2011年7月30日土曜日

合唱団の並び その4

最後に、パート内の並びについて考えてみます。
パート内の並びとは、個人個人を並べるときに、どういう要素を重視すべきかということです。

実を言うと、私自身あまりこの点についてはこだわってきませんでした。
私が関わった団では、特に誰かが指示したりせず、各自が好きな場所になんとなく立って、なんとなく並びを決めていたりします。
しかし、少人数合唱団ならそれでも良いのですが、50人近くなってくると、誰かがきちんと並びを考えないとワイワイやってるだけで練習時間も無駄になってしまいます。そういう意味では、必要悪的に誰かが考えなければいけない事態も当然あり得ます。
また、フェスティバル的な催しならば、知らない人同士で集まって歌うこともあるでしょうから、こういう場合も練習時間を効率よく使うために、スタッフが事前に並びをある程度決めておく必要はあるでしょう。

そんなとき、誰をどのように配置するか、というのは、何か法則があるようであんまり無いような気もします。
私が昔からしっくり来なかったのは、歌える人を真ん中や後方に位置させ、パート全体に聞こえさせようとする考え方。確かに発想自体は自然なのですが、その考えの中に、歌える人の声を聞かなければ歌えない人がいる、という前提があるようでそれが気に入らなかったのです。
本番前に、誰かの声を聞かないと歌えない人がいる、のであれば、それは歌えない人の怠慢か、指導する側の不備なのではないか、という気がします。
その一方、アンサンブルなのだから、他人の声を聞かなければいけないし、パートにある程度影響力のある人がアンサンブルの核としてパートの音をまとめる、という考え方はあると思います。
従って、歌える人を聞こえる位置にする、というのは、「歌えない人」を助けるためではなく、パートの音の緊密度を高めるためだと考えるならば、もう少し違う配置になるかもしれません。

これとは逆に、やや暴れ馬的な人をどこに配置するか、という議論も良く聞きます。
当然、こういう人は最後列とかに置かれやすいわけです。しかし、最後列だから聞かれにくい訳でもないし、より自由に暴れ馬になってもらっても困るわけで、これも上の議論同様、本来練習で問題無く歌えるようになってもらうことが一番正しい解決方法ではないかと思います。

あとはやはり美観の問題。
背の高い人と低い人をあまりバラバラにすると、凹凸が出来て美観的にはよろしくありません。ただ、いまどきあまりこういう点を重視するほど、美観を重視するシチュエーションは無いような気がします。そこまで美観を強調しようとすると、合唱団の中の「個人」の存在を否定するようなイメージを感じてしまい、逆にあまり気持ちの良いものではありません。

残念ながら、今回の議論に関しては、結論らしいものはありません。
せいぜい声楽家並みに歌える人を、パートの核として聞こえやすい位置に置く、というくらい。よくありがちな「歌えない人」「暴れ馬な人」に対して、並びで解決する、というのは私は違うと思います。
あとは、ディビジョンの状況とか、他パートの助っ人とか、ソロがある場合のソロの人の配置とか、所作のような演出がある場合とか、障害のある方の出入りの問題とか、そういう個別の事情はいくらでもあるでしょうから、そういったものをそれぞれで判断して頂くしかないでしょう。

特に30人以下くらいの団であれば、無理に誰かが統制をとるより、団内の雰囲気で何となく決めたとしても実際の演奏にそれほど影響を与えるとは思いません。今のところ、私はその手の団しか関わっていないので、しばらくはパート内配置にそれほど拘わりを持つことはないでしょう。

