2014年3月29日土曜日

電子オカリナの製作 ─ 気圧センサ

先週,ついに数ヶ月間作ってきた電子オカリナを公表したので、その内容について何回か連続して紹介しようと思います。

OSC浜名湖では20〜30人くらいの人に実際に話して紹介をしたのですが、その中で一番食いつきの良かった技術的話題は、何といっても大気圧センサの話です。
皆さん技術者なので、吹いた息をどのようにセンシングするか、というところにやはり興味を持つのでしょう。

大気圧センサで吹く息をセンシングする、というのはもちろん私のオリジナルのアイデアではなくて、しかもすでに世の中で使われている方法です。ネットで調べると、同様に気圧センサで吹く息の量を測定する、といった話題を発見することが出来ます。

以下では、大気圧センサを使ってどのように吹く息の量を算出したのか、簡単に説明しましょう。


大気圧センサをI2Cバスに繋げて、プログラムから定期的に値を読み出すようにプログラムを作ります。
私が使ったセンサはLPS331APです。
このセンサから値を読み取ると、現在の気圧が絶対値で得られます。絶対値というのは、例えば1012ヘクトパスカル[hPa]といった値です。
分解能はかなり細かくて、1[hPa]の1/4096の値まで読み取れます。ただ、実際に測定してみると分かりますが、0.1〜2[hPa]程度は常にブレていて、それなりの信号処理をしないと、安定した数値を得るのは難しそうです。

このような状況で息を吐き出した強さをどのように測定したらよいでしょう。
当然ですが、気圧はその日の気候によって大きく変わります。1020[hPa]のときもあれば、台風が来ているときには自分の部屋でも980[hPa]くらいになりました。
まさに天気予報の数値そのものを体感出来るわけです。

また、気圧は高度によっても変わります。気圧で海抜何メートルか測ることも可能です。
10メートル標高が高くなると、1[hPa]気圧は下がるそうです。なので、富士山の頂上では、378[hPa]も気圧が低くなります。

このセンサを密封したところに入れてそこに息を吹き込みます。
そうすると当然気圧は高くなります。しかし,その値はどう頑張って吹いても+20[hPa]程度。つまり通常の気圧が1000[hPa]のとき、強く吹いても1020[hPa]程度の気圧の上昇です。

こういう状況を考えると、吹いた息の量を検出するためには何も吹いていない時の現在の気圧を測定しておくことが必要になるということが分かります。
そうすれば、センシングした数値から現在の気圧を引くことによって、吹いた息の量を正確に得ることが出来ます。
もし大気圧の数値を決め打ちにしてしまうと、天候や高度によって全然使い物にならなくなってしまうことでしょう。


最初はこの問題を解決するために信号処理的にスマートに解決できないか、とか考えてみました。気圧の変動だけとるのだから、DC成分を除去すれば良さそうです。つまりハイパスフィルターを使えば良いのではないかと考えました。
しかし、実際に息を強く吹いたり弱く吹いたりという周期はそんなに早くないので、相当急峻な特性を持ったフィルターでないといけません。実際に計算するとその係数は、0.9999・・・みたいな数値になってしまいます。何しろ、小数点以下何桁といった浮動小数点演算もハードウェアにとって結構なコストです。
(あくまで私の推論ですが・・・)

ということで、今回は泥臭くルールベースで現在の気圧を得る方法を考えてみました。
ざっくり言うと,以下のようなロジックです。
1)プログラム起動時は、少し時間を待ってから気圧を読み取り、まずはその値を現在の気圧(StandardPressure)とする。
2)その後、読み取った気圧の差分が0.2[hPa]を超えたら、この値をTempPressureとして保持。
3)読み取った気圧とTempPressureとの差分が0.1[hPa]以内ならカウンタをインクリメント。これが0.2[hPa]を超えたら、2)に戻り、TempPressureを更新。カウンタを0クリア。
4)このカウンタが50になったら、TempPressureを新しいStandardPressureとする。

上記のように気圧を作り出す処理とは別に、息の量を測定します。
具体的には、今読み取った気圧から上記のStandardPressureを引き算します。その値を適当に正規化して、音源に音量情報として送ります。

この方法は、例えばカウンタを50回インクリメントって一体何msecなのかとか、そういう部分がかなり曖昧ではありますが、とりあえずこんな方法で何とか笛を吹かせることは可能です。
もちろん、なかなか気圧のブレが大き過ぎてStandardPressure値が定まらないことも多く、まだこのロジックにはもう少し修正が必要だと思っています。

以上、気圧センサから呼気の量を読み取りロジックを紹介しました。

2014年3月22日土曜日

OSC2014浜名湖に出展

Open Source Conference(OSC)浜名湖2014にて電子オカリナを出展しました。
浜名湖といっても場所はバリバリの浜松の街中です。
これまで私が製作している電子オカリナについては何回かブログでは書いてきましたが、一般の人たちの目に触れるところに持っていって吹いたのは初めてのことです。

