2007年12月30日日曜日

今年劇場で見た映画07篇

今年の締めくくりに、映画館で見た映画を全部ご紹介。
去年の一覧はこちら

・007 カジノロワイヤル
・マリーアントワネット
・さくらん
・パフューム
・ハンニバルライジング
・バベル
・ラブソングができるまで
・スパイダーマン3
・ユメ十夜
・プレステージ
・300
・ボルベール
・トランスフォーマー
・呪怨 パンデミック
・デスプルーフinグラインドハウス
・ショートバス
・ヱヴァンゲリヲン新劇場版
・プラネットテラーinグラインドハウス
・インヴェージョン
自虐の詩
・バイオハザード3
・キサラギ
・アイアムレジェンド
・クワイエットルームにようこそ

ということで、皆様、良いお年を!

2007年12月28日金曜日

クワイエットルームにようこそ

松尾スズキ監督の「クワイエットルームにようこそ」を観ました。
精神病院の女性隔離病棟に自殺未遂で入れられた主人公、明日香がそこで様々な人と出会い、また自身がそこに入るまでの人生を反芻しながら、二週間で退院するまでの様子を描いた映画。
もちろん、そこで登場する人々は、一癖も二癖もある人たち。心の痛みゆえにその場に居ざるを得ないという、人生の負の部分が凝縮されたような空間。

もちろん、内容は相当シリアスなはずなのだけど、前半はひたすらギャグ中心で、正直、私は涙を流しながら笑ってました。これって、やっぱり演劇のノリなんですね。役者もみんな上手いし、間の取り方なんかも絶妙。
ただ、笑いの方向性というのが、確かにセンスはあるのだけど、ナンセンス系、シモネタ系、自虐系という、ちょっと日本的になってしまうのは仕方ないところか。

正直、全体的に若者視点というか、純文学的なのだけど、興味の対象が自己の内面だけというか、そういった感じが私の感性とはちょっとずれていた感じがしました。太宰治を読んだ後の違和感とでも言うべきか。
主人公の自堕落で自己中心的な生活、もちろん自分でもそれを良いものと思っておらず、常に自責の念にかられているのだけど、現実の容赦ない事件がどこまでも主人公を追い詰める。こういう破滅型キャラだからこそ、分かり合える美学というのがこの映画にはあるのでしょう。
基本的に、ついつい慎重に生きてしまう私には、この映画のような人生は望んでも送れないだろうな、と思ってしまいます。

2007年12月23日日曜日

アイアムレジェンド

「地球最後の人間」というアイデアには、何か惹かれるものがあったのです。
同じネタとしては、私などドラえもんの「独裁スイッチ」を思い出してしまいますね。何もかもめんどくさい~、みんないなくなっちゃえ、と一瞬思っても、そんな状況の空恐ろしさは、ちょっと冷静に考えてみるだけでぞっとします。

だからこそ、何が原因でそうなったのであれ「地球最後の人間」には、そういう究極の寂しさ、果てしもない孤独、という描写が絶対的に必要。そして、この映画、こういったテーマを真摯に取り上げようとしていたことについては、とても好感を持ちました。主演のウィル・スミスも、こういった演技をかなりシリアスに演じきっていたし、主人公のお供をする犬の演技も良かったです、マジで。
なので、できればもっともっと、このテーマを掘り下げて欲しかったなあ、というのが私の感想。

というのも、後半、「あれ、最後の人間じゃないじゃん」みたいな感じになってきたのは、ちょっと何となく興ざめ。
それに、なぜ一人だけになってしまったか、という理由が、ウイルスによる人間のゾンビ化・・・って、もうこの設定あまりに安すぎです。個人的には「バイオハザード」でしか許せない感じ。もう少し別の設定にできなかったもんでしょうか。
脚本的にはもう少し心理劇のような映画に出来た気もしますが、やはり最後にはそれなりのドンパチが無いと興行的にはきっと厳しいんだろうな、などと穿った見方をついついしてしまいます。

2007年12月17日月曜日

アンサンブル・プラネタ

浜松アクトシティ中ホールで開催された、アンサンブル・プラネタのコンサートに行ってきました。
デビューした頃だったか、興味を持って二枚ほどアルバムを買ったことがあります。同じ頃、ついでに編曲を手がける書上奈朋子のCDも買ってみたり。ちなみにそのCD、あらためて聴いてみるとほとんどビョークみたいな雰囲気・・・

さて、コンサートのほうですが、やはり一人一人の歌手の実力の高さはかなりのものと実感。
アカペラ・アンサンブルに必要な音程感はなかなかのもの。ただし、メンバーが変わったばかりの低声部のパートがちょっと乱れた感はありましたけど。
上三人はほぼ同じメンバーで続けているせいか、アンサンブルの持つ基本的な歌い口というか、フレージングの統制が良く取れていて、それがこのアンサンブルの音楽を特徴付けているようにも思います。
最初はPAは使わないのかな、と思ってましたが、クラシカルな発声をベースにしているとはいえ、CDと同じ音を出すためにはやはりPAは必須なのですね。ただ、積極的に音声を加工するわけではなく、あくまでも各人の声の美しさをそのまま引き出すような音響設定なのは好感を持ちました。

さて演奏の質もさることながら、私などどうしてもプロとしてのこのグループの有り様について、ついつい思いを馳せてしまうのです。
歌手とはいえ、歌う前に時間をかけて水を飲んだり、ピッチパイプで音を取ったり、その後ハミングしたり(なんかアマチュア合唱臭い)するのはちょっといかがなものか。この辺りをもっと何気なくできるように研究すべきでは、と思ってしまいました。そういうステージングも含めてプロのやることだと思うし。
そういう意味では、MCなんかもちょっと素人くさいですねえ。
あと、アンコールの一番最後に使うためだけに、ずっと舞台上にピアノがスタンバイされていたのは、やはりおかしいと思います。だってアカペラグループでしょ。

実は、一番気になるのは、アカペラのアレンジ。
CDを聴いたときから思っていたのだけど、正直、かなり凝ってます。クラシックの名曲をアカペラで歌うというコンセプトながら、かなり原曲の世界から自由に離れているし、そういうところにアレンジャーの創作意欲を感じます。
ただ、かなり高音を多用していたり(もちろん、それをこなせる歌手があっての話)、器楽的なアルペジオっぽいフレーズが多いのは、無駄に難しいばかりで、もう少し演奏効果の高いやり方はあるような気がします。まあ、あくまでも私見ですけど。

2007年12月15日土曜日

PD合唱曲に「メヌエット」追加

PD合唱曲シリーズに新曲追加しました。
メヌエット」という曲です。詩はいつもの立原道造。メヌエットということでいちおう三拍子系。

今回は、アップテンポで軽快な曲を作りたかったというのが作曲の動機。日本語のアカペラ合唱曲でアップテンポっていうのは実はなかなか難しくて、曲もそれほど多くないと思います。
歌う側としても、一般的にあまりアップテンポが得意でない方が多くて、まあたいていは単に譜面が苦手ということなんでしょうが、そんなこともあって敬遠されがち。
その一方で、合唱の演奏会で印象的なのは、そういう軽快な曲だったりします。これも歌う側と聴く側で意識の違うポイントの一つでありましょう。昨今の私のテーマでもあります。

アップテンポとはいえ、和音感、ビート感は「la la la」というヴォカリーズ(口三味線)で作りつつ、その上でソロのメロディラインが乗るというのが基本的な形。
だからメロディは、気持ちよく歌っちゃって構いません。逆に、ピッチやリズムにこだわるのは、「la la la」のパートということになるでしょう。転調も多いので、ソルフェージュ的な練習にもなるかもしれません。

興味がありましたらぜひ取り上げてみてください。

2007年12月9日日曜日

楽譜を読む-狩俣ぬくいちゃ

久しぶりの「楽譜を読む」シリーズ。以前はこんな曲を書きましたっけ。

今回は、コンクールで今盛んに演奏されている「狩俣ぬくいちゃ」。実は私、明日演奏します。これで多分、演奏するのは最後です。ちょっとだけほっとしています。
まあ読むといっても、楽譜どおりにまずは頑張ってやるしかないわけですが、あらためて曲全体を見直してみるとかなり欲張りな音楽に思えてきます。
単に手拍子、足踏みがあるという意味ではなく、求められる効果が非常に多彩で、アカペラでありながらシンフォニックな音響を指向している感じがします。同タイミングに違う要素のものが詰まっており、おかげでパートのdiv.も多くなります。
また、もう一つのポイントは、微小な単位でのポリフォニーが多いという点。このテンポで、一拍単位のパートずれがかなり多用されます。この辺りは曲を立体的に見せるために大いに工夫したい箇所です。

和声的には、沖縄のスケールをしかもポリフォニックに処理するため、むしろ機能和声的な側面を敢えて抑えていて、そのあたりがとてもいい効果を上げています(4度堆積のハーモニーにもちょっと注目)。
ですから、全体的にはハモる、ハモらない、にこだわるより、旋律の力強さでぐいぐい押し通すのが、恐らく正しい演奏なのでは、と感じます。ただしよく出てくる五度のハモリにはこだわるべきでしょう。

問題の終盤、ここでの手拍子、足踏みは、もはや作曲者による演奏者へのイジメのようなもので、おおよそ演奏し易さを考えたものではありませんが、それがコンクールという世界観の中では、ある種の達成感を感じさせる要素にもなっているのでしょう。
個人的にはこの箇所、不必要に難しい気がしますが、夏に聞いた名古屋少年少女合唱団の狩俣を聞いて、工夫すればこんなにも面白い演出が出来るんだと、別の意味でこの音楽の可能性を感じました。
むしろここは、楽譜からどの程度まで離れて、演奏者のセンスを光らせるかが試されているのかもしれません。


2007年12月4日火曜日

今年も大感激、上原ひろみ

今年も行ってきました。上原ひろみの浜松公演。
昨年の話題はココ
掛け値なしに素晴らしい、と私は言いたい。世界で最良の音楽の一つだと言っても過言ではないと、個人的には思います。
ワイルドな弾きっぷりも健在。インプロビゼーションがどんどん高揚していく感じは、もうライブでしか味わえない快感ですね。超速弾きなど、各メンバーがこれでもかという名人技を繰り広げます。
今回はギターも参加して(楽器はダブルネックだった)演奏者は全部で4人。
上原ひろみのセットも、ピアノ+いつもの Nord Lead の他に今回は Nord Stage も(エレピ用)。サウンドは全体的に豪華になりました。

それにしても、スリリングなアンサンブルとは、まさにこういう音楽のことを言うと思うのです。
敢えて、テンポの速さや複雑なリズムなどで、自らに高いハードルを課し、それを阿吽の呼吸でピタッと合わせることを最上の喜びとしているような人たち。
私もそんなギリギリのアンサンブルを体験してみたいものです。
こんなキレの良いリズムを日頃演奏している人にとっては、合唱で求められるリズム感などハエが止まるほどの生ぬるさでしょうね。
もっと、合唱にもキレのあるリズムを、私は切に求めたいです。

2007年12月2日日曜日

再び、聴いて楽しい曲

先日のヴォア・ヴェールの演奏会でアンケートをとり、その中にどの曲が面白かったか、という設問があったのですが、集計の結果、今回は面白いほどばらけていました。

今回は、組曲毎に1ステージという形を取らず、一つのステージでいろいろな曲をごちゃ混ぜにしました(コチラ参照)。おかげで一つ一つの曲に対して、お客様が意識して聞いてくれるような雰囲気をうまく作れたような気がしています。
��もちろん、第二部の「母音」は組曲ステージでしたけど)

一般の人が知っている曲を「良かった」という人は、いつでも一定量いるものです。だから、多くの合唱団では、唱歌系やポピュラー系(といってもかなり古め)のステージを作ったりするわけですが、そういうステージが必要だと考えること自体、その他のステージの存在意義を危うくすることになりかねないと思います。
今回、当然のこと、ノスタルジアの「村の鍛冶屋」「みかんの花咲く丘」にも人気は集まっていますが、実はそれと同じくらい、「狩俣」やマンチュヤルヴィや「母音」の各曲も気に入っていただけた人がいて、大変嬉しく思うと同時に、初めて聴いても面白い音楽、演奏はあり得ると確信したりもしています。

ただ、大まかに言っちゃうと、純粋合唱曲の中では、テンポが速い、音量が大きい、振りが付いている、歌以外の音がある、という要素があるほうが人気があったようです。
もちろん、シブいシリアスな音楽の良さを伝えることも大事だけれど、みんながそういう音楽を要求するのなら、それに答えるのだって重要なこと。
薄々気付いていたことを、今回の演奏会を通して、あらためて感じることが出来ました。

2007年11月27日火曜日

演奏会無事終了です

昨日開催しました、ヴォア・ヴェール第三回演奏会、無事終わりました。
久しぶりの演奏会だったし、今回は司会付きで細かい出入りもあったので、ステージングにもいろいろと不安もあったのですが、まあ終わってみれば何とかなるもんだなあ、と感じています。
肝心の演奏のほうは、まあいろいろ事故はあったものの、それも含めて我々の実力なのかあ、というところ。いつもより大振りになった指揮がわかりにくかった、と私も後でずいぶん苦情を言われました。
まあ、それでも全体としては良くできたと思っています。
��とりあえず、個人的には「狩俣ぬくいちゃ」がちゃんと叩けてホッとしています・・・)

ところで、演奏会にこられた方、「五つの母音の冒険」初演はいかがでしたでしょうか?
アンケートでは、"E"に人気が集中していましたが、それってやっぱり演出のせい?音楽じゃなくて・・・
そのあたり知りたいですね~。率直な意見が聴きたいです。
初演の音源も出来たので、私も曲の紹介がし易くなりました。楽譜も何とかおおやけにしたいな、と思っているところです。

2007年11月19日月曜日

キサラギ

何と全編、舞台はたった一つの部屋。そして登場人物は男五人、というまるで小演劇のような映画です。
しかし、これは面白い!
笑って、驚いて、そして最後は泣いて、しかもそれが数秒単位でめまぐるしく変わっていく疾走感溢れる流れ。何といっても、この映画の面白さは、脚本の素晴らしさ、及びそれを演じきった五人の役者の素晴らしい演技にあったと言えます。

ストーリーは、1年前に自殺したB級アイドル「如月ミキ」の一周忌をやろうと、ネットの掲示板で知り合った人たちが集まるところから始まります。みんなハンドルネームで語りながら、初めまして、というシチュエーションは、Niftyのオフ会を思い出しますねぇ。
しかし、しばらくして最初の和やかな雰囲気は、あっという間に消え去り、如月ミキは自殺ではなかったのでは?という問いかけから、男五人の凄まじいまでのやり取りが始まるのです。

どんな話をしても、全てネタバレになってしまうので(ストーリーの流れは、新事実が判明する驚きの連続です)、これ以上は内容は書けないのだけど、もう一つ一つのエピソードがうまく練られていて、伏線の張り方もとてもうまい。それでいて、こんなストーリーで最後泣けるとは予想もできませんでした。
ただし、ラストシーンはちょっと余計だったかも。そこだけが残念かな。

どうも最近の邦画って、キムタクものとか、フジテレビものとか(同じか)、子供向けとか、誰か最後に死ぬやつとか、そういう個人的にあんまり興味のない映画はヒットしているのに、先日見た「自虐の詩」とか今日見た「キサラギ」とか自分が気に入った映画のほうが、商業的に成功しそうもないのはどうしてでしょう。(日曜の昼なのに今日の観客も少なかったなあ)

私は、こういう脚本も演技も技巧的な映画ってクリエータ魂を刺激され、とても感銘を受けます。
決して高尚なテーマじゃなくても、敢えて俗っぽいアプローチでも、芸術性の高い映画って絶対あり得ると思うのです。

2007年11月17日土曜日

「五つの母音の冒険」全曲初演します

昨年、朝日作曲賞を頂いた拙作「五つの母音の冒険」を、次の日曜日(11/25)に全曲初演する予定です。
詳しくはヴォア・ヴェールのページで。

とはいえ、正直、作曲賞応募を意識した曲なので、ウチの合唱団のようなフツーのアマチュア合唱団にとって、かなり難しいのは確か。10ヶ月近く練習してきても、未だに調子外れの音を出したり、落ちる人がいたり・・・で、まだまだ本番での心配のタネはつきません。メロディを気持ちよく歌って楽しむ、というような曲で無いのは確かです。

その一方で、自分の中では確実に一般の合唱曲と違うテイストを持っているという自覚があって、それが特に合唱を普段聴かない人にどのように聞こえるのか、大変興味を持っています。
「A」では、対位法的な方法でパートが重層的に重なる様子とか、その中に現れるシンプルで土俗的なメロディの対比とか、その辺りが聴きどころ。
「I」は、何しろ圧倒的なスピード感と、全く合唱らしからぬ瞬発的な表現が特徴。
そして今年の課題曲「U」は、ある種サウンドスケープ的な音像と言えるかもしれません。
「E」は、音のある小芝居というか、寸劇的要素があって、それがどこまで理解してもらえるかがポイント。
「O」は基本的な骨格は変奏曲なので、そのような曲調変化を楽しめるし、最後の壮大なコラールで組曲を締めくくる爽快感もあると思います。

いずれも、作った自分の感覚での話ですが、これがお客様に伝わるか、演奏がそれほどうまくなくても(もちろんまだまだ努力しますよ!)それでも伝わるプリミティブな音楽の力があるのか、そういった点を是非、聞いてみて欲しいと思っています。

2007年11月13日火曜日

東京の全国大会を満喫

今年も行ってまいりました。合唱コンクール全国大会。
演奏だけでなく、いつものあの人、懐かしいあの人にも会えて、いろいろ楽しかった二日間。
いろいろなことを織り交ぜて、トピックごとにご紹介。

●注目のG4、全国では一団体(ちょっと寂しい・・・)
というわけで、拙作、課題曲G4ですが、歌ってくださったのは、職場の部、日立CSPのみでした。
実は、CSPはその昔、関東大会で私が在籍した団体と全国大会を争っていた良きライバル団体なのですが、我々は団員不足で団がほぼ消滅。かたやCSPは晴れて全国大会の舞台にのることになって、個人的には感慨深いものがあります。そんな彼らが拙作を歌ってくれたのも何かの縁でしょうか。
演奏後、挨拶に行ったらその場のノリで、記念写真に納まってしまいました。その後、指揮者の辻志朗さんとも曲のことなど語り合えたのは嬉しかった。
演奏は少人数ながら、各パートが彫りの深い表現をしてくれていて、曲の雰囲気を良く伝えていたと思います。
どうもありがとうございました。

●今ひとつ不発のG3、いささか食傷気味のG2
混声課題曲については、G4も取っ付きにくいし(結局自分で言っている-_-)、いろいろな団で選ぶのに苦労されていたかもしれません。
G3は大学中心に何団体か歌っていましたが、まだあの曲の魅力に対して突込みが足りないと私は言いたい。「クレーの絵本」の詩っぽく表現するならこんな感じ。「まじめなひとが、まじめにギャグをする・・・サムい。」
声色まで変えて表現を工夫していた、O久保混声の演奏が一番面白かったですが、さらにもう一つヒネリが欲しかったです。福岡教育大学の「ハクション・・・!」は面白かった。(うーん、結局演出の批評になってますが)
それから、G2を演奏した団体が非常に多く、審査基準としては良かったのかもしれないけど、曲自体ちょっと好みではなかったし、あんまり歌う団が多くてきちんと聴いてませんでした。すいません。

●今年の面白かった曲
会津混声の「Weather Report」はいいですね。今風のハーモニーと軽快なリズム感が心地良い作品。これは、また来年以降流行るかも。楽譜もゲット。
岡崎混声の委嘱作「廃墟から」も今までの信長作品とはちょっと肌合いが違う興味深い作品。曲調が様々に変化するのが面白いです。近いうち全曲初演されるようです。
リゲティの「Lux aeterna」は、もはや古典とも言える作品ですが、あらためて聴くと、なかなか面白いかも。(その後、今井さんに曲解説してもらって、さらに興味が沸いた(後述))

●そして最高に素晴らしかった、なにわコラリアーズ
古今東西の合唱曲で、私が最も素晴らしい曲の一つだと思っているトルミス「鉄への呪い」。
これをなにわコラリアーズが演奏するのですから、もう演奏する前から期待度ビンビンです。
そして、期待を裏切らない素晴らしい迫力、そして演出。この曲には振りの指定があるのだけど、その指示をさらに拡大解釈して、独自の振り付けをしていました。そのタイミングと、曲のイメージとのマッチがまた素晴らしかった。
音楽のメリハリや、厚みのあるハーモニーもいつもならでは。私の中では、今年の最高の舞台でした。
��本来、8分30秒で出来ないような気もするのですが、どこか省略していたのかは定かではありません・・・)

