2009年6月28日日曜日

「芸術力」の磨き方/林望

Rinbouタイトルに惹かれて立ち読みしてみたら、これが大変面白そうなので、ついつい購入。
私が、このブログでくどくど言っていることが気持ちいいくらいそのまま(しかも分かりやすく)書かれていて、全編膝を打つような気持ち良さで一気に読みました。

著者は文筆家なのですが、芸術についても非常に造詣が深い方。本書では、特に特定の芸術について書かれているわけではないですが、個々人の「芸術」活動の方法について、その心がけのようなものが書かれています。
我々にとって取っ付きやすいと感じるのは、本当にこの方多趣味なんだけど、そのうちの一つに声楽があって、クラシック、特に声楽ネタが本書ではたくさん扱われています(三大テノール批判とか)。なお、本人はプロの声楽家と「重唱林組」などというカルテットを組んで、演奏活動しておられるとか。

やわらかで読みやすい反面、内容は相当辛辣といっていいでしょう。
特に、日本における芸術の扱われ方というのは、教育の世界でも、商業の世界でも、メディアにおいても、実に貧しい状況であることを嘆いています。また、個人レベルで見ても、人にレッテルを貼ったり、芸術家個人のストーリと芸術そのものの価値が混同されたり、訳知り顔のオタクが初心者をバカにしたり、カメラオタクがカメラの機種の薀蓄ばかり垂れていたり・・・などなど著者が嫌うような芸術態度が目白押し。
やや断定口調であるのは気になりますが、それらも言いたいことの本質はとても共感できるのです。

このブログをいつも読んで頂いている奇特な方には、超おススメの一冊。
もう私の意見かというくらい、私の日ごろ感じていることをきれいにまとめてあります。平易な言葉で書かれているので、半日ほどで読めるはずです。

2009年6月24日水曜日

Hello World!

Birth周りの方々には、ちょっと遅れてご心配をおかけしましたが、無事男の子が生まれました。
この歳で第一子を授かり、生活も激変しそうです。関係される方にはご迷惑の無いよう心がけますが、何とぞ大目に見てやって下さい。
まだまだ実感が沸きませんが、そのうち私自身の価値観や言動にもじわじわと反映されてくるかもしれません。そのときは「すっかり親バカですね〜」とか月並みな突っ込みをしないようお願い致します。

今回の出産で何が面白いって、私の誕生日と息子の誕生日が同じ日になってしまったということ。ネタとしては面白いですが、きっとお父さんの誕生日は家庭内ではついでに祝われることになるものと思います。
では、今後とも父子共々よろしくお願い致します。

2009年6月22日月曜日

ザ・ケルンコンサート/キース・ジャレット

Koln1975年にドイツ・ケルンで行われた、ジャズピアニスト、キース・ジャレットのコンサートのCDを購入。
当時、キース・ジャレットはピアノのソロコンサートを全て即興演奏で行うという試みをしており、その中でもこのケルンコンサートの演奏は非常に評価が高く、名盤といわれている音源なのだそうです。
実際聞いてみて、音もクリアだし、なかなかいい雰囲気の音楽。ただし、ジャズと言われると、ちょっと違うかも、というのが率直な印象。ほとんどスイングしてないし、フレージングもロック調だったり、クラシックぽかったり、あるいは、ちょっとウインダム・ヒルっぽい、ニューエイジ的な雰囲気もあります。
恐らくこの演奏は、純粋な音楽として聞くだけでなく、これが全編、準備無しのインプロビゼーションである、という前提で聴くべきなのでしょう。
そう考えると、今この瞬間に音楽を紡ぎだすその過程であるとか、思い付いたフレージングが即興でどのように発展していくのかとか、あるいは高揚した気持ちをどのように処理していくのかとか、一人の音楽家が持つ音楽力が丸裸にされ、それをさらけ出すという非常にスリリングなパフォーマンスだと言えるでしょう。

これは音楽家のあり方を問う行為でもあります。
音楽は、完璧に事前準備され、計算ずくで演奏されるべきでしょうか?それとも、本番の演奏でしか現れない即興性を追求すべきでしょうか?
恐らく、われわれ凡人はそのどちらに振ることも出来ないのですが、本作品では片一方の極端な答えを探すという大変な苦行を自らに課しているのです。そして、それこそが、この音源の大変貴重である所以ではないかと思われます。
私には、ある意味哲学的で、非常に興味深い試みのように感じられたのです。

2009年6月20日土曜日

プロとアマと才能・・・

しかし、才能って言葉は考えれば考えるほど難しいです・・・
芸術活動をしていれば誰だって才能っていう言葉にぶちあたります。たいていの場合、自分の才能を高めに判定する傾向はありますが、それでも自分には才能が無い・・・と悩むことも多いでしょう。別に、趣味でやっているならそんな大層に悩むことも無いとは思いつつも、もし世間が認めてくれるならプロとしてやっていきたいと密かに考えているかもしれない。(私のことを言っていると思ってますか?まあ、そうなのかも)

