2012年10月27日土曜日

楽譜を読む ─守るべきことと守らなくてもいいこと─

「楽譜を読む」と題して、演奏家が作曲家の書いた楽譜をどのように読み解くべきか、私なりの意見を度々書いています。

楽譜にはいろいろな情報が書いてありますし、書いてないけど自明なこともあれば、書いてあってもあまり守られていないこともあります。
しかしそのようなことに自覚的であるか、無自覚であるかでは演奏の解釈に差が生まれてきます。

無自覚に感覚的に楽譜を処理する人たちは、むしろ保守的な演奏しか出来ません。他人の演奏を基準に自分の解釈を考えるからです。
楽譜の意味を丹念に読むことは、逆にエクセントリックな解釈になる場合があります。ある種の原理主義に基づいた解釈は、度々慣例を覆すことがあるからです。何となくみんながそうしているから・・・に対して風穴を開けることは勇気のいることですが、それでもそのような原理主義を通すことは芸術活動にとって尊敬すべき態度だと私は考えます。

では、他人の演奏に影響されず、楽譜に書かれている意味を忠実に読み取ろうとする場合、何を重要視すべきでしょうか。
一部はすでに何回か書いていることですが、私は以下のように考えます。

1.音楽である以上、記譜された音符の音高と演奏タイミングは完全に守るべき。
2.強弱、テンポ、アーティキュレーションの指示は、基本的にその相対性を守るべき。
3.上記の強弱、テンポ、アーティキュレーションの絶対値は、演奏の状況で変化しうる。
4.音価、発想標語、フレージングの指示などはその意味を十分咀嚼した上で、演奏者がある程度柔軟に解釈すればよい。

では一つずつ解説。
1は、要するに勝手に楽譜の音を変えたり、演奏タイミングを変えたりはしてはいけない、ということ。もちろんある区間をまるまるカットするとか、楽曲の構成に関しても同じです。
もし例外があるとすれば、楽譜に誤植の可能性がある場合、また有節歌曲のような構造で途中を省略しても一般的に許されると判断出来る場合、といったところでしょうか。
それでも敢えてそういう行為をやる場合、作曲家の書いた音符・構成を変えてしまうのですから、それなりの覚悟はして欲しいものです。

2は、例えば、あるフレーズAがピアノで、次のフレーズBがフォルテだった場合、Bは必ずAより大きくなくてはいけない、ということです。これが相対性を守るということです。
ただし、ピアノの音量とフォルテの物理的な音量は演奏者数やパートバランス、演奏場所、その他もろもろの理由で十分に変わり得ますし、そもそも物理的に測定して同じになるはずがありません。つまり守るべきは楽譜に書いてある記号の相対性なのです。
同じことは、テンポやアーティキュレーションについてもいえます。
例えば、あるフレーズのいくつかの音符にスタカートがついていたとします。その場合、スタカートがついた音符は、ついていない音符の長さより短くなければいけません。他の音符がもっとスタカートがついてしまっている場合、楽譜で指示されている相対性が崩れます。それは、作曲者が頭で思い描いた音像とは違っているはずです。

3は、上記2を言い換えたものでもあります。
上でも書いたように強弱、テンポ、アーティキュレーションは、絶対的な物理指示とすることはほぼ不可能です。まず、それを演奏家は自覚すべきです。
だから、ホールの音響や演奏者数によって、テンポの全体的な速さは変わっても構わないのです。さすがにテンポが指示より5割増くらいになると音楽の印象も変わるので、そこも程度問題ではありますが。

4.は、まさに演奏者が自分の独自性を発揮できる箇所だと考えます。
例えば、楽譜にMaestoso(マエストーソ)とあったら、どのように演奏すべきかは、演奏家に完全に委ねられます。そしてそこにセンスの差が現れます。
音価は基本的にアーティキュレーションとも絡みますが、音の切り方のタイミングや、フェルマータの延ばし方、フレーズの収め方によって必ずしも楽譜通りでなくても構わないと思います。作曲家にもよりますが、通常はそこまで厳密に音の長さを制御しているわけではないと思われます。
フレージングというのは、スラーの切れ目とか、音符の旗の繋がれ方とか、そういった楽譜上の指示です。楽譜に書いてあるからその通りに、ではなく、一度これが何を言いたいのか咀嚼した上で、言いたいことがきちんと表現できているのであれば、ある程度自由な解釈は許されるものと考えます。もちろん、それが演奏者のセンスになるわけです。

