2011年8月30日火曜日

私的コンクール観

今私が唯一演奏活動している団体であるヴォア・ヴェールが、2002年の創団以来初めて合唱コンクールに参加しました。昨日の静岡県大会で、嬉しいことに県代表となりましたので、10/2の関東大会に出場することになりました。関東の皆さま、以後お見知りおきを。

私自身はヴォア・ヴェールの前身の合唱団や某職場合唱団で何度かコンクールに出たり、県大会で臨時の指揮者をやったりと、コンクールには結構関わっています。その中で、コンクールというものについてどう考えるか、自分なりにいろいろ思うところはあるのです。
そんな私のコンクール観について2,3挙げてみようと思います。

一つは、コンクールの結果について。
多くの人が発表後いろいろと結果を論評したりするわけですが、後で結果に対して不満を言う人は結構います。しかし、私は審査結果に腹を立てるのは愚かしいことだと考えます。
そもそもコンクールに公平性などを求めてはいけません。というか、音楽に公平な序列を付けることは不可能です。そういう不可能性を前提として結果を受け容れることが、私の考え方。
エキセントリックな審査をした審査員について、その人の傾向を分析することは構いませんが、批判しても意味はありません。それはその人の主観による判断でしかないからです。
審査員は権威などではなく、やや能力は高いけれど、単なる我々と同じ音楽仲間の一人です。そう思えば、何となくいろいろなことに大らかな気持ちになってくるじゃないですか。

次に、コンクールは近隣の団体との名刺交換のようなものだ、と思います。
直接会って挨拶することもあるでしょうし、そうでなくてもプログラムを見て、どこどこの団は今年何人でどんな曲を歌っているか、を見るだけでも相手の様子は伝わります。順番によっては客席で聴くことも可能ですから、そうやっていろいろな合唱団の印象を記憶していくわけです。
県内や支部の他の合唱団が、どのような人員で、どのような指導者で、どのような選曲をどのように演奏しているか、そういうことを知り合うことが、またコンクールの楽しみの一つでもあります。
そこから、学ぶべきことは学び、反面教師なところがあれば密かに心に刻み、自分自身の合唱経験に生かしていければそれは良いことに違いありません。

あともう一つ、これは私の特殊事情ですけれど・・・、コンクールは自作品を世に問う良い機会でもあります。
昔の合唱団でも3回ほど、そして今年のコンクールでも私のオリジナル作品を自由曲で演奏しています。歌わされる団員がどう思っているか、今ひとつ本心が見えませんが、いつも皆さんには私のわがままを聞いて頂き嬉しく思っています。
しかし、これは審査員にとっても嫌な団体だろうなと思います。
自分の作曲した曲を指揮してコンクールに出られたら、曲作りや様式の審査はほとんど無理。逆に審査員が作曲家の場合、曲に突っ込みたい気持ちもあるだろうなあ、なんて思ったりもします。実際には、これまでの経験でいうと、曲そのもの以前の発声とか発音とかの声楽的能力のみで評価されていたような気もします。
ただ、自分のオリジナル曲を多くの合唱好きの人に聞いて欲しい、と思う身にとっては、合唱コンクールは最適な場だと感じます。うまくやれば、それは私たちの団の大きな個性にも繋がるので、みんなが了承してくれる限りは、今後もオリジナル曲をコンクールで演奏していこうと考えています。

2011年8月25日木曜日

SNSが変える未来

SNSが世界を根本から変えるインパクトがあるのでは、とこの前書きました。
じゃあ、どんな風に変わるのか、と考えてみたくなるのが私なのです。

一頃、「mixi疲れ」なんていうことが言われた時期がありました。
たくさんの人と友達になって、メッセージをやり取りしているうちに、返事を書くことが義務みたいになってきて、あまりに大量の返事を書くのに疲れ果て、突然mixiを止めてしまう、といった現象です。
普段の生活では、何気なく会話を無視したり、適当にあしらったりすることがあっても、まあ何となく許される場合はあるものです。ところがネットになると、無視したことはあからさまだし、友達申請をして受理されなければ「どうしてだろう」と考えてしまいます。

