2011年3月29日火曜日

上原ひろみ/VOICE

グラミー賞受賞で話題になり、一般にも有名になった上原ひろみの新譜が発売になり、もちろん即購入。
今回はトリオ編成。しかもベースとドラムは新しいメンバー。
トリオ編成は音色のバリエーションは少ないのだけど、一人一人の手数が楽しめ、何より上原ひろみのピアノが堪能できるのは大変嬉しい。私としては、音色の華やかさよりトリオのほうが音楽をミクロで感じられて好きです。
冒頭のVoice、私の大好きなプログレ風ロック調。この曲はJazzとはあまり感じられない、複雑な変拍子とバカ速弾き。もう、これだけで私のツボなのです。

人によっては若さに任せて、やたらと速弾きしてるだけのプレーヤー、という評価もあるでしょう。それには私は二種類の反論があります。
一つは、ヴィルトオーソとして超人的な演奏をすること自体への賞賛があります。これだけ手数を増やし、二本の手では不可能と思えるパッセージを弾きこなすことに飽くなき執念を持って取り組んでいる、それ自体が評価に値します。もちろん、それには若さが必要。歳を取れば、また別の魅力を開拓するでしょうが、今はこの超演奏力をとことんまで磨いて欲しいと思います。
もう一つは、彼女には速弾きだけで無く、リリシズム溢れるソングライティングの才能があるという点。私にはこちらの美点のほうが圧倒的に重要。このリリシズムはJazz的な開放的な感じとちょっと違う、少しダークでシリアスな感覚。どこでそんな感性を得たのか分からないけど、その世界観は、なかなか他のアーティストからは感じられなかった感覚です。

曲作りも変拍子の多用など、無闇に曲の内容を難しくするあたりも私好み。
私はクラシック世界でいう現代音楽には懐疑的ですが、Jazz、Rock、Popsで前衛的なものをむしろ評価します。このあたりが世間の感覚と違うのですが(世間の人は、クラシックの現代音楽を肯定して、ポップスは脳天気なものを愛している)、その基本にあるのは自分のやるべき音楽を極めたらこうなった、という芸術的信念です。
現代音楽は、すでにヘンテコなことがスタイル化し、音はぐちゃぐちゃで変なのに作っている人の感覚は案外保守的で、思ったほど独自性はありません。
しかし、ポピュラー系でアバンギャルドな感覚を持っている人には、強烈な個性があり、表現者としての独自性を持っているように感じられます。
そういう意味で、上原ひろみの奏でる音楽は、そんな私の趣味を素晴らしく満たしてくれるのです。

なんだか、本作の感想をあまり言ってませんが、興味のある方はぜひ聴いてみて下さい。万人にお勧めできるとは言い難いですが、最先端の音楽クリエーターの世界がそこにあることは保証いたします。

2011年3月26日土曜日

個人と組織

「新しい日本を始める」で書いたように、個人と組織の関係が変わり始める予感を感じています。
何か判断をする際、個人個人ではいろいろな考えがあっても、組織では何かしら統一の判断をしなければなりません。そうした場合どのような判断になるのか、今回の震災でも特に自粛などの問題でそれが良く現れていると思います。

コマーシャルが一気に消えてACばかりになっていること、いろいろなお祭りイベントが自粛で中止になったこと。これらは特に昨今の日本的な組織の判断と言えるでしょう。
コマーシャルは面白おかしく宣伝するものが多いですから、不謹慎かも、といったん思うと、そのCMを流すことが不安でしょうがありません。いったんどこかが自粛を始めると、もう、面白おかしくないようなCMまで不安の連鎖で自粛しまくりです。
同じようなことがイベント系の自粛にも当てはまります。

このような状況において、自粛しない人たちのほうがより目立つし、むしろ個人の目で見たなら賞賛すべき態度のようにも思えます。では、自粛しない組織はどんな組織か?
恐らく、自分の考えを信じ、かつしっかりした考え方の出来るリーダーが決定権を持っている組織です。悪く言えばワンマンな組織ですが、明瞭な個性を持った組織です。それは極めて、個人の振る舞いに近い組織でもあります。

