2011年2月24日木曜日

合唱団で使うグループウェア

私も合唱団でメーリングリストは随分昔から使っていましたし、今どきならほとんどの合唱団がMLを使って連絡をしていると思います。
ウチは、YahoogroupsのML&ちょこっとグループウェア的な利用をしています。グループウェアといっても、サーバー上にファイルを置いてみんなに見てもらう程度。全体で20MBしかないので、微妙に使いづらいです。

しかし、今グループウェアで調べてみると、サークル用のものまでいろんな種類がありますね。ページのデザインも見易かったり、扱えるデータ量も多かったり。
例えば、下のグループウェアなんかは、結構良さそうです。
サイボウズLive
今なら100人まで無料らしいし。
掲示板や、カレンダー、ファイル共有ももちろんあります。iPhone/Androidでもアクセス用の専用アプリがあります。ただよくよく見ると肝心のMLが無いなあ。メールしか見れない人もいるので、その点ではすぐには導入は無理そう。探せば、他にもっといろいろなサービスがあるかもしれませんが。

結局、問題になるのは、団員のPC環境ですね。
確かに今どきほとんどの人はPCを持っているけれど、自分用PCを持っていて、それを常時使っている人ばかりではありません。メールは携帯だけでやっている人もいるくらいだから、PC前提のグループウェアはまだ厳しそうです。
10年くらいして、ほぼ全ての人がスマートフォンを持つようになれば、専用アプリ化したグループウェアが使えるようになってくるでしょうね。

こういったサービスで重要なのは、音源の共有です。
練習の様子や、音取りの音源などをサーバーに置けば、いちいちCDを配らなくても良くなります。このあたり音楽サークル特有な機能として、簡単オーディオ再生機能とか、動画再生きのうなどが付いているといろいろ活用法もありそうです。
問題は、売り物のCDをリッピングすることが横行しそうなこと。これは難しい問題ですね。残念ながらこの流れは止めることは出来ないでしょう。この点については、むしろ売り側のビジネスモデルの転換を期待したいところです。
さらに言うと、楽譜をスキャンしてそのデータを共有しちゃうことも可能ですね。各自がプリントアウトするのを期待するのはちょっと厳しいので、本の楽譜を買うことにはそれほど影響は無いでしょうが、こういったこともいずれ解決していかなければいけない問題になるでしょう。

MLでいろいろな予定や、重要なお知らせを流しても、たくさんのメールに埋もれて、きちんと見てくれないずぼらな方も結構います。むしろ、そういう人にとってはスマートフォンでいつでもアクセス出来るグループウェアはかなり便利なツールになる気がします。
また練習だけでなく、ネット上でもいろんなやり取りが頻繁になれば、合唱団の雰囲気も盛り上がってくるかもしれません。
こういうツールを賢く使って、スマートな団運営をしたいものですね。

2011年2月20日日曜日

コミュニティとしての合唱団

会社といったような組織への奉仕の気持ちが薄くなり、帰属意識がだんだん無くなっていくだろう、というようなことを書いてきました。会社は自らの生き残りのため、より組織を効率化し、個人に対しての接し方も、ドライになっていかざるを得ません。
我々各個人も、会社のような組織に対して同様にドライに接しざるを得なくなるのですが、その一方で生活を豊かにするような、自分の心のよりどころとなる場所も別途必要になってきます。大昔なら家族や近所さんがそういった場所だったのでしょうが、今や私たちの世代はそんな想い出さえほとんど持っていません。
NHKの番組で流行語となった「無縁社会」というのも、地域コミュニティが崩壊し、会社さえも個人を救済しなくなって、行き場を失った個人がたくさんいるという現状をリポートしたものだと思います。自分の心のよりどころとなる場所さえ、各個人が自ら見つけ出さねばならない時代になったのです。

