2008年12月30日火曜日

今年劇場で見た映画08篇

気がつくと、今年は随分たくさんの映画を観てしまいました。これじゃ何だか映画オタクみたいですね〜。でも来年はいろいろと忙しいので、今年ほどは観ないはず。
ということで今年も、私が劇場で観た映画を紹介します。

魍魎の匣
ナショナルトレジャー
AVP2
シルク
スウィーニートッド
歓喜の歌
チームバチスタの栄光
パンズラビリンス
ジャンパー
うた魂
フィクサー
紀元前一万年
ラフマニノフ~ある愛の調べ
ミスト
ラスベガスをぶっつぶせ
人のセックスを笑うな
ザ・マジックアワー
インディ・ジョーンズ
アフタースクール
ぐるりのこと
ハムナプトラ3
ダークナイト
デトロイトメタルシティ
20世紀少年
グーグーだって猫である
ウォンテッド
アキレスと亀
アイアンマン
容疑者Xの献身
イーグルアイ
幻の邪馬台国
レッドクリフPart1
ハッピーフライト
1408号室
おくりびと
K-20怪人二十面相・伝

今年、私が面白いと思った映画は、パンズラビリンス、ダークナイト、アイアンマンといったところでしょうか。

2008年12月28日日曜日

鼓童、上原ひろみ

12月にアクト大ホールで行われた二つのコンサートの備忘録。

●12/17 鼓童 十二月公演2008
鼓童は私が現在追いかけてるアーティストの一つ。一般的イメージとしては、ふんどし一丁の男が大太鼓を力強く叩くマッチョなパフォーマンスという印象があると思います。確かに、それも最後の見所としてちゃんと演目にもあるわけですが、彼らの守備範囲は実はもっと広いんです。
今回も、太鼓を中心とした打楽器だけでなく、笛、琴、胡弓、そして歌、と古来の伝統的な楽器を駆使した幻想的で懐かしさ溢れる音楽が展開されました。
恐らく彼らのパフォーマンスを見て、そのアンサンブル力や演奏技術だけを礼賛するのは、一面しか見ていない見方だと思います。
彼らの演奏からオリジナリティとか、アイデンティティといったレベルのアーティスティックな一面を非常に重視していることがわかります。常に才能のある団員がオリジナル曲を作曲、披露し、音楽だけでなく、所作やステージングの端々までにこだわりを持って一つの舞台空間を作っています。
まさにプロの仕事。アマチュア音楽家はどうしても技術的な面だけをフォーカスしがちですが、最後に人の心を揺さぶるのは芸術としてのトータルな個性、姿勢だということを、あらためて実感したのです。

●12/24 上原ひろみ ビヨンド・スタンダード日本ツアー
同じく私の追いかけているアーティストの上原ひろみ。
今年は先行予約のほぼ初日にチケットを取ったせいか、前から6列目でかぶりつき状態。もちろん、期待に違わぬ素晴らしいコンサートだったのですが、かなり前の席だったこともあり、むしろいつもより4人のバンド演奏を冷静に聴いていたような気がします。
今回は結構アンサンブルの乱れも(というか間違いを)いくつか気がついたり、Nord Electro (上原ひろみが弾くキーボード)故障というハプニングにムッとしている上原ひろみを見られたり。
前半は最新アルバムの曲が中心で、演奏も音数が少なく比較的シブい感じ。いつものノリノリ感が薄いなあと思っていたら、後半に向かって盛り上がっていきました。敢えてそういう展開にしたのかもしれませんが。
後半では、みんなで上原ひろみのお祖父さんの90歳の誕生日を祝ったり(スポットで客席にいるお祖父さんが照らされる)、アンコールでは今、別にツアーをしているタップダンサー熊谷和徳がゲストで登場。思わぬ展開にお得感満点。これも上原ひろみの出身地浜松故のサービスなんでしょうか。

2008年12月27日土曜日

現代の音楽展2009 唱楽III

来年の2月1日に東京文化会館小ホールにて「現代の音楽展2009 唱楽III〜現代児童合唱の領域」という催しが行われます。
この演奏作品を公募していたのですが、幸い拙作が採用され、演奏して頂けることになりました。チラシなどを頂いてようやく演奏会の全貌がわかりました。チラシはこちら

ということで、今回の演奏会では、NHK東京児童合唱団、多治見少年少女合唱団を迎え、全7曲の児童合唱曲が演奏されます。そのうち初演は3曲。間宮芳生、一柳慧、野平一郎といった超メジャーな方々の曲目の中に拙作が並ぶのは、何とも言えない感慨がありますね。

ちなみに私の作品は、二群の児童合唱のための「しりとりうた」、というタイトルです。
��分弱の作品で、もちろんアカペラ。まさにタイトルどおり、二群の合唱が交互にしりとりをする、というアイデアで書いた曲です。テキストは自分で作りました。

開演は14:00、全席自由の2500円です。
チケットを山ほどもらいました。どう考えても私にはさばききれませんので、近場の方で、もしご興味がありましたらメールなどでお知らせください。チケットをお送り致します。

2008年12月23日火曜日

アカペラスクエアご来場ありがとうございました

思いのほか多くのお客様に恵まれて、大変楽しく歌うことが出来ました。
そもそも私の魂胆としては、どうせ他の団は宗教曲が多いだろうから逆方向で印象付けよう、という気持ちでシェーファーの練習を続けてきたわけですが、実際聴いてみるとどの団もそれぞれ持ち味があって、本当に甲乙つけ難いのです。選曲的にも雰囲気的にもバラエティにとんだ演奏会だったと感じました。多分ジョイントということで、お互いいい意味で競い合うように練習してきたのだと思います。
今回私もマネージに加わりましたが、やはりいくつかの団が集まって何かをやるのって大変。合同の並びを決めるのだけでもずいぶん苦労していたみたいだし。それでも、実行委員会は比較的近しいメンバーだったので、うまくいったのかもしれません。

ちなみに今回の演奏会では、幕間の余興の"White Christmas"、アンコールの"Silent Night"の編曲をやらして頂きました。White Christmas の演奏はちょっとヤバかったですが、アンコールでは大人数で歌ってもらえて嬉しかったです。

2008年12月21日日曜日

K-20 怪人二十面相・伝

アメリカ映画のヒーローものと言えば、スーパーマン、スパイダーマン、バットマン、最近ならアイアンマンといった、たくさんの面白い映画があるわけですが、なかなか邦画ではその系統の映画がありません。このK-20は、そういう状況に真正面から挑戦した映画と言えるでしょう。
時代や社会状況などの舞台設定はなかなかいいと思います。全体的なストーリーも思いのほか練られています。ヒーローものの定石である、ヒーローになるまでの訓練シーンとかも、いい感じだと思いました。この手の映画のポイントであるガジェットへのこだわりなんかも、結構気に入りました。

ただ、各シーンの台詞のやり取りがどうにも甘いのです。
最近の邦画の面白さに比べると、正直質は低い感じ。ちょっとひねりの利いたギャグの後で、「このギャグの面白さはねぇ」といって丁寧に説明されているようなダササが各所にあって、もっとスマートに説明をさばけないものかと思います。役者の演技も、意図の強調具合がいささか過剰。
特に最後のシーン、思いがけない展開があるのだけど(予期出来ないでもないが)、その後に「実は、あれは○○だったのさ」みたいな説明をされると、小学生向けヒーローもののような幼稚さを感じずにはいられません。

いい意味でアメリカヒーローものの影響を受けていて(冒頭のタイトルロールはスパイダーマンのマネ?)、こういったジャンルも洗練されつつありますが、もう少しディテールに拘ると人間ドラマに深みが出てくるし、その結果シリーズの独自性も生まれてくるのではないでしょうか。
もしかしたら続編もあるかもしれないですね。

2008年12月17日水曜日

次の日曜日、アカペラスクエアです

��年以上前より準備していたジョイントコンサート「アカペラスクエア」がいよいよ次の日曜日に迫ってまいりました。宣伝用ブログはこちら

少人数合唱団ゆえ、なかなか自前で演奏会する余裕も無く、それなら同じ境遇の団が集まってジョイントコンサートでもやろうか、というのが元々の魂胆。
各団ステージだけでなく、合同ステージでは岸先生の指揮で武満徹の「うた」から4曲を歌います。

各団の演奏はまだ一度も聞いていませんが、曲名だけ見るとコンクールとかで聴くような、昨今の少人数用アカペラレパートリーが目白押しで(ウィテカー、オルバン、カライ、ラクール、コチャール、ブスト・・・)合唱マニアの方にはとても楽しめるコンサートではないでしょうか。
逆に浜松くんだりで聞く一般的な合唱コンサートとはかなり趣きが違うでしょうねえ。

ちなみに、私はヴォア・ヴェールのステージにて、シェーファーの"Felix's Girls"を指揮します。合唱エンターテインメントを私なりに追求したステージにしたいと思っています。
まだまだやり残したと思うことは数あれど、何とかお客様が楽しんでもらえるような演奏を目指したいと思います。
浜松近辺の皆様、まだ週末のご予定がなければ是非ご来場ください。
12/21日 p.m.2:00〜 浜松アクトシティ中ホールです。

2008年12月13日土曜日

楽譜を読む

当たり前だけど、演奏するためには、まず楽譜を読まねばなりません。そして、楽譜に書いてあることを咀嚼して、解釈する必要があります。それに演奏者自身のフレーバーを加えて自分たちのオリジナルの演奏にしていくわけです。
危険なのは、フレーバーを加えることばかりに注力するあまり、楽譜の解釈を十分にしないことです。それは曲を作った際の意図を歪めてしまうことになり、結果的には曲の良さが伝わらない独りよがりの演奏になる危険性があります。
では、どのように解釈するべきなのか?まずはテンポ指定を例に考えてみましょう。

最近のほぼ全ての曲にはテンポはメトロノーム指定があります。
これは完璧な絶対量なので、間違えることの無い明確な指標ではありますが、そもそも生演奏において、厳格に完全にテンポの揺れなく演奏することは不可能です。しかも、編成や演奏場所などにおいても容易にテンポは変化します。
しかし、だからといってテンポ指定は無視していいわけでは無いでしょう。
この時の視点として、まあ絶対指定の±10%くらいのブレはいいじゃない、とかそういう考えもありますが、個人的にはあまり感心出来ません。それは結局、テンポ指定の絶対性に依存しているからです。ブレの許容範囲値自体も、視点を変えれば絶対量と言えてしまいます。
そもそも、生演奏のテンポ設定に絶対量などあり得ない、というのが私の考えです。

大事なのは、そのテンポ指定の本質的な意味を考えて、曲全体で伝えようとしているイメージとテンポ指定をリンクさせること。それから、曲の流れの中でのアゴーギクを捉え、テンポの変化を相対的に捉えることだと思います。
最初の点は、このテンポでこの曲を歌ったら、こんな風なフレージングにならざるを得ない、というポイントを探すということを意味します。テンポによってメロディの流れ方も変わるし、息継ぎのタイミングも変わるはず。その表現はキープするべきなのです。逆に考えれば、その曲のイメージを損なわない範囲なら多少テンポを変えてもいいということになります。
次の相対的に捉えるという点。例えば、テンポ=96が、テンポ=88に変わったとします。これはテンポを遅くしたいという作曲家の意思が込められていると解釈できます。ですから、絶対的な数字を守ることよりも、その時点でテンポ感が変わったと感じるように明示的に演奏するべきでしょう。

演奏時の状況の違いで楽譜通りの絶対的テンポを守らなくても、上記の点をしっかり解釈して演奏するなら、作曲家が描いたテンポ設定からそれほど遠ざかることは無いはずです。
テンポに限らず、キーワードになるのは、なぜそのような指示をしているかの本質を考えること、それから曲の他の部分との相対的な関係を調べること、ということが曲の解釈には必要なことだと私は考えます。

2008年12月8日月曜日

シャングリ・ラ/池上永一

Syanテンペストを読み終わってから、池上永一の他の小説を読んでみようと思い、前作のこれも大作である「シャングリ・ラ」を読みました。
舞台は50年後の東京。温暖化の影響で熱帯化しつつある東京に作られ続ける空中積層都市「アトラス」。反政府ゲリラのリーダー國子を中心に、森林化政策を進める政府との戦いを描いた長編小説。ありていに言えば、SFですね。

一見重厚な内容かと思いきや、雰囲気はほとんどラノベ。テンペストもそうだけど、主人公はスーパー美少女。後半のドタバタはもはや何でもあり。どんだけやられても、なかなか死なないとか、もう死んだと思ってたのに助かってたりとか。まるで、小学生向けアニメ的な匂いを醸し出しています。それでも細かい描写に無駄に薀蓄が詰め込まれていたりするあたりが、ファンタジーノベル作家の面目躍如と言ったところでしょうか。
ちなみに、帯にも書いてありますが、2009年テレビアニメ化決定だそうです。どこまで子供向けにするか、微妙なところではあります。(國子の同士は、スタイル抜群のニューハーフという設定だし)

個性的なキャラを作って自由に、はちゃめちゃに遊ばしている、というような書かれ方なので、ストーリー展開そのものが技巧的というわけではありません。
それより、私はこの小説の世界観の設定に感心しました。経済は排出炭素ベースに変わり、そのマネーゲームの描写が執拗に描かれます。それを読んでいると最近のデイトレーダーの株取引を想起します。この設定を考えるだけで、筆者はかなりの経済マニアじゃないかと思ってしまいます。
それから、積層都市アトラスの発想も面白い。下から第一層、第二層・・・と都市が段重ねで作られた建造物。自重に耐えられるように、材料は全て炭素材で出来ているという設定。一つの層だけで数百メートルの高さがあり、上の層に行くとかなりの高度になるので温度は低くなります。物語ではまだ建設中という設定だけれど、最終的に十三層まで作られる予定。
こういった科学的、政治経済的、社会的設定のアイデアが面白くて、それだけでも一読の価値はあるかもしれません。来年、放映するアニメを見るかは定かではありませんが。

2008年12月4日木曜日

「ふりつづく思ひ」をPD合唱曲に追加

大手拓次の詩による「ふりつづく思ひ」を作曲し、PD合唱曲シリーズに追加しました。
楽譜はPDFでご覧頂けます。また曲もMIDIで聴くことができます。

編成は無伴奏の混声四部合唱、ディビジョン無しです。
全体的にメランコリックな楽想で、テンポもゆったりめ。
一見すると一様な曲調で、ややもすると単調になりがちですが、ディナーミクの変化を十分付けたり、ハーモニーの精度を上げるための練習曲として利用出来るかもしれません。
少人数アンサンブルで楽しんでもらえると嬉しいです。

2008年11月29日土曜日

演奏会のCDを作ろう 補遺

CDを作る際の注意点などを補足します。

●音声データのファイルフォーマット
PCで扱う場合、圧縮フォーマットの mp3, AAC, WMA などがありますが、せっかくCDを作るのだから、CDと同じ非圧縮の WAV フォーマットを使ったほうが良いでしょう。波形編集も結果的にそちらのほうが楽に扱えると思います。
ですから、iTunesで音を取り込む時もWAVエンコーダ指定にし、Audacityで録音する時も、ファイルをセーブするときもWAV指定します。WAV指定でさらに細かく設定出来る時は、16bit, 44.1kHzにすればCDと同じになります。

●編集時の音量設定
アナログ録音するとき音量設定が高すぎると、音量が大きいときにデジタル歪みが起こり、大きなノイズになってしまうので、一番音が大きい時が最大レベルになるようにレベルを調整してから録音を開始します。
また、全部デジタルデータになってから音量を上げる場合、演奏会全体の音量を上げるべきです。特定の曲の音量が小さいからと言ってその曲だけ音量を上げると、続けて聞いたときに違和感を感じてしまいます。

●拍手のフェードアウト
演奏会の雰囲気を出すために拍手も入れたい場合もあるでしょう。その場合は適当なところで切り上げてフェードアウトさせると聞き易いCDになると思います。

●自分で演奏会を録音する場合
先週も書きましたが、音楽用のICレコーダが各社から発売されています。一台で高性能なマイクとデジタル化、データ保持が可能で、しかもすごく小さい。音楽家なら一台は持つべきアイテムです。これがあれば小さな演奏会の録音もこれ一台でOK。
でも間違って、会議用の安いやつを買わないように。ステレオのしっかりしたマイクが先頭についていて、少なくとも16bit, 44.1kHz以上のスペックで(非圧縮のリニアで)録音できる必要があります。

●CD-Rは保存版になり得るか?
以前は保存メディアの決定版としてDATを利用していましたが、久しぶりに聞いたとき転写で音がおかしくなっていてショックを受けたことがあります。
CD-Rも光などに弱く、何年も保たないとも言われています。せっかく作ったCDも十年後に聞いたら壊れていたということも十分あり得ます。
そうなると、正直保存版とは言えないでしょう。出来れば、CDをもらったらiTunesなどでパソコンに取り込んでおくことをお勧めします。ハードディスクをきちんとバックアップしておけば、CDがダメになってもまた作ることは出来ますので。

2008年11月26日水曜日

演奏会のCDを作ろう 3

ここまで書いて、フリーウェアをインストールってだけで、億劫になってる人もいそう。この辺りがパソコンを使いこなそうと思うか思わないかの分かれ目なのかもしれませんね。

では、実際の手順をざっと書いてみます。
[1]パソコンに音を取り込む
・MDやテープをもらった場合は、アナログ経由で録音。ラジカセのLine OutをパソコンのLine Inに繋いでラジカセで再生。パソコンではAudacityを立ち上げ録音ボタンを押します。取り込むのに演奏会の時間分はかかりますね。
・最近だと、ホールでの録音で直接CDを作ってくれることもあります。もちろん、録音は曲毎には分かれていませんから、一度iTunesを使ってCDを取り込みます。このとき、iTunesの環境設定で読み込み設定をWAVエンコーダにしておきます。
・ICレコーダの場合はもっと簡単。USBに繋いで、ファイルをコピーするだけ。特に演奏を自分で録音したいという方は、音楽用ICレコーダは必需品。今なら4万円以下で十分なものが買えるはず。

[2]取り込んだ音を曲毎にファイルに切り出す
・取り込んだ音をAudacityで読み込みます。音データが波形で表示されるので、それを見ながらどこが曲の部分か拍手の部分か見当をつけます。任意の場所でクリックすれば、そこから音は再生できます。
・切り出す部分をマウスでドラッグして指定。その後、ファイルメニューから"Export Selection As Wav..."を選ぶと、その部分だけファイルとしてセーブ出来ます。
・好みに応じて、音量を変えたり、フェードアウトさせたりして切り取ったファイルを編集します。