本来OSCとは、オープンソースコミュニティの活動報告の場であり、主にオープンソースの代表格であるLinuxを中心としたグループや、Web製作のフレームワークのコミュニティを中心に展示や発表が行われており、正直言って私の展示の方向性は異質だったかもしれません。

ほとんどLinux繋がりというだけで参加しましたが、それでも何人かの方々に興味を持ってもらえ、数十人の方々に楽器の説明をすることが出来ました。
何曲か吹きましたが、やはりもうちょっと練習しておいた方が良かったかも。
何はともあれ、本日は初公開ということで、私にとって貴重な体験をさせて頂きました。

以下に、本日私が用意したレジュメを貼っておきます。



2014年3月15日土曜日

コピペ論文、またはホンネとタテマエ

STAP細胞騒ぎは止め処もなく拡がり、ついには大学の論文のコピペ騒ぎにまで飛び火しています。
最初はとんでもないことだと思っていた私も、ネットで広まっているとあるブログを読んで実に構造的な問題だと思えてきました。

こんなことはしてはならない、などと言うのは簡単です。しかし、今研究論文を書く必要のない人がエラそうに言ったとしても何の重みもありません。
私が大学生の時代は、ネットもありませんでしたし、英語で書くことも要求されなかったし、なおかつワープロでさえ使わない場合が多かったので、コピペ自体が困難でした。今指導している人たちも私と同じような世代でしょう。

しかし、ここ20年のITの進化は、個人の倫理観を植え付けるよりも速いスピードで、思考を放棄したい気持ちを誘発させました。そして今回の問題は、そういう時代の変化に組織がついていけてない典型が垣間みえるような気がするのです。


大学の経営も厳しいらしく、生徒を指導するためのリソースが足りないのだそうです。
論文をチェックする方も、時間が足りなければ形式的な部分しか見なくなります。一文単位で細かくチェックしていると、抱えている学生分の論文が精査出来なくなるからです。
当然そういう状況で学生が書く論文はだんだんと質が落ちていきます。
後は、坂から転げ落ちるようにモラルが低下していき、指導側もなかばコピペを容認するような環境に堕ちていきます。

外部の人から見れば、他人の論文を剽窃して作られた論文で修士や博士をもらえるなどと聞けば言語道断と思えるでしょう。しかし、何年もかけてそのように堕ちてしまった環境にいると、もはや中にいる人に自浄作用を期待するのは困難です。

最近はこういう事例を聞くことが多くなったように思います。
JR北海道での点検結果の改ざんの不祥事だとか、度重なる原発作業関連の不祥事だとか、いずれも本来あってはならないことと思われる事態が、組織内で日常茶飯事的に行なわれていたという感じがします。
残念ながら、トップはそういう事実を知らなかったといい、現場の監督が責めを負わされます。場合によっては現場にいる人が責めを負わされます。
しかし、どう考えてもこういう事態は必要な人員が確保されていなかったから起こっていることであり、本来必要な人員がどのくらいなのかという点までねじ曲げられているから生じている問題です。つまり、突き詰めれば明らかにこれはマネージの問題なのです。

しかし、なぜこういう事態が簡単にマネージの問題になりにくいのでしょう。
やはり、本音と建前の乖離が大きく影響しているのではないかと思います。
無理難題を突き付けられた時、ホンネではそれを拒否したくても、受け入れざるを得ないときもあるでしょう。そのとき失われるものは仕事の質です。
それを監視しながらリソース確保するのがマネージの本来の役割ですが、コストの圧力が強ければ、マネージもまた無理難題を横流しするだけの存在に堕ちていきます。

出来ないものをきちんと出来ないと言う、そういうことを個々人がどれだけはっきり言えるか、ということが組織全体の健全性を保つためにはやはり必要なのです。


日本だけでなく、末端がトカゲの尻尾切りに合うことは良くあること。
末端にとっては踏んだり蹴ったりですが、それを耐える文化は日本では強過ぎました。

こういう事件が起こるたび、やるせない気分になりますが、逆に言えば様々な状況が可視化しやすくなったからこそ、事件が明るみに出やすくなり、結果的にはそれが浄化を促すような圧力になることを期待するしかありません。

私も含めて個人の力は弱いものですが、組織の圧力があったとしても「それおかしくないかな」と思えるくらいの倫理観が必要な世の中になってきました。


2014年3月8日土曜日

今さらながらビデオ会議について考える

某有名企業システムの導入で、強力なビデオ会議システムの機能が私たちの職場にも導入されつつあります。
今でも一般サービスとしてはSkypeなどを使って遠隔地と会話することは可能ですし、今さらながら驚くようなこともないとは思いつつも、そういうインフラが各個人の手元に届き、なおかつ簡単に出来るようになることによって、いろいろ興味深いことが起きるのではないかとちょっと感じたのです。