そういった時代に、合唱団ほど的確な団体は無いように思えてきます。
たいていの合唱団はプロではありませんから、基本的に誰でも入ることは出来ます。上手下手はあるけれど、合唱はほどよく各人の実力を曖昧にしてくれます。たいていの人は、楽器が弾けなくても歌は歌えます。合唱活動を通して、音楽だけでなく文学や歴史、宗教など様々な文化的な要素に触れることが出来ます。

社会が効率化を進めるほど、心のよりどころとなるコミュニティは必要になるように思えます。そして、そういう場の一つとして合唱活動はいろいろな有利な点を持っています。
しかし、その一方で合唱団がそのような場になるためには、合唱をするためだけに活動するのではなく、多様な人々を受け容れられる団体に変わる必要があるように思います。コミュニティとしての合唱団に必要な要素を、思い付くままに挙げてみましょう。

1)明瞭な組織運営
合唱団は思い入れの強い個人が運営を動かすことが多く、そういった場合運営の内容が不透明になりがちです。もっとあからさまに言うなら、会計がどれだけ明瞭かということです。
心のよりどころなんだから、法人の会計みたいにお金にそんなシビアでなくていいじゃないか、と思う人もいるかもしれません。しかし、ある程度の人数が集まり、そこでみんなが気持ちよく活動していこうと思えば、むしろ曖昧なことはマイナス要因になります。不明瞭なことがあれば、誰かがあらぬ勘ぐりをすることにつながります。
よくあるのは、思い入れの強い個人が持ち出しで団を運営するような場合です。仮にその人が資産家であったとしても、それは良くない状況と思えます。みんなが自律的に参加したくても、団員の誰かが一方的に金銭を提供しているとなると、その自治力が不透明になってしまうのです。会計上に明瞭に現れる別組織からの寄付金、というなら問題は無くなるのですが。

2)怒らない運営
まあ、どんな組織でもそうですが、メンタルに人を動かそうとすると、ついつい怒ってしまうことがあります。しかし、社会の様々な人々があつまるような集団においては、ほとんどそれはマイナスにしか効果しません。
いや、昔は誰かがそうして厳しく対処することが、組織をまとめるのに必要だと思われてきました。もちろん今でもそう思っている人はいます。でも、今と昔は違います。心のよりどころを求めてやってきた人々に対して、組織への服従を要求するような態度は間違っています。
どんな組織にも多少の「困った人」はいるものです。しかし、「困った人」を排除しても、また新しく「困った人」は現れます。それなら、困った人でなくせいぜい「変わった人」くらいに考えて、受け容れていくこともまたコミュニティとして必要な態度ではないでしょうか。多種多様な人を相手にしたとき、様々な価値観を受け容れ、柔軟な態度を取りつつ、全体をゆっくりと一つの方向性に持っていくという力量が必要なのです。

3)常に一段階高い目標を示す指導者
指導者は合唱団の特徴の80%くらいを決めてしまうほどの存在です。言うまでもなく、指導者は合唱団にとって重要だし、プロでなくコミュニティとしての集まりだったとしてもその意義は変わるものではありません。
とはいえ、学生団体のような熱い指導では、熟年の方々にはうんざりです。目の前で若造が当たり前のことを吠えている、などと感じられたら合唱団には全く魅力が湧かなくなるでしょう。
もちろん、これは指導者の年齢の問題ではありません。
指導者が問題点を丹念に説明し、全体の演奏の方向性を明瞭に示した上で、的確に指示をだすならば、団員は付いてきます。そのとき、常に現状の実力のほんのちょっと上を、丁寧に示してあげればよいのです。それに、音楽、文学、歴史、語学、宗教などの知性と教養を示せれば、言うこと無しです。あとはまあ人間的な魅力という側面もあるでしょう。
そんな完璧な指導者もまた数少ないのですが、指導者を選ぶ側もまた人を見る目が必要になってくるでしょう。

