2013年2月22日金曜日

これから起きること ─ 新しい教育

アメリカの大学の講義がどんどんオンライン化され、ついに単位もオンラインで取れるような流れが起きているようです。教育なんて最も保守的な世界に思えたけれど、あまりの変化のスピードの速さに我々の意識が追いついていません。

こんなことが可能になってくると、学校に通って何かを学ぶという行為自体をもう一回見直す必要があるのかもしれません。

例えば、義務教育の小中学校では、生徒間の意識にも結構差があるでしょう。ある子供は自分から興味を持ってどんどん新しいことを覚えていくのに、ある子供は「なぜ勉強しなきゃいけないの?」とかいって困らせて、大人が口うるさく「勉強しなさい」と言わなければならない。

オンラインでの勉強というのは、どこまでも自主的な行為です。
学校の授業においては、態度の悪い生徒を先生は怒ることもあるでしょう。しかしネットでオンライン授業の前では態度が悪くたって誰も怒る人はいません。
「家でオンライン授業を受けなさい」と命令されても、上の空で聞いていれば頭にも入らないでしょう。ちゃんと勉強しなければ、結局それらは全て試験の成績で明らかになってしまいます。

ネットだからこそ人々の性質が拡張され、丸裸にされるのかもしれません。
勉強したくない人はいつまでたっても勉強しないし、当然賢くはならない。その逆に、勉強が楽しくて仕方がない人は、どんどん勉強してどんどん頭が良くなっていく。もちろん、成績も上がる。
これらの成績は、全てネット上に記録されてしまうので、ある知識を得た人、あるスキルを得た人は、それを必要とする世界中の人々からオファーを受けることになるでしょう。

当然、ネットだから国境も関係無し。
なので最初から英語に親しんでいれば、全ての授業が英語で受けられるようになり、それだけ世界の最先端の技術や学問にアクセスすることが容易になっていきます。翻訳しなければ理解できない、というだけでコストがかかってしまうので、英語を理解できることがその人の教育の機会を拡げることに大きく繋がっていきます。

とはいえ、今の学校教育で育った人がたくさんいる限り、今のような学校の姿も簡単には消えそうもありません。
そうなると、既存の学校教育とオンラインで英語前提の最先端の教育がどんどん乖離し、ある一定レベルのクラスの人々は、最初から既存の学校教育ではなく、オンライン教育を選ぶようになっていくことでしょう。

もちろん、学校教育では社会性を学ぶ、という側面もあります。
が、いまの日本の学校がしっかりした社会性を子供に植え付けるのに役立っているか、というと疑問は感じるし、むしろ教育とは別に、子供に社会活動を行なせるような団体がその受け皿になれば、社会性を学ぶ目的も達成出来るかもしれません。

人々の格差が拡がれば拡がるほど、教育の格差も広がり、もはや底辺にいる人々にはアッパークラスの人が欲する教育方法自体を理解出来なくなるような気もします。
勉強を楽しいと思う人が集まれば、その中にいる人も楽しいと感じるようになります。そのフィードバックが、大人だけでなく子供の格差をどんどん拡げてしまうのではないでしょうか。

2013年2月16日土曜日

これから起きること ─ オーダーメイドが増える

ネット時代になって、私は社会がむしろ古い時代に戻っていくような気がしているのです。
今は多くの商品が大量生産、大量消費されています。同じものが工場で大量に作られ、世界に向けて発送されます。食べ物も、衣服も、家具も、電機製品も私たちは店で大量生産されたものを買っています。

IT技術のおかげで、モノでなくてもいいものの価値は一気に変わってしまいました。例えばレコードやビデオは、YouTubeなどの出現で誰もがタダで見れるものに変わってしまい、タダでなければ見てくれない、というような状況になりつつあります。
そろそろ電子書籍が本格普及を始め、これからは本もデジタルなら格安になるでしょうし、タダの書籍も増えていくことでしょう。

では、モノはどうなるのか。
その昔、大量生産や流通のインフラが整っていない時代は、自分のいる町で必要なモノを買っていたと思います。それらの商品はやはりその町で誰かが作ったもので、大量に生産されたようなモノではなく、一つ一つ手作業で作っていたはずです。