[3]CDに書き込み
・上で作った各ファイルをiTunesに読み込ませます。ファイルメニューの"ライブラリに追加"で、iTunesに取り込みます。
・CDに焼きたいファイルを一つのプレイリストに集めます。後は空きディスクを入れて、右下の"ディスク作成"を押せば、CDが作成出来ます。

いろいろ端折っていますが、私の場合だいたいこんな手順でCDを作っています。

2008年11月22日土曜日

演奏会のCDを作ろう 2

さて、CDを作るために、パソコンに録音したり、曲毎にファイルを分けたり、場合によっては音量を変えたりフェードアウトしたり、といった作業をする必要があります。
そのための私が使っているフリーのソフトを一つ紹介します。
Audacity(オーダシティ)という音の編集ソフトです。
Windows、MacどちらもOK。ダウンロードページはこちら
洋物のソフトですが、結構有名らしく、日本語でもあちらこちらに説明ページを発見できます。お助け講座というのもありました。ここでいろいろ書こうとしたけど、お助け講座を見る方がよほど分かり易そう。

このソフトで嬉しいのは、これ一本でパソコンへの録音、曲単位の切り出しが簡単に出来ること。その気になれば、音量を上げたり、フェードイン/アウトしたり、イコライジングしたり、ノイズを取ったりできます。さらに残響を加えたり、エコーを足したり、ピッチを変えたり、なんていう加工も出来ちゃいます(ただしCDを作るときに使うのはやめましょう)。

以前他のソフトを使っていた時は、編集の動作が異常に遅かったり、使い勝手が悪かったりしたのですが、このAudacityは、動作も機敏で波形をドラッグするだけで簡単に選択できたり、任意の場所から簡単に再生できるのでスゴく便利。
波形を時間軸方向に拡大、縮小もすぐにできて、やりたいことをすぐ出来るアクセシビリティもなかなかのものです。
いろいろな機能があって、実は私自身も使いこなしているとは言えないのは確かですが、これをインストールしておけば音を扱うのにいろいろ便利ですよ。

2008年11月20日木曜日

演奏会のCDを作ろう

もともと私の音楽活動にパソコンは欠かせなかったので、パソコンで音を扱うことに人より慣れていたとは思います(もちろん仕事柄というのもありますが)。そんなわけで、ずいぶん昔から、合唱団などの演奏会のCD製作係をやるハメになっています。
ところが、昔と違って、今どきのパソコンならたいていのドライブはCD/DVDの書き込みが出来るので、もはや誰でもCDが作れるはずなのだけど、それでもちょっと敷居が高いのか、皆さんなかなか自分でCDを作ろうとは思わないようです。
ちょっと苦労して覚えれば、パソコンってほんとにいろいろなことが出来て便利なのにね〜。
というわけで、皆さんのパソコンリテラシー向上のため、どうやってCDを作ったらいいのか、私なりに解説してみましょう。

大まかに言うと、CDを作るまでの流れは以下のようになります。
1.パソコンに音を取り込む
2.取り込んだ音を編集し、トラック毎にファイルを切り出す
3.生CDにファイルを書き込む

ちなみに3に関しては、たいていパソコン購入時に、おまけで生CDにファイルを書き込むソフトが入っていると思うので、それを使えば焼けます。そのくらいは調べてみて欲しいなぁ。
あるいは、iTunesにもCDを焼く機能がありますから、今後パソコンで音楽データを管理することと併せて、iTunesをインストールしておくことをお勧めします。Appleのサイトからフリーでダウンロードできます。
��続く)

2008年11月15日土曜日

上原ひろみのライブDVD

Hiromidvd上原ひろみのライブDVD("Live in Concert")2枚購入。
いずれも、上原ひろみ初めてのライブDVD。一つは"Spiral"のツアーのトリオ編成のもの、もう一つは"Time Control"ツアーの4人編成(Hiromi's Sonicbloom)のもの。
ジャズの場合、CDでは5分の曲もライブでは10分とか15分とかになるし、ライブならではのハイテンションな演奏も聴けるし、そして同じ曲でもCDとちょっと味付けの異なった演奏になったりするので、CDを聴いているだけではどうしても物足りなくなってしまい、ライブDVDが出るのを本当に心待ちにしていたのです。

あのライブでの感動再び、ということで、ようやく見れましたよ。ライブならではの激しい演奏。
それに奏者に近い位置でのカメラアングルもあって、演奏の指使いから、楽器関係の細かいところまで見れるのはファンとしては何ともうれしい限り。アイコンタクトによる、シビアなアンサンブルの妙なんかもたまりませんね。
もとより、私はトラディショナルなジャズはそれほど興味はなく、ジャンルの垣根を飛び越え、奏者の超絶技巧をベースにした最先端の音楽の一つとして上原ひろみを聴いています。
そんな私を大満足させてくれるDVDとなるでありましょう。

2008年11月9日日曜日

レッドクリフ Part1

話題の大作映画、レッドクリフを観ました。
三国志の「赤壁の戦い」を映画化したもの。ジョンウー監督、トニーレオン、金城武など俳優陣も豪華。
私は三国志は全く詳しくないものの、映画の最初に時代背景の説明があったり、そもそも映画の人物造形が比較的分かり易くしてあったため、全体的には非常に明快な内容です。恐らく、事前知識必要なしで観れます。

続編が来年四月にあり、本当の「赤壁の戦い」はそっちで描かれることになります。今回は、さあ戦いだ!というところですっぱり終わります。そういう意味ではこの映画単体では、映画にはなっていないと言えるかも。
しかし、三国志全体が持つ雰囲気とか、各武将たちのキャラクターなどがうまく表現されていて、何となく親近感を感ずることが出来ました。どちらかというと、正確な歴史考証よりも、エンターテインメントを優先している感はありましたけど。

特にそれを感じたのは音楽。
登場人物が笛を吹いたり、琴を弾いたりするシーン。いずれも2〜3世紀の中国とはとても思えない現代的な音楽が鳴っていて、いやあ、こりゃ大胆だなあ、と感じました。
笛のメロディなんて完全に西洋音階の今どきの旋律だし、琴を弾くシーンなんか、フラメンコギターとかチョッパーベースを弾いてるみたいな激しさ。いやまあ、そこに正確な時代考証を求めるわけじゃないですが・・・。
ちなみにこの映画の音楽は、岩代太郎だそうです。

2008年11月8日土曜日

アンジェリカの作品公募

松下耕氏率いる女声合唱団アンジェリカが演奏会で初演する作品を公募しており、性懲りも無く応募をしていたのですが、その結果が出ました。
詳細はこちら。

というわけで、最優秀はならなかったものの佳作を頂くという、嬉しいような、でもちょっと残念なような微妙な結果と相成りました。
ただ、初演の可能性があり、とのことなので、これについては期待をしたいと思います。

しかし、今回の合唱団の初演作品を公募するという試みは大変面白いものだと感じます。
もちろん、作曲コンクールとしての体裁もあるのですが、同時に初演の保証があり、譜ヅラだけの技術でなく、奏でられる音楽として評価してもらえるという期待があるからです。(朝日作曲賞では公開された初演もされませんし)
これは選ぶ側にもそれなりの覚悟が必要なはずで、そういう意味で最優秀作品、それから優秀作にも多いに興味が湧いてきます。

とはいいつつも・・・最優秀は、山内さんなのですね。三年前の朝日作曲賞のデジャヴか。

2008年11月4日火曜日

クロチェット第二回コンサート

今日、遠州栄光教会にてクロチェットの第二回コンサートがありました。
前回同様、私は裏方として録音、写真と、チェンバロの搬入、搬出係をやりました。
今回は、チェンバロといっても生ではなくて、R社の電子チェンバロを使用。金曜日はそれを借りるために浜名湖畔のR社まで楽器を取りに行きに。正直、商売敵としては、こういった楽器が開発できる社風がちょっぴり羨ましく感じます。

前回は生のチェンバロを搬入するのに数人がかりで大変な苦労をしたわけですが、そこはやはり電子モノの利点で、非常に簡単に設置が済みました。音に関しても、そもそもチェンバロは大音量の楽器ではないので、電子楽器で利用してもほとんど違和感はありません(別にキーボードアンプは用いずに内蔵スピーカのみで演奏)。
私が言うのもなんですが、特に古楽関係の人たちにはお勧めの楽器だと思います。

さて肝心の演奏ですが、やはり古楽の雅な趣きと教会の深い残響がとてもマッチしていて、なかなか良い雰囲気の演奏会になったと思います。全体的には非常にシブい選曲だったのは確かですが(というか古楽だと何をやってもそうなるのだろうけど)、編成の変化もありお客も楽しめたのではないでしょうか。
今回もアンコールで私が編曲した某カノンを演奏しましたが、なんかこの曲だけ異質だったかも。

打ち上げでも話題になったのだけど、クラシック音楽の静謐な響きを楽しもうとしているところに、どかどかと来てフラッシュを焚きながら写真を撮っていく新聞社のデリカシーの無さは何とかならないもんでしょうかね。これでは、地域文化の担い手などとは誰も思ってくれなくなりますよ。

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2008年10月31日金曜日

椎名林檎「茜さす帰路照らされど」とサザン「EMANON」が・・・

ふと気づいた驚きの事実。
椎名林檎の「茜さす帰路照らされど」とサザンオールスターズの「EMANON」ってなぜかスゴい似ている気がしたのです。
まずはYouTubeで聴いてみてください。

茜さす帰路照らされど
EMANON

メロディラインは違うのですが、テンポ感や16beatっぽいリズムも近い。全体に漂うテンションコード感や、曲の起伏なんかも似ています。ちょっと気になって軽く鍵盤を叩いてみると・・・なんと両方ともコード進行が全く同じ!
コードネームで書いてみると
Ⅵm9 : Ⅵm9 : Ⅴm9 : Ⅴm9 :
Ⅵm9 : Ⅵm9 : Ⅴm9 : Ⅱm7/Ⅴ :
ⅠM7 : Ⅴm7/Ⅰ,Ⅰ7 : ⅣM7 : Ⅲm7,Ⅰ7 :
ⅣM7 : Ⅲm7,Ⅰ7 : ⅣM7 : Ⅲ7 : Ⅵm9 〜
だいたいこんな感じでしょうか。
偶然同じになったというには、あまりにスゴすぎる偶然。ちょっぴり何らかの意図を感じたりします。もっとも、仮に(椎名林檎が)コード進行を拝借して曲を作ったとしても、道義的には何の問題も無いとは思っていますが。

サザンオールスターズの「EMANON」という曲、もう20年以上前の曲ですが、個人的には結構記憶に残っています。
当時、サザンは絶頂期で、出す曲全てが大ヒット。シングルを出すたびに「ザ・ベストテン」の番組でランクインし、テレビで歌っていたものです。
ところが、この「EMANON」という曲だけ、なぜか結局ベストテン内に入らずじまい。個人的にはちょっと幻想的で好きな曲だったのに、とても残念な気持ちを感じた記憶があります。
でも今なら林檎の方が好きかなあ。

2008年10月23日木曜日

PD合唱曲に昔の作品を追加

たまたま、以前に作曲したピアノ伴奏付きの作品を見直す機会があり、これらをPD合唱曲シリーズとして公開することにしました。
曲は「オリジナル作品一覧」にある立原道造の詩の「虹の輪」「初夏」「朝に」の三作品。「虹の輪」「初夏」は女声で、「朝に」は混声です。

いずれもピアノ伴奏付きの曲で、作曲自体はもう10年以上も前のこと。
自分のスタイルを模索していた時期と言えるかもしれません。これらの曲の作曲にあたっては、若干音は凝りつつも、どちらかというとオーソドックスなテーストを持った、一般的合唱団のトレンドに合ったものをイメージしていたように思います。
楽譜も今では紙でしか残っていなかったので、これを機会に浄書し直し電子化。「朝に」は、音も若干手直しを入れました。MIDIも作ったので、楽譜と合わせて聴いてみてください。

楽譜を入力しながらあらためて立原道造の詩の魅力を感じていました。
やわらかな風景描写と、その中で仄かに語られる一人称の心情。どんなに華やかな言葉を使っても、その中には常に寂寥感が宿っていて、感傷的な気分にさせられます。自然を愛し、儚さを好む日本人の集合的無意識をとめどなく刺激してくれるのです。

2008年10月17日金曜日

iPhoneの使い道

iPhone購入から早三ヶ月。
電話が繋がりにくいという噂はありますが、あまり電話として使っていない私は(ほとんどかかってこないし)あまり不便に感じてはいません。
実は、毎日のように使っているのは、英会話のPodcastを聴くこと。通勤時に歩きながら英語を聴いています。こういう教材がタダで聞けるってスゴいなあ、と今更ながらシロウトのように感心しています。

メールはNiftyのメールを転送するように設定したので、いつでもどこでも自分宛のメールを見れるようになりました。ただし、iPhoneからはメールは出しませんが。(さすがに日本語入力は面倒なので)
後は、スケジュール帳を使ってます。これは完全にPalmの代用となってます。

アプリでよく使うのはウィズダム英和辞典。これはなかなか便利。見た感じも辞書そのもので、とても使い易い。
音楽系では、テノリオンのパクリの「PaklSound1」が割と面白くて、時々触ります。適当に触っていると面白いフレーズが作れたりして、こうやって無機的なメロディを作り出すのも気分転換になります。
密かに気に入っているのが、星座を見るソフト。その名も「Starmap」。バージョンアップして動作が非常に軽快になり、急に触るのが楽しくなりました。私にとって、ちょっとした癒し系のソフトです。
��癒し系と言えば、ただ鯉が泳いでいるだけの「Koi Pond」もなかなか凝っていて面白い)

2008年10月11日土曜日

朝日作曲賞の選評を読んで

ハーモニー秋号の新実氏の朝日作曲賞選評は、なかなか興味深い記事でした。
曰く応募者は「日本の合唱曲を聴き過ぎている」とのこと。
新実氏はその現状を打破するために、「管弦楽曲や室内楽曲を研究してほしい」旨書いてありますが、私は若干思うことが異なります。
私の思うに、むしろ応募者は合唱の現場にあまりいない方が多く、応募のためにいくつかの流行りの合唱曲を研究した結果、このような曲を作っているのではないでしょうか。まあ、聞き過ぎている、という意味ではその通りかもしれませんが。
現場にいない人にとって、好きに書いてあまりに空気の読めない曲を作る方が怖いはず。受賞を目指すならなおさらのこと。いつもは管弦楽曲や室内楽曲などでバリバリの現代音楽を作っていたって、合唱になると甘いハーモニーを書かなきゃと思ってしまうのかもしれません。
むしろ現場にどっぷり浸かりながらも、現状に疑問を持っている人の方が思い切ったことが出来ると思うのは、手前味噌な意見でしょうか。(拙作が今ひとつ広く歌われないのは思い切り過ぎているのかも、とも感じるけど、それは買い被り過ぎか)

正直、演奏審査曲が軒並みピアノ伴奏付きなのと、詩の選び方、題名の付け方、だけを見ただけでも、何となく曲の雰囲気が想像できる感じ。
私のようなあまのじゃくは、谷川俊太郎の詩がいかに素晴らしくても、みんなが使い過ぎているという理由だけで採りあげるのに萎えてしまいます。アカペラ中心っていうのも、実はそういう理由なのかも。
��でもピアノ伴奏付きの曲も書いているんですよ)

2008年10月10日金曜日

では、ピアノ伴奏の面白さとは?

「アカペラの面白さとは」を続けて書いたのだから、ピアノ伴奏付きの合唱曲についても論じる必要があるでしょう。
しかし、日本ではあまりにピアノ伴奏を付けることが当たり前になり過ぎました。合唱曲と言えば、普通、ピアノ伴奏は付くもの、という意識は多くの人にあると思います。だからこそ、アカペラの面白さをもっと知ってほしいと思う反面、それと逆のベクトルを持ったピアノ伴奏付き合唱曲についても模索してみたくなります。

昔はそれほど疑問を持たなかったけれど、最近になって特に感じること。
ピアノ伴奏付き合唱曲を聞いても、その曲が何を表現しようとしているのかあまり伝わってこない。もっと端的に言えばどんな言葉を歌っているのか、その内容が聞こえてこないことが多いです。
恐らく自分が歌う立場で聞いていると、あまりそんなことを感じないのかもしれません。しかし、純粋なリスナーとなって音楽を鑑賞しようと思うと、邦人ピアノ伴奏付き合唱曲は、たいていの場合、音像の派手さを感じても、なぜそれほどの派手さを必要とするのかが今ひとつわかりません。

その理由について一つ言わせてもらうなら、詩も曲も複雑すぎるのではないでしょうか。
複雑とは、芸術的価値とか、高尚であるとか、内容に深みがあるとかそういうこととは無縁の感覚なのです。あくまで単位時間内で人々が許容できる情報量を超えているのでは、という危惧です。それでもこういう曲が好まれるのは、合唱している多くの人が、心のどこかで複雑さを芸術的価値と結びつけたがる性向があるのではないかと感じたりするのです。
私は、音楽はもっと直感的で理解し易くあるべきだと思っています。もちろんそれは芸術的価値が低いということではありません。(いや、むしろ価値が高くなる要素ではないでしょうか)
仮に複雑な曲を作ったとしても、その複雑さ自体が伝えたいことなら構わないのですが、複雑さの陰で本当に伝えたかった言葉、動機が埋もれてしまっていては本末転倒です。
本来、ピアノが伴奏に付くことにより音像全体がダイナミックになるのですから、メッセージをより強く伝えることに使うべきです。単に音符数が増えて、音の数が増えてしまった中にメッセージが埋まってしまわないような曲がもっと書かれるべきではないかと思います。

2008年10月4日土曜日

テンペスト/池上永一

Temp久しぶりに寝る間も惜しんで読みたいほどの面白い本。
上下二巻、計900ページの長編で、本も分厚く、購入直後はちょっとひるみましたが、読み始めるとほんとに止まらない。まさに帯に書いてあるとおりの「ノンストップ人生劇場」「ジェットコースター王朝絵巻」を堪能しました。