2011年7月27日水曜日

働かないアリに意義がある/長谷川英祐

やや刺激的なタイトルで、ずぼらな私を肯定してもらいたい、と思う多くの人がついつい手に取ってしまいそうな本。私もそんな思いを持ちつつ、この手の進化理論は好きなので読んでみました。
著者はハチやアリといった社会性昆虫の研究をしています。ご存じの通り、これらの昆虫は、子供を作る女王バチ、女王アリと、一生子供も作らず働くだけの働きバチ、働きアリで一つのコロニーが形成されます。
一見ワーカー役のアリは、一生懸命働いているように見えるのですが、そのうちの7割ほどは実はほとんど働いていないようなのです。
地面をせわしなく動いているアリしか見ていない我々は、ついつい働き者のアリという感覚を抱いてしまいますが、実は巣の中で多くの働きもしないワーカーが存在しています。

昆虫と言っても、各個体は一様ではなく、それぞれどのくらい忙しくなったら働くか、という閾値が個体によって違うようなのです。
だから働かないアリは、忙しくなると働き出します。忙しくなればなる程、働くアリは増えていくのです。一見多くの働かないアリを抱えることは非効率に見えますが、様々な環境変動や、非常事態に備え、そのような余剰の労働力を抱えていることが進化的に有利になっているようなのです。
また、さらに面白いことに、そのような働かないアリばかり集めて、一つの巣に住まわせると、不思議なことにそのうちの何匹は働くようになります。結局、自然の状態のアリの集団とほとんど同じ状態になってしまうのだそうです。
特に二つ目の話は示唆に富んでいて、人間の社会にも何か面白い類例を発見できそう。もともと、人間の環境と昆虫を比べて楽しむ、というのが本書のスタンスなんで、身につまされるところは多々あるのです。

しかし、3章以降、利他主義、利己主義や、個と群れの話になってくると、以前読んだ「利己的な遺伝子」の話題に非常に近くなります。初めて知る方には面白いかもしれませんが、私にはやや既視感が拭えませんでした。
特に全ての行動を、遺伝子が自らを残そうと思う意志、で説明するというスタンスは「利己的な遺伝子」そのもの。その割には、この超有名な本の話が出なかったのはちょっと意外。
ただ、集団に裏切り者はつきものである、ということについては、確かにもっと一般の人は知ってもいいと思う内容です。我々は、つい物事を倫理的に判断しがちですが、動物の世界では血も涙も無いだまし合いの生き方が当たり前なのです。そこまで達観して人を眺めてみると、また人間が好きになれるかも。

面白い例を挙げたり、ときに笑いを誘うような文章を挟みながら、軽妙なタッチで厳しい動物の進化の世界を垣間見せてくれます。また、このジャンルもまだまだ調べることがたくさんあることも良く理解出来ました。
理想状況としての適者生存はあるにしても、世の中は例外だらけなわけで、それぞれの生物ごとにそれ相応の理由を持って進化してきたことは、私たち一人一人の生き方にも何か通じるところがあるような気もしてきました。

2011年7月24日日曜日

合唱団の並び その3

今回は、団全体の並びの形について考えてみます。
以下のような4つのタイプを挙げてみました。
Narabi3

まずは最も一般的な横一直線型。あるいは、単純な長方形型。
美観的にオーソドックスですし、音響的にも安定しているので、ごくごく普通に使われる並び。
この場合、各団員は通常前を向いて歌いますから、両端に行くほど、また前列に行くほど、指揮者の見える角度がきつくなります。
指揮者が団に対してある程度離れていると良いのですが、少人数だと近距離の場合も多く、場所によって指揮者がかなり見えにくいという問題があります。

指揮者が見えにくい、という状況を極力避けたのが、扇形。
特に少人数アンサンブルには多いですし、指揮者がいない場合などは、アイコンタクトを取るため、物理的にこうせざるを得ないことも多いでしょう。
教会のような十分に響くような場所においては、歌い手が真正面を向かなくてもそこそこ聞こえる場合があります。こういった場所で少人数で歌う場合、扇形に配置するのがベストな選択と思われます。
また、見た目のイメージとして、合唱団全体の一体感のようなものを感じさせます。お互いがお互いをみながらアンサンブルしている雰囲気を醸し出すことが可能です。
しかし、これは諸刃の刃で、ある程度団員が多くなると、歌い手が指揮者ばかりを見ていてお客様不在な音楽という印象を与えることもあります。ある程度、大きめな合唱団では扇形を多少緩くするなど、工夫の予知はあるかもしれません。