●噂の「かつてない二次会」に潜り込む
本番に出ていないくせに、合同二次会に参加。
想像以上のスゴいノリに圧倒。そりゃ声自慢が一つの部屋に集まるんだから、うるさくならない訳が無いですね。超ロングの乾杯コールが圧巻。
都連の方々、またいろいろな団の方とお話できて楽しかったです。
指揮者の先生方とは、清水敬一さん、グリーンウッドハーモニーの今井さん、ESTの向井さん、MODOKIの山本さんといろいろと興味深い会話が出来ました。
おかげで、歌いに来なかったにも関わらず、全国大会に参加したような気分になって、帰途に着くことができました。

2007年11月10日土曜日

ネット時代のアーティスト

前回紹介したレディオヘッド。
実は、最近非常に面白い音楽の売り方で話題になっています。
例えばこちらをお読みください。
メジャーレーベルとの契約終了後、自分たちでネットで直接、新作のダウンロード販売を始めたのです。しかも価格は「あなた次第」。

記事の最後にあるように「無料ダウンローダーに対応した新しいビジネスモデルを考える時が来た」というのは、まさに私の予期した未来です。
つまり、将来的には全てのデジタルコンテンツは無料にならざるを得ないのでは、と私は思っています。それは、有料にするためにセキュリティをかけたり、コピー制限をかけるような仕組みの技術的コストがバカにならないからです。だって、ただ配るだけならファイルをサーバに置くだけで終わりですからね。
ただ残念ながら、無料になることを肯定した場合の経済的な仕組みまでは、全く予想がつきませんが。
いずにしても、時代は変わっていきます。
街から写真屋さんが消えていったように、レコード会社やCDショップもそのうち消えていくことになるでしょう。

この試みが、レコード会社、他のアーティストなどにどのように影響を与えるかが楽しみ。

2007年11月6日火曜日

Radioheadを聴く

Okcomイギリスのロックバンド、Radiohead(レディオヘッド)を最近聴いています。と言っても、まだ「OK Computer」と「Kid A」のみですが・・・。
ちなみに、3rd Album「OK Computer」は1997年リリース。「Kid A」は2000年。実はすんごい昔のアルバムです。

何度も聴いているうちにどんどんはまってきます。この感じは・・・そう、往年のプログレの雰囲気。といっても、やたら速弾きとか、長大な組曲とかそういうのではなくて、初期キングクリムゾンのような、退廃的でメランコリックな感じがすごくプログレっぽいのです。
その一方で、何かメカニカルな感じも持っていて、サウンドに対する先進性も併せ持っています。わずかに現れる変拍子もプログレ感を感じさせる要素。

「OK Computer」は、世界的にも大ヒットした作品だそうで、かっこいい曲がいっぱいあります。
冒頭の「Airbag」、エレキギターの主題が始まった瞬間から、何ともいえない壮大かつ悲しげな世界が広がります。二曲目の目まぐるしい曲調の変化も面白いし、終曲の寂寥感も美しい。
「Kid A」は、ギター中心のバンドの音から、電子音を多用したサウンドに変化。ミニマルな雰囲気の中に、ヨーロッパ的な哀愁が漂う、雰囲気のあるアルバム。

mixiで、Radiohead のコミュを検索していたら、何故か「病的な曲が好き。」とかいう名のコミュがヒットして、そこで語られているアーティスト名を見て、そうか、自分って病的な曲が好きだったのか、と複雑な想いを感じているところ。

2007年11月2日金曜日

ネット時代の著作者

ネットを賑やかすたくさんのシロートクリエータ達。
彼らの欲しいものは、作品を閲覧したときに発生する著作権使用料でしょうか。
もちろん、お金は欲しいかもしれない。でも、お金を取ろうとすれば、誰も見ても(聞いても)くれないことは自分自身の行動を見ても明らかなことです。
お金を取る以前に、一人でもたくさんの人に見て(聞いて)欲しい。そしてあわよくば感想などを聞かせて欲しい。それが賞賛の言葉ならなお嬉しいのです。「たくさんの人」は自分の身の周りの人でなく、不特定多数の人であるほうがなおのこと、評価が客観的なような気がして嬉しい気がします。

結局、金銭的な報酬とは、不特定多数の人々の間接的な賞賛を意味しているのだと思います。そうであるなら、本来クリエータが欲しいものは、お金そのものでなく「自作品を鑑賞した他人の賞賛」なのではないでしょうか。
私自身の気持ちも全くそのとおりなのです。お金よりもまず、自作品を認めて欲しい、それが有名でないクリエータの偽らざる本音だと思います。

そして、ネットが少しずつ、そういった草の根クリエータの作品の提供の場を増やしていっています。
音楽も、文章も、イラストも、動画も、今や簡単にネットで閲覧することが可能になりました。
プロフェッショナルな芸術マーケットがビジネスとして成り立たなくなったとき、そこに金銭的損得とは別の価値観で評価されるような、新しいクリエータたちが生まれてくるような気がしています。

2007年10月28日日曜日

自虐の詩

もはや慣用句となっている「ちゃぶ台をひっくり返す」。
この言葉を、そのまま映画にしたらどうなるんだろうという企てで作られたような映画。
前半に集中する、阿部寛のちゃぶ台ひっくり返しは、芸術的とも言えます。これをしっかり捉えたカメラワークも素晴らしい。
ごはんが、味噌汁が、寿司が、うどんが、とんかつが、宙を舞って飛び散る、そこに潜む美学に日本人なら誰でも心打たれるはず(ほんとか)。ちゃぶ台返しにここまでこだわった映画はきっと今までになかったことでしょう。
ついでに、畳ごとひっくり返したときに、床下からねずみが飛び出していたのはCGによるシャレだと思われます。

さて、この映画の基本的な内容は、貧乏で社会の底辺を這って生きているような人々が、幸福って何だろう、と考えつつ、笑いあり涙あり、の日々を描写したものです。
正直言って、「嫌われ松子の一生」と中谷美紀のキャラがほとんどかぶっています。中谷美紀は完全にこの手の人物がはまり役になってしまった感あり。ストーリーも「嫌われ松子」に近い雰囲気を持っているのですが、中学時代のエピソードなど、微妙なリアリティがあり、後半は結構涙腺が緩みっぱなし。
泣いて笑えるなかなか面白い映画です。

2007年10月26日金曜日

ネット時代の著作物

微妙に前回とタイトルは違います。
著作物から、どうやって使用料を取るか、と考えている一方で、ほとんどお金にならない著作物を作り続けるたくさんのシロートさんがいます。
無論、著作物のレベルが低いことがシロートさんである所以なのですが、それはあくまで一般論。私の思うに、アマチュアであっても非常に芸術性の高い著作物を作れる人は少なからずいます。
そういう人たちが、なぜプロとして活躍していないかというのは実に牧歌的な疑問であって、どんなジャンルでも有名になれる人はほんの一握り、明日の飯の心配をしながら商業主義に魂を売るくらいなら・・・と考えるアマチュアが多くても何の不思議もありません。

しかし、そういうアマチュアクリエータが活躍する場がだんだん増えています。
例えば、ちょっと前に書いた「初音ミク」が流行っているニコニコ動画。「何という才能の無駄遣い」というコメントが誉め言葉として動画を流れていきます。
これに関しては、IT関連の論者たちもいろいろ注目しているらしく、才能が才能を呼び起こし、新しい価値創造のあり方として、無名な者同士のコラボレーションが大きな流れになるかも、と論じられています。
テレビ、雑誌といった媒体で、レコード会社、出版社などがアーティストを売り込む、という方法が緩やかに衰退していき、その代わり、ネットの中で利害とは無関係な人々が、コンテンツの楽しさ、凄さを論じ合う、という時代になれば、まさに芸術の世界にプロが必要なくなることになるかもしれません。

2007年10月23日火曜日

ネット時代の著作権

PD合唱曲に関連して、ちょっと著作権のことなど。
ネット環境が発達した昨今、音楽や映像も簡単にコピーし、ネットを通じて世界に公表することが出来るようになりました。
そもそも、インターネット以前の社会では、レコードもビデオも実際のモノが無ければその中身も鑑賞できなかったし、そういったものを情報の劣化無しにコピーすることなんか出来なかったわけです。ところが、今の技術をすれば、情報は完全にモノから分離され、ネットワーク上で自由にやり取りが可能になってしまいました。
ですから、前時代的なものさしで著作権を運用することにはやはり無理が生じてきます。

今は私的録音補償金と言って、私的録音による損失金額を、メーカがMDなどに上乗せして売って、それを権利者に還元する制度があります。
今、その補償金を、iPodやPCからも徴収しようという話もあるようです。それを言ったら、メモリカード、USBメモリ、HDなど、全ての記憶媒体から補償金を取らなければいけませんが、そこには必ずしも著作物のコピーが置かれるわけでもありません。
そんなわけで、補償金制度も破綻しかかっているようです。

著作物を簡単にコピーできるような技術は悪いものなのでしょうか?
私たちはもうそんな便利な世の中に慣れきってしまいました。今ここにあるデータを、他人に渡すのはあまりに簡単です。でも、そんなに簡単に「悪いこと」が出来てしまう世の中も何かおかしい気がします。

2007年10月17日水曜日

PD合唱曲

PDとは Public Domain のこと。つまり著作権が切れて、誰もが自由に使える著作物のことです。
さて、実はPD合唱曲シリーズと称して、ネット上で自作品をPDFで公開しようという企画を始めました。これらの作品は、Public Domain として著作権を行使しません。
そういえば、以前もこんなことを書いていました。もともと、職業作曲家であるという意識はさらさら無いし、作曲したら演奏されてナンボだとも思っています。であるなら、ネットの特性を生かして、広く自作品を公開してしまおうと考えるのも自然ではないでしょうか。

とはいえ、全部の作品を公開するわけではありません(すでに出版しているものもあるし)。
今のところ、愛唱歌的なシンプルな曲を一曲単位で公開しようと考えています。むろん、詩は著作権処理の必要の無いものを使わざるを得ません。
シンプルとはいえ、多少実験的なことも試みてみたいです。実験的といっても超複雑、とかでなくて、もっとジャストアイデア的な感じで。
早速、一曲作ってみましたので、ぜひご覧ください。

ネット上を探すと、例えばこんなサイトがありますね。著作権の切れた作品を PDF でダウンロードできます。
もちろん、PD なので、ほとんどが古い曲なのですが、なぜか生存中の作曲家の曲もあります。これって、やはり作曲家が著作権を放棄したってことなんですよね。

2007年10月13日土曜日

好きな古代文明、嫌いな古代文明 その2

中南米、というか、もう限定しちゃうとアステカ、およびインカは、かなり気になる古代文明です。
そもそも、アステカ、インカを古代文明とするには、年代は新しすぎるのだけど、デアゴスティーニ的にはやはりこのあたりは外せないのでしょう。
なぜこれらが気になるかというと、世界史の中で、進んだ文明とある種遅れていたと言っていい文明が出会う、という非常に稀有な出来事があったからです。結果的には、いずれも進んだ文明(スペイン人)によって両文明は滅ぼされてしまいます。もちろん、ここで「進んだ」と言っているのは、単純に武器とかというような技術的な面なのであって、王様が国を治めているという点では、実は政治的にはそれほど違わなかったのかもしれません。
技術力や価値観の違う二つの民族が出会ったとき、どのようなことが起きるのか、それを最も極端に示したのが、スペイン人とアステカ、インカとの出来事であり、そこから私たちが学ぶべきことは多いと思うのです。

さて、「嫌いな」古代文明、というのはさすがに言い過ぎかもしれませんが、あんまり好きではないのは古代中国でしょうか。特に理由があるわけでないのだけど、どうも私のイメージでは、中国の歴史って有史以来、とても画一的な感じがしてしまうのです。戦国時代を除けば、王朝はだいたい同時に一つだし。
真面目に勉強すれば違うのだろうけど、ヨーロッパやメソポタミアのようなダイナミックさがちょっと無い感じがします。
そうか、エジプトがあんまり好きでは無いのは、同じ理由なのかもしれませんね。

2007年10月6日土曜日

好きな古代文明、嫌いな古代文明

Ancient前も一度さらっと書きましたが、デアゴスティーニの週刊「古代文明」を購読中。
これってよくよく考えると、毎週560円、全100回とすると、何とトータルで\56,000。特製バインダー代まで入れたら、6万円近い買い物です。普通なら、6万円の古代文明事典なんて買いはしないわけですが、週刊というスタイルだと毎週目を通せるし、何だか許せてしまうんですね。デアゴスティーニ恐るべしです。

しかし、それにしてもこの週刊古代文明、なかなか面白いんですよ。
古代文明っていうのは、当然ながら歴史としてわかっていることもあるし、わかっていないこともあります。史実なのか、伝説なのかわからないこともあります。
その結果、このシリーズは、歴史でもあり、考古学でもあり、科学的側面もあり、その一方で神話もあり、オカルトもあり、今に伝わる料理や風俗の発祥の話とかもあり、内容が非常に多岐にわたっています。前週では、ダーウィンまで出てきたし(古代というよりは、もはや地質時代の話…)。

その中で個人的に好きな地方の古代文明というと、ヨーロッパ系(ギリシャ、ローマなど)、メソポタミア、中南米(アステカ、インカ)といったところでしょうか。ヨーロッパ系はまあわかってもらえると思いますが、普通古代文明というとエジプトが有名。でも私的には、エジプトよりメソポタミアが好きですね。
人類史の中で、恐らく最も早く発展を始めたのが、このメソポタミア地方。農業や牧畜の開始も、文字の始まりも、国家の始まりも、かなりの部分でメソポタミアが先行しています。特に、楔形文字を使い始めたと言われるシュメール人は、その後の旧約聖書的世界と重なることもあり、結構興味を持っています。

2007年9月30日日曜日

進化しすぎた脳/池谷裕二

脳科学の最前線について、中高生に講義した内容をそのまま収録した、というのがこの本の記述方法。
内容は正直言って、かなり深いです。それが、講義という形式のため、しゃべり口調になっていて柔らかいので、何となく頭に入ってきやすい。それに、話もときどき脱線していて、あたかもその場で講義を聞いていたような気分になったのが面白かった。そういった本の構成のうまさが良い方向に作用したように思います。
講義を受けていた中高生がやけに理解力が高いのは、講義をした学校のせいなのかはわかりませんが・・・

いくつか興味深いポイントはあるのだけど、身体が脳のあり方を規定している、という考え方は、重要な点だと思います。確かに脳が身体の動きを制御しているのだけど、それは逆に言えば、身体からの刺激が脳を働かせているとも言え、脳はそれに見合うように成長していくわけです。
ここで池谷氏が示唆している話が面白い。神経細胞をコンピュータでシミュレーションすれば人工知能のようなものは出来るかもしれない。しかし、人間と同じ身体を持たないコンピュータ上に作った意識は、人間には理解できないような意識が出来てしまうかもしれない、といった内容。
私たちは、自分たちが頭の中で考えている内容を、自由意思などといって、全て自分の意識で制御可能だと思っているわけです。ところが、そういった判断の一つ一つが実は生物としての基本欲求から来ていたり、脳内のあるランダムな要素で説明できる可能性があるのです。
そういう意味では、自由であると思っている「思考」までも、人間という枠組みから逃れることは出来ないのだと思います。

科学者論とか、研究論にまで話は脱線したりして、理系人間にはかなり楽しめる本です。科学は宗教かもしれない、というのは私も大いに同意。著者の学問に対する姿勢、研究ジャンルを超えた探究心には強く共感します。

2007年9月28日金曜日

東京事変「娯楽」のメロディ

Variety東京事変のニューアルバム「娯楽」を購入。今回のアルバムの大きな話題は、椎名林檎が一曲も作曲せず、全ての曲を他のメンバーが作ったという点。「林檎の」バンドだった東京事変から敢えて林檎色を薄めるという挑戦は、ある意味、非常にコンセプチュアルであると言えます。

ファンなら色々と賛否両論あるでしょうが、それはひとまず置いといて、この「娯楽」をネタに、各メンバーのメロディの特徴など考えてみます。
まずベースの亀田氏のメロディは、J-POPの王道的メロディ。なんとも卒がなく、良く出来ている。J-POP界で多くのアーティストと仕事をしている彼のメロディは、逆に言うと歌手を選ばない一般性があります。
次にギターの浮雲氏。この人のメロディはシブい。敢えてメロディが甘くなるのを避けている感じがします。そのため、メロディが鋭角で、同フレーズの繰り返しも多い。耳に残りやすいのですが、一般性は逆に低い感じ。
最後にキーボードの伊澤氏ですが、割とJ-POP的な要素を持ちながらも、ちょっとクセがあります。同じく繰り返し型のメロディが多く、サビで音域が高くなる。また、メロディの終止があっさり気味。キーボーディストにしては、ひねりが少ない人だなという印象。

以前、椎名林檎の書くメロディについて論じました。東京事変から、こういった特徴を持つ林檎のメロディが無くなったことで、かなりバンドの雰囲気は変わったと思います。

それにしても、メロディには、かなり作り手の個性が出るものです。
気が付いたらそうなっていた、ということもあるし、頭に浮かんでも自分が書くメロディとして絶対許せないというものもあるでしょう。あるいは、積極的に人工的に音の配列を考えることだってあります。
そういうことの総体が、メロディの書き手の個性に繋がっていくわけです。

2007年9月25日火曜日

ヱヴァンゲリヲン新劇場版

アニメオタクとは程遠いつもりの私ですが、なぜかエヴァは気になるので、見に行ってきてしまいました。しかし、あのエヴァブームからはや10年。中身はすっかり忘れ去っていました。
そういう意味では、また新しい気持ちで見たことになったわけですが、いややはりなかなか面白いです。ロボットアニメのフォーマットを借りながら、子供向けアニメとは全く次元の違う世界が展開されていきます。

私の感じるところの、エヴァの面白さをいくつか挙げてみましょう。
・聖書や精神医学などの言葉を多用した衒学趣味。結局のところ、よほどのマニアでないと言葉の意味が全部わからないハズ。原作者さえ論理的整合が困難になるほど、いろいろな要素が詰め込まれ、しかもほとんど作中で詳細な説明がされない。
・ロボットアニメなのに、すごく生物的でグロい。使徒も気持ち悪い死に方をする。ロボットだから強い、という方法論を捨て、生き物的だからしぶとく、そして制御が難しい、という新たな価値観を提示している。
・内省的で引きこもりがちなナイーブな少年、少女の気持ちの表現がリアル。典型的なアニメ的セリフの中に、ポロリと非常に純文学を思わせるセリフが点在する。
・いわゆる今までのロボットアニメにはあり得なかったような、少年視線でのエロチシズム表現が多い。

そんなわけで、続編も楽しみにしてます。

2007年9月24日月曜日

工業製品の芸術性 意味にはまる

工業製品にも芸術性という尺度はあり得ます。ということは、それを設計、製造するメーカーにも芸術性が求められるわけです。
だからこそ、そもそも芸術性とは何なのか、その本質的な部分を考えてみたいのです。恐らく、芸術性を感じられる製品と、そうでない製品には、何らかの差があるはずだし、まさにその差に注目することが芸術性とは何かを考えるきっかけになるでしょう。

芸術性なのだから、色使いとか、造形とか、コンセプトとか、メッセージとか、そういうものがうまく調和して表現されている、というのがやはり必要なことです。言ってみれば、それらは芸術性が外面として現れる要素です。
何をもって、これらの組み合わせにセンスを感じるか、それはもう私には理論的に解明のしようが無いと感じます。それらは結局、一言、センスがある、ない、といったレベルの議論に収束してしまうからです。
しかし、そういったセンスのある外面性を出すために必要な条件というのなら、いくつか思いつきます。

例えば、コンセプトとか言うと、芸術性にちょっと疎い人は、どうも大層なお題目を言ったりとか、言葉の「意味」にがんじがらめになってしまう傾向があるように思います。意味を考え始めると、健全かつ建前的な方向にどんどん向かっていくことが往々にしてあります。そして、本来芸術が人の心を揺さぶるために持つはずの一種の毒が、そこでますます失われていくのです。

一つの例として、まずある新製品を出す際のコンセプトを考えてみることにしましょう。
こんな意見が出たらどうでしょう、例えば「平和」。もちろん、平和であることは素晴らしいことだし、戦争を続けている地域に対する憂慮も表現できるかもしれない。非常にポジティブかつ社会的に健全な主張です。しかし、題目が抽象的で製品の外面にどのように反映させるかは、大変難しそうです。
ではもう一つの意見として、「クラゲ」はどう思います? いや、単に今、私が思いついただけなんですが・・・。なぜ、クラゲなのか?後付けでなんらかの意味を付与することは可能ですが、究極的にはそこに意味はありません。ただ、ナンセンスでシュールな取り合わせが、人々の心を惹きつける可能性を上げるかもしれません。
もしかして、芸術性というのはこんなことの積み重ねかなと思えます。だからこそ、意味を議論するような会議の場で、芸術性を作り出すことはほとんど不可能のように思えるわけです。