琉球王朝の最後の時代(明治維新前後)の王宮が舞台。女子禁制の政治の場に宦官と偽り、入り込んだ女性、真鶴の生涯が描かれます。
何がすごいって、次から次へと起こる事件や出来事の数々。これだけの長編小説であるにも関わらず、すごいテンポで事が進みます。いくら王宮という陰謀や嫉妬渦巻く場所とはいえ、これだけのことを本当に一人の人間が体験するのは不可能といえるくらい。これらの事件にドキドキハラハラしながら、ページをめくる指が止まりません。

話の設定だけ聞くと重厚なストーリーを想像するかもしれませんが、文体は非常に軽く、表現方法も今風。どちらかというとアニメ的なキャラ萌え小説と言えるかも。
この小説の特設ページがあるのですが、これを見ると、この小説の雰囲気がわかってもらえるかと思います。
何しろ面白い。史実をベースにしながらも、自由なファンタジーとして読むことができます。あるいは、大人の童話とでも言いましょうか。
大人の童話というからにはエロも手加減の無い残酷さもありますが、それ以上に知識欲を刺激させてくれる小説でもあります。沖縄という場所がこのような微妙な歴史を持っていた、というのはこの本を読んで始めて知りました。

ラストはそれほど大仰ではなかったけれど、なんだかとても泣けたのでした。

2008年9月28日日曜日

YouTubeに器楽曲をアップ-Ensemble#9

仮想楽器のためのアンサンブル第9番を作曲。
例の楽譜付き音楽の動画をYouTubeにアップしました。
今回も変奏曲的な構成となっていますが、あまりきっちりとした感じではなく、やや自由な形式になっています。
それから、今までに比べると少し曲全体を短くしました。全体で7分程度。ある程度聴きやすさを考えるなら、短い中で印象的な音楽を作るということも大切な要素ではないかと思っています。
主題は何となく中世風?な旋律。前半はちょっと地味に変奏していきますが、中盤で現代的なリズムの上で盛り上がっていきます。

YouTubeにアップした音楽ですが、今回のアンサンブルは弦楽五重奏にしています。
音源は例のHalion Symphonic Orchestra。全体的には非常にきれいに鳴る音なのですが、ソロの弦楽器の生々さまで要求するのはやはり厳しいか、といったところ。でも、トータルで見れば十分鑑賞に耐え得る音だと思います。
時間がありましたら、ぜひ聴いてみてください。





2008年9月21日日曜日

アキレスと亀

北野武監督モノの映画は、実は今まで全然観たことが無かったのですが、今回は「売れない(自称)芸術家」の話ということで、身につまされる思いでついつい見に行ってしまいました。
ただ、ここで書く内容としてはめずらしく批判的です。
シリアスともギャグともつかない表現は、ビートたけしの漫才にも通じる世界を感じて今ひとつ感心せず(作中の絵と、ビートたけしの顔のペインティングと感性が通じていたり)。今回は主人公の画家を少年、青年、中年と三人の役者が演じているのだけど、その三つの繋がりにも違和感があります。
個人的には青年のエピソードが最も(自分には)痛々しくて、興味深かったのですが、少年、中年の部は今ひとつ。
特に少年時のストーリーは富豪のお坊ちゃまからいじわるな叔父の元で暮らすはめになる転落人生を描いているのだけど、その表現が全体的にチープに感じてしまいました。出てくるキャラがいかにも、という感じで逆にリアリティを感じないというか・・・。このようなありがちな設定にするのなら、少年期はもっと尺を縮めてしまった方がバランスが取れるような気がします。
青年期は芸術仲間との思索の日々が描かれているのだけれど、やっていることの真剣さとバカバカしさの対比がうまく、そこから生じる悲劇と仲間に生じる精神的衝撃の表現がグサリときます。
ところが、中年で監督自身が主人公を演ずるようになると、話がだいぶふざけ始めます。それまで芸術一途だった人生だったはずなのに、画商の一言に影響を受けすぎるのはおかしいでしょう。自分を信じる気持ちがあるからこそ、その年まで売れない芸術に身を投じてきたはずなのですから。

北野監督の映画が特にヨーロッパで人気の高い理由の一つとして、死の表現方法というのがあるのだと思います。確かに、人の死に対して日本の映画は優しすぎて、そこに生温さを感じることは確か。アメリカ映画でさえ、情を抜きにして死を語ることは難しいのです。
それに比べると、ヨーロッパ映画の方が、あるいはヨーロッパの芸術全般が、表現の一つの極致として倫理の一線を踏み越えようとするベクトルが強いように感じます。
そういう意味では北野武の死の表現は、情を廃した上で、徹底的に死を記号化しているように感じました。今回の映画では、芸術に身を捧げるあまり、陰惨な場も、死体でさえも、デッサンの対象になるという倫理規範の危うさを表現しています。なるほど、こういう表現は(目を背ける人は多いけれども)独特の感性を感じて感心しました。
死の記号化、という点では、邦画では中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」なんかを思い出しました。

2008年9月20日土曜日

アカペラの面白さとは5

人の声は千差万別。だから、その複合体である合唱団のサウンドもまた千差万別です。一つとして同じ音色を出す合唱団はありません。
厳密に言えばもちろん楽器とて同じ話なのでしょうが、例えば鍵盤楽器の一つの鍵盤だけを押すのなら、人間が押しても猫が押しても同じ音が出ます。その再現性の高さこそが、鍵盤楽器の汎用的な能力を物語っているわけですが、音色に対する味わいは人の声ほどの多様性は持っていません。

声は音が出始めてから消えるまで、全て人のコントロールの内にあります。
音の立ち上がりも、もわっとした感じから、非常にアタックの強い歌い方までいろいろあるし、声の伸び方、そして消え方も同様に様々な音色や表現が考えられます。もちろん、それらは歌い手にしっかりコントロールされている場合もあるし、無意識になってしまっていることもあるでしょう。
特定の指揮者のもとで長く歌っていれば、合唱団全体もその指揮者の好みのサウンドに変わっていきます。鳴らすことを優先する指揮者、リズムを立てるのが好きな指揮者、アゴーギグの変化が好きな指揮者、端正な表現が好きな指揮者・・・。
指揮者が意識的に、あるいは無意識のうちに要求する音楽に対して、アカペラ合唱という音楽形態は特に過剰に反応するように思えます。良くも悪くも合唱団の持っている性質が増幅されてしまうのです。それは声という、非常に表現の幅の広い楽器を使用していることの副作用とも言えるでしょう。

具体的な例として、ある特定の曲を複数の団体が演奏したとき、本当に同じ曲なのか、と思うくらい違っていることがあります。テンポだけの話でなく、音楽を聴いたときの総合的な印象の違いです。
演奏する場所にも大きく影響されます。アカペラは人数の割には音量が出ないので、演奏に残響は必需なのですが、その残響の多さによっても曲が与える印象はずいぶん変わります。
アカペラという表現形態は、そのような表現の幅の広さを持っているからこそ合唱団や指揮者の音楽性が露骨に現れるし、演奏を聴けば普段どのような練習しているかといったことまでが透けてきます。同じ音符を演奏しても、無限に演奏のバリエーションが生まれ得るその多様性もまた、アカペラ合唱の魅力の一つではないでしょうか。
合唱はほぼアマチュア主体なため、実力面で何を大事にして、何をおろそかにしているかが分かりやすく、だからこそ力のある人にとっては、合唱団作りが何よりもやりがいのある仕事のように思えてくるのでしょう。

2008年9月17日水曜日

アカペラの面白さとは4

よく音楽の三要素などと呼ばれるのが、メロディ、ハーモニー、リズム。
以前は、音楽をこんなに単純に割り切ることは出来ない!とか、マジメに思ってましたが、なんだかんだ言って大雑把に音楽を捉えようと思えば、こういう切り口はなかなか便利なものです。
さらに、この三つの要素を無理矢理、人間の体に当てはめてみると、メロディは顔、ハーモニーは上半身、リズムは下半身って例えはいかがでしょう。今どきの音楽の作られ方を良く象徴しているとは思いませんか。

確かに音楽が発展する過程は、音楽の持ついろいろな要素が上記の三つに分化する過程であったのかもしれません。
ある意味、メロディ、ハーモニー、リズムという三要素を最も意識して作られている音楽は、ポピュラー音楽ではないかと思います。中でも、この三つの要素をそれぞれ分解して、とことんまで探求しているジャンルはジャズではないでしょうか。インプロビゼーションは究極のメロディ性の追求とも言えるし、複雑なテンションを持つコード理論はハーモニーの追求。リズムもスイングを基調としながら一聴しただけでは分からないような手の込んだパターンも良くあります。
ピアノ伴奏+メロディといった音楽は、ピアノが体の例で言えば顔以外の要素を作ってしまいます。ピアノ伴奏付き合唱の場合でも、せいぜい合唱部分は「顔」と「手」くらい。胸から下はピアノが担当しているといってもいいかもしれません。

これがアカペラとなると、全てのパートがあるときはメロディであり、ハーモニーであり、リズムです。体で例えれば、音楽全体が頭から足の先まで声という楽器で表現されるわけです。
逆にポリフォニーの場合、全パートがメロディとなります。これはまるで頭だけが四つある状態(ちょっと気味悪い)。バリ島のケチャなんかだと、全パートがリズムと言えるかも。(ということは四つの下半身・・・?)
つまり音楽の機能がメロディ、ハーモニー、リズムに分解される前の、未分化で原始的な状態の音楽にも成りうるし、そういった表現が逆に全く新しい表現世界を作りだす可能性だってあります。

ちょっと論点が広がってしまったけれど、伴奏楽器の無いアンサンブルはそれぞれのパートが様々な音楽機能を担当することになります。特定の機能だけに習熟するのもそれは重要なことではあるのだけど、音楽の様々な機能を一つのパートが担当しうるそのスリリングさは、やはりアンサンブルの醍醐味の一つのように思います。
これは主に演奏する側の楽しみなのかもしれませんが、あるときはメロディ、あるときはハーモニーの一部、そしてあるときはリズミックに音楽全体を先導する、といった音楽の多面的な楽しみをアカペラ音楽では体験できるのです。

2008年9月12日金曜日

アカペラの面白さとは3

アカペラ女声合唱の定番と言えば、小倉朗の「ほたるこい」。
合唱を普段聴かない人が初めて聴いても、きっと面白いと思ってくれることでしょう。もちろん、この曲の場合ある程度残響のある場所も必要だし、当然訓練された美しい発声も必要でしょう。それでも、曲自体が持つ何ともいえない不思議な雰囲気が人々の心に大きな印象をもたらすのだと思います。
しかし、譜面はいたってシンプル。ちょっと意地悪な言い方をすれば、作曲家が心に描いた効果以上のものを作るのに成功してしまった希有な例と言えるのかも。聴いて気持ちの良い箇所は、単に三つのパートが一拍ずれているだけなのですから。

それにしても、この気持ちの良さは何なのでしょうか?
無論、詩の内容ではないし、和声の面白さでも無いでしょう。敢えて言うなら音響的な美しさとでも言いましょうか。
しかし、逆にこの美しさは歌詞を持った合唱だからこそとも言えます。器楽で三パートに分かれてこの曲を演奏してもそれほど印象に残らないのではないかと想像します。それは、楽器ではあまりに音色が均質だからです。
歌は歌詞があることによって、常にその音色を変化させます。だから、演奏者がそれほど意識しなくても言葉によって旋律の抑揚がよりはっきり浮き立ってきます。そのため、対位法的に書かれた音楽を非常に際立たせることが可能なのです。

ポリフォニー、カノン、フーガといった時間軸上のずれを伴った音楽が、アカペラ合唱では非常に印象的に響く可能性があります。こういった音楽は、すでにルネサンス時代に様々な可能性が追求されているわけですが、今の時代でも、もっと今風のやり方で新しい音響を追求することも出来るかもしれません。

2008年9月7日日曜日

アカペラの面白さとは2

前回の話とは全く別方向になってしまうけれど、声の持つ多彩な表現を利用しようとすると、ときにそれは非楽音になることもあるわけです。非楽音というのは、普通の音符で記譜できない表現のこと。
例えば、言葉をそのまま語る場合もあるでしょうし、叫んだり、笑ったりすることだってできます。ポルタメントさせたり、声を出している間に音色を変えたり、打楽器のマネをしたり、かけ声をかけることだってできます。
おおよそ、声は人間活動のあらゆる局面において使われるものであり、声を使った芸術では、そういった表現から色々な要素を取り込むことが出来るはずです。
それは声がもっとも原始的な発音体であり、感情の直接的な表現に適しているからではないでしょうか。

であるなら、合唱はそういった多面的な声の表現を、非楽音として音楽に取り込んでいくことに躊躇う必要は無いでしょう。もちろん、実際、そういう合唱音楽は世の中にたくさん存在します。
そういう曲は、一見、現代音楽的な扱いを受けてしまうこともありますが、ごく普通の曲の中であっても限られた範囲で使うことによって、さらに効果的になるに違いありません。

もちろん、この話もアカペラに限定されるわけではないけれど、伴奏楽器というのは音楽全体に秩序をもたらすことになるので、伴奏付きの合唱曲には、より声による非楽音が使われにくくなると思います。オーケストラ伴奏ともなれば、合唱はほとんど器楽に近い扱いを受けるようになります。そう考えると、やはり声の多彩な表現を効果的に使うには、アカペラがもっとも適しているのではないでしょうか。

エンターテインメント性を持った合唱音楽を作ろうと思えば、非楽音的な声の表現も使いたくなるものです。
残念ながら、日本の合唱団は、そういう音楽以外の表現を苦手とする人たちが多そうです。どうしてもやらされている感じが拭えなくて、もっともっと殻を破ってみようよと私は言いたくなるのですけど。

2008年9月2日火曜日

アカペラの面白さとは

アカペラの魅力について、もうこれに尽きるというところから言ってしまうと、やはり人の声のハモリの美しさなのだと思います。
もちろん、美しいハーモニーを奏でるには、それ相応の努力と、センスと、そして結局のところ人材が必要なわけですが、そういう美しい演奏を聴いたときの感動は格別です。
私の経験で言えば、キングスシンガーズやアヴェソルやオスロ室内、そしてBCJなど、生で聴いたときの感動は本当に忘れられません。いくら美辞麗句で表現しようとしても、生演奏のあの響きを伝えることはできません。

そういったプロ級のレベルは別世界なんだと思ってはいけません。
声楽家を集めたからって、いい演奏になるとは限らないし、アマチュアの団体だってコンクールなどで時折、本当に美しいハーモニーを聴かせてくれることもあります。
めったに出会えない瞬間だからこそ、それを追い求めることが大変ではあるけれど何より尊いことのように思えます。

もちろん、ピアノ伴奏でも美しくハモることを目指すのは可能でしょう。
でも、そこで聴ける美しさの純度がどうしても私には違うように思えます。美しくハモった合唱の和音の上に、あえてピアノのコードを載せるのは野暮というもの。ピアノにはピアノにしか表現できないことがあると思うけれど、合唱の純度を強調するなら、やはり同時に楽器の音は鳴らしたくありません。
楽器の特性という問題もあるでしょう。純正律とか平均律とか音律の話をする人もいますが、それよりも、ピアノが減衰系の音色である、ということの方が問題な気がします。持続するハーモニーの美しさとは、どこか異質な音楽表現を目指す楽器であると私には感じられます。

こうやって考えると、まずはアカペラ曲はハーモニーが美しい必要があるし、その美しさを際立たせるような書法が必要ではないでしょうか。単純ではあっても、長めの音価とシンプルなハーモニーによる音符は、より美しい合唱に近づくと思います。

2008年8月31日日曜日

ピアノ伴奏とアカペラ

自分自身の合唱活動がもう10年以上アカペラ中心になっていて、ピアノ伴奏で合唱することが最近は全くといっていいほど無くなってしまいました。
たまにはピアノ伴奏もいいかなとは思うけど、いまやっている団では団員数も多くはないし、一度アカペラ中心になってしまうと、お抱えのピアニストを雇うのも経済的に効率的ではありません。
そんな流れの中で、自分が作る曲もほとんどアカペラ。すっかり合唱=アカペラという体質になってしまいました。
そういう環境の中にいると、邦人のピアノ伴奏付き合唱曲というのが、ますますほど遠いジャンルになってきて、幸か不幸か、そういった音楽を客観的に見られるようになった気がします。

もちろん世間一般ではピアノ伴奏付きの合唱曲を歌うのがまだ大多数ではありますが、コンクールに参加するような団体や少人数の団体が徐々にアカペラを歌うようになってきているように思います。
昔ながらの大人数市民合唱団とか、大学合唱団とか、ママさんコーラスなどが今でもピアノ伴奏の比率が高いのは、音楽的な問題というよりはむしろ団の運営や活動方法に由来しているのではと思います。お抱えのピアニストを遊ばせるわけにはいかないし、何より指揮者とピアニストのセットで練習を進めていくスタイルが定着しているということがあるのではないでしょうか。

もちろんピアノ伴奏の合唱スタイルを否定する気は全くないのだけど、まだまだアカペラ合唱の魅力というのが広く世間には広まっていないのかな、ということを感じたりします。
少人数合唱団が扱うアカペラ合唱曲も海外の宗教曲や、ルネサンス音楽がどうしても多くなり、一般のお客さんに聴いてもらうにはどうしても硬派な選曲になってしまいます。そう考えると、アカペラの邦人合唱曲がもっと充実する必要があるし、あるいはポップスの編曲などもアカペラの楽譜でもっともっと出ていいのかなと感じます。(唱歌をアカペラに編曲した「ノスタルジア」のヒットなどもそういう背景があるのでしょう)
そして、何よりそういったアカペラのオリジナル曲や編曲が合唱の楽しさ、美しさを引き立てるもので無ければなりません。個人的には現状ではまだまだそういう側面が足りないという気持ちを持っているのです。
良質なアカペラ曲の条件とは何なのか?自分なりにいろいろと考察してみたいと思います。(続くつもり)

2008年8月24日日曜日

PD合唱曲に男声曲追加

PD合唱曲シリーズに男声合唱曲を追加しました。
テキストは大手拓次の「秋」という詩です。
ふいにポリフォニーっぽい感じの曲を作ってみたくなって、今日一日作曲していました。3分弱のそれほど長くない曲ですが、ポリフォニーなのでやや渋めに感じるかもしれません。

