2011年12月29日木曜日

今年とTwitterと私

去年の今頃、Twitterについてこんなことを書いてました。
今年は社会的にいろいろなことがあったけれど、不思議なほど今の私は当時の心持ちとあまり変わっていません。

実際のところ、今年一年も去年と同様にTwitterを楽しみました。何か新しい展開があったわけでもないし、事件があったわけでもありません。多くの論客の意見に触れ、昨年同様いろいろ刺激を受けてきました。
フォローの仕方も去年から大差なく、フォロー返しなどもせずに、淡々と好きな人だけをフォローするというやり方。Twitterで合唱関係者と交錯することも何回かありましたっけ。

ただ、世の中の進み方に対するあせりのせいなのか、ネットサービスにいろいろ手を出したりした割には、あまり実りは無かった感じがします。
ネットの世界が現実を変えつつあるとはいえ、ものすごく早く進んでいることと、思ったより進んでいないことがあり,もう少しその辺りを見極めていくことが当面は重要となってくるでしょう。

私が思ったより進んでいないと思うことは、働き方の問題です。
ネット環境の進化で、いろいろな人が繋がりやすくなったのは確かですし、どこにいても仕事はできるようになってきています。しかしそれが、在宅勤務とか、組織を離れ個人で活躍できる人が増える、とかいった現象にはまだ結びついていません。
日本的な組織ではそれは厳しいのかもしれません。むしろ海外のほうがそういう環境がどんどん進化していくような気がします。
そういう状況の中で、私自身組織内で行なう仕事についてあまり邪険にするものじゃないよな、とちょっと思い直しているところです。

もう一つ、Twitterというのは本当に人格を丸裸にすると感じます。
Twitterは書きたくなければ書かなきゃいいのです。ところが、書かなければいないことと同じ。他人のつぶやきを読んでいると自分も何か書きたくなるし、何かを書けばそれを読んでもらいたいと思うものです。
しかし、書けば書くほど自分の世の中へのスタンスがどんどん明らかになるし、言葉遣いや表現方法でその人の品性まで知れてしまいます。これって、冷静に考えると怖いですね。
実際に長い間の知り合いでも、こんな人だったなんて知らなかった・・・なんてことはあります。
そうやって、知性、信条、人格、品性が丸裸になる社会・・・。でも、私は嫌いじゃないです。

2011年12月25日日曜日

子供の想像力・創造力

まだ3歳にもならないウチの子ですが、少しずつ言葉を話すようになってきました。
さすがに自分には3歳の頃の記憶はないけれど(というか、学生の頃の記憶さえないけれど・・・)、周りのオモチャで遊びながら、ブツブツ言っているのを見ると、自分もそんなころの感覚を思い出したような気になってきます。

遊んでいる本人は、ちゃんとオモチャが偽物だと分かっているけれど、手元にあるモノを何かに見立てて、頭の中で想像しながら一人で会話したり、それを動かして模擬的な行動をさせたり。そうやって何かになりきることが大好きです。というか、自分が小さい頃もそういうことは好きだったし、うちの子も好きそうに見えます。

おもちゃを手にして何かを想像しながら遊ぶことは、恐らく子供の成長の過程で何らかの必要な行程なのでしょう。
いつかはそういう遊びを卒業して青春時代に入っていくのでしょうが、このように子供がオモチャを使って何かになりきって遊ぶことは、何かを創造することに繋がる感覚を覚えます。
ブロックを使って何かに見立ててものを組み立ててみたり、クレヨンで何かを書いてみたり、お人形で会話を楽しんだり・・・。これって、何か芸術的なオブジェを作ったり、絵を描いたり、小説を書いたりするようなクリエータとベクトルが全く同じに思えるわけです。

つまり、人間は生まれながらにして創造したい欲求を持っているクリエーターなのではないか、という推論が成り立ちます。
ということは、人は成長するに従って、だんだんとクリエーターで無くなっていくのではないでしょうか。
よく芸術家を評して「子供がそのまま大きくなったような」とか「子供のような感性を持った」などと言うことがありますが、それは一般的な真理としてあながち間違っていないのかもしれません。つまり、芸術家というのは、成長の過程で子供の頃に持っていたクリエイティビティを失わなかった人たちだということができると思います。

誰だってクリエイティブな人間になりたいと思うことでしょう。
それに今の世の中、いろいろなジャンルでクリエイティブな人材が必要とされています。
では、なぜ人は成長するに従ってクリエイティブで無くなっていくのか? それが重要な命題になります。

私見ですが、クリエイティビティを失わさせる原因は、どれだけ厳しくしつけをしたかにかかっている気もします。しつけそのものは、社会性を身につけるために必要なものです。しかし、それは幼児が感じた気持ちを抑え込んで、常識的な対応をするように強制することでもあります。
子供は大きくなるに従い、たくさんの規制を覚えていきます。もちろん人として生きていく以上、他人に迷惑をかけるわけにもいかないし、常識を逸脱して後ろ指をさされるのも良くはないことです。
しかし、そのように積み上げられた規制が一つ一つ、子供の創造性を失わせるのではないか、私にはそんな気がするのです。

まあ親としてはクリエイティビティを失わさせないために、しつけをしない、というわけにもいかないのですが、不用意にみんながやっているからといって行動に規制をかけるような言い方は慎みたい・・・とは思っています。

2011年12月21日水曜日

音楽の形式─形式論が嫌いな理由

重要だろうとは思っていても、音楽形式を論じたりするのに興味を持つ人は少なそうです。
音大出てたって、交響曲のソナタ形式を理解してない人は結構多いのではないでしょうか(言い過ぎですか?)。

もちろん曲を書く側からすれば、自分が考えたことに理解を示して欲しいわけですが、一方で一般の音楽愛好家が形式論に興味が持てない理由を考えてみても面白いかもしれません。
思い付くものを挙げてみましょうか。

●一度に把握できない。
音楽は時間芸術ですから、全曲聞くには時間がかかります。
全曲聞かないと形式は分かりませんが、それだけの集中力を保つのは、実際のところなかなか難しいものです。パッと見て把握できればいいのでしょうが、音楽の場合そういうわけにはいきません。

●興味がメロディなど局所的な美しさに向かってしまう。
まあ、これが第一なのでしょう。
ある曲が好き、といった場合、普通はメロディが好きとか、この部分の和音が好きとか、そういう聞き方をしますよね。

●本来、形式とは予定調和なもの。
例えば、J-POPなら、1番があって2番があって、サビが繰り返されて終わる、みたいな形式が一般的です。逆に複雑な構成だと、聴く側は戸惑いを感じます。
そういう意味ではポップスの世界は、予定調和な形式がある程度確立しています。
クラシック音楽も、バロックや古典初期くらいは、比較的予定調和な形式が多かったのではないでしょうか。それは貴族のサロンで気軽に聞くような用途が多かったからでしょう。
音楽が「芸術」となって、予定調和な形式から解放された途端に、聴衆は耳慣れない複雑さを感じてしまうのです。

●何しろ教科書的なのが嫌い。
いろいろなパターンを類型化し、それに名前を付けてしまうと、お固い教科書的な雰囲気になってしまいます。そうは言っても、ある形式に名前を付けないことに会話も成り立ちません。
これは学業の何にでも言えることでしょうが、本来実技が中心の音楽の世界で暗記しなければいけないことというのはどうしても疎まれてしまうのかもしれません。

●音楽の抽象性がもたらす解釈の多様性。
まあ、ありていに言えば、作る側が考えたように聴く側が理解してくれてはいないということ。
それでも、どのような理由であっても、ある曲を好きになってくれるという事実だけは嘘ではないのです。そもそも、音楽の感じ方に正解はありません。それこそが、音楽の面白さの一つであるとも言えるのです。

そんなわけで、自分で書いていて、分かる人だけ分かればいいや、というような気分にだんだんなってきました。


2011年12月18日日曜日

音楽の形式─合唱曲の場合

前々回、形式の大ざっぱな分類をしてみました。あくまで一般論のつもりでしたが、これを合唱曲に限ってみたらどうなるのでしょう。

そもそも音楽は、基本が歌だったのではないかと私は思っています。
人間が歌い始めたのは、恐らくまだ人間が人間でなかった頃からです。しかし、器楽に関していえば、打楽器をのぞけば、たかだか数千年程度の歴史しか無いと思われます。
何を言いたいかというと、音楽が複雑な構築性をまとうようになったのは、器楽の発達と無関係では無いと思うからです。人の声で直接言葉や感情を伝えられない器楽では、音響やメロディ、曲の構成などで芸術的な魅力を出すほうに労力が割かれるようになると私には思えます。

逆に言えば、歌のある音楽には、それほど厳格な構造を希求する理由があまりありません。
従ってたいていの場合、合唱曲は感じるがまま作曲されるのが一般的だと感じます。
また、歌詞があるということは、そのテキストが文章としての何らかの構造を持っており、音楽がその構造に従属されやすいという側面があります。
もし、音楽的構造とテキストの構造を一致させようとするなら相当綿密な設計を作曲前に行う必要があるのでしょうが、少なくとも私の経験ではそのような設計はうまくいきません。作り始めると、メロディや和声が別の力学を主張し始めてしまうからです。

このような場合、おそらく多くの作曲家が取る方法は、前回書いた「主題繰り返し型」です。
具体的な作曲時の感覚は前回書いたので繰り返しませんが、有節歌曲形式ではない歌曲や声楽曲がこのような形式になりやすいのは非常に必然的だし、また自然な選択とも思えます。

実際に合唱曲で主題を繰り返す場合、以下の二つの場合があります。
一つはテキストそのものも繰り返してしまう方法。あるいは、テキストが持つ繰り返しの構造を利用する方法。歌詞とメロディが一致し、繰り返し感が明瞭に現れるので、聴く側にも非常に分かり易い構造性の明示が可能です。
しかし歌詞に繰り返しがある場合はいいのですが、作曲家が自ら詩の構造を変えてしまう場合、ちょっと注意が必要です。冒頭の詩を後ろにまるまる持ってくることにより歌詞の構造を台無しにしてしまうかもしれません。これは、作曲家の歌詞を読むセンスが問われる作業です。

もう一つは、メロディは繰り返されても、あてられた歌詞は変えるという方法。
これ、日本語は言葉のイントネーションの問題があり、かなりきついですね。メロディにイントネーションの違和感があると、日本人は非常に敏感に察知してしまいます。
もう一つは意味の問題もあります。同じメロディを繰り返すなら、テキストも同じ気持ちのものをあてたいところです。もし、テキストの意味する内容が関連が無かったり、逆のことであったりする部分に同じメロディを与えてしまうと、これはまた作曲家の歌詞を読むセンスが疑われてしまいます。

詩に曲を与えるとき、作曲家自らの詩の解釈は不可欠です。そして、演奏家は詩の意味だけでなく、作曲家がそのテキストにどのような解釈をもたらしたか、までを意識しないと、それを生かした演奏が出来ないのではないでしょうか。

2011年12月14日水曜日

音楽の形式─主題繰り返し型

前回類型したパターンのうち、3番目の「主題繰り返し型」は、特に明瞭な構造性を指向しない芸術作品において、最も扱い易いものではないかと思っています。

例えば、ある合唱曲を作曲するとします。
詩の冒頭の言葉で、ある印象的なメロディを思い付きます。そして、そのメロディを元に作曲を開始します。
ある程度の節が終わったところで、少し楽想を発展させたり、ちょっと曲調を変えたりします。それが一通り終わると、曲をエンディングに向かってしめなければいけません。
最もシンプルに曲をしめる方法は、というかそれ以外ほとんど思い付かないのですが、冒頭のメロディを使うことです。
もうこれは誰にでも思い付くというか、もうそうでもしないと収まりが悪い感じがしてしまいます。
「主題繰り返し型」というのは、そういう意味で普遍的だし、その感覚は作る立場になった人なら誰でも共感してくれるものと思います。

それでも、作曲家によってはもうひとひねりしたいという人もいるでしょう。
その場合、二回目に現れる主題は、一回目と全く同じにせず、伴奏を変えたり音量を変えたりするようなバリエーションが出てきます。
しかし、本来収まりが悪いから同じものを繰り返しているのに、二回目の主題の雰囲気が変わってしまうと、結局収まりの悪さを解消出来ない可能性が出てきます。この「収まり」の悪さは、もはや創作家の審美眼によるしか無いのですが、それでも客観的に見てそのセンスの無さを感じる楽曲は正直存在します。

演奏家として、ある曲に取り組む場合、まさにこういう構造性を感じるセンスが必要になるわけです。
あまりに「収まり」の良すぎる主題繰り返しの場合、演奏で冒険してあげる場合もあるし、逆に複雑すぎて主題の繰り返しが不明瞭な場合、何としてでも主題が繰り返されたことを強調してあげる必要があるでしょう。
もちろん演奏家は自分のやりたい曲をやればいいのだけど、その曲に構造的な弱点があるのであれば、それを補正し、構造性を増強するのも演奏家の仕事になってくるのです。

2011年12月10日土曜日

音楽の形式

音楽形式などというと、教科書的で堅苦しい感じがあります。
でも、そんなにアカデミックなアプローチをするまでもなく、どんな音楽にも構造が必要であり、そのために何らかの形式は持たざるを得ないのです。
音楽好きの間でさえ、実際のところ、音楽形式について興味を持つ人は多くありません。普通はどうしてもメロディがきれいとか、音色が気持ちいいとか、和音の展開が良いとか、その瞬間の音楽の善し悪しに注目してしまうものです。
しかし、思っている以上に楽曲形式は聴く人に大きな影響を与えていると思います。音楽の作り手が巧妙に形式を使って仕掛けているからこそ、その音楽の魅力が高まっているという側面もあるのです。

「音楽の形式」とは、ものすごく単純に言ってしまえば、メロディの繰り返しがどう作られているか、ということです。
音楽が始まってから終わるまで、全く一つとして同じメロディが現れない、ということは通常考えられません。どんな音楽でも、1曲内に同じメロディを持った箇所があるはずです。そうでないと、一度聴いてもメロディを覚えるのが困難になり、非常に聴きづらいという印象を与えるはずです。
楽曲分析というと、ミクロで局部的な方向に行きがちですが、ある音楽の魅力を調べるには、その音楽の楽曲構造も調べるべきです。それによってある主題がどのように繰り返されているか理解するようになり、それがその楽曲の魅力の一つに見えてくるのです。

繰り返しに注目して構造を解析していくと、音楽の流れに物語が生まれます。その物語の流れを作るということも重要な創作の一部です。そこで、音楽の教科書的な形式の話から離れて、私なりに曲の構造をパターン化してみました。
・「反復型」
小さな固まりが何度も繰り返される構造です。
いわゆる有節歌曲的な構造。これは通常、歌のある音楽に使われ、物語は音楽よりも歌詞のほうに委ねられます。繰り返しというからは、最低2回は必要ですが、近年のポップスはほとんど2回ですね。

・「変化する反復型」
小さな固まりが繰り返されるのですが、繰り返される度に変形が加えられます。
一般的には変奏曲形式ということになるのでしょう。同じものが変形していく様は、何かしらの成長や、あるものの歴史とか、そういう物語を付与することが可能です。

・「主題繰り返し型」
ロンド形式とか書いたほうが分かり易いのでしょうが、教科書的な言葉を使うと何やら厳格なイメージがしてしまいます。
これはある特定の主題が、思い出したように何回か現れるようなパターンです。
明確な形式感が無ければ、ほとんどの芸術作品はこんな感じの構成に分類されるでしょう。これが一般的なのは、ある程度曲の規模感を出しつつ、その曲の統一感を保つことが出来るからでしょう。
主題が出てくる度に聴衆はほっとするわけですから、この主題に何らかの意味を付加することによって、曲が物語性を帯びてきます。

・「複数の主題繰り返し型」
繰り返される主題が複数あると、曲の構造はとたんに規律を重んじるようになっていきます。
一番良い例はソナタ形式でしょう。ソナタ形式では、曲全体が提示部、展開部、再現部となっており、各所に二つの主題が配置されます。再現部の第二主題の調性が主調になるとか、古典の世界ではそれなりにルールがあります。
このような音楽の場合、曲の構造自体が作曲者の大きな関心となり、そこに積極的な意味が込められるようになっていきます。行き当たりばったりでは複数主題を扱う音楽を作曲するのは難しくなるからです。

繰り返しがどのように構成されているか、こういう観点で楽曲を眺めるといろいろ重要な発見があるはずです。

2011年12月7日水曜日

矢野顕子×上原ひろみ Get Together -Live in Tokyo-

上原ひろみファンとしては見逃せません、このアルバム。
矢野顕子も聴き始めたのは90年代からですが、個人的にはデビューから80年代くらいのちょっと前衛っぽい音楽が好き。この人も結構、変拍子好きなんですね。

そんな二人がピアノデュオ+矢野顕子のボーカルというシンプルな編成で行ったライブの様子を納めたのがこのCD。
何と言ってもジャンルが全く括れない、不思議な音楽空間が私にはとても気持ち良かったのです。
ジャズっぽい部分もあるし、ポップス風の部分もあるし、現代音楽風だったり、民謡風だったり、それでいて二人のあまりに個性的な女性は、全体を通して何とも形容しがたい統一感を作り出しています。
このバリエーションにまず圧倒されました。

��曲目の「あんたがたアフロ」というふざけたタイトルの曲。この前衛っぽさがたまらない。ラヴェルとプロコフィエフをジャズ風味に混ぜ合わせ、そこに自由すぎる矢野顕子のボーカルが入ると、もうどこにも無い音楽世界が出来上がります。
��曲目の「りんご祭り」も面白いですね〜。こてこてのジャズ風に始まりながら、その雰囲気を持ちながら、昭和歌謡の代表とも言える「リンゴの唄」になだれ込みます。昭和的なバタ臭さを漂わせつつも、下降音形の洗練されたコードプログレッションが同居する面白さ。
終曲の「ラーメン食べたい」は矢野顕子の往年の名曲。これも原曲からは跡形もないほど切り刻まれ、新しい魅力が付与されています。

全体的には、上原ひろみとのバランスを保つため、決してボーカルが歌う箇所は多くありません。
その分、きちんとピアノの超速弾きなどのヴィルトゥオーソを楽しませてくれます。
ただ、バックミュージックとして流すには本当にもったいなくて、ライブの雰囲気を一緒に味わいたければ、ヘッドフォンステレオで聴いたほうがいいかも。ピアノの定位感がはっきりしてきて、二人の掛け合いしている様子も味わえます。

二人が出るテレビ番組では、二人がラーメン食べ歩き、みたいなシーンばかりですが、もう少しテレビならではの視点で音楽を流して欲しいものですね。

2011年12月3日土曜日

久し振りにiPhoneアプリをバージョンアップ

iPhoneをお使いの方はご存知のことと思いますが、10月にiPhone4Sがリリースされ、その後iOSのバージョンが5にアップしました。
iCloudへの対応もあったので、喜んでバージョンアップしたわけですが、ある日ふと自分の作ったアプリを使おうとすると、音が全然出なかったり、立ち上がらなかったりすることが判明。
一度はアプリ開発にはまっていたのですが、ここ1年くらいずっとアプリ開発から離れていたので、すぐに治せそうも無い気がして、この不具合にちょっとショック。

しかし、Appleは結構大胆なのです。
ユーザーの見えるところでは、例えばCPUをPowerPCからIntelに変えたり、OS二世代くらいでそのサポートも止めてしまったり。
同様に、プログラム開発していない人には気がつかれないところで、微妙にOSの振る舞いが変わったりします。それによって、突然動かないアプリが出てきたりするわけです。互換はある程度考えはするけれど、正しい方向に向かうためには、過去を比較的簡単に捨ててしまう潔さがAppleにはあります。

ただし、今回の音が出ない不具合については、実はきちんとマニュアルさえ読んでその通りに実装していれば、iOS5でも問題が起きなかった可能性はあります。事実、私が持っている多くの楽器アプリは、バージョンアップ無しで正常に動いていますし。
私のようにお仕事でなく、ちょこちょこと作ってリリースしちゃう趣味層は、割とネットとかで転がっているプログラムをそのまま貼付けて、よーし動いた、とかやっちゃってるんで、まあそれがいけないことでもあるのですけど。

そんなわけでとりあえず、MovableDo が無事バージョンアップしました。
残念ながら機能アップはありません。とりあえず音が鳴るようにしただけです。後は、指を五線上でスライドさせた時の挙動がちょっと変わります。改悪に近いのですが、これもiOSの動作が変わったため仕方なく変更しました。
それから、有料の Meantone もバージョンアップしました。
こちらは、有料なので音が鳴るようになった、というだけでは申し訳ないので、新しい音律を追加することにしました。キルンベルガーの音律を、何と3種類も追加です。とはいえ、マニアックなネタなので、どこまで喜んでもらえるか分かりませんが。

あと、同様の症状になっている TransposeMusicJustIntonation なども順次修正していくつもりですので、もう少々お待ち下さい。
また、これを機に、まだ触ったことの無い方は、拙作のiPhoneアプリを使ってみませんか。


2011年11月30日水曜日

大阪維新があぶり出す日本の心

あまり政治的な主張をする気は無いのですが、先日の大阪府知事・市長選のダブル選挙っていろいろな観点で興味深いイベントだったなあと感じました。
私自身は大阪都構想の是非については、特に賛否はっきりしているわけではありません。二重行政が良くないのは当たり前のこと。これを改善する手法として何が良いやり方なのかは、それなりの知見が無ければ意見が言えるものではありません。

むしろ、この選挙の本質は政策では無いところにあるような気がするわけです。
大衆はヒーローを求めます。悪者をまつりあげ、それをバッサバッサと批判していくさまは全く快感で、自分の日常の不満を代弁してくれるその存在が頼もしくてなりません。
その一方、自分の考えをぶち上げ、それを成就させるために手段を選ばないような強権的な手法に、漠然とした不安を持つ気持ちもあります。
自分がどちらの立場にいるかでその印象も180度変わってしまいますが、仮に叩かれる側にいなかったとしても、世の中を動かす世代にとっては、このような批判をてこにのし上がって来る傍若無人な若者にはたいてい嫌悪感を示すことが多い。
橋下氏があぶり出すのは、そういった私たち一人一人の生き方・考え方の基本的なスタンスです。実際、選挙後思うのは、私の周りの多くの人は、橋下氏に対してあまり好感を持っていない、ということです。

先に私の気持ちを言ってしまえば、基本的に今回の選挙結果については肯定的です。
さらに言えば、橋下氏に嫌悪感を抱く感覚に、不満を感じます。そう思っている人に直接は言えませんが、反橋下的な人々は、基本的に革新を嫌い権威を好む傾向を感じてしまいます。それはものごとを進める際にいつも足を引っ張るような考え方です。

特に良く言われる「独裁」という言葉には非常に抵抗を感じます。
民主的な手続きで選ばれた人が自分の意志で政治を行うことは全く当たり前のことで、恐らく日本人から見れば、アメリカもイギリスもフランスも独裁に近い状態ですが、それらの国の人々が為政者を「独裁者」などと批判するなど聞いたことがありません。
そこに日本人の感性を見る思いがします。
我々は全ての意思決定を特定の個人に委ねることを、極端に嫌がる傾向がある気がします。だから、権限が集中するそういう個人を排除しようとします。
ところがその一方、個人が中心にいる集団がある一線を越えてしまうと、特定の個人が神様に近くなり、まるで新興宗教のように個人をあがめ奉るような状況も起こり易いと感じます。
独裁か神様か、私たちは見事に支配者を単純化してしまいます。個々人が自律的に判断したいと思う意思を持っていれば、恐らくこんなことにはならないでしょう。

我々はそういう心象を知っているからなのか、それが例えば戦争に向かうような本当の独裁になってしまうかも、という恐怖を感じるのかもしれません。
しかし、そのために意思決定力が無いトップがあちらこちらで間抜けな事態を引き起こしている現状を考えると、有能な人を一人選んで、その人に自分たちの未来を預けることを我々はもっと肯定していかなければいけないと私は思います。その上で、その個人が暴走したときに止める仕組みさえ持っていれば良いのです。
今は、みんながトップの足を引っ張る仕組みしか無いように思えます。
私は今の政治家の質が低いとはあまり思っていません。みんなが思うような理想の政治家などこの世の中にはいないのです。
誰もが権力を握りたい欲望を持っていて、その欲望はまず現権力を否定しようとします。我々はそのための仕組みを持ち過ぎているのではないか、そんな気がするのです。