自分たちのことは棚において、社会において理想的なコミュニティとなり得る合唱団について考えてみました。さて、あなたはどう思いますか。

2011年2月16日水曜日

変わりゆく世の中での処世術

世の中が激しく変わっている、今まさにそのただ中にいるような感じです。
その原因はインターネットにあると私は思います。直接原因というよりは、世の中の変化の根底にネットが常に介在しているという感覚です。そんな単純な話ではない、と感じる人もいると思います。しかし、ネットが世界にもたらした効率化の連鎖は恐ろしい勢いで世の中を変えているのではないでしょうか。さまざまなサービスがネット化され、買い物の仕方も変わり、人との付き合い方も変え始めています。考えようによっては、政治さえネットで完結出来る可能性を秘めています。多分、それに一番先に気付いた国家が、今後勢いを増していくのではないかと思うのです。

そんな中で、私たちはどう生きていけばいいのでしょう。
大それた疑問と思うかもしれないけれど、一人一人が何らかの指針を持って生きていかなければなりません。でないと、変化の大波に飲まれて翻弄されてしまいかねません。
私がまず思うのは、日本的な組織第一の価値観から早急に脱却すべきだということ。組織にしがみつかない生き方を目指すべきです。前回も書いたように、組織はもはや私たちの奉公に対して十分な御恩を返してくれません。そんな余裕は無いのです。

しかし、それは仕事を適当にすればよい、ということでは無いのです。
仕事を通じて、自らを高めたり、自分のやりたいことを実現したり、というように、組織の仕事が自分にメリットとなるような仕事の仕方をすればよいと考えます。
だから、今の仕事は面白くない、と感じてしまった瞬間にかなり危険な状況に陥ります。私の思うに、どんな仕事であっても、さまざまな雑事の中に自分がやりたいと思うことが必ず見つかるはずだし、そういうものをうまく選んでいけば、何もかも面白くない、などという状況にはならないはずだと考えます。今が面白くない、と思うのは外的な環境ではなくて、個人の心の持ち方に問題があります。

もちろん組織の中にいれば、面白くないことも多いし、面白くないことをさせられることもあるでしょう。まあ、そのあたりはそこそこ我慢しつつも、自分が面白いと思うことをちゃっかりやって、組織の中に自分のテリトリーをしっかり確保するというのが正しい生き方と思うわけです。
それが最終的に組織の目標と合致していれば、それが理想です。しかし、それでも心の底では会社のために仕事をするのでなく、自分のために仕事をするのだという心構えが基盤にあります。

私の拙い予想では、20〜30年のうちに大きな組織がどんどん崩れ始めると考えています。
ネットが極端なまでに世の中の効率化を推し進めると、世界で同じような仕事をしている人たちが横の関係を築き始めるからです。そうすると社内の狭い人間関係ではなく、ネットで繋がる同じ境遇の人たちとのコミュニケーションが重要になっていきます。
今のうちにそういう流れに早く乗って、組織第一の価値観に縛られずに生きていくことが、今後数十年の自分の生き方に大きく影響を与えるのではないでしょうか。まだまだ私自身が自分の考えていることを十分にやりきれていないのだけど、そういう気持ちを感じながら生きているのは確かです。

2011年2月13日日曜日

なんだか世の中が変わっている

世の中いろいろな事件が起きているけれど、一見自分の生活と関係ないようで、自分を巻き込むような何か大きなうねりを感じています。それが何か判然としないけれど、ちょっとブログを書くことで整理してみようかなと思いました。

社会的な話題の中で、自分がもっとも関心があるのは、会社と自分の関係です。
急速な派遣、請負社員の増加。採用抑制による社内人口の高齢化、それに伴うポストの減少と年功序列の崩壊。こういったことは、各種メディアや評論家からも語られていること。
これと、ネットサービスの発展によってブログ、SNS、Twitterなどを行う人が増え会社外の人脈が作りやすくなっていること、仕事や技術に関する一般情報がネットに溢れ、誰でも今の世の中を(自分なりに)捉えやすくなっていること。
ネットの力は、今エジプトで起きている政変でも大きくクローズアップされ、人を動かす大きなツールとして認知度をさらに高めたと思います。