恐らく戦後などの混乱期には、日本の組織にもそのようなリーダーシップを持った個性的なリーダーがたくさんいたと思うのです。
それが安定的な成長の時代になって、破天荒よりも安定を、ハイリスクハイリターンよりも、ローリスクローリターンを、直感よりルール・プロセスを重視する社会になり、官僚的な人々が組織を運営するようになってきました。
そして、それによって多くの日本人が閉塞感を感じているのではないかという気がするのです。

だから、官僚的なリーダーより破天荒なリーダーが人気を集めます。
政治で言えば、小泉元首相、最近なら大阪の橋元知事、名古屋の河村市長。経営者ならソフトバンク、ユニクロ、楽天の各社長など・・・。Appleのスティーヴ・ジョブスなどもその代表例。
彼らは、組織のリーダーであると同時に、強烈な個性を持った個人であり、その個人の個性が彼らをリーダーと仰ぐ組織の個性ともなっています。

これらは大きな組織の話ですが、組織はまた小さな組織の集まりでもあります。
今や、個性的な個人が直接世の中に発信出来るツールもどんどん増えてきました。そのようなツールを使えば場所を越えて、緩やかな組織化も可能かもしれません。
そうすることによって、官僚的な組織が順次瓦解し始め、自分が尊敬できる人の元で直接働けるようなそういう流れも可能かもしれないと思うのです。
やや想像が先走りすぎですが、個性的な個人が作り出す世界のほうが圧倒的に面白い、その事実に人々が気付き始めています。個人がそれぞれの個性を発揮し、その個性に共感する人がその人の周りに集まって新しい組織化を始める。そんな行動が少しずつ始まるのであれば、良い方向に社会が向かうのではないでしょうか。

震災はそんな旧来の組織の弱さをどんどん露呈していると感じます。このような混乱期こそ、新しい個性が生まれやすい。やや不謹慎かもしれないけれど、災い転じて福と成すような方向に、日本全体が変わっていっていくことを大きく期待しているのです。

2011年3月21日月曜日

ゴスペルオペラ「トゥリーモニシャ」

Photo01_220日に袋井市の月見の里学遊館うさぎホールにて開催されたゴスペルオペラ「トゥリーモニシャ」を観に行きました。
ゴスペルオペラと称していますが、観た印象はミュージカルと呼ぶのがもっとも妥当でしょう。また、作曲スコット・ジョプリンとありますが、実際のところオリジナルからはストーリーのネタと幾らかのメロディを拝借しただけで、ほとんど今回の公演のための演出家と音楽監督によるオリジナル作品と言ったほうがいいかもしれません。というのも、台本は全て演出家による日本語のものですし、音楽に至ってはJAZZバンド風の楽団用に作り直しているからです。

そもそもこの企画、妻が合唱指導をしているという縁で公演を観させてもらったのですが、袋井というお世辞にも都会とは言えない場所で、あまりに渋い演目を行っているので、難解な内容で人の入りも今ひとつかな、なんて思っていたのですが・・・今日、実際に観てビックリ!
台本も演出も俳優の演技も、そして音楽も、どれも一線級のプロの仕事です。しかも、内容も分かりやすいし、ユーモアのセンスもある。それでいてしっかりとヘビーなメッセージを含んでいたり、意味もなく音楽がアバンギャルドだったりと、ちゃっかりと一線級のプロが自分のやりたいことをやらせてもらったという質の高さを感じました。
これなら、一般のお客さんにも十分楽しめるし、演劇や音楽にうるさい人にとっても見応えのある内容だったのではないでしょうか。しかも、20日はほとんど満席!(21日はさらに人が入ったらしい)