残念ながらそのような日本の仕組みを変えていくためには、今はとんでもないパワーを持った個人が必要だと私は思います。いつか、健全な政治が実現するために、今はそういったパワーを期待してしまうのです。
でも、こういうのもヒーローを求める大衆心理と変わらないと言われちゃうんだろうなあ・・・


2011年11月27日日曜日

楽譜を読む─テンポを微分してみる

前回、テンポを微分するなどという話を書きました。
そんなこと言われたって、何をしたらいいか分からない、あるいは何を意図しているか分からない、という方もいるでしょう。
ですので、今回は具体例で、私が考えるテンポの微分について紹介してみます。
難しくない話のつもりなので、ぜひ読み飛ばさないで、数字まで読んでみてください。


<テンポの例>
Bibun


ということで、まず楽譜からテンポ情報だけ抜き出してみましょう。
ある架空の楽譜から抜き出したことを想定して、上のような表を作ってみました。上の段が小節番号で、次の段にテンポの値が書いてあります。
微分する、ということは端的に言えば、前のテンポと新しいテンポの差を計算するということです。
その考えに基づき、テンポの変わり目でどれだけテンポが変わったかを示したのが3段目です。

テンポが速くなったときには正の数になります。テンポが遅くなったときには負の数になります。
変化の大きさが大きい時は、絶対値が大きくなります。
そして、実際音楽の演奏で重要なことは、まさに上の2点であると思うのです。すなわち、1.速くなるか遅くなるか、2.前からどれだけ変わるか、ということです。
テンポ値を微分することによって、この重要な値がきちんと抽出出来ることに気がつくはずです。

私の感覚で言えば、テンポの変化が10以内くらいであれば、物理的な数値の変化というより、ほとんど表現の変化の問題です。しかし差が20を超えるようになると音楽が持っている景色が変わります。
従って、このような大きなテンポの変化は、演奏者が明瞭な目標をもってその景色を変えてやらなければいけないということになります。

微分する前の絶対値は、合唱団の人数や、ホールの響き、指揮者の曲のイメージによって多少変化するのは当然です。しかし、作曲家が本当に伝えたいことは、むしろフレーズ間のテンポ相互関係なのです。ここをきっちり読み取っていかないと、作曲家の意図から離れた演奏になってしまいます。

2011年11月24日木曜日

楽譜を読む─テンポの数値について

数値を理解したり、扱ったりするには、やはりそれなりのセンスが必要です。
最近では、原発事故のために、シーベルトという単位があまりに身近になってしまいました。いろいろ報道を見る限り、この単位の数値評価のポイントは、ミリなのか、マイクロなのか、毎時なのか、年間なのかという点です。数百マイクロシーベルトという数値も毎時と年間では桁が四つ近く違ってしまうわけですから。

関係ない話で始めてしまいましたが、音楽にも数値を扱うセンスが要求されます。
楽譜内で使われる数値で特に厳格なものに思えるものは、テンポと音価です。テンポと音価以外では、音量も数値的ではないし、小節番号はただの序数だし、あまり思い付きません。

テンポの数値の扱いについて考える際、そもそもテンポを数値で書くことの危うさ、を認識しなければいけません。コンピュータで曲のテンポを制御しない限り、生音楽のテンポは常に変わり得ます。同じ曲を同じ人が演奏しても、演奏する場所によってテンポは変わります。ましてや、演奏者が違えばテンポはすべて変わります。
それなのに、なぜテンポは数値で書いてあるのでしょう。
もちろん、AllegroとかLentoとか、数値を直接書かずに昔ながらのイタリア語表記で、ある程度イメージ的に記譜する人もいますが、それでも演奏者とすれば四分音符がだいたいどれくらい、といった指標は欲しいものです。

残念ながら「だいたいこのくらい」という感覚を音楽的に上手に表現する方法は、誰も標準化してくれませんでした。むしろ、数百年前メトロノーム表記が出来たときに、多くの人は喜んでそれに従ったものと思います。これほど明確にテンポを伝える方法がそれまでなかったからです。
しかし、便利さは新しい悩みを常にもたらします。作曲家が記譜したテンポの数値をどれくらい厳格に守るべきなのか、という演奏家の新しい苦しみを生むことになってしまいました。

それでも私は、曲のテンポの数値を分析すれば、作曲家の気持ちを汲むことは可能だと考えます。
例えば、ある曲の作曲家のテンポの数値に込めた思いを調べるとしましょう。
まずその曲全体で使われているテンポの数値を全部書き出します。合唱曲では、それほど長い曲でない限り、せいぜい4つとか5つとかくらいではないかと思います。
そして、書き出した数値の相互関係を見てみます。
例えば、セクションAのテンポが72で、その後のセクションBのテンポが112だったら、曲はセクションBになったとき急に速くなります。ところがその数値が、72から80くらいの変化だと、速くなり方が微妙です。
こういう場合、テンポを速めるというよりは、曲の雰囲気が快活になる程度の感覚を持ったほうが、正しいように思えます。

時系列に数値を並べ、その数値の相互関係を見るという行為は、数学的に言えば微分する、ということです。
今や、株の取引も高度な微分解析をする時代です。連続した数値の変化には、常に微分的な発想が必要になります。私たちを取り巻くいろいろな数値も微分すると、いろいろなことが分かるものです。
しかし微分とか言われて引かないで下さいね。
作曲家が伝えたいテンポに込められた数値のエッセンスは、微分することによって浮かび上がります。実際のところ、テンポの絶対値的な数値はホールや演奏者によって変わり得るものであり、曲の本質にとって本当に大事なことは数値の相互関係にある、と私は思うのです。

2011年11月22日火曜日

テレビが大進化する─テレビアプリ

こうなったらとことんテレビのこと、考えてみましょう。

携帯がスマホ化して、アプリをインストール出来るようになったことによって、携帯はとてつもない力を得ることになりました。もう、その能力はちょっと前のパソコンと変わらないほどです。画面は、パソコンみたいにフォルダとかファイルという概念では操りませんが、スマホのアプリがアイコン化し画面に整然と並ぶUIはすっかり市民権を得てしまいました。

私たちは、iPhoneとかアンドロイド端末で、いろいろなアプリをインストールして楽しんでいます。携帯のアプリはPCとはまた味わいの違うものです。すぐに取り出して情報を見るだけとか、思ったことをメモに書くとか、食べ物の写真を撮るとか、そんなことだけでもアプリの価値があります。むしろ機能が多いと煩わしい感じさえします。

テレビの入力がフラット化し、UIが使い易くなったその先には「テレビ用のアプリ」という世界が広がる可能性が当然出て来るでしょう。
もちろん、テレビ用のアプリでまず考えられるのがゲーム。もし、自由にゲームをインストール出来るようになれば、今の家庭用ゲーム機器もいらなくなり、ハードを持っていないと遊べない、という感覚も無くなっていくでしょう。
もちろんゲームほどのインタラクティブ性が無くても、テレビ用のアプリにはいろいろなアイデアが考えられます。
ネットを介して双方向の通信が出来れば、英会話のレッスンとか、大学の講義とか、学会の発表を聴いたりとか、その他世界中のあちらこちらの個人放送を見ることができるでしょう。
映像付きの本として読書したり、何か調べものをしたり、音楽鑑賞したり、地域の情報を得たり・・・残念ながら私にはありきたりのアイデアしか湧きませんが、テレビで使えるアプリにはきっといろいろな可能性があるはずです。

そしてそのときに無くなってしまうものは、例えばHDレコーダーであり、DVDプレーヤーであり、家庭用ゲーム機であったりします。これらのハードがすっかり無くなって、ネットにつなぐだけのすっきりしたテレビが出てくれば、それは経済的にも優しい商品になることでしょう。

ここまで考えていくと、一消費者としてテレビがどんどん変わっていくことにワクワクする一方、きっとそういったサービスや新しいデバイスは、ほとんど外国製に席巻されてしまい、日本メーカーが総崩れになりそうな予感もしています。
最近の私は、日本の製造業にほとんど期待を持てなくなってしまいました。いろんな意味で・・・。

2011年11月20日日曜日

テレビが大進化する─クラウド

テレビとは仕事上全く関係ない私ごときが、こんなことをここで書いても何の反応も無いとは思いつつ・・・、自分自身の思考の記録という意味で、最近思っていることを書いてみます。

前回、様々な映像を簡単な操作で呼び出せるような新しいUIを持ったテレビのことを考えてみました。
私たちはテレビと言うと、テレビ放送を見るための機械、と思うのでしょうが、これからの常識はその辺りから変わってしまうでしょう。テレビ番組であれ、映画であれ、映像コンテンツは全て我々が自由にみることの出来るコンテンツとしてフラット化され、テレビはそれらのコンテンツの統一された窓となっていくのです。

この考え方をもうちょっと進めてみると、映像コンテンツを所有する、とはどういうことかを考えなければならなくなります。
例えば、自分の好きな映画のDVDを買ったとします。DVDはプレーヤに入れないと観ることが出来ません。ところが今のDVDプレーヤーはたいてい特定のテレビに接続されていて、その場所でないと観れないのです。
例えば、車の中で観たい場合、車載用のDVDプレーヤーとモニターが必要になります。いろいろな場所でDVDを観たければ、こんな機材をいくつも買って、なおかつDVDを持ち歩く必要があるわけです。
最近は多くの人が、CD/DVDをリッピングするようになりました。例えば、自分の買ったDVDをリッピングしてPCに置いておけば、PCで観ることが可能になります。そして、そのデータをネット上に置いてしまえば、ネット環境のあるPCで観ることが可能になります。

考えてみれば当たり前のことですが、ネット上にコンテンツが置いてあるのは実に便利なことです。
しかし、いったんネットに置いてしまえば、誰でも観れてしまうし、そうなると著作権的な問題が発生します。そして、ここから先は技術の問題ではなくなってしまいます。

今でも、ネットと著作権に関わる様々な問題は日々生じています。しかし世の中は少しずつですが、ネット上にデータが置かれることを容認しつつある感じがします。
最近では、アップルがiCloudと称して、ユーザーが一度買ったことのある音楽であれば、サーバー上のデータを何度でも聞くことが出来る、といったサービスをアメリカで始めました。そのために、大手のレコード会社とも合意を取ったようです。
残念ながら,日本ではそのような行為は違憲であるという判例があり、このサービスのめどが立っていないと言われています。

しかしそれも時間の問題でしょう。10年も経てば、クラウド上にデータが置いてあり、誰もがそれにアクセス可能な世の中になっていくと思います。
一般ユーザーがコンテンツを買う、ということは、ネット上のデータを観ることのできる権利を買う、というような意味合いに変化していくことでしょう。
そして、ますますテレビというものは、今の枠組みでは収まらない別の価値観を持ったハードウェアに変わっていくのだと思います。

2011年11月17日木曜日

テレビが大進化する

ジョブスが死ぬ前に、すでに新しいテレビの構想があったなどとまことしやかに語られています。
また、Googleもテレビを変えようと画策していたり、最近ではソニーも新しいテレビのあり方を構想中だとか。
新しいテレビとかいうと、3Dとか高精細とか、そういうハードウェアのことしか思い浮かばない人も多いと思いますが、上のハイテク企業で言われていることは、そのような画面の性能や機能のことではないことは今や明らかです。

というわけで、私なりに新しいテレビのあり方とはどんなものか、勝手に考えてみましょう。
まず、今テレビを使っていて不満なことは何でしょう?
何と言っても面倒な操作です。確かにチャンネルを選んでテレビを見るだけならそれほど大変ではありません。
しかし、今どきほとんどの人はHDレコーダーを繋げているだろうし、人によってはデッキを2台繋げていたり、DVDプレーヤーが繋がれていたり。あるいは家庭用ゲーム機がHDMIに繋がっているかもしれません。
何かをやるにも、テレビのリモコンで「入力切替」を行い、今度は切り替えた先のリモコンに持ち替えて、その機械の操作を行う必要があります。
しかし、そんなことはここ十数年当たり前のことだったし、それぞれ別のメーカーだったら仕方ないじゃないか、などと思考を止めてはいけません。

なぜなら、これからはさらにパソコンを接続して、YouTubeの動画投稿サイトをみたり、ネットで映画をレンタルしたり、といった形でネットを利用した新サービスがたくさん出て来るでしょうし、それによってさらに操作は煩雑になることが予想されるからです。
このような状態で、今のようなリモコン操作の延長では面倒で仕方がありません。
そして、恐らくApple, Google, Sony その他の意欲あるハイテク企業が狙っているのは、画像表示のハブ的デバイスを作ることです。それはテレビそのものであっても良いし、テレビに接続する何らかのデバイスでも構わないでしょう。
重要なことは、そのデバイスが単体で売れることではなく、ネット上のサービス、コンテンツまで含めたエコシステム、あるいはプラットフォームを作った者がこの競争を制するということです。

では、具体的にどのようなものになるか考えてみましょう。
「入力切替」はもはやテレビのリモコンでは行いません。「入力切替」という概念は、テレビの後ろの入力配線のどれを選ぶかというハードウェアを意識した言葉です。しかし、それはユーザーの望むものでは無いはずです。
まずお客さんは、テレビ放送か、DVDか、動画配信か、ネットのレンタル映画か、あるいはケーブルテレビ用の放送か、これを簡単に選択できれば良いわけです。
例えば、新しいリモコンはMacの MagicPad みたいなタッチインタフェースになっていて、左右にスワイプすると階層を簡単に行き来できるようにします。まずテレビの電源を入れると、上記の映像の種類を上下のスワイプで選んで、左にスワイプすると、次にチャンネルや画像一覧などが現れる、といったインタフェースを作れば、今より操作はかなり楽になると思います。
チャンネルを選ぶのも、YouTubeみたいに小画面が12個に分割されて見えていて、その中から選べばチャンネルを数字で覚える必要もありません。(ケーブルテレビではすでにありますね)

そのような感じで、統一されたインタフェースで好きな画像を出来るだけ速く選べるようになると、テレビの概念もだんだん変わって来るのではないかと思うのです。
画像用の液晶パネルは益々安くなって、一つの部屋に数枚あるのが普通になれば、テレビは単なるモニターに変わっていくでしょう。
そして、空いているモニターを使って各自が好きなものを見るような、そんな時代に変わっていくのかもしれません。さらにカメラなどを取り付けてインタラクティブになっていけば、同じ画面で会議をやることも、英会話のレッスンを受けることも、楽器のレッスンを受けることも出来るようになるでしょう。
そしてその頃には、20世紀型の今のテレビというものは、もはや時代の遺物にしか見えなくなることでしょう。

2011年11月13日日曜日

楽譜を読む─継続か一時か─

楽譜の音量記号をどう解釈したらよいか、ということについて考えてみましょう。

楽譜に「f(フォルテ)」と書いてあったら、その音量はどこまで有効だと思いますか?
例えば、下の譜例1では、音量記号は「f」しか書いてありません。もし、フォルテに有効期限が無いのであれば、この曲はいつまでもフォルテしか出てこないので、ずっとフォルテが継続するということになるでしょう。

もちろん、これだけの譜例では情報が少なすぎます。実際には、曲の内容はもちろんのこと、作曲者の年代や国、作風などによって結論は変わってくるでしょう。
例えば、古典以前の古い音楽では、強くしたいところだけにフォルテを書いていました。そしてその有効範囲も非常に恣意的でした。従って、まず第一に「楽譜の音量記号の有効範囲に定義はない」ということは言えると思います。
ですから、例えばバッハの楽譜を見て「ここにフォルテが書いてあるから、次に音量記号が書いてあるまでずっとフォルテですか?」みたいな質問は、通常はナンセンスです。
(もちろんその楽譜に現代的な校訂が入っていれば別ですが)

ところが、今どきの作曲家は楽譜の厳密さを追い求める傾向があるので、範囲が恣意的であることがだんだん許せなくなってきているように思えます。例えば昔なら譜例1で済んだような楽譜でも、譜例2くらい音量記号を丁寧に書いているのです。
実際、今生きている作曲家なら、いろいろな人から質問を受けて「ここがフォルテなのに、またフォルテが書いてあったらどちらのほうが大きいのか?」みたいなことを言われ、面倒だから絶対そんな疑問を抱かないように厳密に書いてやる!という思いが強くなってしまうのではないでしょうか。
その気持ちはとても理解出来るけれど、残念ながらそういう傾向が強くなるほど、人々は楽譜を見て考えなくなり、機械的に記号を判断するようになるでしょう。それは最終的には音楽性の貧困を招くような気もするのです。


111112

それはさておき、比較的現代に近い作曲家であっても、世の中にはまだ譜例1のような楽譜は存在します。
もし、音量記号が次に何かの指示がない限りずっと有効であると仮定すると、2番目、3番目のフォルテ指定は無意味ということになります。
しかし、作曲家が無意味な音量指定すること自体おかしな話です。そのことを2つめの原則として挙げるとすれば「楽譜上に記述される指示に無意味な記号は無い」と言うべきでしょう。

そのように考えていくと、譜例1はフォルテはずっと継続しない、という考えのほうがむしろ正しいように感じます。
その結果、演奏家が譜例2のように、何らかの具体的な音量を想定する必要が出てくるわけです。そしてそれこそが、演奏家が楽譜を読み込んだ上でどのように解釈し、どのように演奏するか、という行為だと私は思うのです。

もう一つ、意地悪な例として譜例3を挙げてみます。
フォルテからクレシェンドしてまたフォルテ。そこからクレシェンドして、またフォルテ・・・。
これは、記号が継続的に振る舞う前提に考えれば、フォルテからクレシェンドするのだから、その後にフォルテがあれば、少し音量が落ちることになります。
しかし、クレシェンドした先で音量が落ちる、というのはやや不自然であり、その場合は注意を喚起するようにsubitoを付けたりするでしょう。
こういう点もフレーズを良く吟味すれば、クレシェンドの頂点としてのフォルテなのか、急に音量が下がるフォルテなのかは、音楽的に明確なのではないかと思います。
こういう点も楽譜をどれだけ読めるかというセンスの違いとなって現れるのではないでしょうか。

2011年11月9日水曜日

自分のアタマで考えよう/ちきりん

私が敬愛するブロガーちきりんさんの新著。
一見するとハウツー本のような、こういう本をふだん買うことは無いのですが(失望することが多いので)、この本はそれらのハウツー本とは一線を画していると思いました。

一つには、ハウツー本というのは、学者や有名な識者が片手間に書いているようなものが多く、しかも同種のような本を量産していたりすると、内容はどうしても薄くなってしまいます。
逆に、ロジカルシンキングのような学術的な内容になると、どうしても腰が引けて気軽に読めなくなってしまいます。
この「自分のアタマで考えよう」は、上記のような二つの欠点を補完しており、具体例が豊富で読みやすく、かつそこから一般的な教訓を引き出すという内容の深い一冊になっていると感じました。これはオススメです!

レベルの高い思考は、常に抽象性を纏ってきます。
今問題になっていることを解決するために、より一段高いレベルの思考をして、状況を俯瞰することが必要だし、そこからこの問題だけに留まらない一般性のある解法を抽出できるかが、非常に大事だと思うのです。
しかし個別の学術的な話題について非常に深い造詣を持っているような才人でさえ、どうして一般的な話題になると、こんなに俗っぽい発想しか出来ないのかなあ、と疑問に感じることはあります。
この本を読んで思ったのは、狭い世界での解法には詳しいのに(恐らくこれまで知識ベースで解決してきた)、そういう人たちは一般性のある思考力が弱いということ。まずは、身の回りのそんな人たちに読んで欲しい、と密かに痛切に感じました。

自分に役立った内容としては、グラフや表の作り方、使い方のあたり。
これまで私は、他人を納得させるために、正しく論理的な文章をずっと書こうと思い続けてきました。しかし、書けば書くほど後の自分でさえ理解できないような文章を書いていたりして、これじゃ他人に理解してもらうのは難しいよなと反省することは多々あります。
要は、これまで私はあまり図を書かずに過ごしてきたと感じました。
最近入社してきた若い人たちが作った、まるでスティーブ・ジョブスのように、大まかな図と一枚に2〜3行しか書いてないすっきりしたパワポを見ることがあって、今やついつい字をたくさん書いてしまう私たちのほうが、よほど遅れたオジさんに見えるだろうなあ、と思ったりします。
書くことを切り詰めるからこそ、一番大事なことが何なのか抽出する必要が出て来ます。今我々が必要なのは、こういった思考なんですね。
いろいろなことを並置して「さあ、どうしましょう」となった後、皆が黙り込む、ことのいかに多いことか。

ということで、この本を読んで、もう少したくさんグラフを書こう、と気持ちを新たにしたところです。

2011年11月6日日曜日

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを/カート・ヴォネガット・ジュニア

ハヤカワSF文庫なのに、全然SFでない話。
とある金持ちの御曹司、エリオット・ローズウォーターがその資産を使って、無償の愛を人々に施そうとするけれど、彼の妻、父親、法律事務所などがそれぞれの立場で阻止しようとする、ブラックユーモアをふんだんに湛えたドタバタ的ストーリー。

しかし、物語には上記の上流階級の人間の他に、たくさんのエリオットに関係する貧しい人が現れます。
彼らは確かに、全く助けるに値しないような人々なのかもしれません。そのような彼らのつまらない日常や、無能ぶりをいちいちしっかり描写します。ところが、彼らの人生の背景を知れば知るほど、そのような貧しい無能な人々への何らかの憐れみ、あるいは同情のようなものが湧いてきます。
それこそが、大金持ちのエリオットを動かす心情となります。

ところが、その当のエリオットという人は、全く聖人君子という感じではなく、どちらかというと半分とぼけたような人物。
作中でも、戦争で過酷な経験をしてから精神を病んでしまった、と周囲からは思われているのです。

終盤でのエリオットが街を離れるシーン。
実際、エリオットは多くの人に施しを与えたのに、自分自身は何をしたのか全く覚えていない。街の人に「助かりました」と声をかけられてもそれが誰だか覚えていないのです。お金を人に分け与えるその行為はほとんど反射的で、まるでドブにお金を捨てるようなものだったとでも言わんばかりです。
そして、彼は小説の最後の最後で、ある超大盤振る舞いをするというオチで終わるのです。

この寓話的な話が示唆するのは、お金、貧しさ、人間の価値、といったようなものの相関です。
もちろんそこに結論などは無いのですが、貧しくて下劣な人間は助ける必要のない人間なのか、小説の中にそういう舞台を作ることで、読者に問いかけているわけです。
恐らくアメリカ的価値観から言えば、助けないというのが基本的な社会の暗黙の合意なのでしょう。そしてそれに疑問を感ずるアメリカ人作家が、皮肉を込めて書いたのがこの小説だと感じるのです。

2011年11月4日金曜日

古い考え

何かこう、いつもモヤッとしたものを感じながら会社人生を送る私。
私がモヤッと感ずるのは、私の思うところの、いわゆる「古い」考え方に接した時です。賛否あると思いながら、いくつか思うところを挙げてみますが、あくまで一般論としてお読み下さい。私の職場とは一切関係がありません(?)。

●残業するほど仕事に熱心である
もちろん、いまどきこういうことをストレートに言う人はいません。
が、あからさまにそういう価値観を強要されることはしばしばあります。そういう自分だって、他人が差し迫った仕事があっても、のうのうと早く帰っているとやや腹が立つこともあります。
しかし、一度残業して成り立ってしまった仕事は、もはや残業無しでこなすことは不可能です。
社会のため、家庭のため、個人の豊かな人生のため、残業しないほうがいいのは分かりきっているのに、誰が一番我慢できるか、を競争しているように見えます。