こんなことをいろいろ考えると、もう会社という組織自体が昔のままではいられなくなる、としか考えられないのです。会社への奉仕の分、見返りがあるということが無くなり、結果的に社員のモチベーションを下げていきます。人はもっとドライに会社と付き合うことになります。
そんな状態で、会社のほうも社員に対してドライに付き合わざるを得なくなります。誰に対しても全員同じではなく、メリハリの効いた対応をすることになっていくでしょう。そうせずに相変わらず「頑張れ−」というだけの職場はいつか衰退していくことになります。

市場はグローバル化し、日本企業は優秀といわれていた会社でさえ、相当苦しい状況になっています。世界的に見れば日本の電機メーカーの相対的地位はかなり低下しています。分野ごとの合従連衡もめずらしくなく、気がつけば、会社の規模はどんどんシュリンクしているように見えます。
そもそも総合電機メーカーという括りが、もう流行らないような気がします。各会社は儲ける体質を作るため、事業毎に独立採算を求めるはず。そうなると、同じ社内でさえ売った買ったの関係になり、そのうち一つの会社である必要も無くなります。そう言えば以前こんなことも書きました。

どの業種にしても、ライバルは国内企業だけで無くなっています。特に、韓国、台湾、中国といったアジアの新興企業はどんどん存在感を増しています。いずれ、同じくらいの力を持ち、互角の戦いをするようになり、気がつけば追い越され、業務提携や買収、なんて話しも増えてくるのかもしれません。高齢化が進む日本では、このような流れは避けられないようにも思えます。

で、何を言いたいかというと、じゃあ私たちはどうすればいいの?ということ。
少なくとも、それほど急に世の中が変わるわけじゃないから、会社をすぐに辞めようというわけでもありません。しかし、そういう事態はじんわり現れていくと思うのです。だから、会社に時間を取られるよりも、もう少し多くの時間を社外の人脈(知り合い)作りに当てた方が有効だし、その中で自分の興味が持てる世界を作っておくことが重要になってくる気がするのです。
会社はもう安泰ではない、という感覚と、収入の可能性はほとんど無くても会社以外の世界を広げておくことが、私たちにできる準備なのではないか、とぼんやり思っているのです。

2011年2月9日水曜日

LGの液晶テレビを購入!

ここ半年くらい、いつテレビ買おうかな〜とずっと考えていました。
11年前に買ったブラウン管テレビはこれまで全く故障もせず、正直、地デジ移行には何となく釈然としない感じもしていたわけです。かなり前に決まったとは言え、日本中の使えるたくさんのテレビがゴミと化してしまうのはやっぱりもったいない。いっそのこと安価な地デジチューナで済ませようかとも思ったりしました。

これまでなかなかテレビを買わなかったのは、単純にどのテレビを買ったらいいか分からない、と迷っていたからでもあります。多くのメーカーから、あまりにたくさんの型番が発売されていて、もちろんそれぞれにいろいろな機能やら、性能の違いやらがあるわけですが、正直私にはその違いに全く興味が湧かないのです。
実際、家電量販店でテレビを見ても、私には安いものと高いものの性能差がほとんど分かりませんでした。

今回は、何となく東芝のREGZAでも買うかな〜と漠然と思っていたのですが、そんな折、浜松のビックカメラでLGのテレビが展示されているのを発見。
もとよりあまのじゃくな私は、日本製じゃないことにたまらない魅力を感じ始めたのです。
しかも、そこにあったLGの最高機種のデザインが素晴らしい。
見た目を一言でいえば、表面は一枚のクリアパネル。余計なでこぼこ一切無し。スイッチ類も無し(わざわざタッチパネルになってる)。そして、テレビ全体は非常に薄く、まるで近未来の映画で出てくるような洗練されたデザイン。
継ぎ目の無さやボタンの極端な排除など、アップルのデザイン哲学にも通ずるところがあります。超大型iPhoneみたい。

