2012年9月22日土曜日

未来を予測する力

視野(スコープ)の広さには時間感覚の要素も重要だという話。もう少し、思うところを整理してみたいと思います。
モノゴトの知覚を空間と時間に分けたとき、空間とは同時に存在しているモノゴトの状態を知識として知っている状況であり、時間はそれらのモノゴトが計時的にどのように変化していくかを把握すること、と考えられます。
つまり、空間の知覚とは知識ベースであり、時間の知覚とは未来予測と言い換えることが出来ます。この時間ベースの知覚について、もうちょっと考えてみたいのです。

夏休みの宿題の例での1ヶ月の行動の無計画さの話は非常に象徴的なのですが、これとは逆のパターンもあるでしょう。
例えば、夏休みの過ごし方について計画を立てろ、というような命令を受けたとします。夏休みに入る事前に、各自が自分の夏休みをどう過ごすかについて自分なりに計画を立てるわけです。
そうすると、人によってはとても立派な計画を立てます。立派な、というのは、例えば一日8時間勉強するとか、朝起きて寝るまでのスケジュールがびっしり詰まっているとか、そういう状態です。
本当にそれが実行できるのなら大したものですが、世の中には不測の事態もあるし、いつもの自分の行動を考えればそれが非現実的なものである可能性はあります。

もっとも、立派な計画を立てるとそれだけで見る側も喜んでしまう側面もありますが、計画なのだからその通り遂行されてナンボのものでしょう。本質的に考えるならば、実現不可能な計画を立てることは、もちろん良いことではないはずです。

このような事態は未来予測をする力の不足から来るものです。
ある程度予測する力がある人から見れば、「本当に出来るの?」と言いたくなります。もちろん出来るわけないと思っているわけです。ところが当の本人は、やれば出来るなどと信じきっています。
こういうことは経験を積むことで改善することもあるのでしょうが、やはり根本的に計画を立てることが苦手なタイプの人はいるような気がします。

一つには、計画を立てる、という行為がどれだけ自発的なものか、という尺度はあり得ます。
あるプロジェクトが非常に大きければ大きいほど、その実現性の判断は難しくなるので、内容を分割して計画を立てる必要が出てきます。
この必要性を感じられる人は、自発的に計画を作ります。自発的に作るから内容もリアルです。実現性こそが第一です。
しかし、このプロジェクトを行なうのに、計画書を出さなければいけないから、仕方なく計画書を作る、というモチベーションだと内容は美辞麗句ばかりで、とりあえず文句を言われない内容にしようという意志が働きます。

こういうトラブルは世界中、日常茶飯事なのでしょうが、結局はそれを統べる人の未来を予測する力の有無に関わってくるのではないかと思えます。もちろん、それがその人の力量ということになるわけです。

未来を予測する力には、他人の未来を予測する力を予測する力も含まれます。
ある人の未来予測能力の精度が低いと判断すれば、その人の担当範囲を敢えて小さくしてやり、短期的な目標設定を行ないます。ある人の未来予測能力が高ければ、より裁量を増やして内容の多くを任せるようにします。こういうことを個別最適で行なえば、より効率的なプロジェクト運営が行なえると考えられます。

結局世の中は人の集まりで出来ているので、人による性能差を無視して未来予測をすることは不可能です。ましてや、ある組織や人々を一括りにして、普通こんなことは出来るはずだ、とか、こんな考えはあってはならない、とか、そういう決めつけも非常に危険なことです。
視野(スコープ)の広い人は、そこにいろいろな人がいることを想定した上で、だから人々はどう動くのか、そこまで考えているのではないでしょうか。



2012年9月15日土曜日

視野の広さとは

普通「視野が広い」というのは褒め言葉として使いますが、その意味するところは結構人によって解釈が違うのではないかと思います。

以下はあくまで私自身が(わりと)視野の広い人間であると自負した上で、視野の広さの意味するところを語ろうとする試みですので、そうした偏見が文章にまぶされていることを考慮した上でお読みください。


視野が狭い人は、「視野の広さ」を単に物知りのことだと思う傾向があるのではないでしょうか。つまり、「自分の知らないことを知っている→自分の知らない広い世界を知っている→視野が広い!」という思考パターン。知識は無いよりあったほうがいいですが、それは視野の広さのごく一部を表現しているだけのように思えます。

視野というと「見えるもの」という視覚的な意味が強いので、これ以降「視野」でなくて「スコープ」という言葉に替えます。つまり「スコープが広い」という意味について考えてみたいと思います。

スコープの広さ、には大きくわけて二つの要素があると思います。
それは空間と時間です(相対性理論を論じようとしているわけではないですが・・・)。空間というとちょっと意味が分かりづらいかもしれませんが、私の意図するところは、今みんなが共有している時間で起きていることをどれだけ広く把握しているか、というような感覚。
次に時間というのは、今この場が時間でどのように変化していくかをどれだけ正確に予見できるか、というような感覚です。