才能は一次元的なベクトルを持っている訳ではないし、人は見た目や経歴や性格や、いろいろなものに判断を左右されます。
だから、かたや才能があっても認められない、と感じる場合もあるだろうし、才能が無いくせに活躍していると思われる場合もあるでしょう。
所詮、共同体の最大公約数的なモノが評価され、流行ったりする訳で、それをキチンと把握することも評価されるためには必要だけれど、共同体自体の価値観に幻滅してしまう場合もあります。
恐らくは、本当に才能があっても世に埋もれたまま消えていった人はたくさんいるのだと思います。しかし、彼らは何も残せなかったのではなく、その周囲の人々をインスパイアさせながら、やはり幾ばくの影響を社会に与えていたのではないでしょうか。

現在は、まだプロとアマの差が厳然と存在します。
恐らくそれを規定しているのは、メディアです。ですから、プロ化したい芸術全般が聴衆や観客でなくメディアを向いてしまうのです。
メディアの文化の扱いによって、芸術の有り様は相当変わるように思います。プロとアマの境目が静かに消えつつあるのと同様、メディア自体も変化しつつあります。
個人がラジオ局さえ開設できる時代です。良いリコメンドを提供出来るメディアが支持を広げる社会になれば、またプロとアマの境界も変わっていくし、その結果、芸術における才能の見え方も変わっていくかもしれません。
やや取り留めが無くなりました。

2009年6月15日月曜日

某コンクール優勝、そして才能とは?

数日前より、全盲のピアニスト、辻井さんのピアノコンクール優勝のニュースがテレビを賑わしています。
本当にスゴいですねぇ。普通に日本人が優勝したっていうだけで大ニュースですが、ハンディキャップということで、さらに驚嘆に値する偉業だと思います。
もちろんハンディキャップであることは、彼にとって大変つらい事実だし、音楽家としても不利であるはずなのですが、やや穿った見方をすれば、彼はハンディキャップであることを最大限に生かしているとも感じました。コンクールの審査員とて、その要素を全く抜きに審査できたとは思えませんが、それは悪いことだとも私は思いません。なぜなら、ハンディキャップという視点から表出する世界観が、彼自身の音楽の個性になり得るからです。
今回の受賞で、彼は音楽家として華々しいスタートを切ることができましたが、もちろん今後はプロとしての音楽家の真価が問われることになるでしょう。これからの活動に大いに期待をしたいと思います。

たまたまこのニュースの後テレビでは、誰でも才能はあるけれどそれを生かし切っていない、というようなことを言っていました。
もちろん、辻井さんには幸いなことに演奏家としての才能がありました。むしろ、全盲として生まれたことで、その才能に早い段階で気付くことが出来たように思います。それは、まさに不幸中の幸いでした。
しかし、振り返って自分自身にそんな才能があるかと考えてみたとき、そもそも才能があるか無いかを決めるのは一体誰でしょうか? 才能が無いことをどうやって確認することが出来るでしょうか? 一体いつ私たちは自分に才能が無いと諦めるべきでしょうか?
こういう問いかけは悲観的だし、また教育的でもありません。でも、本当は多くの人が人生の中で直面していて、そして納得しないまま自虐的に振る舞っているような気がします。

今回のニュースの中から「誰にでも才能がある」などというお気楽なコメントが出てくるのは、安易な発想です。むしろ、私は可視化できない才能というものに踊らされるより、自分の本当の力を直視できる力を持つべきだとかねてより思っているのです。
才能という単純な言葉で片付けずに、彼の一体何がスゴいのか、彼の演奏そのものを音楽関係者(演奏家、評論家)が分析して、その内容をもっと多くの人に伝えてもらえればいいのに、と私は思います。彼が奏でる音楽そのものが本来、賞賛されるべきことなのだと思うのです。

2009年6月11日木曜日

さらに、プロとアマについて

どうせ私たちプロじゃないし・・・っていうのが嫌いです。
なぜ練習しているかというと、いい演奏をするためだし、なぜいい演奏をしたいかというと、それを聴いたお客様に喜んでもらいたいからです。
結局、アマとプロを分けているものは、演奏者の「覚悟」なのだと思います。いい演奏をするためにはいろいろな障壁があります。その障壁に敢然と立ち向かう覚悟があるか、ということです。やや、勇ましい言い方をしていますが、見た目の熱さのことじゃないのです。どちらかというと「究める」という感覚に近い。いい演奏をしたい覚悟とは、物事を究めようとする態度なのです。

合唱がなかなかプロ的になれない理由の一つとして、演奏者一人一人の責任の軽さという問題があるでしょう。例えば、バンドの練習でドラマーが休んだら練習にはあまりならないでしょう。でも、合唱って私一人くらい練習を休んでも大丈夫、と思ってしまう傾向があります。
しかし、合唱団のレベルは最後には団員一人一人のプロ意識で決まっていきます。プロ意識が高ければ、確実にウマくなります。そのために、演奏者が自分たちの演奏に対する責任をもっと強く感じる必要があります。

