2012年6月30日土曜日

いい音って何だろう

最初に結論を言ってしまうと、いい音楽を作ろうとしたことの無い人が、いい音を作り出せるわけがないのです。
ちまたには、少なくとも私の周りでは、そういった事例を感じてしまうようなことが多々あり、その度に私は心の中だけで声を大にして叫んでいます。口に出して言えって? まぁそれが出来れば苦労はしないのですが・・・

前回も書いたことの帰結として、これから音楽は産業としてはもはや魅力のあるものでは無くなっていくと思います。
しかし、だからこそ好事家が好きなものを追い求めるようになり、金銭的価値とは無関係に音楽を楽しむようになっていく。そういう状況になって、初めて音楽そのものの価値を音楽を聴く人が考えるようになると思います。
むしろ、ここ100年くらいのレコード産業による音楽ビジネスが異常だったのです。
一旦、音楽ビジネスは100年以上前の世界に戻り、いい音楽を作り出すアーティストと、それに熱狂する人々、というシンプルな世界に戻っていくことでしょう。

ところが、これまで「いい音」にこだわり、それに関わってきた人々がいます。
彼らの仕事は個別に見れば素晴らしいものでした。正確に言えば、素晴らしい仕事をしている人たちもいますが、そうではない怪しい人もいる。
私の見るところ、怪しい人の特徴は音によって紡がれる音楽の価値に疎い人たちです。

音楽家はいい音楽を作ろうとする。それがミクロに向かえば向かうほど、個々の音のアーティキュレーションや音質などに向かっていく。それでも、そういった全てはいい音楽を作るための作業の一部なのです。
ところが、分業化が進んでくると、いい音を作る、ということだけに注力せざるを得ない仕事が発生します。
分かりやすい例がオーディオの世界です。以前、オーディオについてはいろいろ書いたこともありました。
基本的には、オーディオ装置で聴くものは音楽ですから、どれだけ音楽が良く聞こえるのか、あくまで音楽の気持ち良さから考えなければいけないでしょう。

その他には、私の関わっている楽器の世界があります。また、音楽制作の世界で言えば、レコーディングエンジニアとか、録音技術を極めるような職種もあることでしょう。
これらはみんな、元をただせばいい音楽を作るために、いい音を作り出そうとする行為です。

私は、いい音を出すために出来るだけ時間やお金をかければいいという考えには賛成しません。それは一見、音のために妥協しない高邁な態度のように思えますが、この考えはむしろ人の心を堕落させます。
最高の音のために、最高のツールが必要だ、最高の計測器が必要だ、最高の人材が必要だ、最高の環境が必要だ・・・などというのは、仕事をする人の甘えでしかありません。
どのような仕事であってもある制限が存在する。その存在の中でどれだけの良いものをつくるかというのが仕事だと思います。
音楽を作るにはたくさんの制限があります。特に人がたくさん集まるほど、いろいろなことが思い通りにならなくなります。だから言葉を尽くして説明し、議論し、妥協点をさぐりながらそういう制限の中で音楽を作っていくのです。

最高の録音で録って最高のスピーカで聴いたからといって最高の音楽にはならないのです。
それは必要条件ですら無いと私は思っています。ラジカセで聴いたって音楽に感動することは出来ます。
本当に音楽の世界で求められているものは何か、その本質を常に考え続けることが音に従事する人にとっても求められることだと私は思います。

2012年6月23日土曜日

コンテンツビジネスの未来

違法ダウンロード禁止法案関連のツイートがたくさん流れてきています。
多くの人が憤っているように、法律を作る動機のあまりの時代遅れ感に、当然のごとく私も幻滅しています。
なぜなら、それが禁止しようとすることは、ユーザーの便利を阻むことであり、IT技術やネットの存在意義に対する真逆の価値観による行為だからです。

もちろん、実際にお金をかけてコンテンツを作って、それを売っている人から言わせれば、タダでコピーされたらたまらない、といったところでしょう。
しかし、残念ながら時代はあっという間に、そういうビジネスモデルを否定し始めてしまいました。インターネットが出現した15年前からそれに気付いていた人はいたし、私自身も10年くらい前には今のような事態を予想していました。
すでに、ネットの最前線にいる人たちにはそういう感覚は常識ですが、未だにこの常識を受け入れられない人たちがいるのも確かです。