そしてこれからの時代は、また昔と同じように一つ一つ誰かが手作業で作ったものをオーダーメイドで買うようになるのではないかと私は思うのです。

もちろん、大量生産品が無くなるわけではありません。安かろう悪かろう的商品として大量生産品は今後とも残るでしょう。
また、誰かが一つ一つ手作業で作ったモノといっても、昔と将来とでは人々が購入する理由が違います。昔は単にそれしか無かっただけです。しかし将来は、既製品で満足出来ない人が、ある程度高い品質や自分の要望を満たしてくれるようなオーダーメイド品を買うようになるのです。
そもそも買う人の満足感を究極的に求めるなら、大量生産品では無く、その人に合わせて要望通りにモノが作られることが理想的です。

メーカーズムーブメントがこれから本格的に立ち上がってくれば、このように顧客の要望をダイレクトに聞いて、それに基づいてオーダーメイドで商品を作るというようなサービスがだんだん増えてくるような気がします。
それは、衣服とか家具だけでなく、ラジカセ、テレビ、エアコン、冷蔵庫のような大型電機製品までそうなる可能性があります。私は車でさえ、オーダーメイドが出来るようになるのではと思っています。

例えば、本棚を買うことを考えてみましょう。
自分が本棚を置きたいと思っている場所はすでに決まっているわけですが、自分が置きたい場所にぴったりのサイズの本棚を既成品から探すのは至難の技です。色合いやデザインまで含めると、自分の理想のものを手に入れることはほとんど無理でしょう。
これがオーダーメイドならどうでしょうか。
もちろん、家にまで来てくれてサイズを計ってくれたら嬉しいですが、そうでなくても自分が本棚を置きたい場所の写真を撮って,色やデザインについての要望をネットで送れば、見積もりと完成予想図を送ってくれるようになっていたらどうでしょう。
これで自分の好みに合えば、その通りに発注すれば良いわけです。これらの作業はほぼネットだけで完結することが可能です。

いくら高級な本棚であったとしても、自分の部屋に納まらなければ誰も買いません。
家具こそ、まずは全てオーダーメイドであるべきです。そして、一つ一つ単品でオーダーしても十分な安さで販売出来るのなら、これは商売として成り立つと思うのです。

電機製品にしても、様々な部品が入手可能になれば、それらを組み合わせて一つの商品を作り上げることは可能になると思われます。そうすれば、オーダーメイドで電機製品を作ることだってそんなに難しくなくなるのではないでしょうか。

2013年2月9日土曜日

これから起きること

これから大変化の時代になります。というより、今まで、特にここ2,30年はあまりに変化がありませんでした。
では、これからどんな変化が起こるのでしょうか。受け売りな部分は多いけれど、自分なりに思っていることを書いてみます。

基本的に、大きな組織が軒並み厳しくなっていくと思います。
大きな仕組みがあったから大きな利益を出していたのですが、利益が減ってくると、大きな仕組み自体が負担になってきます。特に定常的に動くような大きな仕組みは、コモディティ化の結果、安く動かせるところに移っていくので、先進国では大きな仕組みを減らしていくような方向が強くなっていくでしょう。
ここで言う大きな仕組みとは、工場とか販売網とか物理的なインフラ、ネットワークとか、まあそういうものです。

そうなるとすると、中小企業と大企業の差なんて無くなってくるし、むしろ身軽な分、中小企業の方が素早く動ける感じもしてきます。今まで我々は大きな会社に勤めていることがステータスだったけれど、こういうトレンドが変わっていくことでしょう。

当然、大きな仕組みを持った大きな組織が調子が悪くなるのですから、失業者が増えたり給料が減ったりするわけです。
中流だと思っていた人々に明暗が分れ、今の暮らしを維持出来る人たちと、どんどんと貧しくなっていく人たちに分かれていくでしょう。
貧しい人が増えれば、社会不安も増大するし、今まで無かったような犯罪も増えるかもしれません。
少しずつですが、貧民街のようなものが形成され、裕福な人と貧乏な人が住む場所が分かれていくような流れになるのではないかと思います。
そうなると格差は固定化され、ある種の階級社会が訪れる可能性があります。それは、今の日本人にはかなり想像の出来ない社会なのではないでしょうか。