2007年9月21日金曜日

工業製品の芸術性

iPodが売れているのは、スティーブ・ジョブス個人の芸術的センスによるものが大きいのでは、と前に書きました。
最近では、携帯で au デザインプロジェクトなんてのもあって、デザイナーの名前が結構前面に出されたりもしています。そういう例などを見ると、工業デザイナーみたいな人たちが、個人の名前で活躍できるような土壌が生まれつつあるような気がします。

何か電気製品を、例えば掃除機を買いにいったとき、掃除機とは思えないようなとても奇抜なデザインで、聞いたことがあるような名のデザイナーが「私がデザインしました」なんて、宣伝文句が書いてあったりすると、やはり私なんか気に留めるような気がします。もちろん、そのデザインがただ奇抜なだけじゃなくて洗練されていて、センスのいいものだったりするなら、もしかして買ってしまうかも。
もちろん、まだまだ性能重視で買うかどうか決める人もいるし、逆にデザインを強調したようなものを嫌う人もいるでしょう。
それでも、確実に私たちの身の回りのものに、デザイン的な価値観や、そのモノの存在感のようなものを求めている比率は高まっていると思います。

だからこそ、それを選ぶ我々の芸術的審美眼、センスも試されます。
そしてもちろんのこと、そういう製品を作り出すメーカーのセンスも問われます。
では、そのような芸術的センスを持った製品を作り出すには、どのようにしたらいいと皆さんは考えるでしょうか。
敢えて反感をもたれる表現をするなら、会議や議論の中でモノゴトを決めようとすればするほど、商品の持つ芸術的パワーは落ちていくように私は感じられます。

2007年9月16日日曜日

「初音ミク」がブレークしている

8/31に発売された歌声合成ソフト「初音ミク」が、販売元も想像しなかった売れ行きで大ブレーク中なのだそうです。HPはこちら
これは何かというと、数年前から発売されているVOCALOIDという歌声の合成技術を元にした製品。打ち込んだ楽譜データに歌詞を入力すれば、その通りに歌声の音声ファイルを出力するというもの。今回そのエンジンが新しくなり、VOCALOID2として生まれ変わりました。そして、その第一弾となったのが、「萌え系」に特化した初音ミクというわけ。

もともと、VOCALOIDは音楽制作系の人たちが使うための、どちらかというと専門性の強い製品として出されたのだけど、一部のオタクが、アニメの曲を歌わせたり、恥ずかしい歌詞を歌わせたり、というアヤしい使われ方をしているというのは聞いていました。
今回は、それを逆手にとって、萌え系ボイス&ボーカルのキャラ全面出し作戦でいったところ、これが想像以上の反響となったようです。
YouTubeやニコニコ動画にも続々とデータがアップされています。アマゾンでも現在ソフトウェアの売れ行きナンバーワンとなっています(実際には出荷が追いついていないらしい)。

さて、このVOCALOID、以前より私は大変興味を持っていたのです。
例えば、合唱団で音取り音源を作ったりとか、私のように編曲、作曲をやっていれば、本物の歌手に歌わせなくても、歌詞付きの音源が作れたりします。一向に音が取れない団員より、VOCALOIDのほうがよほどいいかも・・・、などという気分にもなるかもしれません。

とりあえず萌え系でブレークして、世間一般に認知度が高まれば、さらにいろいろな歌手のソフトも出てくるはず。きっと私もいずれ手を出すんだろうなあ、と思っています。

2007年9月11日火曜日

ノルウェー・ソリスト合唱団 in 名古屋

昨日、名古屋しらかわホールでのノルウェー・ソリスト合唱団の演奏会に行ってきました。
二年前の京都でのオスロ室内合唱団の感動を再び、というわけでこのコンサート楽しみにしていました。

全体的に言えば、大変素晴らしいコンサートだったと思います。
オスロ室内の圧倒的な感動とはまた違いましたが、ソリスティックな発声と、制御され統制されたアンサンブルが織り成す高レベルな室内合唱の世界を堪能しました。
冒頭のバッハはいまいちな印象でしたが、その後は京都の演奏を思い起こさせるような、ホールの周りで聴衆を取り囲んで歌うシーンや、歌いながら後ろのドアから消えていくという演出も。ああいう演出と、北欧の民謡的な旋律はとても良く似合います。

それに、あまり期待してなかった「風の馬」が意外に面白かったのです。
こういう選曲って、日本公演でのサービス的なものを感じていたわけですが、これが予想以上に質の高い演奏。リズムやハーモニーがとてもクリアで、曲作りも非常に明晰。今までに聴いたこともない構造的音楽作りの「風の馬」なのです。組曲からの抜粋であるにも拘わらず、曲の流れに物語性を感じる、非常に知的な印象を与える演奏でした。

この指揮者、グリーグでも心憎い音楽作りをするし、民謡も自らとても美しい編曲をするし、過剰な振りの無い的確な指揮もカッコいい。それに、ベルボトムのパンツを着こなし、見た目もクールだし、やはりスゴイ能力と人を惹きつける魅力を持った人だと思いました。

2007年9月8日土曜日

iPodが売れているワケ

先ごろ、iPod touch が発表され、ますます大きな話題になっている Apple の iPod シリーズ。個人的には、Appleの出す新製品にはいつも注目しているものの、実を言うと、家では一つも Apple 製品は持ってません。そろそろ、iMac でも欲しいなあ、とは思っているのですが・・・、iPod touch も面白そうだし・・・

今更ながら、ここまで iPod が売れていることに本当に驚きます。
iPod の前だって、ヘッドホンステレオの世界は以前より存在していたし、その中で SONY の Walkman は圧倒的な製品だったように思います。それが、あっという間に世界中 iPod に染まってしまったのは何故だと思いますか?
もちろん、こんな問いは、世界中の様々な人たちがこれまでも語ってきたし、恐らくほとんどの電機メーカーの製品企画会議でも話題になっているはず。

多くの人は、最初にHDを搭載してたくさんの曲を入れることが出来たとか、PCとの連携とか、そういう機能面のことを語るように思います。
しかし、私としてはもう一つ別の側面を強調したいと思うのです。
それは、iPod だけでなく Apple 社の製品には工業製品における「作家性」のようなものが感じられるという点です。いわば芸術としての存在価値という側面です。

最近は、電気製品でもデザインが重視されたり、家の中の小物にもちょっと変わったものが売られていたりします。ウチでも妻が北欧雑貨とかが好きで、妙な小物が家の中に増えてきました。
機能性が第一だった電気製品が一通り普及した後、次にそれらを買いたいと思う大きな動機には、その製品が持っている芸術性、存在の魅力のような要素が重要になってきているのかもしれません。

まるで、音楽を聴いたり、映画を見たり、本を読んだりするように、その製品との生活を楽しむ。そのとき、その製品は誰がデザインして、誰が開発したのか、そういうことがまるでどんなアーティストが作って、どんな作家が書いたのか、と同じように判断されるようになりつつあるのではないか、とそんなふうに感じます。
Apple 社といえば、その人物はもちろん、スティーブ・ジョブス。今の Apple の製品の面白さというのは、まさにジョブスの作家性、芸術性にあるのではないかと、私は感じています。
恐らく、世界中の多くの人が Apple 社製の製品に、他のメーカにはない芸術性を感じ、そのソフィスティケートされた存在感に魅了されているような気がします。

2007年9月2日日曜日

孤独の迷宮 FAQ その2

・ポリフォニックな部分、各パートの繰返し周期が違っているが、4/4拍子で書いてある意味があるのですか?
演奏上での表現に関しては意味はない、と言えるでしょう。
とはいえ、ルネッサンス音楽のように小節線を書かない、というのも変だし、全部を一つの小節にしちゃうと「何小節目の何拍目」って指示するのも大変だし・・・まあ、実際の音楽活動の中でそれなりに小節線を書いておくメリットは大きいと思います。
逆に言えば、その程度の意味です。

・ポリフォニックな部分の中盤で調性が変わりますが、どのように表現すべきでしょうか?
特にこうして欲しい、というものはありません。あるなら楽譜に書きますし。
各団体にて、調性の変化に対して変化をつけるべきか、付けるならどのようにすべきか考えてみてください。
作曲上の意味としては、さすがにあまりに変化が無いのは聴くに耐えられないだろう、という意図で、このような変化を途中で入れています。

・tu tu tu は何を意味しているのですか?
私のイメージは、孤独の中で不安が高まっている様子を表したものです。例えば、もっと具体的に言うなら「頭痛のテーマ」と呼んでもいいかもしれません。そうすると、表現したいものが限定されるので分かりやすくなりますね。
同様に、演奏する団体で自由に具体的なものに当てはめてもらって構いません。
いずれにしても、静謐な各パートの繰り返しの中で現れる「tu tu tu ・・・」のテーマは、料理のし甲斐がある素材であり、この曲の演奏の成否のポイントとなるでしょう。

・どのような"u"の母音をイメージしていますか?
この曲は、全て同じ "u" の母音で歌われるべきとは思っていません。例えば、ku と mu の "u" の母音は、文章の中などでは音声学的に違う可能性があります。
ですから、"u" でひと括りにされる母音の様々な表情を音楽の中で表現して欲しいと思います。
考えようによっては、この曲は良いディクションの練習曲かもしれません。

・長谷部さんは迷宮が好きですか?
好きではないですが、仕事でよく迷宮に陥ります。

2007年8月28日火曜日

孤独の迷宮 FAQ

それほど Frequently でもないですが、ネタも含め、これまで尋ねられたことなどを紹介します。
・3小節目、40小節目はなぜ 9/8 なのか?それ以外は四分音符が一拍なのに。
曲全体は、もちろん四分音符が一拍となるような拍の感覚で作られています。
この二つの小節の冒頭に八分休符がありますが、そこで「ウッ」と突っかかる感じを出したかったのです。流れるようにその小節を過ぎ去るのでなく、固めに音符を歌い始めて欲しいと思いました。

・43小節の一拍目のアルトは、上も下も As の音ですよね?
上の41小節のテナーで、律儀に div.した両パートにナチュラルがついているので、不安になったものと思われます。確かに、その部分と整合性が取れていませんでした。もちろん As です。
タネを明かすと、元々 41小節のテナーも両方にナチュラルが付いてなかったのですが、合唱連盟とのやり取りの中で付けるように修正しました。その際、43小節のアルトのほうまで気が付きませんでした。(しかも、41小節アルトの楽譜ミスの遠因に・・・)

・mu nu lu ku du yu の mu と ku にスラーがついていますが、どのように歌えばよいですか?
このスラーは積極的にアーティキュレーションを指示したものではありません。同一シラブルを示すためのスラーです。したがって、特にこのスラーを直接的な表現に反映する必要はないと思います。
そういえば、以前スラーについて書いたことがあります。

・mu nu lu ku du yu の5拍子は3+2で良いですか?
四分音符が三つ、二分音符が一つなので、3+2で振るのが自然かと思います。

・長谷部さんは孤独ですか?
芸術家を目指すような者なら、孤独なくらいがちょうどいいのです。

2007年8月26日日曜日

プリマヴィスタ2を触ってみる

同じ合唱団で指揮をしているO氏が開発したPC用ソフト、プリマヴィスタ2が発売されます。
先日は(仕事で)軽井沢合唱フェスティバルに参加し、宣伝をしてきたようです。

その体験版がダウンロード出来るようなので、ちょっと触ってみました。ダウンロードはこちら
なるほど、合唱専用ということで、いろいろ工夫されていてGUI的に見栄えが良いですね。何といっても、コダーイシステムの移動ド表記が素晴らしい。自分で楽譜に書こうと思っても面倒ですが、自動で出てくれると嬉しいです。あと、全音や半音の違いだけにフォーカスして楽譜に表示される機能も、私的にはなかなかヒットです。楽譜上で音程が微妙に上下しているときに、半音か全音かって異名同音なんかもあって意外と識別しづらいことは良くありますよね。

もう一つ面白いのはレッスン機能。
譜例どおりに歌って、きちんんと正しい音程で歌っているか判断してくれる「視唱トレーニング機能」は、なかなか良いのではと思います。これで練習すれば、音程の悪いところ、取れないところを認識できるきっかけになることでしょう。
ちなみに体験版では28例ありますが、これが100以上になると、やりがいがあるんじゃないでしょうか。練習用コンテンツをもっと増やすと本当にこれでレッスンできるような気がします。
もう一つの音程トレーニングですが、これはちょっと難しい。これ、簡単に出来る人はほとんどいないような気がします。もちろん、これでトレーニングしたらかなり移動ドの力がつくとは思いますが・・・

恐らくこのソフトの一番のキモは、練習している曲のデータがあるかないか、ということでしょう。今練習している曲がデータとしてあると、あとはスクロールする楽譜に合わせて歌を歌って音が取れているか確認できます。
しかし、楽譜はスコアメーカーという別のソフトがないと作れないし(簡易的なスコアなら作れるようですが)、音取りするために楽譜データを作る、というのはちょっと非効率で現実的ではありません。
せっかくカワイはたくさんの楽譜商品を持っているのだから、それらをどんどんスコアメーカーフォーマットにして、公開するか安く販売するなどすれば、このソフトの有用性が上がると思います。
このソフトの力を十分に生かすには、コンテンツの充実が鍵ではないか、という気がします。

あと、微妙に不満なところ
・ピッチグラフの横軸のスケールがいじれない。
・ピッチグラフも点ではなく線で表して欲しい。
・視唱トレーニングは全音符だといまいち歌いづらい。
・ピッチ検出できなかったとき、データが途切れてしまうのでなく、表示に前のデータを使うなどして工夫すると、もう少し見やすくなるような気がする。
→リアルタイム性にこだわらなければ、もう少し精度の高いピッチ検出が出来るかも。

2007年8月23日木曜日

G4「孤独の迷宮」について

そろそろ各地でコンクールが開催されているようです。
予想通りというべきか、G4を選んでくれた団体はかなり少なそうで、作曲者としては残念な気持ち。例年、公募作品を選択してくれていたO久保混声も、今年は違う曲だとか。

その中で、意外にも G4 は高校の団体で取り上げられているような感じです。各地の高校生、先生がたよりメールを頂いたりしています。未だに一般団体で取り上げてくれる団体を聞いたことがないのだけど、高校だけならもう6~7校くらいは耳に入ってきています。
先日は、浜松市内の某高校でG4を演奏してくれるというので、練習にお邪魔してまいりました。確かにこの曲の音取りは難しいし、若干音がアヤしい部分はあったのですが、毎日のように練習して良く練られてくると、なかなか面白い音響が楽しめるのですね。こんなに一生懸命練習してくれて、きっちりした音楽を作っていただいて本当に嬉しく思いました。

そういう意味では、練習時間が必ずしも多くない一般団体が、この曲を敬遠する気持ちはそれなりに良く分かります。人生経験だけじゃ、カバーしきれないんでしょうね。どちらかというと、まっさらな気持ちと莫大な練習時間を要求する音楽なんでしょう。

良く質問されることなど、また近いうちに紹介いたします。

2007年8月20日月曜日

呪怨 パンデミック

浜北にサンストリートというモール街が出来て、その中に東宝シネマズが入りました。
浜松にも東宝シネマズがあるのに、ほぼ同じ都市圏内にもう一つ東宝シネマズが出来るというのは、思わずその出店戦略を考えてしまいます(浜北だって、もう浜松市になっちゃったし)。良く解釈すれば、上映作品をうまく散らばせて、浜松近辺全体で市場そのものを拡げよう、つまり映画人口そのものを増やそう、と考えているとも思えますが、さてどうでしょう。
しかし、実際オープン間もない日曜の昼という、これ以上無い良い条件と考えられるにもかかわらず、お客がそれほど多いとも思えなかったです。ちょっと先行き心配。

というわけで、サンストリート浜北の東宝シネマズで「呪怨」を見てきました。お客は10人強。さらに心配・・・。
「呪怨」はハリウッドでシリーズ化され、今回もハリウッド製ながら清水崇監督、というアメリカでのジャパニーズホラーブーム(?)を象徴するような映画です。
正直言うと、ひたすら脅かしの連続に、あまり品の良さを感ぜず。雰囲気もだんだんリングっぽくなってきて、ネタの枯渇が心配されました。なぜか上映は日本語吹き替えのみだったのですが、一番酷かったのは、その吹き替え。超棒読み。これはちょっとマズイでしょう、という感じ。
後で某女性漫才師だとわかりましたが、声優なんて誰でも出来るってわけじゃないでしょう。

2007年8月12日日曜日

合唱で使う音を作る-メトロノーム

音楽の練習といえば、やはりメトロノーム。これをシンセで作ってみましょう。

と言っても、メトロノームから出てくる音色を作っただけでは意味がありません。メトロノームは、テンポ通りに音を出してくれるからこそ意味があります。
その機能をシンセで実現するのに最適な方法があります。シンセに詳しい方ならご存知と思いますが、最近のシンセにはアルペジエータという機能がだいたいついています。
例えば「ドミソ」と和音で鍵盤を押すと、「ド→ミ→ソ→ド→ミ→ソ→・・・」と楽器が勝手にアルペジオにしてくれるのです。実演奏で使うには少々、余計なお世話にも思える機能ですが、メトロノームには最適。

というわけで、早速作ってみました。
まず、音を二つ作ります。一つは小節の一拍目に使う「チーン」といった鐘のような音。Aのピッチにしました。
もう一つは、一拍目以外の音に使う音。ノイズにレゾナンスを効かせて木魚のような音にしました。
そして、この二つの音をスプリット設定で、一つのプログラムにします。(要するに一つの音色だけど、鍵盤の位置によって音色が変わるようにする)
「チーン」の音を最高音のドの音でのみ鳴るようにしました。そして、その上でアルペジエータ機能をON、押した鍵盤を覚えたままにするラッチ機能もONにして、出来上がり。

使い方は簡単。一番上の鍵盤から同時に4つの鍵盤を押すと、4拍子のカウントになり、3つ鍵盤を押すと、3拍子になります。テンポは楽器についているテンポつまみを回せば簡単に変更できます。

2007年8月10日金曜日

合唱は芸能だ

先週末に、浜松アクトシティ大ホールで開催された浜松世界青少年合唱祭を見に行ってきました。5日のメインコンサートは10時から18時までのマラソンコンサート。結局、ほとんど全部見てしまいました。
ちなみに、前回の感想はこちら

全14団体の演奏がありましたが、面白かったのは次の3つ。
・プエリ・カントレス・オリヴェンセス(ポーランド)
青少年の合唱祭なのに、なぜか男声には頭のはげたオヤジが・・・。いや、それが面白かったのでは無くて、演奏した曲が面白かったのです。2曲はカール・ジェンキンスのレクイエムから。これを選ぶとはなかなかしぶい。
しかし何より可笑しかったのが、最後の曲。これ、一切ハモリ無しの現代曲というか、パフォーマンス。みんなが叫んだり、指揮者がいきなり怒り出したり、全員がふざけ始めたり。圧巻なのは、まるでビデオでポーズボタンを押したかのような、全員の静止芸。大爆笑でした。

・名古屋少年少女合唱団
指揮者は全国大会でトヨタを振っている水谷さん。
しかし、ここは完全に、徹底的に、芸能の世界を極めようとしています。踊りと太鼓、手拍子、足拍子と、歌以外の要素だけでもう十分に楽しめます。
正直言って、この団には踊りあるいは演出のプロがいると思いました。これだけの少年少女の団員が、乱れなく(しかも本当に楽しそうに)舞台上でパフォーマンスを繰り広げるには、相当の練習が必要だったはずだし、それをきっちりと統率した演出家がいたことが想像されます。
ウチでもやっている「狩俣ぬくいちゃ」など、恐らく楽譜まで手を入れていたと思われます。(要するに、あるものが無かったり、無いものがあったり・・・)

・ノルウェー少女合唱団
この合唱団が演奏した曲は、この日演奏するために委嘱された現代曲。それも筋金入りの。
現代曲といっても、邦人作曲家が書くような意味不明なカオス的音響ではありません。いきなり「ギャー」とか叫びながら、少女たちが舞台上を走り回るところから曲は始まります。それが過ぎると、朗読+和声のない音響、の連続。朗読は英語だったようですが、残念ながら意味が分かるほど聞き取れず。
ただ、全員が白装束だったり、プリミティブな表現が多かったことを考えると、何かしら文明批判的な主張を持った曲なのかもしれません。見事に歌いきった、もとい、演じきった女の子たちに拍手!

