2013年11月16日土曜日

依存する個人と会社、集団、そして宗教

私がひたすらこのブログで書いているのは、これからは芸術家的なアイデンティティを持っている個人が生きやすくなる社会になるだろう、という希望にも似た予測です。

その一方、周りには最初から個人が目立つことをよしとせず、自分の個性を発揮しようとせず、集団の論理に従い、与えられたことを疑いもせずこなそうとする人々がいます。
社会はいろいろな人から構成されているわけですから、方向性の異なる個人がそれぞれ協力し合って大きな力を成していくべきですし、このような人々がいるからこそ社会は回っていると言えます。

とはいえ、ネット社会が力のある個人を目立たせるほど、目立ちたくない個人はいら立ちます。
たいていの場合、集団がそれなりに回っているときに、より大きな収穫、発展を得るために新しいことを始める人たちは、回す仕事をしている人たちから非難を受けます。新しいことだから突っ込みどころは山ほどあります。だから非難の内容は探せばいくらでも出てきます。
そして同じような構造が、ネットの知識人に絡んでくる無名な個人とのバトルにも言えるでしょう。似たような議論は身の回りにもたくさんあります。
私の思うに、定型的な作業で集団を回している人々は、何かが新しくなる度に自分の立場が危うくなることを無意識のうちに感じ取っているのかもしれません。

私がこれまでずっと感じていた違和感とは、このような集団に依存する人々(以下、依存系個人)との価値観の違いだったような気がします。
特に日本人はこのような力学が大変強いですから、ある意味、依存系個人の価値観が幅を利かせる社会でした。もちろん、今でも集団の中ではその力は絶大です。


私は依存系個人のことを非難したいわけではありません。
昨今、そのような見方をしてみると、この心理の根の張り方には到底ひっくり返せないほどの強さがあることを実感しているのです。
ある場所においては、自分の生活を犠牲にしてでも集団の成すべきことを成就させるために活動することは大きく礼賛されますし、そういう行動を人々に強いることが出来る人たちが上層部に上がっていきます。
それは、この国に住んで、日本語を話し、日々日本のテレビ局の番組を楽しんでいる人たちには避けては通れない価値観です。いくら、都会に住んで先進的な活動をしている人であっても、このような価値観は強く私たちの心を縛っています。

依存系個人は、このような価値観の中で生息することを好みます。
もちろん生物的感情としては、ときとして不満を感じることもあるでしょうが、その不満さえ押し殺せば、安定した生活と、忠実さが報われる環境が手に入ります。

日本人は無宗教と言われますが、私には会社に依存する個人、合唱団などの集団に依存する個人は、いわゆる宗教団体に依存している個人と、それほど心持ちは違わないのではないかと思ったりします。程度の差こそあれ、宗教というのは依存する個人を安心させるための装置なのかと思ったりするのです。

依存系個人と、目立とうとする個人が、うまく手を取り合って回っていく社会、というものはどんな形なのでしょうか。残念ながら、この対立はしばらくは続きそうな気がします。


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