歌い手が前を見ながら、かつ指揮者が見えにくいという欠点を補うのが台形型。
一番指揮者が見えにくい、両端の前列をカットし、歌い手の指揮者が見える角度をある範囲内に収めることが可能です。
うまくシンメトリに配置すれば美観的にも悪くありません。いずれにしてもそれほど大きくない合唱団で用いることになります。混声の場合は、合唱団の並び その1でも書いた「前後型」と相性が良いです。
ただし、後段両端の歌い手は合唱団全体の重心から遠い位置になり、やや歌いにくくなるでしょう。そういう意味ではある程度の実力のある団で無いと難しいかもしれません。
扇形に比べるとアットホームなアンサンブル感よりも、端正でフォーマルな印象を与えるかもしれません。

最後は、一人一人が舞台全体に散らばる拡散型。
これはもはや演出の一つと考えていいかもしれません。少なくとも、普通の合唱曲を敢えてこのような形で歌う必要は無いでしょう。楽譜がこのような配置を指示しているか、オペラ的な背景のある音楽か、お客さんを巻き込んで楽しく歌いましょう的な状況を作るか、そのような状況が考えられます。
基本的には、団員同士の距離が遠くなって、モニタリングがしづらくなり、指揮者も見えにくくなるので歌う側の負担は大きくなります。
もっとも、演出としての効果は大きいので、演奏会の中で最後の1曲のときとか、派手で面白い曲を敢えてこの並びにしてお客さんを楽しませようとか、そういうアイデアには使えると思います。

詳細に見れば、もっといろいろな並びがありそうですが、大まかに言えば結局、美観、会場の響き、歌いやすさ、音楽の印象などによって、決まるものと思われます。こういった工夫は演奏者(指揮者)の創造性が発揮される部分ですから、センスある選択をしたいものです。

2011年7月21日木曜日

CC合唱曲に「屈折率」追加

CC合唱曲と呼ぶようにしてから、初めての曲をアップ。

宮沢賢治の「屈折率」という詩を、混声四部の合唱曲にしてみました。
楽譜とMIDIはこちら

CC合唱曲のコンセプト通り、商用目的でなければ、自由に楽譜をコピーして歌ってもらって構いません。
音楽的には、div.が無く、少人数で歌えることを念頭に置いているので、少人数のアンサンブル練習などで取り上げてもらえると、良い練習になるのではないかと思います。

詩については、このページにとても良い解説が書いてありました。
詩だけ読むと、なかなかそこまで深く解釈することは難しく、宮沢賢治という詩人がそもそも心の奥底にある本心を直接的に表現することを良しとしないタイプの詩人に思えます。
この詩のタイトルを「屈折率」としているのも、言葉の連なりのままでは今ひとつ意味が分かりません。しかし、屈折率のおかげで、苦労しているこの道の行き先が明るく見えていただけだった、と解釈すると、若いながら宮沢賢治が人生をどのように考えていたかを伺い知ることができます。

まあ、そのように深く詩を鑑賞するかはともかく、この詩の持っている寂寥感のようなものを表現してみたつもりです。
まずは、一度上のページに行ってMIDIを聞いてみてください。音もシンプルで短い曲ですが、この曲を気に入ってもらえると大変嬉しいです。