その一方で、生涯学習的に、自分自身がゆるやかに楽しめれば十分。あわよくば、家族にも演奏を聴いてもらえば嬉しい、というような音楽の取り組み方もあることでしょう。
その場合、指導者はお客様に楽しんでもらうような音楽作りでなく、団員を生徒として扱い、音楽を学ぶ楽しさを体感させる必要があります。それは、まさにアマチュア的なあり方です。
その辺を曖昧にしたままで団の運営をすると、いろいろと混乱の元になってしまうのではないでしょうか。

2009年6月7日日曜日

プロとアマについて、再び

何度か音楽産業のことを書いてます・・・
プロとアマの垣根が低くなり、プロのアマチュア化が起きているのでは、と前に書きましたが、それと同時にハイアマチュアの質が向上したという側面があることを忘れてはいけません。
なかなか実感は沸かないだろうけれど、ポピュラー音楽など、アマチュアでもプロ顔負けの音楽を作っている人はたくさんいます。彼らがアマなのはただ宣伝力が足りないだけ。

やや無理矢理、合唱の世界に振ってみると、合唱はほとんどアマチュア団体しか活動しておらず、一部のレベルの高い団体はプロが作る音楽とひけを取らないと思います。
つまり、すでにアマチュアのプロ化が密かに起き始めているジャンルと言えるかもしれません。

ただ、私にはまだアマチュア的な感覚で音楽活動をされている方は多いと感じます。
以下に私がアマチュア的と感じることを挙げてみましょう。
芸術と大衆音楽を分けようとするセンス
音楽の質を論ずるのに、なぜかアカデミックな価値基準から逃れられない態度のこと。所詮、音楽なんて気持ち良ければいいのです。その理由を理知的に解き明かしたいだけなのに、いつしか手段と目的が逆転してしまっているように思えます。
過度に芸術の高尚さを求めると、聴衆の喜びから音楽が離れていきます。ところが、多くのアマチュアは、こんな高尚な音楽やってる自分ってスゴい、みたいな感覚からなかなか抜けきれないのです。
・芸術の価値判断は本来不合理なものであるのに、それを受け入れられない
何がいい芸術か、なんてものに答えが無いのは当然なのに、あっちのほうが良い、これは良くない、というような序列化をしたがります。特に、ウマい、ヘタ、という評価を安易に下す人が多い。
もちろん、芸術の中にも純粋な技術的要素はありますから、ウマい、ヘタという評価はある程度必要なことだけれど、それだけで芸術の価値を推し量ることは当然出来ないはずです。
そこにコンクールの落とし穴があります。そもそも、コンクールに絶対的基準を求めることがナンセンスです。審査員や各種レギュレーションによって、結果が違うなんてことは当たり前だからです。
・他人の意見で、自分の価値判断が容易に左右される
プロになるには、自らが「ウマく」なるだけでなく、芸術を自分の価値基準で判断する能力が必要です。良いものが分からなければ、良いものを作れるはずが無いからです。
ところが、自分の価値判断に自信がないと、容易に他人の、例えば指導者、有名な批評家、芸術家の意見を無批判に受け入れてしまいます。そうすると、いつもその人の価値基準が定まらず、フラフラしているように思えるのです。最後は自分のセンスを信じ、そこを拠り所にすること。それがプロ的であるための心構えなのだと思います。

2009年6月3日水曜日

激動の音楽業界

ふたたび、音楽業界ネタ。
経済産業省から、音楽産業のビジネスモデル研究会報告書が発表されました。50ページを超える量で内容もヘビーですが、音楽産業に興味がある人だけでなく、今後音楽とはどうあるべきなのか思いを巡らそうとしている人にとって大変興味深い内容だと思われます。是非、ご覧ください。
大まかに言えばこの報告書では、CDの売り上げに頼っていた音楽業界は、パッケージビジネスというやり方を変え、コンテンツそのもの(音楽そのもの)の価値に立ち返って、多角的にビジネスを展開していくべき、といった内容が書かれています。

いずれにしても、音楽の価値を単純にCDの売り上げで判断してしまう傾向こそが問題なのです。
もちろん、誰もが自分は売り上げで音楽の善し悪しを判断していない、と言うでしょう。しかし、個人が信条としてそう言うことと、企業がビジネスの論理で行うことはどうしても相容れません。
企業が利益を追求するのは当たり前のことですから、彼らは「売れる」コンテンツをこそ欲しがります。その結果コンテンツを作る際には、それほど音楽に興味を持たないにわかファンをどれだけ取り込めるか、という視点が重要視されてしまうことになるのです。

音楽的価値とCDの売り上げとは全く相関が無い、などと言うつもりはありません。
しかし、パッケージの売り上げを増やすことを至上命題としていた音楽産業が、音楽のあり方を少しずついびつな方向に向けてしまったことは疑いのない事実だと思います。
売り上げの呪縛から解放されたとき、音楽はもっと質で語られるようになるような気がしているのです。