2009年8月28日金曜日

指揮者というお仕事

私自身は合唱指揮者として活動できるほどの人徳は無いので、基本的には指揮ではなく作曲家として活躍したい、と考えていますが、今回の東北大の演奏では思いがけず、初演の指揮を務めることになりました。
こんな経験初めて・・・と、思ったら数年前、浜松ラヴィアンクールの演奏会で自作曲を振ったことを思い出しました。まあ、あれは地元だったし、それほど気負いはなかったわけですが。

でも実際やると他団体の指揮は結構面白いんですよね〜。
毎週会うメンバーで無くて、月に一度くらいのペースでの指導というのは、それなりに緊張感があるし、食いついてくる感じもかなり違う。今回は大学生っていうのもあったけれど、打てば響くような快感の中で指導をしていました。
もちろん、それなりの責任があるわけですし、確実に演奏の質を高めるような指導で無くてはなりません。まだまだ私自身反省すべき点はありますが、何となく客演指揮者としての自分のペースというのが掴めてきたような気がしています。

私の指揮で歌った方は感じると思いますが、私は聴いたお客さんがどのように感じるか、ということを徹底的に意識します。私の中で「仮想客」という像を定義し、彼が喜ぶにはどのようにしたら良いかを考えるのです。
「仮想客」は、演奏会なのか、コンクールなのかによって、質が若干変わります。だから、どこで演奏するかで演奏の内容も変わります(これについては否定的な意見の方もいると思います)。
それから最近は、日本語のディクションに非常に拘っています。ほとんどの合唱団の演奏で、日本語がきちんと聞こえないと常々感じているからです。練習中場合によっては、音素単位まで分解して、一つ一つの子音や母音の出し方まで言及します。やや、細かすぎて辟易とされた方もいるかもしれません。
あと、音という物理現象を理系的語彙で表現します。まさか、合唱の練習で微分、積分が応用されるとは思いもよらないでしょう。ヴォア・ヴェールでは、気が遠くなっていた人もいましたが。

まあ、こんな指導でよろしければ指揮をするのはやぶさかではございません。
実は、11月にも横浜にて女声合唱団の本番の指揮をすることになっています。もちろん拙作の初演です。詳細はまた追ってお知らせ致します。

2009年8月24日月曜日

委嘱初演・夢と幻想の仙台

Img_0034無事、東北大学混声合唱団の委嘱作品初演が終わりました。
大学内にある川内のホールも今は萩ホールと名前を変え、素晴らしい音響のホールに生まれ変わっていました。外観は変わっていないのですが、中はクラシック演奏のできる広い舞台、そして今風のシックな内装となっています。
このようなホールで、しかも多くのお客様の前で、拙作の初演を出来たことを大変嬉しく思います。
改めまして、今回の演奏会の企画からご尽力頂いた皆様に厚く御礼申し上げます。

50周年記念演奏会ではOBステージがあったのですが、そのために集まった人のうち、自分の世代に近い年代の方々と会えたのも演奏会の楽しい時間となりました。私は卒業以来、本当に不義理をしていて、20年もの間仙台には行っていませんでしたから、指揮の佐々木先生を始め、多くの大学時代の合唱団の先輩後輩は20年ぶり。本当に涙が出るほど懐かしかったですよ。会えて、本当に嬉しかったです。

私の中では、もはや仙台は記憶の中にさえなくて、夢の中に現れるような街なのです。
そんな街で拙作の委嘱作品を、しかも自分の指揮で初演したということは、本当に夢のような出来事でした。私の中の幻想の仙台に、また新しい印象が加わったように思います。

2009年8月19日水曜日

で、あなたの意見はどうなの?という社会

衆議院選挙が始まりましたね。
まあ、ほとんどの人が各党の政策の談義をしていると思うので、敢えて違う視点で語ってみましょう。
今回の選挙の面白さは、政権が変わるかもしれないという、まさにその点にあると思うのです。
今まで、ほとんどの場合、有権者の出来ることは知れていました。政権党はずっと同じだったし、派閥の争いは、私たちにとって客席からリング上の戦いを観ているようなものでした。目の前の争いを他人事のように観戦しているだけで、自らが選択する主体になるという意識はあまりなかったと思います。

政権交代が起こりうる海外の先進国の様子などを見ると、一人一人が実にはっきりと意見を言い合い、主張します。時には興奮のあまり手が出てしまうこともあるし、コミュニティを分断してしまうことさえあります。
私たちはそういう状況を密かに羨ましく思いながらも、はっきりした意見を持たずに、長いものに巻かれていたほうが、少なくとも表面的には平和に生きていくことができると感じています。
狭い日本でそれなりに一つの国家が長い間継続するには、そういう国民のメンタリティがどうしても必要だったのかもしれません。「空気を読む」とは、まさに言い得て妙。場を読み、全体の情勢を見ながら、自らの意見を決めていくという行動が私たちにとって重要だったのだと思います。
その縮図が国会であり、政治家の世界でした。私たちは彼らを見て、自らの属するコミュニティで同じような行動を取っていたのではないでしょうか。