ちょっぴり涼しくなり、秋の気配が漂い始めたこの頃、大手拓次のちょっと寂しげな秋の雰囲気を歌ってみてはいかがでしょう。
MIDIも同時に作ったので、楽譜を見ながら音を聞いてみてください。
��実は、他のPD合唱曲のMIDIも少しずつ手を加えたりしていますので、他の曲もときどき聴きに来てみてください。何か新しい発見があるかも。)

2008年8月20日水曜日

芸術論〜売れるモノと残るモノ

もちろん、こんなふうに二つ並べれば、商業主義に毒されたモノより、後世に残る本物の芸術の方が価値が高いものだと誰もが思うでしょう。
商業主義の弊害のようなものは当然あるとは思うのですが、だからといって売れることに背を向けるのは正しい考え方だとは思いません。なぜなら、今現在評価されないことを正当化することは、独りよがりになる危険性を孕んでいるからです。
確かに売れているモノの中には、うまく時流に乗ったり、芸術本来の力でなく付随する属性によって評価されたりすることも多い。しかし、それと同時に内容が確かだからこそ評価されているもの、というのも確実に存在します。
私たちが本当に鍛えるべきものは、売り上げとか、ランキングとかに翻弄されず、現在評価されているものの中から本物を探し当てる自分自身の審美眼だと思います。
注意深い鑑賞者は、今流行っているものの中から後世に残るモノを嗅ぎ分ける力を持っています。また、なかなかそこまでの審美眼を持っていなければ、自分自身を導いてくれる評論家の意見に頼るという方法もあります。直接的にしろ、間接的にしろ、自分が何かの判断をしなければいけないのは確かではありますが。

ですから、私の感覚としては、売れるモノというのは、残るモノになるための必要条件であり、少なくともこれだけ情報が氾濫する現在、本物が誰の目にも留まらない、ということはほとんどあり得ないことです。
売れることは重要ですが、「売れる」ために本来の中身以外の属性を強調してしまう人たちが少なからずいます。鑑賞する側は、それをきっちり見極めなければいけないし、創作する側は、売れるためにどんな努力をするのか、その質が問われているのです。

おおざっぱな傾向として、正直日本人は流行りに弱い部分があると思います。それは、結局「売れる」けれど「残らない」ものを大量に排出してしまうことに繋がります。
そのような傾向を嘆く人たちもたくさんいます。悪く言えば、近視眼的な真面目さを持った人たちです。しかし最近思うのは、どのような状況においても、泰然としながら、しっかりと我が道を進める人がもっとも強いなあということ。スポーツなんかも同じですよね。

2008年8月13日水曜日

ダークナイト

ノーラン監督によるバットマンのシリーズ二作目の映画を観ました。ちなみに一作目は渡辺謙が出ていた「バットマンビギンズ」。
ダークナイトのナイトっていうのはknightの方で、バットマン自身が「暗黒の騎士」だという意味。
この映画、アメリカではかなりのヒットだったそうですが、日本では恐らくあまりに世界観がダークすぎて受け入れられないのではないでしょうか。
ダークというのは、単にならず者が現れてドンパチをやっている、というような意味ではなくて、悪とは何か、正義とは何か、を捉え直しながら、勧善懲悪というアメリカが好きな価値観をわざと揺るがせようとしている製作側の態度から来ているように思えます。

悪役のジョーカーは、バットマンがいるからこそ自分の存在意義がある、と言い放ちます。全ての物事は二面性を持っている。悪があるからこそ正義も生まれる、そして正義を通そうとするからこそ悪も生まれるという矛盾をあぶり出すのです。今のアメリカの状況に対する辛辣な告発ともとれます。
その結果、正義であることの苦悩を表現するために、この映画は爽快なヒーロー映画では考えられないストーリ展開となります。重要人物がことごとくジョーカーの手にかかって殺され、善人さえ悪人に変わり、信頼していた周辺の人々も裏切りをしていく。信じられる物が無くなるくらい、観ている者の倫理観を侵していきます。

ジョーカーという人格の不気味さも際立っていますし、もちろん派手なアクションシーン、爆発シーンなど激しいシーンも盛りだくさん。2時間半近いかなり長い映画ですが、ジョーカーの執拗な攻撃の連続に息つく暇も無く見せた映画の流れも見事でした。
"Why so serious?" シリアスにならざるを得ない流れを嘲笑うようなジョーカーの名台詞です。

2008年8月11日月曜日

スティーブ・ジョブズ 神の交渉力

JobsAppleのCEOであるスティーブジョブズの生き様を紹介した本。いちおう、ビジネス書とか、リーダー論的な論旨にはなっているものの、あまりのジョブズの性格の無茶苦茶ぶりに、どう書いても彼個人の奇行歴にしかなっていません。
これまで、Apple製品の洗練されたセンスにはスティーブジョブズの大きな影響があると書きました
そもそも、Appleなどという大企業において、CEOとはいえたった一個人の影響力がそこまで商品の隅々まで及ぶのか、という疑問を持つ人もいると思います。もちろん、普通の人間だったらそれは無理でしょう。世のたいていの会社は、社長が変わったくらいで、製品の洗練度が変わるなんてことは無いのです。
しかし、スティーブジョブズならそれが可能なのです。それはこの本を読んで痛いほどわかってきます。

正直、一消費者としてはApple製品の洗練度に感銘することはあっても、ジョブズを個人崇拝の対象にするにはためらわれます。
あまりに、人間として酷すぎます。何が酷いかは、本を読めばわかるけれど、しかしだからこそ、多くの才能ある人間を従えてあれほどの製品群を作れるのだということがわかるのです。彼らも、どんなに無理な要求でも、ジョブズの元にいるからこそ、世界を動かす仕事ができる、という気持ちがあるからこそやっていけるのでしょう。
作曲家で言えばワーグナーみたいな人なのかなあ、と思ったりします。借金を踏み倒したり、人の奥さんを横取りしたりする一方、自分の曲を演奏するための劇場を作らせるほどの辣腕ぶり。ワーグナー好き、いわゆるワグネリアンは、こういった行動力に憧れている人も多いのではないでしょうか。

これを読んで、スティーブジョブズは絶対日本には現れないだろうなあと感じました。
このような個人がプロジェクトを率いればみんな造反するだろうし、上のほうも難癖をつけて重要な仕事をさせないでしょう。だいたい、日本では苛烈な独裁者はたいてい暗殺されてしまうのです(織田信長とか、井伊直弼とか)。

2008年8月7日木曜日

iPhone、早くも二台目

昨夜、ファームのアップデートがあるというので喜んで作業を行っていたら・・・、リセットしてiPhoneが立ち上がった後に「緊急電話」の画面しか出なくなってしまいました。この画面、SIMカードを指していない状態でしか出てこないモードのようです。
iTunesを立ち上げると、「アクティベーションに必要な情報をiPhoneから入手できなかったため、iPhoneをiTunesで使用することができません」というアラートが表示が出て、その後iPhoneは全く無視されたまま。これでは、全くiPhoneを使うことが出来ません。
その後、何度かiTunes上で「復元」を試してみたけれど、症状は変わらず。

それでネットを見てみたら、同じ症状の人が何人かいるじゃないですか。彼らがSoftbankに持ち込むと、どうも不良品として、交換してもらっている様子。
というわけで、早速私も変えてもらいました。先代はわずか一週間の命でした。
しかし、まさか持ち込んだその日に交換してもらえるとは思わなかった。もうiPhoneも品薄状態では無くなっているのかな。とりあえずは良かった〜。
恐らく、検索でこの記事にあたる人もいるので、情報として載せておきますね。
やはり、初期ロットは避けるべきだったかな。こういうところがアップルらしいと言えば、そうなのだけれど。

2008年8月5日火曜日

芸術論〜合唱の場合

とりとめも無く書いてきましたが、ここで無理矢理合唱の話と結びつけてみます。
そもそも、これまで私がいろいろ書いてきたことは、創作の最前線に居たいと思う人間の一人として、芸術活動とは一体何なのか、と自問自答してきたことです。
それは一つには、合唱というジャンルが非常に保守的で、かつ、芸術活動の最前線にあるとは言い難い現状に対するいら立ちのようなものがあったからです。
私自身がそんな大げさなことを言えるほど立派な活動をしているわけではないけれど、自分の出来る範囲で何とかしてみたいという気持ちだけは持っているつもりです。

漠然とした不満を一つ具体的に言ってみるなら、合唱界にアーティスト、クリエータと呼べるような人が少ないという点が挙げられると思います。それは、一つにはアマチュア中心、コンクール中心の活動が、個性やオリジナリティよりも、保守的な価値観における優劣に終始しているという状況と無関係では無いでしょう。
だいたい、先進的な取り組みには常に賛否両論があるものです。そういったものの評価はコンクールというシステムとはたいてい相性が悪いのです。合唱に関わる多くの人がコンクールというシステムに関わっている限り、異質で破天荒なものを排除し、狭い世界で評価を得るために全体が均質化する危険性から解放されることがありません。
もう一つは、合唱の教育的な側面。合唱世界で名をなす方々は、私にはアーティストというより教育者を指向しているように見えます。率直に言えば、私は歌い手の情操教育のようなものはほとんど興味が無くて、舞台上でいかに観客をエンターテインできるような演奏を繰り広げられるか、その最も基本的な舞台芸術の原点がおろそかにされていることのほうが問題だと感じてしまいます。
尖った芸術家が合唱の世界にもっと必要だと思うし、私自身も(性格は全く尖っていないけれども)そうありたいと思っています。
そして、そのためには合唱という狭い範囲の価値観だけではなく、幅広い芸術作品を(観客として)鑑賞することによって、汎用的かつ根源的な審美眼を養うことが重要なのではないでしょうか。

2008年7月31日木曜日

iPhone入手

先日もさりげなく予約したと書いたのですが、本日iPhone 3Gを手に入れました。
あんまり流行りものに飛びつくのは本意では無いのだけど、自分が携帯端末として望むものをほぼ網羅しているので、早かれ遅かれ買うつもりでいました。そんなわけで、Appleにまたまたお布施です。

8GBモデルの黒。そもそも全部データを持ち運ぼうと思えば16GBだって足りないわけで、どうせセレクトするなら8GBでも良いかなと考えました。
それから、ケースなどの周辺グッズもいろいろ調べています。個人的には洗練された外観を全部覆ってしまうのは野暮ったい気がして、全体を覆うようなケースは買わないつもり。使うときに取り出せるようなポケットタイプのものを探しています。

iPhone購入を機に、Mac上でアドレス管理やスケジュール管理もやってみようかと考えているところ。
メールはどうしたものでしょう。携帯のメールアドレスで使っても良いのだけど、どうせ携帯からメールはほとんど書かないし、G-mailという手もあるかな、などと思ったりしつつまだ思案中。PCのメールをただ持ち歩くだけでも良いかもしれないし・・・。
iPhoneでは、アプリを足せるというのも魅力の一つ。鍵盤を鳴らしたり、メトロノームになったりするアプリでもいろいろ探してみるつもり。

肝心の電話だけど、繋がりにくいという噂なんかもありますが、さて実際のところはどうなんでしょうか。

2008年7月25日金曜日

運命じゃない人

アフタースクールを観た後、この監督の作品が気になって、前作のデビュー作「運命じゃない人」をDVDで鑑賞。
これまた、むちゃくちゃ面白い映画でした。トリッキーで技巧的な構成はこの監督のトレードマークなのですね。涙を流しながら笑いつつも、一つ一つのネタの仕込み方、全体の辻褄のあわせ方に唸らされてばかり。かなり低予算で作られたようですが、脚本の良さと演技の面白さでここまでのクオリティの映画が出来ること自体、日本映画では奇跡的ではないかと思ってしまいます。

ストーリーを紹介しようと思うのだけど、これが難しい。最初はほのぼの恋愛映画かと思わせつつ、中盤からやくざとか出てきて一気にきな臭くなってきます。
構造的には、このストーリーは全部で三つの部分に分かれます。各部分は、全てある一晩の出来事を語っているのだけど、それぞれ別の人物の視点で同じ時間が三回なぞられるのです。
だから、全く同じシーンが何回か現れます。ただ、同じシーンなのに違う人の視点で見ると、全く違う様相を帯びてきます。三人目の部分になると、「えー、あのときあそこで・・・だったの!」とか、「実はこのとき・・・だったんだ」とか驚きの連続。
もう、技巧的の一言。わりと無名な役者ばかりなんだけど、それぞれの演技がまたうまい。そう思わせるだけのリアルな脚本なのかもしれません。

どうも、私はこういった練りに練った技巧的で、細かいところまで辻褄が合っている論理性をベースに持っている作品とかが好きなんですね。だけど、そういう作品って、技術的なだけでなく、気持ちの落としどころとか、ちょっと心に残る部分とか、情緒的な部分も決しておざなりにはしていないように思うのです。

2008年7月20日日曜日

Macでのお気に入り

��ヶ月ほど前にiMacを買ったことは既に書いた通り。その間Windowsでやっていたことを徐々にMacに移してきましたが、最近ついにEメールをMacにコンバートしました。
Outlook Express からMacの"Mail"へのコンバートは、直接は出来ないのだけど、一度中間フォーマットとしてUNIX系の.mbxファイルに変換する、という方法があることを知りました。早く知っていれば、すぐにでもやってたのに・・・。

そんなわけで音楽系は全て、E-mailとWeb閲覧はほぼMacで作業しています。今、WindowsでやっているのはOffice系、画像スキャン、オーディオ録音、ホームページのHTML編集といったところ。細かいところはまだまだWinが必要だけど、日常的なことはほぼMacで足りるようになってきました。

それはともかく、Macで今ちょっとしたお気に入りになっているのは、Word of the Day というスクリーンセーバー。これは標準で入っているものの一つなのだけど、結構観ていて飽きないし勉強になります。
どんなものかというと、海底のような青い背景の中に、単語が現れ、国語辞典のようにその単語の読みと意味が現れるというモノ。この言葉が毎日違っていて、しかもやけに古めの(自然に関する)言葉ばかり。古き良き日本語を厳選するというコンセプトが、(アメリカ製の)Macなのにも関わらず心憎く感じます。
ますますMac派になっている今日この頃なのです。(実は iPhone 3G も予約してしまった)

2008年7月14日月曜日

芸術論〜人々は何を芸術に求めるのか?

人々は何を芸術に求めるのか?
もちろんこんな大層なことを、学術的にきちんと論じようとすれば、全ての芸術や宗教や哲学などを総括するような、大変な論文になってしまいます。なので、あくまでシンプルに私の思いつきの考えを書き連ねてみましょう。
私の思うのは以下の三つです。
 1.人々は芸術に刺激を求める
 2.人々は芸術に新しい精神的な体験を求める
 3.人々は芸術に共感を求める

刺激というのは、簡単に言えば、日常と違うこと、そしてその違いに驚くこと。普段聴くことの無いような大音響はもちろん刺激だし、迫力のある映像、極彩色の映像、思いもつかない言葉の組み合わせ、常識を外れた行動、等等。何しろ、刺激とは普段とは違う何かです。
人間というのは本当に不合理な生き物です。生きるだけならおとなしく食べ物だけ食べていればいいのに、なぜ好奇心なんてものがあるのでしょう。いつも何か刺激が無いと生きていく活力が得られないのですね。お祭りのような非日常的な空間を作るのもその証拠のように思えます。
しかし、この刺激というのは一種の微分係数のようなもので、一度刺激を与えたモノを連続して与え続けると、それに慣れてしまい刺激で無くなってしまいます。さらに別の新しい刺激を人々は欲するようになるのです。

新しい精神的な体験とは何か?
例えば、宇宙旅行をしたり、古い王国の王様になったり、異国を放浪する旅人になったり、私たちは芸術を鑑賞することによって、普段の生活で得られない出来事を擬似的に体験します(した気になります)。小説、映画、演劇、オペラなどなど、ストーリー性のある芸術作品では、観客は自分自身を主人公に投影して、その世界観に没入し、そして主人公の心情を擬似的に体験したような気になり、それが気分を高揚させます。

最後の共感ですが、もちろん上記のような精神的体験から共感を得ることもあるでしょう。
しかし、もう一つこの共感を広義に捉えるなら、作品の中に自分の考えと共通する部分を見つけ、それを一緒に鑑賞する人と共有することによって、その思想をより強固なものにしていこうとする心境とでも言ったらいいでしょうか。
誰しも、自分と同じ考えを持った人がいるのは大変嬉しいことです。共感とは簡単に言えば、ある種の仲間意識のようなものです。自分と精神的に共通している誰かがいる、ということが自身が生きることに大きな安心を与えてくれるのです。

ということで芸術に求めるものについて、刺激、体験、共感、という三つのキーワードを提案してみました。

2008年7月10日木曜日

アフタースクール

内田けんじ監督の非常にトリッキーなストーリーを持った映画を観ました。
基本的に途中からのどんでん返しがこの映画の魅力なので、ネタバレを書いてしまうわけにはいきませんが、本当に騙されました。これは面白い。
映画だからこそできるトリックです。この系譜としては、「シックスセンス」なんかが代表的ですが、あれはあくまで最後でのどんでん返し。ストーリの中盤から、あれ、あれ、どうなってるのー?と何度も頭を捻らせながら観るのは新鮮な体験。しかも、後々考えてみると、前半の仕掛けに思わず唸らされてしまいます。

最近、邦画でも脚本がしっかりしていて、さらに観る者を驚かせるような作家性の高い映画が増えてきました。三谷幸喜モノはもちろんのこと、去年の「キサラギ」なんかもそういった感じの映画。
ようやくハリウッド映画の面白さに近づいてきた感じです。もちろん、未だにぐだぐだな脚本なのにアイドルを使ってヒットしてしまう映画もたくさんありますけど、こういった映画が注目を集めるようになって嬉しい限り。

芸術性というと、どうしてもシリアスさや格調高さ(文芸風というような)に向かいがちだけど、エンターテインメントを極めながら練りに練った技巧的な内容で楽しませることも芸術性の一つとして評価されるべきだと私は思います。

2008年7月6日日曜日

YouTubeに器楽曲をアップ、再び

早速、新音源を用いて曲を作ってみました。どんなすごいもんだろう、とあまり期待されると困るのだけど、今回はその曲の紹介をしましょう。

曲は、ここのところ作曲していなかった「仮想楽器のためのアンサンブル」を、久しぶりに作曲。
編成はいつも通りの5声の仮想楽器、形式もまたまた変奏曲です。今回のポイントは、いくつかポピュラー風のリズムを用いて変奏しているというところ。クラシックっぽい雰囲気とは離れますが、より聞きやすい音楽になっていると思います。
最初にしっかり考え設計した上で書き始めていたこれまでの書き方に比べると、今回はかなり行き当たりばったりで作り上げた感じ。作曲の取り組み方自体にも、いろいろバリエーションがあっても良いと思い、あえてそんな感じでやってみました。