もはや、合唱は芸能なのかもしれません。

2007年8月4日土曜日

合唱で使う音を作る-音取り用

シンセを使って最初に作ろうと思った音は、合唱の練習や本番で使う音取り用の音。これまでも、練習では音取り用の音にいろいろ不満があったので、それなら自分で作ってしまおう、ということで色々考えてみました。

私のこれまでの合唱経験より、音取りに都合のよさそうな音の要素を挙げてみましょう。
・音が真っ直ぐであること
 まあ、簡単にいえば、音程、音量、音色が鍵盤を押してから離すまで一定であること。こういった音は、あまりに機械的に聞こえてしまうので、実際の電子楽器に音色として載ることはほとんど有り得ません。
・ピッチが揺れないこと
 音取り用なので当たり前ですが、ピッチパイプなんて吹く強さでピッチが変わってしまいます。
・音が減衰しないこと
 ピアノで音取りをやる場合、音が減衰してしまうのが難点でした。
・和音で濁らないこと 
 派手な音だと複数の鍵盤を押しただけで音が濁ってしまい、和音感を感じることが難しくなってしまいます。音色的には近接する高次倍音の量は少ないほうが良さそうです。
・歌いながら一緒に弾いても音が聞こえること
 これは実は上と矛盾するのだけど、合唱の音にマスキングされないような周波数成分も持つ必要があると思われます。

まだ実戦で試していないけど、一つ音を作ってみました。もういかにも電子音という感じなので、評判は良くないかもしれませんが・・・

2007年8月1日水曜日

シンセといえば冨田勲

以前もこんな談話を書いていましたっけ。
シンセサイザーの話をするとすっかり昔話になってしまうのだけど、でもやっぱり冨田勲は素晴らしい、と私は言いたい。
彼はシンセサイザーという機械を、もっともクリエイティヴに使いこなした音楽家の一人だと思います。もっとも、基本的に音楽そのものは氏のオリジナルでなく、近代のクラシック曲のアレンジなのだけど、音楽が表現したいことを的確に捉えた上でデフォルメし、あるいは、全く新しい音楽への息吹の与え方を示した、という意味で、本当に独創的な音楽家だと言えるでしょう。
まあ、いくら言葉で言っても、これは聴いてみないことには理解してもらえないかもしれませんね。「月の光」「展覧会の絵」「惑星」など原曲も有名なモノも多いので、未聴の方はぜひ聴いてみてください。部屋を暗くして聞くと、その幻想的な雰囲気に圧倒されます。

実際、自分でいろいろシンセをいじっていると、作っているうちに何やっているんだかわからなくなることもしばしば。あらためて冨田勲を聞いていると、あれだけ多種多様な音を作り出し、それをライブラリ化していることだけで驚きです。
もちろん、冨田勲と言えばこの音、というトレードマークのような音もたくさんあります。なかでも、「ゴリウォーグのケークウォーク」の人の声のような音は印象深いですね(「惑星」での宇宙飛行士の声にも使われている)。

冨田勲は、同じく理系的な音楽家として、大いに共感し、そして尊敬すべき芸術家なのです。

2007年7月28日土曜日

アナログシンセの音作り

ウン十年前、シンセはいろいろな音が作れる、と言われたものでした。・・・とはいっても、普通そう言うと、「じゃあ、ピアノの音を作って」とか「人の声を作って」とか「ヴァイオリンの音を作って」といったように、言われてしまうのがオチ。まぁ、一般的には有りものの音しか、人は想像することが出来ないものです。
しかし正直言って、自然の音など複雑すぎて、合成的な手段では音を作るのは不可能と言っていいと思います。実際、最近のシンセというのはPCM音源といって、結局のところ、実際に楽器を録音した音をメモリに詰め込んで鳴らしている、いわばテープレコーダのようなもので、まさに上記のような有りものの音を再現するために出てきた楽器と言えます。

そもそも、アナログシンセというのは、この世には無い不思議な音を作るために存在している、と言っていいと思うのです。幻想的なストリングスとか、フヮ~とした音とか、金属的なベルのような音とか、ビョンビョン鳴るような音とか、それらは何かの楽器の特徴を感じさせながらも、全く聴いたことのない音であり、異次元的、宇宙的なイメージを人々に与えることができるのです。
結局、アナログシンセで音を作る、ということは、頭の中にある音色のイマジネーションを現実化するということであり、そこには作ろうとする者の明確な意思があり、だからこそ、音色を作り出すということが一種の芸術的な行為であるとも言えるのです。
残念ながら、作ろうという強い意志がなければ、やはりシンセでイイ音は作り出せないのです。

2007年7月24日火曜日

シンセを買う

そういえば最近ワクワクするようなモノを買ってないなぁ、と不意に思って、シンセサイザーを買ってみようと思い立ちました。
もっとも、どでかいキーボードを置くような場所も無いし、鍵盤を弾く練習をするわけでも無いので、小型のヤツで十分。それに、弾いて遊ぶというよりは、音をグニョグニョいじって遊びたいので、PCM音源でなくてアナログモデリング系が面白そう。出来れば、合唱の練習で使ったり、場合によっては単旋律くらいなら本番で使ってみたり、なんてことも考えてみました。

というわけで、私が買ったシンセサイザーはKORGのR3
この製品、結構今人気があるようで、ネットショップのどこに問い合わせても品切れ&入荷はだいぶ先とのこと。あきらめていた頃に、某ショップで残り一台あるとの連絡が入り、すぐに購入。

R3の良いところは何といっても、そのサイズと軽さ。
標準鍵で3オクターブの大きさで、重量は何と2.8kgという軽さ!3オクターブなら、片手で弾くメロディならたいていカバーできるし、何といっても持ち運びが簡単というのは嬉しいです。
音も、いかにもシンセ、というような、ビョンビョンした音が久しぶりにワクワクさせます。いろいろなプリセット音を聞いていると、昔大好きだった冨田勲の世界を思い起こすような音もあったりして、往年のアナログシンセっぽい音にちょっぴり郷愁を感じたりします。
そんなわけで、久しぶりに刺激的な音体験が出来そうです。

2007年7月19日木曜日

クロチェット結成記念コンサート

妻が参加しているクロチェットという女性だけの古楽アンサンブルグループの演奏会が、月曜日の祝日に浜松でありました。
私も、関係者として演奏会のお手伝いをしました。ちなみにチケット係は妻の両親。

基本的には、録音担当ということで、レコーダを設置した後、本番では録音ボタンを押しただけ。
後は、チェンバロの搬入、搬出を少し手伝わせていただきました。

私はそれほど、古楽の熱心なリスナーではないので、あまり演奏の質そのものに具体的な評価は出来ないのだけど、バロック時代の音楽の持つ静謐さ、時代的な格調高さ、そして幻想的な雰囲気を堪能しました。
お客は、古楽ファンの集まりとは程遠い層ではあったのですが、意外にも皆さん集中して聴いていてちょっとびっくり。いい音楽はきちんとお客の気持ちを惹きつけるんだな、と感じました。
しかし、後で録音聞くと、妻の音程の悪さがやけに気になっているわけですが・・・

このアンサンブルグループ、女性だけっていうのも結構ポイントだと感じました。舞台から、何か、幻想感がより高まる感じを受けました。そういう線を上手く狙っていけば、良いグループになるのではと思います。

ちなみに、アンコールでは、某有名曲を私が編曲したモノを演奏してくれました。チェンバロ、ガンバ、バロックヴァイオリンの楽譜を書くのも私にとって貴重な体験でした。

2007年7月14日土曜日

メロディ学 拍節感

拍節感って何となく意味が通じてしまう便利な言葉なのですが、人それぞれ厳密なイメージがずれていないか、心配なところでもあります。
私の言うところの「拍節感」とは、「拍」がビートの最小単位であり、「節」は小節、つまり「拍」の集まりでもう一段階大きな構成を意味し、この二つが合わさることで、拍の強さとその繰り返し感全般を表している、といったような定義です。
従って、私にとって拍節感はテンポの速さとは関係ないし、リズムの種類のことでもありません。あくまで、ビートを感じるか、そしてその繰り返し感を感じるか、ということなのです。

そういう意味では、拍節感とは3段階のレベルがあります。
 第一レベル:「拍」も「節」も感じない
 第二レベル:「拍」は感じるが、「節」は感じない
 第三レベル:「拍」も「節」もはっきりしている
第二レベルとは、例えばルネサンス期のポリフォニー音楽などを想像してみてください。そもそも、この時代の楽譜には小節線がありませんでした。ビートはたいてい二分音符が基本となっているのは感じるのですが、それがいくつあって一つの小節と感じるか、ということは音楽を聴いても感じるのは難しいでしょう。
あるいは、ビートははっきりしていても、言語に合わせて変拍子が多用されるような場合、音楽だけで小節感を感じることは難しくなります。それも第二レベル的といえるかもしれません。

「拍」を感じる音楽が、さらに「節」まで感じられるようになるには、「拍」の繰り返し感が必要です。
繰り返し感は基本的には、メロディや伴奏のパターン類似性から類推できますし、また各ビートの強弱でその感覚は補強されます。場合によってはビートによって長短がつく場合もあるかもしれません。西洋音楽的にはポリフォニーがホモフォニーに変化していく段階で、このような「節」感が明確になってきたものと思われます。

メロディにおいても、上記の三レベル、いずれのパターンもありえると思います。例えば、民謡のメロディなどを集めてみて、上のレベルに当てはめてみるといろいろと興味深いことを感じられるかもしれません。

2007年7月11日水曜日

メロディ学 言語依存度

以前、「音楽と言語」という本を紹介したんですが、まさにこの本、言語と音楽の関連性を述べているわけです。西洋音楽史全体を俯瞰した考察は大変示唆に富んでいます。
そもそも、この本が言っていることは、最初に音楽と詩が不可分の状態にあり、そこから韻を持つ詩の世界と、リズムや音階を規定した音楽の世界に分かれた、と述べられます。そして、西洋音楽の歴史が、言語へのすり寄りと音楽そのものの力学の間で、振り子のように振れていることを時代を追いながら解説しています。

前回私が書いたタイプ分けで言うなら、現在のポップス全盛の世の中では、タイプ1の、言語感を大事にしながら、拍節感の強い音楽が一般的と言ってしまってよいと思っています。
しかし、タイプ1の中でも、より言語依存度を高くした、タイプ3のベクトルを持った音楽、あるいは逆に、器楽的なメロディを多用したタイプ2のベクトルを持った音楽というのがあるのではないでしょうか。

音楽史的には、バッハはまさにタイプ2的な音楽を志向していました。声楽であっても、徹底的に器楽的に扱うという方法です。「音楽と言語」でもこのように述べられています。
「彼(バッハ)は言葉を、響きをもち、形をもった意味形態として使用することをやめた。すなわち彼は、言語を自律的な表象像の総体、あるいは言語的形態としてみなすことをやめて、むしろそれをとくに言語的な性質をもたない意味関連の標識として、つまりそこに述べられている意味を単に指し示す指標としてみなしていたのである。」

言葉を語られるものとして使うのでなく、その意味のみを利用することによって、より音楽は器楽的な方向性に向かいます。確かにこのことは器楽的なメロディの特徴の一つを表しているように思えます。

2007年7月8日日曜日

安徳天皇漂海記/宇月原晴明

Antok一言でいえば、史実を元にした壮大な歴史ファンタジーって感じでしょうか。
ちなみに、題名が類似している澁澤龍彦「高丘親王航海記」ですが、やはりこの小説が書かれるきっかけになっており、この作者のリスペクトの対象となっているようです。何といってもこの小説のラストに、「高丘親王」も登場してしまいます。まるで、「高丘親王航海記」の続編のように・・・

さて、この小説、安徳天皇が題になっているけれど、肝心の安徳天皇は琥珀の中で眠ったままという設定。この安徳天皇が眠る琥珀の玉をめぐって、様々な人物が登場します。
第一部は、源実朝編。源実朝のお伴をしていた近習の想い出語り、というスタイルで文章は紡がれます。壇ノ浦の海に散った安徳天皇は実は琥珀の玉の中で眠ったまま生きている、という設定。この琥珀の玉を、源実朝が保護していこうとする様を描きます。しかし、史実どおり、実朝は甥の公暁に暗殺され、琥珀の玉は遠く中国に運ばれるところで一部が終わります。
第二部は、マルコ・ポーロ編。今度はマルコの視点から描かれ、三人称スタイルに文体が変わります。元のクビライ・カーンに仕えて面白い話を聞かせる務めを負っているマルコ・ポーロ。そのマルコが、不思議な琥珀の玉の話を聞き、それを確かめるため元に最後の抵抗をしている南宋に赴きます。そこでは、南宋の幼皇帝が琥珀の安徳天皇と夢の中で交流しているのでした。しかしその皇帝も、安徳天皇よろしく、元の水軍の前で入水することになります。・・・そらに琥珀の玉の行方を追って、マルコはラストの不可思議で壮大なシーンを体験するのです。

歴史上の有名人物が、安徳天皇の琥珀の玉をめぐって、様々に思案し、行動していく様子がとても面白い。そういえば、ちょっと前の大河ドラマ「時宗」を思い出しました。あのときも、マルコ・ポーロが出てきましたし。
個人的には古文がちょっと苦手なんですが、特に第一部、「吾妻鏡」や「金塊和歌集」が、何の解説もなく引用されているのは、正直読むのがしんどかったです。
ただ、そういう非常に手の込んだ小説世界が本当に素晴らしくて、この伝奇的なファンタジーのとりこになったのは確かです。

2007年7月6日金曜日

メロディ学 第二章

昨日の調子でメロディラインを解析していくと、ちょっと大変なことになりそうなので、もう少しマクロ的な視点に変えてみましょう。

ものすごく荒っぽいのだけど、メロディの特徴を二つの評価軸で表現してみようと思います。
一つ目は、拍節感の強さ。
二つ目は、言語依存度の高さ。
言語依存度が高いという意味は、歌詞が付いている可能性が高くなり、人に歌われるという側面が強くなるということです。逆に言語依存度が低いほど、器楽的なメロディになっていく、というような意味です。
この二つを掛け合わせると、メロディは4種類のタイプに分けられることになります。
 タイプ1:拍節感が強く、言語依存度が高い
 タイプ2:拍節感が強く、言語依存度が低い
 タイプ3:拍節感が弱く、言語依存度が高い
 タイプ4:拍節感が弱く、言語依存度が低い
これにものすごくざっとですが、音楽のジャンルや楽器のイメージ等を当てはめてみます。
 タイプ1:ポップス(歌モノ)
 タイプ2:管弦楽曲、室内楽曲、ジャズ、フュージョン(インスト)
 タイプ3:民謡、聖歌、レシタティーヴォ、詩吟
 タイプ4:現代音楽、尺八
かなり乱暴な分類もありますが、何となく言いたいことはわかってもらえたでしょうか。

2007年7月5日木曜日

メロディ学 第一章

メロディ学なるものがないのなら、作ってしまおう!という勢いで、メロディについて分析してみたくなりました。まあ、手の込んだ冗談とでも思って読んでください。^^;

まずはメロディの定義から。
「音程を持っている一つの音が、時間の経過とともにその音程を変えていった一連の軌跡」というのはどうでしょう。この定義だと、音程のない打楽器にはメロディは奏でられないし、また同時に二つ以上の音が鳴っている場合はメロディを特定できない、ということになります。

さて、この定義からすると、メロディは二次元のグラフにて即物的な記述が可能になります。縦軸は音程、横軸はもちろん時間。つまり、メロディを分析するには、この二次元グラフ上に描かれた一本のラインの性質を解析することに他なりません。

そのラインを解析する視点をいくつか挙げてみましょう。
・時間軸上の周期性(拍節感)
・メロディ内の各音程の関連(分散和音、スケール、調など)
・単位時間当たりの音程の数、音価の最小単位
・音程跳躍の量と頻度

・・・まだまだありそうですが、まずは上記の項目について論じるだけでも大変な時間がかかりそうですね。

2007年7月2日月曜日

300 / ボルベール

今週末、二本の映画を観たのですが、両方ともなかなか面白かったので、一緒に紹介。
しかもこの二本、全くの正反対の映画。「300」は、ひたすら戦闘シーンのマッチョな男性誌的映画。「ボルベール」は男と女、そして母と娘の愛憎劇といった女性誌的映画。

「300(スリーハンドレッド)」は紀元前500年ころの、スパルタ対ペルシアの戦争を描いたもの。しかし、いわゆる歴史映画とは趣が異なっています。例えば、もはや劇画チックとも言えるくらい典型的な正義と悪との対比とか、血しぶきが飛び、手や足や首がスパスパ飛んで行く、グロさ一歩手前の殺戮シーン(ちなみにR-15)、あり得ない怪物や奇形人間なども登場といった具合。史実を元にした男性視点のファンタジーといった感じです。
そういう意味では、全く内容に深みはないのですが、逆にそこまで開き直った勧善懲悪が心地よくて、不謹慎ながら敵をバッタバッタと切り殺していく様は爽快感さえ感じました。それを強調するような映像美もなかなかのものです(非常に二次元的な、不思議な映像でした・・・何らかのエフェクトを使っているのでしょう)。

続いて「ボルベール」。出てくる人物はことごとく女。主人公と、その娘と、その姉と、その母と、その叔母と、叔母の隣人だけで成り立っている狭い人間関係。そして、その影には横暴で女を不幸にさせる男の影が・・・。
酔って娘を犯そうとした主人公の夫が逆に娘に刺されて殺されてしまう、というショッキングな事件からストーリーは急激に回り始め、最後には想像もしなかったような過去の事実が明らかに・・・。韓国ドラマ的とも言うべき、ベタなストーリーであることは否めないけど、何しろ登場人物一人一人の生き様がリアルで力強いというのがスペイン的なのでしょう。特に主人公を演ずるペネロペ・クルスの演技の熱さ(ついでに豊満さ)が、何しろこの映画の見どころ。中盤でレストランでのボルベールの歌を歌うシーンは思わず泣けてきます。

つまり、典型的ではあっても、描きたいところに集中して、しっかり作っていけば面白い映画になるのだなあ、と納得。

2007年6月29日金曜日

林檎のメロディ

メロディを論じるならJ-POP・・・と思ったのだけど、よく考えたら最近買ってるJ-POPのアーティストって椎名林檎くらいなのに気付きました。ならば、椎名林檎のメロディセンスについて、思うところなど。

椎名林檎のメロディの特徴は、9度の多用、という点が最も大きいのではないかと思います。
��度というのは、根音を「ド」とした場合の「レ」の音を意味します。短調の場合は、根音を「ラ」とした場合の「シ」。
最新アルバムの「平成風俗」から抜き出してみましょうか。
最初の「ギャンブル」。最初のメロディの終止がいきなり9度。それからサビに入って、声に泣きが入るところも9度の音ですね。つまりメロディの終わりという特徴的な場所に9度を使っています。
��曲目の「茎」では、サビの冒頭の音が9度の音。これもメロディの冒頭という重要な音です。
「浴室」もメロディの冒頭が9度から。そして、「ポルターガイスト」もメロディの冒頭が9度。この曲は、メロディの頂点になる音が9度になるパターンが非常に多いです。
そんな感じでちょっと聴いただけで、これだけ出てきます。これは、もはやメロディメーカーとしての、くせのようなものなのでしょう。

その他、椎名林檎のメロディの特徴として、若干器楽的な傾向があるような気がします。
メロディの繰り返しを増やしてメロディラインを印象付けたり、音程の跳躍が印象的だったり。「ポルターガイスト」の最後のメロディ、「ことに気付き始めました・・・」という部分、このメロディラインって、もうバッハの域に達してますよ。気になる方は採譜してみてください。(って誰もしないか)

2007年6月24日日曜日

作曲におけるメロディ創作

クラシック的な意味での作曲で言うなら、メロディの創作は、作曲の一部分でしかありません。
メロディを考えることの他に、楽曲の構成、和声、その他のオブリガード(副旋律)、リズムパターン、対位法的処理、全体の統一性、などなど、色々なことを考えなければいけません。そうなると、作曲作業全体におけるメロディ創作の比率は落ちてきて、そこに割かれる考慮も薄くなる可能性があります。

もちろん曲によって、求められるメロディも変わってきます。
歌曲的な音楽なら、シンプルにメロディ+伴奏という形ですから、メロディの比重が高まります。ただし、器楽的要素が増してくると、その楽器で聴き栄えするような盛り上がりを作ると、少々一般的なメロディ度は弱まってきます。
それが緊密なアンサンブル音楽になってくると、メロディが曲想に合わせて展開をしていくことが増えます。古典的な意味での展開、というだけでなく、一つの音楽の中で、主題やその断片が作曲の素材として散りばめられることは少なくないはず。こういう音楽になってくると、主題はむしろシンプルで力強いほうが使いやすくなります。あまりに流麗で存在感が強いと、メロディパートだけに注目が集まるし、そういった旋律は切り刻むのが難しいのです。
シンプルな主題だと、反転したり、逆行したり、切り刻んだり、そういう加工がし易いし、加工したことも分かり易くなります。

