2009年10月31日土曜日

「生命の進化の物語」出版

Evolution先日初演しました混声合唱組曲「生命の進化の物語」がケリーミュージックによって出版されました。
今回も、パナムジカのみの販売となります。
先着30名様には、初演の音源をプレゼントいたしますので、選曲のご参考にぜひ手にとってみて下さい。

特に、この作品は音楽的な複雑さより、ピアノ伴奏を中心にジャズやポピュラー的なリズムを多用しながら、聴衆への分かりやすいメッセージ性を重視して作曲しました。一生懸命練習しないと音が取れない類の曲ではなく、音楽を通して何を伝えるのか、そこに力点を置いて練習し易いのではないでしょうか。
そういう意味で、大学生の合唱団で取り上げてもらうのにちょうど良いくらいの内容だと考えています。

終曲では地球温暖化への懸念とも取れる歌詞を扱います。世の中の関心が高まっている中で、本作品を通して合唱団や聴衆が何かを感じてくれるきっかけになればと思います。
ぶっちゃけ言えば、出版によって本作品が初演だけで終わらない…ことを切に願っております。

2009年10月30日金曜日

MacBookPro、え〜もう修理完了!

修理に出したのが火曜日のお昼だったのに、なんと今日、戻ってきました。
なんか修理の手続きに問題があったのかと思ったら、ほんとに2日で修理が終了して戻ってきたようです。報告書にドライブを交換した、と書いてあります。
うーん、これは正直すごい。
なんだか気合いが入ってます、アップル。明確に意識して修理のスピードアップのための施策をしていなければ、普通この早さは無理だと思います。
それに加えて、半年以内にアップル製品を買うと5%オフになるサービスも付けてくれました。
日本法人(アップルジャパン)だけかもしれないけど、正直アップルの印象がずいぶん変わりました。

2009年10月28日水曜日

MacBookPro、いきなり修理へ

すっかりアップル信者になった私に、なぜこうもアップルは冷たいのでしょう?
昨年も、iPhoneが一週間で交換だったし・・・。

というわけで、先日買ったばかりのMacBookProがいきなり修理です。
Officeをインストールした後、インストールディスクを飲み込んだまま、出さなくなってしまいました。ディスクは買ってから初めて入れたので、恐らく最初からドライブが不良だったのでしょう。
まあ、製造はどうせ中国だろうしなあ〜。アップルを責めても仕方はないのですが・・・。

実際、日本メーカーの製品よりは不良率は高いのだと思います。正直、品質は決して高くは無いのでしょう。となると、日本メーカーみたいに、クールじゃないけど品質は高い、という商品とどちらを取るべきだと思いますか。
結局私は、品質が悪いとわかっていてもクールな方を選んでしまうわけですが。

2009年10月26日月曜日

アンサンブルMora 1stコンサート

Moraそう言えば、まだお知らせしていませんでした。
11月17日(火)に、横浜のみなとみらいホールにて、アンサンブルMoraの演奏会があります。この演奏会で、拙作、二群の女声合唱のための組曲「へんしん」が初演されます。もう8年前に作曲した曲ですが、このたびようやく演奏できることになりました。
アンサンブルMoraは小田原少年少女合唱隊等でおなじみの桑原先生が指導している団体。やや年齢構成は高いですが(^^;、各メンバーの音楽的力量はなかなかのものです。
桑原先生がいるにも関わらず、なぜか客演指揮ということで、私が初演の指揮を務めることになり、何回か練習にお邪魔しているところです。

演奏会は全体で6ステージ。しかもハードなレパばかりで、非常に盛りだくさんな内容なのが凄いのですが、その中でも拙作はやや軽めの作風なので、好対照で面白いかもしれません。
曲は二重合唱で、二つの合唱が対話したり、音響的にも楽しめるように工夫しています。子供心を表現する詩の魅力(宮本苑生)が伝わるような、そんな演奏にしたいと思っています。
平日ではありますが、横浜近辺の方はぜひ、お越しください。

それにしても本年は、嬉しいことに思いがけず初演の多い年になりました。国民文化祭(11/7)でもヴォア・ヴェールで拙作を初演予定です。この紹介はまた後ほど。

2009年10月23日金曜日

暗譜について

今年私が初演する団体は、おしなべて皆さん「暗譜します」と言って頂いたのですが、私の方から「暗譜しなくて良いですよ」というように言っています。
おかげで全部譜持ちのステージになりました。