それでも多くの友人の生活情報が入ってきたら、面白いものには声をかけたくなるし、逆に自分にコメントをもらえれば嬉しいものです。そういったポジティブな感情をベースにこういうサービスは設計されるものですが、人間ですから、いつだってポジティブにいられるわけじゃありません。
心の底では、アイツうるさいなぁ、目障りだなあ、と思っていても、そんなことを直接言うわけにもいかず、無理してレスを付けているうちに、どんどんストレスも溜まっていくでしょう。

いきなりマイナスのことばかり言ってしまいましたが、こういうことを総合していくと、ネットで生活をベースとしたコミュニケーションがそれほど盛んになるとは私には思えないのです。
現に、PCに向かってそのようなコミュニケーションをひたすら行うことを良いことだと思わない人も多いことでしょう。今さらそういう人をオタクだとは言わないでしょうが、人間関係なんてまずはリアルな交流があってなんぼのものです。

ネットはもっと、具体的な情報・知識を得たり、自分が得するものを探したりするようなドライな関係で利用するほうが圧倒的に効率的に思えます。ある意味ビジネスライクな関係です。
もちろん、これは金銭的な冷たい関係という意味ではありません。
どんなビジネスだって、お金よりまず先に、人が喜ぶモノやコトを提供したいという気持ちが先にあるわけで、そんな思いをかなえるツールとして、ネットやSNSは実に魅力的です。ビジネスを成功させようと思うと、ネットやSNSには小規模なビジネスが効率を上げられるようなリソースがたくさんあることに気付きます。

そのように考えると、ネットを上手く活用出来る人とは、ネットを利用して何らかの情報・知識・サービスを提供できる人、自分自身のアイデアや作品を提供できる人、といったタイプの人々です。
実際、世の中に知識・情報・作品を提供できる人々は、全体の2割くらい。残りの8割はそれを利用する人。そういうように世の中が変わっていくとすれば、所属する組織とは別次元で、人間の階層構造が出来るのではないかと思うのです。
もちろんその2割の人々は、将来的にはネット・SNSを利用して収入を得ることが出来る人々です。

芸能人、有名人となれば、その人の私生活の情報にも価値が出て来ますが、そうでなければ友人の私生活は周りの人しか興味の無いこと。私には、それがSNSの本質とはあまり思えないのです。
確かに、自分が見た面白いモノ、ちょっとした事件、嬉しかったこと、などを友人に伝えて、反応があれば嬉しいでしょうが、それはネットだけでなくリアルな生活とほどよく調和してなんぼのもの。

SNSの本質とは、他人に影響を与える2割の人々が形成され、その人たちが中心になって、マスコミに代わる新しいメディアになったり、芸術家の作品発表の場になったり、人々の教育の場になったり、ビジネスのためのツールになったりすることだと私は思うのです。

2011年8月21日日曜日

CC合唱曲に「政治家」追加

CC合唱曲シリーズに男声合唱曲「政治家」を追加しました。
楽譜のPDFファイルとMIDIファイルをココにアップしてあります。ヘンなタイトルの詩と思われるでしょうが、いちおう宮沢賢治の詩。
全文はこんな詩です。

政治家

あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
 羊歯(しだ)の葉と雲
    世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
そういうやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであろう


古今東西、政治家というものはあまり変わらないようで、特に昨今の政治の混迷ぶりには、まさにこんな詩と同じ思いを感じる人も多いことでしょう。
この詩では、もはやそういう政治家に諦めの感情を抱いており、こんなバカバカしいゴタゴタも何万年後、何億年後には単なる人間の石炭紀として無に帰すだろう、その程度のつまらないことさ、といった気持ちがひしひしと伝わってきます。