一般的にクラシックにおける作曲では、上記のアンサンブル的な音楽のほうが芸術性が高いと思われているわけですから、流れるようなメロディの美しさというのは、必ずしも芸術性の高さには結びつかないと感じることがあります。
チャイコフスキーやドヴォルザークなども、メロディが流麗な作曲家なのだけど、だからこそ通俗的だと言われてしまっている気がします。
絵画で言えば、シンプルな主題を加工して使う方が抽象画で、美しい旋律がある方が風景や女性を描いた美しい絵、というように対応する、と考えると面白くないですか。

2007年6月20日水曜日

メロディ学

先日の浜松合唱団のラターを聴いて、あらためて良いメロディの力は強いなあ、と思いました。
音楽を聴く楽しさの大きな要因に、美しいメロディというのは欠かせないと思います。それもまた、ここ何回か書いている聴いて楽しい音楽、に繋がる話ですね。ぶっちゃけ、メロディが印象的でなければ、その音楽も面白いと感じるのは難しいでしょう。

そんな重要なメロディなんですが、ふと考えてみると、美しいメロディを作るための学問みたいなものって、あまり聞いたことがありません。一般的に教えられる音楽の理論の中でも、メロディそのもの書き方を扱う理論というのは恐らく一般化されていないと思います。
ジャズのインプロビゼーションの理論書にしても、つまるところ和声やモードから導き出されるスケールの話ばかりで、そのスケールからどのような順番や音価で音を拾えばいい旋律になるかは言及されません。ひたすら、譜例がたくさん載っていて、手で覚えましょう、ってな具合です。

音楽は非常に理詰めっぽくて、様々な理論体系があるにも拘わらず、こんな大事なことが理論化されていないんですね。しかし、それこそが音楽が芸術たる所以なのだとも思えます。

2007年6月17日日曜日

いい音楽と面白い音楽のはざ間

何に対して、「いい」というか人によって違うとしても、一般的に芸術性の高さを感じるものと、単純に面白いと感じるものには、どこかベクトルの違いがあるのでしょう。
私などは、このベクトルをいかに合わせるか、ということを考えてしまうのですが、一般的には「芸術性の高さ」というベクトルだけに注目して、それを追い求めることが崇高な活動である、と考えている人が多いと思います。このあたりが「聴いて面白くない」に繋がる遠因とも私には思えます。

もちろん、現実にはそのベクトルが決して合わないというのは確か。バッハを演奏して、そのスゴさを体感したとしても、世の多くの人はほとんどそんなものには興味がないのが現実。精緻な対位法で書かれた音楽を聴いたって、そういった技法と無縁の人にとっては、みんなが別々の旋律を奏でていてさっぱりわからない、ということにもなりかねません。
芸術性の高さ、というのは、わかるからこそ面白くなる、という要素は確実にあります。
だからこそ、クラシック音楽に関わる人は、芸術性の高さ、というベクトルにとかく拘ることになります。それは、往々にして聴衆に対する啓蒙的な態度として現れます。でも、それって、学校教育で道徳を強化していきましょう、という議論の胡散臭さに何か通じるものを感じます。

昨今、世の中が効率化するに従い、芸術性の高さを追い求める行為と、単純に気持ちよく感じる音楽を演奏することがますます乖離しているように思います。気が付くと、どちらも何か違う、という感じがしてしまうのです。
私の求めているものは、つねにそのベクトルの中間のような位置にあるのですが、それは逆にどちらからも受け入れられない、ということにもなりかねなくて、益々悩みは深まります・・・

2007年6月10日日曜日

歌って楽しくない合唱

半ば自虐的に言わせてもらうと、今回の課題曲G4の拙作「U:孤独の迷宮」は、さしずめ歌って楽しくない合唱の代表と言えるのではないかと・・・そんな気がしてきました。;_;
いや、課題曲だけでなく、この組曲「五つの母音の冒険」全体、そういうオーラが漂っています。もちろん、同様のテイストを持った邦人曲はたくさんありますが、実際、それらの曲は一部の有力団体に演奏されているだけという現実もあるでしょう。

言葉が無い、というのはそれだけで、歌い手を萎えさせるようです。どんな複雑な音でも、言葉があるだけでイメージが具体化されるからでしょう。本当は、同じような意味で、音楽によってイメージを具体化させようとしても、言葉よりも歌い手には響かないようです。
その一方、普通の邦人合唱曲が合唱関係者以外に受け入れられない理由の一つとして、歌詞が聞き取れない、ということが挙げられるのではないかと私は考えています。そもそも、合唱というのはよほどの努力をしない限り、歌詞が聞きづらい。なのに、さらにピアノが派手に鳴ったり、声部がポリフォニックに処理されることによって、なおのこと歌詞は分からなくなります。
実はだからこそ、外国曲には宗教曲が多いのでは、とも思っています。ラテン語の典礼文は、いわばお約束の歌詞であり、作曲家にとっては絶対音楽的な取り組み方ができるからです。

歌詞を聞き取りやすい音楽と、歌詞が無くても音楽として鑑賞に耐え得る音楽、このような二つの反するベクトルが「聴いて楽しい」に向かうと思っています。
あえて悪い表現をするのなら、歌い手に音楽を構成する部品としての自覚が足りないのではと思います。自分にメロディがあれば嬉しい、自分に歌詞があれば分かりやすい。こういう感覚を乗り越えて、そこで展開される音楽全体に想いを馳せる必要があります。

2007年6月8日金曜日

聴いて楽しい合唱

とタイトルを書いてみたものの・・・そんなの人によって違うよなあ、と今更ながら思いました。
それに合唱している人の判断基準と、そうでない人とは違うし、自分自身が考えること自体、どうやったって片寄った見方にならざるを得ません。だから、本当は、合唱をやっていない(あまり知らない)音楽好きの人に聞いてみたい、というのが本心です。逆に言えば、自分は合唱以外にどんな音楽を聴いて楽しいと思うのか、考えてみるのもいいでしょう。

とはいいつつ、自分なりに聴いて楽しい合唱を考えてみます。
例えば、自分がスゴイと思った合唱関係の演奏会を思い出してみましょうか。有名どころでは、キングスシンガーズ、クレマンジャヌカンアンサンブル、BCJ、それから最近では世界合唱の祭典でのオスロ室内合唱団といったところでしょうか。(他にもあったかもしれないけど思い出せない・・・)
合唱コンクールでは、なにわコラリアーズ、会津混声、EST、アンサンブルVineなどの演奏が好印象に残っています。

いずれもキリっとした音像、クリアなサウンド、メリハリのある表現、そして軽快で乱れの無いリズム、といったような要素に私は好印象を持つようです。
それは曲に対する印象も同様で、明快なリズム構造を持ち、メロディがはっきりしていてキャッチーなほうが好き。逆に言えば拍節感が薄くて、声部が多い分厚い音はそれほど好みではなさそう。
さて、皆さんの好みはどんな音楽でしょうか。

2007年6月4日月曜日

ユメ十夜

「こんな夢を見た。」でおなじみの夏目漱石、夢十夜の各エピソードを十人の監督によるオムニバス形式で映画化した作品。(HPはこちら
浜松で二日間だけ上映があったので行ってきたら、第五夜の監督をした豊島圭介氏が何と会場に来ていて(浜松出身らしい)、映画が始まる前に挨拶をしてくれるというおまけ付き。映画作りのいろいろな苦労話を聞けたのは面白かったです。豊島氏によれば、1話あたり制作費は1000万円なんだとか。

映画のほうですが、いやまあ、さすがに各10分で10人分の作品を見るのはキツイです。作風もノリも全然違うし。それに、10分という制限があると、各監督ともストーリよりイメージに走るので、かなりシュール感が漂い、話を理解するというよりは、印象だけで良し悪しを感じるしかないといった感じ。
監督は、先日亡くなった実相寺昭雄、市川昆といったベテランから、「呪怨」の清水崇、その他松尾スズキ、天野喜孝といったなかなか豪華な面々。
個人的には松尾スズキ氏の第六夜、2ちゃんねる風のセリフ、ブレークダンス運慶など、笑いどころが満載でむちゃくちゃ面白かったです。あとは、第三夜のやっぱりホラー系になってしまう清水崇作品、第九夜のお百度参りの話(監督:西川美和)が良かったです。

短いだけに、各映画監督のよりリアルな創作態度がクローズアップされてくるので、クリエータな人なら大変刺激を受けるのではないでしょうか。

2007年6月3日日曜日

歌って楽しい、聴いて楽しい

民族性うんぬんなどというと、どんどんマクロ的に話が発展していくので、これまでと似たような話題ですが、もうちょっと合唱の現場に近い視点で思うことなど。
今の日本の合唱音楽の問題は、合唱界自体の閉鎖性にあると思います。その閉鎖性の由来は、何度か書いているけれど、聴衆不在の演奏が多いということ。ありていに言ってしまえば、聴いて楽しい音楽が少ない、のだと思います。
ところが、合唱をやっている当の本人たちは、あまりそうは思っていない。自分たちが心を込めて歌えば、きっとこの曲に込めた想いが伝わるはずだ、という根拠の無い希望だけを胸に抱いて日々練習しているわけです。毎日合唱の練習をやっている人は、残念ながら、一般の人がどのような合唱音楽を良いと思うか、という感覚からどんどん遠ざかります。合唱をやっている人が合唱音楽を聞けば、歌い手的な立場で聞いてしまうので、もはや一般リスナーとは聴くときの視点(聴点?)が違ってしまいます。

つまり何を言いたいかというと、「歌って楽しい曲」と「聴いて楽しい曲」には微妙なずれが存在するということです。
日本の合唱界のように聴衆不在の閉鎖的環境では、聴いて楽しい曲が育たず、むしろ歌って楽しい曲が増えていきます。ところが、ときおり海外の合唱を聞いてえらく感動するのは、たいていの場合それが「聴いて楽しい曲」だからであり、そういう音楽をきちっと演奏できる実力が備わっているからです。
なぜ、日本の合唱音楽では「聴いて楽しい」よりも「歌って楽しい」に向かってしまうのか、それはまた別の機会に考えるとして、しばらく「聴いて楽しい」要素とは何か、「歌って楽しい」要素とは何か、具体的に考えてみましょう。(すでに書いたことがあるようで・・・)

2007年6月1日金曜日

クサいものにフタをする私たち3

だいたい、洋モノの音楽の歌詞を訳すと、なかなか日本の歌詞ではお目にかかれないような内容がたくさんあるように思います。日本の歌詞のほとんどは、自然か恋愛を歌ったもの。ある種定型的な表現であることが聴く側に安心感を与えているのかもしれません。恋愛モノでも洋モノだとずいぶん卑猥になったり・・・
中でも日本の音楽に根本的に存在しない概念は宗教ではないでしょうか。欧米の音楽が宗教の中で育まれてきた歴史を考えると、その感覚の差は相当のものがあると思います。
今、日本で「私は、○○を信じまーす」とか「偉大な○○よ、私たちをお導きください」なんていう歌詞が音楽で歌われていたら、新興宗教とかそんな感じになって、すごいアヤしい感じになるのではないでしょうか。ひと頃、オウム真理教が選挙に出たときに、信者が歌っていた音楽を思い出します。

欧米人の場合、音楽というのは自らのアイデンティティを確認する手段である場合が多いような気がします。だから個人の信念とか、民族的な価値観とか、そういう言葉が音楽の歌詞になっていても全然おかしくない。
ところが日本人の場合、歌を歌うということは、むしろ個人的な価値観を封印して、人々の最大公約数的な価値観に合わせこむ作業なのかなと思ったりするのです。自己主張でなく、無条件な融和のための道具とでもいうような。だからこそ、場にそぐわない、ということに非常に敏感になり、結果的に無意識のうちに「クサいものにフタ」的行動を取ってしまうように思います。

私たちが洋物の音楽を取り入れるとき、無意識に自分の感覚に合わないものを排除しているのではないかと思ったりします。きれいで気持ちいい部分しか見ていないというか・・・
洋物のロックを聴いているという人も、話を聞いてみると、歌詞の意味なんかどうでもよくて音だけ聴いて楽しんでいるという人も多いのです。でも英語圏の人なら、歌詞だって耳に入ってくるわけだし、結局そういう聴き方自体が極めて日本人的というか、キレイなものしか見ないようにする意識の現われではないでしょうか。

2007年5月27日日曜日

クサいものにフタをする私たち2

特に日本と欧米で感覚が違うなあと思うジャンルは、映画と音楽。
最近の映画で、先日も書いた「バベル」ですが、いろいろネット上の感想など見てみると、多くの人が不快で面白くないと言っています。さもありなん、という感じ。
おおよそ、美しいという価値観とは正反対のアプローチで作られています。ある意味、この世の醜いものを、普段の生活の中から拾い出して、執拗に描写しているからです。日本人的には直視に耐えられないリアルさが、その不快さを生み出しているのでしょう。
もちろんアメリカ人とて賛否はあるでしょうが、それでもアメリカにはああいった映画がアカデミー賞にノミネートされるだけの土壌があります。何か考えさせるものがある、という視点がアメリカのアカデミックな層には重要なのだと思います。
私自身はそれほど好きではないけど、映画監督の北野武(ビートたけし)がヨーロッパで受けるというのも何か同じようなものを感じます。どちらかというと、今の人気はヨーロッパからの逆輸入的な側面もありますね。

私が日本の映画で思うのは、その人間関係のうそ臭さ。
もともと美しくもあるはずがない人間関係も美的に処理されて、献身的な態度とか、ものごとにあたる情熱とか、無償の愛とか、登場する人物がすべていい人であり過ぎるんです。それは、テレビドラマにも言えること。日常に存在する嫌なものを、ドラマでなんか見たくないのでしょう。その気持ちは分からなくもないけれど、より深いものを表現しようと思っているクリエータにとっては微妙な心持ちではないでしょうか。

こんなことを書き始めたら、図らずも今日の朝日新聞に画家、岡本太郎のこんな言葉が載っていました。

「今日(こんにち)の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。
と、私は宣言します。それが芸術における根本条件である、と確信するからです。」


2007年5月26日土曜日

クサいものにフタをする私たち1

ハーモニー春号のトップの特集、烏賀陽氏の話はなかなか興味深い内容がたくさんです。私も「Jポップの心象風景」という本は持っており、日本人の民族的な特徴をJポップから読み解こうとする視点は面白いと感じていました。
ハーモニーにも書いてありますが、日本の音楽は世界で全然売れていない、という現実があります。これはJ-POPだけの問題だけでは恐らくないでしょう。合唱にしたって、日本の合唱曲は海外でそれほど広まっているとは思えません。

何か、そこには芸術に対する深い感覚の相違というのがあるのではないか、とそんなふうにも思えます。
それは、西洋の芸術と日本の芸術の非対称性という問題とも微妙に絡んでいると思います。日本人は西洋の芸術を素晴らしいと感じ崇拝する一方、日本の芸術はまだ西洋には追いついていないと考えている。そして現実に、海外ではほとんど日本の芸術は鑑賞されていません(音楽はその傾向が強いですが、他のジャンルでは世界に通用するモノはないことはないです)。

日本人論みたいな大きな話にするつもりはないのですが、そういった日本人の文化・芸術に対する一つの特徴として、「クサいものにフタ」的な意識が強くはないかな、ということをふと思ったのです。
私たちは、音楽や歌に美しいものを知らず知らずに求めているのではないか、見たくないもの、論じたくないもの、公序良俗に反するもの、そういうものを芸術から廃し、芸そのものがひたすら非現実(理想世界)で美しくあることを良しとする感性が根深くあるような気がしてきたのです。

2007年5月23日水曜日

意外と楽譜を書いてます

私のページの「オリジナル作品一覧」を見てもそれほど更新されてないので、そんなに作曲してないと思われるでしょうが、なぜか最近楽譜を結構書いています。
もちろん、本業の作曲家なら1年で合唱組曲を3つも4つも書くのでしょうが、さすがにサラリーマンの私にはそんなマネはできません。そもそも作曲もそれほど頼まれてないし。

最近何が多いかというと編曲モノ。それも一発限りの。たまたま、いくつか器楽系の編曲を頼まれるようになって、ポップスや懐メロ、スタンダードのような曲を、ピアノ、フルート、チェロ、ヴィブラフォン、チェンバロ等の楽器による小アンサンブルに編曲したりしています。
器楽は自分の音楽活動の中であまり馴染みが無いので、こういう機会に楽譜を書けるのは自分にとっても良いことだと思います。だって、楽譜を書くならある程度楽器のことも調べなければならないし、そういう過程で自分の音楽経験値が上がっていくはずですから。

こういった編曲をするとき私が心がけていることはこんな感じ。
 難しくしないこと
 構成やリズムは大胆に変化をつけること
 曲の元の和声はあまり変えないこと
 楽器を特徴付けるような装飾音符や奏法をメロディに付加すること
といったところでしょうか。その楽器での特徴を出し、一度限りの分かりやすさ、格調高さと思わずニヤッとする面白さが同居するような、そんな編曲を目指しています。

2007年5月19日土曜日

VOLTA/ビョーク

Voltaアマゾンってのは、うまい商売してますねぇ。一度、ビョークのアルバムを買ったら、新しいアルバムが出るとメールで知らせてくれたり、ページに行くとお奨めされたり。
意志の弱い私は奨められるがまま、ビョークの New Album "VOLTA" を買ってしまいました。前作メダラは、何しろほぼ声のみのほとんど実験音楽的世界でしたが、今回は、まぁ普通のポップスの範疇にかろうじて入るくらいの音楽にはなってます。
それでも、ビョークの創造性はあらゆるカテゴライズを否定し、思いのまま全く自由な音楽空間を作り出します。一般的に見れば、それは単なる奇抜さに見えるかもしれないけど、そこに潜む必然性に気付くとその深い芸術性に感嘆することになるわけです。
などと偉そうに言ってますが・・・いやいや、なかなか音楽の意図を汲み取るのは難しいのですけど・・・

変幻自在なヴォーカルも聞き応えがあるし、電子音と土着的なリズム音との取り合わせ、トラディショナルなブラスセクション、琴みたいな音とかサウンドもバリエーションが多くて楽しめます。
詩も(訳詩だけど)読んでみるとなかなか興味深いです。1曲目「わたしは地球への侵入者よ~」なんて表現で、地球的な危機に対して、危機を起こす立場で詩を記述しながら、逆説的にこの危機的状況を訴えかけているというのは面白い。基本的にビョークがシリアスなアーティストなのが読み取れます。

2007年5月14日月曜日

スパイダーマン3

ふーん、なるほどねぇ、うまいなあ。
日本の超大作と違って、金をかければきっちりと面白い映画を作るんですよね。ほんとに感心します。
それに私、この作品の作り手の感性が、結構好きです。どういうことかと言うと・・・

そもそも、主人公ピーターは全く冴えないキャラ。一般的に、SFとかヒーロー物って主人公のカリスマ性に頼るところが大きいのだけど、このスパイダーマンシリーズは、あくまで「冴えない主人公」にこだわります
アメリカならなおさら、きちんと自己主張して、自ら未来を切り開くような力強い人物に賞賛が集まるはず。しかし、どんな世界だって、引っ込み思案で、自信なさげで、からかわれ易い体質で、大事なときに的確な言葉を話せないタイプの人間はいるわけです。恐らくサム・ライミ監督は、そういう人の心情を良く分かっていて、そういったイケてない人間を愛情を込めて描こうとします。ティム・バートンなんかもそういう傾向があるのだけど、誰の中にもあるそういったダサさ、自己卑下的な部分の表現にとても共感できるんです。

特に今回は、ピーターの人間的な弱さが、スパイダーマンであることの慢心や、自分を裏切った人への嫌がらせ、恋敵に対する嫉妬といったような、負の感情によるセコい行動として表現されていて、そういう感情表現がものすごくリアル。超娯楽アクション大作なのに、こんなセコい人間行動に着目するあたりが心憎かったりするんです。

2007年5月11日金曜日

北海盆歌

久しぶりにプレイヤーズ王国に曲をアップ。
アカペラ民謡アレンジシリーズ、今回は「北海盆歌」。
となりのリンク集「Unit1317のページ (プレイヤーズ王国) 」で聴くことができます。
オリジナル編曲で、妻と私のアカペラ5声で演奏してます。聴いて欲しいと思う反面、相変わらず自分の歌が下手なので、そのあたりはあんまりしっかり聴かないように。
それにこういった多重録音って、凝りはじめると何度も録り直したりして、延々と完成しないことになるので、逆にほとんど録りなおしせずにあっさり作ってしまいました。だから、タイミングなどがずれてたりしても直してないです。
と、言い訳ばかりですが、基本的にはアレンジするのを楽しんでますので、私の編曲を聴いてもらえると嬉しいです。

2007年5月9日水曜日

24/96の世界とは

デジタルオーディオの音量の話から、ちょっと派生して、ハイスペックなデジタル音声について思うことなど。
前も書いたように、CDのスペックは 16bit, 44.1kHz なわけですが、最近はさらにスペックを上げた 24bit, 96kHz のデジタルオーディオが話題になることが多いようです。
bit数が1.5倍、サンプリング周波数が約2倍ということで、データ量的には合計3倍近く増えてしまいます。デジカメで言えば、100万画素が300万画素になりました!って感じでしょうか。

そういえば最近、こんなDVDが出て、林檎ファンとしては気にはなるものの、うーん、買うのはちょっとなぁっていうのが正直なところ。
もちろん私としては、24/96が音が良くなるのは理屈上わかっているつもりですが、実際の話、私たちが普通に音楽を楽しむにははっきり言って過剰なスペックだと思っています。

24/96のデータの音の良さがきちんとわかるためには、そもそもとてつもなく立派なオーディオルームで最高級のアンプとスピーカが必要になるはず。サンプリング周波数が96kHz ということは、48kHz までの信号が再生可能ということになるわけですが(サンプリング定理より)、そもそも、ほとんどの世の中のスピーカは20kHz以上の音は出ないはずなんですがねぇ。
それに、24bit っていうのもすごい数字です。ダイナミックレンジは1bitで約6dBなので、24×6=144dB というとんでもないダイナミックレンジを表現できるのですが、これだけのレンジに耐えられるSNを持ったアナログ回路ってあり得るんでしょうか。
私も仕事柄、音量とdBの関係については日常的に扱っていますが、普通50dBも音が小さくなると、ほとんど音は聞こえなくなります。そういう意味では CD の96dBも相当なスペックであることは確かです。
と、そんなわけで、24/96の音の良さを体感するには、かなり限られた環境が必要だと思うのですが、それを聞いた人が、全然音が違う、なんて言うのを聞くたびに怪訝に感じてしまいます。

もちろん、24/96は最終データでなくて、音楽製作の段階では非常に有効なのは確かです。四捨五入はなるべく最後にしたほうが(つまりミックスダウン時)計算誤差は少なくなるからです。(意味不明?)