●徹底的なクレーム回避
これは程度問題なので一概には言えないけれど、日本人は極端に非難されることを恐れるように見えます。逆に消費者側に立った場合は、商品に何らかの不具合があれば鬼の首を取ったかのように尊大に振る舞います。
もちろん、そういう消費者の厳しい目が製品レベルを上げてきた側面はあるけれど、あまりにお客様のクレームを恐れるあまり過剰な反応をしたり、哲学も方針も示さずあたふたしている様は滑稽にさえ見えます。
お客様が大事なのは当たり前だけれど、自分たちが自信を持ってやったことは、批判されても押し通す気概は必要です。それは瞬間的な批判を引き起こしますが、長い目で見た時、会社の指向性が明確になりお客様の信頼を得ることになると思うのです。

●大切なことは秘密にしなければいけない
企業だから、技術開発や商品開発の内容は、一般には企業秘密であり、なるべく他人の目には触れないようにします。
今まではそれは私も当たり前だと思っていました。
しかしソフトウェアの世界では、オープンソースが当たり前になってきていて、多くの人がその恩恵に預かっています。世界の有名なソフトウェア企業は(日本は無さそう)、自社開発のソフトウェアをオープンソースにしたり、またそういうコミュニティに寄付したりして、持ちつ持たれつの関係を作ろうとしています。
外の技術を取り入れたり、また公開しようとすることによって、自分自身の力が試されます。
人と交わらず、自分の中に抱えて何かをやっていれば、どんどん時代遅れになります。
ソフトウェアと工業製品とは、技術に関する性格が異なるのです。しかし、依然として多くのメーカーは自社のソフトウェアを秘密にしたがります。大した技術でもないのに。

●合理的、効率的、という言葉が嫌い
もちろんとことん合理的であるべきとか、効率を追求すべきとか言うわけではありません。
しかし、もうちょっと頭使えば、全然仕事は楽になるはずなのに、時間をかけてわざわざ同じことを繰り返すほうが仕事をしっかりやっていると印象を持たれてしまう。
それは、担当者だけでなく管理する側にもコスト意識が足りないのでしょう。同じ仕事を早く済ませるほうが生産性が高いに決まっているのに、エクセルのマクロとか使うだけで小賢しい感じがして疎まれたりとか、そういう雰囲気が往々にして起こります。
「昔は、一つ一つしっかり○○したものだー」などと昔話などされた日には最悪です。
だから、日本のホワイトカラーは生産性が低いとか言われるわけです。

●整理整頓、服装、態度、などなどの見た目の問題
まあ、見た目は良い方がいいし、会社で働くならルーズな格好とか、茶髪とか、そういうのを気にする人もいるでしょう。
しかし学校じゃないんだから、そんなこといちいち注意しなくても良いのに、とか思います。
極端に言えば、仕事が出来ればいいのです。きちんとした身なりの人が必要なのではなく、仕事が出来る人が必要なのです。

●交通安全とか・・・
まあ、交通事故は無いほうがいいですが、そういうのって会社でやることかなぁ。

●何しろITを使いこなすのがダメダメ
ITって技術とか知識じゃ無い気がするのです。ある種の生活態度のようなもの。
直接会うか、メールで済ませるかは、実利で考えればいいのに、まだ大切なことは直接、とか思う人は多いでしょう。
一文一文、強調のために色が違っている文章とか(超読みづらいし、ダサい)、更新されないHPやもう存在しない部署のHPが散乱していたりとか・・・これは十分罪なんですが。
こういう情報開示の仕組みが、おまけの業務だと考えている人がまだ多いのでしょう。こういうところにどれだけ力を入れているかが、これからの組織力の差になると私は思うのですが。


2011年11月1日火曜日

楽器を作るということ─私が欲しかった楽器

自分が欲しいモノを作る、というのが物作りのスタートであると考えます。
じゃあ、私が欲しかった物ってなんだろう、と振り返ってみると、これはなかなかの難題です。
すでに作る側に立ってしまった者は、冷静に自分の欲しい物を想像することが出来ません。なぜなら、この市場についてあまりに多くのことを知りすぎてしまったからです。

私の大学時代、シンセサイザーはすごくカッコいい商品でした。
ハイテク製品を使いこなしながら、芸術活動を行うっていうことが、私の感性にはまりまくったわけです。実際に手にしたYAMAHA DX7は、いろいろな音を出すことが出来たけれど、実は私にはオリジナルの音作りはほとんど出来ませんでした。FMの音作りはあまりに難しく、思った通りにいかなかったのです。
思えば、あの頃からデジタルシンセサイザーの限界があったのかもしれません。うまく使いこなせなかったのは私だけではないと思うからです。でも、使いこなせないなんて、恥ずかしくて言えない。いくつかのFM音源のキーワードを覚えただけで使えたような気になっていた、というのが実態なのかもしれません。

そうこうしているうちに巷で流れている音楽が、もはや生演奏なのか、完全打ち込みなのか分からなくなってきて、演奏することの楽しみ、というのが希薄になってきたような気がします。
そして、芸術家になりたいという甘い欲望に囚われた凡人たちによって、不思議な音楽製作ワールドが拡がっているのが今の時代なのではないかと思います。言ってみれば、私はそのはしりだったわけです。

私のような人間をサポートする道具は、すでにPCアプリとしてごまんと揃っています。
しかし、何度か書いたようにそれは恐らく楽器では無く、もはやプログラミングツールとでもいうべきものです。昔は楽器を買って、テープレコーダーに録音しなければ音楽製作できませんでした。楽器を弾けなければ音楽を作れませんでした。
なんと、今では楽器を弾けなくても音楽が作れてしまうのです!
そんな恐ろしい時代を私たちは迎えています。そんな時代にどんな楽器が売れるかなんて、想像出来るわけがありません。

でも、一方で電子ピアノを買う時に、大して違いが分からないのに、より良い鍵盤を使っていたり、音源性能が高かったりするものを欲しくなったりします。
それは、確かにテレビを買う時に、分かりもしないのに○○機能搭載とか、○○性大幅向上とか、言う言葉に惑わされているのとそう変わらない心境。
実際、実物を見てもその違いはほとんど分からないし、仮に分かったとしても買ってしまったあとはもうどうでもいい価値だったりする。
そういう曖昧な物に振り回されている一消費者の自分がいます。

何だか取り留めがないけれど・・・、自分が欲しかった楽器、というのはあるようで無かったのかもしれません。もしかして、これから探すべきなのは、自分が欲しいと思う楽器とは何か?・・・に対する答えなのかもしれません。

2011年10月29日土曜日

楽器を作るということ─ストイシズムとアバンギャルド

詰まるところ、楽器を作るモチベーションは大きく分けて、二つあるのではないかと思います。
一つは現状の楽器をさらに改良して、良いものにしていきたいというストイックな気持ちによるもの、そしてもう一つは、全く新しい楽器で全く新しい音楽表現を追求してみたいというアバンギャルドな態度によるものです。

最初のストイシズムでは、全く新しい表現方法を追求するわけではなく、既存のものをさらに良くしようというモチベーションで楽器を作ります。
例えばピアノなら、より大きな音が出るとか、鍵盤連打が速くできるとか、調律が容易とか、いろいろな改良点があると思います。現状のピアノに対して不満を持っている人がいて、それを解決する手段があるのなら、その改良版のピアノは商品としての価値を持つわけです。
また、性能の向上だけでなく、同じ性能でも値段が安くなるという技術革新もあります。
いずれにしても、徐々に楽器を改良していくのは、極めてストイックな作業で職人的な感じがするし、技術者としてもより良いものを作ろうと思うそのモチベーションは実に正統的で、誇らしい気持ちを感ずるものです。
今、会社組織で楽器を作る場合は、ほとんどこのモチベーションがベースになっていると言えるでしょう。しかし、その一方、このモチベーションの肝は技術革新であり、最初の記事に書いたように、楽器における技術革新が、私は頭打ちになりつつあるように感じているのです。であるなら、この方向性にはいずれ陰りが見えてくることでしょう。

PC、IT技術が発展している今、世の中の多くの要素が大きな変革を迫られており、楽器の世界もその例外では無いのではないかという気がしています。
その昔、アバンギャルドな態度で楽器を作ることは非常に大変なことでした。ゼロから楽器を作るのですから、試作と失敗の連続です。あまりに変なものだと、誰も使ってくれません。そういうリスクを冒してまでアバンギャルドな楽器作りをした人は、よほどの変わり者か、お金持ちではなかったかと思います。

ところが、技術革新は、その試作を非常に簡単に出来るようにしてしまいました。
簡単には出来なかったアバンギャルドなモチベーションによる楽器製作が、大きくクローズアップされるような世の中に変わってきたように思います。
いや、もはや楽器製作は、音楽製作の一部であり、またパフォーマンスの一部でさえあります。そこで必要なのはアーティスティックな感性であり、人々を惹きつけるようなまだ見たことのない新規性であり、未来を想像できる卓越した構想力です。
そういう力を持った人々は確実に存在しており、彼らが実現手段さえ手に入れば、早晩、こういった新規楽器がいろいろと出てくる可能性はあります。

とはいえ、ほとんどの人々は普通のピアノや普通のギターを弾くのであり、そういう一般的な楽器は無くならないのは確かです。世の中の音楽を楽しむ人の9割以上は、既存の音楽を既存の楽器で楽しみます。
この市場がある限り、楽器メーカーが無くなることはありませんが、それでもひたすらコモディティ化の道を歩むことは避けられないとは思います。
メーカー視点とアーティスト視点が交錯する中、楽器を作る者たちの悩みはますます深まるばかりなのです。

2011年10月24日月曜日

猿の惑星:創世記

映画、「猿の惑星:創世記」を見に行きました。
古い「猿の惑星」は実は観たこと無いので、そういう思い入れは無いのですが、10年前のティム・バートン版は観ていたので何となくそのイメージが残っていて、これは観てみたいと思っていたのです。
しかし、今回の映画、「猿の惑星」になる前史を扱ったものであり、そういう意味で10年前の映画とは全く設定や内容が違います。
舞台はあくまで現代の都市。そこで知能の高い猿たちがどのように生まれたかが描かれるといった内容。

どのように猿が知能を獲得したかというと、研究所での新薬開発における猿への実験という設定。
遺伝子操作とか、ウイルスとか、ネタとしてはもはや定番とも言えるわけですが、それゆえ、そういう設定が逆に安易に思えてしまいます。ちょっとバイオハザード的な臭いも感じました。

しかし、この映画の白眉は、シーザーが猿の保護施設の中で猿のリーダー格にのし上がり、知恵を使いながらどんどん施設の中身を把握していくところ。
かなり早いうちに施設の脱出方法を把握したにも関わらず、自分一匹だけでは逃げ出さないのです。実際に夜のうちに何度も施設を抜けながら様々な「仕込み」をして、施設の猿たちをだんだんに戦闘集団として手なずけていく様は空恐ろしく、また、わくわくするところでもありました。

最後の猿対人間の戦闘は最大のクライマックスですが、猿には目的地があっても明瞭な目的があるわけではなく、あのような戦闘を起こす動機としてちょっと釈然としない感じはありました。
猿たちに何かもう少し具体的な行動目標があると、後半から最後のシーンに納得感がいくような気がします。
それにしても、猿の描写はリアルで、よくこんな映像を作ったなあ、と率直に感心しました。話によると猿の映像はほぼ全部CGだそうです。

ところで、何度も災難に遭う隣人の存在は、ギャグなんですかね。
しかし描写がシリアスすぎてギャグにならないし、しかも最後は究極のヒドい目に遭わされるし・・・。
というか、最後のシーンはどう考えても次回作への繋ぎですよね。エンドロール時の映像はウイルスの蔓延なんですよね・・・。そうなると、やはりほとんどバイオハザードっぽい感じがするわけですが。

2011年10月23日日曜日

楽器を作るということ─揺らぐ境界

「楽器を作る」というためには、楽器とは何か、が定義されていなければなりません。
別に哲学的な問いをしようとしているわけではないのです。エレクトロニクス技術の発展で、音を出すということがいとも簡単に出来るようになった結果、いろいろな機器を作ることが可能になりました。
確かに商品として世に出ているものの作っている側もこれは楽器と言っていいのか、という疑問を感じるようなものがあるわけです。
そういう意味で、楽器と単に音が出る何か、の境界が非常に曖昧になりつつある感じがします。

例えば、DJ用のターンテーブル。
いわゆるDJの世界については私は多くを語ることは出来ないけれど、一つの音楽ジャンルを形成していることは事実だし、その世界で活躍する人たちがいて、その世界で使われる機材があります。
ターンテーブルといえば、アナログレコードをかけながら、回っているレコードを手でわざと動かしスクラッチノイズを出すためのアレですが、これは楽器と言えるでしょうか?
まあ、元はといえばアナログレコードプレーヤなのだから、それ自体は単なるオーディオ機器です。
しかし、DJプレイ専用に開発されたターンテーブルは、積極的な音楽パフォーマンスを実現するために作られているわけである意味、楽器を作る、という自覚が必要ではないかとも思えます。

同様にKORGから出ていて、ヒット商品となっているKAOSSILATORとか、iPadのタッチインタフェースを利用したアプリといったものはどうでしょう。
考えようによっては、全く新しいUIを提供したテルミンなどもこの系譜に入るのかもしれません。
電子的なパラメータをタッチインタフェースでコントロールして、いろいろな音色を出す、というのは、自然楽器ではあり得ないけれど、音をコントロールするという意味では立派な楽器ともいえます。
こういう演奏法が市民権を得れば、それは何十年後に楽器として標準化するかもしれません・・・が、パラメータや操作への設定の可能性は無限大であり、この手の演奏法が標準化するような事態は、正直想像しがたいというのも事実。
一見、いろいろな表現が出来て面白いのは確かですが、シリアスな音楽を作る道具として今後使われうるものなのか、賛否両論はあることでしょう。

ヤマハのTENORI-ONも微妙な立ち位置にいます。
これが楽器と言いづらいのは、演奏のリアルタイム性がほとんどないからです。
��小節単位のリズムパターンを全てスイッチでON/OFFできるというのが操作のコンセプト。ですから、ユーザーの操作はあくまでシーケンスのプログラミングなのです。
今までの感覚でいえば、これはシーケンスソフトで打ち込みをする機械とも言えるわけですが、TENORI-ONの不思議なところは、この操作が次の小節から有効になり、半リアルタイムともいえる操作性を持っているということ。
演奏家というよりは、指揮者的な楽器とも言えます。音楽の全体設計、全体構造を半リアルタイムで制御するといったイメージだからです。

このような近年の新しい楽器の登場を考えてみると、テクノロジーが音楽の可能性をも広げている実態が垣間見えます。
このような状況において、オーケストラとか、ピアノとか、打楽器とか、そういった生楽器を演奏することが音楽演奏、あるいは楽器の本質であるという感覚自体が時代遅れになってしまう可能性だってあります。
自分が望むかどうかに関わらず、時代はどんどん変わっていきます。音楽はあくまで文化的なモノですから、世の多くの人が面白いと思えばそれが主流になっていきます。
そのような時代において、そもそも楽器とは何ぞや、ということを音楽に携わる者は考えざるを得なくなってくることでしょう。

2011年10月18日火曜日

楽器を作るということ─工業製品としての限界

楽器なんてもう発展しないんじゃないか、とも取れる前回の話でしたが、もちろん、人類がいる限り恐らく楽器はこれからも新しく作られることでしょう。
ただし、工業製品として、大量生産されるものとして、世界的に流通する商品としての楽器は、標準化された形式にならざるを得ず、結果的にコモディティ化の運命を辿るのではないかとやや悲観的に考えます。

浜松の駅の近くに楽器博物館という古今東西の楽器を集めた施設があります。
楽器に興味のある人ならぜひ行ってみてもらいたいのですが、ここには楽器が標準化される前の、進化大爆発とでもいうような多くの奇形な楽器を見ることができます。
ピアノでさえ、一台で二人分の鍵盤があったり、鍵盤の数や大きさが様々だったり、といろいろ面白い楽器を見ることができます。
実際のところ、新しい楽器を作るということは、単に音量を良くするとか、音質を良くするとかというレベルでなく、一つを二つにするとか、大きさを半分にするとか、発音体の材質を変えてみるとか、もっとアグレッシブな行為であったりします。音楽を作り出すことと同じだけ、楽器を作ることはクリエイティブな作業なのだと実感できます。

先日、ビョークのニューアルバムの紹介をしましたが、あるwebの記事に(真偽は定かではないけど)ビョークがガムランとチェレスタを合わせてガムレスタという楽器を作らせた、という話が書いてありました。
アーティストは常に新しい音楽を作り出そうという存在であるわけですから、そんな人たちこそ、新しい楽器を生み出す主人公です。
クラシックでも、作曲家は常に新しい楽器を欲しましたし、古典〜ロマンとかけてオーケストラの楽器は随分発達しました。
実際のところバッハの時代の鍵盤楽器と、現代の楽器とは全く違うもので、いわゆる古楽の世界では、今の楽器を弾いてもバッハの音楽は良く再現されないという考え方まであります。
微分音の曲を書くために、二つのピアノを合体させて、一つのピアノは全部50セントずらして半音の半音まで表現できるピアノを作った人もいますし、純正律に近い響きをえるため、一オクターブを12以上に分割したオルガンを作った人もいます。

そして、今でも一部のミュージシャンは自ら楽器を作ります。
私の見るところ今一番新しい楽器が生まれている場所は、iPadです。こんなもの楽器じゃない、という人もいるでしょう。しかし、それはすでに保守的な考え方に囚われています。これほど、毎日のようにタッチというインタフェースを利用して新しい楽器が生まれている環境はありません。

楽器はこれからも新しく作られ、発展していくことは間違いないのですが、それは常にアーティストのどん欲で斬新なクリエーター魂とセットで行われるものです。
その部分がビジネスベースにのらない限り、楽器メーカーから新しい楽器を出すことは難しいと思えます。今後はiPadなどのデジタルデバイスだけでなく、3Dプリンタの発展でモノとしての楽器も作りやすくなっていくでしょう。そうなると、もはや会社といった組織でなく、マニアックな個人が新しい楽器を作る主人公になるのではないか、とそんな気がしているのです。


2011年10月15日土曜日

楽器を作るということ

私の本業は電子楽器開発ですので、当然楽器についても日々、いろいろなことを考えねばなりません。仕事のことはここでは書けませんが、それでも楽器を作る、ということについて一般論として書けることもあるのではないかと思っています。
ただ、私は合唱団で歌は歌っているけれど、人前で楽器を演奏する活動を継続的に行った経験はありません。幸い、楽譜を書く立場で演奏者と関わることはありますので、多少は楽器を語る資格もあるとは思うのですが、それでもリアルな演奏の現場からは程遠いのかもしれません。

最初にこんなエクスキューズを書くのは、これから私が書きたいことは、恐らく一般的な感覚と相反することだと思うからです。
例えば、トップアーティストは当然ながら楽器にもこだわります。ピアノのプロならピアノの音色、鍵盤一つ一つの音の質にも気を遣うでしょう。
音にこだわりを持つのは、音楽家として当たり前じゃないかと思うかもしれません。もちろん、それはそうなのですが、そのこだわりが過剰になってしまえば、楽器を製作する側に多大な負荷がかかりますし、そうなると趣味としてならともかく、仕事としての楽器製作が成り立たなくなってしまいます。
音楽家がこだわることで楽器が発展したきたことは確かです。しかし、もしかしたらそういう時代は終わりを迎えてしまったのかもしれません。

たかだか100年くらい前までは、工業製品は発展する一方でした。
技術革新の連続で誰にでも分かるほど性能が上がることが体感できましたし、あるいは同じ品質なのに驚くほど価格が安くなるということもあったはずです。これは楽器も同じで、時代が経つほど楽器の質も高くなった。
生楽器がある程度の完成を見た後、楽器の世界は電気楽器の世界に向かいます。この電気楽器も30年ほど前に一つの頂点を迎えました。
そしてその後、同じく電気で駆動される電子楽器が発達を始めます。これも最初の頃は、どんどん目に見えて性能が上がっていくことが体感できました。
そのような時代はたかだか10年くらい前まで確かに存在しました。

ほとんど完成されてしまった生楽器の世界は、すでに革新的な性能向上やコストダウンも無くなり、非常に微細な性能向上だけを目指しているように見えます。
そして、電気楽器、電子楽器も目に見えて性能向上していた時代が終わった今、各楽器が差別化を図るための性能向上の余地が大変小さくなってしまったように見えます。
一般にこういうような現象をコモディティ化と呼び、このような商品ジャンルはいずれ商品の価格でしか競争が行われなくなると言われています。

圧倒的な性能向上が見込めない現在、音楽家がこだわる音の違いはもはや万人共通ではありません。
良い音、などという客観的な基準も私には存在しないように感じます。値段が何倍違おうとも、それはもはや音の性能の違いではないような気がするのです。
このような時代、楽器とはどうあるべきなのか、そして楽器はどう作られねばならないのか、いろいろと考えてみたいと思います。(続く?)

2011年10月10日月曜日

biophilia/björk(ビョーク)

ビョークのニューアルバム、biophilia(バイオフィリア)を聴きました。
もう一聴して、この作品が今現在自分が求めている音楽の一つであることを強く確信。
ビョークの音楽自体、もちろんこれまでも好きだったけれど、このアルバムは最も私の嗜好とシンクロしています。感動しました!