そして一月ほど前に作ったその曲を、早速先日入手した新音源で作ってみました。
今回は木管のアンサンブル。フルート、イングリッシュホルン、クラリネット、バスクラリネット、バスーンの5声です。
もともと、YouTubeはモノラルになってしまうので、音そのものは決して良くはないですが、それでも少しはリアルな音色になったのがわかるでしょうか。今回はエフェクトもかけず、HSOの素の音のままで作ってます。

ただ、この音源、特定のノート、ベロシティでノイズが載るときがありますね(例えば2分27秒付近のフルート)。今回はそのまま録音してしまいましたが、元々そういう品質だとすると、ちょっと残念な感じ。
もちろん、まだまだ私のDTM技術が足りないのか、バランスや表情付けもちょっといまひとつの部分もありますので、今後ともいろいろ研究してみるつもりです。




2008年6月29日日曜日

オーケストラを買ってみた

曲を書けば、なんとか演奏して欲しいもの。
合唱はまだしも、器楽となると生演奏の機会はそうそうありません。その昔からDTMみたいなことは好きでやっていたんですが、最近もうちょっと力を入れて音楽制作みたいなことをやってみたくなりました。つまり、生演奏されないなら自分でPC上で作ってしまえ、というわけです。

そんなわけで、オーケストラを買いました。もちろん本物でなくて、PC上で鳴らせるサンプリング音源です。
最近かなりリアルなオーケストラのサンプリング音源が出ています。候補で考えていたのは Vienna Symphonic Library の Standard Edition(VSE) と、Halion Symphonic Orchestra(HSO)
VSLは超ハイスペック、プロ御用達の音源で、VSEはその抜粋版のようなもの。最初はかなりVSEに傾きかけていたのだけど、さすがに職業音楽家でもないのにこれだけのクオリティは必要なさそうだし(全部揃えるとすごい値段!)、ストレス無しに鳴らすにはPCのスペック的にも厳しそう。
結局、オーケストラ音源としては比較的マイナーなHSOを購入しました。(一般的には、ガーリタンとか、QLSOと呼ばれているのが売れ線みたい)
HSOにしたのは、ホストアプリがCubaseなので同じ会社で相性も良いだろうし、操作性も見た感じ良さそうに思えたからです。もっとも、今持っている昔のDTM音源から比べたらどれを買ってもリアルさは雲泥の差ですけど。

まだ、十分触ってないけど、やっぱりリアルですね。アンサンブルになれば、これは相当雰囲気が出て来そう。いろいろ触っていたらオーケストラの曲でも書いてみようか、という気分になってきました。
楽器単体では、そばで鳴っているような臨場感というより、きれいに整頓された音色って感じで、一般性の高い作りになっているような気がしました。
打ち込みでの実際の表現付けのところでは、真面目にやればそれなりに苦労しそうですが、人に聞かせるには十分なクオリティがあると思います。(昔のDTM音源だと、「音が変」とかすぐ突っ込まれたし)
ただ、音色や奏法の種類の把握、コントロールの仕方、セッティングしたデータの管理方法など、使いこなすにはもう少し時間がかかりそう。ある程度把握できたら、室内楽っぽい編成からトライしてみる予定です。

2008年6月21日土曜日

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第2番/ユンディ・リ&小澤征爾&ベルリンフィル

Yundiちょっと前にNHK BSでやっていた小澤征爾とユンディ・リの番組を見て、とても面白かったので買ってみました。
若手ピアニストとして注目されているユンディ・リの激しくも繊細な演奏も心動かされたのだけど(中国ではアイドル並みの人気だとか)、それよりもプロコ好きであるにも関わらず、ピアノ協奏曲第2番って実は聴いたことなくてその音源が欲しかったというのが主目的。

プロコフィエフがピアノ協奏曲第2番を作曲したのは、22才のとき。その前衛的な響きに当時はほとんど理解は得られませんでした。その後、この楽譜はロシア革命の混乱の中で失われてしまい、約10年後にプロコフィエフが記憶を元に新たに復元改定。もちろん、現在残っているものはその復元版です。

聞いて思ったのは、何しろ全編プロコ印で溢れていて、これぞプロコフィエフという楽想の連続。確かに他の協奏曲と比べて旋律のキャッチーさが無いので、それほど一般的には有名ではないのかもしれないけど、プロコフィエフの鋭角的な旋律や不思議な和音感覚が好みなら、この曲はおおはまりすると思います。
恐らく、10年後に書き直したっていうのも、実は良い方向に向かっているように思います。もっとも、20代前半でこんな曲を書いたこと自体、とんでもないことですけど(私的には)。

プロコの何がいいって、私にとってはクラシックというよりロック的というか、もっと音楽の持つ原始的な激しさのようなものがたくさん詰まっていること。ある意味、貴族的とか、サロン的とか、教養的とかそういう世界と対極にある価値観なのかも。
時代が変わっても失わない反骨心のようなものが背景にあって、冷静な攻撃性というか、奇形に対する偏執的な愛情というか、そういう要素をふんだんに持っているのです。
もう一つは曲全体のメカニカルな雰囲気。こういう硬質な音楽が好きなんですね、私は。ぐにょぐにょにテンポを揺らす演歌的価値観の対極でもあります。

2008年6月18日水曜日

ザ・マジックアワー

テレビで激しく宣伝している三谷幸喜監督の最新映画。前回の三谷作品の感想はコチラ
相変わらずの笑いのセンスに、今回も涙を流しながら笑っていました。本当に楽しめます。これがフジテレビ製作ってのがクヤシいくらいです。

三谷作品の場合、やはりどうしても芸術論的な話をしたくなってしまいます。
というのは、本質的に日本の芸術に欠けているものをこの人はふんだんに持っているような気がするからです。
今回は、特にその人工的とも言える世界観が非常に印象に残りました。時代設定もあやふやにしてしまうようなレトロな街並み。そこにいる人たちも、衣装や雰囲気がレトロ。だけど、時代背景はやはり現代なんですね。
古きギャングの話にリアリティを持たせるために、セットや美術まで含めて全部ゼロから作り上げてしまう、そういう細部にわたる世界観をきちんと作り上げるだけの溢れんばかりのクリエイティヴィティがあります。今の日本の映画では本当に珍しいことです。

思うに、三谷幸喜の凄さというのは「想像力の正確さ」なのだと思います。
誰しも学生時代などにちょっとした寸劇をやったり、舞台で何か踊ったりしたような経験があると思います。演出などを自分たちで考えていると、そのときはスゴいいいアイデアだと思ったのに、いざやってみると、かなりすべっていたり、あまり評判が良くなかったり・・・。なんか、合唱団のサムい演出を思い出してしまいます・・・。

モノを作り上げる、創造する、という行為には、作り上げたらどうなるのかと「想像」することがどうしても必要です。頭の中で思い描いた「想像」が独りよがりのものでなく、誰が見ても納得できるようなものになっていたか、そして製作側が意図していた通りに受け取ってもらえたのかが大事なのであり、そこまできちんと製作段階で読み切る想像力こそが、クリエーターとしての重要な資質に思えます。
そういう意味で、この映画、非常に複雑なシチュエーションが設定され、その虚構の中で繰り広げられる台詞の一つ一つが非常に精度が高く練られていて、その想像力に舌を巻きます。思いもよらぬ展開に観客はただただ三谷的想像力ワールドのジェットコースターに乗って振り回され続けます。
卓越した人間観察力、そして事態の先を読む力、それがこの想像力の正確さをより高めています。
想像するだけなら誰でも出来る。問題はその正確さ、質の高さということなのです。


2008年6月12日木曜日

芸術論〜尖ることの難しさ

芸術とはちょっと離れますが、メーカーに勤めていると、どうやったらヒット商品が出来るのか、という話題に触れることがあります。
生活必需品がほぼ家庭に行き渡った今、売れているモノというのは、それしか持たない個性や、凛とした哲学、ある種の尖った佇まいを持っているものです。以前もちょっと書いたのですが、商品にも芸術性が求められる時代になってきたような気がします。じゃあ、そういう商品を企画すればいいじゃない、となると、ことはそう簡単には進みません。

同様に、芸術には何かしら尖ったものがあるハズです。
逆に言えば、どのように尖っているのか、ということが芸術が持つ価値と密接に繋がっているように思えます。個性的とか、唯一性とか、オリジナリティとかそういう言葉は、その尖り具合から来ているものなのでしょう。
尖ったものは一見すると、新規性と間違われます。確かに、何か新しいからこそ尖って見えるし、個性的にも見えます。しかし、新規であることを目標にしてしまうと、全くセンスのない勘違いなものを作ってしまうことになりかねません。私には多くの前衛芸術がそのようなスパイラルに陥っているように思われます。

実は人は想像以上に保守的だと感じたりします。
保守的なまま、尖ったものを作ろうとすると、単なる表面的な新規性に走ります。しかし、時代を切り開く尖った感性というのは、常識を少しだけ外れたところにあって、それは往々にして人々が目を背けたり、侮蔑したり、嘲笑したりするものだったりします。
そういう意味で「尖ったもの」の対極にある価値観というのは常識の権化である学校教育じゃないか、とも感じます。変な言い方をすれば、学校では教え(られ)ないことに尖ったものの芽があるのかもしれません。

2008年6月9日月曜日

芸術論~さらに抽象論

オリジナリティとか個性という言葉はある意味、とても危険です。
抽象的な議論をすればするほど、こういう言葉は空回りし始めます。表面的に捉えれば捉えるほどゲテモノを生んでしまうことも良くあります。単なる表現方法のカタログ化にしかならないこともあります。
ある程度その道を極めた人は、そういう「個性」という言葉の危険性を良く知っていて、だからこそ、今度は逆に保守方向に気持ちを振ってしまいます。今、世にあって、多くの人に支持されている価値観をどれだけ極められるか、そちらだけにしか興味を持たなくなってしまいます。

要するに、個性というのは外面だけで判断しないこと、その胡散臭さに目を背け保守的態度をとらないこと、が大事なのではと私は思います。

外面だけで判断しないというのは実は案外難しい。なぜなら、内面は見えないからこそ内面であり、内面を知るには外面から判断するしかないからです。つまり外面を見るしか判断する手段がないのです。だから、その外面から、外面だけを繕っているのか、内面から自然に発露した外面なのかを判断する目を持つ必要があります。
行動が奇矯だったり、見た目が変わった人を「個性的」と呼ぶことがあります。なかなか普通の暮らしをしていて、普通の格好をしている人の普段の言動から「個性的」と呼ぶのは難しい。だけど、芸術にはそういう要素が必ずあると思います。

保守性に関して、これは新しい価値観を追い求めることを放棄してしまうような態度です。
残念ながら人は年を取るほど、社会的地位が高くなるほど、そして人から信頼を得れば得るほど保守的になっていきます。誰もが認めた価値観をもっとも効率的に、そして完璧に表現してみせることは、世渡り上手な芸術家のすること。しかし、新しい価値観を提示できない人は、本質的に芸術家、クリエータの資質に欠けているのではないかと私には思えます。
もちろん、「新しい価値観」という言葉の胡散臭さをひとまず置いといた話ですけれど。

2008年6月8日日曜日

芸術論〜漠然とした主張

いい音楽って何だろう?という素朴な疑問について。
あんまりにも漠然としすぎて、素人ほど断定調に自らの思うところを語ってしまいがちだけど、音楽活動を継続的にしている人は、一生かけて追い求めるテーマなのだと思います。
もちろん、いつだって最良の、最高の音楽が出来たなんて思えないのだけど、それでも自分の中で何らかの理想像を持っていなければ、よい方向に持っていくことすらできません。
つまり、「いい音楽って何だろう?」という疑問は、そのままそれに答えようとする人の音楽の理想像を示すことに他ならないと思うわけです。

ところが、理想像がもし特定のアーティストの特定の演奏をイメージしているのなら、それは違うと私は思います。当面の目標ではあり得ても、音楽活動する人の最終目標では無いはずです。なぜなら、それは結局のところ他人の真似でしか無く、真似をする以上、目標となる対象には永遠に近づけないからです。自分は誰でもない自分自身であり、本質的に他の誰の真似も完璧には出来ないし、逆に他の誰も自分を真似することは出来ないのです。

芸術である以上、ある一定の技術力が必要なのは確かですが(もちろん、それを極めるのもとてつもないことですが)、それと同時に自分であることの唯一性、独自性、オリジナリティが、特に技術的レベルが高くなるほど求められるし、誰にも出来ないことをやるからこそ、そこに価値があるがあるはず。
オリジナリティという言葉をどれだけ真に咀嚼し、明確な形で示すことが出来るのか、それこそその人に取っての「いい音楽」のセンスが試される部分であり、最後に人の心にその音楽を残せるのかどうかの判断の分かれ目となるのだと思います。

2008年6月1日日曜日

Beyond Standard/上原ひろみ

Beyond上原ひろみのニューアルバムが発売されました。
これまでオリジナルオンリーだった上原ひろみがスタンダードに初めて挑戦したアルバム。スタンダードといっても、ジャズ的な意味でのスタンダードではなくて、様々なジャンルから曲が選ばれているというのが特徴です。
例えば、ドビュッシーの「月の光」、デュークエリントンの「キャラバン」、坂本九の「上を向いて歩こう」、ジェフベックの「レッドブーツ」など。
何をリスペクトして、自分は何者であろうとするのか、アーティストのそういう方向性がこういったカバーアルバムでは、より鮮明に見えてきます。そういう意味で、選曲そのものが興味深いですね。クラシック、ロック、ジャズ、何にでも影響を受け、いいものはいいんだ、というシンプルかつ、自分の感覚を信じる強い信念みたいなものを感じます。図らずも編曲の話題の後なので、やはり上原ひろみはレベルが違うなあ、と改めて思ったり。

サウンドは率直に言えば、オリジナルが無くなった分、攻撃的で技巧的なテーマやフレーズが減り、表面的にはややおとなしくなった印象。ジャズマニアから見れば、オリジナルをどのように料理したか、という別の興味があるのでしょうが、私はまだそのレベルには達してはいないかも。
ただ、「月の光」はいささか無理やりジャズのフォーマットに持っていこうとして、それはそれで興味深いのだけど、もっと他のアプローチはないかな、とは思いました。

とはいえ上原ひろみの場合、ライブになるとCDでは聴けない激しさや、表現の幅の広さを見れるので、生演奏を聴くとまた一曲一曲のイメージも変わるかもしれません。
また、機会があればコンサートに行ければいいのだけど。

2008年5月29日木曜日

ポップスの歌い方

編曲話の続きということで、ポップスステージを企画した後、ではどんな風に演奏したら良いか、ということについて。
結論から言えば、ポップスだからこう歌ったほうが良い、などというものは私は無いと思います。
敢えて多くの人が言いそうなことと反対のことを言うなら、せっかく合唱に編曲したのだから、合唱っぽく歌うべきです。みんなが知っている曲を合唱という別の形態で表現するのだから、合唱であることの面白さを伝えなければいけないはず。間違っても、オリジナルの歌手の歌い口を全面的に真似しようなどと思わないことです。(部分的に表現としておいしいところを頂くというのはアリでしょうが)

正直、聞いていて好きでないのは、ポップスステージになると、妙に生声になったり、歌い口もバラバラだったりして適当な演奏になること。それでも、聞いた人は「知っている曲があったから良かった~」とは言ってくれるとは思いますが、それなら「あの曲を合唱でやったら、こんな感じになって面白いんだ~」とか私は言わせたいですね。
ポップスでもジャズでも他人の曲をカバーするなら、自分なりの料理の仕方をして、その料理の仕方を楽しませたいわけで、それは合唱とて同じこと。アレンジにもよりますが、自分たちの魅力を最も良く伝える演奏を本来はするべきなのです。

そもそも、「ポップスっぽい」とはどういうことを言うのか。
裏拍を重視するとか、多少一般的なことはあるかもしれないけれど、現代に作られた音楽なら(もちろん、合唱曲であっても)多少なりともある程度のロックテイストを持っているし、ジャズっぽい和音だって使われます。
だから、元がポップスであろうと何であろうと、今ここで演奏しようとしている音楽の内容を理解した上で最善の表現をすればよいのであって、音楽をジャンルの枠ではめて、ポップスだからこう歌おう、と単純化することは音楽作りの思考停止なのだと思います。

2008年5月23日金曜日

編曲ステージを構想する

もちろん、市販の編曲集をそのまま利用して一ステージにしても、それはそれで構いませんが、どうせなら編曲ステージでは合唱団独自の色を出したいものです。
はっきり言って、このステージの面白さのキモは"選曲"に尽きると思います。この選曲のセンスで、そのステージの成否が決まるでしょう(というと大げさだけど、お客にとっての面白さは随分変わってくるはず)。

選曲のセンスについて、私が云々言うつもりはありません。
こればかりは、選ぶ人の芸術的な審美眼の問題ですし、誰にでも可能なレベルでクリエイティヴィティが発揮できる機会ですから、細心かつ大胆な選曲をしてみたいものです。
問題は、選曲した曲を合唱で歌えるような編曲があるか、ということです。
市販のものでそれなりのアレンジのものがあればいいのですが、選曲でオリジナリティを発揮すればするほど編曲譜が無い、という問題が出てきます。
しかし、そういう事態になったらそれなりの人に編曲を頼むか、自分たちで編曲してしまうか、くらいのバイタリティが必要なのです。そこまで入れ込んだほうが、舞台としても絶対面白いものになると思うのです。
なので、本来、普通の合唱組曲のステージよりも、私には編曲ステージのほうがずっと準備や仕込が大変なものだと思えます。

私が自分で編曲した実例を一つ。
ムジカ・チェレステという少人数アンサンブルのコンサートで、美空ひばりの編曲ステージをやったことがあります。もちろん全部アカペラ。
曲目は、「お祭りマンボ」「リンゴ追分」「川の流れのように」
傾向の違う曲を集め、また原曲から自由に離れて編曲したので、結構自分では気に入っています。
��「お祭りマンボ」は和音を工夫して早口言葉風、「リンゴ追分」はジャズ風、「川の流れのように」はちょっぴりポリフォニー風)