宮沢賢治は文学、音楽などを残した芸術家として知られますが、その活動から純粋理系精神を感じ取ることが出来ます。硬質で、宇宙的で、内面的なその指向が、政治家的な人間性とは全く接点を持ち得なかったことは想像に難くありません。
政治家と地質時代の石炭紀と言う言葉、もっとも相容れない二つの言葉を並置させ、その存在の卑しさをことさらに引き立てようとした賢治の気持ちは、今でも十分に通用すると思います。

そんな皮肉に富んだ詩を、男声合唱で今、歌ったら面白いなと考えたわけです。
なるべく、簡単に歌えるようにシンプルに書こうと思っていたのですが、出来上がってみたら結局私印満載のちょっとややこしい感じになってしまったかもしれません。後半の変拍子はやや難儀するかもしれませんが、言葉をしゃべるように、まるでラップのような感覚を自分なりに追求してこんな感じになってしまいました。
政治に一家言あるオヤジ世代の方々に取り上げてもらえると大変嬉しいですね。

民主党代表選も近づきつつある昨今、あまりの候補者の乱立で民主党の烏合の衆ぶりを露呈しているわけですが、そんな世相を笑い飛ばすつもりで、シャレで歌ってもらえると嬉しいです。
もちろん、ボーカロイド等で音源化してくれるのも大歓迎!

2011年8月18日木曜日

一万年の進化爆発

この本の基本的なスタンスは今でも人類の進化は爆発的に進んでいるということです。
進化というと、何万年も何十万年もかけてゆっくり種が変わっていく、というイメージがあります。人類が登場した20万年前から、それほど時間も経っていないので、確かに文化・技術は随分進んだけれども、基本的に人間としての能力や方向性は20万年前から何ら変わっていない、というのが一般的な知識人の思考でした。
特にジャレド・ダイヤモンド氏の名著「銃・病原菌・鉄」では、人種による能力の違いは無く、環境の違いで文化の伝搬が異なってしまったため、不幸な文明の出会いが生まれてしまった、と主張しました。また、病原菌の耐性でアメリカ、オセアニアの原住民が不利であったため、という原因にも触れています。その考えの大元はニューギニアで出会った人々が、他の国の人々と何ら変わりない知性を持っていたというところから始まっています。

しかし、この本では「銃・病原菌・鉄」を非常に意識していて、むしろ人間はここ1万年の間にその進化を加速させ、その進化の度合いの違いで社会が変わっていった、あるいは社会の変化が進化の方向性を変えたといった、というスタンスを取ります。
実例が豊富で、一つ一つ唸らされる話。しかし、その実例は進化と言うには小さな変化であり、結局進化というのはそういう小さな形質獲得の積み重ねによるものなんだなと言うことを改めて思い起こさせてくれます。
また、実例と共に著者の大胆な推論も多く、やや危うさを感じつつも、その内容が大変興味深かったのです。

第二章では、人類が数万年前から急に独創性を発揮し始めた理由として、ネアンデルタール人との混血のおかげではないかという推論をしています。数万年前のヨーロッパでは人間とネアンデルタール人が共存していたことが知られています。これまで、仮に生殖行為が可能だったとしても、ネアンデルタール人と人間で子供を作るなど無いだろう、と思われていました。
ところが、この著者はそういう生理的な反応とは別次元で、そういう変な人間がいてもおかしくない、と簡単に肯定。その混血児が、ネアンデルタール人の何らかの遺伝子を譲り受け、そこから人間は強力な創造性を得たのではないかと推論します。