そぎ落とされたミニマムな編成は、しかし全く隙が無く、一つ一つの音色も決してありきたりなものではありません。やり過ぎってくらい、音色も作り込まれている。というか、一つ一つの楽曲がまず音色作り、楽器作りから始まっている、とさえ思えます。
Tenori-onやiPad等を興味持ってガンガン使っていこうとするその態度は、単なる新しもの好きというだけでなく、ヒューマンインタフェースまで含めて新しい表現手段としての楽器を求め続けている彼女のアバンギャルドな姿勢を物語っています。

実際、今回の楽曲は拍子もよく分からないくらい前衛に寄っている感じがします。
それがクラシック的な意味での前衛音楽ではなく、もっとプログレが熱かった頃のアクの強いメッセージと緊迫感を孕んでいます。
そんな、ビョークの興味は自然から地球、宇宙規模に拡大。曲名も宇宙の様々な事物を思わせるタイトルが並びます。当然そのテキストを支える音楽も、宇宙的な神秘感を漂わせることになるわけです。

ビョークの歌声は、もう、一聴して誰でも分かるくらい特徴的なもの。
それだけに、彼女が詩・曲を書き、歌を歌う限り、どれだけ伴奏の音楽が変化しても、もうビョーク印にしかならない。それがあるからこそ、彼女は変幻自在にアルバムごとに音楽・音色のコンセプトが変化していきます。

もはやポップミュージックとは言えない、独自の音空間を紡いでいるビョークのこのアルバムは、一般の人が好むところではないかもしれませんが、音楽で何を表現するのか、音楽で世界をどう切り取るのか、そういうことと常に関わりを持っている人々には、強い影響を与える作品となるのではないでしょうか。

2011年10月7日金曜日

私とApple

今考えてみると、私がApple製品に対して感じたクールさというのは、全てジョブスに由来していたように思います。ジョブスの訃報を聞いて、予期していたこととはいえ、何か言いようのない喪失感を感じているところ。
私はこれまで決して熱烈なAppleマニアだったわけではないけれど、これまでどのような製品を買ってきたのか、振り返ってみようと思います。

会社に就職した1989年、プログラマーとしてのキャリアを始めたわけですが、寮の同期の友人に影響されMacに触れたのがAppleとの出会い。寮のすぐ近くに、Mac専門店があったので、そこに二人で何回も通っているうちにどんどんその先進性に惹かれていきました。
結局、入社した年にMacintosh Plusを購入。私が初めて買ったパソコンはMacでした。すでにそのときジョブスはAppleにはいなかったけれど、初期の一体型Macはデザインも含め、ジョブスの意志がふんだんに込められていました。
当時、仕事で使っていたのはNECの98で、要するにコマンドライン型のMS-DOSパソコン。メモリも640KBの壁があって、EMSとかで拡張しなきゃいけないとか、何て面倒なんだろうと思っていました。それに比べてMacintoshの何と洗練されていることか!
テーブルの上を模したデスクトップ画面に、マウスでウインドウ操作。一見、ユーザーがやりたいこととは無縁な視覚エフェクトは、コンピュータが何をしようとしているのかの意志が明確となり、何より愛着を感じさせました。また、妙な制約が多いIntel8086系でなく、モトローラ68系というのも当時の技術者からすれば共感した選択だったと思います。

その3年後に、Powerbook 140というノートパソコンを購入。今でこそ一般的になったノートパソコンでしたが、当時はまだ珍しいもの。キーボードの手前にトラックボールとパームレストがある現在のノートパソコンの原型になったと言われています。

次に買ったのがPerforma5210という一体型のデスクトップ。
Windows95が出て来た頃で、スペック的にMacが優位でもなくなってきた時代。今思うと、このころのMacは凡庸で、MacOSが無ければハードウェアは他社メーカーとそれほど代わり映えしなかった感じがします。
確かにこの頃、Apple社は新しいOS開発を続けていたけれど、何度も延期されたりして、良いニュースを聞かなくなりました。

それ以降、音楽のために主にPCを使っていた私は、Macに見切りをつけてしまいました。
多くのソフトウェアがWindows中心になっていき、周辺機器なども充実していたので、その後私はWindows機を購入。
2000年代になって、AppleがiPodなどで再び盛り上がるのがちょっと気になりながらも、一度Windows系で買い続けたソフトを変えるわけにもいかず、しばらくWindowsを使い続けていました。

そして2008年に再び、今使っているiMac購入
そしてその夏にiPhone購入で、一気にAppleモードに変わりました。この後は、妻のPCもMacbookProに買え、我が家のPC環境はすべてMacに切り替わっています。
そして、3年後の今、またiMacを買おうと画策しているところなのです。


2011年10月4日火曜日

コンクール関東大会に出場

ヴォア・ヴェールで初めて合唱コンクールに参加し、2日の日曜日、横須賀芸術劇場で開催されたコンクール関東大会に出場しました。
残念ながら我々は銅賞。反省点は多々ありますので、この結果を、またじっくりと今後の精進のネタにしていきたいと思っています。

我々は一般Aの5番目の出場で、公式スケジュールが終わった後の9番目の団体から客席で聞くことが出来ました。自分にとっても久しぶりの関東大会だったので、そこから最後まで演奏を聴いてきました。しかし、その日最後のブロックの一般B、11団体をノンストップで聞いたのはさすがに疲れました。
正直、一般Aは実力が高かったです。自分たちが出たから余計そう思うのかもしれないけど、多くの団体が優れた指導者の元、コンクールのために密度の濃い練習を重ねたことが如実に伝わるような素晴らしい団体ばかり。

特に私見では、千葉の二つの団体、千葉室内合唱団Vox Aeterna と VOCE ARMONICA の演奏が圧倒的に素晴らしかったと思います。いずれも指揮者の音楽を動かす強い力があり、一つ一つの音符にまで意志が込められた純度の高い演奏を聴かせてくれました。特に後者の深い音色と、洗練されたアゴーギグ、ディナーミクから醸し出される音楽性にはただただ溜め息が出るばかりです。今後、きっと益々活躍をしてくれる団体になるのではないでしょうか。
一般Aでは、最後のCollegium Cantorum YOKOHAMAも好みでした。10人強という人数は、とても難しいし、それゆえに楽しくもあります。個人の実力と音楽性が不均衡だと、お互いイライラが募ったりして、こういう団体を維持するのも難しいもの。しかし、恐らくそういう状況と戦いながら、シンプルな曲であっても自分たちが歌いたい歌をじっくり作っていく、その雰囲気に感銘を受けました。

一般Bは一般Aに比べると、やや見劣りする感じは否めませんでした。
しかも30人台の団体が多く、コンクールに大型合唱団が減っているような感じがしました。33人という団体もいくつかあり、ちょっとばかり戦略的なモノも感じてしまいます。とはいえ、2年後からレギュレーションが大きく変わりますから、そのときにはまた随分出揃う合唱団の顔ぶれも変わってくることでしょう。
その中で、ややひいき目かもしれないけど身内の浜松合唱団はなかなかの好印象でした。あの詩って、萩原英彦のアカペラ曲のイメージが強くて(「静かな歌よ〜お前はどこから来て・・・」というやつ)、ついつい歌詞をトレースしてしまいました。曲の雰囲気も良く、後半、壮大な曲調をしっかりした音量でよく表現していたと思います。

来年コンクールに出るかは全くわかりませんが、たまに出場すると大変刺激になります。日曜は久しぶりに合唱三昧の充実した一日を過ごしました。

2011年9月29日木曜日

日本辺境論/内田樹

なかなか刺激的で面白い本でした。
日本人論は結構好きですが、「日本は辺境である」という点で一貫した主張をしている本書は、また大変刺激的。
「辺境である」ということは、日本は世界の中心ではなく、その周辺に位置しているという意識です。常に優れたものは、日本の外にあり、私たちはそれを取り入れなければいけないと思っている。表面的な文化はどれだけかなぐり捨てても、その性向だけは変わることが無く、これがまさに日本人であるがゆえ、ということなのです。
そして我々はこの辺境人であることを利用し、敢えて政治的に思考停止しバカになることによって(子どものフリをして)、実を得るという外交術に長けている、と言います。このあたり、なんだか逆説的に日本政治をバカにしているようにも読めますが、それが日本人の生きる知恵だとすると大したものです。
しかし、これは逆に、日本が率先して国際社会にどう貢献するか、ということを一切考えようとしない国民性にも繋がっています。

辺境人は学びに長けている、といいます。
その理由は武士道に由来する、その無防備性、幼児性、無垢性にあります。武士は小賢しい損得勘定などせず、ある美意識にのみ従って生きようとします。それは極めて純粋だけれど、無防備でもあります。
そのような無防備さ、師に対して完全に「愚」となり外来の知見に対して、真っ白な気持ちで学ぶ態度こそ、「学び」の最も効率よい方法です。ですから、日本人は師匠から便所掃除や廊下拭きを命じられても、そういった無意味な行為さえ感情的に合理化しようとし、正しいこと、やるべきことに変えてしまうことができるのです。
そういった無条件な権威への過剰な追従は、ときとして奇妙な物語を生み出します。
例えばドラマ「水戸黄門」では、ただ印籠を出すだけで、悪人がひれ伏してしまうお馴染みの場面。ご老公が直接印籠を出すのでなく、助さん格さんが印籠をだすことで「何だか知らないけど偉い人」であることがより助長されます。ワルモノは元々、その根拠の無い権威を振りかざして生きてきたので、水戸黄門のさらに大きな権威にひれ伏せざるを得ない、そういう心象が極めて日本的なのです。

最終章、日本人の日本人たるゆえんは日本語にある、という内容。これぞ、まさに我が意を得たりという感じでした。
テレビの討論番組の様子を書いたところが面白い。
議論をしていると、誰が上位者であるかを競うような場となり、そのため誰がその議論にうんざりしているかを競うようになる。そうすると「あのね〜」「だから〜」のように、素人に上位者が口を挟み込む常套句がだんだん増えてくる。
確かに、政治家が記者などに対する横柄な態度は、たいていこういう心持ちから現れます。
日本人の議論では「何が正しいか」よりも、「誰が正しいことを言っている人間か」に議論が流れていき、最終的に上位者であることを勝ち取った者の意見が通るようになります。こうして、不自然に態度が大きい人間が、世の中を牛耳るようになるのです。
これも、日本語というのが、常に話者の相対的関係を規定しないと会話が成立しない、という性質を持っていることに由来します。
たくさんの人称代名詞があり、相手の呼び方次第で会話の上下関係が規定される。そういう関係性があって、日本語は初めて会話が成立するのです。
その他の日本語の話題としては、世界でほとんど唯一とも言える日本語の表意文字、表音文字のハイブリッド表記の特殊性とか、なるほどと思いました。

全体的に言えば、やや日本を卑下した傾向があるものの、常に外来の文化が基準になってしまう傾向、権威主義的な傾向、逆に無垢になって真っ白な状態で物事を吸収しようという態度、さらに日本語による上下関係の明確化、こういったものが全て日本人的である現象をうまく表現していると思いました。

2011年9月25日日曜日

あなたの人生の物語/テッド・チャン

偶然、本屋で手に取ったテッド・チャン著の「あなたの人生の物語」が面白そうだったので買ってみました。面白そうと思った理由の一つはコレ。彼のアルバム名が「あなたの人生の物語」なんですね。これが元ネタだったというわけです。
この本の中には、全部で八編の短編(中編?)が収められています。

早川書房の水色のSF文庫から出ているので、いちおうジャンルとしてはSFということになるんですが、いわゆるSFとは肌合いが違います。
いや、それは私のイメージで言っているだけで、SFというのはこういう表現も出来る懐の深いジャンルなのだと言う人もいるかもしれません。
この短編集はどれも、非常に変わった設定の世界観の中で、人々は何を考えどんな行動を取るのか、そういったことを切々と綴るというスタイル。しかし、その世界観は非常にリアルで、そしてディテールに拘り、また空想世界なのに理論的な整合性をどこまで追求します。この執拗さは半端じゃない。
ストーリーというより、世界観のアイデアを楽しむ物語です。

それぞれの短編は明確な起承転結はなく(もちろんちょっとしたオチはあるのですが)、むしろ異常な世界観の中でひたすらその日常が記述されていくだけ。そういう意味では純文学的な指向とも言えます。
非常に文章の密度が濃いので、読むのが疲れますし、短編によってはその微細なディテールの説明や、飽くなき論理追求にやや閉口してしまったのも確か。
アメリカでは、各種文学賞を受賞しているとのこと、徹底的な論理への拘りが評価の高さに繋がっているのでしょう。

私が気に入った作品は「バビロンの塔」「あなたの人生の物語」「顔の美醜について」。
この三編の特異な世界観の紹介をしてみましょう。
「バビロンの塔」は紀元前、バビロニアで行われていたバビロンの塔建設の時代、という設定。彼らはヤハウェの神を信仰しているので、旧約聖書をベースにしているのでしょう。しかし、塔がどんどん高く作られ、月や星や太陽が横を通り抜け、ついに天頂に到達する、というのはすでに我々の知っている宇宙の姿を否定して、当時信じられていた世界の形をベースにしているわけで、それだけで驚き。そういう発想がスゴいと感じました。

「あなたの人生の物語」は、宇宙人が出てくるのだけど、それ自体が全く話の中心ではなく、ある女性言語学者が産んだ子どもへの想いが切々と語られます。これが泣ける。それでも運命を受け容れるんだ、という彼女の力強さが心に残ります。そして宇宙人は単なる狂言回しに使われるだけという・・・

「顔の美醜について」は本当に面白い!
美男美女とは何なのか、人を美人だと思うとはどういうことなのか、特異な設定を作って、様々な人にいろいろな意見を語らせます。よくまあ、一つの設定でこれだけたくさんの意見を思いつけるなあ、というのが感心のしどころ。作家として社会を見る目、人を見る目の力に全く恐れ入りました。

空想世界の設定マニア的な人にはたまらない面白さだと思います。
私の感性にも無茶苦茶ヒットしました。非常に寡作な作家らしく、この本以外の作品があまり無いようですが、また追っていくべき作家が増えました。

2011年9月22日木曜日

ネットの嫌なところ

SNS、ネットが世界を変える!とか言い続けてきましたが、良い点もあれば悪い点も必ずあるものです。
ネット社会の問題はもちろんいろいろあるけれど、私の視点で二点ほど書いてみようと思います。

一つはスパム問題。
もちろん、スパムメールが代表的なものですが、もう少し適用範囲を広げて考えてみれば、何かを買っただけでしつこく送られてくるDMとか、Twitterで何かのキーワードを口走っただけでフォローしてくる謎の人とか、mixiですぐに儲かるとかなんとかプロフィールに書いている人が足跡を残したりとか、つまり、そういった赤の他人が不特定多数に向けて望まない宣伝行為をすること、全てが私にはうっとうしいです。
なんで、こんなことが起きるのでしょう。
それはネットがタダだから、に違いありません。郵便なら80円は必要なのに、メールを一通送るのにお金はかかりません。1万人にメールを送っても、100万人にメールを送ってもタダです。だから、一人でも引っ掛かってくれるなら送り側の能力のある限り、いくらでも送信すればよいわけです。
PCの作業というのはたいてい自動化可能ですから、こういったスパム的な行為はプログラムを書くだけで、達成することは可能です。それが、ネットの大量のスパムの原因となっているわけです。
だからといって、いきなりネットを有料にするわけにもいきません。
また、どこからが違法でどこまでがセーフかという線引きも難しいので、単純な取り締まりは非常に難しいです。こういった情報のノイズが無視できなくなってくると、ネット社会そのものの価値が低下していってしまいます。

もう一つは、ネットそのものの問題ではないのですが、嫌な人がよけい嫌な人になってしまう怖さがネットにはあります。
ネットはいわば知性のパワースーツなのです。賢い人はより賢くなっていく。ところが、よからぬことを考える人は、より悪い人になっていくし、過激思想の人はどんどん過激さが増していってしまいます。
私は40過ぎの男性なので、顔出し、名前出ししても、ほとんど問題は無いのですが、妙齢の女性ともなればなかなかそうもいきません。ストーカーなどに付きまとわれてはたまりません。
一度悪意を育ててしまった人は、とことんネットでその悪意を発揮しようとするでしょう。それで迷惑を被る人も少なからず出て来ます。
これまた、どこからが許されて、どこから許されないか、という線引きが微妙。だから、結局当人同士の問題にしかならない。こういうトラブルが一般化してくると、ネットは何とも薄気味悪い、人間の負の感情の巣窟に思えてきてしまうことでしょう。

人間は(自分にとって)いい人ばかりでは無いのです。より良い未来と引き替えに生ずる、ネットの負の部分をどのように解決していくのか、これもまた、隠れた大きなテーマだと思います。

2011年9月18日日曜日

SNSが変える未来─政治こそネットで

前書いた話題ですでに政治のことに言及しているわけですが、考えてみると政治こそ、どんどんネットにシステムを作ることによって良い方向に向かうんじゃないかという気がします。

例えば我々の政治活動の基本は投票ですが、投票システムなんて、ソフトウェアの仕組みでうまく作れそうな感じがします。とはいえ、なかなか電子投票が本格普及しないのは、まだまだ不具合を克服する環境が整っていないのでしょう。仕様も難しそうですし、何か起きたときの対処法なども考えておく必要があります。それにしても、いい加減誰かが決定的な電子投票システムを作ってくれないかなと思います。
これだけ電子投票がいろいろと話題になっているのにも関わらずなかなか進展しないのは、政治家に保守的な方が多いからではないでしょうか。どこかの国で採用されて、コストメリット、その正確性と迅速性、各種分析が簡単にできるなどの事例が出てくれば、財政の厳しい国はすぐに飛びつくと思うのですが・・・

ただ、電子投票がかりに難しいとしても、ネット上で政治家が自由に活動できるようになれば、もっと政治環境も良くなっていくんじゃないだろうか、という気がするのです。
今は、各政治家がブログを書いて、ツイッターをする程度。そういった各種報告は紙の時代よりも伝わりやすくはなっているけれど、まだまだお堅い感じがして人々が広く読んでいるとは言い難いと思います。
しかし、どんな人でも自分の身の回りのことや、非常に狭い範囲の政治的話題について(著作権とか、高速道路料金とか、相続税とか・・・)思うところもあるはず。そういう自分と同じ信条を持つ政治家を個別政策ごとに応援する、といった支援方法もあるでしょう。
そのようになれば、その政治家は特定の政策についてネット、SNSなどで、役所が持っている各種情報を紹介したり、国の現状について報告したりすれば、非常に効率的に情報をシェアすることが出来るかもしれません。

この流れが出来ていくと、自然と地域への利益誘導型政治家というのはだんだん減っていくのでは無いかと思います。良くも悪くも、生活上困ったことを地域の政治家に頼んで(陳情して)解決してもらう、という方法で政治家と我々はもたれ合ってきました。
ところが、様々な政策が専門化し、そのために高度な判断が必要になるにつれ、政治家には公正で冷徹な判断を下せる人間が必要になってきています。そういう専門的な判断こそ、きっちり専門的な視点でのみ行っていかないと、世の中が回らなくなってきているような気がしているのです。

ネットの得意なことは、場所を共有していなくても同じ志を持った人が語り合える場が作れるということ、もう一つは政治的圧力や、密室による判断ではなく、公開の場で公正に議論が行える場が作れるということです。
これまでの陳情型、人情型の政治では、判断を鈍らせるばかり。専門家がきちんと討論し、その様子が完全に公開されるような場で物事が決まっていく、そういうように世の中は変わるべきだと思います。

2011年9月15日木曜日

音楽のハイコンテキスト性

音楽は世界共通の言語だ、などと言われます。
でも本当にそうなのでしょうか。むしろ音楽こそ、時代、地方、文化に対する依存度が強く、ある共通の価値観を共有したコミュニティでしかその良さを共有できない、いわばハイコンテキストな芸術なのではないか、と最近は思っています。
確かに文学は、特定の言語に依存する時点で、どうしてもその言語圏でしか味わえない部分があるのは確か。それでも表現主義的でなければ翻訳することによって、その意味を伝えることは可能です。
絵画も描かれている具象的内容が文化に依存しますが、逆に抽象画になるとコンテキスト性が低くなり、全世界の人が感じるままに鑑賞することは可能な気がします。

ところが、音楽はなかなかそう一筋縄ではいきません。
その一つの理由が、音楽がそもそも祝祭的な行事と大きな相関を持っていて、特定の文化圏に非常に強く依存しているという点があるでしょう。
音楽の大きな目的の一つは、そこに集まる大勢の人々をハイな雰囲気に持っていくための手段だと思われます。特に近代以前、人々の行動原理が宗教などに大きく影響されていた時代、音楽はその一体感を醸し出すのに重要な一面を担っていました。
それが、教会で演奏されていた宗教音楽であったり、祭りの際に演奏される太鼓や笛、踊りの音楽だったりするわけです。

また、歌詞がある歌の世界では、言語依存度が高まります。
小説のような意味性の高い表現方法では、翻訳しても伝わる部分も多いのですが、音楽にのる歌詞は意味性よりも感情表現を中心としており、その場合特に特定の言語である必要性が強くなると思うのです。
ある歌がどんなに素晴らしくても、外国語に訳して歌うと、たいていの場合原語の音楽が持っていた力は大きくスポイルされてしまい、味わいも随分変わったものになってしまう、といった想いは誰にもあるのではないでしょうか。

歌だけでなく、楽器にも文化依存度は付きまといます。
楽器の音色がまた、ハイコンテキスト性を高める大きな要素となり得ます。
とはいえ、世界共通になりつつある音色セットというのがいくつか思い付きます。例えばオーケストラの音色、あるいはロックバンドの音色。こういったものは20世紀にメディアが発達したことによって、世界に広く知られるようになり、世界的な音色の共通基盤となりました。
しかし、その一方世の中にはたくさんの民族楽器があります。そういうもので演奏され続けている音楽があります。確かにオーケストラ音楽やロック系の音楽はどこの国でも一般的になりましたが、そういう音楽の中にも、様々な民族的なテイストが残っているものです。
またポップスであっても、特定の文化圏での流行りの音などもあり、新しいハイコンテキスト性が再生産されやすい状況もあると感じます。

だから何なの、という突っ込みはあるでしょう。
しかし、演奏家として誰が誰に何を伝えたいのか、ということを考え出すのなら、自らが作り出す音楽のコンテキスト依存度というのを一度点検してみてはどうかと思います。それにより活動の幅も随分変わってくるものだと感じるからです。

2011年9月11日日曜日

合唱演奏で伝えたい何か

本当に伝えなければならないことは、詩の内容のどんなところなのか、なかなかゼロから分析を始めるのは難しそうなので、分かりやすくケースごとに考えてみましょう。

●例えば「大地讃頌」のような曲
ベタな例ですいませんが、誰でも知っている邦人合唱曲の名曲。これこそ合唱の基本的な力を効果的に表現できる希有な曲といっていいと思うのです。以前この曲について書いた記事はこちら
この詩の持つ壮大なイメージには本当に圧倒されます。大地こそ人間の恵みの源である。その大地を愛そう、というメッセージは極めて普遍的で、動物としての根源的なパワーを刺激してくれます。
そう、このメッセージはロジカルなものでなく、政治的主張でもない、内容の具体性は欠けるけれどもエネルギー密度の高い感性の奥底に直接訴える強さがあります。
どんなに言葉を尽くしても、この曲では一言「母なる大地」という言葉を連呼するだけで、歌う側、聞く側にエモーショナルな感銘を与えることが出来ます。
このとき、歌詞を一字一句伝えるべき、と誰が考えるでしょうか。もちろん言葉は明瞭なほうが良いけれど、むしろ追求すべきはこの曲の持つ壮大さ、荘厳さをどのように声楽的に表現するかであり、迫力のサウンドこそこの曲にふさわしいと感じます。

●物語系
さて、上記の例と対極にあるのが、テキスト自体が一つのストーリー性を帯びているような楽曲の場合です。
仮にこのテキストに起承転結のような起伏があったとします。そうすると、音楽もこの流れで作られることになるわけですが、音楽の「転」の箇所にはテキストの「転」もあるわけで、この箇所のテキストをきちんと伝えないと、ストーリーが聴衆に伝わりません。
ここでは絶対的に歌詞を伝えることが必要になります。
そして皮肉なことに歌詞の内容を直接的に伝えようと思えば思うほど、歌詞は音楽に乗せないほうが効率が良くなります。ありていに言えば、話したほうが良く伝わります。
もちろんセリフやナレーションの入った合唱曲もありますが、そういうのはむしろ演出付きの傍流ものというイメージは強い。実際には多くの邦人合唱曲が、ある程度のストーリー性を持った詩においても、普通に音楽が付けられ、聴衆に良く理解されないまま歌われているのが実態ではないでしょうか。
ここで私が言いたい点をまとめれば、ロジカルで具体的な内容を伝えるには、音楽に乗せないほうが分かりやすく、逆にエモーショナルな漠然としたイメージを伝えたいときは音楽に乗せたほうが聴いた者を高揚させるということです。

●宗教曲
宗教曲こそ、合唱におけるハイコンテキストなジャンルの一つと言っていいでしょう。
ハイコンテキストというのは、共通した文化的背景があって始めて相互理解が成り立つというような状況を言います。もちろん、文化的な背景を知らなくても感動は出来る、という指摘もあるでしょうが、それが成り立つことは極めて少ないのが実態だと思います。
合唱を長い間続けてきた人にとって宗教曲は抵抗の無いものですし、たくさんの名曲があるのですから歌わない手はありません。しかし、演奏会で合唱に滅多に触れない一般人の感想を聞けば、その想いが決して伝わっていないように思えます。
キリスト教文化圏において宗教曲を歌うことと、そうでないところで歌うこととは、大きな差があることは否めません。
だからこそ、我々が何故宗教曲を歌うのかということを、もっと積極的に意味付けし発信していくことが必要と考えます。音楽の力だけで感動させる、というのはキレイごと。聞く者にもう少し事前情報を伝えなければ、楽曲の本質的な価値を伝えることは難しいのではないかと思います。

こんな風に考えれば考えるほど、なんだか我々はいばらの道を歩んでいるような気になります。
しかし、自分たちの歌っていることがどれだけ「伝わっていないか」をもっと知るべきだと思うし、であれば逆にもっと伝わりやすい音楽を歌うべきだし、「伝わらない」音楽は淘汰されなければいけません。狭い世界の閉ざされた価値観で物事を考えているうちに、狭い世界そのものが淘汰されかねない、と私には思えてしまうのです。