2007年5月4日金曜日

ラブソングができるまで

はっきり言って、恋愛コメディ系映画なんですが、意外と良く出来ていて面白かったです。
ストーリーは、80年代の元スターのアレックスが、偶然出会った作家クズレの女性とタッグを組み、ヒット曲を作ろうと頑張っていきつつ、二人はだんだん惹かれ合い・・・、といった内容。

最初に、アレックスが80年代にやっていた「POP」というバンドのプロモーションビデオだけでかなり受けてしまいます。流行り始めのデジタルシンセの音、シンセドラムの音などサウンドも80年代風、ビデオもバンドメンバーが歌いながら寒い小芝居をしていて、そういえば20年前のプロモってこんな感じだったなあ、と思わず苦笑。
それに、細かい描写も微妙にリアリティがあって笑えます。アレックスは今や、高校の同窓会でのパーティや、遊園地などのショーで日銭を稼ぐ毎日。往年のファンも、もはやいいオバさんなのだけど、当時を思い出してノリまくっている様子はかなり笑えます。日本でいえば、ディナーショーみたいなもんでしょうか。

そんなとき、アレックスに売れっ子歌手のコーラから作曲の依頼が来ます。
このコーラって歌手がまた面白い。日本で言えば倖田來未みたいなセクシーアイドルなんだけど、仏教をモチーフにしているんです。礼をするときは必ず手を合わせ、歌詞の中には仏教用語が散りばめられている。セクシーなダンスにも仏教的なエキゾシズムが組み合わさっています。コンサートの最初には、巨大な大仏から現れるというパフォーマンス・・・

さてさて、内容的にもなかなか考えさせるところがありますね。
あくまでいい曲を、いい詩を作ろうとする努力と、曲作りも売れ線狙いでビジネスとして割り切ろうとする考えが、曲を作ろうとする二人の間での葛藤になってきます。もちろん、最後は信念を通して、いい曲を作ろうとした想いが売れっ子歌手コーラまで届くのだけど、創作する者の共通した想いというか悩みというか、そういうのが表現されていたように思いました。

2007年5月3日木曜日

音量を上げる

音楽を電気を使って伝える限り、伝えられる最大量は決まってしまいます。
電話、テレビ、ラジオ、CD、その他オーディオ系ファイル(MP3)など、全て伝えられる上限があるわけです。こういった上限を帯域などといったりしますが、デジタル音声信号で言えば、CDの 44.1kHz, 16bit というスペックが基本でしょう。
ちなみに、上記CDのスペックを帯域的に表現しようとすると、44100×16×2 ≒ 1.4Mbps となります。ADSL でもCD並みの音を送ることが出来るわけですね。(ちなみに 2 をかけるのはステレオ信号なので)

こういった限られたスペック内で、少しでも音量を上げるにはどうしたらよいか。
もちろん、信号自体を大きな数値にすれば良いのですが、そうすると、いつか信号の一番大きなところが、スペックを超えてしまいます。16bit の場合なら2の16乗なので 65535 より大きな数値を記録することが出来ません。
こういった場合には、信号全体のダイナミックレンジを圧縮した上で、音量をかさ上げすることが一般的です。ダイナミックレンジの圧縮は、コンプレッサーというエフェクトを使用します。
楽器の録音時にももちろんコンプレッサーは使うのですが、曲全体が出来上がった後で、さらに最後にもコンプレッサーをかけたりします。この場合、周波数帯域ごとに圧縮率を変えられるマルチバンドコンプレッサーが使われます。
これをうまく使うと、本当に音がすっきりしてくるし、もちろん音楽全体の音量がかさ上げ出来るので、ずいぶん印象が変わります。もちろん、現状世の中に流れている音楽のほとんどは最後にこういった処理がされているはずです。そして、こういったコンプレッサーの過剰な使用が、近年のCDの音量アップに繋がっているのです。
正直、クラシックのCDだって、こういう処理が全くされていないとは、私にはとても思えません・・・。実態は詳しくありませんが。

2007年4月29日日曜日

バベル

話題性の高かった映画なので、ぜひ見たいと思っていました。
三つの舞台でのエピソードが平行して語られていくという、構造性の高いストーリー。この三つのエピソードは、冒頭の銃の発射事件という一点で繋がっているのですが、各エピソードが進行するに従ってだんだん絡んでいく・・・みたいな、脚本的なテクニックとはまた違います。実際には、各エピソードは平行して進行し、それぞれの物語がそれぞれに解決して終わります。個人的には各エピソードがだんだん絡んでくる・・・といった技巧的なストーリーのほうが興味あったんですが。

もっとも、この映画のウリはそのストーリーのシリアスさにあるわけです。
近くにいるのに分かり合えない、そんなシチュエーションを拾い上げ、ほんのわずかな狂いがどんどん拡大されて大きな悲劇に繋がる様子を描写します。誰も悪くないのに、事態はどんどん悪くなっていく。それは絶対的な悪の所為なんかではなく、みんなが持っているほんのわずかなエゴの所為なのでしょう。そして、本来的に人間同士が分かり合うことは大変難しいことなんだ、というのが、この映画の伝えたいことなのだと思います。

エピソードの一つ、日本が舞台のストーリーはややエキセントリック。菊地凛子扮する聾唖者の退廃的な若者風俗などは、いささか挑発的すぎるかも。日本が舞台で、日本人役者が演じていても、このストーリーは日本人の下じゃ作れないだろうなと思いました。
ただ、爆音のDJのシーンで何度も静寂になるところ、もちろん聾唖者の感じた様子を表現しているのでしょうが、言葉が通じない・・・「バベル」という状態をうまく象徴しているように感じました。

2007年4月22日日曜日

音量の話

楽器の発達の話をしたので、それに関して思うことなど。
以前も書いたように、楽器の発達の目的の一つは音量を上げることにありました。

これはぜひ、知っておいてもらいたいことなのですが、人間とは単純に音量が大きいほど、印象深く感じる傾向があるのです。音楽の印象深さ、音が与える印象深さには、もちろん色々な要素があるわけですが、ほんのちょっと音量を上げるだけで、人々は音量が増えたと気が付かないまま、そのもの自体の印象は高まります。
例えば、テレビの番組の合間に流されるコマーシャルは、番組よりも少しだけ音量が上げてあります。コマーシャルになるとやけにうるさく感じるはずです。私は関係者では無いので、こういう仕組みがスポンサーと番組制作者とどんな関係において起こるのかは良く知りませんが・・・。
あと、良く分かる例としては、CDの音量です。10年以上前のCDを聴いたりすると、随分音が小さく感じたりしませんか。レコード会社にとっては、少しでもCDをたくさん売りたいのです。それなら、とここ10年くらいCDの音量がどんどん上がってきています。

CDに限らず、楽器でも何でも、電気で音を出そうとする場合、電気的には最大音量が決まってしまいます。また、その電気回路が扱えるダイナミックレンジも決まっています。例えばデジタルの世界で言うなら、CDの信号は16ビットのリニア波形なので、最大96dBのダイナミックレンジがあります。
ところが、音楽全体の平均音量を上げるということは、せっかくのダイナミックレンジを犠牲にして、音量の高いほう側に音楽信号を貼り付けてしまう、ということでもあるのです。

2007年4月20日金曜日

ひとまずのまとめ

クラシック音楽について、いろいろ書いてきましたが、すっかり話題が発散してしまいました。
つまり、まとめてみると
・クラシックは予定調和的で面白くない
・だいたい、本質的に発展していない
・それに権威主義的

それはなぜかというと
・100年くらい前に標準化された編成でオーケストラが成り立っている
・それと違う編成の曲は演奏されにくく、レパートリーも固定化された
・そのため、20世紀の楽器の進化に背を向けてしまった

楽器の話、編成の話は、クラシックを語る一側面でしかないとは思いますが、一つのジャンルが成立し、形式化し、伝統芸能化する典型的な流れを表しているような気がしてなりません。
なので、新しい価値観を模索しようとしている芸術家気取りの私としては、クラシック音楽とは過去の偉大な教科書の役割でしかないのかもしれません。芸術として今、現在をどう切り取って提示するのか、そのための感受性は、もっともっと別のジャンルからの刺激が必要なのです。

2007年4月16日月曜日

合唱名曲選:フォーレ・レクイエム「Sanctus」

とある助っ人要員で今日、フォーレのレクイエムを歌ったのですが、やっぱりいい曲だなあ、フォーレク。
フォーレの曲の良さというのは、ひとえに流麗な和音展開にあるのではないかと思います。そこで、今日歌った記念に(?)、Sanctus の和音を解析してみます。といっても、「Hosanna」の前まで。

ハープのアルペジオが曲の雰囲気を決定していますが、和声的に注意すべきなのは、これが第三音を最低音に置いているというところ(第一展開)。根音や第五音でなくて、第三音というのが独特の浮遊感を感じさせます。和声が移ろっても、明確な調性を感じさせないような感じをうけます。
基本的に "Eb/G" で曲は進行しますが、その後は以下のようになります。

[A]
| Eb/G | Eb7/G | C7/G Bb7/Ab | 〃 | Eb/G …
[B]
| Gm | Dm/F | Gm6 | D/F# | 〃 | 〃 | Bb7 …

練習番号[A]の "C7/G" は面白い音なのだけど、ドミナントとして "F" には向かわずに "Bb7 " に移行します。このときベース音の "G→Ab" という動きが自然なので "C7→Bb7" という和音進行が変に聞こえません。おかげで、この後、曲はまた Es-dur に戻れます。
次に面白いのは、練習番号[B]で、あれあれと思っているうちに、半音下の調に転調してしまうところ。ここも、"Bb7"から一旦 "Gm" に行き、三の和音だったのを二の和音に読み替えて、次の "Dm" でF調に転調、しかもその次を "Gm6→D" として、気が付くと Es-dur が D-dur に転調してしまいます。何と鮮やか。
ちなみに、この D-dur は、練習番号[C] の直前で、"Bb7" に無理やり行った後、Es-dur に戻ります。

[D]
| Bbm/Db | GbM7 | Db/Ab Ab7 | Bb/Ab Gm Bb7/F |
| C7/E Bb7/F | Eb/G Ab | Bb7sus4 Bb7 | …

「オザンナー」と盛り上がる前に、一拍単位で和声が移ろうところ。気持ちいいですねえ。特に "Bb/Ab→Gm→Bb7/F" とバスが降りながら、Des-dur ぽかった雰囲気をまた Es-dur に戻そうとする動きがいいです。
フォーレの和声は現代から見れば、複雑でもないし、テンション音も多くありません。しかし、ベース音を根音から外して、浮遊感を漂わせながら次々と転調していく様は、シンプルでありながら学ぶところがとても多いのです。

2007年4月14日土曜日

楽器の発達と標準化

自分でも大それたテーマだなあ、と思いつつ、相変わらず思うにまかせて書いてみます。
本来楽器というのは、絶えず改良が加えられ、変化していました。現在のオーケストラの楽器だって、古典派くらいの時代までは試行錯誤の連続だったのです(それが古楽というジャンルを生み出す要因でもあるわけです)。楽器の発達とは、前も言ったように扱いやすさや大音量化の追求であり、ピアノのような鍵盤楽器だけでなく、管楽器、弦楽器、そして打楽器もどんどん進化していきました。
しかし、音楽文化が国境を越え始めるに従い、進化と同時に標準化が必要になってきます。でなければ、オーケストラの編成の規格化が出来なくなり、ひいては同じ曲を世界各地で演奏することが不可能になります。
この標準化は、例えばJIS規格とか、最近であればDVDの規格とか、昨今ではそういう形の標準化団体があるわけですが、恐らく楽器の標準化にはそんな人為的な動きは無かったように思います。つまり、長い時間をかけながら、いろいろな人が取捨選択をした結果、なのでしょう。そういう意味では、自然淘汰による生物の進化と似ているかもしれません。

しかし、実は標準化は進化を妨げる作用を引き起こすことがあります。
例えば、誰かが6弦あるバイオリンを作ったとします。それにより音域や表現が拡がり、作曲家が新しい音域や表現で曲を作るかもしれません。しかし、その曲は新しいバイオリンでなければ演奏できません。そのバイオリンを演奏できる奏者、それを抱えるオーケストラというインフラが整備される必要があります。それは取りも直さず標準化された形態を変更する作業であり、世界中が同意しなければ先には進まないのです。

クラシックが標準化、規格化されつつあったのとほぼ同時に、全く規格外の新しい形態の音楽が発展し始めました。私も歴史的にそれほど詳しいわけではないですが、それがいわゆる現在のポピュラー音楽の大元になっているはずです。例えば、楽器としては比較的最近登場したサックスがクラシックよりもポピュラー音楽に使われることが多いということも、こういった流れと関係が深いのではと思います。
こうやって、クラシック音楽が楽器の発達(編成の規格の変更)を許容しづらくなった20世紀に、ポップスやロックと言われる音楽はそれを尻目に楽器の発達を貪欲に取り入れてきたというわけです。
そして、何より20世紀(特に後半)における楽器の大変革というのは電気化という点にあったと思います。

2007年4月11日水曜日

ピアノの未来

例えば、よく合唱団の練習には公民館を使いますが、その部屋にはピアノが置いてあることでしょう。実際、それほど値段は高くないアップライトピアノですが、それなりに乱暴に扱われるし、毎年調律をする必要はあるでしょうし、結構維持費がかかるはずです。それが電子ピアノに変わるなら、アップライトピアノよりは安いでしょうし、何より調律の必要がありません。多くの自治体が赤字の折、これは結構なコストダウンになります。
同じように小学校や中学校などのピアノはどうでしょう。各種集会場や、教会などは?ホテルのラウンジや、レストランなど、用途として電子ピアノでも構わない場所はいろいろあるように思います。商売ならなおさら、経済性でものを考えれば電子ピアノで十分、という判断はあり得ます。

それでも、芸術というのは費用対効果で考えることを拒絶させるイメージがあります。これが、先日紹介した「金と芸術」という本でも言っていた芸術の神話というやつです。あるいは、前々回書いた権威主義的な発想とも言えるかもしれません。
だから、実際にはそう簡単に、いろいろなピアノが生から電子にすぐに変わることはないでしょう。まだまだ、生ピアノ信仰は根強いと思います。安物であろうと何であろうと、電子ピアノが目の前にあるよりは安心してしまうというのが一般的な心理だと思います。
しかし実際、アマチュア合唱団の練習時に生ピアノでなければならない必然はそれほどないし(ピアニストは嫌がるでしょうが)、ましてやピアノを習いたての子供など何をかいわんやです。(などというと、最初から本物の音に触れさせるべきだ、と逆に説教されそうですが・・・それだって、本物の音って何?と言いたくなってしまう)

皆が現実的に考えられるようになるのには、まだ数十年が必要ですが、その頃までにはじわりじわりと身の回りに電子ピアノが忍び込んでいくはず。
もちろん、生ピアノは絶対なくなりません。むしろ、少量生産になっていくことで単価は高くなり、生ピアノのステータスは逆に今より上がっていくことになるのではないでしょうか。

2007年4月9日月曜日

電子ピアノはどうなるのか?

あてどもなくクラシック音楽について書いていますが、そこから派生して楽器のことなど考えてみましょう。
今、もっとも普及していて、多くの演奏人口を抱える楽器とはやはりピアノだと思います。クラシックでも、ポピュラーでも様々な音楽で使われ、学校教育で広く普及しており、そして一台だけで音楽の骨格を奏でてしまうことも可能な万能楽器。
また鍵盤をスイッチと考えると、最も機械化、電気化が容易なため、生の代用として多くの電子ピアノが作られるようになりました。昨今では、電子ピアノの性能も上がってきています。では、今後生ピアノと電子ピアノの関係はどうなると思いますか。

こんなことを考えるのも、これからの音楽を考えるのに、非常に象徴的なことだと考えるからです。
楽器は大音量化、扱いやすさ、という点を改良するために、これまで発展してきたと言えると思います。大音量化は電気拡声(つまりPA)が可能になった時点で、新しい局面を迎えました。この点については、また別の話題で書くこととして、一方で電子化は扱いやすさに貢献しています。
例えば、ピアノは大音量化のため、弦の張力アップが必要で、そのためにフレームが巨大化し、頑丈になってきました。そのため、最上級のグランドピアノなどは楽器自体が非常に大きくなっています。また、きちんとした音を鳴らすためには、調律や整音も欠かせません。
しかし、その問題は電子化によって解決可能です。乱暴に言ってしまえば、電子ピアノは鍵盤とスピーカがあれば事足りてしまうのです。だから楽器も小さくて済むので移動も簡単になります。また電子音なので音の調整も不要だし、鍵盤とスピーカがへたらない限り、メンテナンスフリーです。

もちろん、多くの人が生ピアノが電子ピアノに取って代わられるとは思っていないでしょう。
鍵盤のタッチもまだまだ生には及ばないし、そもそも生楽器の持つ豊かな響きをスピーカで再現するのはほとんど不可能だからです。どんなに技術革新しても、そうそう生と同じレベルに電子ピアノが到達するとは、正直私自身思っていません。(←開発者のくせに・・・)

ただ私は、仮に電子ピアノが生と同じレベルに達しなくても、今後10~20年くらいの間に、多くの生ピアノが電子ピアノに取って代わられるのでは、と本気で思っています。
それは、時代が変わることによって人々の価値観が変わってくるからであり、生ピアノにはない電子ピアノのアイデンティティが確立してくるからということなのですが、この続きはまた、ということで。

2007年4月6日金曜日

クラシックにおける権威主義

前回紹介した「金と芸術」によると、クラシックはハイアート、ポップスなどの大衆芸術をローアートと仮に称して、このハイアートとローアートの非対称性について語っています。
ローアート側の人は、ハイアートに対して尊敬の念を持つが、ハイアート側の人はローアート側を見下す。人々の芸術の嗜好そのものが社会的階層と密接に繋がっており、その二つの不均衡さが非対称性ということ。日本では若干、状況は違うような気もするのですが、どのような芸術を楽しむのかということが、その人の社会的地位を示す一つの尺度として機能するという要素はあるのだと思います。

実は、私がクラシック音楽で時々違和感を覚えるのは、クラシックに携わる人、あるいはマニアな方々にはびこる権威主義的な態度です。有名演奏者、オーケストラを聞きに行くためにはいくらでもお金を出して、賞賛を惜しまない。そういった態度の中には、本当に分かって言っているのかアヤしい言動もあるし、権威を利用して自分の判断を正当化しようとする魂胆が見え隠れします。
例えば、○○コンクール優勝とか、コンセルヴァトワールに留学とか、そういうのも権威として機能している重要な言葉。しかも賞賛する言葉って、音楽の具体的なことじゃなくって、豊かな響きがどうのこうのとか、力強さと繊細さを兼ね備えてどうのこうのとか、何やら抽象的で感覚的なことばっかり。

「権威が認定したスゴイもの」というのは、私たちの評価にとても影響を与えます。誰とても権威筋の判断とは無縁にものごとを判断することは出来ないのは確かなこと。
それでも、その権威を借りて知らないうちに自分の意見と同化させてしまうのって、見ていて気持ちの良いものではありません。常識知らずで恥ずかしいと思われるのも嫌だけど、もう少し自分の力で芸術の本質を見抜こうとする努力をしないといけないし、わからないことは分からないと謙虚に言うのも大切だと思うんですけどね。

��ひとつささやかな権威主義の例: モーツァルトのレクイエムで、あなたはジェスマイヤーが書いた部分は音楽的に質が低いと思いますか? もしかして、その意見はモーツァルトという権威に対する安心から起こったものだとは思えませんか?)