※曲中の「アラツデイン」は次のランプという言葉から想像すると、「アラジン」のことかと思われます。そのようなことを念頭に置いて、歌う際の発音は考えてみて下さい。

2011年7月18日月曜日

合唱団の並び その2

パートの配置の続き。
Narabi2
ちょっと特殊な形を3つくらい考えてみました。

最初はサンドイッチ型。
イベントなどでオケ付き合唱曲の演奏企画を行い、合唱団員を公募すると、大量の女声が集まります。男声は何とか近場の合唱団からかき集めたりしますが、それでも全然女声に対して人数の比が悪い場合は良くあることです。
音量的には、男声は経験者をかき集め、女声は比較的経験の浅い人が多かったりで、それほどバランスは悪くないのですが、横並び型ではあまりに視覚的に不均等過ぎる場合があります。
特にオケ付きといった華やかな演奏会の場において、見栄えの悪さは余計気になるもの。
この並びは、まあほとんどの場合音響ではなく、そういった見栄えの悪さを解消するための並びと考えて良いでしょう。
また、ある程度の大人数合唱団になった場合(経験が少ない人も増えるので)、パート間のアンサンブルの乱れより、パートが揃わないことのほうが問題になります。そうした場合、なるべく各パートを正方形に近い形にした方が各人の距離が近くなり、パート内の乱れを防ぎやすくなるという効果もあると思います。

次は、両サイド高声型。
これは、たいていの場合、選曲に依存するパートの並びです。
二つの高声部が対比されたり、呼応するような音楽の場合、その音響効果を高めるためにこういった並びを取ります。オーケストラでも、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンを向かい合わせにする場合がありますが、そういうのと発想は同じだと思います。
特に二重合唱のような場合、第一合唱と第二合唱は高声を外側にして、左右対称に並ぶのが一般的です。二重合唱は当然のごとく、二つの合唱が呼応するように書かれており、音響も左右対称である必要があるからです。
音響に関しては、ココでも書きましたが、高音ほど直進性が高くパンニングの効果が高いのです。逆に低声は回り込みが多く定位間が低くなるため、むしろ真ん中に位置させるのは理にかなっています。

最後にバラバラ型。
練習時には、周りに頼らないで歌う訓練をするため、各パートバラバラにして練習することがあります。それにより、一人一人の自覚が高まり、合唱団全体の音圧が高まることが実感できます。
この並びは、その効果を期待することが出来ますが、その代償も相当大きいです。少なくとも、パートによる音響効果は皆無になります。
また、視覚的にはバラバラになりますから、もはやこれは見栄えを良くするとは別の価値観で考えねばなりません。
例えば、オペラで群衆が合唱するとき、群衆はSATBには分かれませんし、群衆の感じを出すために、敢えてバラバラに配置させるという手はあります。そういう意味では、この並びを選択するのは演出という行為に近いとも言えます。
パートの分離効果は全く無いので、音楽的にはホモフォニックな曲が良いでしょう。
例えば、祝祭的なイベントの場で、民謡を比較的簡単なアレンジで(民族衣装などを着て)、一人一人が語りかけるように歌うようなシチュエーションなどでは有効かもしれません。

パート並びについては、楽譜に具体的な指示がある場合もありますし、他にもいろいろなバリエーションがあると思います。とりあえず、私が思い付いた5つの形について論じてみました。

2011年7月16日土曜日

合唱団の並び その1

たまにはごく一般的な合唱の話題など。

合唱団の並び方については、いろいろな方法やそれにまつわる考え方がありますが、今回は、私自身が並びについて考えていることをまとめてみようと思います。あくまで私見ですので、ご意見あればコメントや掲示板などでお話しできると嬉しいです。

まず合唱団の並びの議論は、大きく三つに分けたいと思います。
1.パートの配置
2.全体の形
3.パート内の配置
です。

ということで、まずはパートの配置について。
パートの並びで重要な要素は、ざっくり言ってしまえば「見た目」と「音響」。
一応芸術活動ですから、人間が大量に並んだときの見栄えというのは、それなりの美観が必要だと思われます。特にパートの並びについては、混声の場合、男声と女声の差は圧倒的なので、この境目をどこに持っていくか、が美観上のポイントとなるでしょう。
音響については、演奏する曲に大きく依存しますが、特に時間ズレの効果(ポリフォニー、フーガと呼ばれるような)がある場合それを立体的に示してあげる必要があります。そのとき、並びがその音響に大きな影響を与えるはずです。