2008年5月17日土曜日

編曲することの意味

J-POP関連の話題の発展ということで。
ポップスの合唱編曲ステージというと、どうも芸術的に一段低いものと感じがちです。やっているほうがそう思っている限り、残念ながら演奏もそういうものになってしまいます。
そもそも、なぜ他ジャンルの音楽を違う編成に編曲することが広く行われているのでしょう。ざっくり言って次の二つの理由があると思います。
1.お客が知っている曲があると楽しいと感じるから
2.耳慣れた曲が、新しい編曲で演奏されることに新鮮さを感じるから

上記より編曲は本来、一粒で二度おいしい演奏効果を持っています。
合唱で言えば、純粋な合唱曲は普通の人にとって一般的ではないけれど、流行歌なら知っている人も多いでしょう。そういった曲を合唱独自の編曲で聴かせることは、演奏会をより楽しんでもらうために重要な方法の一つだと思います。
だからこそ、編曲そのもののクリエイティヴィティが問われるわけですが、残念ながら出版されている編曲の楽譜は、なるべく多くの人に歌ってもらうために(あるいは、商業的に楽譜をたくさん売るために)あまり編曲に個性を発揮したものは多くはありません。
既成の編曲楽譜を用いるために、編曲の面白さがあまり無くなってしまい、しかもそれがピアノ伴奏付きだったりすると、合唱の演奏自体が単なる集団カラオケ状態にしかならなくなってしまいます。

そういう意味では、オリジナルの合唱曲を演奏するより、ポップスの編曲ステージをやるほうがはるかにその団の芸術センスを問われます。しかし、本来そういう覚悟を持って編曲ステージを作るべきだと思うのです。もちろん、団内で編曲が出来るのなら、それが一番良い方法でしょう。

2008年5月10日土曜日

ゴールデンスランバー/伊坂幸太郎

Golden本屋大賞受賞作っていうので、思わず手が伸びてしまいました。
しかし、伊坂幸太郎という人、すごく活躍しているみたい。本屋大賞にも毎年ノミネートされていたようだし、何作も映画化されています。

基本的にはこの手のサスペンス、アクション+ちょっと社会派みたいのは私の守備範囲外なのだけど、さすが大賞を取るだけあって、非常に面白い。最初から最後まで次の展開が気になって読むのを止めることができません。
内容はざっくり言えば、首相暗殺の濡れ衣を着せられた男がひたすら逃げ回る数日の記録、といったところ。何しろ逃げ回るっていうのがこの小説の基本的な設定なので、最後までドキドキハラハラの連続。映像でなく活字なのに、こんなに逃亡しているリアリティが伝わるってのが、この作家の筆力なんでしょうね。

もう一つ、小ネタや伏線の張り方なんかもこの人の面白さの一つ。
そういう意味では非常に技巧的。読んでいて、あれそう言えば、と思い返し、前のページをめくることが何度もありました。こういう技巧が常にいいわけではないけれど、長大な交響曲の堅牢な構築性と共通のものを感じます。
そういうのも活字好きの人からマニアックに支持されている要因なのかもしれません。

私の予想では、きっとこの小説も数年の間に映画化されるんじゃないでしょうか。いや、それを狙って書いてるような気さえします。

2008年5月6日火曜日

ラフマニノフ ある愛の調べ

ラフマニノフと彼に関わる女性を描いたロシア映画を見ました。
これまであまり馴染みのなかったラフマニノフという作曲家について、見終わったあと、かなり興味を抱くようになりました。何といっても、彼の作り出すメロディは美しい。生きている時代からすると、その作風の保守性ばかりが指摘されがちだけれど、後世に残るメロディを作れるというのはそれだけで類まれなる才能だと思えます。

内容としては、ラフマニノフを愛する妻のナターシャが、いかなるときもラフマニノフを支え続けたその献身的な姿を描いています。時には他の女性に心を移してしまうことさえ許しつつ、気が付けば彼女のところに戻って来ざるを得ない母のような包容力は、(男性から見れば)ある種理想の女性像なのかもしれません。
映画で表現されるラフマニノフは、恐らく実際とそう違わないのかもしれないけど、神経質で小心者で、それでいて喜怒哀楽が激しく、強い主張で周りを翻弄し、絶えず追い詰められた切迫感の中で生きているといった性格。こういったいかにも芸術家肌的な男性に、母性本能をくすぐられるという側面もあるのでしょう。しかしそれも献身的な愛を捧げる価値があるほど、彼の紡ぎだす芸術は神聖かつ比類ないものだという芸術至上主義があってこその行動です。
まあ、ラフマニノフは(後から見れば)十分スゴイ芸術家なので許されますが、売れもしない芸術家の才能を信じて一生を捧げるというのは、世間的感覚から言えばかなりリスキーで、もしそんな人がいるのならイタい女性と思われるのがオチかも。

ロシア映画ということもあり、20世紀初頭の雰囲気を出すのに昔の映像を使ったのは恐らく撮影が難しかったからでしょう。ハリウッドなら金かけてそういう映像を作っちゃうだろうし。また、アメリカ舞台でもみんなロシア語をしゃべっているとか、まあそういった辺りはそれほどシビアには作っていない感じもします。
その一方、師匠との決別とか、精神科医との交流とか、スタインウェイ社の商業主義への反発とか、史実をうまく織り込んであるのは伝記的映画として面白く見ることができます。
またラフマニノフの言動とか、一家のゴタゴタの描写とか、そういう人物描写は妙にリアルで、演技の良さもなかなかのもの。ラストもさりげない家庭の一コマなのに感動しました。

2008年4月29日火曜日

生物と無生物のあいだ/福岡伸一

Creature_2話題のベストセラーを読みました。
「生物とは何か?」の問いに対して、プロローグの中で「自己複製を行うシステム」というのが二十世紀の生命科学が到達した答えだった、といきなり書いてあります。私など、「利己的な遺伝子」を読んだとき、そうかあ、自己複製が生命の本質だったんだ、とえらく感動したわけですが、この定義があっさり相対化され、そこが本書のスタートポイントになっている点でいきなり引き込まれてしまいました。

そういう意味では、本来この本の内容は非常に専門的なのだけど、それを補って余りある文章力で綴られているというのも、この本のもう一つの魅力。
章立てしてあるにも拘わらず内容が連続していたり、風景や街並みの描写がとても詩的だったりするのはほとんど小説のように思えるし、学術的内容の他に研究者のドロドロした人間模様などの描写が挟まっているのも、読み物としての面白さに繋がっています。
個人的には、率直に言って、いささか文章の描写がキザっぽい感じも受けて、学者として文章的なレトリックに浸るのはいかがなものかって感じもありますが、それゆえに楽しく読めたという側面があることは否めません。

それはともかく、著者に言わせれば、生命とは「自己複製」だけではなく、「動的平衡」こそその本質では、と問いかけます。
「動的平衡」とは、私流に解釈すれば、生命とは物質の集まりなのではなく、物質を制御するシステムであり、物質はそのシステム内をただ駆け抜けているだけなのだ、ということなのです。
この感覚、なかなか哲学的で面白い考察だし、まるで「万物は流転する」を地で行くような発想ですね。

生命現象全般を我々が理解するためには、まず生命現象そのものに何重ものレイヤーがあって、生命とはその夥しい集積の上で奇跡のように成り立っているのだと感じる必要があると思います。恐らく、その一つ一つのレイヤーは全て物理法則で解決できるだろうけど、それが積みあがったときに発現するシステムとは、物理法則を遥かに超えたとてつもないスゴイものなんです。
だからこそ、今後その一つ一つのレイヤーが研究され、そして新しい発見があることを、一科学好きとしてはワクワクしながら見守っています。

2008年4月26日土曜日

YouTube に器楽曲アップ2

��曲だけだとちょっと寂しいので、もう1曲アップです。今回は「第五番」です。
ところで、この「仮想楽器のためのアンサンブル」という楽曲、タイトルだけだと何を意図しているか、分かりづらいかもしれません。この試みについて詳しく知りたい方はこちら、あるいはこちらをどうぞ。

今度の画像、周りの大きな黒枠が無くなりました。
iMovieで YouTube にアップする設定で、「公開するサイズ」を前回は「モバイル」だったのですが、今回は「中」に変えてみたのです。なるほど、そういうことなのね、とアップして分かりました。単純に表示範囲が広がるわけですね。
しかし、そうなると逆に気になるのが、左右両端の細い黒い部分。画像を作るときにきっちり4:3じゃなくてちょっと縦長だったみたい。作り直すのも面倒なので、次回からはピクセル単位で4:3にすることにしよう・・・

もう一つ、肝心の音楽なのだけど・・・
今回は実は木管の音でアップしたかったんですが、HALione One の音がかなりショボくて、断念。結局、前回と同じ弦楽器に。
この弦楽器版でも、最低音パートのコントラバスが正直、不満です。聞いた方は納得していただけると思いますが、メロディになると変化の乏しい一様な音がかなり耳につきます。
実際手で弾いて見ると、一番下からC3まで同一サンプルで引き伸ばされていて、C3からの音色の変化がほとんど別楽器という感じ。これ、売り物の楽器じゃあり得ないんですが・・・。まあ、バンドル品なので仕方ないけど。もうちょっとしっかりしたサンプリング音源が欲しいです~。

というわけで、今回のアップ作品を下に貼っておきます。


2008年4月22日火曜日

いーじゃん!J-POP/マーティ・フリードマン

Jpop最近、テレビでよく見る外タレのマーティ・フリードマン。彼はその昔、メガデスというメタルバンドでギターを弾いていたのですが、日本好きが高じて、ついに日本に移住してしまったという経歴。今は日本で音楽活動をしています(石川さゆりとコラボしてたりして、ちょっとアヤしいけど)。
もちろん、私はメガデスなんて聞いたこともなかったけど、外国人から見た日本の音楽シーンを語るこの本、なかなか面白いです。

日本人はすぐに欧米文化を礼賛し、自分たちの文化を卑下するけれど、マーティはそんな人たちに、そんなことは無いよ、もっと日本文化に自信を持って!と語りかけます。この本は、基本的に某雑誌でのマーティの連載が元になっていて、彼の視点から見たJ-POPの面白さが具体的な曲をネタに書かれています。
いくつか、面白いフレーズなど。
「日本の音楽って、洋楽のテイストを取り入れるときに、もろにマネするんじゃなくて、一番おいしいところだけを選んで、それを絶妙なバランスで歌謡曲のメロディーに取り入れるのが得意じゃん。」
「ギターの雰囲気は昔のローリングストーンズみたいなアバウトなロックなのに、いきなりジャズのコードが入ったりするのはすごく日本的な現象だよ。」
「日本の女性シンガーは高音を叫ばないからね。たぶん地声が高いからです。それに音程が少しズレているヘタウマが多いし、低いパートはあまり歌わない。そこが僕は大好きなんだけど・・・」
「アメリカの音楽シーンだと『メタルバンドはメタルだけ』『R&BシンガーはR&Bだけ』っていうふうに、ジャンルの壁が日本よりも厚いし高いんだよね。アーティストが別のジャンルに挑戦したいって思っても、レコード会社がなかなかそういう冒険を許してくれない。」
などなど、考察もなかなか音楽的。

外人が日本文化を常にそういう目で見ているとは、もちろん思いません。
というか、マーティ自身、あまりに日本的な価値観に染まりすぎている感じがします。ロリ系女性シンガーのキュートさとか、正統派よりも猥雑でごった煮的な文化とか、庶民的なアーティストの態度とか、そういうのが好きなんですね。
それでも、アメリカが絶対なんかじゃなくて、アメリカにもアメリカなりに、日本にも日本なりに面白いものがある、そういう当たり前のことを気付かせてくれる一冊でもあります。

2008年4月19日土曜日

YouTube に器楽曲アップ

iMacを駆使して、「五つの母音の冒険」に続き、またまたYouTubeに自作品をアップしてみました。
今回は、4年ほど前に作曲した「仮想楽器のためのアンサンブル第7番」という作品。打ち込みで作った音楽に、楽譜の映像を付けて、動画として作ってみました。




以下、このデータを、どんな流れで作ったのか概略を記しておきます。
<音楽の作り方>
1.Sibelius(浄書ソフト)で作ったデータからMIDIファイルを出力。
2.MIDIファイルをCubase(DAWソフト)で読み込む。
3.CubaseにバンドルされているHALion Oneの弦楽器の音を鳴らして、MIDIを編集。
4.エフェクト、EQ等をかけて、MP3ファイルに書き出す。

<楽譜の映像の作り方>
1.Sibeliusで作った楽譜データをPDFファイルで出力。
2.Photoshop Element でPDFを読み込む。
3.楽譜の画像を一段毎に切り分け、画像サイズを調整してJPEGでセーブ。
4.作ったJPEGの画像ファイルをiMacのiPhotoに取り込む。

<動画の作り方>
1.iMovieに、MP3のサウンドデータと、iPhoto内のJPEGデータを取り込む。
2.iMovieで、各映像データの表示時間を調整。
3.iMovieで、映像切り替えエフェクトや、タイトルの文字を追加。
4.iMovieのYouTubeアップ機能を使って、そのままアップ。

残念ながらこの大きさでは、さすがに楽譜をきれいに表示させるのは難しいようです。あと、YouTubeって、音は全部モノラルになるんですね。今まで全然気が付かなかった・・・

2008年4月10日木曜日

うた魂

正直、ありがちな青春&根性&人情モノだと思い、最初から期待はしていなかったのですが、何かしら義務感のようなものにせき立てられて、結局この映画、見ることにしたのです。

しかし、過剰な期待がなかったせいか、想像以上に面白かったです。全体に漂うB級感、シュールでファンキーなギャグや演出など、予想外の可笑しさ。
しかしそれ以上に驚いたのは、「合唱」の本質について、映画の中でかなり突っ込もうとしていたこと。
不良少年の権藤が主人公に対して説教するくだり「テクニックとかではなくて、歌にとって一番大切なことは何か?」
もし、この答えが「心」とか言うのだったら、私は大変幻滅したことでしょう。そんな予定調和な答えこそ、嘘っぽさ、安っぽさを感じさせてしまうのです。
彼の言ったことはスゴイ。
「フルチンになることだ!」
つまり、飾りを脱ぎ捨てて、裸の自分を見てもらう覚悟を持て、ということ。なかなか深い言葉じゃないですか!

そんなわけで随所に、なかなか感心するようなセリフが散りばめられてます。ストーリは結局、合唱コンクールの最後の舞台で終わるという、ある種ありがちなパターンではあるものの、映画製作者が伝えたかった想いはかなり明瞭に伝わってきました。
全般的には、合唱がかなり自虐的に扱われていて、個人的にはヒット。でも嫌う人もいるかも。
どんなにダサくても、でもやっぱり合唱っていいよね、と最後に思わせるってのは、この映画の力量だと思いました。

2008年4月8日火曜日

好きなJ-POP、嫌いなJ-POP

J-POPの話題ついでに、私の思うところなど語ってしまいましょう。

はっきり言ってしまえば、前向きな歌詞が嫌いです。地に足が着いていない嘘っぽい詩が嫌いです。何でもかんでもポジティブに捉えられる能天気さが嫌いです。
だから教育者が好むようなポピュラー音楽はおおむね嫌いです。

芸術には根本的に毒が必要なのだと思っています。それはJ-POPとて同じこと。何かギョッとするような音や表現、言葉遣い、その中で表現される無常観や絶望感。そして、そのような状況でこそ見出される希望、というような、一見グロテスクなもののほうに本質が隠されていることが多いと感じます。

もちろん、何でもかんでもヘンテコであればいいわけじゃなくて、その毒の入れ方にセンスが必要なんです。そのセンスが足りないとかなり引かれます。それが怖くて力の無い芸術家は毒を入れることが出来ないのでしょう。
そもそもロック音楽は反抗、反骨心から発生したものでした。毒があることにその本質的な価値があったのだと思います。

全ての音楽に毒があるとそれはそれで暗い世の中になりそうですが、こうも健全な音楽ばかりが流行っていると、芸術とかアートって何だろう、と思わず問いかけたくなってしまうのです。

2008年4月4日金曜日

J-POPと合唱

たまたま車に乗っていたときに、カーラジオから今年のNコンの曲が流れてきました。今年の中学の課題曲はアンジェラ・アキなんですね。そういえば去年はゴスペラーズだったか。
オリジナルがJ-POPとして歌われていたわけではないけど、音楽のテイストはやはりJ-POP。もちろん、こういう曲や詩に共感する中高生は多いだろうし、今どきの音楽であるっていうのは、ある意味健全なことなのかもしれません。

まあ、世の中の音楽のほとんどはポップスだし、その他のジャンルが最も商業的に成功している音楽に影響を受けるのは自然なこと。様々な音楽がポップスという文脈の中で再構築され、変遷しているのだと思います。
ただし問題なのは、その取り入れ方。取り込んだつもりが取り込まれている、ていうことの何と多いことか。
ちょっと前に流行った女子十二楽坊なんて、私にはその典型のようにも見えました(あれはあれで音楽的に評価されているのかもしれないけど)。

なので私としては、安易な合唱のJ-POP化には秘かに警告を発したいのです。
J-POPの流儀を取り込んで、より今の人に馴染みやすい新しい感覚を作り上げることには大いに共感するけれど(例えば信長氏のように)、J-POPに完全に寄り添ってしまい、普通のJ-POPの曲にハモリパートを付けましたってなるとこれは、むしろJ-POPに飲み込まれてしまったと言わざるを得ません。
飲み込まれてしまうと、本物には勝てない。マネをする以上、マネの対象を越えることが出来ないからです。

別にJ-POPを合唱アレンジするのがいけないわけじゃないのです。それはエンターテインメントの一つとして十分ありなのです。J-POPをアレンジして歌っています、というのと、まるでJ-POPのような合唱曲です、っていうのはそれはちょっと違うと言いたいのです。

2008年3月29日土曜日

将来の音楽制作

MacにCubase4をインストールしました。
24inchモニタで楽譜を書くのも便利になったけど、DAWもすごーく便利になることを実感。各トラックの表示や、ミキサー画面だけでなく、ソフト音源やエフェクトの設定など、いろいろなWindowをいっぺんに見れるのって素晴らしい。
何度も書いているけれど、いまどきの音楽ってほとんどパソコン上で作れるくらいになっているし、実際プロの音楽制作の現場でもほとんどの作業をパソコンでやっています。
以前は、PCでプリプロレベルの制作をして、スタジオで録音する、という流れだったのが、いまやどうしても生で録りたいもの以外はスタジオに入る前に全部出来ちゃっていたりするようです。
おかげで、音楽の制作費は相当安くなっているのですが、それ以上にCDが売れないし、そうなると音楽スタジオなんて日本から消えてしまいそうです。

もちろん、将来はもっともっと便利になるはず。
楽器のサンプルが安く出回るようになったり、楽器独自の奏法までパソコンでシミュレーション出来るようになれば、実際に演奏家がいなくてもほとんど実演と区別が付かないほどのクオリティのものが製作可能となるでしょう。
そして最後の砦はもちろんボーカルなのですが・・・、これも、今話題の「初音ミク」のようなボーカルシミュレーション音源が発達すれば、もっとリアルになってくるに違いありません。

となると、楽譜を書いて、シミュレーション音源を鳴らして、それにエフェクトをかけてミキシングをして、最後にマスタリングまでして、といった一連の流れが全てPC上で完結してしまいます。
エレクトロニクス系はもちろんのこと、ポップス系音楽だけでなく、オーケストラ系音楽だってもちろん可能。
そんな未来に人々に聴かれる音楽というのはいったいどういう姿になっているでしょうか?