2007年3月31日土曜日

金と芸術~なぜアーティストは貧乏なのか?

Whyartistspoorとても分厚い本を、一月かけてようやく読了。
どうしても翻訳モノは素直に頭に入ってこなくて読むのに疲れますが、内容はとても面白かったです。「金と芸術」というのは邦題であって、原題は訳すと「なぜアーティストは貧乏なのか?芸術という例外的経済」となります。
要するに、現代における芸術活動全般に関して、経済的な観点を中心に分析をしていく、というのが本書のスタイル。
欧米の社会環境中心の話なので、日本では当てはまらないような描写も多々あるし(特に政府や公機関と芸術の関係とか)、いささか話がくどくて若干論旨の展開に無駄があるような気もします。
そういう難点は感じつつも、芸術をめぐる社会や経済の動きは、基本的にどの国でも、どんな人でも変わらないんだなあということを実感。

著者は、まず芸術は神聖なものであり、自律的で表現の自由がある、と人々が考えていることの総体が神話化されている、と言います。そのような傾向を持つ芸術に対して、あからさまな市場経済を適用することに多くの人が抵抗を持つわけです。しかし、それは結果的に非常にいびつな独特の経済を生み出すことになるのです。
また、芸術家になりたがる人々の傾向、そしてそれゆえに貧乏にならざるを得ない彼らの生活について言及します。世の芸術家のうちのほとんどは全く認められないまま活動を続けます。なぜなら芸術に身を捧げるということが彼らにとって人生を懸けても良いくらい、崇高な使命だと感じているからです。しかし、それは経済的な観点からみれば単に搾取されているだけで、経済理論を無視した特殊な行動にも取られてしまいます。

内容は盛りだくさんなので書き出すときりがないのだけど、芸術をめぐって世の中がどのように動いているのか、そういうことを客観的に知ることは芸術に従事するものにとって役に立つことだと思います。そういうことに興味がある方はおススメ。
クリエータたるもの、もっと狡猾であらねばならないと思う私にとって、ためになる一冊でした。

2007年3月30日金曜日

クラシックにおける規格化

ちょっと別の視点でクラシック音楽を語ってみましょう。
クラシックと聞いて思い浮かべる編成はなんでしょうか?やはりオーケストラ?それとも室内楽、それともピアノ?まあ、一般的にはオーケストラということだと思いますが、一口にオーケストラと言ってもいろいろな編成があります。一晩のコンサートでモーツァルトとマーラーを演奏すれば、あまりの演奏者の違いに驚きます。
この演奏者の数の違いって、冷静に考えるとオーケストラ泣かせな事態ではないでしょうか。一晩の演奏会でも降り番の人がいたり、エキストラがいたり、人のやりくりが大変。練習日程の組み方も難しくなるはずです。ちゃんとどの日にどの曲を練習するか決めないと、無駄に待ち時間を過ごす人も出てくるでしょう。

オーケストラが一つの団体として存続を続けるためには、そもそもオーケストラが必要とすべき楽器が決まっていなければなりません。実際には、弦楽器、木管、金管、そして打楽器の奏者1セットが揃っていれば、オーケストラとして成り立つわけで、つまりそういう編成がオーケストラ音楽の標準規格と言えるでしょう。
こういった編成の規格化があるからこそ、オーケストラという団体が成り立っているとも言えるわけで、好き勝手な編成で曲を書いたとしても、やってくれる団体が存在しなければ意味がありません。

ところが、実際には新しい音楽を作りたい人は、いろいろな新しい編成まで考えていきます。最近はテレビ、映画でもオーケストラ+ドラム+エレキベースといったポピュラー的リズム隊を足した音楽が増えてきたように思います(もっともその場合、生のオーケストラを使っていない可能性もありますが)。ポピュラー音楽が世の大半である現在、いわゆる生楽器はむしろバンド的編成の中に取り込まれていく、という流れのほうが自然なのかもしれません。
残念ながら、オーケストラが今の編成で存続しようとする限り、新しい音楽を演奏することは難しくなりそうです。そうなると、やはり18,19世紀の音楽をレパートリーにし続けるしか無くなってしまうのです。

2007年3月27日火曜日

クラシックは素晴らしいけど

音楽理論の多くがクラシック音楽から発祥しているのは確かな事実。そういう意味で、クラシック音楽は学術的にも、芸術としても非常に価値が高いものです。
しかし、その一方、芸術というのは常に時代を反映するものであり、世の中をどのように切り取って提示するのか、ということがその本質だと思うのです。同時代性を抜きにして創作活動は語れません。
小説も映画も演劇も、そして美術も舞踏も、全て今を意識しながら新しいものが生まれ続けているはずです。例えば、何百年も前に書かれた小説を読んで感動することは可能だし、そこから得られるものは多いのだけど、小説はそれだけではなく、今現在、新しい価値観や視点を我々に提示しようと、今を生きる小説家たちは日夜頑張っています。
時代が芸術を生む一方で、芸術が時代のマインドを生んでいく、その連鎖が文化を形作っていきます。
要するに、時代はどんどん変わっていくのです。その先端に居たいと思うか、その流れに背を向けようとするかは、それぞれ個人の趣味の問題ではあるのだけど、私には一般的にクラシック音楽ファンというのが、やや後ろ向きな人々に感じられてしまったりします。
クラシック音楽の芸術的価値に疑問をはさむつもりはないのです。数世紀を超えて残った音楽はやはり素晴らしい。だからこそ、その素晴らしさを理解したうえで、今の時代に合うものが生み出されるべきでしょう。

2007年3月23日金曜日

クラシックを聴かない

今、結構面白い本を読んでいます。読了後、またご紹介しますが、芸術全般にまつわる経済論のような内容。
それに直接関連しているわけではないけど、クラシック音楽というのは、実際に音楽市場として成り立っているのでしょうか。まあ、そのように乱暴にクラシックをひとまとめにするのも野暮なんでしょうが、世の中一般的に、クラシック音楽を好んで聴いている人がそれほどたくさんいるとは思えません。

恐らく、クラシックを好んで聴いている人は確実に年々減っているのだと思うのです。
そして、その理由は何かと問われれば、あられもない言葉で言うのなら、つまらない、からではないでしょうか。あ~言ってしまった。
私とて、非クラシック系音楽を聴くほうが最近は多いです。自分自身がどうしてそうなのかと問われれば、非クラシック系にたくさんの面白い音楽やアーティストがいるからであり、自分が感動や刺激を受けることが多いからです。もちろん、感動の量や質を問うことは難しいです。しかし、私から見れば、クラシックは全般的に、保守的で予定調和的であり過ぎます。そもそも、現代に作られた音楽を演奏していないことが根本的におかしい。

もちろん、クラシック音楽の中に非常に高いレベルの音楽性を発揮し、それをきっちりと演奏する素晴らしい演奏者がたくさんいるのは確かです。私もたくさんの好きな作曲家はいるし、たまには演奏会にも足を運びます。しかし、本当に私が求めているのは、クラシックでは感じられないような、もっともっと狂おしいほどの革新なのかもしれません。
こういったメタな話、しばらく書いてみようと思います。

2007年3月17日土曜日

今年の課題曲集

全日本合唱コンクールの課題曲集である、合唱名曲シリーズ36がすでに全国各地に届いているようです。
今年は、「だるまさんがころんだ」に続いて、拙作が課題曲に選ばれて今からワクワクしているのですが、その一方で今回自分の曲を選んでくれるか心配もしていたりします。
だって、詩がないし、分かり易いメロディもないし、一般的には変な曲ってふうに思われているでしょうから。曲自体の説明は、ハーモニーの記事にも書いたのでそちらを見ていただくとしても、なかなか理解されない危惧を抱いているわけです。
今年はG3の池辺晋一郎の曲もかなりエキセントリックで、混声のしっとりした日本語の合唱曲がなく、すでに各方面から非難の声が・・・。といっても私のせいじゃないからね。個人的には "U" でなくて、"A" のほうが課題曲に合っていると思ったんですが、決められたものは仕方ありません。
しかし、G3の「鼻」だって、その面白さを掘り下げて徹底的に演じきれば、素晴らしいエンターテインメントになると思います。一般的には合唱団員はこういう曲を嫌いますが、そういうチャレンジもアマチュア合唱団にはして欲しいとも思います。人を楽しませてこその演奏なのですから。

本当は作曲家の出来ることなんて限られているのです。本来、難曲をこなすことが演奏の凄さなのでなく、演奏者が身体の中から何かを表現しようとしていることが大事なのです。私としては、池辺氏のG3も、私のG4もそういった表現の可能性を持った音楽だと思うし、むしろ、演奏家の中の表現力をこそ問うような音楽なのだと思います。
正解のある表現なんて面白くないじゃないですか。

さてここから重要情報
G4の 「"U":孤独の迷宮」 の楽譜に間違いがあります。
��1小節のアルトの一拍目、上の声部は F にカッコつきのナチュラルとなっていますが、これは Fis の間違い。音符に#を付けてください。
この件、ハーモニーにも掲載されるはずですが、まずは取り急ぎお知らせいたします。

2007年3月12日月曜日

ヘルシンキに行ってきました

会社の5年に一度に取れる連続休暇を利用して、今回はフィンランドの首都、ヘルシンキに行ってきました。
ちなみに5年前の話題はここ
五日間ずっとヘルシンキに滞在して、トラム(路面電車)を乗りまくりながら、いろいろなところに行きました。まあ、はっきり言って今回の旅行の主目的は妻のショッピングなので、旅行日程はほとんど妻が考えたのですが。
ショッピング以外のことをトピックに分けてご紹介。
●ヘルシンキの気候
もちろん、北欧だから寒いです。ただ、防寒対策はかなり準備していったおかげか、あまり寒さは感じなかったのが正直なところ。気温はだいたい0℃前後でした。天候はほとんど曇りか、ちょい雪(ちょっと雨)。
そもそも北欧の雰囲気を堪能するなら、厳寒の冬か、日の長い夏にすべきなんでしょうが、そういう意味では中途半端な時期の観光でした。まあ、自然を堪能する目的でなかったので、どうでもいいんですけど。
●博物館と美術館巡り
ずっとヘルシンキにいたので、博物館や美術館にも行きまくり。
行ったのは、国立博物館、デザイン美術館、スオメンリンナ博物館、郵便博物館、国立現代美術館キアズマ、アテネウム美術館、の6つ。デザイン美術館はなぜかF1の特別展で、F1のレースカーが展示されてました。あと、キアズマ、アテネウム美術館で現代美術を堪能。オブジェとか、パフォーマンスを上映していたりとか、アバンギャルドな芸術もたくさんあって、何というかヨーロッパの前衛芸術に対する寛容さをちょっと感じたり。
●クラシックコンサート
当日券で、国立オペラハウスでやっていたチャイコフスキー「スペードの女王」を鑑賞。時差で眠くて、第2,3幕ではところどころ気を失ってました。正直、主人公の歌手の風体がいまいちだし、現代的な演出にも共感は覚えませんでした。最後のアカペラ男声合唱の音程がちょっと酷くて、全体的にう~んという感じ。
テンペリアウキオ教会での、フィンランド放送交響楽団の演奏会にも行きました。こちらは事前に日本でチケットを購入。これは大変面白かった。特に最終ステージのストラヴィンスキー「プルチネルラ」が面白い曲でした。指揮者は徹底的に音楽のキレを重視していて、残響の多い教会の中で、もやもやしない音像を実現していたと思います。ああいう固めの音楽作りって日本ではあまり聞かれなくって、個人的には大変気に入りました。

ヘルシンキは大都会というわけでもなくて、日本で言えば、広島とか仙台くらいの感じの大きさでしょうか。いろいろ見て回るのもちょうど良いくらいの広さ。どこにも英語の案内があるし、ほとんどの人が英語を理解するので、そういう意味でも安心(自分の英語力を棚においても)。恐らく日本よりも安全で、気楽に観光するにはなかなか良い場所だと思いました。

2007年3月6日火曜日

パフューム

異常に嗅覚が強い男がその能力を駆使し香水作りを始め、そしてついに恐ろしい犯罪に手を染めてしまうという話。舞台は18世紀のパリ。その男は、究極の香水作りのために、若い女性の香りを探し求めます。そしてついに連続女性殺人を犯してしまうのです。最後にその男の処刑のシーンがあるのですが・・・それが問題のシーンとなって話題になっています。
そもそも、このストーリー、スピルバーグ、リドリー・スコット等の有名映画監督が映画化を考えて原作者にオファーをしたという逸話つき。結局はそういったビッグネームでない監督による映画化となったようですが。

映画自体は、最初のほうでナレーション付きなのが時代物がかっていていまいちだと感じたのですが、後半、連続殺人になって街中が恐怖に震えるあたりからどんどん引き込まれます。
そして圧巻なのがラストシーン。簡単に言えば、数百人の壮大な乱交エッチシーン。まあ、人によってはかなり引いたようですが、なんというか、一種のファンタジーなんですね。香りが人々を恍惚にさせるということを、もっとも極端な方法で表現したというのか・・・。この映像を撮ったというだけで、監督は本望だったのではとも思えてしまいます。
主人公は目的のために手段を選ばない、冷徹な恐ろしさを秘めています。それが映画全体の気味悪さをかもし出していて、そのためになんとなくこの映画を見終わったあと、居心地の悪さを感じる人も多いかもしれません。
でも、こういったある種の悪趣味さ、グロさ、変態っぽさ、というのはすごくヨーロピアンな感じがするし、そういう中に究極の美を見出そうとする感覚には、どこか共感を覚えたりもするのです。

ラトル指揮・ベルリンフィルの音楽も巷では評判になっているようです。なかなか静謐で物悲しい感じで、きれいな音楽だと思いました。

2007年3月4日日曜日

さくらん

蜷川実花初監督の吉原の遊女を描いた映画「さくらん」を観てきました。もちろん、見るきっかけというのは、椎名林檎が映画音楽を担当したから、ということなので、正直映画そのものには期待してなかったのです。
だいたい、吉原の遊女の哀しみ、といった内容の映画など、恐らく私は通常見に行ったりしないような題材です。もちろん、ふか~い世界はあるのでしょうが・・・、嘘と嫉妬のうずまく人間模様ってのは、どちらかというと苦手な領域。
実際、この映画も基本的にはそういうお話なんですが、意外と良く出来たいい映画だと感じました。

原作はマンガだそうで、もちろん読んだことはないのですが、恐らく原作の質もいいのでしょう。気の利いたセリフや、人物描写のリアルさもなかなか。それに私が日本映画で一番弱いと思う脚本も、論理的整合性や小ネタの接続に感心するところが多かったです。例えば、ヤシロの桜の花のエピソードとか、髪飾りを渡すシーンとか。
あと、美術的にも絢爛な映画世界を良く表現していたと思います。その中でも面白いのは、金魚のモチーフ。映画を通じて、金魚が至るところで現れます。圧巻なのは、吉原の入り口に巨大水槽があって、そこに金魚が飼われているところ。映像における主題の扱い、というのもうまいと感じました。
役者もがんばってます。かなりきわどいシーンもあって、話題になっています。はっきり言ってエッチシーンは多いです。ただ、それもセクシーとかじゃなくて、ひたすら女性視点であるという点が面白いのでしょう。

音楽は、事前情報以上のものではなかったけど、映画の雰囲気と林檎世界がばっちりはまっていたことは確か。若い女性の観客が多かったので、きっと林檎ファンが映画を見に行く、という宣伝効果もあったんでしょうねぇ。

2007年3月3日土曜日

Time Control/上原ひろみ

Timecontrol昨年のコンサートで大感激した上原ひろみのニューアルバム、もちろん買わないわけにはまいりません。
今回は「時間」をキーワードにした、一種のコンセプチュアルなアルバムです。また、これまでトリオ編成でしたが、今回はギターが加わり4人編成。
全体的にはギターが加わったことにより、サウンドがよりロック化してきました。曲全体もよりプログレ感が増し、なかなかいい感じです。「時間」というテーマ性のせいか、シンプルで分かり易い楽曲がむしろ減る方向になり、トータルとしてはマニアック度が高まっているように感じます。
ギター参加でロック化と言っても、やはりメインはピアノ&キーボードであり、いわゆるロックバンド的なサウンドとは全く違います。この手の音楽は基本的に一発録音らしく、ヘッドフォンで聴くとアンサンブルの息遣いが感じられてなかなかいい感じ。

ただ、プログレ化は大好きな方向性なのだけど、逆に言うとアルバム全体にちょっとメリハリが無いような気がしました。凝っているのだけど、全体が一本調子みたいな。ところどころ、以前の楽曲のエコーなども聞こえます。できれば、もっと曲調のバリエーションが増えるといいなあ、と感じました。
まあ、それでもCDで聞く印象と、ライブではまた違うと思います。ライブだと、さらにワイルドに、アグレッシブになるのかもしれません。機会があればコンサートはまた行きたいですね。

2007年2月26日月曜日

千の風になって考

大ヒット曲となった「千の風になって」ですが、ひねくれモノの私は当初より、フォーク崩れのメロディを声楽家が歌った変な曲、と冷ややかな目で見ていたのです。
この週末、実家に帰って、母がいろんな人から「千の風になって」って素晴らしい曲だから一度聴いて、と言われたという話を聞きました。CDなんか扱い方も知らない母ですが、ぜひ聴きたいと言われ、CD屋に行って「千の風になって」のCDを購入。ラジカセで母に曲を聞かせてあげました。
そして、実際聞いてみると、なるほど、これはある意味スゴイ曲だということがわかってきました。

近親者、特に配偶者を亡くした人の悲しみというのは、やはり経験した人でなくてはわからないものなのだと思います。大切な人を亡くして、その人を供養したいという気持ちは、そのまま、その人がこの世でないどこかに存在していて、私たちが暮らしているのを見守っているのだ、という考え方に直結します。
だから、イタコとか霊媒師のような人々がどんな社会でも古来からいたのだし、そういう人たちを必要とする心境もわからないではありません。(ちょっと昔の映画で「ゴースト」の黒人女性霊媒師を思い出しますね~)
私の思うに、この「千の風になって」という曲、イタコや霊媒師を通して亡くなった人を感じたい、まさにそういう心理をそのまま具現化したような曲だと感じたわけです。
この曲を知らない人に簡単に紹介すると、この曲の詩は、死んでしまった人が今生きている人に対して「私はお墓の中にいるわけではなくて、風になっていつもあなたを見守っているんですよ」と語りかけている歌です。
この歌を、ポップスや演歌の歌手でなくて、声楽家的な声で歌っているというのがミソ。端正でいくぶん無表情なあの声楽的な声が、まさに天から届いてくるような神聖さを象徴させているのでしょう。

いやー、こりゃルール違反ですよ。大事な人を亡くした人がこの曲を聴いたら、そりゃ泣けてくるに決まってます(T_T)。まるで歌を通して、亡くなった人が自分に語りかけてくるような、そんな錯覚を感じてしまいます。そう考えると、日本中の悲しみに暮れる人々への霊媒師としての役割をこの曲は担っているわけです。
正直、この歌手が一発屋で終わってしまうのは避けられないこととは思いますが^^;、音楽の仕掛け方は実に巧妙なものだと感じ入ったのでした。えぇ、もちろん母も目頭を熱くしていましたとも。

2007年2月22日木曜日

平成風俗/椎名林檎×斎藤ネコ

Manners今日の朝日新聞の全面広告には驚きましたね。何か売り出し方も半端じゃない気合を感じる、椎名林檎の4年ぶりのソロアルバムなのです。発売日当日にCDゲットしてここに感想書く私もかなりの林檎オタクでございます。もちろん期待を裏切らない非常に内容の濃い音楽でした。
今回のポイントは
・アルバム中のほとんどが既存曲の再アレンジ。
・椎名林檎が映画「さくらん」の音楽担当をしたことによる、その副産物的アルバム。
・斎藤ネコ氏をアレンジの中心にすえ、全体的にオーケストラサウンドがメインとなっている。
といったところでしょうか。
ところが一聴したところ、オーケストラ中心だというイメージともまた違っているように感じました。正直言って、凝りすぎな部分もあり、軽く音楽を聞きたい人にはちょっと重過ぎるかもしれません。

