2007年6月29日金曜日

林檎のメロディ

メロディを論じるならJ-POP・・・と思ったのだけど、よく考えたら最近買ってるJ-POPのアーティストって椎名林檎くらいなのに気付きました。ならば、椎名林檎のメロディセンスについて、思うところなど。

椎名林檎のメロディの特徴は、9度の多用、という点が最も大きいのではないかと思います。
��度というのは、根音を「ド」とした場合の「レ」の音を意味します。短調の場合は、根音を「ラ」とした場合の「シ」。
最新アルバムの「平成風俗」から抜き出してみましょうか。
最初の「ギャンブル」。最初のメロディの終止がいきなり9度。それからサビに入って、声に泣きが入るところも9度の音ですね。つまりメロディの終わりという特徴的な場所に9度を使っています。
��曲目の「茎」では、サビの冒頭の音が9度の音。これもメロディの冒頭という重要な音です。
「浴室」もメロディの冒頭が9度から。そして、「ポルターガイスト」もメロディの冒頭が9度。この曲は、メロディの頂点になる音が9度になるパターンが非常に多いです。
そんな感じでちょっと聴いただけで、これだけ出てきます。これは、もはやメロディメーカーとしての、くせのようなものなのでしょう。

その他、椎名林檎のメロディの特徴として、若干器楽的な傾向があるような気がします。
メロディの繰り返しを増やしてメロディラインを印象付けたり、音程の跳躍が印象的だったり。「ポルターガイスト」の最後のメロディ、「ことに気付き始めました・・・」という部分、このメロディラインって、もうバッハの域に達してますよ。気になる方は採譜してみてください。(って誰もしないか)

2007年6月24日日曜日

作曲におけるメロディ創作

クラシック的な意味での作曲で言うなら、メロディの創作は、作曲の一部分でしかありません。
メロディを考えることの他に、楽曲の構成、和声、その他のオブリガード(副旋律)、リズムパターン、対位法的処理、全体の統一性、などなど、色々なことを考えなければいけません。そうなると、作曲作業全体におけるメロディ創作の比率は落ちてきて、そこに割かれる考慮も薄くなる可能性があります。

もちろん曲によって、求められるメロディも変わってきます。
歌曲的な音楽なら、シンプルにメロディ+伴奏という形ですから、メロディの比重が高まります。ただし、器楽的要素が増してくると、その楽器で聴き栄えするような盛り上がりを作ると、少々一般的なメロディ度は弱まってきます。
それが緊密なアンサンブル音楽になってくると、メロディが曲想に合わせて展開をしていくことが増えます。古典的な意味での展開、というだけでなく、一つの音楽の中で、主題やその断片が作曲の素材として散りばめられることは少なくないはず。こういう音楽になってくると、主題はむしろシンプルで力強いほうが使いやすくなります。あまりに流麗で存在感が強いと、メロディパートだけに注目が集まるし、そういった旋律は切り刻むのが難しいのです。
シンプルな主題だと、反転したり、逆行したり、切り刻んだり、そういう加工がし易いし、加工したことも分かり易くなります。

一般的にクラシックにおける作曲では、上記のアンサンブル的な音楽のほうが芸術性が高いと思われているわけですから、流れるようなメロディの美しさというのは、必ずしも芸術性の高さには結びつかないと感じることがあります。
チャイコフスキーやドヴォルザークなども、メロディが流麗な作曲家なのだけど、だからこそ通俗的だと言われてしまっている気がします。
絵画で言えば、シンプルな主題を加工して使う方が抽象画で、美しい旋律がある方が風景や女性を描いた美しい絵、というように対応する、と考えると面白くないですか。

2007年6月20日水曜日

メロディ学

先日の浜松合唱団のラターを聴いて、あらためて良いメロディの力は強いなあ、と思いました。
音楽を聴く楽しさの大きな要因に、美しいメロディというのは欠かせないと思います。それもまた、ここ何回か書いている聴いて楽しい音楽、に繋がる話ですね。ぶっちゃけ、メロディが印象的でなければ、その音楽も面白いと感じるのは難しいでしょう。

