2011年1月28日金曜日

レコメンドシステムの設計と実装

いや、本当に作ってみようというわけじゃないですけど。
Googleが映画のレコメンド的なサービスをしている会社を買収したとかいう話もあって、私が考えるまでもなく、こういったサービスがどんどん日々生まれつつありますね。

何度も同じようなことを書いてますが、なぜこういったものがあるべきか、という動機が問題なのです。ビジネスで現れるサービスは、たいていソーシャルなもので、同じ趣味の人たちが集まる場を提供するといったものが多いです。しかし、私は自分がいちおうクリエータ側にいるつもりなので、クリエータに対する最も信用おける評価システムが出来ないかと考えるのです。
クリエータの評価はどうしても、相反する二つの極端なものさししか機能しません。一つはレコードや楽譜の売り上げ、もう一つは専門家による評価です。しかし、どちらも嘘っぽい。一番売れてる曲が一番音楽的価値が高いとは思えないし、評論家のお勧めはマニアックすぎる。
なるべく多くの人が感想を言い合って、歴史で淘汰されるスピードよりも圧倒的な速さで明瞭な評価が確立出来るのではないかと期待しているのです。

しかし、そのためには評価者の単なる多数決ではいけません。それでは売り上げと同じになってしまいます。なので、見る目がある人の意見を強めにするか、直接評価する人を一般の人が評価するような、間接評価の仕組みがいると思っています。
例えば、ある作品をシンプルに五つ星で評価するとします。星三つなら普通。五つならとても良い、一つならダメダメ、という感じです。
批評家の評価レベルが五段階(LevelA/B/C/D/E)あるとすると、最上位のLevelAの人は100人分の得票を持っている、といったように個人の持ち点が増えるようにします。ある作品の評価は、全ての持ち分を足して平均化した星の数、ということになります。
��持ち点の増え方は、もっと強い傾斜を付けても良いかもしれません)

そうすると、次にLevelAからEまでの五段階はどう決めるか、という仕様を考えなければなりません。
まず、五段階の人数配分比率をまず決めます。もちろん、最上位になるほど比率は少なくなります。私のイメージでは、1:10:100:1000:10000 みたいに桁が一つ違うくらいでいいと思ってます。
前回書いたように、評論家に対して「参考になった!」ポイントを与え、これが多いほど高いレベルに行ける、というようにします。ただし、ポイントの単純加算だと長くやっている人ほど得になるし、上位メンバーが固定化するので、数ヶ月単位でポイントはクリアするようにしても良いかもしれません。

こういった仕組みは、独自にサイトを作ってもそう簡単には人は集まらないし、うまく行かないと思います。Web APIみたいにして、サイトに対するサービスのような形にしたほうが将来的には希望があるかもしれません。
まあ、いずれにしてもこの記事は単なるアイデアで、私がこれからやろうとしているわけでは無いのですが、誰かやってみたいという人がいたら応援くらいはしますよ!

2011年1月24日月曜日

レコメンドシステムの具体的なイメージ

レコメンドシステムについて提起しました。これをもう少し具体化してみましょう。

いくつかの前提が必要です。
まず一つ目。音楽で言うなら、現在の音楽業界(レコード会社など)がある程度崩壊していて、メジャーデビューという言葉が死語になっていること。つまり、プロとアマチュアの境目が事実上無くなっている必要があります。スタートラインはある程度公平でないと、レコメンドシステムの信用が揺らぎます。
二つ目、コンテンツを有料で買う、こともほとんど崩壊していること。デジタルコンテンツは基本的にタダになり、誰もが自由に全てを聴くことが出来る状態になっていること。コンテンツ単位で商売が成り立ってしまうと、レコメンドでお金を動かすことになかなか移行しないからです。