2011年9月6日火曜日

合唱演奏で伝わる何か

合唱で大事なことの一つは、詩の内容を伝えることです。
ただそのように断言するには複雑な想いを感じる人も多いでしょう。邦人曲でありがちな重い内容の現代詩が、演奏することによって本当に伝わるのか、はなはだ疑問を持つ人も多いからです。
また人によっては、はなから音楽に載っている詩にあまり大仰な意味を感じようとしない人も少なくありません。何人かは曲に付けられた詩はあまり興味ない、と言い放つ人もいます。

だから「詩の内容を伝える」ということは、もしかしたら建前としてしか機能していないのかも、と感じたりします。建前というのは非常にやっかいで、重要だと思うからみんなが取り組んでいるのに、実際には方法論が未熟だから曖昧なやり方にしかならないし、そのため結果的に詩を伝えることも困難になるという悪循環に陥ってしまいます。
このように建前化してしまったものを効果あるものに戻すには、もう一度本質から問題を解きほぐし、なぜ上手く伝わっていないかを分析した上で、現実的な解に落とし込む作業が必要です。

なぜ上手く伝わらないか、を感じるには自分たちの演奏ではなく、他人の演奏を聴くのが最適です。
できれば合唱祭やコンクールのような場で、事前情報一切無しに(プログラムを見ずに)各団体の演奏を聴き、なるべくその演奏からどんな具体的なことが伝わったか、考えてみるのです。

そういう聴き方って、あまり多くの人はしてないと思います。たいていの人は、曲名とかをプログラムでチェックして、後はアンサンブルの乱れとか、発声とか、そういう声の実技的なところしか聴かないからです。楽器を弾いている人だって、自分がやっている楽器の演奏がどれだけ上手いか、ということに焦点が行きがちなのは仕方ないことだけれど、その技術の上で音楽で何かを伝えたいのだから、もっと伝えることにも興味を持って欲しいのです。

私がそのような機会に感じるのは、例えば以下のようなことです。
1)発音(発声)が悪くて歌詞が聞こえない。
2)曲のポリフォニックな処理が複雑で、歌詞が聞こえない。
3)部分的に歌詞が分かっても、全体的に意味を繋げることが出来ない。
4)メッセージ性が強いことは伝わっても、何を伝えたいか結局分からない。

そのような状況に対して、私は自分自身が音楽活動するときに、以下のようにあるべきだと考えます。
1)悲しい歌か、楽しい歌か、最低それは伝えなくてはいけない。
2)複雑なメッセージは、複雑な音楽では伝えられない。詩の力が強いほど、音楽はむしろ簡単にすべき。(作曲する立場から)
3)宗教曲は文化的なコンテキストがあるからその演奏が成り立っている。実はそのコンテキストは、日本ではあまり理解されない。
4)歌の歌詞の半分くらいは具体的な意味が無くても構わない。読む詩と歌う詩の違いは確実にある。

上記のそれぞれについて記事になりそうな深い話題ですので、またおいおい書いていこうと思います。
いずれにしろ、私が上で言及したこととは違うことが、巷でたくさん行われているように見えます。私としては、自分の活動がそうならないために、自分なりに作曲活動、演奏活動を続けていきたいと思います。

2011年9月4日日曜日

SNSが変える未来─階層とは

前回この話を書いたとき、人間の階層構造が出来る、というやや不穏な表現を使いました。もうちょっとこの表現の真意を書いてみたいと思うのです。

階層構造というと身分制度が厳密であった頃の社会を想像するかもしれません。
それは人間に身分という属性がついてまわり、それによって社会的な序列が出来ることであり、その序列によって人々の自由が大きく左右されてしまう状態のこと。もちろん、このような社会に戻りたいワケではないし、戻りたくてももう無理なのではと思います。
私が今階層と言っているのは、専門性のレベルの違いのようなものです。
例えば、経済に詳しい人と詳しくない人がいます。専門教育を受けていなくても、経済のことが好きでよく関連する本を読んでいる人とそうでない人とは知識量はかなり違うでしょう。
私が経済のことを知りたいときに、身の回りにいる経済に精通している人の意見を聞くとします。この精通している人は、経済マニアですが専門家ではありません。彼は専門家のいろいろな意見を聞いて、そういう情報を仕入れるわけです。
このように、経済という観点から想像してみたときに、少なくとも、専門家、好事家、何も知らない人、みたいな三つの階層が考えられるわけです。

社会は絶えず、大きな判断をする必要があります。
その判断はもちろん政治家が行うわけですが、その政治家は選挙権を持つ人によって選ばれます。
しかし、私たちは選挙に出ている立候補者のことを一人一人個人的によく知っているわけでもないし、逆によく知っているとすると選択肢がないと思うかもしれません。自分の意見を託すには、もっと自分が個人的によく知っている人で、その人に判断を委ねても良いと思える人にしたいものです。
ならば、ジャンルごとに自分の判断を友人に委任するような仕組みを考えたらどうかと思うわけです。

もう少し具体的に考えてみましょう。
例えば昨今話題に事欠かない増税問題。一人一人は税金が多いのは嫌に決まっているから、単純に増やすか減らすかと国民に問うと減らすほうが優勢になるはず。けれど、結果的に国家が破産してしまえば元も子もありません。
そういう問題について、自分より詳しく、かつこの人の意見は正しいと思える人に、自分の意見を委任したらどうかと思うわけです。さらに委任された人は、自分の持つ全ての票をさらに自分が信任する人に委任します。
形式的には国民投票みたいな形ですが、一人一人が必ず投票しなくてもよく、自分が信頼する人に投票権を委任します。このような形を取ることにより、中間的な立ち位置にする人たちの言論が活発になり、より議論も深まるような気がします。結果的に、今よりもう少し質の高い判断が出来るようになるのではないかと思うわけです。

たまたま政治の話を書きましたが、万事の意志決定がその通りになっていけば、世の中の意志決定はより効率的に、そして正しくなるのではと私は勝手に予想しています。そのためのツールとしてSNSやネットは最適だと私は思うのです。

2011年8月30日火曜日

私的コンクール観

今私が唯一演奏活動している団体であるヴォア・ヴェールが、2002年の創団以来初めて合唱コンクールに参加しました。昨日の静岡県大会で、嬉しいことに県代表となりましたので、10/2の関東大会に出場することになりました。関東の皆さま、以後お見知りおきを。

私自身はヴォア・ヴェールの前身の合唱団や某職場合唱団で何度かコンクールに出たり、県大会で臨時の指揮者をやったりと、コンクールには結構関わっています。その中で、コンクールというものについてどう考えるか、自分なりにいろいろ思うところはあるのです。
そんな私のコンクール観について2,3挙げてみようと思います。

一つは、コンクールの結果について。
多くの人が発表後いろいろと結果を論評したりするわけですが、後で結果に対して不満を言う人は結構います。しかし、私は審査結果に腹を立てるのは愚かしいことだと考えます。
そもそもコンクールに公平性などを求めてはいけません。というか、音楽に公平な序列を付けることは不可能です。そういう不可能性を前提として結果を受け容れることが、私の考え方。
エキセントリックな審査をした審査員について、その人の傾向を分析することは構いませんが、批判しても意味はありません。それはその人の主観による判断でしかないからです。
審査員は権威などではなく、やや能力は高いけれど、単なる我々と同じ音楽仲間の一人です。そう思えば、何となくいろいろなことに大らかな気持ちになってくるじゃないですか。

次に、コンクールは近隣の団体との名刺交換のようなものだ、と思います。
直接会って挨拶することもあるでしょうし、そうでなくてもプログラムを見て、どこどこの団は今年何人でどんな曲を歌っているか、を見るだけでも相手の様子は伝わります。順番によっては客席で聴くことも可能ですから、そうやっていろいろな合唱団の印象を記憶していくわけです。
県内や支部の他の合唱団が、どのような人員で、どのような指導者で、どのような選曲をどのように演奏しているか、そういうことを知り合うことが、またコンクールの楽しみの一つでもあります。
そこから、学ぶべきことは学び、反面教師なところがあれば密かに心に刻み、自分自身の合唱経験に生かしていければそれは良いことに違いありません。

あともう一つ、これは私の特殊事情ですけれど・・・、コンクールは自作品を世に問う良い機会でもあります。
昔の合唱団でも3回ほど、そして今年のコンクールでも私のオリジナル作品を自由曲で演奏しています。歌わされる団員がどう思っているか、今ひとつ本心が見えませんが、いつも皆さんには私のわがままを聞いて頂き嬉しく思っています。
しかし、これは審査員にとっても嫌な団体だろうなと思います。
自分の作曲した曲を指揮してコンクールに出られたら、曲作りや様式の審査はほとんど無理。逆に審査員が作曲家の場合、曲に突っ込みたい気持ちもあるだろうなあ、なんて思ったりもします。実際には、これまでの経験でいうと、曲そのもの以前の発声とか発音とかの声楽的能力のみで評価されていたような気もします。
ただ、自分のオリジナル曲を多くの合唱好きの人に聞いて欲しい、と思う身にとっては、合唱コンクールは最適な場だと感じます。うまくやれば、それは私たちの団の大きな個性にも繋がるので、みんなが了承してくれる限りは、今後もオリジナル曲をコンクールで演奏していこうと考えています。

2011年8月25日木曜日

SNSが変える未来

SNSが世界を根本から変えるインパクトがあるのでは、とこの前書きました。
じゃあ、どんな風に変わるのか、と考えてみたくなるのが私なのです。

一頃、「mixi疲れ」なんていうことが言われた時期がありました。
たくさんの人と友達になって、メッセージをやり取りしているうちに、返事を書くことが義務みたいになってきて、あまりに大量の返事を書くのに疲れ果て、突然mixiを止めてしまう、といった現象です。
普段の生活では、何気なく会話を無視したり、適当にあしらったりすることがあっても、まあ何となく許される場合はあるものです。ところがネットになると、無視したことはあからさまだし、友達申請をして受理されなければ「どうしてだろう」と考えてしまいます。

それでも多くの友人の生活情報が入ってきたら、面白いものには声をかけたくなるし、逆に自分にコメントをもらえれば嬉しいものです。そういったポジティブな感情をベースにこういうサービスは設計されるものですが、人間ですから、いつだってポジティブにいられるわけじゃありません。
心の底では、アイツうるさいなぁ、目障りだなあ、と思っていても、そんなことを直接言うわけにもいかず、無理してレスを付けているうちに、どんどんストレスも溜まっていくでしょう。

いきなりマイナスのことばかり言ってしまいましたが、こういうことを総合していくと、ネットで生活をベースとしたコミュニケーションがそれほど盛んになるとは私には思えないのです。
現に、PCに向かってそのようなコミュニケーションをひたすら行うことを良いことだと思わない人も多いことでしょう。今さらそういう人をオタクだとは言わないでしょうが、人間関係なんてまずはリアルな交流があってなんぼのものです。

ネットはもっと、具体的な情報・知識を得たり、自分が得するものを探したりするようなドライな関係で利用するほうが圧倒的に効率的に思えます。ある意味ビジネスライクな関係です。
もちろん、これは金銭的な冷たい関係という意味ではありません。
どんなビジネスだって、お金よりまず先に、人が喜ぶモノやコトを提供したいという気持ちが先にあるわけで、そんな思いをかなえるツールとして、ネットやSNSは実に魅力的です。ビジネスを成功させようと思うと、ネットやSNSには小規模なビジネスが効率を上げられるようなリソースがたくさんあることに気付きます。

そのように考えると、ネットを上手く活用出来る人とは、ネットを利用して何らかの情報・知識・サービスを提供できる人、自分自身のアイデアや作品を提供できる人、といったタイプの人々です。
実際、世の中に知識・情報・作品を提供できる人々は、全体の2割くらい。残りの8割はそれを利用する人。そういうように世の中が変わっていくとすれば、所属する組織とは別次元で、人間の階層構造が出来るのではないかと思うのです。
もちろんその2割の人々は、将来的にはネット・SNSを利用して収入を得ることが出来る人々です。

芸能人、有名人となれば、その人の私生活の情報にも価値が出て来ますが、そうでなければ友人の私生活は周りの人しか興味の無いこと。私には、それがSNSの本質とはあまり思えないのです。
確かに、自分が見た面白いモノ、ちょっとした事件、嬉しかったこと、などを友人に伝えて、反応があれば嬉しいでしょうが、それはネットだけでなくリアルな生活とほどよく調和してなんぼのもの。

SNSの本質とは、他人に影響を与える2割の人々が形成され、その人たちが中心になって、マスコミに代わる新しいメディアになったり、芸術家の作品発表の場になったり、人々の教育の場になったり、ビジネスのためのツールになったりすることだと私は思うのです。

2011年8月21日日曜日

CC合唱曲に「政治家」追加

CC合唱曲シリーズに男声合唱曲「政治家」を追加しました。
楽譜のPDFファイルとMIDIファイルをココにアップしてあります。ヘンなタイトルの詩と思われるでしょうが、いちおう宮沢賢治の詩。
全文はこんな詩です。

政治家

あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
 羊歯(しだ)の葉と雲
    世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
そういうやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであろう


古今東西、政治家というものはあまり変わらないようで、特に昨今の政治の混迷ぶりには、まさにこんな詩と同じ思いを感じる人も多いことでしょう。
この詩では、もはやそういう政治家に諦めの感情を抱いており、こんなバカバカしいゴタゴタも何万年後、何億年後には単なる人間の石炭紀として無に帰すだろう、その程度のつまらないことさ、といった気持ちがひしひしと伝わってきます。

宮沢賢治は文学、音楽などを残した芸術家として知られますが、その活動から純粋理系精神を感じ取ることが出来ます。硬質で、宇宙的で、内面的なその指向が、政治家的な人間性とは全く接点を持ち得なかったことは想像に難くありません。
政治家と地質時代の石炭紀と言う言葉、もっとも相容れない二つの言葉を並置させ、その存在の卑しさをことさらに引き立てようとした賢治の気持ちは、今でも十分に通用すると思います。

そんな皮肉に富んだ詩を、男声合唱で今、歌ったら面白いなと考えたわけです。
なるべく、簡単に歌えるようにシンプルに書こうと思っていたのですが、出来上がってみたら結局私印満載のちょっとややこしい感じになってしまったかもしれません。後半の変拍子はやや難儀するかもしれませんが、言葉をしゃべるように、まるでラップのような感覚を自分なりに追求してこんな感じになってしまいました。
政治に一家言あるオヤジ世代の方々に取り上げてもらえると大変嬉しいですね。

民主党代表選も近づきつつある昨今、あまりの候補者の乱立で民主党の烏合の衆ぶりを露呈しているわけですが、そんな世相を笑い飛ばすつもりで、シャレで歌ってもらえると嬉しいです。
もちろん、ボーカロイド等で音源化してくれるのも大歓迎!

2011年8月18日木曜日

一万年の進化爆発

この本の基本的なスタンスは今でも人類の進化は爆発的に進んでいるということです。
進化というと、何万年も何十万年もかけてゆっくり種が変わっていく、というイメージがあります。人類が登場した20万年前から、それほど時間も経っていないので、確かに文化・技術は随分進んだけれども、基本的に人間としての能力や方向性は20万年前から何ら変わっていない、というのが一般的な知識人の思考でした。
特にジャレド・ダイヤモンド氏の名著「銃・病原菌・鉄」では、人種による能力の違いは無く、環境の違いで文化の伝搬が異なってしまったため、不幸な文明の出会いが生まれてしまった、と主張しました。また、病原菌の耐性でアメリカ、オセアニアの原住民が不利であったため、という原因にも触れています。その考えの大元はニューギニアで出会った人々が、他の国の人々と何ら変わりない知性を持っていたというところから始まっています。

しかし、この本では「銃・病原菌・鉄」を非常に意識していて、むしろ人間はここ1万年の間にその進化を加速させ、その進化の度合いの違いで社会が変わっていった、あるいは社会の変化が進化の方向性を変えたといった、というスタンスを取ります。
実例が豊富で、一つ一つ唸らされる話。しかし、その実例は進化と言うには小さな変化であり、結局進化というのはそういう小さな形質獲得の積み重ねによるものなんだなと言うことを改めて思い起こさせてくれます。
また、実例と共に著者の大胆な推論も多く、やや危うさを感じつつも、その内容が大変興味深かったのです。

第二章では、人類が数万年前から急に独創性を発揮し始めた理由として、ネアンデルタール人との混血のおかげではないかという推論をしています。数万年前のヨーロッパでは人間とネアンデルタール人が共存していたことが知られています。これまで、仮に生殖行為が可能だったとしても、ネアンデルタール人と人間で子供を作るなど無いだろう、と思われていました。
ところが、この著者はそういう生理的な反応とは別次元で、そういう変な人間がいてもおかしくない、と簡単に肯定。その混血児が、ネアンデルタール人の何らかの遺伝子を譲り受け、そこから人間は強力な創造性を得たのではないかと推論します。

第三章以降、一万年前から人類は農耕を始めたことにより、その進化のスピードを加速させている、と主張します。数十人単位で狩猟生活をしていると、新しい形質を獲得してもそれが人類全体に及ぶには時間がかかります。ところが農耕を始めることによって、人々が集積し、富の蓄積が可能になり、多くの発明者が生まれ、競争も生まれます。有利になったものは多くの子孫を残し、それが特定の遺伝子を増やす速度を速めることになる、というのです。
農耕生活になり、人々の栄養状況が良くなったと一般には思われますが、必ずしもそうでなかったと著者は言います。養える人が増えると、単純に子供を多く産み、人が集まっていることで多くの感染症が現れ、飢饉が起きるとたくさんの人が死にました。
狩猟採集から農耕で、人間の行動様式も変わり、体格も体質も変わりました。肌・髪・目の色が薄くなり、頭蓋骨も小さくなったのです。
社会も狩猟時代の平等な関係から、富の蓄積による支配者階級の出現、それが国家に繋がり、治安が良くなっていきます。農業以前は常に争いの連続で、それが人口抑制のメカニズムにもなっていたのですが、農業社会になり人口は爆発的に増えました。それにより、さらに社会は階層構造を持つようになってしまいました。

後半では、乳糖耐性という新しい形質を獲得した人々が、ヨーロッパ、中東で大きな影響力を持ったのではないかという著者の推論が展開されています。
歴史も生物学的な特質で説明可能だというわけです。特にインド・ヨーロッパ語族がなぜ世界でここまで広まったのか、という理由にこの乳糖耐性を利用しているのが面白い。
乳糖耐性を得た遊牧民族は牛乳を栄養分に出来るので、牛を飼うことによって生活していくことが可能になりました。すでに農耕を始めて定住している人々は、移動可能な遊牧民に簡単に支配されていくようになります。このように、一部の乳糖耐性を獲得した民族の言語が、世界の言語を席捲するほどの勢力になったのではないかと言うわけです。

最後の章では、アシュケナージ系ユダヤ人(ドイツ系ユダヤ人)がなぜ賢いのか、ということを遺伝子レベルで実証しようとしています。
ヨーロッパのユダヤ人は迫害されていたがため、同族同士で結婚し長い間、遺伝的な純血を保つことになりました。また、彼らは農業ではなく人々が忌み嫌った金融業を中心に仕事をしたのですが、そこではより数理能力の高い人材が必要でした。そんな折、何らかの突然変異である形質を獲得したことが、ユダヤ人の能力を高めることに繋がったというのです。
しかし、その形質は深刻な遺伝病をもたらします。一つ持てば非常に賢くなれるのに、両親から二つとももらうと数年しか生きられないような遺伝病を発症します。その特定の遺伝病は、アシュケナージ系ユダヤ人でずば抜けて多いのだそうです。
ここ数世紀での学者・文化人におけるユダヤ人の多さは、誰しもが気付くところ。
やや優生学に繋がる危険な推論ではあるけれど、特定の遺伝子が人間の能力に影響を与えている、ということは誰もがうすうす感じているわけで、それを正々堂々と主張する著者の姿勢は大変頼もしく感じました。

いろいろな話題が書いてあり、大変興味深く読めたのですが、もう少し図表などがあったり、説明がコンパクトになっていると嬉しかったと思います。
恐らく、今後も分子生物学からはたくさんの知見が現れ、それが単に生物としての学問に留まらず、社会・歴史・心理・医療といろいろな分野に大きく影響を与えるものと思います。そのためには、我々人間はもっと賢くなければならないと感じたのでした。

2011年8月16日火曜日

SNSとの付き合い方

中東の民主化にFacebookが大きく影響したと言われています。
そして、イギリスでもTwitterなどで暴動が拡散したとか。しかし、相手が独裁者なら革命として賞賛されるSNSの威力も、イギリスのような民主国家では単なる暴動のきっかけにされてしまいます。それを見て参加しようと思った人の感覚は同じようなものなのかもしれないのに。
しかも、イギリスでは政府がTwitterやFacebookを遮断するかも、なんて話まで出てます。中東や中国ならともかく、ITの恩恵を受けていたヨーロッパでそんな話が出るなんて、ちょっと信じられません。

さらに最近のニュースでは、とある学校では先生と生徒はFacebookで友達になってはいけない、というルールを決めたといった報道もあります。
確かに、いくら仲良しであったとしても、先生の情報が生徒に筒抜けではまずいのかもしれません。しかし、そういう利害関係で結ばれている人たちは世の中にたくさんいると思います。医者と患者とか、検事と弁護士とか、警察とヤクザとか、ライバル企業同士とか・・・。

いくら個人が自分の責任で誰と友達になるか考えるべき、といっても、世の中の全ての人が正しい判断を出来るわけでもないし、そもそも何をもって正しい判断か、ということ自体曖昧な気もします。
結局、TwitterやFacebookといったSNSを使う以上、どこまでも情報は大っぴらになっていくし、本来隠すべき情報さえ表に出やすくなるという現象は避けられないように思うのです。

私の場合、これらのSNSでとりあえず会社の仕事の話題を直接出さなければ、それほど問題になるような事態を引き起こすことはありません。しかし、仕事の話題で無くてもあまり言うべきでないことを言って、微妙な感じになってしまうことは無いこともないのです。
もし、Facebook的なSNSで、会社の人とやり取りしていてクローズドだからと仕事に関係する話題など出れば、問題になることは今後もっと出てくると思います。実際、他の人の書き込みなどを見ていると、そういう不安は、いずれの日か現実になるような危険を感じます。

逆にそういった事態を恐れると、本来Twitterでもプライベートっぽいつぶやきだから面白いのに、自分の利害関係者が増えてくるに従い公共性を纏いだし、淡泊な事実を告げるだけのものになっていきがちです。そして生の声で無くなるほど人々の興味は失せていくでしょう。
今はフリーな立場の有名人が他人との軋轢込みでSNSをうまく使いこなしている感じですが、それを見た私のような一般の人が同じようなことをし始めると、いろいろな問題が生じます。そして日本の場合、そういう問題への対処として簡単に会社での使用禁止とか、そういうバカな方向に向かうような気がするのです。

もちろん、使用禁止などと言うのは一過性の話。
もう少し長い目で見たとき、SNSはただの流行りなんかではなく、世界を根本から変えるくらいのインパクトが実はあるような気がしています。どんなふうに変わるかは未だに読めないのですけど・・・

2011年8月11日木曜日

音楽で飯は食えるか? まつきあゆむの場合

まつきあゆむというアーティストをご存じでしょうか。
たまたま某講演で本人の話を聞く機会があり、すっかり影響された私は彼の新しいアルバム「あなたの人生の物語」を購入しました。29曲入り2000円です。

このアルバムはどのように購入するかというと、まつきあゆむ本人のサイトに行き、必要な説明を読んだ上で、直接本人にメールを送るのです。そうすると決済用のPayPalのURLが送られてきて、送金処理をするとアルバムがデータで送られてきます。中身はmp3や各種リーフレットとしてのjpegファイルです。
いずれも、個人で出来る範囲の方法であり、このシステムを構築するのに大きな負担も必要ありません。つまりやる気があれば誰でも構築できる程度のものです。
まつきあゆむの場合、こういったスタイルで音楽を売ること自体が話題になったこともあり、現在この方法だけで生活が成り立っているとのこと。レコード会社からマージンを取られることも無いので、アルバムの値段2000円はまるまる彼の懐に入ります。単純に計算すると、500人購入で100万円の収入です。