第三章以降、一万年前から人類は農耕を始めたことにより、その進化のスピードを加速させている、と主張します。数十人単位で狩猟生活をしていると、新しい形質を獲得してもそれが人類全体に及ぶには時間がかかります。ところが農耕を始めることによって、人々が集積し、富の蓄積が可能になり、多くの発明者が生まれ、競争も生まれます。有利になったものは多くの子孫を残し、それが特定の遺伝子を増やす速度を速めることになる、というのです。
農耕生活になり、人々の栄養状況が良くなったと一般には思われますが、必ずしもそうでなかったと著者は言います。養える人が増えると、単純に子供を多く産み、人が集まっていることで多くの感染症が現れ、飢饉が起きるとたくさんの人が死にました。
狩猟採集から農耕で、人間の行動様式も変わり、体格も体質も変わりました。肌・髪・目の色が薄くなり、頭蓋骨も小さくなったのです。
社会も狩猟時代の平等な関係から、富の蓄積による支配者階級の出現、それが国家に繋がり、治安が良くなっていきます。農業以前は常に争いの連続で、それが人口抑制のメカニズムにもなっていたのですが、農業社会になり人口は爆発的に増えました。それにより、さらに社会は階層構造を持つようになってしまいました。

後半では、乳糖耐性という新しい形質を獲得した人々が、ヨーロッパ、中東で大きな影響力を持ったのではないかという著者の推論が展開されています。
歴史も生物学的な特質で説明可能だというわけです。特にインド・ヨーロッパ語族がなぜ世界でここまで広まったのか、という理由にこの乳糖耐性を利用しているのが面白い。
乳糖耐性を得た遊牧民族は牛乳を栄養分に出来るので、牛を飼うことによって生活していくことが可能になりました。すでに農耕を始めて定住している人々は、移動可能な遊牧民に簡単に支配されていくようになります。このように、一部の乳糖耐性を獲得した民族の言語が、世界の言語を席捲するほどの勢力になったのではないかと言うわけです。

最後の章では、アシュケナージ系ユダヤ人(ドイツ系ユダヤ人)がなぜ賢いのか、ということを遺伝子レベルで実証しようとしています。
ヨーロッパのユダヤ人は迫害されていたがため、同族同士で結婚し長い間、遺伝的な純血を保つことになりました。また、彼らは農業ではなく人々が忌み嫌った金融業を中心に仕事をしたのですが、そこではより数理能力の高い人材が必要でした。そんな折、何らかの突然変異である形質を獲得したことが、ユダヤ人の能力を高めることに繋がったというのです。
しかし、その形質は深刻な遺伝病をもたらします。一つ持てば非常に賢くなれるのに、両親から二つとももらうと数年しか生きられないような遺伝病を発症します。その特定の遺伝病は、アシュケナージ系ユダヤ人でずば抜けて多いのだそうです。
ここ数世紀での学者・文化人におけるユダヤ人の多さは、誰しもが気付くところ。
やや優生学に繋がる危険な推論ではあるけれど、特定の遺伝子が人間の能力に影響を与えている、ということは誰もがうすうす感じているわけで、それを正々堂々と主張する著者の姿勢は大変頼もしく感じました。

いろいろな話題が書いてあり、大変興味深く読めたのですが、もう少し図表などがあったり、説明がコンパクトになっていると嬉しかったと思います。
恐らく、今後も分子生物学からはたくさんの知見が現れ、それが単に生物としての学問に留まらず、社会・歴史・心理・医療といろいろな分野に大きく影響を与えるものと思います。そのためには、我々人間はもっと賢くなければならないと感じたのでした。

2011年8月16日火曜日

SNSとの付き合い方

中東の民主化にFacebookが大きく影響したと言われています。
そして、イギリスでもTwitterなどで暴動が拡散したとか。しかし、相手が独裁者なら革命として賞賛されるSNSの威力も、イギリスのような民主国家では単なる暴動のきっかけにされてしまいます。それを見て参加しようと思った人の感覚は同じようなものなのかもしれないのに。
しかも、イギリスでは政府がTwitterやFacebookを遮断するかも、なんて話まで出てます。中東や中国ならともかく、ITの恩恵を受けていたヨーロッパでそんな話が出るなんて、ちょっと信じられません。

さらに最近のニュースでは、とある学校では先生と生徒はFacebookで友達になってはいけない、というルールを決めたといった報道もあります。
確かに、いくら仲良しであったとしても、先生の情報が生徒に筒抜けではまずいのかもしれません。しかし、そういう利害関係で結ばれている人たちは世の中にたくさんいると思います。医者と患者とか、検事と弁護士とか、警察とヤクザとか、ライバル企業同士とか・・・。