公務員は地方自治体に雇われている訳ですが、もちろんそれも大きな組織です。
税収が減れば、やはり大きな仕組みを支え切れなくなります。治安、ゴミ、教育、医療、インフラの保守などに十分なお金が回らないと、今からは想像出来ないくらい過酷な社会が訪れることになります。
そうすると、自治体ではなく各住民が協力して、そういったサービスに共同でお金を出して運営せざるを得なくなります。
裕福な住民ならそれも可能でしょうが、貧民街ではそれは無理。

全員が食べていけるだけの富の総量がある時代は、上手く分配することで一見幸せな社会を作ることが出来ました。
しかし、富の総量があるラインを下回ると、分配が不可能になり、明確な階層社会が生まれてくる可能性があります。

技術の進歩は我々を幸せにしてくれると多くの人が漠然と思っているのでしょうが、どうもこれからはそのような格差社会がついに日本にも上陸してしまうような気がしているのです。


2013年2月2日土曜日

日本の変わり方

この手の話題、全く人気が無いことが予想されますが、ブログには構わず好きなことを書いてみたいと思います。

電機メーカーの凋落の話題はもうここ1年くらい、いやというくらい報道されていて、閉塞感という言葉もいろいろなところから聞かれるようになりました。
予想されたことですが、最近のテレビ番組では「でも日本ってスゴいよね」的な庶民をなぐさめるような番組がだんだん増えてきて、正直痛々しい気持ちで見ることもしばしばです。

それに追い打ちをかけるような体罰問題。また単に一部の指導者だけでなく、組織的圧力でヒドい目に合わされたといった事例が日々ネットでも話題になるご時世。

もちろん、体罰云々の報道は一過性である可能性もあります。半年もすればみんなだんだん忘れてしまい、結局体育会系組織では体罰は温存されるのかもしれない。少なくとも今まではそうでした。

とはいえ、こういったいろいろなことに直面している今の日本の状況は、何かもっと日本人の根源的な部分に変革を迫るような事態が起きているのではないかとも思えてきます。

私の拙い推論では、日本人が理屈より情を重んじたり、法律や契約よりも場のローカルな掟やリーダーの意志が尊重されたり、厳格な上下関係を作ろうとしたり、名を汚すことを恐れたりする私たちの特性は、やはり歴史的な経緯から来ているのだと思います。
その経緯とは、日本は島国という環境で、ほぼ単一文化圏が2000年近く続いたということです。
他国に侵略され、異なる言語を強要されたり、身の回りの人間が全く理由もなく虐殺されたりしたことがまるでなかったということです。もちろん国内の戦乱は常にありましたが、それはある時点から異文化との衝突とはほど遠いものだったのではないかと思います。

このような閉ざされた場においては、人間関係が閉ざされていることを前提として社会が作られるようになります。
戦国時代のような戦乱の時代には、若干、下克上のような能力主義に傾いた時代もありましたが、それ以外のときは概ね、生まれがその人の社会での役割を決定したし、統率者の能力の有無に関わらず、自分のいる環境を肯定することが常識になっていったと思われます。

明治維新以降も文明が開かれたとはいえ、日本での活動のほとんどは日本人によってなされており、その単一で一様な社会をそれなりに維持していたと思われます。

それが本格的に変わる予兆を示しているのは、やはりITが一般的になったここ10年くらいだと私は思います。商品レベルではこれまでも輸入品はありましたが、サービスなどでもIT化で多くの欧米商品を皆が触れるようになりました。
そういう場の上でビジネスをやろうとすれば,国際的な感覚を持たざるを得ないはずだし、日本人だけで成り立つ常識が世界の非常識として見えてくるということも起きてしまうわけです。

この流れは避けように無いと私には思えます。
もう昔には戻れないし、古き良き日本を懐かしむことはあっても、そういう感性は二度と手に入らないと思います。日本人の繊細さは日本人の持つ常識と一体化していると思うからです。

世界標準の常識に我々が合わせていかないと、恐らく私たちの暮らしを成り立たせることが出来なくなります。生活が成り立たなければ、それはそれで世の中は変わらざるを得ないでしょう。結局、世界に合わせようと合わせまいと、日本は大変化せざるを得ないように思えます。
では一体、私たちはどう変わっていくのが一番良いのでしょうか?