では、具体的にまつきあゆむはどのようにしてこの音楽を作っているのでしょう。
これらの音楽製作は基本的に全て宅録です。本人がコンピュータ一つで音楽を作っているのです。もちろん、作詞作曲は本人。DAWという音楽製作ソフトの上で、自ら楽器を弾き、歌を歌い、ドラムや効果音などをプログラミングし、さらにエフェクトをかけ、ミックスダウンしてマスターを作ります。これらはいずれもそれなりにプロフェッショナルな作業ではあるのですが、情報を収集さえすれば、個人でも不可能ではありません。
事実、世の中にはたくさんの音楽製作マニアがいて、例えばボーカロイド界隈でもプロ並みの楽曲を作っているアマチュアアーティストがたくさんいるのはご存じの通り。

以上のことは、単に事実を述べているに過ぎません。
そして、誰でもこんなことが簡単に出来るわけではありません。
それは具体的に彼のサイトに行って、その中身を見たり、実際に彼の作った音楽を聴けば分かることです。彼の音楽家としての才能、アーティストとしてのスタンスや、曲の魅力、サイト全体やTwitterからの発信などから透けて見える個性や人間的な魅力、そういったものがあるからこそこういう事例が成り立っているのです。
また、誰かがブレークしたとき、その理由は必ずしも本人の才能や魅力だけでは無い側面もあります。有名な人に取り上げられたとか、有力なチャンネルで紹介されたとか、そういうきっかけもとても重要です。

しかし、このような事例は、レコード会社主導の売れなくなれば捨てられるアーティスト生産システムとは、明らかに方向性が違います。
才能のあるアーティストが地道に自分の作品を発表し続け、それを誰かが認めてくれ、Twitterなどで簡単に拡散され、ある日いきなり音楽で飯が食える、という状況が実現する可能性があるのです。
そのために必要なのは、アーティストの不断の努力です。歌が上手いだけでなく、楽器が上手いだけでなく、場合によっては事務作業も厭わず、ある程度のITリテラシーを持ちつつ、なおかつ個人が魅力的で、常に情報発信を心がける、そういうことをずっとやり続けられる人間でなければなりません。

私自身も昔からJ-POPまがいのオリジナル曲を作っていた時期もあるので、まつきあゆむのような事例は大変興味を持ちました。
じゃあ、彼の作った音楽はどうだったかって? もちろん、素晴らしかったです。一見歌はヘタウマっぽく聞こえるけど、ああいった語りかけとボーカルエフェクトの組み合わせの妙が独特のメランコリーを生んでいるように感じました。詩もいいですね。今どきのIT用語をうまく詩情に乗せていて、熱く未来を語るインテリ好青年という感じ。もし興味があったら聴いてみて下さい。

2011年8月7日日曜日

聞こえる音と出す音の関係

しばらく合唱団の並びの話を書きました。
特に少人数の団体の場合、並びによって随分音楽が変わってしまうことはあります。
その理由は、単純に並びを変えたことによる音響の違いだけではありません。団員各人の耳に聞こえる音が変わるために、各人がそれに合わせて無意識のうちに自分の音量を変化させているからです。

人は聞こえる音によって、自分の出す音を無意識に変えます。これは、日常生活でも良く経験すること。
例えば、うるさい人混みの中で携帯電話を使って通話したとき、あなたの声は自然と大きくなっています。電話で話している相手は、なんでそんな大きな声で話しているんだろう、と逆に変に思うことでしょう。
なぜ、そうなるかというと、うるさい環境では電話の相手の声が聞こえづらくなります。そうすると、無意識のうちに話す人は、こちらも大きな声で話さないと向こうが聞こえづらいだろうと判断するからです。
飲み屋でワイワイ話すとき、人々の声は大きくなりがちです。それは周りがうるさいから、それに負けないように自分の声を大きくする必要があるからです。それと同じことを、無意味だと気付かずに携帯電話でもついついやってしまうわけです。

音楽でも同じ現象は起きます。
大合唱とかオケ付きのほうが一人一人は大きな声を出します。本当は、少人数のときこそ音量を出して欲しいのに、自分の耳に入る音量が小さいと、人はそれに応じて自分の出す音量を小さくしまいがち。
少人数で歌ってばかりの人がたまに大合唱団で歌うと、無意識に大きな声で歌ってしまい、後ですごく疲れたとか言うのは良くあること。
ただ、これは慣れの問題でもあるので、いつも大人数なら、いつも少人数なら、それに合わせてだんだん適正な音量になっていきます。
ですから、並びが変わったり、歌う場所が変わったりしたときの直後というのは、音量バランスが大きく崩れる可能性があります。

このことを各人や指揮者が知っているのと知らないとでは、心持ちや指示の仕方も変わってくるでしょう。
本番の舞台では、たいていの場合、いつもより聞こえる音が小さくなります。それは練習場では逃げ場の無い音を思う存分聞いていたのに、舞台では自分たちの出した音がホール全体に拡がり、自分の耳に届く量が減るからです。
また並びを変えたときも同様に、自分の耳に聞こえる音量が小さくなると、やはり小さい音量を出すでしょう。お互いが向かい合って歌っていたあとに、同じ方向に向かって歌うように変えただけで、聞こえる音量は随分減ってしまいます。そうすると、全体の音量も急に減ります。

そう考えてみると、なるべく本番と同じように歌う練習をするためには、本番と同じ並びで、かつやや響きの少ない場所、あるいは広い場所の片隅で(これはちょっと難しいかも)、練習をするということになります。
ただし団員が多い場合、少人数よりも音響の変化が少ないので、あまり大げさに考える必要はないと思います。特に少人数(30人以下)の場合、こういったことを注意する必要があるでしょう。

8/9追記
上記の話はあくまで一般論ですし、場合によってはここで言及していない条件に依存する場合もあります。
例えば、本番が良く響く場所で、自分たちの演奏が良く聞こえるのなら、練習も響きが多いところでやったほうが良いかもしれません。

あと響かないところで練習して、指揮者が本番での音響をうまく想像できないと、ひたすら音量を出せ、という指示をしてしまう可能性があります。この場合は、響かないところで物足りなく感じ、音量を出せと指示する指導者の感覚に問題があるかもしれません。

そういう意味では、響く場所や、響かない場所、いろいろなところで練習して、指揮者や個人の応用力を高めていく、というのは大切なことだと思います。

2011年8月5日金曜日

アーティスト症候群/大野左紀子

今どき何でもアーティストと呼ばれる時代。20年くらい前は、J-POP系の人たちをアーティストなんて読んでなかったはずですが、今ではそう呼んでもすっかり違和感が無くなっています。
理容師がヘア・アーティストだったり、メイクさんがメイクアップ・アーティストだったり、多くの職種の名前にアーティストが付くようになった現在の時代感を、この本ではバッサバッサと痛快に斬ってくれます。

特に芸能人アーティストの章は、ここまで言っていいのってくらい辛辣。
やり玉に挙がっているのは、ジュディ・オング、八代亜紀、工藤静香、片岡鶴太郎、ジミー大西、藤井フミヤ、石井竜也の7人。ジミー大西には比較的好意も感じたけれど、工藤静香、片岡鶴太郎、藤井フミヤ、石井竜也あたりのけなし方は半端無いです。
まあ、そういう話を面白おかしく書いて話題になろうという気持ちもあるのかもしれないけれど、美術にずっと携わってきた人が、こういう芸能人アーティストの実際のレベルをどう見てるのか、という本音が聞けるのは興味深いことです。
私とて、絵画は門外漢ですから、芸能人なのに○○コンクールに入賞したなんて言われると「へぇーすごい才能あるんだねぇ」などと思わず言ってしまいますが、どんなことにもそれなりの裏はあるものですね。

率直に言えば、この本はアートをめぐる現実を冷静に分析したようなものとはちょっと違うと思います。
著者自身がアーティストして20年近く活動し、そして自らそのアーティスト活動を止めた経験をもっており、現実の社会の中でアートがどのように扱われているかを身を持って体験しています。
その著者の経験と、いまどきの風潮を、軽妙かつ辛口に綴ったエッセイ風の内容といったらいいでしょうか。美大の受験時の、予備校側の涙ぐましい努力のエピソードは、涙を流して笑えました。

それでも、長くアーティスト活動をしていた人の感覚は鋭いです。ジャンルは違えど、私もこの本が全体に纏っている雰囲気はとても共感できます。アートに対して人々が近視眼的に行動するとこうなるんだよ、という警告は、むしろアーティストになりたい熱を持て余している若者には、まだ身体では理解出来ないような気がします。

最終章、特に若い女性の自分語り的な、社会とかそういうものと無縁な「だって好きなんだもん」で完結してしまうアーティスト活動の話、本当に今の時代の雰囲気を表していると思うのです。
今や日本は慣性で回り続けるだけの思考停止した社会。これでいいのかと考えても、そういう行為が組織に負のベクトルを生んでしまいます。
そんなとき、若者が社会とのコミットを避け、自分の気持ち良いものだけを集めてそれをアートとして認められたらラッキーみたいな、どこまでも都合の良い感覚を持ちたくなる気持ちは理解出来ます。

やや本書と離れるのだけれど、最近は何かを作ることさえ、仕組まれたプラットフォームに乗せられて大量消費されるような搾取される側にいるような気がしてきました。
本当にクリエイティブなのは、社会のプラットフォームを作る側なのではないか、これこそが常識を壊したり作ったりする、現代の最も創造的な活動なのではないか、とも思えます。
著者が自らのアーティスト活動を止め、本を書いたり評論したりする気持ちも、ある意味、さらに大きな世の中の仕組みへの挑戦なのかもしれないと感じました。

私自身、現実にはサラリーマンとして生きているわけですが、長い目で見たとき単なるアーティスト活動というより、何か社会に繋がるような創造的な活動をしていきたいと改めて感じています。

2011年8月2日火曜日

コクリコ坂から

スタジオジブリの映画。監督は宮崎駿の息子の宮崎吾郎。
あとで調べると製作には相当の宮崎親子の確執があった、などという情報もあるようですが(その様子がNHKでドキュメンタリーになるらしい)、私としては非常に素直に良い映画だなと思いました。
宮崎駿モノは嫌いじゃないけど、そのステレオタイプさがやや引っ掛かりを感じていて、そういう意味ではこの映画にそういう部分が少なかったのが良かったのかも。

舞台は1963年の横浜のとある高校。
舞台設定としては団塊世代、涙チョチョ切れ的な感じ。しかし、「ALWAYS」みたいに、そういった昭和のあれこれを懐かしむような見え見えの演出も特になく、非常にさり気なく当時の風俗を描いていたのは好感。もちろん、街並みや看板の文字など随所に当時の風俗が盛り込まれ、マニアックな楽しみも多少は残してあるようです。

しかも高校生のバンカラ風土がまた泣けるじゃないですか。
学生運動などを知っている50代以上なら、それなりにツボにはまるのではないかと思います。私も大学時代には、多少のバンカラ風土が残っていたので、ぎりぎり理解出来る世代のつもり。
逆に40代以下になると、学生のあの無駄な熱さ、インテリ指向、歌を歌って団結、みたいなノリは理解しがたいだろうし、気持ち悪く感じるのかも。そうでもないのかな。

そんな雰囲気の中、まさかの少女漫画的恋愛ドラマと、韓国ドラマ的出生の秘密が絡むという展開。
えーっ、と内心思いながら、さすがジブリが選んだ原作だけあって、最終的には非常に清潔なストーリーに仕上がっていました。
下品なドラマだと、知ってしまったことを秘密にし続けようとして敵に知られ脅されたりとか、思い詰めて自殺未遂するとか、アホな展開になるのですが、この話では主人公同士があっさり秘密を話してしまったあたり逆にリアリティがあったし、その後で主人公のメル(海)が密かに寝床で泣くところなど思わず感情移入してしまいます。

あと、印象的なのは高校生から見た大人像。
大人って本当に大人だよなあ、みたいな、今の私から見ても憧れるような大人がきっちり描かれている。アニメの中とは言え、高校生の頃に思っていたカッコいい大人像を、もう一度思い出してみたくなるような気持ちになりました。
あの頃なりたかった大人に、今の自分はなっているのか、ちょっとそんなことまで感じてしまいました。

少年少女の恋愛が軸とはいえ、非常に良質で、懐古趣味を上手く孕んだ中高年向けの映画だと思いました。

2011年7月30日土曜日

合唱団の並び その4

最後に、パート内の並びについて考えてみます。
パート内の並びとは、個人個人を並べるときに、どういう要素を重視すべきかということです。

実を言うと、私自身あまりこの点についてはこだわってきませんでした。
私が関わった団では、特に誰かが指示したりせず、各自が好きな場所になんとなく立って、なんとなく並びを決めていたりします。
しかし、少人数合唱団ならそれでも良いのですが、50人近くなってくると、誰かがきちんと並びを考えないとワイワイやってるだけで練習時間も無駄になってしまいます。そういう意味では、必要悪的に誰かが考えなければいけない事態も当然あり得ます。
また、フェスティバル的な催しならば、知らない人同士で集まって歌うこともあるでしょうから、こういう場合も練習時間を効率よく使うために、スタッフが事前に並びをある程度決めておく必要はあるでしょう。

そんなとき、誰をどのように配置するか、というのは、何か法則があるようであんまり無いような気もします。
私が昔からしっくり来なかったのは、歌える人を真ん中や後方に位置させ、パート全体に聞こえさせようとする考え方。確かに発想自体は自然なのですが、その考えの中に、歌える人の声を聞かなければ歌えない人がいる、という前提があるようでそれが気に入らなかったのです。
本番前に、誰かの声を聞かないと歌えない人がいる、のであれば、それは歌えない人の怠慢か、指導する側の不備なのではないか、という気がします。
その一方、アンサンブルなのだから、他人の声を聞かなければいけないし、パートにある程度影響力のある人がアンサンブルの核としてパートの音をまとめる、という考え方はあると思います。
従って、歌える人を聞こえる位置にする、というのは、「歌えない人」を助けるためではなく、パートの音の緊密度を高めるためだと考えるならば、もう少し違う配置になるかもしれません。

これとは逆に、やや暴れ馬的な人をどこに配置するか、という議論も良く聞きます。
当然、こういう人は最後列とかに置かれやすいわけです。しかし、最後列だから聞かれにくい訳でもないし、より自由に暴れ馬になってもらっても困るわけで、これも上の議論同様、本来練習で問題無く歌えるようになってもらうことが一番正しい解決方法ではないかと思います。

あとはやはり美観の問題。
背の高い人と低い人をあまりバラバラにすると、凹凸が出来て美観的にはよろしくありません。ただ、いまどきあまりこういう点を重視するほど、美観を重視するシチュエーションは無いような気がします。そこまで美観を強調しようとすると、合唱団の中の「個人」の存在を否定するようなイメージを感じてしまい、逆にあまり気持ちの良いものではありません。

残念ながら、今回の議論に関しては、結論らしいものはありません。
せいぜい声楽家並みに歌える人を、パートの核として聞こえやすい位置に置く、というくらい。よくありがちな「歌えない人」「暴れ馬な人」に対して、並びで解決する、というのは私は違うと思います。
あとは、ディビジョンの状況とか、他パートの助っ人とか、ソロがある場合のソロの人の配置とか、所作のような演出がある場合とか、障害のある方の出入りの問題とか、そういう個別の事情はいくらでもあるでしょうから、そういったものをそれぞれで判断して頂くしかないでしょう。

特に30人以下くらいの団であれば、無理に誰かが統制をとるより、団内の雰囲気で何となく決めたとしても実際の演奏にそれほど影響を与えるとは思いません。今のところ、私はその手の団しか関わっていないので、しばらくはパート内配置にそれほど拘わりを持つことはないでしょう。

2011年7月27日水曜日

働かないアリに意義がある/長谷川英祐

やや刺激的なタイトルで、ずぼらな私を肯定してもらいたい、と思う多くの人がついつい手に取ってしまいそうな本。私もそんな思いを持ちつつ、この手の進化理論は好きなので読んでみました。
著者はハチやアリといった社会性昆虫の研究をしています。ご存じの通り、これらの昆虫は、子供を作る女王バチ、女王アリと、一生子供も作らず働くだけの働きバチ、働きアリで一つのコロニーが形成されます。
一見ワーカー役のアリは、一生懸命働いているように見えるのですが、そのうちの7割ほどは実はほとんど働いていないようなのです。
地面をせわしなく動いているアリしか見ていない我々は、ついつい働き者のアリという感覚を抱いてしまいますが、実は巣の中で多くの働きもしないワーカーが存在しています。

昆虫と言っても、各個体は一様ではなく、それぞれどのくらい忙しくなったら働くか、という閾値が個体によって違うようなのです。
だから働かないアリは、忙しくなると働き出します。忙しくなればなる程、働くアリは増えていくのです。一見多くの働かないアリを抱えることは非効率に見えますが、様々な環境変動や、非常事態に備え、そのような余剰の労働力を抱えていることが進化的に有利になっているようなのです。
また、さらに面白いことに、そのような働かないアリばかり集めて、一つの巣に住まわせると、不思議なことにそのうちの何匹は働くようになります。結局、自然の状態のアリの集団とほとんど同じ状態になってしまうのだそうです。
特に二つ目の話は示唆に富んでいて、人間の社会にも何か面白い類例を発見できそう。もともと、人間の環境と昆虫を比べて楽しむ、というのが本書のスタンスなんで、身につまされるところは多々あるのです。

しかし、3章以降、利他主義、利己主義や、個と群れの話になってくると、以前読んだ「利己的な遺伝子」の話題に非常に近くなります。初めて知る方には面白いかもしれませんが、私にはやや既視感が拭えませんでした。
特に全ての行動を、遺伝子が自らを残そうと思う意志、で説明するというスタンスは「利己的な遺伝子」そのもの。その割には、この超有名な本の話が出なかったのはちょっと意外。
ただ、集団に裏切り者はつきものである、ということについては、確かにもっと一般の人は知ってもいいと思う内容です。我々は、つい物事を倫理的に判断しがちですが、動物の世界では血も涙も無いだまし合いの生き方が当たり前なのです。そこまで達観して人を眺めてみると、また人間が好きになれるかも。

面白い例を挙げたり、ときに笑いを誘うような文章を挟みながら、軽妙なタッチで厳しい動物の進化の世界を垣間見せてくれます。また、このジャンルもまだまだ調べることがたくさんあることも良く理解出来ました。
理想状況としての適者生存はあるにしても、世の中は例外だらけなわけで、それぞれの生物ごとにそれ相応の理由を持って進化してきたことは、私たち一人一人の生き方にも何か通じるところがあるような気もしてきました。

2011年7月24日日曜日

合唱団の並び その3

今回は、団全体の並びの形について考えてみます。
以下のような4つのタイプを挙げてみました。
Narabi3

まずは最も一般的な横一直線型。あるいは、単純な長方形型。
美観的にオーソドックスですし、音響的にも安定しているので、ごくごく普通に使われる並び。
この場合、各団員は通常前を向いて歌いますから、両端に行くほど、また前列に行くほど、指揮者の見える角度がきつくなります。
指揮者が団に対してある程度離れていると良いのですが、少人数だと近距離の場合も多く、場所によって指揮者がかなり見えにくいという問題があります。

指揮者が見えにくい、という状況を極力避けたのが、扇形。
特に少人数アンサンブルには多いですし、指揮者がいない場合などは、アイコンタクトを取るため、物理的にこうせざるを得ないことも多いでしょう。
教会のような十分に響くような場所においては、歌い手が真正面を向かなくてもそこそこ聞こえる場合があります。こういった場所で少人数で歌う場合、扇形に配置するのがベストな選択と思われます。
また、見た目のイメージとして、合唱団全体の一体感のようなものを感じさせます。お互いがお互いをみながらアンサンブルしている雰囲気を醸し出すことが可能です。
しかし、これは諸刃の刃で、ある程度団員が多くなると、歌い手が指揮者ばかりを見ていてお客様不在な音楽という印象を与えることもあります。ある程度、大きめな合唱団では扇形を多少緩くするなど、工夫の予知はあるかもしれません。

歌い手が前を見ながら、かつ指揮者が見えにくいという欠点を補うのが台形型。
一番指揮者が見えにくい、両端の前列をカットし、歌い手の指揮者が見える角度をある範囲内に収めることが可能です。
うまくシンメトリに配置すれば美観的にも悪くありません。いずれにしてもそれほど大きくない合唱団で用いることになります。混声の場合は、合唱団の並び その1でも書いた「前後型」と相性が良いです。
ただし、後段両端の歌い手は合唱団全体の重心から遠い位置になり、やや歌いにくくなるでしょう。そういう意味ではある程度の実力のある団で無いと難しいかもしれません。
扇形に比べるとアットホームなアンサンブル感よりも、端正でフォーマルな印象を与えるかもしれません。

最後は、一人一人が舞台全体に散らばる拡散型。
これはもはや演出の一つと考えていいかもしれません。少なくとも、普通の合唱曲を敢えてこのような形で歌う必要は無いでしょう。楽譜がこのような配置を指示しているか、オペラ的な背景のある音楽か、お客さんを巻き込んで楽しく歌いましょう的な状況を作るか、そのような状況が考えられます。
基本的には、団員同士の距離が遠くなって、モニタリングがしづらくなり、指揮者も見えにくくなるので歌う側の負担は大きくなります。
もっとも、演出としての効果は大きいので、演奏会の中で最後の1曲のときとか、派手で面白い曲を敢えてこの並びにしてお客さんを楽しませようとか、そういうアイデアには使えると思います。

詳細に見れば、もっといろいろな並びがありそうですが、大まかに言えば結局、美観、会場の響き、歌いやすさ、音楽の印象などによって、決まるものと思われます。こういった工夫は演奏者(指揮者)の創造性が発揮される部分ですから、センスある選択をしたいものです。

2011年7月21日木曜日

CC合唱曲に「屈折率」追加

CC合唱曲と呼ぶようにしてから、初めての曲をアップ。

宮沢賢治の「屈折率」という詩を、混声四部の合唱曲にしてみました。
楽譜とMIDIはこちら

CC合唱曲のコンセプト通り、商用目的でなければ、自由に楽譜をコピーして歌ってもらって構いません。
音楽的には、div.が無く、少人数で歌えることを念頭に置いているので、少人数のアンサンブル練習などで取り上げてもらえると、良い練習になるのではないかと思います。

詩については、このページにとても良い解説が書いてありました。
詩だけ読むと、なかなかそこまで深く解釈することは難しく、宮沢賢治という詩人がそもそも心の奥底にある本心を直接的に表現することを良しとしないタイプの詩人に思えます。
この詩のタイトルを「屈折率」としているのも、言葉の連なりのままでは今ひとつ意味が分かりません。しかし、屈折率のおかげで、苦労しているこの道の行き先が明るく見えていただけだった、と解釈すると、若いながら宮沢賢治が人生をどのように考えていたかを伺い知ることができます。

まあ、そのように深く詩を鑑賞するかはともかく、この詩の持っている寂寥感のようなものを表現してみたつもりです。
まずは、一度上のページに行ってMIDIを聞いてみてください。音もシンプルで短い曲ですが、この曲を気に入ってもらえると大変嬉しいです。

※曲中の「アラツデイン」は次のランプという言葉から想像すると、「アラジン」のことかと思われます。そのようなことを念頭に置いて、歌う際の発音は考えてみて下さい。

2011年7月18日月曜日

合唱団の並び その2

パートの配置の続き。
Narabi2
ちょっと特殊な形を3つくらい考えてみました。

最初はサンドイッチ型。
イベントなどでオケ付き合唱曲の演奏企画を行い、合唱団員を公募すると、大量の女声が集まります。男声は何とか近場の合唱団からかき集めたりしますが、それでも全然女声に対して人数の比が悪い場合は良くあることです。
音量的には、男声は経験者をかき集め、女声は比較的経験の浅い人が多かったりで、それほどバランスは悪くないのですが、横並び型ではあまりに視覚的に不均等過ぎる場合があります。
特にオケ付きといった華やかな演奏会の場において、見栄えの悪さは余計気になるもの。
この並びは、まあほとんどの場合音響ではなく、そういった見栄えの悪さを解消するための並びと考えて良いでしょう。
また、ある程度の大人数合唱団になった場合(経験が少ない人も増えるので)、パート間のアンサンブルの乱れより、パートが揃わないことのほうが問題になります。そうした場合、なるべく各パートを正方形に近い形にした方が各人の距離が近くなり、パート内の乱れを防ぎやすくなるという効果もあると思います。