ストーリーの舞台は南北戦争直後のアメリカ、南部の黒人による農園を舞台にしています。18歳の少女トゥリーモニシャがその知恵で、農園で働く人々と、働かずに魔術のようなことばかりやっている連中との痴話げんかを解決するというお話。ユーモラスなドタバタのように見せかけながら、自分で考えて生きていくことの大切さと、暴力に対して報復の暴力をふるっていては何も解決しないんだ、というメッセージが込められています。
私たちは、国際的な紛争に対して第三者でいるときには、上のように暴力に対して暴力のお返しするのは良くないと主張するでしょう。でも、それが自分の国のことならどうでしょう? 自分の近所の人なら? やはり、やられたらやり返そうと思ってしまわないでしょうか。
普段、倫理的なことを口にしている人も、いざ自分の身の回りに起きる小さな痴話げんかの範囲においては、感情が先走り倫理的な行動は取れないもの。この舞台では敢えて、そのようなスコープの狭い舞台背景としたことで、そんな個人の領域の判断を浮き彫りにします。だから、暴力で仕返ししないと言ったトゥリーモニシャの判断は、想像以上に勇気ある決断だったと皆が感じることが出来るのです。
もう一ついうと、この芝居で何度も現れる黒人の白人に対する引け目の感覚とは、我々イエローにとっても同じことで、脚本を書いた方の微妙な心持ちを感じたような気がしました。

さて音楽ですが、これがまた素晴らしい! もう楽団員一人一人が相当な実力者。バンド編成は、ドラム、ベース、ギター、ピアノ、サックスというオーソドックスな形でしたが、彼らが繰り出す音楽は変幻自在。Jazzはもちろんのこと、bluesっぽかったり、forksongぽかったり、もちろんゴスペルも。その一方で、フリージャズのようなアバンギャルドだったり、「運命」のパロディが出て来たり、もうやりたい放題。この手のバンドであるにも関わらず、随分アゴーギグが激しくて、指揮者とのあうんの呼吸がとても気持ちよいのです。しかし、音楽の分かりやすさといった大衆性は失っておらず、ファンキーな感じが誰が聞いてもカッコいい!と思える演奏だったのではないでしょうか。

私は演劇には詳しくないけれど、演出もセンスの高さを感じました。
終盤の神様かかしと4人組悪党の対峙のところ。4人組が逃げようとするところがスローモーション風だったり、かかしと4人組は向かい合っているはずなのに同じく観客側を向いている配置だったり、このあたりの演出は私のような素人には思い付けません。映画的な表現手法を演劇に取り入れた、という感じでしょうか。非常に現代的な演出手法だと感じました。
ときおり全員が歌って踊るシーンは、もうまさにミュージカルという感じで、良質のミュージカル映画を観たような感覚を感じました。

あと特筆すべきは、特殊技能を持った俳優さんたち。
特に、超ハイテンションな踊りと歌を楽しませてくれたゴスペル牧師と、クレイジーケンバンド顔負けの超ソウルフルなボーカルを聞かせてくれたトゥリーモニシャの父さん役の二人は印象的。もうあのシーンはこの二人がいたからこそ、構想されたのではないかというくらい、役者依存のシーンでした。あのパワーは本物ですよ。そこら辺の好き者の技ではありません・・・

しかしこれだけ質の高いミュージカルが袋井でたった2回だけ、というのはもったいないですね。東京でやればもっと評判になるかもしれません。こういった実力派の演奏家、俳優の人たちのふところがもっと潤うようになるためにも、また再演の機会があったらいいのにと思います。
日頃テレビで観るような俗悪なドラマに比べれば、エンターテインメントを持ちながら創造性の高いこういったミュージカルはもっともっと広く知られたらよいのに、と思いました。
この公演に尽力された多くの皆様方に大きな拍手をお送りいたします。お疲れ様でした。

2011年3月18日金曜日

新しい日本を始める

まだまだ地震の復興にはほど遠い状況ですし、原発事故や計画停電や買い溜めなど、被災地以外にもその余波が拡がっています。
地震直後は、恐ろしいほどの天災だったのに、時間が経つにしたがって人災的な要素も加わってきているようにさえ感じます。もちろん、現場は懸命な努力を重ねているに違いないのですが、私が感じるこの人災というのは、もっと大枠な社会システムの問題です。