いくら個人が自分の責任で誰と友達になるか考えるべき、といっても、世の中の全ての人が正しい判断を出来るわけでもないし、そもそも何をもって正しい判断か、ということ自体曖昧な気もします。
結局、TwitterやFacebookといったSNSを使う以上、どこまでも情報は大っぴらになっていくし、本来隠すべき情報さえ表に出やすくなるという現象は避けられないように思うのです。

私の場合、これらのSNSでとりあえず会社の仕事の話題を直接出さなければ、それほど問題になるような事態を引き起こすことはありません。しかし、仕事の話題で無くてもあまり言うべきでないことを言って、微妙な感じになってしまうことは無いこともないのです。
もし、Facebook的なSNSで、会社の人とやり取りしていてクローズドだからと仕事に関係する話題など出れば、問題になることは今後もっと出てくると思います。実際、他の人の書き込みなどを見ていると、そういう不安は、いずれの日か現実になるような危険を感じます。

逆にそういった事態を恐れると、本来Twitterでもプライベートっぽいつぶやきだから面白いのに、自分の利害関係者が増えてくるに従い公共性を纏いだし、淡泊な事実を告げるだけのものになっていきがちです。そして生の声で無くなるほど人々の興味は失せていくでしょう。
今はフリーな立場の有名人が他人との軋轢込みでSNSをうまく使いこなしている感じですが、それを見た私のような一般の人が同じようなことをし始めると、いろいろな問題が生じます。そして日本の場合、そういう問題への対処として簡単に会社での使用禁止とか、そういうバカな方向に向かうような気がするのです。

もちろん、使用禁止などと言うのは一過性の話。
もう少し長い目で見たとき、SNSはただの流行りなんかではなく、世界を根本から変えるくらいのインパクトが実はあるような気がしています。どんなふうに変わるかは未だに読めないのですけど・・・

2011年8月11日木曜日

音楽で飯は食えるか? まつきあゆむの場合

まつきあゆむというアーティストをご存じでしょうか。
たまたま某講演で本人の話を聞く機会があり、すっかり影響された私は彼の新しいアルバム「あなたの人生の物語」を購入しました。29曲入り2000円です。

このアルバムはどのように購入するかというと、まつきあゆむ本人のサイトに行き、必要な説明を読んだ上で、直接本人にメールを送るのです。そうすると決済用のPayPalのURLが送られてきて、送金処理をするとアルバムがデータで送られてきます。中身はmp3や各種リーフレットとしてのjpegファイルです。
いずれも、個人で出来る範囲の方法であり、このシステムを構築するのに大きな負担も必要ありません。つまりやる気があれば誰でも構築できる程度のものです。
まつきあゆむの場合、こういったスタイルで音楽を売ること自体が話題になったこともあり、現在この方法だけで生活が成り立っているとのこと。レコード会社からマージンを取られることも無いので、アルバムの値段2000円はまるまる彼の懐に入ります。単純に計算すると、500人購入で100万円の収入です。

では、具体的にまつきあゆむはどのようにしてこの音楽を作っているのでしょう。
これらの音楽製作は基本的に全て宅録です。本人がコンピュータ一つで音楽を作っているのです。もちろん、作詞作曲は本人。DAWという音楽製作ソフトの上で、自ら楽器を弾き、歌を歌い、ドラムや効果音などをプログラミングし、さらにエフェクトをかけ、ミックスダウンしてマスターを作ります。これらはいずれもそれなりにプロフェッショナルな作業ではあるのですが、情報を収集さえすれば、個人でも不可能ではありません。
事実、世の中にはたくさんの音楽製作マニアがいて、例えばボーカロイド界隈でもプロ並みの楽曲を作っているアマチュアアーティストがたくさんいるのはご存じの通り。