いずれの前提も現状では障壁が高いので、そう簡単には実現しそうも無いですが、長い目で見れば世の中はそうなっていくだろうと私は想像しています。
その上でレコメンドシステムの具体的なイメージを、末端の一般音楽愛好家の立場から考えてみましょう。
まず、Web上の音楽サイトを訪問したとします。そこでは、自分へのお勧めの新着音楽が紹介されていたり、現在のアーティストランキングなどの情報が分かります。また自分のお気に入りのアーティストの活動状況やインタビューも見れるかもしれません。こういったサイトは基本的に広告料ベースで運営され、情報を見る側はお金を払いません。もちろん、サイト内には多くのアーティスト、楽器・機材販売、音楽教室などの広告が溢れています。
たまたま、新人のとあるアーティストのお勧め記事を読んでみるととても自分に合いそうなので、音楽を聴いてみたとします。曲も気に入ったので、そのアーティストの他の曲を聴くためにただでダウンロードも出来ます。また、そのアーティストの今後の活動のため「応援します!」ボタンをクリックすると、自動的にアーティストに対して直接お金を送ることができます。

いろいろと音楽を聴いているうちに、このアーティストのこんなところが気に入っているんだ、という自分の気持ちを伝えたくなります。そういった気持ちをブログなどで文書化します。そして、この記事をレコメンドとして利用することを許可します。
この記事は、レコメンドを集めているサイトに自動的に転送されます。そして、アーティスト批評の中でこの記事を読めるようになります。
アーティスト批評を読んでいる人たちは、優れた批評の文章に「参考になった!」ボタンを押します。こうやって批評を書いた人にポイントが溜まっていきます。書いた記事の数とポイント数より、個人音楽批評家の世に対する影響度が、純粋な計算で算出されます。これをその批評家の評論レベルと呼ぶことにしましょう。
ある程度の高い評論レベルになると、個人音楽批評家は立派な音楽評論家になり、サイトの広告収入の一部を得ることが出来るようになります。

また各楽曲は、音楽評論家の楽曲評価と、その評論家の評論レベルを掛け合わせた値をひたすら足し合わせることによって、ランク付けのための評価が自動で算出されます。もちろんアーティスト自身も、楽曲の評価を足し合わせることによって、アーティストトータルの客観的評価を算出することが可能になります。
この評価は、これまでのCD売り上げとは違うので、多くの人に聴かれていても評価が高いことに繋がらない場合も出てきますし、今のように頻繁にランキングが変わるということも起こらなることでしょう。

芸術は基本的に供給過多です。
音楽を作ったり演奏したりする人は、日本だけでも何十万人とか、何百万人とかいると思います。一人の音楽愛好家の立場からすれば、自分の好きな音楽を探すのに、それだけの音楽を聴くわけにはいきません。
ですから、何らかの方法で優れたものがきちんとフィルタリングされている必要があります。あるいは「音楽的に優れている」という軸だけでなく、活動している地域や、ジャンルなどの要素も入ってくれば、ライブに行って生演奏に触れることも多くなるでしょうし、ローカルな文化圏というのももう少し活気づくような気もするのです。そして、それは音楽文化の発展に大きく寄与することになると思うのです。

2011年1月22日土曜日

ゆるく考えよう-人生を100倍ラクにする思考法/ちきりん

ちきりんファンとしては、本が出た以上買わないわけにはまいりません。ちなみに、ちきりんさんは有名な覆面ブロガー。ブログはこちら
ただ正直言って、著者を知らなければ、こういった自己啓発的な一種の人生論的本を、私は普段あまり買いません。そういった類の本と、この本の内容が一線を画しているのは何なのか、というのが重要なのです。

いろいろな視点があると思うけれど、私としては次のような感覚で本書を捉えました。
つまり、平凡で近視眼的な自己愛を捨てれば、より達観して別の充足が得られる、ということです。実はこれは極めてストラテジックで、思考に賢さが必要な考え方。だから、この本を読んで共感する人はもうすでにこの本で指し示す生き方をわずかながら実践している人であり、そもそもこの本を読んで考えを改めて欲しい人は、本書が言いたい本質的な内容を理解できない気がします。