私自身はそれほどテレビをずっと見ているわけではないのだけど、特に原発の対応については、ちぐはぐな対応ぶりや、意志決定の遅さを何となく感じます。
このような問題が起こる度に、災害時の行動についてルール化、マニュアル化しようというような流れになりますが、実際の災害の現場にいたとき、そんなルール通りに行動するなんて不可能なように思うのです。
むしろ必要なのは、責任と権限の所在です。誰が責任を持って決定を下すのか、それを明確にしておくことです。会社の全ての責任は社長が負うわけでは無いと思います。会社の全ての業務について社長が専門知識を持っているわけがありません。ならば、その責任・権限の一部をその配下に委譲すべきなのです。
専門知識を持つ担当者が、意志決定の権限を持てば、判断のスピードは早まります。そうすれば、少なくとも災害時においては、訳の分からない承認のために時間がかかるよりよほどましな対応が出来ると思うのです。

トップが常に全責任を負うことを建前にし、結局判断が出来ず、担当者に事情を聞いているようなら、そんな責任者は要りません。今こういう事態は、日本のあちらこちらで起こっている感じがします。あなたの周りにもいませんか? 現場の事情が分からずに判断がすぐに出来ないリーダーが。

そういうことが、今回の大震災で教訓にならないだろうか、と思います。
少しずつ、そういう事態が日本人にもわかり始めてきて、判断の権限を現場監督に委譲することのメリットが理解されるようになれば、より迅速な判断が可能になるでしょう。そのような社会になれば、判断する人の高いスキルが要求されるようになり、そうなるとそもそも大組織であるメリットは無くなって、大きな会社・組織がだんだんと解体していくことにならないでしょうか。

時代は、組織よりも個人を中心として、めまぐるしく回り始めているような気がします。マスコミよりもツイッターやSNSのようなサービスを通じてネットのほうがますます人々の行動に影響を与える時代、災害自体は悲しい出来事だけれど、それを乗り越えることによって、組織中心の日本の社会が大きく変わるきっかけになれば良いと私は感じています。

2011年3月14日月曜日

日常と非日常の境目(大震災に寄せて)

金曜日に大地震が発生して以来、報道は地震一色でしたね。
私には何しろ津波の映像がショッキングだった。もうこの一言に尽きます。多くの人がカメラを持っている現在、時が経つほど様々な津波の映像が報道で取り上げられるようになって、益々この天災の凄まじさを恐怖を持って見つめていました。

特に最初期にヘリコプターから撮影された映像が何とも象徴的。
いつもの日常が、まるでSF映画のように恐怖の非日常空間に呑み込まれていく様は衝撃的でした。まるで白紙に絵の具を塗るかのように、あまりに簡単に容易に進行していきます。私たちはそれを俯瞰的に傍観者的に見るしかないのだけど、あの最前線でいきなり非日常に呑み込まれた人々のことを思うと、どうしようもない戦慄を覚えます。
私たちの生活は、かくも簡単に日常と非日常の境目を飛び越えてしまうのです。

私たちはこれほどまでに天災の前には無力であり、そのような恐怖は突然やってくるのであり、もはやそれは理不尽さといった言葉を超えた超越的な意識でしか、この事実を受け止めることは出来ません。
今さらながらに何かしら宗教的な意識を感ぜずにはいられないのです。つまり、神のみになせる技と言ったような。

現実生活で被災していない私たちができることは、募金などごくわずかなことしか無いけれど、日々芸術の世界で自己表現を続けている身としては、何かこの感覚を伝えねばならないような気持ちを感じています。何らかの形で、哀悼の意と超越的な力を表現するモノを形にしたい、というかするべきなのだと思うのです。
こういった一人一人の行動は小さなものだけれど、それが大きなうねりになって、新しい何かが始まるかもしれません。

2011年3月9日水曜日

キュレーションの時代/佐々木俊尚

話題の本「キュレーションの時代」を読みました。
ネットでツイッターやフェイスブックが流行っている、ということを漠然と知っていても、それがどのような大きな流れに繋がっているのか、そういうことを的確に把握している人は少ないと思います。
私もこのブログ上で、レコメンドシステムなんてことを考えたりしてみましたが、そういう考え方も、この本の考え方の一部だったような気がしています。