この事態を受け入れられるかどうかは、もう頭の柔らかさ、としか言いようが無いと思います。特に我々の年代あたりがその分水嶺となっていて、この世代では見事に二手に分かれます。
CDが売れなくなって、音楽業界が完全に衰退しているのはもはや常識ですが、そういう状況で今のネット時代を恨み、昔のCDが売れていた時代を懐かしむのか(つまり未来の否定)、これから起こることを肯定していくのか、という態度の違いです。

ネットでほとんどタダで音楽が聴けるようになって、誰もがCDを買うなんてバカバカしいと思っているのは事実です。これは一消費者からしてみれば、全く当然の感覚です。
仮にCDを買ったとしても、自分はこの音楽を自宅のオーディオ機器で聞いたり、家のあらゆるPCで聞きたかったり、カーステレオで聞きたかったり、iPodで聞きたかったりします。今の技術を持ってすればいちいちCDを持ち歩かなくても、どこかにデータを置いておいたほうが便利だと普通は考えます。
それが自宅PCでなくてクラウドならさらに便利です。もっというなら、自分でリッピングする作業をしなければもっと便利です。

CDはiTunes Music Storeがやや強引にそういう世界を作りつつありますが、DVDはもっと悲惨です。こちらは再販制が無く値段が安くなった代わりに、かなり強力なプロテクトがかかっており(もちろんリッピングは可能ですが)、誰もが簡単にクラウドに置いておく、という状況にまではなっていません。
そこそこの値段で買ったのに、子供がDVDを破壊してしまったら、もう二度と観れなくなってしまうんです。私にはかなり深刻な問題です。

こういう事例が示していることは、もはや、データのパッケージを買うという感覚が古いということです。
私たちが買っているのは、その曲を聞ける権利、その映像を観れる権利、なのです。だからモノを買っているのではなく、サービスを買っているのです。
権利を買っていると考えるのなら、それをどんな形態で聴いてもらっても構わないし、むしろ1ヶ月だけ聴けるとか、永遠に聴けるとか、そういうところで値段設定を変えることも可能でしょう。
もちろん、データそのものはネットにあり、どのデバイスからでもアクセス出来るようにしておけばいいのです。
とは言えデータである以上、リッピングの問題はつきまといます。金を払わねば聴けないようにするには技術でプロテクトを書ける必要がありますが、いくら技術で押さえてもそれらはすぐに破られるものだからです。

今の時代、マネタイズはもう一歩先を行き始めています。
クラウドファンディングといったような言葉が流行り始めているようですが、例えばアーティストが直接投資、あるいは寄付を受けるというようなやり方です。
私もこちらのほうがずっとスマートに思えます。
それはいわば、大昔の流しの世界です。その場で音楽を勝手に演奏していて、聴いた人がいいと思ったら投げ銭を入れるということです。これをネットで世界規模でやってしまえということなのです。

そう考えると、IT、ネット技術が進むほど、私たちの文化はむしろ原始的な価値観に戻っていくように感じます。恐らく文化はモノの経済学と結びついたときから一度歪んでしまっていたのです。その歪みが、今ネットという技術のおかげで、ようやく無くなろうとしているのではないか、とそんな気がしているのです。

2012年6月16日土曜日

構造と変化

どのような創作物にも構造が必要です。
構造というのは、別の味方をすれば「繰り返す」ことでもあります。逆に言えば、二度と繰り返さないものには構造がありません。
繰り返しは、小さな部分から大きな部分まで様々な局面に現れます。例えば音楽なら、基本ビートとしての八分音符や四分音符が最小の繰り返し単位。これに小節という単位の繰り返しがあり、8小節程度の楽節という単位があり、最後に本当の曲構造としての繰り返しがあります。

文章には繰り返しは無いでしょうか?
繰り返したくなくても、どんな文章であっても「文」という単位の繰り返しがあるはずです。これは句読点の繰り返しとも言えるかもしれません。
ある程度の文章が長くなれば段落が作られます。これも書いているうちに、段落の大きさにパターンが生まれ、そこに一定の繰り返し感が生まれます。

繰り返しというのは、似ている、ものが並置されているということです。
同じものが並置されている、ことは一見「変化しない」ことのように見えます。
しかし、その変化させないやり方に表現者としてのセンスの違いが出てくるように思うのです。