例えば、「ハツコイ娼女」「花魁」の打ち込み系サウンドはかなり前衛的で、「ハツコイ・・・」のサビの部分など、前衛合唱曲のような歌唱の音節分解がされていたりします。
その一方でコテコテの4ビートジャズや、タンゴなどのラテン系編曲もあり、サウンド的にはよりどりみどりという感じ。ボーカルも、かなりドライだったり、リバーブ深めだったり、曲によって全く別の加工がされています。
個人的には自分の好きな曲「ポルターガイスト」のミキシングがちょっと気に入らなかった。せっかく弦楽合奏で録音したのに、モノラルのラジオ的サウンドにいじってしまったのが、ちょっともったいない気がするのです。

何しろ凝ってます。管弦楽奏者を集めて相当お金をかけて製作しているようだし、サウンド的な懲り方もかなりのものです。でも、ポップスなんて、このくらい凝っているほうが飽きがこなくていいのかも。
キュッと心を締め付ける切ない林檎節は健在。「夢のあと」も泣けますね。
何はともあれ、もう少し何度か聞き込んでみないと・・・

2007年2月19日月曜日

MIDIデータを地道にアップ2

ホームページで聴けるMIDIデータを増やそう運動中。
今回は、混声合唱曲集「はる なつ あき ふゆ」より一曲目の「はるよこい」と、詩集「食卓一期一会」より「ブドー酒の日々」の2曲です。
ちなみに、「はる なつ あき ふゆ」は日本の四季の風物をテーマにした18の短い詩に、それぞれ個性的な短い曲を付けてみようという試みの合唱曲集。どの曲も1~3ページ程度。なんと4小節しかない曲もあり。ただ、全18曲ということで、これもなかなか演奏の機会がありません。
友人や近場のグループで断片的に歌ったことがありますが、まとめて歌うと四季の移ろいを感じることが出来て、ステージとしても面白いと思います。矢川さんのやわらかで繊細な詩のセンスが、ありがちな季節の風物詩に陥らない不思議な異空間を作り出しています。

もう一つは長田弘氏の詩集「食卓一期一会」から詩を選んで、3年前にヴォア・ヴェールで初演した作品。
いずれも料理を題材にした面白い詩です。「絶望のスパゲッティ」「ユッケジャンの食べ方」は詩の内容がいずれも料理のレシピのようになっていて、曲が進むとだんだんと料理が出来ていくという趣向。
今回MIDIでアップしたのは「ブドー酒の日々」という、短めの落ち着いた感じの曲。しっとりと歌い上げると雰囲気が出ると思います。
これらの3曲は極力ディビジを廃しており、少人数の合唱団でも取り上げやすい曲になっています。

2007年2月18日日曜日

疑似科学

ちょっと前の納豆ダイエットから始まって、テレビ番組での科学の扱いが問題になっています。
いちおう理科系の端くれの私としては、以前よりこういったテレビ番組のあやしさは常々気になっていたのですが、それでもテレビに向かって「そんなわけないじゃん!」とか思っていても、意外と周りの人って番組の内容を素直に受け入れていて、逆に驚いたりもします。
特に腹が立つのは、占いとか心霊モノとかの類の番組。正直言って、私は心の底から全くそのようなものは信じないわけですが、何であんなもの、みんな信じるんですかね。どうせ、心霊ネタやるんだったら、もう少しまともな作り方にすれば良いのに(文学的、芸術的匂いを感じさせるとか)、どうしてこうも下世話になるのか不思議なくらいです。
科学的に考えればあり得ないとしか思えないのに、そんなことを言うこと自体がなんか野暮のような気がして、いつも心の中で留めておいています。

私の思うに、そういう番組を「こんなことってあるのね~」なんて見ている感覚こそが、疑似科学にだまされるような心理につながるような気がしています。
占い、心霊、疑似科学などには共通していることがあると思います。それはいずれも、その結論が個々人の人間の欲望とつながっているという点です。こうあって欲しい、こんなになったら嫌だな、こんな風に自分はなりたい……そういう人々の想いが、疑似科学を通じて現実となる可能性を示された途端、人々はよく検証もせずに無条件に信じたくなってしまうのです。
だから、こういうものに騙されない方法は意外と簡単なのです。
結論が直接自分の欲望を満たすようなものは、たいていアヤしいです(「痩せる」とか、「記憶力が良くなる」とか、「いつまでも元気でいられる」とか)。なぜなら、その命題が結論から先に作られている疑いがより増すからです。一つ一つ疑いの目で見るのも良くは無いように感じるかもしれません。でも、場合によっては経済的損失だってこうむる可能性があるのですから、もう少し私たちは賢くなるべきだと思うんですけどね。

2007年2月14日水曜日

よせばいいのに始めてしまったもの

新聞かなんかを見て、これ買ってみようかなあ、と家でつぶやいていたら、しばらくして「はい、プレゼント」と妻が買ってきて手渡してくれたのです。
それは何かというと、コレ
歴史とか、古代とか、考古学とか、そういうのって(そんなに詳しいわけではないが)好きなんです。この企画、そんな私の心をくすぐります。ロマンを感じますよねぇ。

しかし、問題なのは……このシリーズを買い続けるかってこと。ちなみに妻がプレゼントしてくれた創刊号は特別定価の290円。それ以降、毎週560円。ちなみに今のところ全100号の予定らしい……。しかし、一冊手に入れたからには揃えたくなるのが人情というもの。うぅ、悪魔のプレゼントじゃ!
さあ、もしあなたが古代の歴史に興味があるなら、来週以降(2年近く)買い続けますか。
結局私は、定期購読の申し込みをしてしまったのでした。

2007年2月12日月曜日

三連休に風邪で寝込む

金曜から体調が良くなくて、家に帰って体温を計ってみると、何と38℃の熱。こんなに熱が出るなんて最近では記憶にないくらい。土曜に医者に行ったら、どうやらインフルエンザではないとのこと。とりあえず普通の風邪薬をもらってきました。
しかし、結局この三連休、どこにも行かずに一人で家でぐったりしています。長文を書く気も起こらないので、今日はここまで。

2007年2月6日火曜日

静岡県アンコンに参加

たまには、演奏の報告など。
昨日、静岡県ヴォーカルアンサンブルコンテストに出場してきました。
静岡県の規定は6名~16名で、この最大人数がなかなか微妙なライン。ウチ(ヴォア・ヴェール)は最近20名弱の団員数になっているので、今回は男声と女声と分かれて参加。ちなみに団体名は、女声が「ヴォア・ジョーヌ」男声が「ヴォア・ブルー」です。練習は昨年暮れから、男女で分かれて行いました。男声はそのままではちょっとテナーが弱いので、数名助っ人を呼んで補強^^;。

ちなみに私はヴォア・ブルーの指揮をしました。曲はコダーイの「A CSIKO」と、昨年の課題曲「小夜の中山」。
一ヵ月半くらいの練習だから決して少なかったわけじゃないけど、なかなか全員揃わなかったりで、バランスなどもう少しつめたかったのが率直な印象。この辺が少人数合唱の難しさでもあるのですが、それはある意味、どの団でも同じなんでしょうね。
結果は女声、男声ともに銀賞でした。いい感じまで仕上がったとは思ったのですが、それ以上に上手い団体が多かった。
最後の2回の練習では男声、女声で聞きあってダメ出しをしましたが、同じ団内で聞きあうという経験はあまりないんで、結構刺激になったんじゃないかな。

2007年2月2日金曜日

失われた町/三崎亜記

Machiとなり町戦争」でデビュー&いきなり大ヒット&映画化、で一躍有名になった三崎亜記の長編第二弾を読みました。
やっぱり町か、と何となくネタの近さが気になりつつも、読んでみると、こりゃ思いっきりSFですね。30年に一度、町の消滅が起こる、という奇想天外な設定は、確かに前回の「戦争事業」という奇抜さに近いかもしれないけど、戦争が社会系に向かうのに対し、「町の消滅」は科学系に向かいます。
正直、私はSFに対してアンビバレンツな感情を持っており、大好きな小説もある反面、だからSFってやだなあ、と思うこともあったりします。今回はというと、非常に上質なSFで、私の中のSFのやなところが無いのがとても良かった、というのが率直な感想。
全体は、7つの章から構成され、それぞれが独立した小さなストーリーとなっています。したがって、物語としては一つなぎに連続に進んでいくわけではありません。
登場人物は限られているのですが、各章ごとに主人公が異なっていて、通して読むと、同じ人物が主人公になったり脇役になったりして、ちょっと違和感は感じました。ストーリーも全体としての起伏がないので、一般的な小説の読後の爽快感を感じるのは難しいでしょう。そういう意味で、決してこの本、万人受けしないと思います。

何が面白いって、この世界観の半端じゃないフィクション性。「月ヶ瀬町」といった地名が出るのに、舞台が「日本」であるとは決して書かれない。つまり、この地球上の話ではない、というくらい丹念に現実とのつながりを避けています。まるで、同時に文化が発展している別次元のパラレルワールドを描いているかのごとくです。
だから、この世界で聞かれる音楽や風俗も全て架空のもの。そういうのに徹底的にこだわり、架空の用語を造語していくセンスがまた鋭い。
もちろん、30年に一度町が消失する、というあり得ない設定を、小説内であたかも常識であるように書くためには、このような徹底的なフィクション化が必要だったということなのでしょう。こういうディテールの細かさには共感します。
ただ、過度なフィクションは読む者を困らせます。一つ一つが全くわけのわからない単語で、読み進めるのに難儀する場合もありました。このあたりは賛否のわかれるところかもしれません。

2007年1月28日日曜日

作曲家の発想術/青島広志

Aoshima無茶苦茶面白くて一気読みしてしまいました。作曲家を目指そうとしている人の夢を打ち砕き、商売敵を減らそうという目論見なのか、筆者が経験した悲惨な体験の数々を暴露する、というのがこの本の隠れた楽しみ方。名前は伏せてありますが、恐らくその筋では、簡単に誰だか分かってしまうに違いありません。少なくとも、合唱に関する話題では、誰でも知ってる某指揮者の名を思い浮かべたし。

最近はテレビでの露出も増え、アヤしい音楽家としての地位を確保しつつ青島氏でありますが、恐らく日本的な慣習に体質が合わない芸術家の典型なのかとも思います。虚栄で行動することの愚かしさを発言すればするほど、業界から干されてしまう(?)氏の体質には正直共感を覚えるところもあって、そういう目でこの本を読むととても興味深いです。
読んでみると青島氏は音楽史全般について非常に博学。しかも、その本質的なところをよく捉えているように思います。この本は、もちろん著者のぼやきだけでなくて、過去の作曲家の世知辛いエピソードもたくさん散りばめられています。崇高と思われている作曲家の神秘性を信じる人には、受け入れがたいかもしれません。(そういう人が、納豆ダイエットとかに騙されてしまうわけですけど)

実際のところ、氏のようなシニカルな視点は、一般社会の中では「ふざけている」というような反応をされることが多いと思います。それでも、社会に対する(小さな)問題を告発するために、私たちはもっと皮肉屋になるべきじゃないかと感じたりします。欧米って、そういうのってかなり辛辣ですし。
しかし、これだけの実績を持っている人なのに、どうしてそこまで自己卑下するのかなあって部分もあって、私など氏の足元にも及ばないのですが多少は反面教師とさせていただきたいと思います。
それにしても、こんな本さえ、「のだめブーム」の便乗本にしてしまうのは、講談社のしたたかさなんですね。

2007年1月26日金曜日

MIDIデータを地道にアップ

そんなわけで、実は「オリジナル作品一覧」のページで地道にMIDIデータをアップしています。
どれだけの人が私のページで MIDI を聴いてくれているか、はなはだ疑問ではありますが、数少ない私のファンの皆様、ときどき上のページもチェックしてみてください。

今回は、編成的にもっとも演奏される可能性の低い「うろくずやかた」を、なんと!全曲分アップです。
伴奏付きなので、アカペラよりは聞きがいがあると思います。よろしければ全曲通して聴いてみてください。

もう一つ、最近アップした曲で「プエブロ・インディアンの言葉」という組曲から「今日は死ぬのにもってこいの日だ」が聴けます。作曲はもう5年ほど前のことですが、いまだ未初演。
ただ、自分で言うのもなんですが、この曲、きっと感動してもらえると思います。自分の中でも、詩の雰囲気をうまく曲で表現できたと思える一曲。このまま埋もれるのはもったいないので、アップすることにしました。MIDI なので、詩はどうしてもわからないけど、曲の雰囲気が伝われば幸いです。

これらの曲について興味がありましたら、遠慮なく連絡くださいね。

2007年1月22日月曜日

理系芸術

いわゆる理系、文系という区分けが、そのまま学問の種類として人文系、自然科学系となり、各学問はそこからさらに分化されていくという考えが一般的。
しかし、最近思うのは、そういった学問の分け方がだんだん意味なくなってきているように思うのです。特に私には世の中の様々な学問が理系化しているように感じます。いや、理系でも文系的素養が必要とされたりもするので、世の学問が全体的にクロスオーバーし始めているのかもしれません。結局、どんな学問でも幅広い教養が大事ってことなんでしょう。
例えば、言語学なども、音声を扱うとなると音声の解析が必要となります。そうなると、周波数解析の手法や、フォルマントなんていうことは最低限知らなければいけません。経済などは、もうほとんど数学みたいで、経済理論なんてのも数式で表したりします。
また、どんな学問でも最後には人そのものに研究の目が向かいます。人そのものとは、人間の思考を研究するということであり、これは脳科学によって解明されるべき内容となっていきます。そもそも、様々な調査結果などを分析するにも統計学的な処理は必要で、データを扱う一般的な手法は、もはや理系でなくても必要なことだと思われます。
コンピュータが生活の中で大きな役割を担うほど、否応無しに人々に理系的センスを要求しはじめます。コンピュータに関する知識や技術は、少なくとも今後は義務教育になるくらい基本的なリテラシーとなるに違いありません。

前振りが長かったですが・・・つまり、芸術においても、理系的な側面が今後クローズアップされるのではないか、という想像が出来るわけです。前回書いた明和電機なども、一種の理系芸術であると言えるでしょう。機械を作ることの中にも芸術的な感動を与えることができます。機械がどのように動くのか、どのようなUIを持つのか、どのようなデザインなのか、そういったコンセプトそのものが芸術的審美観で語られても、少しもおかしくありません。
一昨年、朝日作曲賞の佳作を頂いた拙作「E=mc^2」なども、科学理論の中にある種の詩情を感じて作ったものです。相対性理論の世界に抱く憧れを詩に、そして音楽にすることも、これは立派な芸術活動であると思います。何かに心を揺り動かされたのなら、そこには必ず芸術的萌芽が存在するはずなのです。
宮沢賢治など、そういった理系芸術のはしりではないかと思ったりします。詩の中に、科学用語などが平気で使われたり、宇宙、星、といったSF的なキーワードにも溢れています。
芸術というと文系的なイメージしかないあなたへ。これからは理系の芸術が流行りますよ。


2007年1月16日火曜日

明和電機を初めて見る

明和電機というアーティストをご存知でしょうか?
中小の電機会社というスタイルを持ちながら、ナンセンスな楽器やオブジェを製作し、それらを使ってパフォーマンスをする団体です。
この明和電機のパフォーマンスと講演を聴く機会がありました。大変面白かった。すごい刺激になりました。

正直言って、社長の土佐氏は非常にセンシティブな感覚を持った芸術家だと思います。もし彼が単なるアホなパフォーマーだと思っている人がいるなら、それは違うと声を大にして言いたい。確かに、ナンセンスな器物、変てこな踊り、おやじギャグ的ネーミングの数々は、彼を手の込んだお笑い芸人と思わせるかもしれません(しかも吉本興業所属)。
しかし、土佐氏の話を聞いて思ったのは、本来、この人はとてつもなくシリアスな思考回路を持っていて、常に自分と世界との関わり、音楽の行く末、などについて真剣に、かつ本質的な思索をしている人だと感じたのです。
そうやって考えてみると、ナンセンスなオブジェの数々の中にも、どこか孤独で、寂しげな影を感じることができます。ふくよかな存在感より、華奢で頼りなさげな感じがするし、場合によっては気味悪いものさえあります。機械の精巧さや動作の面白さだけでなく、デザインセンスにも卓越した感性を持っています。

こんなことを言うとおこがましいのだけど、いろいろな意味で私自身に通じるものがありました。
そもそも、生年が一つ違いで(土佐氏は私より1歳若いだけ)、学生時代よりアナログシンセ、デジタルシンセ、冨田勲、DTMとはまっていく過程は、もう私そっくり。物づくりにどこまでも没頭したりする感じもすごい共感できるし、ガチャコンというオブジェなど見ると世代的な共感もあります。
何より、シニカルでシュールな芸術センスは、クソ真面目な題目をクソ真面目にしか演奏できない日本人音楽家からは生まれない独特な世界観を表出しており、そういった表現方法を私もまた模索したいと思っています。

2007年1月15日月曜日

音取りと移動ド

以前より、移動ド論者である私は、そのメリットを訴え続けていたわけですが、実際、世の中そう単純じゃないのです。
移動ドを実践してくれる人もいるのだけど、うまくやらなければ手段と目的がこんがらがってしまいます。音を取るための移動ドなのに、(当然の帰結ではあるけど)移動ドで歌うことそのものが目的となってしまう場合があるのです。
だから、無理やり移動ドで歌おうとして苦労するくらいなら、口に出して歌わなくてもいいのに、と思うのだけど、口に出すからこそ覚えるという側面もあり、これは一概には言えません。

以前もこんなことを書いたように、現実には、どの調でも移動ド読みできて、各階名の音程関係がしっかり頭に刻み込まれていて初めて、そこにある楽譜を移動ド読みして楽に音取りできるようになるのです。
従って、今練習している曲を一生懸命移動ド読みしようとするより、もっと移動ド読みのための基礎練習をしなくてはいけないように思います。まあ、実際そんな暇はないんですけど。

2007年1月8日月曜日

新春散財

昨日、私と妻の二人分の携帯を買い替えました。
��年前に au に変えてから、私は4年間同じ携帯を使い続けていたのですが、何とな~く携帯を変えたくなって、二人ともども機種変更することに。
私が買ったのは、au のデザイン携帯の最新作「DRAPE」ってやつです。色は黒。
ここのところ、次に買うならスマートフォン(キーボードがある多機能型のヤツ)がいいなあ、と思っていたのです。さすがに昔買った Palm も時代遅れになったし、スケジュール管理とかきちんとしたかったので。しかし、au でなかなかスマートフォンが現れないし、今のスマートフォンもまだまだ使いにくそうだなあと二の足を踏んでいたとき、DRAPEのデザインを見て、これイイ!とか思ってしまったのでした。

指紋が目に付きやすいのがタマに傷ですが、流れるような美しいフォルムに満足です。
しかし、最近は携帯にたくさん機能があって、覚えるのが大変…

2007年1月7日日曜日

僕僕先生/仁木英之

Bokuboku第18回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品。
帯にも書いてある通り、古き中国を舞台に、金持ちの息子であるニート青年が、美少女仙人と不思議な旅をする、というお話。
こういった大まかな設定だけ見ると、ラノベっぽく見えるけど、読んでみるとかなり本格派。中国史に生半可でない薀蓄が述べられるなど、いわゆるファンタジー小説での博学傾向をしっかり持っていて、ストーリー全体に重厚な響きを与えています。文章は決して固くは無いのだけど、歴史小説を読むような格調の高さがあります。

そういった中で、気弱なニート青年が仙人である少女に少しずつ恋心を覚えるようになる、というのがこの物語の大きな流れ。少女が圧倒的な力を持つ仙人であるにも関わらず、少女のようなしおらしい態度を取るようになっていく辺りに微妙な味わいがあります。
何でも出来てしまうスーパーマン的な力を持っている仙人が、人間的な世知辛い事情でやはり行動しなければならないナンセンスさもちょっと笑えます。

ただ、仙人は状況に応じていろいろな姿に形を変えられるのですが(老人にも変身するし)、少女であることもその一変形に過ぎないわけで、それだけでこの仙人を本当に少女だと感じる気持ちが萎えてしまったのも事実。そう思うと、若干後半の流れに無理があるようにも感じました。
全体的には渋澤龍彦の「高丘親王航海記」のような雰囲気があって、なかなか楽しめました。