もともとアイロニーのセンスに溢れた文章です。各章のタイトルだけでそれが感じ取れます。
「目標は低くもちましょう!」「人生は早めに諦めよう!」「日本はすばらしい国」「大半の保険は不要」「能力のない人へのアドバイス4つ」「結婚するもしないも個人の自由」・・・
当たり前だけど、世の中は公正には出来ていない。だから、正論を振りかざして懸命に生きようとする考え方をことごとく否定します。それはかなり痛快なのだけど、やはり社会でそのまま主張できる考えではありません。会社のような組織では、いつでも嘘で塗り固められた正論を、意に反して言い続けなければいけないのです。
そのギャップは残念ながらすぐには埋まりません。だから、せめて自分の内心だけはそういう世界から守ってあげたい、そんな生き方を説いているように感じられます。

私はあまりお金に関するリテラシーがないので、昔からなんとなくローンとか、保険とか、曖昧な不信感を感じていたのですが、そういったものに対して、私が納得する形で説明してくれているところは実際とても実用的でした。まあ、これらの内容はすでにブログで読んでいたわけですが・・・
それ以来、すぐにでも大手生保の保険を解約したい、とずっと思い続けながら、解約のゴタゴタを考えるとついつい先延ばしになっています。ああ、気の弱い私。

先が見えなければ人生早めに諦めて、自分の楽しみに時間を使おう、と主張しながら、4章を読んでいると、もっとバリバリ攻めの人生をすべきだとも読めてしまう、というアンビバレントな側面もあって、そのまま単純には受け容れられない多面的な本。
どちらかというと、ちきりんさんという世に対する広範な知識と深い洞察力をもった人の考え方を楽しむ本と、私は捉えております。

2011年1月18日火曜日

ソーシャル・ネットワーク

26歳にして億万長者である、フェイスブックの創設者マーク・ザッカーバーグを主人公とした実話に基づいた映画。
それなりに脚色してあるので、細かいことまで完全に事実では無いようだけれど、ある程度は事実なんだよね。身近な人から訴訟を起こされる、ということは辛い事実だけれど、映画ではこの訴訟の場を舞台として物語は進んでいきます。基本的にシリアスな映画です。

しかし、この映画にみなぎる熱さはなんだろう、と思うわけです。
そもそもアメリカの若者と日本の若者のノリは全然違うのだろうけど、個人に溜まっているマグマのようなエネルギーに圧倒されます。
主人公がコンピュータに向かうときのエネルギー、みんなで新しいアルゴリズムを考えるときのエネルギー、単純にバカ騒ぎするときのエネルギー、人に熱く自分の想いを語ろうとするエネルギー、他人と意見が違っても自己主張を貫くエネルギー。
物語の中では、資本金やら株式やら投資やら賠償金やらお金の話がたくさん出てくるけれど、実際のところ誰一人として金が最終目的なんかじゃない。特に主人公ザッカーバーグ、途中で参加するショーンは金なんかよりクールであることが第一。
むしろクレイジーからほど遠い、良心的な人ほどお金の事を考えているというのが強烈な皮肉です。

この映画からはいろいろな見方が出来ると思います。人によって、感じることも違うでしょう。
オタクでも頑張れば億万長者になれる、という見方もあれば、お金は人間関係を悪くするものだ、という見方もある。あるいは古くさいエリートとコンピュータオタクの対比が面白いという見方もあるでしょう。
私的にはナップスターのショーンとの出会いや、ややいかれたその二人が意気投合するあたりに、分かる人には分かるセンスというものがいかに世の中を前に進めていくものか、ということを上手く表現していたと思いました。
単なるサイトの名前にしても、広告を入れるとか入れないとかにしても、細かいサービスの一つ一つにそういうセンスが現れます。その是非がWebサービスの善し悪しの差になって現れるのです。それは、技術とかじゃなくて、むしろ芸術に近い感覚です。常に良いサービスはアート性を帯びているのです。
そんなわけで、この映画お勧め。日本でフェイスブックはブレークするでしょうか。

2011年1月17日月曜日

Web上のレコメンドシステムが必要では?