以上のことは、単に事実を述べているに過ぎません。
そして、誰でもこんなことが簡単に出来るわけではありません。
それは具体的に彼のサイトに行って、その中身を見たり、実際に彼の作った音楽を聴けば分かることです。彼の音楽家としての才能、アーティストとしてのスタンスや、曲の魅力、サイト全体やTwitterからの発信などから透けて見える個性や人間的な魅力、そういったものがあるからこそこういう事例が成り立っているのです。
また、誰かがブレークしたとき、その理由は必ずしも本人の才能や魅力だけでは無い側面もあります。有名な人に取り上げられたとか、有力なチャンネルで紹介されたとか、そういうきっかけもとても重要です。

しかし、このような事例は、レコード会社主導の売れなくなれば捨てられるアーティスト生産システムとは、明らかに方向性が違います。
才能のあるアーティストが地道に自分の作品を発表し続け、それを誰かが認めてくれ、Twitterなどで簡単に拡散され、ある日いきなり音楽で飯が食える、という状況が実現する可能性があるのです。
そのために必要なのは、アーティストの不断の努力です。歌が上手いだけでなく、楽器が上手いだけでなく、場合によっては事務作業も厭わず、ある程度のITリテラシーを持ちつつ、なおかつ個人が魅力的で、常に情報発信を心がける、そういうことをずっとやり続けられる人間でなければなりません。

私自身も昔からJ-POPまがいのオリジナル曲を作っていた時期もあるので、まつきあゆむのような事例は大変興味を持ちました。
じゃあ、彼の作った音楽はどうだったかって? もちろん、素晴らしかったです。一見歌はヘタウマっぽく聞こえるけど、ああいった語りかけとボーカルエフェクトの組み合わせの妙が独特のメランコリーを生んでいるように感じました。詩もいいですね。今どきのIT用語をうまく詩情に乗せていて、熱く未来を語るインテリ好青年という感じ。もし興味があったら聴いてみて下さい。

2011年8月7日日曜日

聞こえる音と出す音の関係

しばらく合唱団の並びの話を書きました。
特に少人数の団体の場合、並びによって随分音楽が変わってしまうことはあります。
その理由は、単純に並びを変えたことによる音響の違いだけではありません。団員各人の耳に聞こえる音が変わるために、各人がそれに合わせて無意識のうちに自分の音量を変化させているからです。

人は聞こえる音によって、自分の出す音を無意識に変えます。これは、日常生活でも良く経験すること。
例えば、うるさい人混みの中で携帯電話を使って通話したとき、あなたの声は自然と大きくなっています。電話で話している相手は、なんでそんな大きな声で話しているんだろう、と逆に変に思うことでしょう。
なぜ、そうなるかというと、うるさい環境では電話の相手の声が聞こえづらくなります。そうすると、無意識のうちに話す人は、こちらも大きな声で話さないと向こうが聞こえづらいだろうと判断するからです。
飲み屋でワイワイ話すとき、人々の声は大きくなりがちです。それは周りがうるさいから、それに負けないように自分の声を大きくする必要があるからです。それと同じことを、無意味だと気付かずに携帯電話でもついついやってしまうわけです。

音楽でも同じ現象は起きます。
大合唱とかオケ付きのほうが一人一人は大きな声を出します。本当は、少人数のときこそ音量を出して欲しいのに、自分の耳に入る音量が小さいと、人はそれに応じて自分の出す音量を小さくしまいがち。
少人数で歌ってばかりの人がたまに大合唱団で歌うと、無意識に大きな声で歌ってしまい、後ですごく疲れたとか言うのは良くあること。
ただ、これは慣れの問題でもあるので、いつも大人数なら、いつも少人数なら、それに合わせてだんだん適正な音量になっていきます。
ですから、並びが変わったり、歌う場所が変わったりしたときの直後というのは、音量バランスが大きく崩れる可能性があります。