なぜこのようなことを言うかというと、多くの人はスコープの広さを空間的なことだけと考えがちなのですが、実際には「時間」の要素を感じられる能力が非常に重要ではないかと思うからです。
最初に言った、視野の広さを知識量だと思ってしまう人は、まさに今この世にある現実をどれだけ知っているか、つまり空間的なことにしか興味が無いように思えるのです。


子供を持って気が付いたのですが、子供は運動能力が増すに従い、まず自分の身の回りの空間の把握をする努力を始めます。しかし、時間という概念を理解するのにはやや時間がかかります。
どんなオモチャがどこにあって、どのように遊んだらよいかとか、どこに危険があってそれを避けるようになるとか、そういうことは脳は早いうちから少しずつ覚えます。ところが、そのオモチャを数時間前にどこに置いたかとか、この場所で転んで痛い想いをしたのはいつだったか、ということは1〜2歳頃までは記憶していないように見えます。
2歳くらいから言葉は話し始めますが「前、〇〇したでしょ」みたいな会話は最初のうちには全く成り立ちません。今自分がどうしたいか、という会話しか最初はありません。

3歳になるちょっと前頃から、「前に見た」とか言うようになりますが、昨日とか今日とか、そういう時間感覚がお互い共有できるようになったのはつい最近のことです。(今3歳三ヶ月です)
しかしまだ、曜日は覚えられないし、当然一月とか季節とかというような時間感覚は持ち合わせていないようです。子供によって時期は多少差はあるかもしれませんが、時間感覚を持つというのは、非常に高度な能力ではないかと私には思えます。

もちろん大人になれば、さすがにそういう時間感覚は持てるようになります。
ところが、もう少し高次なレベルの時間感覚になってくると、人によって差が出てきます。例えばよい例は、夏休みの宿題。時間的なスコープを広く感じられる人は、後で苦労することが分っていれば、そうならないように宿題を早く片付けてしまうか、計画を立てて行ないます。
もちろん宿題をやらなければ夏休みの後半に苦労することは理屈では分っているけれど、ついついそうなってしまう人も(たくさん)います。私は、これはスコープの狭い人の特徴だと感じます。

嫌なことを先送りして上手くいくことはまずありません。たいていの場合、モノゴトを上手く進めるもっとも良いやり方は、嫌なことを先にやることです。
スコープの広い人は、それが分っているから、そういう行動を取ろうとします。また、そういう視点で世の中を見るので、世の中で起きていることが上手くいくかいかないかということを比較的高い確率で予言できます。
あるプロジェクトがきちんと仕事をやっているかどうか、そういう情報の断片が入ってくるだけで、そのプロジェクトがうまくいくかどうか判断出来るのです。
結果的には、世の中がどのように動いていて、何がどのように変わっていくのかを読む力がつきますし、それがスコープの広さとして現れるのではないかと思うのです。

まとめると、夏休みの宿題をついつい後回しにしてしまうような人は、視野(スコープ)の狭い人間になっちゃうよ、というお話でした。


2012年9月8日土曜日

自分の持ち時間

私もだんだんいい年になってきて、これから自分はどうあるべきなんだろう、などと殊勝なことを考えたりします。
仮に何か新しいことを始めるにしても、そこに至るまでいろいろ勉強したり、何かを調べたり、多くの人と知り合ったり、という地道な努力が欠かせないはずですし、もちろん、今と同じ仕事を続けたり、合唱活動を続けたりしていく上でも、自分がどうありたいのか、という目的意識を持つのと持たないのでは将来の自分の在り方に違いが出てくることでしょう。
そう考えると、今自分の持っている時間を何にどう使うのか、ということをかなりはっきり意識した上で意図的に行動すべきではないかとふいに思ったのです。

具体的な数字で考えてみます。
一年は365×24=8760時間。
わざわざ一時間単位にするのは、自分の行動を一時間単位で把握するため。そのほうが現実の行動としてのリアリティを感じると思うからです。
では、この8760時間を私は今どのように過ごしているのでしょうか?

まず睡眠の時間はどのくらいでしょうか。私の場合一日の四分の一強、といったところ。
お風呂やその他もろもろの睡眠前後の時間を引いて、残りの持ち時間を6000時間くらいとしましょう。

食事、会社の休憩時間、移動時間・・・これは、生活に必要なものではあるけれど、内容を工夫すれば役に立つ時間にすることは可能かもしれません。こういった時間が1日に2時間くらい。とすると、700時間くらい。

そもそも、会社で仕事している時間はどのくらいでしょうか。
労働日数220日(?)に、やはり多少の残業はあるので9〜10時間をかけて、だいたい2000時間くらい。

そう考えると、私の場合この時点でまだ持ち時間の半分弱くらいしか使っていません。
もちろん、今は週末は子守りが多く、家族と過ごす時間も2000時間くらいは使っているでしょう。(平日2時間、週末6時間くらい?)
あと、合唱関係は、週一回の練習とときどきある週末のイベント、移動時間や関連する交流時間などをいれて200〜300時間くらい?。今は非常に少ないですが、子供が生まれる数年前はこれが1000時間くらいいっていた時期もあったように思います。