変化する、ことは創造的活動にとって最も重要なファクターです。全てのモノゴトは変化します。変化しないということは死を意味します。
創造的な活動というのは、常に新しい生命を生み出すことであり、その基本に若々しさや生命感を必ず内在しています。変化の無い創造物は全く面白くありません。

ここで構造が指向する繰り返しと、創造物が内在すべき変化が対立します。
例えば、こういう対立は日常生活でも見られるのではないでしょうか。ルールを守る厳格さ、規則正しい生活を送る几帳面さ、が必要である一方で、新しいことを始めたり、新しい人と合ったり、新しい場所に行ってみたりする、といった生活の変化としての要素がないと人生面白くありません。
こういうと、構造は規則・厳格といったイメージで人を縛る感じがあるけれど、変化は自由・新鮮というイメージで人を楽しませるように思えてきます。

心理学的に言えば、構造は超自我(SuperEgo)で、変化はES。超自我は自分を律しようとする無意識、ESは欲望の固まりのような無意識。

もちろん人は規則通りにしか動けない堅物では面白くないけれど、好きなことばかりしている適当な人も困り者。
人には、常にルールを守る厳格さと、新鮮なものを楽しもうとする気持ちの両面が必要なのです。
そして、それは創造物もまた同じ。構造と変化は創造物が持つべき大きな二つの対立するベクトルで、そのバランスの良さが、創造物の価値を決めていきます。

素人が初めて何らかの創作活動を行おうとすると、最初の作品には構造性が欠ける場合が非常に多いです。それが素人臭さを醸し出します。
基本的な生命感としての変化の要素はもちろん重要なのですが、それを整理し、的確に伝えるための構造こそ理性で制御する部分であり、芸術の質を高めることに繋がるのです。

2012年6月9日土曜日

構造への希求

音楽にしても、小説・エッセイにしても、建築のような構造物にしても、あるいは仕事でソフトウェアを開発したりとか、パワポの資料を作ったり、長文の論文を書いたりする場合も含め、創作物を作るためには、構造性を重んじる姿勢が必要だと思っています。

特にソフトウェア開発の仕事は多くの人が従事しているわけですが、この構造性という点で創作物全体を俯瞰出来る人と出来ない人がいて、それが突き詰めればソフトウェア開発の生産性に大きな影響を与えていると考えられます。
文章も同じ。最近はメールなどで多くの人が短時間に大量の文章を書く機会が多くなっていると思います。文章がきちんと書ける人というのは、構造性の感覚を持っています。

私たちは一人一人が芸術活動をしていなくても、日常のいろいろな機会に創作物を作り出しているのです。
その創造物の規模が大きくなればなるほど、構造性を持っているかいないかが、その作り上げた創作物の質になって現れます。
日常的に創作活動をしていない人には、その感覚の正体に気が付いている人はあまりいないように思います。しかし文章やプレゼ資料、ソフトウェアなど個別のジャンルについてはハウツー本などもたくさんありますし、その中には創作物の構造性に繋がる考え方もよく書かれています。

もちろん、これは訓練すれば向上するスキルなのかもしれないのですが、元々個人が持っている性向にも大きく左右されるように思います。
構造性を重んじるような人は、俯瞰的な考え方やマクロ的な視野を持っているし、そういう人同士では話の内容も響き合います。構造性思考を持っていない人は、細部にこだわり過ぎたり、個別最適で考えたり、全体の整合性が取れていなかったりすることが多く、全体で見ればという視点を共有出来ないので、議論が平行線になりやすいのです。

以下、私が構造を重んじるような感覚として、思い付くものを挙げてみましょう。
一つは、全体を感じたいと思う感覚。
例えば一つの大きなプロジェクトがあったとします。このプロジェクト全体についての成果物、及びそれを作り出すための仕事を洗い出します。もし納期が厳しければ、ブレークダウンした仕事の粒度を揃えて、順序を考えた上で、時間軸上に仕事を置いていきます。
もちろん、会社で行なうどんな仕事も上記のような方法で計画を練るわけですが、構造性の思考が弱い人が作る計画というのはとにかく内容が甘いわけです。会社で複数人でやる仕事なら有能な部下が何とかしてくれたりしますが、芸術の創作の世界では誰も手伝ってくれません。
そもそもこういう作業をある程度正確に行なえる人しか、創作には向いていないと思います。