このことを各人や指揮者が知っているのと知らないとでは、心持ちや指示の仕方も変わってくるでしょう。
本番の舞台では、たいていの場合、いつもより聞こえる音が小さくなります。それは練習場では逃げ場の無い音を思う存分聞いていたのに、舞台では自分たちの出した音がホール全体に拡がり、自分の耳に届く量が減るからです。
また並びを変えたときも同様に、自分の耳に聞こえる音量が小さくなると、やはり小さい音量を出すでしょう。お互いが向かい合って歌っていたあとに、同じ方向に向かって歌うように変えただけで、聞こえる音量は随分減ってしまいます。そうすると、全体の音量も急に減ります。

そう考えてみると、なるべく本番と同じように歌う練習をするためには、本番と同じ並びで、かつやや響きの少ない場所、あるいは広い場所の片隅で(これはちょっと難しいかも)、練習をするということになります。
ただし団員が多い場合、少人数よりも音響の変化が少ないので、あまり大げさに考える必要はないと思います。特に少人数(30人以下)の場合、こういったことを注意する必要があるでしょう。

8/9追記
上記の話はあくまで一般論ですし、場合によってはここで言及していない条件に依存する場合もあります。
例えば、本番が良く響く場所で、自分たちの演奏が良く聞こえるのなら、練習も響きが多いところでやったほうが良いかもしれません。

あと響かないところで練習して、指揮者が本番での音響をうまく想像できないと、ひたすら音量を出せ、という指示をしてしまう可能性があります。この場合は、響かないところで物足りなく感じ、音量を出せと指示する指導者の感覚に問題があるかもしれません。

そういう意味では、響く場所や、響かない場所、いろいろなところで練習して、指揮者や個人の応用力を高めていく、というのは大切なことだと思います。

2011年8月5日金曜日

アーティスト症候群/大野左紀子

今どき何でもアーティストと呼ばれる時代。20年くらい前は、J-POP系の人たちをアーティストなんて読んでなかったはずですが、今ではそう呼んでもすっかり違和感が無くなっています。
理容師がヘア・アーティストだったり、メイクさんがメイクアップ・アーティストだったり、多くの職種の名前にアーティストが付くようになった現在の時代感を、この本ではバッサバッサと痛快に斬ってくれます。

特に芸能人アーティストの章は、ここまで言っていいのってくらい辛辣。
やり玉に挙がっているのは、ジュディ・オング、八代亜紀、工藤静香、片岡鶴太郎、ジミー大西、藤井フミヤ、石井竜也の7人。ジミー大西には比較的好意も感じたけれど、工藤静香、片岡鶴太郎、藤井フミヤ、石井竜也あたりのけなし方は半端無いです。
まあ、そういう話を面白おかしく書いて話題になろうという気持ちもあるのかもしれないけれど、美術にずっと携わってきた人が、こういう芸能人アーティストの実際のレベルをどう見てるのか、という本音が聞けるのは興味深いことです。
私とて、絵画は門外漢ですから、芸能人なのに○○コンクールに入賞したなんて言われると「へぇーすごい才能あるんだねぇ」などと思わず言ってしまいますが、どんなことにもそれなりの裏はあるものですね。

率直に言えば、この本はアートをめぐる現実を冷静に分析したようなものとはちょっと違うと思います。
著者自身がアーティストして20年近く活動し、そして自らそのアーティスト活動を止めた経験をもっており、現実の社会の中でアートがどのように扱われているかを身を持って体験しています。
その著者の経験と、いまどきの風潮を、軽妙かつ辛口に綴ったエッセイ風の内容といったらいいでしょうか。美大の受験時の、予備校側の涙ぐましい努力のエピソードは、涙を流して笑えました。

それでも、長くアーティスト活動をしていた人の感覚は鋭いです。ジャンルは違えど、私もこの本が全体に纏っている雰囲気はとても共感できます。アートに対して人々が近視眼的に行動するとこうなるんだよ、という警告は、むしろアーティストになりたい熱を持て余している若者には、まだ身体では理解出来ないような気がします。