Narabi1

では、具体的な並びについて。
一般的には、混声の場合、上記の二つの並び方が多いように思います。
この中で、最もオーソドックであり、また音響効果が高いのは横並び型です。
特に各パートの場所が完全に分散されており、そのパンニングの効果はほぼ完璧に近いです。合唱曲は古くからポリフォニーの効果が多用されており、そのような立体音響をもっとも完璧な形で表現できます。また、女声、男声の対比なども効果的です。
ただし、問題なのは美観。多くの合唱団では、男声より女声の方が多いので、アルトとテナーの境目は右寄りになります。ある程度ならまあ許せますが、6:4を超えるくらいになると、ちょっと気になります。
視覚は演奏の印象にも大きく影響を与えます。男声が少なく見えると、それだけでバランスの悪い音楽に思えてしまうかもしれません。
また、ベースにとって女声、テナーにとってソプラノは隣り合っていません。女声も同様。こういった距離感がアンサンブルの乱れを起こす可能性もあり、特に少人数アカペラの場合、音楽の揺らぎの幅も大きくなるので、この距離感はときに致命的な破綻を引き起こすことがあります。
一般的には、男女比がそれほど激しくなく、人数が大きめの合唱団なら、ほとんど迷い無くこの並びでOKでしょう。

次に良く見るのが、前後型。
ほとんどの場合、男声が後ろ、女声が前という形を取ります。これはどのような男女比であっても、シンメトリ的には完璧で美観上のポイントは高いです。
また、各パートの距離が横並び型に比べると近くなるので、ポリフォニックな複雑な音楽などでアンサンブルの乱れを抑える効果が出てくると思います。
その代わりに犠牲になるのが音響的効果です。
各パートのポリフォニーの場合、やや音の来る範囲が広くなるので、パンニングの効果は薄くなります。ただし、残響の多いホールや、奥行きのあるホールではもともと聴衆が音響の立体性を感じづらい場合もあるので、敢えて左右のパンニングにそれほど拘らなければ、この並びはそれなりに魅力的です。
ただし、各パートが横に長くなるので、一人一人が自信を持って歌えるような実力が多少必要です。
そのようなことを考えると、30人以下くらいで男声が少なく、かつ比較的ポリフォニックな(やや複雑な)曲を、きっちりとアンサンブルを揃えながら演奏したい、という場合に効果的な並びだと思います。

2011年7月13日水曜日

知らせたいことより知りたいことを伝える

「可視化の行く末」で、何もかも公開したらどうだというラジカルな意見を言ってみました。
まあ、そこまで行かないにしても、何をパブリックにしていくか、ということが今後の企業や、集団のあり方を変えていくことでしょう。

例えば、会社の公式な発表は広報を通じて行われます。
新しい商品やサービスも広報が発表します。そこには事実だけが単刀直入に書かれ、背景などもごく一般的なことしか書いてありません。その内容は、企業側がお客さんに知らせたいと思っていることなのですが、多くの人がそんな広報による商品発表を楽しみにして、その文章を一言一言食い入るように読むでしょうか。
実際には、新商品はコマーシャルなどで、面白おかしく宣伝されたり、芸能人がテレビで勧めていたり、有名ブロガーがネットで記事を書いていたり、そういうことによって商品の良さが伝わっていくものです。
しかし、何より一般の人が知りたいのは、その商品やサービスを開発した、生の開発者の声じゃないかなと思うのです。
その商品を企画する時にどんな議論があり、何を重要視したか。そのために何を犠牲にしたか。誰がどんな思いを持って開発したのか・・・そういう裏話的なことこそ、知りたいと思う気持ちはあると思います。