自分自身メーカーで働いて、こういったデザイン重視の製品というのが、日本では製品化されづらい現実を良く感じます。
最終的に製品開発にGOを出すのは経営者であり、日本ではそのクラスの人にデザインの美しさの価値を理解している人が少ないのです。またいくら優秀なデザイナがいたとしても、社内の力関係で技術やコストのほうを優先するほうが、恐らく圧倒的に多いでしょう。だから、日本メーカーには思いっきりデザイン性に振れた製品が少ないのです。

こうなると、私にはほとんど他の機能などどうでもよくなってきます。いわゆる一点豪華基準による選び方。
とはいえ、元より42型を購入予定だったので、同じく一枚クリアパネルデザインの42LE8500を購入しました。17万円と、このサイズとしてはちょっと高めでしたが、いや十分満足。
先週末にテレビが届き、ようやく人並みに地デジ放送を見られるようになりました。

と、このままでは、デザインに大満足ってだけで終わるので、ちょっとおやっと思ったことをいくつか。
・正直、音質は良くないですね。まあ、この薄さで全面ガラスなので、まともなオーディオ性能を求めるのは厳しいでしょう。スピーカーが前を向いてないだけで、音質はかなり落ちますから。でも、十分聴ける範囲ですが。
・電源が入っていない状態で、リモコンのチャンネルのスイッチを押すと、電源は入るけれどそのチャンネルにならない。こういう細かいところまで配慮が行き届かない感じが、日本製じゃなさを良く出している。
・画面のボリューム表示の妙な絵も、日本のテレビでは見たことが無い。これは変わってて逆に面白いかも。

残念ながら、LGテレビは日本では全然売れていないそうです。日本市場に再参入したけど、すぐに撤退してしまうかもしれませんね。
中途半端に安いの出さずにデザイン系のやつを3種類だけにするとか、デザインにうるさい人にうまく宣伝してもらうとか、もう少し営業に工夫すれば、何とかなるような気もするんですけどね〜。

2011年2月6日日曜日

合唱レコメンドシステムの評価方法

引き続き、Web上での仮想サービスである、合唱レコメンドシステムについて妄想します。

以前書いたように、音源への評価は、単純な評価の積算ではダメで、評価者を評価する係数をかけた上で評価を決めるべきです。
せっかく合唱という具体的なジャンルに絞ったのだから、思い切り具体的に考えてみましょう。

合唱大好きなAさんが開設するブログで、Aさんはネット上で公開されている音源の評価を行っているものとします。もちろん、それらの音源は全てレコメンド対象です。
Aさんは、そういった音源をネットで聴いて、その感想をブログに書くわけです。その上でAさんはその音源に★マークを付けます(5段階評価くらいで)。Aさんはそのような行為を、ブログ上でずっと繰り返していきます。
そのブログの各記事の下には、「その通り!」ボタンが付いています。
Aさんの記事を読んで、全く思ったとおりで我が意を得たり、と思うならば、読んだ人は「その通り!」ボタンを押します。
私がイメージしているのは、表面的にはただそれだけのシステムなのです。

ネットの内部では、評価者の評点と、「その通り!」ボタンを押したという情報が全て一箇所に集められます。
「その通り!」ボタンを押した数は、評価者の評価に繋がります。これが多ければ多いほど、評価者のレベルが高まるわけです。レベルの高い評価者の星のポイントは影響力が強くなります。
先ほどの例で言えば、Aさんに対する「その通り!」の数が多ければ、Aさんの評価者レベルは高まり、音源に対する評価において、Aさんの意見はより重きを置かれるようになっていきます。
この辺りの実際の計算式はまあいろいろな考えもあるし、統計的な処理やら、不正投票を検出する仕組みやら、考えねばならないことは多々あるでしょう。以前も多少具体的に書いたので、これ以上の考察はとりあえず割愛。