2008年3月25日火曜日

福島のアンコンに行った

週末に福島で行われた第一回声楽アンサンブルコンテスト全国大会に行ってきました。
全国大会というと、私にとってこれまでは聞きに行くものだったのですが、なんと今回は歌いに行くことに。
ただし、私たちの結果はここで言及するのは止めておきましょう。^^;

福島では花粉がひどくて、当日私を含む多くのメンバーが花粉症でひどい目に合いました。やはり、東北のほうは花粉のピークがちょっと遅れるんでしょうかね。それとも、静岡には無いタイプの花粉で私たちには免疫がなかったのか。

土曜日までに全団体の演奏は終わり、日曜日には各部門の金賞団体による本選が行われました。さすがにどの団体も素晴らしい演奏でしたが、その中でも個人的に印象に残った演奏をご紹介しましょう。

・コール スピリタス
見る限り、秋の全国大会でお馴染みの「なにわコラリアーズ」の面々にしか見えません。名は違えど、なにコラの精鋭メンバということでしょうか。
北欧中心の選曲ですが、日本語の曲やシューベルトの曲なども散りばめて、どのようなジャンルであっても、全て彼らの手の内で料理されてしまいます。やわらかさと輝かしさを兼ね備えた音色がとても心地良かったです。
高校生団体とは一味も二味も違う余裕さ、全体から溢れる軽やかさが、もはやプロと言ってもいい貫禄を感じさせます。
終曲は以前、宝塚でも聞いたような・・・。わかっちゃいるけど、ちゃんと楽しめました。

・宮城県第三女子高校音楽部
いつもはOG合唱団を全国で聞くくらいで、大合唱団という印象しかなかったのだけど、16人で歌うこの高校生の歌声は本当に美しかったです。
他の高校生の演奏に見られたある種の必死さ、あるいは限界ギリギリでの音楽作りではなく、本質的に地力が優れていて、純粋に歌い手としての能力の高さを感じました。選曲もバラエティに富んでいて、旋律の綾をよく表現していたと思います。彼女らの明るく、真っ直ぐな声は、個人的には全団体の中で一番好きでした。

・福井市麻生津小学校
一般の部で出て、最終的には第一位を取ってしまった恐るべき小学生6人組。
何と言うか、この少女らの演奏は今回のアンコンの一つの奇跡だったと言えるかもしれません。小学生にして、これほどの音楽的素質を持ち、なおかつ均質な声と感性を持った子たちが同じ小学校で6人集まったこと、これだけで奇跡と呼べるのではないでしょうか。もちろん、少女らの影に有能な指導者がいることは疑うべくもありません。
演奏の力もさることながら、彼女らの声質と福島市音楽堂の音響とのマッチング、また選曲といった面においても、この小学生アンサンブルの魅力を増幅させた原因として挙げられるでしょう。

少人数アンサンブルという形が、このように注目されるようになれば、またさらなるレベルアップにも繋がると思います。大合唱には無い、繊細な音色の魅力に今回改めて気が付いたような気がします。

2008年3月20日木曜日

Sibelius5を使う

新PC、新バージョン導入の幾多のトラブルを乗り越えつつ、何とか使えるようになりつつあります。
これまで、音を鳴らすのに大昔に買った外部MIDI音源を使っていたのですが、せっかくSibelius5で立派な音が付いてきたので、ぼちぼちソフト音源中心にしてみようかと考え、今のところMIDI音源はMacに接続していません。

ただ、私みたいに下手にMIDI知識があると(いや自慢でなくて、仕事上覚えざるを得ない)、Sibeliusが一生懸命面倒なMIDI設定を隠そうとしているのが非常にじれったいのです。
このソフト、譜面を書く人の気持ちにとてもこだわっているのが伝わり、その姿勢には大いに共感するのだけど、そのためほっとくとどこまでも自分で最適な状況を作ろうとして、私からすると裏で何やってるかわからない、という難しい動きをします。
例えば、Sibeliusでは、MIDIが16チャンネルあるとか、音を変えるには各チャンネルにプログラムチェンジを送るとか、そういうことを全く表に見せません。楽譜上にバイオリンのパートがあれば、(勝手に)バイオリンを鳴らす、ただそれだけ。
なので、MIDIレベルで再生を制御したいと思うと、なかなかもどかしい思いを感じることになります。

もちろん、音符を書きたい人がMIDIのことなんて知りたくもない、というのは確か。
しかし、世の中の音楽のほとんどがDAW上で作られている昨今、こういったプロ用の浄書ソフトもいずれDAWと接近せざるを得ないでしょう。であれば、もう少しスマートなMIDI機能との結合の仕方もあるような気がします。
��そういえば、DAWソフトのCubaseには、逆におまけの浄書機能があるわけですが)

SibeliusもAvid陣営に入ってしまったので、DigiDesignのProToolsとかと連携を取るようになってしまうのでしょうか。Cubaseを使っている私としては、ヤマハがSibeliusを手放したのが残念な気持ちなのですが・・・(最後は業界ネタになってしまった)

2008年3月15日土曜日

Back To The Mac

前回の記事は、今回の話の布石になっていたのです。
実は、3年ぶりくらいにパソコン購入しました。iMacの24inchモデルです!!
私が最初に買ったパソコンは、かれこれ20年ほど前、Macintosh Plus でした。それからしばらく、Mac党だったのですが、10年ほど前に世の趨勢に負けてWindows環境に移行しました。(その頃の談話はこちら
それから今までは Windows Only。今回のiMac購入で、10年ぶりに Macの世界に戻ってまいりました。

たまたま、メインでつかっている浄書ソフトの Sibelius がバージョン5にアップしたので、新Mac+新Sibeliusで一気に浄書環境がグレードアップです。
Sibeliusはまだ使いこなしてませんが(いきなり Sounds Essential がインストールできないというトラブル中)、24inch画面で見る楽譜は感動モノ。これで作曲の能率も上がるはず。

当面は、メール/HP更新/Office は Windows で、iTunes/楽譜/MIDIなどの音楽関係は Mac で、と使い分けるつもりですが、だんだんと比率も変わってくるかもしれません。
今一番面倒なのは、Windowsで作った書類を、Macから見るとファイル名の日本語が化け化けになること。Macにコピーしてからリネームしまくってます。探せばいい方法はあるとは思うのだけど・・・

2008年3月9日日曜日

作曲とコンピュータ

大学の頃から、シーケンサとシンセサイザを使って音楽を作っていた私は、当然のごとくDTMの黎明期からパソコンを使った音楽制作をしていました。もちろん就職後は、仕事柄ということもあります。
パソコンを使った音楽制作、というのは、MIDIシーケンサで音源を鳴らしたり、楽器や歌を録音したりして、最後に全体を録音して音源を作ることを言うわけですが、クラシック系の場合、最終出力は楽譜なので、楽譜が最良に作れる環境が最も大事。そういう意味では、若干世で言うところの音楽制作(DTM)とはちょっと違います。

それでも、MIDIシーケンサで音を確かめながら作曲をする、ということは私の場合あまりに普通のことです。
音楽制作の経験の無い方はパソコンで音楽を作る、ということ自体、とてつもなく敷居の高い行為なのでしょうが、それによって得られる恩恵はあまりに大きいです。
例えば、4小節分音符を書いたところで、それをシーケンサに打ち込んで何度も聞いていくと、理屈ではおかしくなくても、いま一つ居心地の悪い響きがあったりすれば、すぐ直してまた聞き直すができます。逆に、こんな音の重ね方をしても、思ったとおりに聞こえるかとか、場合によっては、かなり和音的に崩しても変に聞こえないかとか、すぐに聞けるからこそちょっと試してみたくなります。
そういう経験の積み重ねが、長い目で見れば引き出しの多さに繋がるわけで、作曲の習熟に大いに役立つのではと私は思います。

ちなみに、現在私が使っているSibeliusという浄書ソフトは、楽譜を打ち込むと、それなりにMIDIを再生してくれてこれがまた便利。浄書ソフトは昔からそういう機能は持っていたけれど、近年は使い勝手もかなり向上しています。
ちなみに今度出るSibelius5では、標準で高品質の楽器音を内蔵していて、浄書ソフトだけで音楽制作用ソフト(DAW)に近い音が出るようになります。
そんなわけで、コンピュータ浄書ソフトはいまや私の最も重要なアイテムの一つとなっています。

2008年3月1日土曜日

五つの母音の冒険 出版!!

Vowel一昨年、朝日作曲賞を受賞しました「五つの母音の冒険」ですが、この度出版されることとなりました。
先日も、初演の様子を YouTube にアップしましたし、こうやって少しずつ露出を増やしていって、興味を持ってくれる方が増えることを期待しております。
出版元はケリーミュージック。装丁はかなりシンプルなもので、一般的な合唱楽譜に比べるとかなり見た目は劣りますが、その分、お安くなっています。税抜きで1000円。なお、販売は今のところパナムジカさんのみとなっています。

まあ、率直に言って、ヴォカリーズ作品を喜んで取り上げるような団体というのは、なかなか無いとは思います。しかし、だからこそ個性的というか、エキセントリックというか、そういうことを是としている団体が取り上げるには、面白いレパートリーになるのではと思います。
全国の、我こそは個性派合唱団、と思う団体の方、まずは楽譜を眺めてみてください。そして、色々な演出を想像してみてください。何か面白いアイデアが思い浮かんだようなら、後はもう演奏するだけです!

2008年2月27日水曜日

PD合唱曲追加

PD合唱曲シリーズに曲を追加。
「この月は君来まさむと」という曲です。今回もテキストは万葉集。詠み人知らずですが、いわゆる防人(さきもり)の歌です。
「あなたが帰ってくるのを待っていたのに、死んでしまったと告げられた。激しく嘆き悲しみ、そして死にたいと思って彷徨うけれど、まだ一人であなたを思って泣いている・・・」といった内容。

叙情性と、激しい表現の両方の側面を持っていて、全体的にはちょっと重い感じかもしれません。
ただし、今回は完全にディビジョンを無くしたので、少人数でも取り上げやすいと思います。古典とはいえ、古臭い雰囲気ではなくて、コンテンポラリーな感じにしてみたつもりですが、いかがでしょうか。

2008年2月24日日曜日

音符の力と音響の力

作曲技術には、二つの側面があるように思います。
「音符を配置する」技術と、「音響を作る」技術です。今の時代、両方とも作曲家が取り扱うべき仕事でもあるのですが、やはり作曲家によって、音符寄りの人と、音響寄りの人、など方向性の違いはあるような気がします。

音符を配置する技術は、例えば和声学のような学問が扱うことですが、リズム的な時間軸の要素もあります。アウトプットはあくまで楽譜であり、それ以上のことには無関心です。こういった技術の究極は、楽器を限定しなくても音楽として成り立つことであり、例えばバッハの「フーガの技法」といった作品などが、その究極の形として挙げられるかもしれません。

音響を作る技術は、例えば管弦楽法で代表されるような技術です。音そのものを重要視するので、楽譜だけでなく、楽器や奏法の指定、演奏する環境、そして録音に至るまで、幅広いことがらが検討すべき内容に入ってきます。
ところが、この音響の世界に入り込むと、自由に音が作れるシンセサイザーとか、複数の音を混ぜ合わせるミキサーとか、音響調整をするためのイコライザー、コンプレッサーとか、そういう技術的(機材的)な要素が最近では増えてきていて、今の時代、作曲家が扱うべき知識の世界が益々広がっていっています。

現代音楽系作曲家でも、音響指向の作曲家も多いです。
先日聴いた西村朗氏など、かなり音響系の作品だと感じました。それも電気技術を使わずに、ヘンテコな打楽器の使い方で変わった音を出すという、アナログちっくな音響系。
正直言って、聴衆の立場から言えば、作曲家が考えた音を直接聞かせられるという意味で、音響系の人が評価され易い傾向があるように思います。演奏効果も当然高いでしょうから。
ただ、今の時代、オーケストラ音楽だって打ち込みで出来るのですから、録音前提ならもはや音響系は何でもアリだし、その中でクリエイティヴであり続けるのはかなり大変なことかもしれませんね。

私自身は、どちらかというと音符系の作曲家のほうが好きかもしれません。バッハとかラヴェルとか、日本人なら三善晃あたりが音符系でしょうか。いや異論はありそうですけど。
もちろん、音響系の曲を書きたくないわけじゃありません。去年の課題曲の"U"なんて、思い切り音響系だし。でも、心のどこかで本当の音ではなくて、音符だけの力で音楽を制御し続けたいという、作曲家の本性のようなものがうずいていたりします。

2008年2月19日火曜日

バンド維新

浜松アクトシティ中ホールで開催された「バンド維新」という吹奏楽のイベントを見に行きました。
このイベントの詳しい内容はここ
これは、正直言って非常に面白いコンサートでした。8人の超メジャーな作曲家が、吹奏楽の新作を発表するのです。
メンツがすごい。木下牧子、一柳慧、小六禮次郎、三枝成彰、丸山和範、服部克久、西村朗、北爪道夫の8人。昨日のコンサートも三枝成彰を除いて、全員勢ぞろい。しかも演奏前に各作曲家へのインタビューもあって、それがまた各人各様。服部克久なんて、テレビでしか見たことない芸能人って感じだったので、まさかこんなところで生で見れるとは思いませんでした。

曲がまたバラエティに富んでいます。現代音楽から、アニメ音楽まで、様々なタイプの曲が演奏されました。
私としては、一線で活躍する各作曲家が、日頃どんな曲を書いているのかとか、こういう依頼を受けたらどんな曲を書くのかとか、吹奏楽というジャンルにどう向き合うのかとか、そういうことに対するスタンスの違いを感じることが出来たのが最も面白かった点です。

演奏としては西村朗氏の作品が圧巻だったわけですが(素晴らしい演奏!)、私としては、どんな依頼があっても全く手加減せず自分の世界に持ち込んでしまう氏のスタンスには、やや苦笑いという感じ。
木下牧子作品は、芸術作品としての音楽の懲り方とエンターテインメント的な要素を良く織り交ぜた佳曲。むしろ教育的配慮があり過ぎ?もっと個性的でもよいかも。
小六、三枝、服部各氏はテレビ・映画音楽の焼き直し。でも、それぞれ味があって良かったし、結果的には演奏会のレパートリーとして取り上げられるような気がします。
一柳、丸山、北爪各氏の曲は、すいません。あまり、私的にはパッとしませんでした。

このイベントを通して、吹奏楽で一つ気になることがあるのです。
そもそも、今回の企画は、少人数アンサンブル的な曲を作って欲しい、という依頼だったのですが、それでもたくさんの打楽器がドンシャカ鳴っていて、どうも音楽的にしっくりしない感じがありました。
場合によっては、全く管楽器のアンサンブルと遊離しているような演奏もあるように私には思えました。
かのリムスキー・コルサコフも管弦楽法の中で、打楽器をあまり多用しないよう言ったとか言わなかったとか。

2008年2月16日土曜日

合唱名曲選:鳥の歌

承前、思いがけず県のアンコングランプリを取ってしまったわけですが、曲の力も大きかったなあ、とあらためて思います。というわけで、アンコンで歌ったジャヌカン「鳥の歌」の面白さの秘密を考えてみましょう。

何といっても、鳥の鳴き声を歌で真似てしまおう、というのが、この曲のアイデアの大元にあるのは誰もが認めるところ。
しかし私の思うに、この曲の本当に素晴らしいところは、そのアイデアをいかに強調し、面白おかしく聞かせるかというその工夫にあるのではと思われます。そして、それはこの曲の構造に負うところが非常に大きいと思うのです。

では、この曲の構造について考えてみましょう。
曲中の終止を区切りとすると、曲全体は5つのセクションに分かれます。これを仮に、Sec.1~5 という形で呼ぶことにしましょう。
また、最初のセクションを除いた Sec.2~5 のそれぞれの構造は大まかに [A]-[B]-[C] と三つのブロック構成になります。ここで、各ブロックは
[A] - ベースから始まる主題
[B] - 鳥の鳴き声
[C] - 曲の中心主題
を表しています。
Sec.2~5 を通して、[A],[C] はほぼ同じ形(Sec.5のみ最後の[C]に一ひねりあり)、そして中間ブロックの[B]がセクションごとに違っています。

ここで一つ面白いことは、曲の冒頭、Sec.1 は [C] と同じであるということ。
単純に繰り返し構造を作るなら、[A]-[B]-[C] の構造を最初から始めようと考えるのではないでしょうか。ところが、冒頭が [C] であることによって、この主題が曲の中心であることが示され、[A] の主題が相対的に低い位置に感じられるようになります。そのため、その後同じ構造が繰り返されているにもかかわらず、有節歌曲的な雰囲気ではなくなり、繰り返しの頭である[A]の主題が出ても、曲の途中感がもたらされます。結果的に、曲全体の一体感が増していくのです。

もう一つ、[C]が中心主題であると感じることにより [B]-[C] の変化におけるカタルシスがより強固になります。「鳥の鳴き声」の喧騒が高まり、その緊迫感が増したところで、主題[C]が出現することに大きな快感を感じるというわけです。交響曲のソナタ形式等で、展開部が盛り上がったところで第一主題の再現部が始まるときの快感に近いものがありますね。