考えるに、情報は一次ソースこそ、最も言葉の威力が強くなるものです。
あるアーティストが最新作を発表したとき、その作品に興味がある人は、その人自身が語った言葉を聞いてみたい。その人が語ったことを、別の人が聞いて書いた記事は、そこで一段勢いを失いますし、伝える人が義務的であればあるほど、内容はどんどんつまらなくなることでしょう。
あるいは、芸能ゴシップみたいに伝えることで商売している人たちは、あることないこと書き立て、かえって本質を伝えることが難しくなってしまうかもしれません。

そう考えると当事者が発信する情報は、企業にとっても、ある意味、最も効果的な宣伝になるかもしれないのです。
もちろん、誰もが外に向かって、きっちりとした言葉で、内容のある発言が出来るわけでは無いでしょう。それでも、ものごとの中心にいた人物の言葉は多少稚拙であったとしても、十分傾聴に値すると思います。
人々が知りたいことを企業側が伝えようとするなら、広報のような組織よりは、組織内の個人が直接発信する方がよほど効果的なのではないでしょうか。

そもそも今まで広報が一括して組織のスポークスマンになっていたのは、むしろ効率を考えてのこと。
インターネットが広まった今となっては、もっと効率の良い広報の仕方があるような気がします。
組織内の個人が直接発信するようになれば、発信する個人の発信力が問われるようになります。こういった事態は組織に全く新しい価値観を要求することになるでしょう。
社内政治に長けた人物より、広く世の中に影響を与えることが出来る人のほうが、端的に会社に貢献することが出来るようになるわけですから。
ソーシャルメディアにより、世の中がどんどん変わっていくことが本当に楽しみなのです。

2011年7月10日日曜日

大発見/東京事変

東京事変のニューアルバム。今、J-POPで唯一追いかけてるのは椎名林檎のみになってしまいました。
確かにサウンドや、アレンジなどの点において非常に凝っているのだとは思うけれど、正直なところ昔と比べるとエッジが立っている感じはあまりしません。引っ掛かりが少ないという感じ。
椎名林檎自体が、林檎色を東京事変で薄めようとしていて、バンドとしての全体の音楽を作ろうとしているのだけど、私としてはアーティストとしての椎名林檎の世界を聞きたいのであって、そこに本質的な意図の違いがあるのだろうと思われます。
特に亀田氏の曲は椎名林檎が扱うには、あまりにJ-POPワールドに染まっており、氏の重要な立ち位置は理解するにしても、事変では曲を書かない方がいいかなあなどと思ったりしました。

とはいえ、いくつか佳曲もありました。
「電気のない都市」は時期的にタイムリーな曲。ピアノベースのバラード風の曲で、アーティストが今という時代を切り取る、重要な仕事をした作品だと感じました。
あとは、「空が鳴っている」の疾走感が気持ちいい。それから、「ドーパミント!」と「女の子は誰でも」のジャズ的な雰囲気は気に入りました。シングルで先行で出された「天国へようこそ」のややホラー的な雰囲気は初期の椎名林檎を感じさせ、これぞ林檎という感じで大好きです。

やや、アーティストとして安定しかかっている林檎ワールドですが、またまた何か大きなことをやらかして欲しいものです。

2011年7月7日木曜日

可視化の行く末

以前、こんな記事を書きました。
ネット時代になって、隠すべきものを隠しきることが難しくなり、逆に公開してしまったからこそ、人々の注目を浴びるようになった、という話。

Twitterや、Facebookにより個人が進んで個人情報をさらけ出す時代です。
人々は、毎日のたわいもないことをせっせとネットに書き込みます。
毎日会う人には話せないようなことも、PC相手には何となく書けてしまう。しかし、その向こうに自分を知る多くの人がいることは、理屈で分かっていても感情ではあまりリアリティがありません。