さて、後残りは1000時間くらい。
この時間を、テレビや雑誌からの情報収集、読書、ネット上での情報収集やコミュニケーション、自分の勉強(IT、英語など)、作曲やアプリ開発・・・といった時間にあてていることになります。

今はこの残りの1000時間をどう充実させるかが自分にとって重要だと思っています。
このように考えるとキュウキュウに生きているようにも思えるけれど、まだまだ楽して生きていきたいなどと思うのは早すぎます。
一日当たり2時間強の自由時間を、さてどのように使っていきましょうか。


2012年9月1日土曜日

ワークシフト/リンダ・グラットン

某所で課題図書となっていたので、早速入手して読んでみました。

上のブログでも書かれているとおり、これから数年くらいのうちに社会に大きな変化が起きるのではと私も思っています。
そんな折、私たちはこれからどのように働いていくべきか、について言及したのがこの本。この本では、私たちの働き方において、三つのシフトを実現すべきだと言っています。一つ目はスペシャリストになれ、二つ目は有用な人間関係を築け、最後は消費を美徳とする価値観から転換せよ、という三つのシフトを著者は主張しています。

この本の面白い点は、非常に構造的な内容の構成にあります。
まず最初の第一部では、現在進行している様々な兆候から未来はどうなるかを推測します。著者が予言する未来は、5つの大分類と32の項目として箇条書き的に展開されます。
次の第二部では、「漫然と未来を迎えてしまった人」がどのような未来の生活を送っているかを三人の例で具体的に描写します。その未来は2025年。それほど遠くない未来です。
第三部では、逆に「主体的に未来を築いた人」がどのような仕事の仕方をしているのかを同じく三人の例で具体的に描写します。
そして、最後の第四部で著者が主張したい三つのシフトについて詳細に説明します。

真ん中の第二部、第三部の具体例は、著者の伝えたい内容を表現するには一見冗長のように感じますが、そのディテールの細かさから説得力が増すことにつながり、著者の主張を補強する役割を担っているのです。

この本を面白いと思うかどうかは、ここまで未来がドラスティックに変わるだろう、という主張を受け入れられるかどうかにかかっていると感じます。
例えば、未来予測の要因1の3番「地球上のいたるところで「クラウド」を利用できるようになる」。もちろんクラウドという言葉は、IT界隈では重要なキーワードとなっているわけですが、世間一般の人々にとって実際の生活を変えるほどのリアリティがまだありません。リアリティが無ければ、そんなのただの流行りだろう、と考える人も出てきます。
しかし、理詰めで考えれば、端末さえあれば自分の作業環境がどこでも再現できることは、将来の労働環境を考えると大きなインパクトがあるのは私には明白だと思えます。
同様に未来予測の要因1の8番「バーチャル空間で働き、「アバター」を利用することが当たり前になる」。こういうのがビジネス書みたいな本に書かれると、ネットの風俗と労働することが容易に頭の中で結びつかず、何言ってんの?と思う人もいるかもしれません。
これとて、ネット内で仕事の取引が頻繁になれば、アバターが自分を表すアイデンティティとして重要なるだろうと想像することは出来るはずです。

要因3の8番では「ベビーブーム世代の一部が貧しい老後を迎える」と言っています。
ベビーブーム世代とは、戦後に生まれた私より20歳くらい上の世代ですが、このくらいの年齢の人たちでさえ、例えば政府から年金が十分にもらえなくなり、かなり貧しくなる人が出てくるだろうと言っています。
これはもちろん、あり得る未来ですが、見たくない未来でもあります。誰もが(特に日本では)年金行政の破綻の可能性について心配しています。年金や社会保障はこれから益々削られ、税金も高くなる。これも残念ながら、欧米,日本では確実に起こる現実だと著者は主張します。

その前提の上で著者は、私たちは自分が生涯働き続けるために、専門性を持ったスペシャリストであり続け、多くの自分を助けてくれる人間関係を保持し、消費よりも働くことそのものが生き甲斐であるような人生を送れ、と話を進めていくのです。

たった10年程度で、ここまで世の中が変わる、という事実を今受け入れられなければ、著者のいう「漫然と迎える未来」が待っています。

しかし、それにしても、今私たちは一体どうしたら良いのでしょう?
会社はますます経営環境が厳しくなり、リストラが続き、人が減らされた職場では仕事だけが増え続け、それをこなすために長時間残業が繰り返される。
こういった負のスパイラルに取り込まれているうちには、「漫然と迎える未来」に突入するしかありません。とはいえこの状況から抜け出すこともまた難しいのが現実。

私が感じたのは、今すぐ会社を辞めて云々、という具体的なことではなく、自分の意識を変えることが大事なのだということ。
会社の仕事の中でも自分で変えられる裁量は多少はあるはず。また、業務外の自由時間をどのように使うかは全て自分で決定することはできます。
毎日の小さな一つ一つの選択が、ここ数年の自分の生きる方向のベクトルを少しずつ変えていく可能性があります。

そのように生きていくために、この本の内容を一つ一つ噛み締めることは、これからの自分の人生の選択のあり方を考える上で重要な示唆を与えてくれると思います。