暗譜という文化は、個人的には決して音楽レベルを上げることにならない、と思っています。
どちらかというと素人的な文化に感じます。もちろん、暗譜が演奏にもたらす効果も良く理解しているつもりですし、必要悪的な側面はあります。
ただし暗譜することが、よく練習したことの証であったり、努力したことの自己満足的な行為だとしたら、それはあまり意味のないことです。まあ、コンクール的には良いイメージを与えることは確かなのですが。

もちろん、器楽でもコンチェルトのソリストはたいてい暗譜だし、オペラは当然のごとく暗譜、歌曲を歌う歌手もほとんど暗譜です。当然彼らは、非常に時間をかけて練習していて、恐らく暗譜をしようと思うまでもなく頭に入ってしまっているのだと思います。
しかし、オーケストラは暗譜しませんし、指揮者もたいていの場合は暗譜しません。
ヴィルトゥオーソではないプロで、短時間に多くの曲をこなし、常に楽譜を読みながら、指揮者の指示通りに演奏する立場の人たちはたいてい暗譜しません。

素人の暗譜は暗記を意味します。
そして、暗記は考える力を剥奪します。
音楽は生モノで、二度と同じ演奏はあり得ないはずなのですが、世の(コンクールを中心とした)合唱演奏では、何度演奏しても同じになるようなテープレコーダ的なものがとても多いように感じます。これは練習回数を重ねることが、逆に音楽のライブ感を失なわせてしまう悪しき兆候です。
私はこのような演奏と暗譜はつねに一心同体にあるような、そんな気がしてしまうのです。

とはいえ、合唱団員全体の士気を上げ、曲に対する集中度を無理矢理高めるためには暗譜は確かに有効な手段ではあります。その効能と、悪い面とをバランスを考えて選択することが必要です。
私はある程度の力のある合唱団が新作初演をするのなら、譜持ちで臨みたいと考えます。

2009年10月19日月曜日

我流、指揮法 ─ 毎回同じ指揮であるべきか?

同じ曲なのに、振る度に指揮が違うってことは悪いことでしょうか?
真面目に考えるほど、この結論を単純に出すことは難しいはずです。振る度に指揮が違うのは、アマチュアの歌い手にとっては一般的に良いことでは無いですが、必ずしも悪いとは言い切れません。では、何が悪くて、何が良いのでしょう?

そもそも合唱の世界で、振る度に指揮が違う、というのはたいていの場合、指揮者の力量欠如が原因と思われます。前回言った、制御している感じの弱い指揮というのは、拍やビートが不明瞭で、そもそも指揮者が作りたい音楽を棒のみで指示出来ていない状態を言っているのですが、結局そういう指揮者の元では、歌い手は指揮者の動きそのものを記憶して歌うようになります。だから、その指揮者がちょっと振り方を変えると、歌い手が混乱してしまうわけです。
逆に、指揮そのものが十分明瞭であれば、振り方が変わったとしても歌い手は付いてくることが出来ます。どの程度なら明瞭か、というのは感じ方が人それぞれでしょうが、指揮が明瞭でないほど、振る度に違う指揮は罪が深いということは確かでしょう。

とは言え、音楽は生モノです。歌うメンバーや場所、時間や天気によってさえ、音楽は変わる可能性があります。そういったライブ感は、演奏者側にもその時にしか出来ないノリを生じさせます。
それを否定してしまうと、音楽そのものが硬直し、柔軟性を欠いたものになります。
であれば、テンポ感やフェルマータの長さ、フレーズのため具合等の指示が、振る度に変わっても良いのではないでしょうか。
もちろん、そういったその場でしか出来ないノリを楽しむことは、その場のノリで適当にやっても問題無いという免罪符であってはならないわけで、そのためには、指揮者も歌い手もそれ相応の技倆が必要です。
振る度に違う、ということを肯定しながらも、他人が付いてこれなければ意味がない、ということを肝に銘じて指揮をしようと思います。

2009年10月17日土曜日

MacBookPro購入

私も妻もそれぞれの部屋でパソコンを使っていると、部屋に籠らざるをえません。
ところが乳児の世話をしていると、居間に貼り付くことになり、パソコンも触れずフラストレーションが溜まっていました。
そんなわけで、居間に一台ノートパソコンが欲しいなあと思っていたのですが、善は急げとばかりMacBookProを買ってしまいました。用途はネットを見るくらいなので、13inchの一番安いやつです。今も新しいMacBookでブログを書いています。
このパソコンは私も妻も使うので、アカウントを二つ作成。妻はメールまでMacに移行させて、このパソコンをメインにさせるつもり。これで、二人とも晴れてMac党になるはず。