そうやって、毎日いろいろな言葉を垂れ流しているうちに、知らず知らずに多くのことを自分は伝えています。
もちろんそれを受け取る人も情報を取捨選択していますから、面白くないことは流されてしまうかもしれないけれど、そういう情報を商売に使おうと思っている人から見れば、これほどおいしいことはありません。
今でも、Twitterで何か特殊な名詞を書くと、それに関わる人や団体からフォローが付くのは、ほんとうに驚きです。人海戦術で毎日検索をやっているなら、その努力には頭が下がります。まあ、その努力に見合うだけのリターンはないでしょうが・・・

そのようなことをいろいろ考えたとき、私たちの多くの活動は仕事に費やされているわけだから、必然的に仕事のことを書くことも多くなるだろうと予想されるわけです。
そうなると、業務上知り得る秘密情報なども場合によっては漏れることもあるでしょう。大きな事件にはならないにしても、誰がどこに出張したとか、今日は仕事でひどい目に遭ったとか、いう内容は、業務上それなりに危うい情報とも言えます。
そういうことを心配して、会社内で秘密を漏らさないように社内教育をするということもあるでしょう。まさか、社員のTwitter/Facebook禁止、などという会社は無いとは思いますが、会社側からは、ある程度仕事のことを書くなというプレッシャーをかけてくるものです。

しかし、そんなことは生理に反している気がします。
みんな何かを書きたくてしょうがない。そういうマグマは止めようが無いと思うのです。
それならいっそのこと、会社内でそういうソーシャルな仕組みを徹底的に使ってしまったらどうか、という考えも成り立たないでしょうか。

今は、企業はそういったツールを宣伝として使っている程度ですが、そんな甘っちょろい使用方法でなく、もう社内の人が顔出し、名前出しで、どんどん仕事の話を書いちゃうわけです。
会議なんか全てカメラを付けて、生放送しちゃいます。絶対居眠りはいなくなります。

これは、意外と面白いかもと思ったりします。
新企画もダダ漏れ。場合によっては、社外の人も議論に参加できる。誰がどのくらい仕事をしているかも、恐らく非常に分かりやすくなるでしょう。
何より、生のライブな企業活動を見たいという野次馬がたくさん現れ、それが逆に企業の宣伝効果に繋がるかもしれません。そうやって宣伝されることが企業にプラスになるのなら、社外秘で仕事を進めるより、よほどビジネス的に成功しそうな気もします。

企業でなくても、学校の職員会議とか、市役所、県庁の仕事ぶりとか、さすがに警察はまずいかもしれませんが、公務員なんかも全て仕事内容が公開されたら、ものすごいことになりそう。

でも、着実にそんな社会に向かって我々は歩んでいるような気もするわけです。

2011年7月4日月曜日

ホームページの場所を変えてみる

私が自分のホームページを開設したのが1995年。もう16年前。
日本でインターネットとか言われ始めた頃ですから、世の中的にも相当早いタイミングだったと思っています。

それ以来、ずーっとASAHIネットを使ってきたわけですが、もはやプロバイダはどこどこだから安心とか、もうそんなことを云々するレベルではなくなってきたように感じます。使用料も、今やネットの世界で無料はすっかり当たり前になってしまいました。
なので、安心だからお金払ってでも・・・というのは、もはやネットでは意味の無いような行為。自分にとって実利的かどうか、非常にドライに割り切るべきだとようやく踏ん切りが付いてきました。

というわけで、ホームページの場所をASAHIネットから新しい場所(FC2)に移していこうと思います。
行き先には特に何の思い入れも無く、ドライに割り切ろうと思って、安くてサイズが多くてある程度規模が大きめな感じのところにしてみました。良いかどうかは私も分かりません。

ということで、新しいホームページは
◆メインページ◆
http://jca03205.web.fc2.com/


◆オリジナル作品の紹介◆
http://jca03205.web.fc2.com/work/mywork.htm#myworknotice


それから今さらながら
◆掲示板◆
http://jca03205.bbs.fc2.com/

も作ってみました。(無料で簡単に作れる機能があったので・・・)
こちらは、メールほどおかたく無い形で、オープンに私への問い合わせを受け付ける場所になったらいいなと思っています。