次は、両サイド高声型。
これは、たいていの場合、選曲に依存するパートの並びです。
二つの高声部が対比されたり、呼応するような音楽の場合、その音響効果を高めるためにこういった並びを取ります。オーケストラでも、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンを向かい合わせにする場合がありますが、そういうのと発想は同じだと思います。
特に二重合唱のような場合、第一合唱と第二合唱は高声を外側にして、左右対称に並ぶのが一般的です。二重合唱は当然のごとく、二つの合唱が呼応するように書かれており、音響も左右対称である必要があるからです。
音響に関しては、ココでも書きましたが、高音ほど直進性が高くパンニングの効果が高いのです。逆に低声は回り込みが多く定位間が低くなるため、むしろ真ん中に位置させるのは理にかなっています。

最後にバラバラ型。
練習時には、周りに頼らないで歌う訓練をするため、各パートバラバラにして練習することがあります。それにより、一人一人の自覚が高まり、合唱団全体の音圧が高まることが実感できます。
この並びは、その効果を期待することが出来ますが、その代償も相当大きいです。少なくとも、パートによる音響効果は皆無になります。
また、視覚的にはバラバラになりますから、もはやこれは見栄えを良くするとは別の価値観で考えねばなりません。
例えば、オペラで群衆が合唱するとき、群衆はSATBには分かれませんし、群衆の感じを出すために、敢えてバラバラに配置させるという手はあります。そういう意味では、この並びを選択するのは演出という行為に近いとも言えます。
パートの分離効果は全く無いので、音楽的にはホモフォニックな曲が良いでしょう。
例えば、祝祭的なイベントの場で、民謡を比較的簡単なアレンジで(民族衣装などを着て)、一人一人が語りかけるように歌うようなシチュエーションなどでは有効かもしれません。

パート並びについては、楽譜に具体的な指示がある場合もありますし、他にもいろいろなバリエーションがあると思います。とりあえず、私が思い付いた5つの形について論じてみました。

2011年7月16日土曜日

合唱団の並び その1

たまにはごく一般的な合唱の話題など。

合唱団の並び方については、いろいろな方法やそれにまつわる考え方がありますが、今回は、私自身が並びについて考えていることをまとめてみようと思います。あくまで私見ですので、ご意見あればコメントや掲示板などでお話しできると嬉しいです。

まず合唱団の並びの議論は、大きく三つに分けたいと思います。
1.パートの配置
2.全体の形
3.パート内の配置
です。

ということで、まずはパートの配置について。
パートの並びで重要な要素は、ざっくり言ってしまえば「見た目」と「音響」。
一応芸術活動ですから、人間が大量に並んだときの見栄えというのは、それなりの美観が必要だと思われます。特にパートの並びについては、混声の場合、男声と女声の差は圧倒的なので、この境目をどこに持っていくか、が美観上のポイントとなるでしょう。
音響については、演奏する曲に大きく依存しますが、特に時間ズレの効果(ポリフォニー、フーガと呼ばれるような)がある場合それを立体的に示してあげる必要があります。そのとき、並びがその音響に大きな影響を与えるはずです。

Narabi1

では、具体的な並びについて。
一般的には、混声の場合、上記の二つの並び方が多いように思います。
この中で、最もオーソドックであり、また音響効果が高いのは横並び型です。
特に各パートの場所が完全に分散されており、そのパンニングの効果はほぼ完璧に近いです。合唱曲は古くからポリフォニーの効果が多用されており、そのような立体音響をもっとも完璧な形で表現できます。また、女声、男声の対比なども効果的です。
ただし、問題なのは美観。多くの合唱団では、男声より女声の方が多いので、アルトとテナーの境目は右寄りになります。ある程度ならまあ許せますが、6:4を超えるくらいになると、ちょっと気になります。
視覚は演奏の印象にも大きく影響を与えます。男声が少なく見えると、それだけでバランスの悪い音楽に思えてしまうかもしれません。
また、ベースにとって女声、テナーにとってソプラノは隣り合っていません。女声も同様。こういった距離感がアンサンブルの乱れを起こす可能性もあり、特に少人数アカペラの場合、音楽の揺らぎの幅も大きくなるので、この距離感はときに致命的な破綻を引き起こすことがあります。
一般的には、男女比がそれほど激しくなく、人数が大きめの合唱団なら、ほとんど迷い無くこの並びでOKでしょう。

次に良く見るのが、前後型。
ほとんどの場合、男声が後ろ、女声が前という形を取ります。これはどのような男女比であっても、シンメトリ的には完璧で美観上のポイントは高いです。
また、各パートの距離が横並び型に比べると近くなるので、ポリフォニックな複雑な音楽などでアンサンブルの乱れを抑える効果が出てくると思います。
その代わりに犠牲になるのが音響的効果です。
各パートのポリフォニーの場合、やや音の来る範囲が広くなるので、パンニングの効果は薄くなります。ただし、残響の多いホールや、奥行きのあるホールではもともと聴衆が音響の立体性を感じづらい場合もあるので、敢えて左右のパンニングにそれほど拘らなければ、この並びはそれなりに魅力的です。
ただし、各パートが横に長くなるので、一人一人が自信を持って歌えるような実力が多少必要です。
そのようなことを考えると、30人以下くらいで男声が少なく、かつ比較的ポリフォニックな(やや複雑な)曲を、きっちりとアンサンブルを揃えながら演奏したい、という場合に効果的な並びだと思います。

2011年7月13日水曜日

知らせたいことより知りたいことを伝える

「可視化の行く末」で、何もかも公開したらどうだというラジカルな意見を言ってみました。
まあ、そこまで行かないにしても、何をパブリックにしていくか、ということが今後の企業や、集団のあり方を変えていくことでしょう。

例えば、会社の公式な発表は広報を通じて行われます。
新しい商品やサービスも広報が発表します。そこには事実だけが単刀直入に書かれ、背景などもごく一般的なことしか書いてありません。その内容は、企業側がお客さんに知らせたいと思っていることなのですが、多くの人がそんな広報による商品発表を楽しみにして、その文章を一言一言食い入るように読むでしょうか。
実際には、新商品はコマーシャルなどで、面白おかしく宣伝されたり、芸能人がテレビで勧めていたり、有名ブロガーがネットで記事を書いていたり、そういうことによって商品の良さが伝わっていくものです。
しかし、何より一般の人が知りたいのは、その商品やサービスを開発した、生の開発者の声じゃないかなと思うのです。
その商品を企画する時にどんな議論があり、何を重要視したか。そのために何を犠牲にしたか。誰がどんな思いを持って開発したのか・・・そういう裏話的なことこそ、知りたいと思う気持ちはあると思います。

考えるに、情報は一次ソースこそ、最も言葉の威力が強くなるものです。
あるアーティストが最新作を発表したとき、その作品に興味がある人は、その人自身が語った言葉を聞いてみたい。その人が語ったことを、別の人が聞いて書いた記事は、そこで一段勢いを失いますし、伝える人が義務的であればあるほど、内容はどんどんつまらなくなることでしょう。
あるいは、芸能ゴシップみたいに伝えることで商売している人たちは、あることないこと書き立て、かえって本質を伝えることが難しくなってしまうかもしれません。

そう考えると当事者が発信する情報は、企業にとっても、ある意味、最も効果的な宣伝になるかもしれないのです。
もちろん、誰もが外に向かって、きっちりとした言葉で、内容のある発言が出来るわけでは無いでしょう。それでも、ものごとの中心にいた人物の言葉は多少稚拙であったとしても、十分傾聴に値すると思います。
人々が知りたいことを企業側が伝えようとするなら、広報のような組織よりは、組織内の個人が直接発信する方がよほど効果的なのではないでしょうか。

そもそも今まで広報が一括して組織のスポークスマンになっていたのは、むしろ効率を考えてのこと。
インターネットが広まった今となっては、もっと効率の良い広報の仕方があるような気がします。
組織内の個人が直接発信するようになれば、発信する個人の発信力が問われるようになります。こういった事態は組織に全く新しい価値観を要求することになるでしょう。
社内政治に長けた人物より、広く世の中に影響を与えることが出来る人のほうが、端的に会社に貢献することが出来るようになるわけですから。
ソーシャルメディアにより、世の中がどんどん変わっていくことが本当に楽しみなのです。

2011年7月10日日曜日

大発見/東京事変

東京事変のニューアルバム。今、J-POPで唯一追いかけてるのは椎名林檎のみになってしまいました。
確かにサウンドや、アレンジなどの点において非常に凝っているのだとは思うけれど、正直なところ昔と比べるとエッジが立っている感じはあまりしません。引っ掛かりが少ないという感じ。
椎名林檎自体が、林檎色を東京事変で薄めようとしていて、バンドとしての全体の音楽を作ろうとしているのだけど、私としてはアーティストとしての椎名林檎の世界を聞きたいのであって、そこに本質的な意図の違いがあるのだろうと思われます。
特に亀田氏の曲は椎名林檎が扱うには、あまりにJ-POPワールドに染まっており、氏の重要な立ち位置は理解するにしても、事変では曲を書かない方がいいかなあなどと思ったりしました。

とはいえ、いくつか佳曲もありました。
「電気のない都市」は時期的にタイムリーな曲。ピアノベースのバラード風の曲で、アーティストが今という時代を切り取る、重要な仕事をした作品だと感じました。
あとは、「空が鳴っている」の疾走感が気持ちいい。それから、「ドーパミント!」と「女の子は誰でも」のジャズ的な雰囲気は気に入りました。シングルで先行で出された「天国へようこそ」のややホラー的な雰囲気は初期の椎名林檎を感じさせ、これぞ林檎という感じで大好きです。

やや、アーティストとして安定しかかっている林檎ワールドですが、またまた何か大きなことをやらかして欲しいものです。

2011年7月7日木曜日

可視化の行く末

以前、こんな記事を書きました。
ネット時代になって、隠すべきものを隠しきることが難しくなり、逆に公開してしまったからこそ、人々の注目を浴びるようになった、という話。

Twitterや、Facebookにより個人が進んで個人情報をさらけ出す時代です。
人々は、毎日のたわいもないことをせっせとネットに書き込みます。
毎日会う人には話せないようなことも、PC相手には何となく書けてしまう。しかし、その向こうに自分を知る多くの人がいることは、理屈で分かっていても感情ではあまりリアリティがありません。

そうやって、毎日いろいろな言葉を垂れ流しているうちに、知らず知らずに多くのことを自分は伝えています。
もちろんそれを受け取る人も情報を取捨選択していますから、面白くないことは流されてしまうかもしれないけれど、そういう情報を商売に使おうと思っている人から見れば、これほどおいしいことはありません。
今でも、Twitterで何か特殊な名詞を書くと、それに関わる人や団体からフォローが付くのは、ほんとうに驚きです。人海戦術で毎日検索をやっているなら、その努力には頭が下がります。まあ、その努力に見合うだけのリターンはないでしょうが・・・

そのようなことをいろいろ考えたとき、私たちの多くの活動は仕事に費やされているわけだから、必然的に仕事のことを書くことも多くなるだろうと予想されるわけです。
そうなると、業務上知り得る秘密情報なども場合によっては漏れることもあるでしょう。大きな事件にはならないにしても、誰がどこに出張したとか、今日は仕事でひどい目に遭ったとか、いう内容は、業務上それなりに危うい情報とも言えます。
そういうことを心配して、会社内で秘密を漏らさないように社内教育をするということもあるでしょう。まさか、社員のTwitter/Facebook禁止、などという会社は無いとは思いますが、会社側からは、ある程度仕事のことを書くなというプレッシャーをかけてくるものです。

しかし、そんなことは生理に反している気がします。
みんな何かを書きたくてしょうがない。そういうマグマは止めようが無いと思うのです。
それならいっそのこと、会社内でそういうソーシャルな仕組みを徹底的に使ってしまったらどうか、という考えも成り立たないでしょうか。

今は、企業はそういったツールを宣伝として使っている程度ですが、そんな甘っちょろい使用方法でなく、もう社内の人が顔出し、名前出しで、どんどん仕事の話を書いちゃうわけです。
会議なんか全てカメラを付けて、生放送しちゃいます。絶対居眠りはいなくなります。

これは、意外と面白いかもと思ったりします。
新企画もダダ漏れ。場合によっては、社外の人も議論に参加できる。誰がどのくらい仕事をしているかも、恐らく非常に分かりやすくなるでしょう。
何より、生のライブな企業活動を見たいという野次馬がたくさん現れ、それが逆に企業の宣伝効果に繋がるかもしれません。そうやって宣伝されることが企業にプラスになるのなら、社外秘で仕事を進めるより、よほどビジネス的に成功しそうな気もします。

企業でなくても、学校の職員会議とか、市役所、県庁の仕事ぶりとか、さすがに警察はまずいかもしれませんが、公務員なんかも全て仕事内容が公開されたら、ものすごいことになりそう。

でも、着実にそんな社会に向かって我々は歩んでいるような気もするわけです。

2011年7月4日月曜日

ホームページの場所を変えてみる

私が自分のホームページを開設したのが1995年。もう16年前。
日本でインターネットとか言われ始めた頃ですから、世の中的にも相当早いタイミングだったと思っています。

それ以来、ずーっとASAHIネットを使ってきたわけですが、もはやプロバイダはどこどこだから安心とか、もうそんなことを云々するレベルではなくなってきたように感じます。使用料も、今やネットの世界で無料はすっかり当たり前になってしまいました。
なので、安心だからお金払ってでも・・・というのは、もはやネットでは意味の無いような行為。自分にとって実利的かどうか、非常にドライに割り切るべきだとようやく踏ん切りが付いてきました。

というわけで、ホームページの場所をASAHIネットから新しい場所(FC2)に移していこうと思います。
行き先には特に何の思い入れも無く、ドライに割り切ろうと思って、安くてサイズが多くてある程度規模が大きめな感じのところにしてみました。良いかどうかは私も分かりません。

ということで、新しいホームページは
◆メインページ◆
http://jca03205.web.fc2.com/


◆オリジナル作品の紹介◆
http://jca03205.web.fc2.com/work/mywork.htm#myworknotice


それから今さらながら
◆掲示板◆
http://jca03205.bbs.fc2.com/

も作ってみました。(無料で簡単に作れる機能があったので・・・)
こちらは、メールほどおかたく無い形で、オープンに私への問い合わせを受け付ける場所になったらいいなと思っています。

もし、ブックマークしている方がいるようでしたら、ブラウザなどの変更をお願いします。
恐らく、ASAHIネットのほうは、放置状態になっていくか、こちらに誘導するようにしていきます。まあ今はブログに直接来る方が多いので、実際にはほとんど問題無いような気がしています。
またこれに伴い、メインページのカウンターも取ってしまいました。こういったことももはや古い慣習のような気がしてきました。

今後は、オリジナル作品のページなどに、もう少し豊富に資料や、音源、楽譜、場合によってはインタラクティブなネットならではの試み(例えばJavascriptとか使って)を追加してみたいです。

では、今後ともよろしくお願いします。

2011年7月1日金曜日

自転車置場の議論

パーキンソンの凡俗法則というのがあるそうです。
これは、どうでもいいような些細な議論になぜか時間を費やしてしまう傾向を表した言葉。

この中で出てくる例として、原子炉の建設については、非常に規模が大きく複雑で理解が難しいため、一般の人は専門家がきちんと進めているだろうと思い、あまり意義を唱えず、着々と建設計画が進んでしまう。しかし、その一方自転車置場の屋根の素材をどうするか、アルミにするかトタンにするか、など誰でも分かりやすい議論になると途端に議論が白熱し、いくらでも時間を費やしてしまいます。

この話が再び話題になったのは、FreeBSDの開発用メーリングリスト内での議論のこと。
ソフトウェア開発においても、非常に専門的で難しい内容がある反面、誰でも分かりやすい議論というのがあります。
一つ例に挙げられるのが、コーディングスタイルの話。
一つのプロジェクト内では、コーディングスタイルを統一したほうが、成果物の内容は統一されるし、その結果生産性も上がるはずなのですが、プログラマ各自がこれまでやってきた仕事などのバックボーンがあり、実際にスタイルを統一するのは難しいものです。
ここでいうスタイルとは、プログラムを書くときにどこにスペースを入れるか、括弧は前に書くか後ろに書くか、どのタイミングで改行するか、関数や変数の名前の付け方はどうするか、とかそういったプログラムの見た目の書き方のこと。
もちろん、改行があろうと無かろうと中身が同じであればプログラムは同じように動きますが、同じプロジェクト内であれば、見た目も統一しておきたいものです。
ところが、その内容を統一しようと検討を始めると、その議論は全く収拾が付かなくなることが多い。そういう現象は多くのプログラマが経験していることです。

翻って社会一般で考えてみても、同じようなことは起こりえます。
例えば、マンションの一年に一回の管理組合の総会など。修繕計画のような大規模で、専門的な話は詳細を話されてもなかなか理解しづらいので、しょうがなく承認してしまう。
ところが、マンション内のマナーの問題とか、花の水やりの経費とか、対象が分かりやすくなった途端に口を挟む人が増え出してしまう、といったような。

こういったときの心理状態は、難しい内容の議論では貢献できなかったと思う参加者が、自分の分かる範囲の議論で少しでも貢献したいと思う、どちらかというと責任感のようなものに根ざしている事が多く、それだけになかなか制御が難しいわけです。

世の中にはたくさんの議論すべき難しい問題があるにも関わらず、ほとんどの人はその本質的な意味を理解できず、内々で勝手に進んでしまうような危険な計画もたくさん思い当たります。
しかし、そうなり易い一つの理由として、こういった「自転車置場の議論」に時間を取られすぎている実態というのも各自が認識すべきなのです。
私たちは、難しくても将来の自分たちの社会がどうあるべきか、という議論に正面から取り組む必要があり、そのためにはどうしても各自のリテラシーの向上が不可欠です。

何か、つまらないことで議論が白熱したとき、これは「自転車置き場の議論」だ、と認識し、少しでもそういう議論を収束させていくような行動もまた必要なのでないかと感じました。

2011年6月28日火曜日

地球の論点/スチュアート・ブラント

スチュアート・ブラントはアメリカの未来学者。生物学を学んだ後、1968年に"Whole Earth Catalog"という雑誌を創刊。それがベストセラーになって、カウンターカルチャーのバイブルとまで言われるようになりました。若き日のスティーヴ・ジョブスがその雑誌に熱狂したというエピソード、そして最終号の裏表紙に書かれていた "Stay hungry, Stay foolish" という言葉をジョブスが引用したことなどで、この著者や雑誌もよく知られるようになったのではないでしょうか。

本書は、そのスチュアート・ブラントが2009年に出版した"Whole Earth Discipline"の邦訳版。
これが、大震災後、原発事故の後で出版されたことがまた興味深いです。なぜなら、本書で著者は原発推進の立場をとっているからです。

著者のスタンスは、一貫しています。
地球温暖化を防ぐため、我々は何をしなければならないのか、純粋に科学的に考察し、理論や原則ではなくあくまで結果が大事といったような、実用主義を貫きます。
そのためには、政治や経済といった側面も重要です。どのような大義ある計画であっても、お金がかかれば反対者は必ず出てくるし、為政者が変われば計画も凍結されてしまいます。
現実主義、実用主義を取ろうとするなら、経済的な尺度や、政治的な活動もまた重要であるという当たり前のことを主張しているわけです。

そして、本来環境運動の中心人物であった著者が達した結論は、むしろ多くのエコロジストが反対するような「都市化」「原発」「遺伝子組み換え」の推進でした。

そもそも、我々がぼんやりと考えている文明化が地球環境悪化の原因だ、という観点を、いろんな尺度から再点検しています。
では、その文明化っていうのはいつからのことなのでしょう。
例えば、ネイティブアメリカンがベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸に渡ってきた際、この大陸にもともといた大型哺乳類は、人間が狩りをした結果ほとんどが絶滅してしまいました。
あるいは、人間が8000年ほど前から稲作などの農業を開始した結果、森林が減り、一気に温暖化が進んだことが分かっています。
つまり、人間はほとんどその活動の最初期から、ある意味、環境を悪化させてきたのであり、それもまた自然の一つであると言えなくもないわけです。

そうである以上、原始人のような生活に戻ったり、質素につつましく生きることが地球を助ける方法などではなく、もっと積極的に科学の力を利用し、我々の叡智を結集するしか方法は無いと説きます。
「遺伝子組み換え」については、まさに私が昔から思ってきたことを、理論的に補強してくれたと感じました。つまり、人類がこれまで行ってきた品種改良というのは、間接的な遺伝子組み換えであるし、ウイルスレベルでみたら、遺伝子がどんどん突然変異で組み変わってしまうのはむしろ自然だとも言えるわけです。それを人為的にちょっとだけ背中を押してあげるだけ。
現に薬品の開発では、遺伝子組み換えは十分な実績を挙げており、なんとなく嫌だから反対、という態度がいかに非科学的かを論じています。

問題は原発のところ。
確かに、太陽発電、風力発電はコストが高い。それに同じ発電量を出すのに、必要な土地の大きさも原発と較べると桁違いに広くなってしまいます。
著者は、一度事故を起こすともう原発を推進できなくなるから、相当な注意をもって原発の運用がされているはずだ・・・と書いてあるのですが、残念ながら、その期待は裏切られてしまいました。
私たちは、二酸化炭素を吐き出しまくる発電にまだまだ頼らなくてはなりません。
少なくとも、二酸化炭素を出さない原発はグリーンな発電方法なのです。だからこそ、今回の事故は多くの温暖化阻止のために原発を推進してきた多くの人を裏切ってしまったことになりました。
我々は放射能を恐れるのと同時に、温暖化も恐れなければならないのです。本当に原発事故が世界に与えた影響は大きいのです。

最後に著者は、こういった大きな問題を解決するのに、夢想家、科学者、エンジニアの三者がうまく分担して事を進めなければいけないことを説きます。
夢想家とはロマンチストのことで、カリスマ性を持った政治家、あるいはジャーナリストといった存在。政治や資金を動かす人たち。科学者は方法を発案し理論化、そして検証する。最後にエンジニアは、その計画をきちっと遂行し、現実に必要なモノを作り出していきます。

著者の提唱する「地球工学」といった考え方にこれからどれだけ多くの人が協力し、従事していくのか、それ如何で地球温暖化対策が本当に実を結ぶかが決まっていきます。私も、今後こういった動きにいろいろ興味を抱きながら応援していきたいと思います。

2011年6月26日日曜日

二群の女声合唱のための組曲「へんしん」楽譜動画アップ

すでにいくつかのチャンネルでお知らせしていますが、ブログでもまとめて紹介します。

もう2年ほど前になりますが、横浜で活動する女声合唱団アンサンブルMoraの1stコンサートで初演された、二群の女声合唱のための組曲「へんしん」の演奏と、楽譜をまとめて動画にして YouTube にアップしました。
演奏会のお知らせの記事はこちら

また、各曲の動画へのリンクも貼っておきます。
1.子供八人生みました
2.こっちにおいで
3.ひぐらし
4.雛祭り
5.猫屋敷
6.うるんで見える

本作は無伴奏で二群の合唱というスタイルを取っています。
二群というのは、音楽的な面白さという側面もあるのですが、テキストに現れる登場人物を代弁させる意味合いも持っています。例えば、1コアが私、2コアがお母さん、といったような役割分担です。
聞いて分かりやすく、なおかつ楽しめる音楽を目指して作曲した組曲です。とはいえ、もう作曲したのは10年前なんだよね〜