意外と多くの人は、他人の演奏を聞いて、それに影響されているものです。特に名作とされる曲ほど多くの人が演奏しており、楽譜に書いてないのに慣例的に勝手に付けられるような表現もあります。
しかし、みんながやってるから・・・ではなく、やはり自分がなぜそうすべきと考えるのかきちんとした見識を持って判断すべきです。


2012年10月20日土曜日

アマチュア演奏家の創造性

芸術で何が大事かと問われれば、私なら創造性と答えます。

ところが、ほとんどの芸術愛好家はアマチュアであり、音楽でいえば、アマチュア演奏家の演奏レベルは一般的には高くはなく、日々プロのような演奏技術に向かって精進を重ね、プロと同じような演奏が出来るように努力をしています。
このような態度は、良い手本に向かって自分をそれに近づけようとする行為に繋がり、独自であることを追求する創造性と根本的なところで矛盾を引き起こします。

このような表現をすると、技術的に鍛錬することと創造性は矛盾しない、と言われる方もいるかもしれません。ただ、文脈にもよりますが、私は精神論を述べるつもりは無いし、技術論とオリジナリティが不可分であることも理解しています。
それでも、アマチュアであるほど、技術指向であり、硬直的なあるべき論を招くことが多いように感じてしまうのです。

また、一般的にはオリジナリティを追求しようとするアマチュアに対して人々は冷ややかです。
世界中どこであっても、音楽演奏に求められるものは、みんなが知っている「あの曲」を演奏することであり、それによってお客さんの郷愁を得るような行為です。
だからアマチュアが演奏するオリジナル曲などほとんどの人が期待しないし、既存曲をちょっと独自なアレンジなどすれば怒り出す人も出てくることでしょう。

そういうことが当たり前だと思うにつれ、音楽演奏とは既存の音楽をあるべき理想像に向けて、努力して鍛錬して磨き上げていくことである、というふうに無意識のうちに規定していくことになります。
そして、そこからはオリジナリティ、創造性という要素がどんどんこぼれ落ちていく可能性が出てきてしまうのです。

表現者である以上、自分を表現したいという気持ちは誰にもあり、その中に自分ならこうするという要素を盛り込もうとするとき、それを自制する圧力がどのくらいあるか、というように言い換えてもいいかもしれません。
こんなにテンポを変えたら非難されるだろうなあとか、楽譜にスタカートが無いのにほとんどの人がスタカートで演奏してるからなあとか、尊敬する先生はこんな風には解釈しないだろうなあとか、自分の判断を曇らせる要素はたくさんあります。こういう考えにまみれているうちに自分の表現だと思っていたことが、実はほとんど借り物であり、狭い世界の価値観で染められたものになってしまう可能性があります。

一般にプロと呼ばれている人であっても、オリジナリティ、創造性という点においてはあまりパッとしない人もいます。
ポピュラー音楽の世界ではそれが非常に顕著で、世の中には多くのミュージシャンと呼ばれる方がいますが、プロとして生活していても彼らのオリジナル曲は中には非常につまらない音楽もあります。確かに、演奏はプロレベルなんですが・・・
こういう方々は、アマチュアの成れの果てのプロ、のように私には見えてしまいます。

私は優れた演奏技術よりも創造性の高い芸術を好みます。
世の中では必ずしもそうでなく、演奏技術が高いだけで評価されてしまうことも多いですが、テクニックはあくまで手段であり、芸術が精神的な活動である以上、その先に見えるものに価値があると思っています。

だから、私はアマチュアであろうがプロであろうが、その創造性に関心があります。
私が多くのアマチュア演奏家の演奏が面白く感じないのは、そこに創造性があまり感じられないからです。あるいは、そこで表現されるオリジナリティのセンスが低いからです。

