の曲は、やはりフランス語の影響を受けているし、マジャール語の曲は、マジャール語の影響を受けているわけです。それは言語のアイデンティティであり、否定すべきことでは決してありません。

しかし、音楽的要求と言語的要求の対立は、作曲においても演奏においても良くあること。そんなとき、日本語を大事にする、という気持ちが強すぎると、音楽全体にとりとめのない印象をもたらすような気がします。
日本人であっても、合唱であろうとなんであろうと、やはり音楽をまず聞きたいのであって、そこから目を背けると、結局閉鎖的な価値観に閉じこもってしまい、合唱関係者以外を寄せ付けない演奏になってしまうのではないでしょうか。

2006年12月20日水曜日

全身音楽! 上原ひろみ

全身タイツじゃないですよ。全身音楽なんです。
本日、上原ひろみの浜松公演行ってきました。いやあ、良かったです。もう、全身音楽としか言いようがありません。どんな言葉を並べても陳腐になってしまって、伝わらないのがもどかしい・・・ってくらい。

若さゆえの激しさっていうものもあるのかもしれません。しかし、彼女の場合、それは単なるパフォーマンスではなくて、全てが音楽の一部と化している、そんな印象を受けるのです。変拍子でさえ、知的というよりは、過激さの一部であるような気がしました。とまあ、あの弾きっぷりを見ていない人に言っても、わかりづらいと思いますね。やっぱり、音楽はライブが一番ですなあ。
上原ひろみの地元というせいか、恐らくジャズとは無縁な方々も大勢いたようです。後ろの席からは「ねぇ、こういうのってメロディないんだぁ」とか話しているのが聞こえてきて、『メロディ、ちゃんとあるやんけ!』と思わず心の中で突っ込みを入れたくなりました。
会社の人にもたくさん遭遇。ウチの新入社員とか、ウチの事業部長とか、ウチの社長とか、会場で見かけました。

2006年12月16日土曜日

邦人曲の特殊性-交響曲のような組曲

一つのステージで何を演奏しようかと考えたとき、合唱組曲というのはちょうど良いボリュームです。そんなわけで、邦人合唱曲のほとんどは合唱組曲という形で作曲されています。
外国曲はどうかというと、もちろん組曲である場合も多いのですが、単品で書かれることも比較的多く、組曲であることにそれほどこだわりがあるようには思えません。

ただこの問題、単純に組曲で書かれているかどうか、という点だけに納まらない要素があります。
それは、邦人合唱組曲が、単品が寄せ集められて作られた組曲、というよりは、各曲が有機的に結びついたり、組曲全体が一つの作品としての大きなうねりを持つように考えられている、という点です。これは、組曲というよりはむしろ交響曲という感じに近いと思います。
交響曲は全体で一曲であり、各楽章は交響曲という全体の中で演奏されることで初めて意味を持つように考えられています。そのため巨大化した交響曲では、第一楽章の冒頭に立派な序奏があったり、最終楽章の最後はこれでもかという盛り上がりが作られます。第二、第三楽章は、キャラクターの違うスケルツォ、緩徐楽章の小曲が配置され、曲全体に変化が付けられます。

こういった、交響曲的傾向が邦人合唱曲全般に見られると思うのは私だけでしょうか。
私の思うに、日本で合唱に関わる多くの人はクラシック音楽マニアではないかと感じることは多いです。しかも、ここでいうクラシックは、19世紀のドイツロマン派的性格が非常に強いです。もちろん、合唱はポップスか、クラシックか、と聞かれればクラシック音楽に近い傾向を持っているとは思いますが、ブラームスやブルックナー、マーラーのような交響曲と比べると、何か違うような気もします。
恐らく、こういった交響曲指向が、ピアノ伴奏を使う、もう一つの理由になっているのかもしれません。つまり、アカペラより音楽を、よりダイナミックで派手に表現できるからです。
しかし、合唱というのはもともと非常に繊細な音色を持っていて、それを静かな残響のある場所で楽しむ、という感覚が欧米人にはあるのではないでしょうか。その感覚は、ドイツロマン派の大交響曲とは、かけ離れているような気がします。そもそも合唱に何を求めているか、という点において違いがあるのかもしれません。

2006年12月13日水曜日

功名が辻

今年も大河ドラマ、全部見ました。これもHDレコーダのおかげ。
とか言いながら、日曜夜8時のちょっと前に先週分のを見てないことに気付いて慌てて録画を見たりとかで(上書きモードで予約入れてるので)、便利になるのも考えものです・・・。