そんな重要なメロディなんですが、ふと考えてみると、美しいメロディを作るための学問みたいなものって、あまり聞いたことがありません。一般的に教えられる音楽の理論の中でも、メロディそのもの書き方を扱う理論というのは恐らく一般化されていないと思います。
ジャズのインプロビゼーションの理論書にしても、つまるところ和声やモードから導き出されるスケールの話ばかりで、そのスケールからどのような順番や音価で音を拾えばいい旋律になるかは言及されません。ひたすら、譜例がたくさん載っていて、手で覚えましょう、ってな具合です。

音楽は非常に理詰めっぽくて、様々な理論体系があるにも拘わらず、こんな大事なことが理論化されていないんですね。しかし、それこそが音楽が芸術たる所以なのだとも思えます。

2007年6月17日日曜日

いい音楽と面白い音楽のはざ間

何に対して、「いい」というか人によって違うとしても、一般的に芸術性の高さを感じるものと、単純に面白いと感じるものには、どこかベクトルの違いがあるのでしょう。
私などは、このベクトルをいかに合わせるか、ということを考えてしまうのですが、一般的には「芸術性の高さ」というベクトルだけに注目して、それを追い求めることが崇高な活動である、と考えている人が多いと思います。このあたりが「聴いて面白くない」に繋がる遠因とも私には思えます。

もちろん、現実にはそのベクトルが決して合わないというのは確か。バッハを演奏して、そのスゴさを体感したとしても、世の多くの人はほとんどそんなものには興味がないのが現実。精緻な対位法で書かれた音楽を聴いたって、そういった技法と無縁の人にとっては、みんなが別々の旋律を奏でていてさっぱりわからない、ということにもなりかねません。
芸術性の高さ、というのは、わかるからこそ面白くなる、という要素は確実にあります。
だからこそ、クラシック音楽に関わる人は、芸術性の高さ、というベクトルにとかく拘ることになります。それは、往々にして聴衆に対する啓蒙的な態度として現れます。でも、それって、学校教育で道徳を強化していきましょう、という議論の胡散臭さに何か通じるものを感じます。

昨今、世の中が効率化するに従い、芸術性の高さを追い求める行為と、単純に気持ちよく感じる音楽を演奏することがますます乖離しているように思います。気が付くと、どちらも何か違う、という感じがしてしまうのです。
私の求めているものは、つねにそのベクトルの中間のような位置にあるのですが、それは逆にどちらからも受け入れられない、ということにもなりかねなくて、益々悩みは深まります・・・

2007年6月10日日曜日

歌って楽しくない合唱

半ば自虐的に言わせてもらうと、今回の課題曲G4の拙作「U:孤独の迷宮」は、さしずめ歌って楽しくない合唱の代表と言えるのではないかと・・・そんな気がしてきました。;_;
いや、課題曲だけでなく、この組曲「五つの母音の冒険」全体、そういうオーラが漂っています。もちろん、同様のテイストを持った邦人曲はたくさんありますが、実際、それらの曲は一部の有力団体に演奏されているだけという現実もあるでしょう。

言葉が無い、というのはそれだけで、歌い手を萎えさせるようです。どんな複雑な音でも、言葉があるだけでイメージが具体化されるからでしょう。本当は、同じような意味で、音楽によってイメージを具体化させようとしても、言葉よりも歌い手には響かないようです。
その一方、普通の邦人合唱曲が合唱関係者以外に受け入れられない理由の一つとして、歌詞が聞き取れない、ということが挙げられるのではないかと私は考えています。そもそも、合唱というのはよほどの努力をしない限り、歌詞が聞きづらい。なのに、さらにピアノが派手に鳴ったり、声部がポリフォニックに処理されることによって、なおのこと歌詞は分からなくなります。
実はだからこそ、外国曲には宗教曲が多いのでは、とも思っています。ラテン語の典礼文は、いわばお約束の歌詞であり、作曲家にとっては絶対音楽的な取り組み方ができるからです。