演奏家として人前でパフォーマンスする以上、私とは何者か、何を目指して、何を表現したくてこういう活動をしているのか、そういうことを自問自答して欲しいのです。
それが全てのオリジナリティの出発点だからです。
そういう問いかけ無しに作り出す音楽には、芯がありません。確かにキレイに作れば賞賛してくれる人もいるだろうし、技術的な要素だけを褒めてくれる人もいるかもしれません。
しかし、年齢で劣ってしまう技術もあるだろうし、やはり芯のない活動は長続きはしません。
一生音楽活動を続けていくのなら、自分は何をしようとしているのか、自分独自のものは何か、を問い続けて欲しいし、そこから初めてオリジナリティや創造性が生まれてくるとのではないでしょうか。
プロ、アマチュア関係なく、そういう態度で演奏活動をする方が増えてほしいと心から思っています。

2012年10月13日土曜日

私たちが欲しかった技術

今は、技術の価値観が大きく変化している状況ではないかと私は感じています。現状では、古い技術の価値感を持っている人と、新しい技術の価値観を持っている人が混在しているように見えるのです。
どんな価値観が古いのか、そして新しいのか、私の思うところを書いてみます。

これまで科学技術の発展は、より高性能に高機能になることでした。
蒸気機関以来、機械は自動で動くようになり、ひたすらその性能は上がってきました。より速く、より安定し、より効率の高いシステムが作られ、利用する側はその性能の向上を体感することが出来ました。
例えば自動車は、年々スピードが速くなったし、馬力も出るようになったし、乗り心地も良くなりました。こういう価値観は80年代、90年代くらいまでは確実に正しかったように思います。

今でもこの価値観が正しいのはコンピュータや通信網の性能です。
未だにCPUは高性能化を目指していますし、通信インフラもどんどん高性能、高品質になってきています。年を追うごとに私たちはそれを実感できます。

ところが、この高性能、高機能であること、が確実に古い価値観になってしまったものもあると思います。
最も顕著なものはAV機器です。かつては高性能なAV機器が売れていましたが、今ではコモディティ化が進み、AV機器の値段はだいぶ下がってしまいました。AV機器において高性能、高機能が古い価値観である、という考えには異論はあるでしょうが、私見によれば異論をいう方は古い価値観に囚われている人たちのように思えます。

確かにYouTubeでは低品質な映像や音声が溢れています。
しかし、これはほとんどデータをアップした側の問題であり、インフラとしてはある程度の品質を持っているはず。
テレビにいたっては、各メーカーがどれほど高画質か謳っても、もはやその差は好みの域を出ないように感じます。もちろん、何らかの基準上では数値は良くなっているのでしょうが、それは消費者としてそれほど価値あるものとは思いません。

ここ十数年のIT技術の発達は、こういうAV技術の価値観をすっかり変えてしまったように感じます。
当たり前ですが、多くの人は映像や音声の質そのものを楽しむわけではなくて、それで伝えられるコンテンツを楽しみます。だから、コンテンツを楽しむことを阻害する要因が取り除かれていればほとんどの人はそれで十分なのです。
例えば、テレビドラマを楽しむ人は、ドラマの会話が聞き取れれば十分で、超高音質の音声などそれほど必要ありません。
また、画質についても子供向けのアニメを見たい人と、雄大な自然美を映像で見たい人では、価値観が相当違っているはず。もちろん後者の方が古い価値観を持っている確率が高そうです。

ある程度の高音質や高機能が達成された今、ほとんどの人は現状のスペックで満足できるレベルに来てしまいました。
では、今重要な価値観とはなんなのでしょうか?
私が今後技術として重要だと思う価値観は、例えば「すぐに使える」「どこでも使える」「誰かと感動をすぐに共有できる」「自分でも作れる」といったものです。

例えば100型のテレビは素晴らしい映像体験を与えてくれるでしょうが、持ち歩いてどこでも見ることは不可能です。
ましてや、感動をすぐに伝えたいとき、それはPCでインターネットでやればいいからテレビは関係ない、と言ってしまえば、この価値観は追求さえされません。

音や映像の再現技術に関しては、もはや基本性能は人々が十分満足できるレベルに達してしまいました。ですから、こういった領域においては、上で言ったような新しい価値観の技術を考えていくべきだと思います。