何といっても、どマイナーな戦国大名の山内一豊(の妻)を主人公としたというのが、良かったのかもしれません。信長も秀吉も家康も、全部客観的に描くことが出来るからです。しかも客観的どころか、かなり悪意を持って描いていたと言ってもいい。信長は「ワシがこの国の王じゃ!」とか言って、半分狂人みたいになってるし、秀吉はボケて失禁しているし。家康はわりとまともだったけど死に際がちょっとマヌケな感じ。
ところが、今回の脚本、敗者に対する思い入れがかなり強いように感じました。具体的には、明智光秀と石田三成。いずれも歌舞伎系の演技者を配し、どこまでも端正で、真っ直ぐなキャラ設定がされていたのはなかなか新鮮。ここまで明智光秀がカッコよくていいのか?というくらい、今までに無い明智像を提示してくれたと思います。これもマイナーな大名を主人公にしたおかげなのか。
全体的には仲間由紀江人気にあやかっている感はありますが、上のような脚本家のこだわりがちらっと見えてなかなか楽しめました。何より、山内、堀尾、中村、というマイナー大名の名前を知ることが出来ました。

来年は信玄ですね。山梨出身者としては、見ずにはいられません。

2006年12月10日日曜日

邦人曲の特殊性-テキストの扱い

前回はテキストそのものでしたが、今回はそのテキストをどのように扱うかという話。
別の視点でいうならば、詩に何を求めているのか、ということかもしれません。となると、自然と話は前回と繋がってきます。
例えば、宗教的なテキストの場合、使われる語句が似通っており、定型的な表現になることも多い。一つの言葉にたくさんの想いや意味が込められていて、その言葉の音響自体が一つの雰囲気やイメージを作り出すかのようです。過去からたくさんの人々が同じ言葉を使い続けていて、その言葉の意味は歴史という地層の中で「意味」を超えた役割を与えられているのかもしれません。
民謡や、その他の土俗的、古代的なテキストも同様の傾向を持っています。こういったテキストに曲が付けられたとき、むしろ曲は言葉の「意味」から解放され、純粋に音楽的な創意工夫のみで作られ易くならないでしょうか。
あるいは、言葉の意味を伝えるという役割より、言葉の音響そのものにその言葉の重要性があったりしないでしょうか。

逆の例で言ったほうが分かりやすいかもしれません。
現代の創作詩の場合、詩自体の意味が大事です。ここで言う「意味」とは、言葉単独よりも、むしろ文章に近い単位となるでしょう。詩を伝える、ということは、詩の内容を伝えるということであり、詩の中の文章の意味を歌で伝えるということです。そういう意味では、ここでいう「意味」とは極めて論理的な要素を持っています。
このような状況において、作曲家は詩の持つ意味を音楽的に表現しようと試み、場合によっては言葉と同じ表現方法を音楽に持ち込もうとします。
こういうスタイルは決して邦人曲特有というわけではないのでしょうが、それでも、多くの邦人合唱曲がそのような表現方法を持っているのは確かなように思います。

歌う側もそれを当然と思っていて、詩が何を主張しようとしているのか、それを合唱の中でどのように表現すべきか、というのが日本における合唱練習の中心課題となっています。
残念ながら、楽曲構造とか、主題の分析とか、そういう音楽的アナリーゼの結果から、自分たちがどのように演奏すべきかというアプローチは、日本のアマチュア合唱の世界ではほとんどされているように思えません。

2006年12月5日火曜日

邦人曲の特殊性-テキスト

エラソーなタイトルを掲げてますが、一マニアの単なるたわ言だと思ってください。かなりアヤしい推論になる可能性がありますので。
そんなわけで、外国曲と邦人曲の肌触りの違いを論ずるなら、やはり何といってもその詩の世界が大きく違うのでは、と思うわけです。
集団が声を合わせて何かを唱えるとき、そこには集団の利益となる何らかの必然が存在するはずです。そのほとんどは、端的に言えば宗教的行為でありましょう。逆に言えば、宗教的行為とは、集団の各自が進んで皆と同じような行動を取ろうとする有様なのかもしれません。
だいたい宗教というものは、過激であればあるほど排他的になります。愛国的な想いも宗教の一種と言えるかもしれません。ある種の激烈さが集団の気持ちを高め、一体感を醸成します。

そもそも合唱というのは、こういった宗教的祭儀の中から生まれたものだと私は思います。
ここで無理やり邦人曲の話に戻すとすると、日本の合唱曲には根本的に宗教性が欠けているのではないでしょうか。それは恐らく、戦後教育や労働運動といったサヨク的土壌の中で日本の合唱が育まれてきた、ということと無縁ではないようにも思えます。だから、国威発揚よりも、国家的犯罪を糾弾するような作品が喜ばれますし、宗教を扱っても、そこには純粋な信仰心よりも、学術的な匂いが嗅ぎ取れます。
また教育的観点から、テキストがどこまでも文学的であろうとしたため、(芸術的と思われている)現代詩の世界に足を踏み入れることになります。私は詩に詳しいわけではないけれど、そういった作品は、どこまでも内省的で観念的、そして陰鬱な気分を持つ印象があり、そういう陰鬱さこそ文学的であり、また歌いこむ価値があると思われている感じがします。

どちらがいいと断じているつもりはないのです。宗教に潜む明快な勧善懲悪的発想は、決して今の世界を幸せにするわけではありません。
しかし合唱の本質と宗教的祭儀の世界が近いものであるならば、邦人合唱にもそういった要素があってもいいのかもしれません。