この本が伝えることは、マスコミ主導による画一的な大量消費時代は終わり、ネットを介して好き者が勝手に結合するビオトープ(生息空間)を形成し、その中で発言力のあるキュレーターが情報を整理して再構成していくような社会になっていくだろうということ。
私たちはマスコミではなく、そういったキュレーターの情報を収集し、自分たちの消費行動を決定していく。
冒頭のジョゼフ・ヨアキムの逸話が秀逸。全く名もない老人の描いた絵が偶然、美術家の目にとまり、現代アートとして認められることになるまでのストーリーが紹介されています。ここで、この老人の絵に注目した人がキュレーターの役割を担うことになります。
コンテンツはそれ単体では世の中に伝わらない。そのコンテンツの持つ背景や、社会的、芸術的意味とセットで紹介するからこそ、広くその価値が知られるようになるというわけです。こういったコンテキストとセットで紹介することを筆者はキュレーションと呼びます。

キュレーションには、それが信頼たり得る情報となるための信用が必要です。
それは長い間にキュレーターが蓄積した信用でしかなく、つまりキュレーターの人となりということになるのではないでしょうか。企業がお仕事で行う広報活動とは根本的に違う、個人的な信用の世界。
私が本書で、最も深く感じたのは、まさに「魅力ある個人」に人が集まる、ということ。一見当たり前のように思えるけれど、ネット時代に「魅力ある」と思える人は、現実社会で魅力があるのとはちょっと違うと思います。
まず、その人自身が確固たる思想と、個性的な嗜好を持っていること。そしてそれを的確に魅力的に伝える術を持っていること、こういった力を持った人がキュレーターとなり得るのだと思うのです。ここでは、見た目の格好良さとか行動のカリスマ性はあまり意味を持ちません。

逆に本書を読むことによって、これからの世の中でだんだん衰退していくものも想像出来るようになります。
一つはマスコミによる情報。そして企業の宣伝。個人の顔の見えない画一的な広報。
企業は利益を出すためになるべくたくさんのモノを売らねばなりません。それは必然的に多くの人を満足させられる可もなく不可もない安定した製品、サービスになりがち。ところが、趣味嗜好が細分化され、ビオトープ化した集団にはそのような無個性な製品やサービスには魅力が感じられません。
そうすると、製品やサービスを供給する側も、少量で採算が取れるような小規模なビジネスにならざるを得ません。これは、大会社から個人事業への転換を意味する流れになります。

そんないろいろなことを考えさせられる、非常に奥深い本です。
自らが創作活動、表現活動する者にとっては、重要な示唆に富んだ内容が書かれていて、今後の行動にも影響を与えるのは間違いなし。
今、私がぼんやりと感じていた感覚を、ヴィヴィッドにとてもうまくまとめてくれました。

2011年3月5日土曜日

【初演団体募集】理系ネタの新曲作曲中

まだまだ委嘱をたくさん頂けるとはほど遠い状態なので、それならばネット上で新曲の作曲過程を公開して、初演を募ったらどうかと考えてみました。すでに Twitter をフォローして頂いている方はご存じかと思いますが、二週間ほど前から「新曲P」と題して、作曲しながらその状況を Twitter でつぶやいています。

子供が生まれて以来なかなか時間が取れず、ここ2年来、合唱組曲のような大曲を作ってませんでしたが、少ない時間で暇を見つけながらそろそろ作ってみたいと思っていたのです。テキストは数年前から考えていて、すでにある程度整理しておいたものがあります。今回も、「E=mc2」「生命の進化の物語」に次ぐ理系ネタ。ただし、詩はオリジナルでなく既存のラテン語の文章からいくつかの文章を抜き出したものです。

ということで、今回の理系ネタの新曲について、その概要をご紹介します。
・アカペラ混声5声(Sop,Alt,Ten,Bar,Bas)
・全3曲で約15分強くらいの演奏時間を想定。
・テキストはラテン語。某有名物理理論書から抜き出し。