タイトルだけで何を言いたいか、ちょっと分かりづらいかもしれません。
音楽活動をしている者として、音楽ビジネスにも興味を持ったりするわけですが、率直に言って音楽業界は一寸先は闇というくらい崩壊しかかっているように見えます。
それはひとえにここ10年のWebの発達と関係するわけですが、そのまま崩壊して世の中に音楽が無くなるなんてことは当然あり得ません。音楽が無くならないのなら、今のビジネス構造とは違う全く新しい流通システムが生まれるのではないかと思うのです。

全く同じことが出版にも言えます。
すでに多くの人が、ここ10年の間に音楽業界で起きたことが、これから出版業界で起こると予想しています。これもやはりWebの発達、特にiPadといった携帯デバイスの出現によるところが大きいのは周知の通り。
一言でいってしまえば、これらは、コンテンツがデジタルで流通することが容易になったため、音楽や書籍といったコンテンツが物理メディアである必要がなくなり、物理メディアを売るためのシステムが意味を成さなくなってきたという現象です。

ここから私の勝手な未来予測が始まります。
デジタル化されたコンテンツが直接ユーザーに届けられるのなら、中間にいた人たちはいらなくなります。音楽で言えば、レコード会社でありCDショップです。書籍で言えば、出版社であり本屋です。
ところが、レコード会社や出版社は、単に物理メディアを製造していただけではありません。彼らは意欲と能力のある新人を発掘し、育成して、お金をかけて宣伝し、活躍の場を広げてあげていたのです。その中にはアーティスト並みの芸術観を持った人たちもいたでしょうし、会社の活動自体が社会の文化活動を支えていたという側面が当然ありました。
しかし、そのような投資はそれなりに見返りがあったからこそ出来たことです。見返りが無くなれば、投資はしなくなります。今は完全にそのような負のスパイラルが起こっているように見えます。

従って、このような現状においては、一時的に音楽や文学において文化レベルが下がると思われます。
しかし、どのような時代でも音楽活動をする人はいるし、小説を書く人たちは存在します。世の中に知られようが知られまいが、質の高い活動をしている人は必ずいます。
つまり、これから考えねばならないことは、これまでレコード会社や出版社が行っていた、新人発掘や彼らをプロモートするような新しい仕組みです。これが揃わないと、あまねく多くの人に良いコンテンツが行き渡りません。

と、ここでようやくタイトルの「レコメンドシステム」に到着します。
今まで私たちは、テレビを見たり、雑誌を読んだり、CD屋で宣伝したりするのを見て、アーティストの存在を知りました。人の評判や自分の印象を元に、特定のアーティストを好きになったりしました。
そういうことが、全てWeb上で解決できればいいわけです。
例えば、そこでは人々のアーティストに対する評価を一覧出来て、場合によってはコンテンツをある程度鑑賞できて、気に入ればコンテンツを購入するか、アーティストに直接投資するか、といったことができます。
評価する人も評価されるような仕組みが備わっていて、評価の高い評価者はより目の付くところで評論が書けるようになります。さらに、その人の評価は読まれるようになり、この人の言うことなら間違いはない、といった感覚を見る人が持てるようになります。
このようなページにPVが増えてくれば、広告収入が発生します。そうすればビジネスとしても回り始めることは可能ではないでしょうか。
このようなシステムが可能なのか、また次回あたりに検討してみましょう。

2011年1月15日土曜日

技術を統合する技術

技術者の端くれとして、世の中の技術動向にはいろいろと思うところがあります。
最近思うことは、もはや単体の技術だけでは他社と差が付かないということ。単体の技術というのは、液晶の画質がスゴいとか、スピーカーがスゴいとか、転送スピードがスゴい速いとか、そういうような技術。

画面が同じ大きさのテレビで、しかもほとんど機能が同じで、10万円と20万円のものがあったらあなたはどちらを買うでしょう。確かに20万円のテレビは画像も音響も素晴らしいかもしれません。実際に、見て聴いて、その差を感じられるほどかもしれません。人によっては、この差は10万円分の価値がある、と思うでしょう。しかし、少なくとも最近のテレビの性能なら、どんなに安くてもそこそこの画質で見れます。ならば、安い方でいいじゃん、とほとんどの人は思うのではないでしょうか。

