2012年7月28日土曜日

パーソナル・ファブリケーション

前回の話の続き。
企業が工場にて大規模にモノを作るのではなく、個人が自分に必要だと感じるものを思い思いに作るような状況を、パーソナルファブリケーションと呼んだりします。

考えてみれば産業革命以前、世の中の全てのモノ作りはパーソナル・ファブリケーションでした。しかし、技術革新により大規模な機械を導入し、一度にたくさんのものを作れば製造コストはどんどん下がっていくことになりました。このような形で近代のモノ作りは進化し、気が付けば個人でモノを作ったとしても、企業が作ったものと同程度の品質を確保するのはほとんど不可能な世の中になってしまいました。

ところが、その一方かゆいところに手が届くとか、一見無駄な装飾であるとか、あまり一般的には使われない機能だとか、工業製品にとってコストメリットの無いものが少しずつ省かれていくことになりました。
工業化は大規模化の競争であり、市場がグローバルになるに従い、地球規模で寡占化が進みます。寡占化が進むほど製品のバリエーションは少なくなり、世界中の人が同じものを使うようになります。こんなものがあったらいいのに、がある一定の規模にならないと、新商品には全く反映されないのです。

工業製品でなくても、そういうことを体感することは多くなったように感じます。
例えば、日本全国にユニクロがあって、安くてそこそこデザインもいいのでみんながユニクロで服を買うようになります。もともと服にこだわりのない人は一定数いますから、例えばある地方にしかなかった衣服文化とか関係なくユニクロが売りまくれば、そういった小さな規模の文化をベースにした商品は採算が取れなくなり、結局消えていくことになります。
その昔、適当な店で服を買ったとしても、他人と着ている服が同じだったなどということはほとんど無かったのですが、最近は「ユニクロかぶり」現象が頻発しています。私でさえ経験してしまいました。
ちなみに、個人的に最近ヒドいと感じるのは男性の靴が良くかぶる現象。これも郊外のアウトレットモールでみんなが同じようなものを買うようになった結果です。


他人と同じものなんて滅多に無い衣服でさえ、この有様。
今、スマホだと半分はiPhoneだし(まあ、これは別の理由で歓迎すべきことではあるのだけど)、ある商品群なら、日本中ほとんどの人が、同じような選択肢から商品を選ぶ状況になっていると思います。

これは皆が望んでそうなったのではないのです。
経済的に寡占化が進み、買う方も経済的な選択をした結果、そのような状況になっているだけなのだと思います。もしたくさんの選択肢が適度な値段で供給されれば、そちらのほうが良いに決まっています。特に身につけて持ち歩いたり、人に見られるものについては、人とは違うものを持っていたいと誰もが思うのではないでしょうか。

パーソナル・ファブリケーションに経済的な解決さえ見つかれば、世の中はそちらの方向に向かうと私は考えます。
そのためには、逆に極限まで各レイヤーの標準化が必要だし、様々な部品の情報公開が必要です。そうなることで、外見部分や、外部仕様に独自性を出すことが容易になっていくのです。

今、ファブラボと呼ばれる活動があります。
これは、自分が作りたいものを自由に作るための工場貸し出しのようなサービスを世界的に展開しようという活動です。
その活動の憲章の中に、自分が作ったものは他の人が活用出来るように必ず複数つくること、とか、その設計図も完全に公表すること、といったルールがあるようです。
これは、まさにソフトウェアでいうところのオープンソースと全く考え方が同じ。
個人的にこの活動には大いに賛同しますし、一度は関わってみたいものだと今思っているところです。

もし少量でも製造するコストが今後下がっていくのなら、企業が自分の技術を守るために秘密を大事にし、商品に関する全てを自力で設計・開発・製造するようなやり方より、ファブラボの方がずっと面白いものが作れるようになっていくと私には思えるのです。

2012年7月22日日曜日

Makerムーブメント

日本なら、こういうサイトがありますが、個人が趣味で日常で使うような機器を作って楽しもうというムーブメントが起こっています。
趣味というと本業とは別で、それによる収入を期待せず、というようなイメージになりますが、そういうムーブメントが新しい需要を作ったり、新しい人の繋がりを作り出したりすれば、そこに何らかの仕事は発生するはずです。
私の予想では、いずれいくつかの企業がこういうムーブメントをサポートするようになり、それなりに産業として成り立つようになっていくのではないかと考えています。