パソコンも平均すれば2、3年に一度は買っているので、一般的に見ればパソコンへの金の掛け方は多い方かもしれません。しかし私は作曲でガンガン使ってますし、今では文書作成だけでなく、写真管理も、ビデオ編集も、CD作りも、趣味のソフト開発も行っています。もはや私はパソコン無しでは生きてはいけない身体になってしまいました。
パソコンだけでなく、無線LANはもちろん、バックアップ用のHD(TimeMachineを利用)などパソコン周辺の整備にもいろいろと出費していますが、自分の生活の必要経費としてきちんとお金を掛けるべきだと思っています。

まずは子供をあやしながら、ネットも見れて超便利です〜。

2009年10月12日月曜日

我流、指揮法 ─ 制御する感じ

あまり、日々の出来事を書かないブログですが、たまにはネタ振りのために書いてみましょう。
昨日、静岡県の国民文化祭の練習が伊豆でありました。松下耕氏への委嘱作品を、県内の寄せ集め合唱団でオケ版で初演する予定ですが、昨日は初めてのオケ合わせの練習。
残念ながら昨日はテンポ合わせに終始する結果に。指導する松下耕さんもやや苛立っているように感じました。何とか、本番までにはうまく合うようになればいいのですが・・・

上記の合唱団は全体的に年配の方が多く、しかも合同練習の回数が少ないので、必ずしも音楽的な機動性が高くはありません。このような合唱団での練習は往々にして数をこなして、頭に叩き込むという練習になりがちです。
昨日の練習においては、本番の指揮者&オーケストラ伴奏で、日頃聞き慣れない音響と、テンポ感についていけなかったというのが真相でしょう。
ですから、本質的にこの問題は、演奏者の現場での柔軟性が問われているわけです。そしてそういった柔軟性とは、反復練習で頭に叩き込むやり方と一線を画すものでもあります。

演奏者が指揮に追従できる柔軟性を持つにはどうしたら良いでしょう?
指導者は反復練習で歌えるようになる、ということに甘えてはいけないと思います。常に、指揮者が団の音楽全体を掌握し、歌い手が指揮を見ずにはいられない状況を作らねばなりません。
演奏者が指揮者を見ないのは、見るに値しない指揮をしているからかもしれません。
指揮が常に音楽全体を掌握し、制御している感じを醸し出さないと、演奏者は指揮者を単にキュー出し係としか思わなくなるでしょう。

そのためには、テンポ感はもちもろんのこと、各パートの出だし指示、フェルマータの入りと切り、リタルダンドの分割、パウゼを止める時間、こういったもの全体に細やかな配慮と、決然とした明瞭な指示が必要です。
細かい指示が不明瞭だと、いつか演奏者は指揮者を見なくなります。
指導に関わったものとして自戒の念も込めつつ、昨日はそんなことを感じていました・・・

2009年10月11日日曜日

我流、指揮法 ─ 右手と左手

右手と左手をどう使い分けるか、について。
一般には右手で拍をきざみ、左手で表情を付けて、などと言われたりしますが、もちろんそうでなければいけないなんてわけがありません。結局ここでも、決まった方法など何もないわけです。
とはいえ、いつでも両手が左右対称に動いているのは、あまり効率的な指示とは言えないでしょう。

一つの曲にはいくつかの転換点があるはずです。
曲調が変わったり、テンポが変わったり、調が変わったりするようなタイミングです。
音楽的に大きな変化があったのなら、そこは大きな形を作って指示する必要があります。そういう意味で、両手がフル活動するタイミングはまさに、音楽の転換点にあると私は思っています。
rit.するとき、フェルマータから次のフレーズの出だしを指示するとき、暗い曲調から明るい曲調に転換するとき、この変化のときを両手で大きく示してあげるのです。
逆にそれ以外の箇所、つまりテンポも音量も表情も安定している状態では、右手で拍を打つ程度にしてあげたほうが良いと思います。

本来、指揮は必要最小限であるべき、というのが私の理想です。
ですから「振りすぎ」には、いつも注意すべきだと心がけているのですが、ついつい気持ちが入ると私も大きく身体が動いてしまいます。
しかし、安定した箇所で振りが大きくなれば、変化の指示にとっておくべき大きな指揮表現が効果的でなくなってしまいます。ですから、どんなにアップテンポでもフォルテシモでも、音楽が安定している状況ではなるべく振りを大きくしないようにしたいものです。
そもそも表現過多な指揮者というのは、私はあまり好みではないのです。まあ一般には、汗を飛び散らせながら、指揮台の上で飛び跳ねたりする熱い指揮ぶりが礼賛される傾向にありますけれど。