詩の世界がまた、とても私好みなのです。
全体的に、子供向け、というかファンシーな感じに捉えられがちですが、よく読んでみると結構ブラックな味わいのあるテキストなのです。
そもそも子供の感性って、大人の常識が足りない分、自由奔放なものを持っているはずなのだけれど、一般的に子供向けのテキストというのは、どうしても嘘くさい倫理性を纏ってしまうもの。だから、きれいな表現の中にも、恐怖とか死とか、そういうものがきちんと織り込んであるほうが、よほど子供の心象を良く表現しているような感じがするわけです。
この詩を書いた宮本さんとは、初演の際に初めてお会いして、いろいろお話ができたのは大変良い想い出です。

出版も考えてはいるのですが、今までの経験からなかなか数も出そうにないので、まずは動画を見て頂いて、演奏を希望される方に楽譜は直接お送りしようと思っています。
私まで楽譜希望のメールを頂ければ、PDFで添付して返信いたしますので、ご遠慮なくお申し付け下さい。

2011年6月23日木曜日

妄想技術:寄付フォロー

私自身、寄付とは無縁の生活をしているのであまり体感したことは無かったのですが、もちろん世の中には寄付で活動している多くの団体があります。基本的に何とか財団、みたいなのは大元の資本金が寄付から成り立っているのですし、寄付金を集め関連する人々に分配するような法人もたくさんあります(もちろん話題の発端になったNPOも)。
しかし、依然として一般的に経済は売った、買ったで成り立っているわけですが、この中における寄付の比率がもっともっと高まっていったら面白いのに、と思うわけです。

それで一発アイデアですが、Twitterで「寄付フォロー」みたいな機能があったらどうだろう、と思い付いたのです。
基本的には、それほど難しい機能ではありません。
例えば、あなたがTwitterで誰かをフォローする際、通常のフォローに加え、寄付フォローという選択肢が増えます。寄付フォローの際には金額を設定します。例えば月額10円、100円、200円、500円、1000円から選ぶ、みたいな。もちろんそのためには、クレジットカードの登録などは必要になることでしょう。
寄付フォローすると、フォローされた人には、その寄付金が直接手に入ります。まあ、Twitter社に多少の手数料は取られてもいいとしましょう。

そもそもTwitterって、有名人の言動を直接見聞きできることがその魅力なので、自分の好きなアーティスト、言論人、政治家に対する直接支援を寄付することによって行えるなら、その人に対する共感度はさらに増していくものと思います。
それが、Twitterというシンプルな仕組みと同期することで、より気軽に寄付することに繋がるのではと思うのです。10円みたいな超低価格寄付もありとすれば、その気軽さはさらに増していくのではないでしょうか。
Twitterのフォローはいつでも簡単に出来ますし、解除も簡単。受ける側はブロックだって可能。それなら、寄付といっても後腐れない関係として利用し易いのではないでしょうか。

前も書いたように、寄付というのは需要・供給とか、最適な価格とかという観念があまりそぐわない行為です。支援したいという積極的、前向きな気持ちの表れであり、したくない人は全然する必要はないのです。
こういった経済観、価値観が広まっていけば、売り上げ=人気、のような価値観も崩れていき、より本質的なアート、言論、政治が育っていくのではないかという気がするのです。

2011年6月20日月曜日

合唱名曲選:嫁ぐ娘にーその4

もう少し、具体的に音楽的な魅力を挙げてみたいと思います。

・多声部による重厚なアカペラ合唱の魅力
邦人合唱曲の主流がピアノ伴奏にある中で、アカペラ合唱というのはほとんどシンプルなものが多かった時代、このような厚みのある声部によって構成された複雑なアカペラ合唱曲というのは、それだけで独自性があったのではないかと推察します。今でこそ、たくさんの重厚な(むしろ難しすぎる)アカペラ合唱曲がありますが、当時は(約50年前)一部の現代音楽以外では珍しかったのではないでしょうか。

・温故知新的なポリフォニー処理
そもそも合唱の源流はルネサンス音楽にあり、その時代にすでにポリフォニーという技法が大きく発展していました。和声が複雑になるにつれ、西洋音楽においてもポリフォニー処理はそれほど一般的でなくなってきましたし、その流れを汲む邦人合唱曲では全編ポリフォニックな音楽というのは、ほとんど聞きません。
しかし、「嫁ぐ娘に」はどこまでもホモフォニックな書法を嫌います。実際楽譜を見れば分かりますが、6声全部が同じリズムで同じ歌詞を歌う箇所は全くありません。
常に複数の声部が対比され、同じメロディが模倣され、言葉が時間をずらして連呼されます。圧巻なのは、3曲目のAllegro。複数の主題が絡み合いながら、リズムの鮮烈さと言葉の強さが見事に表現されています。こういった書法は、その後のアカペラ邦人合唱曲に大きく影響を与えたと思います。

・高次テンション音の使用と移ろう調性
シンプルな和音中心の当時のアカペラ合唱曲において、7th,9th,11th といったテンション音の使用はまだ日本では珍しかったと思います。
今でこそ、決めの和音の maj7th, 9th は常套ですが、今風なオシャレな音使いともちょっと違った、アブストラクトな雰囲気が独特な浮遊感を作り上げており、それが泣きのコンテキストを不思議な格調高さに感じさせます。
また、その場の音楽の流れに逆らわずに和音を連ねた結果、特定の調性を楽譜上に書き込むのがあまり意味のない状態になり、結果的に作曲家は全て調号を放棄するという書法を採用しました。
これにより、音楽の解釈から調性は解き放たれたのですが、依然として音楽は調性音楽の枠からは外れていません。現代音楽のような佇まいをもつ楽譜ながら、随所に調性を感じさせる安心感を生んでおり、それが歌う側のモチベーションを維持させているようにも感じられます。

・多彩なヴォカリーズ
歌詞を歌わないパートは、M、A、だけでなく、ル、ラ、ルン、ランが使われます。
カタカナで書いてあるのは時代を感じさせますが、これ、当時の感覚からすれば、まるで少女漫画のようで、ほとんどギャグのように思われたかもしれません。人によっては、こんなふざけた歌詞を歌えるか、くらいの意見もあったのではと思います。
もちろん、今ではこんなの全然当たり前。もっともっとヘンテコなヴォカリーズが使われることもしばしば。だからこそ、芸術的アカペラ音楽のほとんど最初期に、こういったヴォカリーズを採用した三善晃のセンスについて、私は敬意を表したいと思います。

ひとまず、このシリーズ終えますが、また歌っているうちに何か新しく思うところが出て来たら、書き足すかもしれません。

2011年6月18日土曜日

寄付社会は成り立つか?

たまたまTwitterで、NPO法案が通って、NPOに寄付すると税金が減額されるようになった、ということを知りました。
まだまだこの法案に対して認知度は低いだろうし、どこに寄付したらよいかも皆目検討は付きませんが、寄付することで払う税金が安くなる、逆に言えば税金を払うくらいなら、そのお金は自分の好きなように使いたい、ということに繋がるわけで、その意義は決して小さいものでは無いのだろうと思います。

このような話を聞いてから、そもそも寄付という形の経済こそ、私がいろいろと疑問に思っていた社会のあり方への模範的な解答になり得るのではないかという気がしてきたのです。
例えば、こんな本とか、こんな本を読んで思ったのは、人のやる気というのは単発的な報酬では起きないということ。むしろ、社会や組織の中でいかに個人が認められたか、という観点が非常に大きいのです。
プロ野球選手が年俸にこだわるのは、それが球団の中で自分の価値をどのように判断しているのか、という証になるからであって、お金そのものにこだわっているわけではありません。

非常に細切れに単価を決めて、はい一時間だから何円、というような形でもらうお金というのは、逆に労働する側からものごとを考える意欲を失わせます。どちらかというと、単純な仕事に向いた賃金の支払い方法です。
本来、知的な作業、例えば何かを設計したり、絵や文章や音楽を作ったり、といった場合、あまりにその報酬を細切れにして単価を決めるのは、仕事する側にあまりいい影響を与えません。
むしろお金の話などせず、あなたを信頼するから、あなたの作品が好きだからこの仕事をお願いするのです、みたいなほうが、依頼される側は圧倒的にモチベーションが上がります。

問題はそのときの報酬体系です。
何にしても生活するわけだから、報酬が無いわけにはいきません。先ほどのプロ野球で言うなら、一年単位でその人の貢献度を金額で判断していました。しかしそれでさえ、球団側の原資があっての話ですから、生々しい話にならざるを得ない。
そこで、最初の寄付の話が繋がるわけです。

例えば、音楽家の場合・・・
最近はCDが売れなくなってきており、明らかに音楽ビジネスの形が変わりつつあります。誰もがYouTubeでただで音楽を聴けるのが当たり前になった時代に、今さら3000円出してCDを買う人は少ないのかもしれません。
それなら、自分の好きなアーティストに寄付すれば良いのではないでしょうか。
アーティストは、音源をほとんど無料で解放します。
ファンのうち、お金を出してまで支援をしたい人が、寄付をすればよい。そしてアーティストは、その寄付金を自分の活動資金にしていくわけです。

寄付した人に何らかの特典があるのなら、正直、ファンクラブの年会費、とさほど違わないように思えるのですが、それでも何か心持ちが違います。
年会費で払わなきゃいけないお金と思うと、どうしても人はサービスの質と金額を天秤にかけるようになります。その金額が妥当なのか、ということです。それは、結局もっと安くして欲しい、と願う感覚に繋がります。
しかし、寄付というのは、個人が積極的に支援したいという気持ちの証です。その人の経済状況によって金額は違っていてもいいし、値切ろうと思う感覚と根本的に異なります。むしろ、お金を出せば出す程、そのアーティストに対する思い入れはさらに強くなる、といった心理。

お金が無ければ寄付はしなくても良いのです。
むしろ、寄付というのはお金を持つ者が、自分の嗜好やあるべき社会の理想型とかを示す良い方法だとも思えます。言わばお金の使い方による自己表現です。
現実的に簡単にそのようには行かないでしょうけど、人々の意識がだんだん変わっていけば、寄付で成り立つ経済、社会というのもあり得るのでは、とちょっと夢想してみました。

2011年6月14日火曜日

合唱名曲選:嫁ぐ娘にーその3

では、この作品の魅力とは何でしょう。
たくさんの視点があると思いますが、今回は作曲の技術的な方面ではなく、この作品のもつロマンチシズムについて、言及してみたいと思います。

20世紀以後の天才肌的芸術家の一つの特徴として、年齢の変化に伴って作風の変化が非常に明瞭に現れる、ということがあると思っています。
例えば、ピカソは、青の時代→キュビズム→新古典主義→シュールレアリズム、みたいに作風が変化します。ストラヴィンスキーも、原始主義→新古典主義→セリー、と作風が変化します。特にこの二人は、激しく作風が変化した代表格ではあるのですが、優れた芸術家は一つの作風に留まらずにいろいろな方向に変わっていくものです。逆に言えば、凡百の芸術家は、たった一度の成功体験から逃れられないためになかなか作風を変えられないものと思います。

天才芸術家のそういった作風の変遷を、私なりに非常に一般化してみましょう。
・ロマンチックな時代(20代)
・新技術追求時代(30代)
・社会との関わりの模索・古きものの再発見(40代)
・仕上げ、円熟、あるいは全くの新展開(50代〜)

とこんな感じ。
そして、作風の振れ幅はそれほど大きくないにしても、三善晃もまたこういった流れを忠実に追ってきたように感じます。
ようやくここで本題になるのですが、「嫁ぐ娘に」はまさに三善晃のロマンチックな時代に相当するものだと私は考えます。

ロマンチックな作風とはどういうものかというと、ルールや技法より目の前に感情とか、個別の表現を最優先にすること。テキストや作品の背景に物語性があり、音楽で言えば音世界だけでなく、コンテキストに依存した作品になりやすいという点があるでしょう。
逆に言えば、ほとんどの芸術家はこの場所に留まります。その先に行けないし、このロマンチシズムの追求こそが芸術だと死ぬまで思っている人もいます。

「嫁ぐ娘に」は、結婚を前にした娘に対する母親の気持ちを歌ったものですが、20代の男性にとってそんな感情は、ある意味最も共感からかけ離れていると思うのですが、だからこそ作曲家は逆に想像力をたくましくして本物以上の感情を表現することに成功しています。その表現力が半端じゃないため、結果的に全ての年代の人の気持ちに響くわけです。
5曲目の娘の人生フラッシュバック的なテキストは、結婚式のスライド上映のような悪く言えばお涙頂戴の要素をふんだんにもっているのですが、それを安易な泣きの音楽に落とさず、その心情を全く過不足無く表現しているその筆力には感嘆するばかりです。

音楽的な新規性を持ちながら、なおかつ多くの人の心を共感させるテキストの世界観の表現力、というのがまずこの曲の大きな魅力の一つ。それは現代音楽の抽象性とか、難解さとかは無縁の世界。
特に実力のある団体なら、やや音楽的に高度でありながら歌う側、聞く側の気持ちを惹きつけるロマンチシズムを持つこの曲は、非常に魅力ある作品に感ずることでしょう。

実際のところ、若くてギラギラした才能ある芸術家がこのようなテキストを選ぶことはそう多くはありません。見た目のお涙頂戴的世界を受け付けない人が圧倒的に多そうです。
一種、演歌的な題材を使いながら、それを高度に芸術性の高い音楽に仕上げた三善晃の手腕、そういった完成図を事前に思い描く構想力、ありきたりの幸せを陳腐だとは思わないその感性、がこの曲の完成に繋がったのではないでしょうか。

2011年6月11日土曜日

合唱名曲選:嫁ぐ娘にーその2

恐れ多くも、今回は合唱曲としてみたときのこの曲の今ひとつな点、疑問を感じるところについて書いてみます。
私はベースなので、ベースの立場で言わせてもらうと、ベースが歌うところが少ない! それに、歌う箇所が非常に断片的です。もっともっと歌わせてくれよ〜とか思っている人たちは結構多いことでしょう。
でもこれが欠点でしょうか。それだけでは欠点ではないでしょう。しかし、それを手がかりにしてみていくと、この曲には全体に比較的休符が多いことに気付きます。
もちろんこの曲は男声と女声の対比が多く、譜表の括弧の付け方などを見ても、女声と男声の二群の合唱のための曲、という見方も出来なくはありません。

それにしても、休みパートがあるときでさえ派手にディビジョンをしていたり、ディビジョンの内容を良く見ると単に3声を2声にするためだったり、各所にソロが配置されていたり、オクターブで旋律を補強していたり・・・。こういった書法から私は、能力の高い歌い手が全く均等に配置されていることを前提とした、無駄に精緻な音量制御をパート割りから感じたりするのです。
そしてその感覚は、むしろオーケストラの書法に近いものです。例えば2菅編成のオケなら、各楽器の数は大体決まってきます。その数を念頭に置いて作曲しながら、例えばフルート用のフレーズを一本のフルートで吹くか、二本のフルートで吹くか、まで作曲家は指定しなければなりません。

「嫁ぐ娘に」の楽譜から感じるのは、そういった厳密さです。そして、それは合唱団という編成の特性上、やや無駄な努力に思えます。
実際、「地球へのバラード」など後のアカペラ曲では、そういった感覚は減っているので、三善晃なりに合唱曲ってそういった厳密さが必要ないことがだんだん気付いていったのではないかと思うわけです。
まあ、三善晃に限らず、合唱曲を書いたことのない現代音楽作曲家の楽譜というのは、まるで団員一人一人がオーケストラの楽器と同じように均等に演奏できる前提で書かれたようなものは多いです。しかし、それは合唱曲の作曲としてはあまり正しい態度とは思えません。

当たり前ですが、合唱団の人数バランスや歌手の技術力については、全く合唱団ごとにばらばらで、この不均等ぶりは器楽とは比べものになりません。
ですから、どんなに合唱団の人数が多くても、合唱曲は一般的には同属楽器のアンサンブル的な書法であるべきだし、古くからある合唱の優れた曲はほとんどそういったシンプルなものです。そういった汎用性のある音符を、各合唱団がそれぞれの特徴に合わせて、指揮者によって音量配分やパートバランスを整える、というのが一般的な練習のあり方です。
そういう場において、このような厳密な書法を突きつけられると、合唱団側のコントロールが非常にしずらくなり、結果的に演奏に悪い影響を与えてしまいます。
そういう意味では、この曲は非常にプロ向けの曲とも言えますが、それは合唱に慣れていない書法の裏返しとも私には思えてしまうのです。

2011年6月7日火曜日

県民合唱祭を聴きながら思ったこと

たまには、行事の感想など。
日曜日、静岡県民合唱祭が静岡市の市民文化会館で開催されました。全部で69団体の参加。終了が20時を超えるという巨大なイベントです。
我々も、53番目夕方18時頃の演奏。いろいろと課題の多い演奏だったなあと痛感。自分たちのことはまた別途反省することにいたします。

自分たちの演奏に先立ち、早めに会場に行って20団体程聴きました。本当は我々の演奏以降も聞き所は多かったのですが、残念ながらそちらは聴けませんでした。
多くの合唱団は、ほぼママさん系ですしかなり高齢でもあります。率直に言えば、聴き応えのある演奏をしてくれる団体はそれほど無いわけですが、それでも指揮者や団体の雰囲気は何となく伝わってきます。
団の演奏レベルはどうであれ、いや逆に演奏レベルがそれほど高くないからこそ、指揮者が何を練習中に語り、そして何を表現したいかが演奏や雰囲気から伝わってきます。

団のあり方は十人十色だし、指揮者と団員の関係もまた様々。ですから、団のあり方を一般化するのは難しいです。
しかしアマチュアであるからこそ、団員がのびのび歌っているか、それとも何か制約を感じながら歌っているかが演奏の雰囲気を大きく変えているような気がしました。
これは大変難しい問題で、指揮者は自分の思う世界が強すぎる程、いろいろなことを団員に求めます。まあ指示の仕方にも依りますが、注意点が多くて細かいと歌い手が制約を感じる気持ちが強くなる。それにより、自発的に気持ちよく歌いたい感覚から一歩遠ざかってしまうという現象が起こってしまいます。

演奏を聴いて、強要された世界観を表現しようとして縮こまってしまう団体とか、逆に自由に歌ってやや音楽的な統制が欠如している団体とかがあるわけです。
その二つの悪い状態に陥らずに、重要な点をきっちり抑えていくことは、それなりに指導者の能力を要求します。やはり音楽ですから、作りたい世界観以前にピッチやテンポ感といったソルフェージュの精度、または声の美しさという要素は押さえたいところ。そのあたりに、どの程度練習を割いているのかが演奏から如実に伝わるわけです。

そんなことをつらつら考えてみていると、本当に一団体ごと、どんなレベルであれ、それぞれ苦労を重ねながら日々の練習をしていることが愛おしく感じられます。そして自分たちのやっていることがそれほど凄いことでなくても、きちんと基本を押さえ、粘り強く愚直にやるべきことをやることの重要性を感じました。そして、そういうことをきちんとしている団体こそ、誉められるべきだなとも感じました。
プロ志向で考えると、良い演奏だけが絶対的に思えますが(そういう指向性もまた必要なのですが)、アマチュアとしての音楽の関わり方においては、もう少し懐の深い態度も必要だなと、個人的にもやや反省したのでした。
あ〜、しかしこれは堕落なのだろうか?

2011年6月2日木曜日

ブラックスワン

バレエ団内での主役をめぐる争い・・・というような程度のイメージで見に行った映画、ブラックスワン。もう〜全然違うじゃないですか。これ、もうほとんどサイコホラー。しかも、正直やや趣味が悪い。

趣味悪いってのは、「呪怨」並みのどっきりシーンがたくさんあるってこと。つまり、いるはずのないところに人がいたり、動くはずのものが動かなかったり、動かないはずのものが動いたり・・・
後半にいくに従い、現実と妄想の境目が曖昧になってきて、いつどんなショッキングなシーンが出てくるかとハラハラしながら見てました。
女癖の悪い芸術家肌の舞台監督(演出家?)ってのもやや古典的な設定で、ちょっと苦笑してしまいます。

こういったサイコ系としては、必ずエロ妄想などが出て来ます。主演のナタリー・ポートマンは、正直セクシーとは言い難いのですが(バレリーナ役だし)、ここまで体当たり演技をしたのはびっくり。まあ、内容が内容なので、こういったエロシーンもすんなり入ってきてしまうのは確かなんですが。
しかし、ちょっと間違うと成人映画すれすれなわいせつ感、お下劣感が、ダーク感、アングラ感を余計助長させています。

こんな感じの映画なので、コワイものを見たい人にはお勧めしますが、痛いのが嫌な人とかは、止めた方が良いでしょう。バレエ団が舞台、という一見すると格調の高さを感じる題材ですが、それも誤解を招く原因の一つ。
とはいえ、観客をどうしようもない不安と恐怖に陥れるこの監督の手腕は大したものです。そして、全体を覆う薄暗さ、登場人物の薄気味悪さ、鋭利な小物の数々・・・。あるいは、このストーリーの中に、芸術を極めようとする崇高さとか、心理学的な要素を感じることも可能でしょう。
サイコな世界が好きな方はご覧下さい。

2011年5月28日土曜日

合唱名曲選:嫁ぐ娘にーその1

今年になって、私の指揮では無いですが、ウチの合唱団でこの名曲を練習し始めています。実を言うと、私自身「嫁ぐ娘に」を歌うのは初めてなのです。これまで生演奏や、CDなどの音源で何度も触れてはいたのですが、実際歌う立場になって、また違った視点でこの曲の魅力を感じています。
しかし、その一方、あまりに名曲と言われ過ぎたために、この曲は一方的に礼賛され過ぎたのではないかという疑念もちょっと感じます。出来れば、非常にニュートラルな視点で、この曲の特徴、魅力を再確認してみたいと思うのです。
何しろ、この曲を歌えば歌うほど、多くのことを感じています。なのでこの「嫁ぐ娘に」に関しては、何回かに分けて、書いてみようと思います。

私がこの曲を初めて聞いたのは大学の合唱団時代のことで、部室にあったテープを聴いたときでした。
正直、この時点ではほとんどこの曲の魅力を感じることが出来ませんでした。その理由は、冒頭の9小節にあります。「嫁ぐ日は近づき、むすめの指にあたらしい指輪」と歌うそのフレーズ、歌詞の内容に比べてあまりに音楽が不気味です。
敢えて言えば、8〜9小節はようやく明るい和音になるのですが、それまでの音の運びが私にはどうしても暗い感じに思えました。
その気持ちがあったせいで、当時はそれ以上この曲をきちんと聞こうと思わなかったのです。ところが、その後何度となく、いろいろな人がこの曲を素晴らしいと言っているのを聞き、私自身も積極的にその他の部分を聴くようになって、その魅力を理解し始めた次第。
ただ、冒頭の9小節が不気味すぎる印象は今に至っても変わっておらず、自分の中で、この組曲を評価する際にどうしてもその想いがよぎってしまいます。

自分にとってこの組曲の魅力は、やはり3曲目、及び5曲目に詰まっています。
この2曲はドラマチックだし、歌詞の内容と曲の表現がみごとにシンクロしており、まさにアカペラの邦人合唱曲のあり方の一つの理想型を示したと思います。
また2曲目、4曲目については、恐らく作曲家自身も間奏曲的な役割を与えていると思うので、派手なドラマツルギーはむしろ抑えられています。それだからこそ、この間奏曲的な2曲は純音楽的な作曲者の嗜好が詰まっているという見方も可能でしょう。
��曲全体を一度歌ってしまうと、1曲目冒頭の不気味さの印象もだんだん緩和されていきます。組曲全体が持つ雰囲気の一部を纏っていると考えれば、冒頭の雰囲気も不気味とは言えなくなるのかもしれません。

恐らく作曲者の三善晃にとって、この合唱組曲は本格的にアカペラ合唱曲と向かい合った、ほぼ最初の曲ではないかと思われます。そう考えれば、ある種の生硬さを感じつつも、この時点でこれだけの完成度の楽曲を作ったことに今さらながら驚嘆せずにはいられません。
次回は、「ある種の生硬さ」についてちょっと思うところなど。