電機製品は企業が工場を使わないと作れないと多くの人が思っています。
しかし、例えば身体のサイズは一人一人違うから、本当に自分にフィットする服はオーダーメイドで作る、という感覚と同じように、自分の暮らしに合った、あるいは自分の利用の仕方に合ったような電機製品がオーダーメイドで作られたり、あるいは自分で作ってしまえばきっと便利なはずです。

それが可能になるような技術が少しずつ増えているように感じます。
特に、音や映像、ネットワークについては、PCで何でも出来るようになってしまったので、逆に超小型のPC用基板に自分の好みの筐体を組み合わせれば、好きな機器が作ることが出来ます。
今、ちょっとしたPC並みの性能を持った電子基板は数千円レベルで購入が可能になっています。もちろん、この中で動作するプログラムを作らなければいけませんが、これもOSにLinuxを使うなど、ゼロから作らなくても世の中には多くのオープンソースソフトウェアが存在します。
自分の好みの筐体は、3Dプリンタで作成します。好きな形のものを実際に削り出して作ってしまう機械です。3Dプリンタも数十万円で買えてしまうようになってきました。

もちろん、そういう汎用部品やカスタマイズする手段が手に入るようになったとはいえ、個人が全て行なうにはハードルが高いのは事実。
しかし、企業が大量生産するしか方法が無かった電機製品の作り方が、こんな形で多様化することが分かってくれば、趣味で作った個人が小さな工房となって、オーダーメイドで電機製品を作るという事業が可能になるのではないかと思うのです。

それが事業として成り立つには、作る以外の部分においてもまだまだ多くのハードルがありますが、少なくとも自分で作って自分が使う分には、技術的なハードルはかなり下がってきました。
そういう人たちが自分の作ったモノを持ち寄って、自慢するような集まりも開かれています。そういう集まりから、新しい協力関係が生まれて、何かの流れに結びつくこともあることでしょう。

私個人に関していえば、やはり音楽、楽器が好きですし、自分がこういうムーブメントで何を作るかといえば楽器ということになるでしょう。何か面白いことが出来ないか、そんなことを日々考えているところです。

2012年7月14日土曜日

何かに応募するということ

もちろんこれは前回の対になる記事なわけですが、応募する立場になると、考え方は全く逆でなくてはならない、というお話。

最初に結論を言ってしまうと、どのような募集であっても公平な審査などというのは最初から不可能であり、自分の応募内容がきちんと理解された上で判断されたのかなどということをグジグジ考えても仕方が無いと思っています。

もちろん、それはなぜ落選したのか考えても仕方が無い、と言っているわけではありません。そういう反省は常に必要。だけれども、その際に、常に審査が公平に行なわれていると言う前提で考えても仕方がないし、そのくらいの現実は受け入れるべきだということです。

例えば自分の例で言うと、すでに書いたように私は何度も作曲コンクールに応募しています。当然ながら、賞を頂いた数よりも圧倒的に落選した数の方が多いのです。
しかし、幸い1次審査通過とか入賞したこともあるので、落選した場合の自作品における差異を多少感じることが出来ました。
若干誤解を恐れずに言うなら、意外とそれは表面的な差が強かったように思います。特に冒頭部分の面白さ、譜面の見た目、は重要な要素だったと感じました。

例えば百近い作品を評価しようというときに(それ以上ならなおさら)、それぞれの作品の最初から最後まできちんと見てもらうなどというのは現実不可能です。
特に審査の最初の段階で、ある程度数を絞ろうとする段階では、作品のごく一部だけで(恐らく冒頭で)判断されているとしても全く不思議はありません。
従って、作品の冒頭があまりに凡庸な出来だった場合、その後にかなり自分の良い部分があったとしても引っ掛からない場合があります。これは私の得た教訓の中で,もっとも普遍的なものと今でも思っています。

同様な理由で見た目も重要です。
文学賞ならば、手書きかワープロか、というのは重要でしょう。もっともほとんどの人は現在ワープロでしょうから、筆跡に自信があれば敢えて手書きで挑戦するというのも一つの戦略。
作曲も、手書きか浄書か、という問題はあります。まだ手書きの方はそこそこいるとは思いますが、楽譜の手書きはかなり読譜が大変だし、時間もかかります。浄書の場合もワープロと違って、ソフトによってかなり見栄えが違うので、安物は使わないことを私はお勧めします。
電子化してあるかどうかだけでなく、全体のレイアウトとか、大きさとか、鮮明さとか、見た目を左右するあらゆる要素において、細心の注意を払うべきでしょう。