何度も言うように、音楽への評価が、CDの売り上げでもなく専門家の意見でも無いところで、最も信頼すべき指標を得るための仕組みを考えてきました。
芸術の評価は、専門家による評価が歴史的に積み上がって、その中で大きなベクトルが作られていくものです。しかし時代背景で不当に評価されてしまったり、そもそも才能があっても評価される場にさえ上げてもらえなかった人はたくさんいるに違いありません。
ネットの世界が、全てをオープンにし、全ての才能のために公平である方向に向かうのは良いことだと考えます。それが進行した世界では、能力もないのに空イバり出来たり、政治力でのし上がったりするようなことは、大変難しくなるはずです。それが本当に良いことかどうか、まだ私にはわかりませんが、ひとまず私が理想とする未来ではあるのです。

2011年2月3日木曜日

合唱におけるレコメンドシステム

やはり最終的には合唱の話題に落とさないと、読者の皆さまから許されないかなという気がします。
これまで抽象的なアイデア論でしたが、合唱という特定のジャンルでレコメンドシステムがどのように展開される可能性があるのか、ちょっと考えてみましょう。

まずこの合唱の世界って、なかなかレコメンド的な自由な批評が行われにくいなあ、と思うわけです。批評そのものの話は置いておくとしても、批評されるべき音源があまり世の中に出てきません。
毎年、たくさんの新曲が委嘱され、初演されているのにも関わらず、これらの音源が公になることは非常に稀です。まあアマチュアだから、というのは分からないでも無いですが、委嘱した以上は、その楽曲を広めるところまで合唱団の役割であると思って欲しいものです。
このような状況で不必要に著作権の話をするのは、何か間違っているような気がするのです。そこで聴いたお客さんの評判から初演曲の評価が高まる、などというのは稀なことであって、音源を公にして、多くの関係者の耳に触れないと、楽曲の正確な評価は得られないでしょう。
従って、合唱のレコメンドを考えるとき、まず音源の流通をもっと活発にしなければいけない、ということが一つ思い浮かびます。

次に、もう少し技術的な問題を考えてみたいです。それはレコメンドの対象は何か?ということ。
クラシック音楽以外はほとんどの場合、音源そのモノがオリジナルなので、音声データそのものがレコメンドの対象となるわけですが、クラシックの場合、作曲家が書いた楽譜、がレコメンドの対象になる可能性があります。これは、別の見方をすれば、ある演奏を聴いても、そのレコメンド対象が楽曲そのものなのか、演奏に対してなのか、あるいはその両方なのか、ということが不明瞭ということでもあります。

あえて、ここで白黒はっきりつけるなら、楽譜をレコメンド対象とはしないのが、もはや音楽の一般常識と考えて良いと思っています。一部クラシック系の現代音楽作曲家は、楽譜そのものが作品である、という考えを持っている方もいるようですが、このような考えが一般的になるのは難しいでしょう。

となると、やはり演奏をレコメンド対象とすることになるでしょう。そして評価者の評価は、楽曲と演奏の両方に対する評価とするしかないでしょう。この二つを分離するのは、システムを複雑にするだけだし、そもそも評価者が楽曲と演奏を明瞭に分割して評価するのは不可能だと思うからです。

とここまでまとめてみると、
1.音源の自由な流通
2.流通した音源そのものへのレコメンド
ということになります。
まあ考えてみれば、これは演奏会の様子をYouTubeで公開する、というのが今最もやりやすい方法ですね。YouTube,ニコニコ動画はJASRACと包括契約をしているので、たいていの場合著作権の心配もありません。新作については、作詞・作曲家と協議した上で公開をするということになるでしょう。(私の想像するに、ほとんどの方は断る理由は無いと思っています)

音源を公開した上で、レコメンドをどのようにしていくか、また次回考えてみましょう。