最終章、特に若い女性の自分語り的な、社会とかそういうものと無縁な「だって好きなんだもん」で完結してしまうアーティスト活動の話、本当に今の時代の雰囲気を表していると思うのです。
今や日本は慣性で回り続けるだけの思考停止した社会。これでいいのかと考えても、そういう行為が組織に負のベクトルを生んでしまいます。
そんなとき、若者が社会とのコミットを避け、自分の気持ち良いものだけを集めてそれをアートとして認められたらラッキーみたいな、どこまでも都合の良い感覚を持ちたくなる気持ちは理解出来ます。

やや本書と離れるのだけれど、最近は何かを作ることさえ、仕組まれたプラットフォームに乗せられて大量消費されるような搾取される側にいるような気がしてきました。
本当にクリエイティブなのは、社会のプラットフォームを作る側なのではないか、これこそが常識を壊したり作ったりする、現代の最も創造的な活動なのではないか、とも思えます。
著者が自らのアーティスト活動を止め、本を書いたり評論したりする気持ちも、ある意味、さらに大きな世の中の仕組みへの挑戦なのかもしれないと感じました。

私自身、現実にはサラリーマンとして生きているわけですが、長い目で見たとき単なるアーティスト活動というより、何か社会に繋がるような創造的な活動をしていきたいと改めて感じています。

2011年8月2日火曜日

コクリコ坂から

スタジオジブリの映画。監督は宮崎駿の息子の宮崎吾郎。
あとで調べると製作には相当の宮崎親子の確執があった、などという情報もあるようですが(その様子がNHKでドキュメンタリーになるらしい)、私としては非常に素直に良い映画だなと思いました。
宮崎駿モノは嫌いじゃないけど、そのステレオタイプさがやや引っ掛かりを感じていて、そういう意味ではこの映画にそういう部分が少なかったのが良かったのかも。

舞台は1963年の横浜のとある高校。
舞台設定としては団塊世代、涙チョチョ切れ的な感じ。しかし、「ALWAYS」みたいに、そういった昭和のあれこれを懐かしむような見え見えの演出も特になく、非常にさり気なく当時の風俗を描いていたのは好感。もちろん、街並みや看板の文字など随所に当時の風俗が盛り込まれ、マニアックな楽しみも多少は残してあるようです。

しかも高校生のバンカラ風土がまた泣けるじゃないですか。
学生運動などを知っている50代以上なら、それなりにツボにはまるのではないかと思います。私も大学時代には、多少のバンカラ風土が残っていたので、ぎりぎり理解出来る世代のつもり。
逆に40代以下になると、学生のあの無駄な熱さ、インテリ指向、歌を歌って団結、みたいなノリは理解しがたいだろうし、気持ち悪く感じるのかも。そうでもないのかな。

そんな雰囲気の中、まさかの少女漫画的恋愛ドラマと、韓国ドラマ的出生の秘密が絡むという展開。
えーっ、と内心思いながら、さすがジブリが選んだ原作だけあって、最終的には非常に清潔なストーリーに仕上がっていました。
下品なドラマだと、知ってしまったことを秘密にし続けようとして敵に知られ脅されたりとか、思い詰めて自殺未遂するとか、アホな展開になるのですが、この話では主人公同士があっさり秘密を話してしまったあたり逆にリアリティがあったし、その後で主人公のメル(海)が密かに寝床で泣くところなど思わず感情移入してしまいます。

あと、印象的なのは高校生から見た大人像。
大人って本当に大人だよなあ、みたいな、今の私から見ても憧れるような大人がきっちり描かれている。アニメの中とは言え、高校生の頃に思っていたカッコいい大人像を、もう一度思い出してみたくなるような気持ちになりました。
あの頃なりたかった大人に、今の自分はなっているのか、ちょっとそんなことまで感じてしまいました。

少年少女の恋愛が軸とはいえ、非常に良質で、懐古趣味を上手く孕んだ中高年向けの映画だと思いました。