しかし、今回の選挙は、そんな日本をほんの少しだけ変えるきっかけになるような気がするのです。
各自が支持する政党を応援し、そのために行動を起こす。まだまだ、その波は大きくはないけれど、政権が二回、三回と交代するたびに、私たちは自らの意見を持たざるを得なくなるのではないでしょうか。
政治家が討論の場で理想を叫び合うことによって、私たちの意識が少しずつ変わり、私たちも日常生活で理想を語り合うようになっていく、そんな風に世の中が変わっていくと日本の未来も明るい気がするのですけど。

2009年8月16日日曜日

iPhoneアプリを作ってみる

Gokonプログラマのキャリアとして、iPhoneのアプリを作れるようになれたらいいなと、ずっと思っていたのです。
今年はどこにも行かなかった夏休み(乳児がいるおかげですが)。ちょっと頑張ってiPhoneアプリ作成に挑戦してみました。ちゃんとしたアプリ名はまだ無いですが、画像を見ての通り「合コンでの会計アプリ」です。
合計金額と男性と女性の人数を入れ、端数の単位と男女の支払い比率を設定すると、払う金額を算出してくれます。

iPhoneのSDKは随分前からダウンロードしていたし、参考本も何冊か買ってみたり、時間のある時はObjective-Cに関する情報もWebで読んだりしていました。実際のところ、まだ細かいところは良くわかっていませんが、上の程度のアプリならば、InterfaceBuilder+XCodeの最小限の機能で何とか作れそうなことがわかりました(iPhone特有のUIは全て、Cocoa Touchというフレームワークで定義してあり、それをIB上で貼付ければ画面は作れます)。
ちなみに、Appleへの登録はしてないので、Macのシミュレータ上でしか動作しません。悪しからず。

もちろん、ゆくゆくは音楽系アプリ(合唱用とか)を作ってみたいものですが、それにはまだまだ開発環境についてお勉強の必要があります。
しかし、ピッチを検出したりとか、母音を判定したりとか、調号から移動ド読みを指南してくれるとか、いろんなアプリを作ってみたいという夢だけは膨らんでいます。

2009年8月13日木曜日

「生命の進化の物語」6曲目

6曲目は、実はもはや「生命の進化」を謡う音楽では無くなります。
この曲だけ、地質時代のタイトルが付いていません。架空の百万年後の世界がこの曲の舞台になります。
地球の歴史の時間感覚からすれば、あまりに急激に人類は発展し過ぎてしまいました。自らを過信した人間はこの地球を住めないほどの環境に変えてしまいます。そして人々は、百万年後の地球に戻るために、「ノアの箱舟」よろしく、時間旅行で未来の地球に旅立ちます。
ついに暗黒の地球に降り立った人々は、今こそ、新しい地球を作り上げようと誓いを新たにします。

曲はどちらかというと、ポピュラー音楽的な構造で作られていますが、寂寥感と絶望の中にあるかすかな希望、というテキストの内容を悲しげかつ壮大な雰囲気で表現します。特に終盤の盛り上がりでは、ショスタコービッチ第五番の最後のように執拗なピアノの同音連打で、状況の切迫感や新しい人類の決意を表します。

��曲目のテキストを通して間接的に啓蒙していることは、シンプルに言えば地球環境問題に対して意識を高めようということなのですが、私は反論の余地の無い正義側に立って、ただ正論を述べたいわけでは無いのです。
例えば地球温暖化と言うと、あまりに規模が大きすぎて、私たちのしたことの影響がちっぽけ過ぎるように思えます。しかし、世の中に起きていることは、そのちっぽけなことの集積です。
義務感のようなもので言われたことをやるというのでは無く、一人一人が自ら判断できる主体として、世の中について想像し、行動すべきなのだと思います。
そういった抽象的な人間のあり方を私は密かに主張したいのです。人間の本当の罪とは、想像力の欠如ではないかと思うからです。
それが大学生の歌い手、そして演奏を聴いて下さった聴衆の皆さんにどれだけ伝わるか、私に課した壮大な実験でもあります。

2009年8月12日水曜日

海辺のカフカ/村上春樹

Kafka村上春樹の本を始めて読みました。
もちろん以前から気にはなっていたものの、何となく食わず嫌いみたいな気分は感じていたのです。
ところが、実際この「海辺のカフカ」を読んでみたら、なかなか面白い。思っていた以上に、楽しめた小説でした。
かなりの長編ですが、文章は比較的平易だし、純文系にしては様々な出来事が起きて読者を飽きさせません。「僕」と大島さんの観念的な会話とかはやや閉口するのですが(いや、それが好きだという人もいるのでしょう)、カーネル・サンダースのくだりはギャグのセンスもなかなかで、笑いながら読めます。
しかし、これがエンターテインメントと決定的に違うのは、全ての設定の謎は解決されないまま放置されるという点。現実のようでいて、全く無茶な出来事が平然と起き、その超自然現象についても結局フォローされないまま。まさに、マジックリアリズムといった趣です。そういえば、村上春樹の他の小説なんかも粗筋を聞く限りはこんな感じなんでしょうね。