やや具体的な話になってしまったけれど、応募する立場としては、なぜ自分が落選したのかとても知りたいものです。私もその気持ちはとても良く分かるのです。
でも、それは結局分からないし、最初からコンクールで選ぶことに完璧な公平性を期待しないほうが良いです。
それを理解した上で、自作品を自分の許容出来る範囲内で、狡猾にコンクールで通るような形に仕上げていく、という戦略もまた必要だと私は考えます。まぁ普通はそういうことは言わないのでしょうが、正直な私は、敢えてそういう意識も重要だと言っておきたいです。

2012年7月7日土曜日

何かを募集するということ

私はこれまで大学時代以来、ウン十年にわたって作曲コンクールに応募し続けている応募マニアでもあります。もちろんそのほとんどは落選、なのですが、何度か入選を頂いたおかげでちょっとばかり作曲家らしい活動もさせて頂いております。

実はそれ以外にも、あまり大きな声では言いたくはないけれど某文学賞とかに応募したこともありますし、つい最近また全然別の募集にも参加しました。

自分自身が募集をかける側には回ったことはありませんが、いろいろな応募をしていると、募集をかける側にもそれなりに覚悟が必要だと感じたりします。
そして、その覚悟が足りない人たちが、何となく募集をかければいいものが集まるだろう、という単純な思いで始めてしまった企画は、結局なんだかなー的な結果しか出せないものです。そういう痛々しい企画も残念ながら日常茶飯事です。

最初にざっくりした結論を言ってしまえば、「イイもの」を判断する目が評価側に無ければ、いくら募集をかけてもいい結果は現れません。集まった作品や提案の中には素晴らしいものがあるはずなのですが、判断する側にそのセンスが無ければ、それらは見落とされます。少なくとも募集された中で一番良かったものを見落とす可能性があります。
芸術系のコンクールやコンテストにも質があります。それらの質とは審査結果そのものです。審査した結果、素晴らしい才能を発掘すれば、そのコンクールの権威が高まります。
従って、コンクールはどれだけ質の高い審査が出来るかが、その企画の質になっていきます。
定期的に開催される音楽系のコンクールなどは、審査プロセスに一般的なフォーマットがあるため比較的品質は安定するのです。しかし、地方自治体や企業などが単発である種の募集をかける場合、たいへんお粗末な審査しか出来ない場合があります。

例えばあるアイデアコンテストを開催したとします。
最終的に最優秀賞や他の賞を決めたりするわけですが、そこに500近い応募があったとします。500というのは、もはや一人で判断するのは不可能なレベルです。
審査に1年もかけるわけにはいかないでしょうから、その場合、応募にふるいをかけるために複数人の手を借りる必要があります。
その場合、ふるいをかける人のレベルを高めるようにするか(コストは高くなる)、逆に選別基準などを作って誰でもふるいをかけれるようにするか(もちろんコストは低い)という方法が考えられるでしょう。

しかし芸術、アイデア、といったクリエイティビティが要求されるものを選別する場合、誰でもふるいをかけられる等という選別基準を作ることなど不可能です。そもそもそんな判断基準は学校で教えられる程度のもので、優れたものを見つけるためのものではありません。
またふるいをかけることを指示された担当者にしてみれば、自分の判断でもしかしてすごいものを落としてしまうかもしれないという恐怖に耐えられないのではないかと思います。

とはいえ500近い応募があれば、正直言ってそのうちの7,8割はゴミのようなものです。言葉は悪いですがそれは真実。
ゴミレベルの作品をゴミ、と断言するにはそれなりのカンが必要ですし、判断する側にもそれなりの知識と経験が絶対的に必要です。
そういう判断が出来る人に500近い作品を判断してもらうには相応のコストがかかります。このコストを全く考えずに募集をかけてしまうと、結局募集をかけた事務局のスタッフが微妙な判断で無理矢理選別を行ない、結果的に非常に凡庸な作品を選んでしまうことになりかねません。

全く先例がない場合、コストも全く検討はつかないでしょうが、少なくとも関係者で見れば良いものは分かるだろう、などという気持ちで始めれば、あとで痛い目に合うことになります。
結局は良い作品やアイデアが欲しくて募集をかけるのですから、それが見つからなければやった意味がないのではないでしょうか。
(要するに痛々しい募集は止めましょう!という応募側のささやかな忠告です)