歌詞を聞き取りやすい音楽と、歌詞が無くても音楽として鑑賞に耐え得る音楽、このような二つの反するベクトルが「聴いて楽しい」に向かうと思っています。
あえて悪い表現をするのなら、歌い手に音楽を構成する部品としての自覚が足りないのではと思います。自分にメロディがあれば嬉しい、自分に歌詞があれば分かりやすい。こういう感覚を乗り越えて、そこで展開される音楽全体に想いを馳せる必要があります。

2007年6月8日金曜日

聴いて楽しい合唱

とタイトルを書いてみたものの・・・そんなの人によって違うよなあ、と今更ながら思いました。
それに合唱している人の判断基準と、そうでない人とは違うし、自分自身が考えること自体、どうやったって片寄った見方にならざるを得ません。だから、本当は、合唱をやっていない(あまり知らない)音楽好きの人に聞いてみたい、というのが本心です。逆に言えば、自分は合唱以外にどんな音楽を聴いて楽しいと思うのか、考えてみるのもいいでしょう。

とはいいつつ、自分なりに聴いて楽しい合唱を考えてみます。
例えば、自分がスゴイと思った合唱関係の演奏会を思い出してみましょうか。有名どころでは、キングスシンガーズ、クレマンジャヌカンアンサンブル、BCJ、それから最近では世界合唱の祭典でのオスロ室内合唱団といったところでしょうか。(他にもあったかもしれないけど思い出せない・・・)
合唱コンクールでは、なにわコラリアーズ、会津混声、EST、アンサンブルVineなどの演奏が好印象に残っています。

いずれもキリっとした音像、クリアなサウンド、メリハリのある表現、そして軽快で乱れの無いリズム、といったような要素に私は好印象を持つようです。
それは曲に対する印象も同様で、明快なリズム構造を持ち、メロディがはっきりしていてキャッチーなほうが好き。逆に言えば拍節感が薄くて、声部が多い分厚い音はそれほど好みではなさそう。
さて、皆さんの好みはどんな音楽でしょうか。

2007年6月4日月曜日

ユメ十夜

「こんな夢を見た。」でおなじみの夏目漱石、夢十夜の各エピソードを十人の監督によるオムニバス形式で映画化した作品。(HPはこちら
浜松で二日間だけ上映があったので行ってきたら、第五夜の監督をした豊島圭介氏が何と会場に来ていて(浜松出身らしい)、映画が始まる前に挨拶をしてくれるというおまけ付き。映画作りのいろいろな苦労話を聞けたのは面白かったです。豊島氏によれば、1話あたり制作費は1000万円なんだとか。

映画のほうですが、いやまあ、さすがに各10分で10人分の作品を見るのはキツイです。作風もノリも全然違うし。それに、10分という制限があると、各監督ともストーリよりイメージに走るので、かなりシュール感が漂い、話を理解するというよりは、印象だけで良し悪しを感じるしかないといった感じ。
監督は、先日亡くなった実相寺昭雄、市川昆といったベテランから、「呪怨」の清水崇、その他松尾スズキ、天野喜孝といったなかなか豪華な面々。
個人的には松尾スズキ氏の第六夜、2ちゃんねる風のセリフ、ブレークダンス運慶など、笑いどころが満載でむちゃくちゃ面白かったです。あとは、第三夜のやっぱりホラー系になってしまう清水崇作品、第九夜のお百度参りの話(監督:西川美和)が良かったです。