しかし、技術者の職場の雰囲気はちょっと違います。
その小さな差を随分と大きな差だと思い込む人が多い。そりゃ、自分が精魂込めて開発した製品なら、その性能差はきっと誰もが分かってくれると思いたいです。実際に売り場で、その違いを目にしたら、必ず値段の高い方を良いと思ってくれる、と信じています。

こういう心情が、技術者が単体技術を突き詰めてしまう傾向を生みます。
とりわけ、日本のメーカーはそういう気持ちが強いと思います。恐らく、20〜30年前は、単体の技術が一般人に与えるインパクトが大きかったのです。ところが、ある程度の品質に近づくと、それは一般の人から見ると大した差に見えなくなってました。いくら音が良くなったといっても、それはもはや好みの問題と言えるレベルです。
ところが、技術者ばかりの職場では、その差を追い求めることこそ、技術者の仕事だと信じ切っている人が多いのです。

昨今の技術のトレンドを見ると、私にはそのような単体技術ではなく、それらをどのように組み合わせて面白いものを作るか、という「技術を統合する技術」に長けた企業が勢いを伸ばしているように見えます。
いつもAppleの例ばかりになっちゃうけれど、そもそもAppleは、CPUだって作ってないし、メモリのデバイスも作っていない。マルチタッチのタッチパネルも自分が発明したわけではないし、そのような単体のデバイスはほとんど開発などしていません。
彼らはすでに世の中にある、ありものの技術を組み合わせ、誰もが思い付かなかったような製品(iPhone,iPad)を作り上げたのです。今や、個別の技術を作り出した会社の方が、Appleの言うなりになっている有様です。

技術を統合する技術を磨くには、複数の技術の最新状況を知らねばなりません。自分が単体技術の専門家である必要は無いけれど、各技術が社会的にどのような意味を持つのか、ということを分析できる能力が必要です。
私の想像するに、多くのメーカーは技術者が単体の技術を一生懸命磨き、技術を統合する技術を作り出せない営業・マーケティングや上層部が製品の企画をしているのではないでしょうか。
いきなり単体技術を寄せ集めて製品を作るのではなく、そういうものを組み合わせてそれを一つの技術に見せるような技術が必要だし、それを構想しきちんと実装に導ける技術者が必要です。
そして、多くの場合、そのような技術の統合ではソフトウェアが重要な役割を果たします。各技術を連携させて動かすのは、ほとんどソフトウェアの仕事だからです。だからこそ、今メーカーできちんとソフトを書ける力が大事なのだと私は思うのですが、残念ながら同様に感じてくれる人はまだ少ないのです・・・

2011年1月10日月曜日

オリジナル編曲の実践

前回は意図的に合唱だけでない汎用的な書き方をしたつもりですが、今回は具体的に合唱団でオリジナルな編曲ステージをやるつもりでいろいろ考えてみましょう。

ステージの構想を決める前に、何よりも先に編曲者を決めなければなりません。結局は、ステージのイニシアチブは編曲者にある程度委ねるわけですから。
もちろん団員で編曲する人があれば良いですね。最も良いのは、指導する立場であり、選曲に最も大きな影響を持つ団の指揮者が編曲すること。ただ、編曲に音楽的な問題があっても、団員は文句を言いづらいかもしれません。そこは、指揮者が自らの編曲の実力を冷静に判断できなくてはいけませんね。
指揮者であろうと無かろうと、団のメンバーが編曲するなら、歌う人たちの実力を考慮した編曲が可能ですから、とても演奏効果は高いことでしょう。

残念ながらそういう人がいない場合、団の外で探さなくてはなりません。
探し方は全くケースバイケースですから、ここで一般論を言うことは難しいですが、前回言ったように、若手の編曲者にしてみるのも一つの方法です。ネームバリューで選んで、随分高名な方に頼んでしまうと、なかなか編曲を変更して欲しくても言いづらいですよね。外部の人ならなおさら、頼む側に音楽的イニシアチブを残しておかないと、不幸な結果になりかねません。
もちろん、きちんと編曲できそうな若手を探す、というのもそれなりに難しいことではあります。編曲できる人も何らかの形で、もっと自分を売り出す方法があればよいのですが。