もし、ブックマークしている方がいるようでしたら、ブラウザなどの変更をお願いします。
恐らく、ASAHIネットのほうは、放置状態になっていくか、こちらに誘導するようにしていきます。まあ今はブログに直接来る方が多いので、実際にはほとんど問題無いような気がしています。
またこれに伴い、メインページのカウンターも取ってしまいました。こういったことももはや古い慣習のような気がしてきました。

今後は、オリジナル作品のページなどに、もう少し豊富に資料や、音源、楽譜、場合によってはインタラクティブなネットならではの試み(例えばJavascriptとか使って)を追加してみたいです。

では、今後ともよろしくお願いします。

2011年7月1日金曜日

自転車置場の議論

パーキンソンの凡俗法則というのがあるそうです。
これは、どうでもいいような些細な議論になぜか時間を費やしてしまう傾向を表した言葉。

この中で出てくる例として、原子炉の建設については、非常に規模が大きく複雑で理解が難しいため、一般の人は専門家がきちんと進めているだろうと思い、あまり意義を唱えず、着々と建設計画が進んでしまう。しかし、その一方自転車置場の屋根の素材をどうするか、アルミにするかトタンにするか、など誰でも分かりやすい議論になると途端に議論が白熱し、いくらでも時間を費やしてしまいます。

この話が再び話題になったのは、FreeBSDの開発用メーリングリスト内での議論のこと。
ソフトウェア開発においても、非常に専門的で難しい内容がある反面、誰でも分かりやすい議論というのがあります。
一つ例に挙げられるのが、コーディングスタイルの話。
一つのプロジェクト内では、コーディングスタイルを統一したほうが、成果物の内容は統一されるし、その結果生産性も上がるはずなのですが、プログラマ各自がこれまでやってきた仕事などのバックボーンがあり、実際にスタイルを統一するのは難しいものです。
ここでいうスタイルとは、プログラムを書くときにどこにスペースを入れるか、括弧は前に書くか後ろに書くか、どのタイミングで改行するか、関数や変数の名前の付け方はどうするか、とかそういったプログラムの見た目の書き方のこと。
もちろん、改行があろうと無かろうと中身が同じであればプログラムは同じように動きますが、同じプロジェクト内であれば、見た目も統一しておきたいものです。
ところが、その内容を統一しようと検討を始めると、その議論は全く収拾が付かなくなることが多い。そういう現象は多くのプログラマが経験していることです。

翻って社会一般で考えてみても、同じようなことは起こりえます。
例えば、マンションの一年に一回の管理組合の総会など。修繕計画のような大規模で、専門的な話は詳細を話されてもなかなか理解しづらいので、しょうがなく承認してしまう。
ところが、マンション内のマナーの問題とか、花の水やりの経費とか、対象が分かりやすくなった途端に口を挟む人が増え出してしまう、といったような。

こういったときの心理状態は、難しい内容の議論では貢献できなかったと思う参加者が、自分の分かる範囲の議論で少しでも貢献したいと思う、どちらかというと責任感のようなものに根ざしている事が多く、それだけになかなか制御が難しいわけです。

世の中にはたくさんの議論すべき難しい問題があるにも関わらず、ほとんどの人はその本質的な意味を理解できず、内々で勝手に進んでしまうような危険な計画もたくさん思い当たります。
しかし、そうなり易い一つの理由として、こういった「自転車置場の議論」に時間を取られすぎている実態というのも各自が認識すべきなのです。
私たちは、難しくても将来の自分たちの社会がどうあるべきか、という議論に正面から取り組む必要があり、そのためにはどうしても各自のリテラシーの向上が不可欠です。

何か、つまらないことで議論が白熱したとき、これは「自転車置き場の議論」だ、と認識し、少しでもそういう議論を収束させていくような行動もまた必要なのでないかと感じました。