男声が多めなアカペラ5声というのは、大学の合唱団を意識しています。大学合唱団では男声のほうが多いことが良くありますので。ただし、テナーの音域は女声が歌えなくもないくらいにするので、男女が半々くらいまでなら対応可能。
また、5声という奇数の声部とすることで、敢えて男声、女声の対比のような効果を封印して、音色が統一されたより緊密なアンサンブルを指向した曲となることを目指しています。

ただいま、3曲中、1曲目を作曲し終えたところ。
初演団体募集のために、まだ初稿状態ですがこの楽譜を公開します。楽譜とMIDIはココ
今の段階で初演して頂けることをお約束してくれるなら委嘱扱いで残りの曲を作曲します(委嘱扱いといっても委嘱料は要りません。あくまでその団体のために書いた曲である、ということです)。
初演団体が手を挙げてくれば嬉しいけれど、初演団体が現れなくても残りの曲はスローペースでゆっくり書くことにします(まあ、いつものことです)。

ネット上で作曲状況を公開して、初演団体を募るというこの企画、うまくいったら面白いですね。有名な作曲家の先生に委嘱作品をお願いする、という今までのやり方だけでなく、作曲の中身を見てから委嘱をお願いするというやり方もネットのおかげで出来るのではないか、という実験に参加してみませんか。

2011年3月1日火曜日

指揮者の仕事術/伊東乾

本屋で立ち読みしてたら、なかなか面白そうなので買ってしまいました。しかし、この方のプロフィールがまた半端無い。指揮&作曲をしながら、東大で物理を学び、脳認知生理学と音楽に関する研究をしたり、分筆活動でも賞を取ったり・・・。敢えて陳腐な言い方をすれば、天才的な活躍をされています。

もちろん、そんな人が書いた本ですから、音楽だけでなく、社会、歴史、文学、音響、建築などあらゆる話題に蘊蓄が語られ、著者の博学さに驚かされます。実際のところ、指揮者に関する本なのにストレートに指揮そのものの話題があんまり書いてありません。
でも、それこそが指揮者の総合的な能力の必要性ということなのでしょう。
特に声楽に関する話題も豊富で、手垢の付きまくった第九の歌詞の解釈などを敢えてやるあたり、並々ならぬ自信を感じました。しかし、確かに私もこれまでこんな感じで第九の歌詞について考えたことはなかったので、思わず目から鱗です。

私が著者の語ることに全面的に賛意を感じるのは、指揮者は曖昧なスローガンなどではなく、具体的で明快な指示をするべきだと、ひたすら主張している点です。
なぜならアマチュア合唱団では、多くの場合、技術の細かい注意を嫌い、曖昧で精神的な目標を語るようなことが多く、指揮者も団員もそういうものだと思っている節があるからです。しかし、そのような練習でなかなか実際に演奏が良くなると感じることがありません。仮にすごい緊迫感ある音楽が表現出来たとしても、そこには音符が要求する世界とは別の世界観が漂っていることも多いのです。

第一章がいきなり「危機管理」というのがリアルですね。プロであっても事故はつきもの。その事故にどう対処するかで指揮者の力量が試されるというわけです。
著者とバーンスタイン、ブーレーズとのエピソードなどを交え、彼らのプロフェッショナルな態度が生き生きと伝わってきます。それから、指揮者としてのマーラーやヴァーグナーの逸話など・・・特にこの著者は作曲家でもある指揮者、に並々ならぬ愛着を感じているようです。
確かに、自らが楽譜を書く立場であるなら、同じく楽譜を書く人の気持ちはよく分かるハズ。そういう視点で見るなら、本来指揮者とは良い作曲家であるべきだとも思われます。

中盤、古楽の古典調律の解説のくだり。本来ややこしいハモりの話を数字まで持ち出して説明したのはやややり過ぎな感じ。また理解力のない純正律主義者を増やしてしまわないか心配です。目指すべきは純正律ではなく、純正な和音なわけで・・・

とにかく、面白いエピソードに溢れた本。アマチュア指揮者はもちろん、一般の音楽愛好家にお勧めの一冊です。