2009年10月8日木曜日

我流、指揮法

指揮というのはセオリーがあるようでいて、方法論はあまり明文化されていません。逆に教科書的なやり方では現場での柔軟な対応が出来ない、とても厄介な技術です。指揮の説得力にはどうしても人格的な要素が入り込んでしまい、それが純粋な技術論を見えにくくしている原因であるようにも思えます。
とはいえ、棒のテクニックだけでもより明瞭な指示は出来るはずです。私が意識していることなど、ちょっと書いてみましょう。

まずはテンポによる図形の描き方の違い。
斎藤メソドによる用語を使うと、テンポが遅い順に
 平均運動→しゃくい→たたき→直接運動
というような図形を描きます。
平均運動とは、例えば三拍子なら、三角形をゆっくり等速運動で描きます。打点(拍の頭の音が出る位置)は三角形の頂点ではなく、辺の中間あたりにある感じです。これで緊張感のあるレガートを拍を分割せずに表現できます。
しゃくいとは、振り子の運動のような動き。打点は一番速度が速いところになります。平均運動よりテンポが速くなり、ゆったりした中庸のテンポに利用できる最も一般的な振り方と言えるでしょう。
たたきは文字通り、叩いたときの運動です。しゃくいの振り子運動が鋭角的になった感じ。当然打点は叩いて跳ね返った点になります。快活なテンポを表現するのに向いています。
直接運動は、例えば三拍子なら、各頂点を瞬間的に移動させ、頂点で棒を止めるような振り方。棒が動き終えた瞬間が打点です。テンポが非常に速く、一定であるときに使います。

中庸なテンポなら誰でも振りやすいのですが、テンポが遅いとき、及び速いときは、指揮の技術が試されます。
テンポが遅いとき、棒が止まってしまうと次の打点が予測できずに歌いづらくなります。従って、平均運動でなるべく棒が止まらないようにする必要があります。
また、テンポが速いとき、たたきだと非常に動きが多くなり、せわしない感じになります。これもテンポが明瞭でない原因になりますが、直接運動だと、コンパクトに明瞭なテンポを示すことが可能になるのです。

2009年10月2日金曜日

オカルトが生まれる背景ー進化論

今年はダーウィン生誕200年、「種の起源」発表から150年というダーウィンイヤーだというのはご存じでしょうか。
それに合わせたのか、ダーウィンの生涯を描いた「クリエーション」という映画が作られたのですが、これがアメリカでは上映されないことになったのが話題になっています。

知っている人もいるかと思いますが、アメリカでは未だに進化論を信じない人が国民の半分ほどいるのです。恐らく、アメリカのキリスト教徒は世界の中でもかなり保守的で、未だにキリスト教原理主義的な考えが根強く残っています。
そもそもダーウィンが「進化論」を発表するのをためらっていたのは、その内容がキリスト教の教えを否定しかねず、いわば現代のガリレオになることを恐れていたためです。
しかし、150年たった今でさえ、アメリカでは神が人間を創造したと聖書に書いてあるが故に、進化論を信じない人がいるのです。
そのためか、アメリカの多くの学校で進化論は教えられてはいませんし、教えられても学説の一つとして扱われている程度なのだそうです。映画配給会社もそのような状況の中で、上映はしないほうがよいと判断したのでしょう。

宗教が絡むのでやや繊細な話題ですが、これ、かなりのオカルトだと思いませんか。
そもそもオカルトが生まれる背景には、キリスト教という非常に明確な理由があります。例えば、仏教徒が全く同じ理由で進化論を否定しない限り、彼らの主張は科学的に、あるいは論理的にどうみたっておかしいのです。
もちろん、進化論自体、私たちが日々体験する自然現象からは想像しづらい理論ではあるのですが、今や生物科学の最前線でこれを否定することは不可能なくらい常識になっていると私は思っています。

先日初演した拙作「生命の進化の物語」も、生命の進化の不思議さ、面白さをテキストとして扱った合唱曲です。ちょっと宣伝になりますが、近いうちにこの楽譜を出版する予定ですので、是非お買い求め頂ければと思います。
しかし、この楽譜もアメリカでは発禁処分になってしまうのでしょうか。(どう見ても余計な心配^^;)