では、実際、出来てしまった編曲を修正してもらうのはどんな場合でしょう。
つい最近私にあった事例としては、音域の問題。想定している歌い手にとって、上や下がきつい、といった相談です。まあ、これは歌い手個人の問題ですから、出ないと言われたら修正せざるを得ません。
意外とあるのが、もっと曲を長くして欲しい、とか短くして欲しい、という相談。どこを切ってとか、どこを付け加えて、という指示までしてくれることはあまりないので、結局編曲者が考えることになることが多いです。ただ、構成まで原曲と同じである必要は無いですから、そういう部分も含めて編曲する人にはセンスが必要です。
編曲者にとってちょっと困るのは、編曲の指示が非常に漠然としている場合。例えば、盛り上がりを派手にして欲しい、とか、ジャズっぽくして、みたいな。ある程度お互いの手の内をよく分かっている関係ならいいですが、あまり適当な指示を出すと、依頼側のレベルも見透かされます。
まあ実際良くあることですが、音楽的なレベルが低い人ほど無茶な要求を言うものです。もちろんそれは、頼む側が無茶かどうか理解出来ないからです。そんな場合、話を聞くだけ聞いてそれなりの落としどころを探すか、頼まれた時点で、ある程度きちんと困難であることを説明するかは、その場のノリ(人間関係)でうまくやるしかないでしょうね。
頼む方も頼まれる方も、そういうことを積み重ねることで個人的な信頼関係を作っていけば良いのです。面倒でもそういう小さな作業の連続が、お互いの音楽力を向上させることになるのではないでしょうか。

2011年1月6日木曜日

編曲市場を夢想する

編曲の演奏って、基本的に機会音楽なんだよなあ、とふと思い付いたのです。
演奏団体が、今巷で流行っている音楽を自分たちの編成で演奏したい、という需要は確実に存在するわけですが、それに対する編曲側の供給体制は全くと言っていいほど整っていません。
現実には標準化された編成の一般楽譜がいくつか出版楽譜として流通しているだけで、演奏する側はその楽譜を探すという選択肢しか考えていないように思えます。
残念ながら、自分たちのやりたい曲を、自分たちの都合の良い編成で演奏できる編曲というのはほとんど無いハズ。結果的には、編曲ステージにおいても出版された楽譜の中の曲を選ぶ、という消極的な選曲方法しか無くなってしまうのです。

こういった現実を考えると、日常的に編曲をしている私としては、もう少し何とかならないかなあと思います。
そもそも編曲ステージは、最も演奏団体のオリジナリティを示すことが出来るステージです。
作曲された曲は、どうしても作曲家にオリジナリティが帰属してしまいがちです。しかし編曲ステージは、ステージのテーマをどうするか、どんな曲を選ぶか、どんな編曲をするか、誰かにソロをさせるか、等々演奏団体のオリジナリティをいかんなく発揮できます。
もちろん、このようなステージをするためには、専属のアレンジャーが必要ということになります。

それが恐らくスゴい荷が重い作業だと感じているのでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?
有名な作曲家でないと(出版された楽譜じゃないと)編曲のクオリティが低いのでは、などと漫然と思っていないでしょうか。もしそうなら、まずその感覚を変える必要があります。
例えば音大の作曲課程で学ぶ人は何百といます。音大出でなくても(私のような)好事家もたくさんいます。ある程度の近場の都市まで範囲を広げれば、編曲を頼めるような人はいくらでもいます。
出版譜は、出来るだけたくさん売るために、汎用性が高い編成で、基本的には音楽的冒険も少ないです。逆にやけに作家性を強調されたりもします。例えば合唱編曲などの場合、私の想像するに、出版譜と同程度の編曲を出来る人は国内に一万人くらいはいると思います。
それほどたくさん楽譜を書ける人がいるのに、演奏側はその存在を知らずにいます。残念ながら、それを結びつけるシステムが無いのです。

