2013年3月10日日曜日

未来の標準化とか規格化とか

なんだか、また抽象的なことを考えてしまいました。

IT時代になって、大会社による大量生産から小規模な単位による多品種少量生産に変わるだろう、というようなことを何度か書きました。それは、社会を表面的に見るならば、近代化と呼ばれるような社会の諸要素が、また中世的に戻っていくようにも感じられるのです。

そもそも近代化を促したものは何だったのかというと、それは標準化であり、規格化であったのかなと思います。
例えば、誰かが自動車を発明したとしても、道路が無ければ自動車は無用の長物です。自動車は便利なものだけれど、道路を作り、信号を作ったりしたから本当に便利になったはずです。道路を作るためには道幅を決めなければいけないし、交通ルールも作らなければいけません。カーブの大きさとか勾配とかも無理な設定はできません。
それは道路の作り方を標準化、規格化することに他なりませんが、それにより、自動車の作り方さえも規定されることになります。

運転の仕方だって、自動車メーカーごとに異なると大変です。
誰が運転の標準化を決めているのかは私は知らないけれど、少なくとも自動車の世界では、ある一定のルールがあり、それを運用する仕組みがあるように思えます。

そのような規則は作り手に制限を課すことになりますが、それを犠牲にしてもあまりあるメリットがあったからこそ、そういう標準化が進められたのでしょう。

同様に、電力を各家庭に送るのだって規格化が必要。水道や電話なども同じ。
つまり、私たちの現代の生活が成り立っているのは、個別の技術だけではなく、その技術を広く人々が享受するための標準化や規格化といった作業があったからなのです。


そしてこの標準化、規格化という作業の方向性を大きく変えてしまったのが、昨今のITなのではないかと感ずるのです。
上で書いたことは、ほとんどが物質の物理的な規定ですが、IT時代における標準化、規格化の規定は、例えば通信のプロトコルであったり、特定サービスのAPIであったり、電子ファイルのフォーマットであったり、データベースの構造であったりします。
こういったソフトウェア技術の標準化、規格化は、一般の人の目には見えないため、多くの人にとって非常に理解が難しく、また抽象的な傾向を持っています。

これからの時代は、近代からむしろ中世に近い世界になるのではないかと先に書きました。
しかし、それは近代化の特徴である標準化、規格化が無くなってしまうのではなく、むしろ標準化、規格化がより抽象的で見えにくい領域に押し込まれるからではないかと、ふと思ったわけです。

少数の大会社のみが有名ブランドになるのではなく、どこの街にも○○屋さんがいて、そういう個人間の商売で生活が成り立つ未来。
しかし、それが成り立つには、オーダーメイドによる発注が一般化し、世界から受注が可能になり、そして性能の高いものでもそこそこ安く作れることが可能になる必要があります。
それを成り立たせるためには、よりソフトウェア的な標準化、規格化が必要なのであり、そういうことにある程度理解が無いと、このような未来を暮らしていくのは難しいのではないかと思うのです。


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