短いだけに、各映画監督のよりリアルな創作態度がクローズアップされてくるので、クリエータな人なら大変刺激を受けるのではないでしょうか。

2007年6月3日日曜日

歌って楽しい、聴いて楽しい

民族性うんぬんなどというと、どんどんマクロ的に話が発展していくので、これまでと似たような話題ですが、もうちょっと合唱の現場に近い視点で思うことなど。
今の日本の合唱音楽の問題は、合唱界自体の閉鎖性にあると思います。その閉鎖性の由来は、何度か書いているけれど、聴衆不在の演奏が多いということ。ありていに言ってしまえば、聴いて楽しい音楽が少ない、のだと思います。
ところが、合唱をやっている当の本人たちは、あまりそうは思っていない。自分たちが心を込めて歌えば、きっとこの曲に込めた想いが伝わるはずだ、という根拠の無い希望だけを胸に抱いて日々練習しているわけです。毎日合唱の練習をやっている人は、残念ながら、一般の人がどのような合唱音楽を良いと思うか、という感覚からどんどん遠ざかります。合唱をやっている人が合唱音楽を聞けば、歌い手的な立場で聞いてしまうので、もはや一般リスナーとは聴くときの視点(聴点?)が違ってしまいます。

つまり何を言いたいかというと、「歌って楽しい曲」と「聴いて楽しい曲」には微妙なずれが存在するということです。
日本の合唱界のように聴衆不在の閉鎖的環境では、聴いて楽しい曲が育たず、むしろ歌って楽しい曲が増えていきます。ところが、ときおり海外の合唱を聞いてえらく感動するのは、たいていの場合それが「聴いて楽しい曲」だからであり、そういう音楽をきちっと演奏できる実力が備わっているからです。
なぜ、日本の合唱音楽では「聴いて楽しい」よりも「歌って楽しい」に向かってしまうのか、それはまた別の機会に考えるとして、しばらく「聴いて楽しい」要素とは何か、「歌って楽しい」要素とは何か、具体的に考えてみましょう。(すでに書いたことがあるようで・・・)

2007年6月1日金曜日

クサいものにフタをする私たち3

だいたい、洋モノの音楽の歌詞を訳すと、なかなか日本の歌詞ではお目にかかれないような内容がたくさんあるように思います。日本の歌詞のほとんどは、自然か恋愛を歌ったもの。ある種定型的な表現であることが聴く側に安心感を与えているのかもしれません。恋愛モノでも洋モノだとずいぶん卑猥になったり・・・
中でも日本の音楽に根本的に存在しない概念は宗教ではないでしょうか。欧米の音楽が宗教の中で育まれてきた歴史を考えると、その感覚の差は相当のものがあると思います。
今、日本で「私は、○○を信じまーす」とか「偉大な○○よ、私たちをお導きください」なんていう歌詞が音楽で歌われていたら、新興宗教とかそんな感じになって、すごいアヤしい感じになるのではないでしょうか。ひと頃、オウム真理教が選挙に出たときに、信者が歌っていた音楽を思い出します。

欧米人の場合、音楽というのは自らのアイデンティティを確認する手段である場合が多いような気がします。だから個人の信念とか、民族的な価値観とか、そういう言葉が音楽の歌詞になっていても全然おかしくない。
ところが日本人の場合、歌を歌うということは、むしろ個人的な価値観を封印して、人々の最大公約数的な価値観に合わせこむ作業なのかなと思ったりするのです。自己主張でなく、無条件な融和のための道具とでもいうような。だからこそ、場にそぐわない、ということに非常に敏感になり、結果的に無意識のうちに「クサいものにフタ」的行動を取ってしまうように思います。

私たちが洋物の音楽を取り入れるとき、無意識に自分の感覚に合わないものを排除しているのではないかと思ったりします。きれいで気持ちいい部分しか見ていないというか・・・
洋物のロックを聴いているという人も、話を聞いてみると、歌詞の意味なんかどうでもよくて音だけ聴いて楽しんでいるという人も多いのです。でも英語圏の人なら、歌詞だって耳に入ってくるわけだし、結局そういう聴き方自体が極めて日本人的というか、キレイなものしか見ないようにする意識の現われではないでしょうか。