全ての高性能化を目指している技術者の皆様へ。
その価値観を改めて、新しい価値観で新しい技術を考えてみませんか。


2012年10月6日土曜日

未来を(ざっくり)予測してみる

先日紹介した「ワークシフト」ですが、そこには2025年という比較的近い未来について、いろいろな予測をしています。
この本を読んで私もいろいろ勉強になったし、自分が思っている以上に世の中は変わるかもしれない、という気になってきました。
そこで、もう少しスコープを狭くして2020年頃の日本ってどんな感じなのか、「ワークシフト」を参考に自分でも考えてみます。

まず悲観的なことから挙げていくと、国や自治体の財政破綻が現実的なものになっていくのではないかと思います。
私は経済については門外漢なので、その結果円がどうなるとかは分りませんが、少なくとも破綻手前になれば支出を減らさざるを得ないため、国や自治体のサービスはどんどん悪くなっていくのではないでしょうか。

あと先日、台風で停電になったのですが、今年になって2回目です。
ここに住んでから3回目。正直言って、確実に電力の環境は悪くなっているように思います。今、日本では電力会社は原発を動かしたくても動かせず、火力発電を増やすため石油の輸入が増えていて、それが電力会社の収支を悪化させています。
反原発運動から電力会社もだんだんと力が衰えてくるような気がします。結果的に起こるのは電気インフラの品質低下です。もっとありていに言えば、停電の頻発や電力の不安定さなどが起きるかもしれません。

今日本のいくつかの電機メーカーは大変厳しい状況にありますが、それは益々拡がっていくでしょう。リスクを恐れて新しいことが出来ない体質がすっかり染み付いてしまっています。いろいろな市場で外国勢が強くなり、少なくとも電機製品の多くは日本製で無くなっていくのではないでしょうか。
また、自動車も電気自動車が主流になって、IT化が進めば、外国の新興自動車会社が一定のプレゼンスを持ち、やや過当気味の日本車メーカーのいくつかは厳しい状況に追い込まれると思います。

街には失業者が増え、犯罪が増えていっても警察も十分に取り締まることが不可能になります。こういった状況は、今まで日本ではお目にかかれなかった、暴動のような現象を起こすきっかけになるのではないかと思います。
こういった治安の悪化は経済にも悪影響を与えます。これまでの安全な日本では想像できないような治安の悪い社会にだんだん移行していくような気がします。


良いことは無いのでしょうか?
一つあるとすれば、IT化、クラウド化が進むことによって、ネット環境が充実するということ。それに伴い、あらゆるサービスはクラウドに移行していくでしょう。
サービスが向上し、ネットさえ使えれば便利な世の中になっていくと思います。また、こういったサービスを提供するビジネスが経済を支えることになるかもしれません。

経済が悪くなりお金をあまり使わなくなれば、モノを買うということも減っていきます。
これは、使いたいときだけに借りる方が合理的だという考えに繋がっていきます。個人は自分が所有するようなモノは持たなくなり、周辺の人と必要なものをシェアするという考え方です。
もちろん、モノを買わないようになれば、それを売っている人たちにとってはモノが売れなくなり厳しい状況になります。つまり、諸刃の刃ではあります。

上で言った良いことは、実は旧来の大企業にとってはあまり良いことではありません。
クラウド化はデータがオープンなら非常にメリットがあるのですが、企業のように閉ざされた環境で使おうとするとセキュリティの問題などがあり途端に面倒なものになります。今や一般のサービスより社内のシステムの方が遅れていたり、使いづらいものだったりします。
こういったことを考えると、大企業という仕組み自体が時代遅れになるのではないでしょうか。すぐに無くなるわけではありませんが、少しずつ有名な大企業が規模を縮小したり、分解されたりするようなことが起きていくと思います。

全体的に言うと、社会は悪くなる感じはするのですが、世の中は常に変化していくのであり、ある社会が良くなったり悪くなったりするのは世界の歴史を考えてみても当然のことです。
しかし、個人の観点で言えば人によって幸せの内容は個別であり、必ずしもみんなが不幸になるというわけではありません。
むしろ、個人を縛っていた集団の圧力が減って、能力のある個人が生き生きと活躍できるような社会になっていくような気がするのです。