それから、演奏家は作曲家をやや絶対視し過ぎです。
特にクラシックの場合、作曲家という人種がベートーヴェンやらモーツァルトのような偉人と連綿と繋がる尊敬すべき人たち、という感覚が強いのでしょう。
変な編曲なら文句を言えばよいのです。上手く演奏出来ないなら変えてもらえばよいのです。もちろん、人間関係というのもあるでしょうから、それなりのマナーは必要でしょう。しかし仕事の役割が違うだけで、お互いが必要な主張はやはりすべきなのです。
演奏側は文句を言うためには、それなりのリテラシーが必要になります。それは演奏家のレベルを高めます。編曲する方も現場をより知った方が良いものを書けるようになるでしょう。
もし、楽譜を書く人に文句を言いにくいのなら、音大出たての若手に頼んでみてはどうでしょう。かなり安くやってくれるし、文句を言えば何度でも書き直してくれるかもしれません。才能ある若い人が伸びるためにも、そういうやり方はむしろ賞賛されるべきです。

そんなわけで、演奏団体はもっと近場の音楽家に、自分たちの希望を言って編曲してもらう、ということをどんどんやるべきだと思います。
売り物の編曲楽譜を使えば、普通の作曲家のオリジナル作品を演奏することと大して変わりません。自分たちで企画した編曲ステージのほうが、お客さんにとっても絶対に楽しいと思います。

2011年1月2日日曜日

ノルウェイの森

なぜか毎年正月の一日に妻と二人で映画を観ます。
昨年は子供が生まれて初めての正月でしたが、子供を実家に置き去りにし「のだめ」を観に行きました。そして、今年も同じく二人で観に行ったのが、村上春樹原作の映画化「ノルウェイの森」です。

ちなみに原作未読。村上春樹は、ここのところの数作しか読んでない程度ですが、一応こんな作家というのは分かった気にはなってます。そういう意味では、全く予想を裏切らない村上春樹テイスト。これを撮った映画監督もスゴい。自分自身の芸術観をたっぷり映像で表現しながら、しっかり村上春樹的世界を表現していたと思います。
全体的な雰囲気を言えば、良質なヨーロッパ映画のようなカットと、アジア的な美観を持った映像の美しさが重なり合った静謐な映画。これに村上春樹的な虚無感、エッチ感、いけ好かない感がうまくブレンドされています。

辺り一面の寂寥とした野原、あるいは雪景色が、ワタナベと直子の恋愛が持つ、どうしようもない哀しさをうまく象徴しています。都会的な雰囲気と、直子のいる世界を映像的に明瞭に描き分けているかのよう。自然そのものが直子の心の有り様を示していると言えるかもしれません。
ただ、個人的にはややその映像美が、やや古くさい芸術観のような気もしました。バックで流れる現代音楽も自分としては古めかしい感じ。数十年前の映画のような・・・

世代としての面白さってのもあるんでしょうね。舞台となる1968年の大学って、私の時代よりさらに20年前。学生紛争の時代。今と全然違う。無駄に熱い学生の中で、虚無感を漂わせるワタナベの存在というのは、昔の感覚ならキザでクールって感じだけど、今のようにみんなが虚無感を漂わせている時代、というのはそれはそれで辛い世の中。そんなことも感じてしまったのです。

さりげなく出ている糸井重里、細野春臣、高橋幸宏を発見するのもなかなか楽しい。こんな静謐な映画の中でちょっとだけ笑ってしまいますね。
それにしても、ワタナベ君、もてすぎですよ。村上春樹的世界なので仕方ないけど、全然村上春樹を知らない男性がこの映画見たら、7割くらいは反感持つでしょうね。これをフィクションだと思うところから、初めて主人公への感情移入が可能となるのです。
若い方は間違ってもワタナベ君を目指すのは止めた方が良いです。この物語の中から自分が共感する美観だけを追いかければ良いのです。