[B]のバリエーションもなかなか工夫されているように思います。[B]の長さを小節数で見てみると、Sec.2-10、Sec.3-18、Sec.4-30、Sec.5-16 となります。
長さ、及び喧騒の強さ、派手さという意味で、Sec.4 の鳴き声がこの曲の頂点となります。まさに「起承転結」を地で行く構造と言えるのではないでしょうか。
鳥の鳴き声にバリエーションを持たせる一方で、[A]、[C]の主題はほとんど無変形であることも、この曲の構造を分かりやすくさせていて、聴く側のテンションをうまく持続させているようにも思えます。

もちろん、ルネサンス期の音楽ですから、文化的なバックボーンや、当時の常識、という視点も必要なのでしょうが、現代の人々が聴いても楽しく感じられる普遍的な仕組みがこの曲には備わっているに違いありません。

2008年2月12日火曜日

歓喜の歌

噂の合唱映画です。
とはいえ、主役はどうも音楽や合唱ではなくて、どちらかというと典型的な市井の人々の人情物語ともいうべき映画。
原作は落語なんだそうです。確かにこの映画を貫いている価値観は落語のそれ、なのだと思います。笑いあり、涙あり、最後はみんながそれぞれに幸せになって終わるという、まあ最初からストーリーはわかりきってはいるものの、やはり日本人としてはこういう話が安心して観られます。

もともとこの話のテーマは、いわゆるお役所仕事、と言われるような融通の利かない、公務員の仕事を皮肉ったもの。市民ホールに勤める小林薫扮する主人公のテキトーな仕事ぶりが、かなり笑えます。外国人ホステスにお金をつぎ込んで問題を起こし、左遷されたという設定など、なかなかブラックな時事ネタ。
それにしても、時間だからといって、カラオケしているオジサンたちの機材の電源をバチッと切ってしまう、ってのはなかなかすごいですね。そんなことしたら、すごい雰囲気悪くなりそう。
ちなみに、私たちが使っている公民館は、最近、業者に委託されるようになって、逆に融通が利かなくなってしまっているような気がするのだけど。

まあそんな映画なので、音楽の内容に突っ込むのは野暮です。
ママさんコーラス(女声合唱)が第九を演奏会でやるのも、まあ驚きですが、ソロを歌う人がとても上手いとか(あれだけ上手いのに、謙遜していると逆にやな感じ)、第九のドイツ語が妙に訓練されていたりとか、いや全般的には普通のママさんにしては演奏が立派過ぎるのがややリアリティがないなと、思ったりしました。
映画だからしょうがないけど、演奏会に来てくれたお客さんがみんな歌に感動して喜んで帰ったりしている辺り、なんか現実が見えてないような気がして・・・、いやここで言うのが野暮なのはわかってますけど。

2008年2月7日木曜日

福島に行くことになった

昨年の演奏会の勢いで、常時20名を超える団員になったウチの団。
今年も静岡県のアンサンブルコンテストに参加したのですが、16人の規定を超えてしまうので、昨年同様2団体で出場しました。
昨年は男声と女声で出ましたが、今年は年寄りと若者、というとんでもない分け方。ちなみに団名は、年寄組がそのままヴァア・ヴェール、若者組はプチ・ヴェール。双方とも知り合いを引っ張ってきて、助っ人を呼んだ結果、プチなんか半分近く非団員になってましたが。

さてさて、正直なところ今回は全く結果に期待しておらず、グランプリになると今年から始まる全国大会に出られる、という特典もほとんど気にせずにいたのですが・・・なんと結果は、ヴォア・ヴェールがまさかのグランプリ。静岡一般の代表で全国大会に出ることになってしまいました。
うーん、ほんとにいいんだろうか、とは思いつつも、今回はいろんなことが良いほうに良いほうに向かっていたのは確かですね。
他の強豪が軒並み和音の精度が要求される静謐な音楽だったのに対し、我々は曲も「鳥の歌」だし、パワーとノリで押し切るタイプの演奏だったと思います。それがアンコン的な各人の自発性とか、アンサンブルのスリリングさとか、そういうものを知らず知らずのうちに強調していたのでしょう。

もちろん、決まったからには福島では良い演奏をしたいと思います。今回ヴォア・ヴェールは結成以来、初の県外遠征となります。
全国大会が第一回ということですが、どんな団体が出てくるのかも興味あるし、いろいろな演奏を聴いたりできるのもちょっと楽しみ。

2008年2月2日土曜日

Duet/チック・コリア & 上原ひろみ

Duet上原ひろみのファンとしては、このCD、もちろん買わないわけにはまいりません。
そして、何と今回のCDは、ジャズ界の大御所チック・コリアとの二人のみのピアノ演奏。昨年の東京でのライブの様子を収めたものです。パッケージはCD2枚組み+DVD(2曲のみ)という豪華な内容。

もっとも、私は日頃ジャズをよく聞いてウンチクを語るような者でもないし、そもそもチック・コリアのCDさえ持ってないんですねぇ。(と書いて、CD棚を見回してみたけど、やっぱり無さそう)
でも、やっぱりよろしいです、この音楽。曲もチックの曲、上原ひろみの曲、スタンダード(ビートルズ、ガーシュイン)などバラエティに富んでいます。
ピアノの音だけしかないので、ちょっと飽きるかと思ったけど、上記の通り曲調が多彩なのと、内部奏法を使ったりするなど音色やテクニックもまた多彩で、その表現の幅の広さに圧倒されます。
ただ、何しろ二人ともピアノなので、どっちの音をどっちが弾いているのか、軽く聴いただけでは良く分かりません。
そこで、おまけのDVDの登場。
二曲だけですが、ライブの空気感が良く伝わってきて、これがまたとても良かった。ジャズというとやはりライブ音源が多いと思うのだけど、今後はもっとDVDを出して欲しいものです。(ただ、若干ピアノ手元のアングルが画質に問題あり。カメラのせいかなあ)

映像を見ていると、この二人が弾いている、というのは本当に絵になると思うのです。
かたやジャズ界の大御所、貫禄と余裕を感じさせる初老(?)の男性、そしてもう片方は、若手実力派、アグレッシブさとパフォーマンスも売り物の元気少女(?)。この対照的な二人の取り合わせは、しかし、ジャズという語法の上で、きっちりと対等に語り合っている、これがこのCDの一つの醍醐味だと思います。

2008年1月31日木曜日

著作権者の本当の気持ち

しつこく著作権ネタで。
よく読んでいるWEB上のニュースサイトでこんな記事がありました。
まあ、興味がないと読む気も起こらないと思いますが、内容はかなり濃いと思いますよ。
確かに著作権論議は、レコード会社とか出版社とかの権利を保持している企業と、コピーを可能とする機器を作るメーカーとの戦いがメインで、実はそこに実際のクリエータや、それを楽しむユーザの声が反映していることは少ないように思います。ネットでクリエータから直接ユーザに届けることが可能となった今、そもそも産業のあり方が根本的に変わる必要があるのだと思います。

上記記事の最後のほうで、完全コピーフリーにしたらどうか、という意見は我が意を得たりという感じでした。提案はさらに一歩進んで、税金で著作権料を徴収し分配する、ということを考えているようです。なるほどねぇ、さすがに専門家はいろいろなことを考えています。
ただ、税金だとクリエータは公務員ということになるのだろうか・・・と微妙な感じもあります。
もっとコンテンツを享受する側が、自主的に出資してくれるような仕組みがあればよいのですけど。

実際、一部のバカ売れアーティスト以外は、ほとんどの芸術家が「売れない」人たちであり、そういう人たちはお金が入ることよりも、まず知名度を上げたいと思っているのでは、とは何度も書いたとおり。
最低、作品を完成させるのに必要なお金さえあれば、意外とアーティストは貧乏にも耐えられるのです、きっと。
��そういえばこんな本も読んだっけ)

2008年1月27日日曜日

スウィーニー・トッド

ティム・バートンのファンとしては、この映画、もちろん見ないわけにはまいりません。
彼については、以前もいろいろと書きました。(コレコレ
今回は、「ビッグフィッシュ」「チャーリーとチョコレート工場」というファミリーでも見れるファンタジーから一転、ダークで陰鬱、血なまぐさい復讐劇に変わります。しかし、いくらストーリーが変わっても、バートン節は健在。いたるところに、ティム・バートン的世界が散りばめられていて、もちろん、いたく感動しました。

今回は何といっても、ミュージカル映画である、ということが大きな特徴。
そもそも「スウィニー・トッド」ってミュージカルとしてすでに有名な作品なのだそうです。今回、映画中に使われた音楽も、その元もとのミュージカルの音楽が使われています。
音楽の特徴は、ポップな感じとは違って、オーケストラによるシンフォニックなサウンドで、曲とセリフの境目が不明瞭な感じが、むしろオペラと言ってもいいような感じになっています。音楽的にはドビュッシーとかのようなフランス的な雰囲気が漂っていて、「ペレアスとメリザンド」でも観たような気分。何度か現れる二重唱なんかも、すごくオペラ的です。
ということで、この映画を一言でいえば、「スプラッターオペラ」という感じか。

スプラッターというからには血が流れまくります。R-15指定です。スウィーニー・トッドは殺人理髪師なのですが、カミソリで容赦なく首がかき切られていきます。結末はかなり衝撃的で、(バートン世界に精通していない)一般な方なら陰鬱な気分で席を立つことになるかも。
しかし、手加減のないファンタジーこそがティム・バートンの真骨頂であり、それをドラマとして割り切りながら、その世界観を堪能するというのがこういった映画の楽しみ方でしょう。

もともとミュージカルということもあり、舞台となる場面がかなり閉鎖的。また、歌でその時々の心情を表現するので、若干映画としてのスピード感は失われています。
ただ、やはり歌の力というのは強いなあ、とあらためて思いました。トッドの娘が囚われの身になっているときに歌う歌にはホロリとさせられました。

2008年1月26日土曜日

著作権、そしてアマとプロ

著作権と言えば、今ホットなのは保護期間延長問題。
今、日本の著作権の保護期間は50年なのだけど、実は欧米のほとんどの国々は70年となっており、それらと歩調を合わせようと政府が検討を始めたあたりから、大きな議論が沸きあがっています。
もちろん、ただ歩調を合わせるために変えよう、というのもおかしな話で、本来著作権は誰がどのような利益を得るためのものなのか、そういう本質的なことが問われています。
そういった議論を聞くにつれ、私としては保護期間の延長にどうもいい印象を持たないのが正直な気持ちなのです。既得権益を手放したくないお役所や、企業の論理と似ています。文化を個人視点で無く、社会全般の利益という視点で見れば、保護期間は短いほうが明らかに良いように私には思えます。

実際、財産としての著作権は、創作家がプロであるか、アマであるか(あるいは無名か、有名か)、それによって随分見方が変わるのではないかという気がしています。
アマなら、少しでも露出を多くして人々の目(耳)に触れてもらいたいと考えるでしょう。お金が儲かるより、名が広まるほうが重要だからです。だから、タダでもいいから流通させたいと思うのです。
ところが、プロの視点になるとちょっと変わります。
ある程度、芸術の世界で飯が食えるほどの立場なら、自らの作品が安く見られることに抵抗を感じるようになるのだと思います。作品の使用に対価が伴えば、少なくとも経済的な価値は認められたことになります。現実に収入が増えることを期待するわけでなくても、金銭的対価が作品の芸術的価値と見なせるのなら、やはりきっちりとした対価を期待したいのでしょう。

しかしプロがプロでいられるのは然るべき市場があっての話。
前回書いたようにCDや本が売れない今、市場自体が崩壊気味で、もはやプロが成り立つ前提さえも崩れつつあるような気がします。
そのときにアマに十分力さえあれば、いつしか力関係は逆転していくのではないか、そんな気がちょっとし始めているのです。プロが声高に著作権を主張すればするほど、アマの出番が増えていくのではないか、と。
そんなわけで自分のことでいうのなら、地道ながらPD合唱曲や、自作曲のYouTubeへのアップなど、自ら発信していく方法を模索しているところなのです。

2008年1月19日土曜日

CD,著作権,アーティスト

CDが売れないそうです。
そもそも、90年代のバカ売れが異常だった、という話しもあるし、携帯の普及とネットサービスの多様化が、音楽の消費を鈍らせているとも言われています。
アーティストやレコード会社などの権利者側は、iPodのような再生機器からもっと補償金を取って、著作権収入を増やそうと考えています。もちろん、メーカー側は機器の価格が上がるのが嫌なので、それに反対。コピーコントロールといったDRM技術をコンテンツに適用して、技術的にコピーされない仕組みを推進します。
しかし、そういった技術は不便さを消費者に強いるようになるし、そもそもどんなDRMも、世界の誰かが破ってしまって簡単にコピーできる裏技術が広まってしまう始末。いまや、売られているDVDも、フリーのツールでコピーすることは可能です。

全てが堂々巡りで、著作権に関する議論は傍から見ると終着点が見えてきません。
その一方で、ますますCDは売れなくなり、市場から良質の音楽が消えてきます。レコード会社の人に言わせれば、一部のバカ売れアーティストが、その他のあまり売れないアーティストを食わせている現状があって、音楽文化を衰退させない使命感だけで、売れないアーティストにも投資しているのだとか。
それでも、コンテンツが売れなくなれば、売れないアーティストは切り捨てられていかざるを得ませんし、音楽制作にかけられる予算もどんどん削られるでしょう。いまどき、レコーディングは本物のミュージシャンがスタジオに集まって取ったりするのはまれで、アレンジャーや作曲者自身が自宅のPCで打ち込みで作ったオケに、歌手がスタジオで歌入れしてそれで終わり。アルバム一枚、100万円くらいしか予算が付かないという話も聞きました。

一方、有名ミュージシャンが大手レーベルを離れ、ネットで直接ダウンロード販売したり、無料で配ったりする試みも始めています。もちろん、有名だからこそ出来ることですが、こういった方法はいずれレコード会社やCD小売店のあり方自体を根本的に変える可能性を秘めています。
CDと同じく、出版業界もかなり危機的状態です。amazon があれば、欲しいものは小売店で買う必要などありません。
私たち消費者は、夜な夜なネットでタダで楽しめるコンテンツを探し、ダウンロードし、自分のPCに取り込みます。そりゃ金を払わなくて聴けるなら、それでいいじゃん、と思う気持ちを止めるのは難しいでしょう。お金を出すか出さないかは、そのアーティストへの入れ込み具合にもよるかもしれません。

しばらくはこういった状況に対して、暗中模索の状態が続くとは思います。
結果的にはここ数十年で出来上がった音楽産業構造に大きな変化があることでしょう。そういえば、昔私もこんなことを考えていました。本当にこうなるとしてもかなり先のことにはなるでしょうが。

2008年1月14日月曜日

女声合唱曲のアップ

PD合唱曲シリーズに初の女声合唱曲をアップ。
万葉集の二つの短歌に曲をつけたもので、タイトルは「但馬皇女の恋歌」としました。言うまでもなく、テキストは但馬皇女(たじまのひめみこ)という人が書いた恋の短歌です。楽譜はこちら

楽譜はパッと見、かなりシンプルに感じると思います。そもそも、このシリーズは平易な曲をたくさん作りたいという想いから始めているので、そういう意味ではその目的に合ったものです。
ただ、基本的な音価が二分音符ベースなのは、ちょっと一般的でないかもしれません。四分音符で書いても良かったのだけど、ビートのゆるい感じとか、あるいはちょっと古っぽい雰囲気(ルネサンスみたいな)を出すために二分音符で表現してみました。

シンプルですが、アゴーギグのいじりようもあると思うので、それなりに曲作りを楽しめると思います。テキストは、ちょっと調べると分かりますが、かなり激しい(というか禁断の)恋を歌ったもので、どちらかというと大人向きかも。
女声合唱団がアカペラに挑戦するきっかけになるような曲になれば嬉しいです。

2008年1月10日木曜日

五つの母音の冒険 on YouTube

先日、ヴォア・ヴェールの演奏会で初演した「五つの母音の冒険」の動画を、何と YouTube にアップしてしまいました。
初演したとはいえ、なかなか多くの人が聴ける機会は無さそうなので、ネットを通じての広報活動です。もちろん、曲を気に入ってもらわないことには始まりませんけれども・・・。

以下をクリックすればご覧になれます。
"A":聖なるものへの讃美
"I":駆けめぐる知性
"U":孤独の迷宮
"E":拒絶と主張
"O":抱擁、そして祈り

演奏そのものには微妙な箇所はありますが、おおむね曲の雰囲気は伝えられていると思います。
また、ご感想などありましたらお聞かせください。

動画の編集には意外に難儀しました・・・。たいしたことやってないのに。

2008年1月6日日曜日

年末年始の音楽番組

年末年始に見た、三つの音楽系番組の感想など
個人的に大ヒットだったのは、年末の「いかすバンド天国」略称「イカ天」の特別番組。もう、イカ天ブームも19年前なんですねぇ~。
放送当時、私は入社直後で会社の寮生活をしていたのですが、同期入社のメンツでロックバンドなどをやっていて、土曜の夜には誰かの部屋で「イカ天」を見ていたものです。懐かしい・・・
それに今見ても、音楽も全然古く感じないし、アマチュアの熱さがひしひしと伝わります。何より、音楽におけるオリジナリティとは何か、そういう命題を視聴者に突きつけるような番組だったのだと思います。

次は年末のNHK紅白。
これは、最近の「芸能」世界での音楽状況を知るにはとても良い番組。要は流行の音楽チェックと、歌い手のチェックですね。
今年はテンポ感も良くて、色々工夫していると思いました。
あみんが再結成なんだぁ~とか、各世代にも配慮されているし。

あと、夕べ見た「のだめカンタービレ」。
のだめの話題は前も書きましたね
バカバカしいくらいのキャラの立て方をしている割りに、妙に音楽世界の生々しさが伝わってきて、そのリアルさに、ついつい引き込まれます。内容も何となく嘘っぽくない感じが良い。
プロフェッショナルな現場だから当然だとしても、音楽演奏には必要な知識習得だとか、分析だとか、そういう工程があって、でもやっぱり最後には奏者のクリエイティビティがあって、という厳しい現実をきちんと描いています。
でも、アマチュアの世界では、そういうのが小賢しく思われていて、どうしても向上心が変な方向に向かっちゃうんだよね・・・。