不思議な設定がフォローされない、というのは、ある種作者の自信のようなものだと思うのです。超自然現象でも何でもありとなれば、掟破りのストーリーだって可能です。凡百のクリエータは都合の良い設定を、ストーリー展開の都合のよさに使ってしまう。それをやっちゃあ、お終いよ~みたいな。もちろん、村上春樹はそうならない絶妙なバランスを知っている。
天から魚が降ってきても、カーネルサンダースがポン引きしていても、はたまたテレビがある天国があったとしても、それが物語の機能としてきちんと消化できる自信があるからこその奇想天外な設定なのでしょう。
オイディプスの神話を物語の軸として使っているのも、物語の流れにうまく一貫性を与えており、非常に構築性の高い長編小説であると感じました。

しかしその一方、春樹節のいけ好かない感じもやや鼻に付いたのは確か。
音楽や文学に関する薀蓄の多さ(クラシックの作曲家や演奏に関しては逆に興味深いけど)、クールなガジェットの使われ方(やたらにブランドを強調したりとか)、結局のところ男の欲望がすんなりと成就される展開、などなど。十五の若さで、プリンスやコルトレーンやレディオヘッドなどの洋物を好んで聞く老成さも気になるし(間違ってもサザンやミスチルなんかは聞かない)。
そっか、村上春樹って最近は日本より外国のほうが売れているって言うし・・・。

2009年8月10日月曜日

「生命の進化の物語」5曲目

「ぼくのママはミトコンドリアイヴさ〜」という言葉で始まるナンセンス詩。
概念上の存在ではあるにしても、人類の究極のご先祖様であるミトコンドリアイヴがいたからこそ、今の人類の繁栄がある、そんな想いを曲にしてみました。

16ビートの軽快なリズムによる音楽のノリは、ほぼポップス(あるいはラテン系)。ブラスセクション付きのロックバンドで演奏したくなるような音楽です。この上に、来る人類の繁栄を祈る子供の気持ちが託されます。
そしてイヴの子供は歌います。「何かを信じなければ、夢は語れない」と。

「生命の進化の物語」4曲目

生命の進化にとって重要なのは、お互いを攻撃し合う生存競争だけではありません。自ら子を産み子孫を残すことが無ければ種は滅びるのです。
親が子を育て、守っていくために、親は子供に愛情を注ぎます。そういった優しさも生命の進化を語る上での大事な一コマです。

曲は二分音符のシンプルな和音連打による伴奏の上に、想像の「恐竜の子守唄」を恐竜語で(つまりオノマトペのような音節で)歌います。
旋律はベース、テナー、アルト、ソプラノと引き継がれ、後半やや盛り上がった後、ゆっくり子供を眠りに導くように、静かに消えていきます。

2009年8月5日水曜日

「生命の進化の物語」3曲目

ペルム紀の大量絶滅では、生物種の96%が滅亡したと言われています。
��億年近い年月、地球上で大繁栄してきた三葉虫も、このペルム紀の大量全滅のときに全て滅んでしまいました。
楽園を求めてあてども無くさまよい続ける三葉虫たち。迷える者たちは力強く人々を先導する者を盲目的に信じるようになります。そして、三葉虫の一軍は、あるはずの無い楽園に向かって、死への行進に向かっていきます。

行進曲のようなビートの上に、力強いメロディが歌われ、途中、行進の足音なども現れます。断片的な言葉の連呼の後、三葉虫の一軍はソプラノのエキゾチックな歌による先導に従い、力強く行進を続けながら、だんだんと去っていきます。

2009年8月1日土曜日

「生命の進化の物語」2曲目

カンブリア爆発というのはご存知でしょうか?
進化というのは漸次的に少しずつ起きていくと一般には思われますが、世界中の化石を調べると、約5億年前に突如として様々なタイプの動物が現れたことがわかっています。
特に有名な化石の採掘場がバージェス頁岩。この時代の動物をバージェス動物群とも呼んだりします。

カンブリア爆発は生命の歴史の中でも非常に大きなトピックなのですが、それは生物が多様化したことと同時に、激しい生存競争が誕生したことを意味しています。
この中で小さくも逞しく生き、私たち脊椎動物の大元となったピカイア。彼らを賞賛しつつも、私たちの憂いの元となった生存競争(競争社会の出現)に想いを巡らせるというのがこの曲の趣意。

曲全体のほとんどは5/8拍子という変則的な拍子でありながら、流れるようなしっとりとした曲想となっています。