次に、構造の中からパターンを拾い出す感覚。
同じような作業をしていれば、そこに繰り返しのような何かが似た感じが出てきます。
しかしどんな仕事でも,完全に同じということはありません。ちょっとだけどこかが似ているのです。どこかが似ていることをきちんと抽出できれば、そこから汎用的なルールを導き出すことが出来ます。
創作家の場合、それは明文化されずに経験値として作家の内部に溜まっていきます。しかし、そのような抽象化されたパターンの引き出しを持っている人は、毎回内容が違っていてもゼロから悩んだりしなくなるのです。

最後に構造性の感覚でもう一つ挙げるなら、分類と命名のセンスでしょうか。
全体を分けるのも、その中からパターンを拾い出すのも、必要になるのは分類する能力です。例えば100曲の音楽データをどういう軸で分類すれば良いか、これを利用する際のことを考慮に入れて分類軸を決定します。どんな場合でも例外はありますから、何を例外にするかも考えなくてはなりません。
分類したら、その分類に命名をしなければなりません。
その命名が不適切だと、新しいモノが現れたときに最初に思ったような分類にならなくなってしまう可能性があるからです。

ある程度、大規模な創作物を作る場合、全体を感じること、パターンを見いだすこと、分類と命名を的確に行なうこと(他にも考えれば出てくると思いますが)、というようなことは構造性を重んじる態度そのものだと思います。
このような態度を持っているかいないか、は表現者にとって重要な資質では無いかと私は考えます。

2012年6月3日日曜日

楽譜を読む ─ 強弱記号 ─

楽譜には、通常フォルテ、ピアノとかの文字による記号や、クレシェンド、ディミヌエンドのような図形的な記号が書かれています。
書いてある以上、もちろんこのとおりに演奏すべきなのですが、私が一般合唱団員の気持ちを察するに、二つの相反する態度を感じます。

一つは、そもそも強弱記号に対する意識の薄さ
もう一つは、意味を考えずに盲目的に強弱記号に従うような態度です。

最初の意識の薄さは、もう意識しろとしか言いようが無いのです。しかし音程や微小なピッチ精度にこだわる人の多さに較べると、強弱記号に関してはほとんど無視してるんじゃないか、というほど気にしていないような人が少なからずいます。

確かに声楽の場合、楽器の不自由さから音域によっては大変音量制御が難しいという側面はあるでしょう。
そういう声楽的資質といった不可抗力的なものはまだしょうがないとしても、長く合唱をやっている人の中には自分が気持ち良く歌うことだけを第一にしていて、強弱記号がまるで見えていないような人も散見されます。
歳を取るほど自分を律することが難しくなるものだと自分も最近感じます。特に昔から合唱をやっていて環境に慣れきってしまった方には、ぜひ楽譜をきちんと見て、強弱記号に反応するよう努力して欲しいものです。

逆にまじめな人に多いのは、楽譜の強弱記号に盲目的に従おうという態度です。
音量というのは、そもそも非常に曖昧な指示です。
ピッチや音程というのは計測可能だし、いくらでも精度を高めていくことは物理的に可能です。テンポについても絶対値的な計測はできるし、rit. や accel. などはみんなが同じテンポを共有しないと音楽が揃いません。
ところが、音量というのは少なくとも音楽において物理量を規定することはほとんど不可能に近いパラメータです。声楽の場合、人によっても声の大きさはかなり違います。
合唱団によっては、ソプラノが多かったり、ベースが多かったり、声の大きい人がいるパートが偏っていたりするわけです。つまり、合唱曲の場合、最初から理想の音量バランスというものが再現される可能性は非常に低いのです。
だから、本来絶対値としての音量表記は不可能なのです。

音量はどうやっても相対的な指標でしかありません。この事実を感覚的に理解しているかいないかで強弱記号に対する態度も変わってくるのではないかと感じます。
書いてある強弱記号を絶対音量に単純に換算するような態度は、曲の本質に辿れないことでしょう。
つまり強弱記号こそ、なぜ作曲家がそういう指示をしたのか、という理由を読む取りそこから個別事情に敷衍していく必要性が高いのです。

このような作業がきちんと行なえる指導者の演奏には説得力が増します。このセンスの差が、団員の歌の上手い下手とは別のベクトルの、団の音楽性の高さに結びつくと思います。