ビデオ会議のシステム自体はもはや珍しいものでもなく、私自身もいくつかの会議で利用したことがあります。それは二カ所の会議室を、部屋全体を映すビデオと音声で繋ぐというシステムで行なわれたものでした。
ただ体験してみると、音声の悪さとか、それによる意思疎通の悪さは如何ともしがたく、その場に集まって話をする会議とはどうしても雰囲気が変わってしまいます。報告のように事実を淡々と述べたり、図を見せたりという用途としてはあり得るけれど、突っ込んだ議論をするにはまだ何か足りない感じがあります。

二つの会議室を音とカメラで繋ぐのではなく、一人一人がヘッドセットとPCのWebカメラを使って何人かでビデオ会議をやるような方式の場合、また印象はかなり異なるはずです。
それは、ある意味、会議のあり方を見つめ直すくらいの変化があるのではないでしょうか。


全く異なる場所にいる複数人数が同時に話が出来る、ということは、一見するととても良いことのように思えます。
しかし可能性だけの問題では無く、そういう状況に否応無しに引き込まれてしまう状況を考えると、やや微妙な気もします。

一つには会議に適当に参加する、ということが心理的に大変難しくなると思います。
普段の会議でもほとんど一言も話さない人たちがいます。今話されている内容に適度に距離を置いていれば、何人かが会話の輪から外れていても会議で闊達に議論している人たちにはあまり気になりません。

でも、ビデオ会議で等価に顔が表示されていると、なかなか一言もしゃべらない、という参加の仕方は難しくなるし、苦痛になると思います。内職をしていれば簡単にバレてしまうし、だからといって自分だけ画像をオフにするわけにもいかないでしょう。
電話と同じで一定の時間を取られてしまうので、話したくない人にとっては余計苦痛です。これに参加するぐらいなら別のことをやりたいと思うかもしれません。

つまり一人一人が端末に貼り付くタイプのビデオ会議はどうやっても、高い参加意識を持たざるを得なくなり、そもそも会議で話さない人は会議にも呼ばれたくないし、呼びたくもなくなるでしょう。そうして会議に呼ばれることは減っていくと思います。それは結果的にその人が意思決定の場から離れていくことを意味します。

もう一つは、こういう会議は国境をまたぐことが予想されるので、必然的に英語を話す流れを加速させるだろうということです。
言うまでもなく、ほとんどの日本人は英語をしゃべることに抵抗があると思うので、いきなり海外からビデオ会議の案内が来たら、これはかなりの心理的な負担です。もちろん、そんなことはすぐには起きないのでしょうが、それでも少しずつそういう流れは起きてくるような気がします。


そんなわけで、そもそもこういったビデオ会議システムが日本的なビジネス環境で普及していくのか大変興味があります。もしかしたら、システムはあれど使う人が増えず、宝の持ち腐れで終わるのかもしれません。

それでも世界的なビジネスを今後も展開していく気があるのなら、こういうシステムに背を向けるわけにはいかないでしょう。
そのためには、こういうシステムに向き合うために、私たちの気持ちも相当バージョンアップしていかないと結局、何だかイヤなもの、にしかならないのではないか、という気がしているのです。

2014年3月2日日曜日

ビットコインで勝手に妄想

ビットコインのニュースがついにお茶の間でも流れるようになりました。
半年くらい前から興味を持ってビットコイン関連のニュースをウォッチしていましたが、今回の事件のおかげでようやく理解が深まったような気がしています。
もちろん、私はもともとの論文も読んでいないし、そこまで調べてみる気合いは無いのですが、個人的にはビットコインがこれから社会に引き起こすことに大変興味があります。
多くの人々がビットコインに対して不信の目を向けていますが、私は敢えていわせてもらうと、ビットコインは私たちの常識を変え、未来に大きな影響を与え得るものだと感じています。

技術的にまだまだ問題があるのは仕方がありませんが、ビットコインのスゴさの本質は、P2Pで電子のお金を転送できてしまう、ということにあるのではないでしょうか。
以下は全く勝手な私の妄想ですが、間違っている可能性も含め、私はこう思っているということでお読みください。


お金が物理的なモノである現在、たくさんのお金を個人で持っているよりも、より安全な場所に置きたくなります。そのために銀行という存在があります。
モノなので、自分の所有物でない以上、貸すという形になります。銀行は預金という形で安い金利で人々からお金を借り、それより高い金利でお金を貸して儲けます。
こういう仕組み自体は、お金がモノであり、それを貸し借りする必要があるから成り立つ事業のように思えます。
ビットコインはモノでは無いので預けておこうという必要性は無くなります(安全性の問題はあるにしても)。しかも電子的に特定の人に中間の搾取無しで動かすことが出来ます。そうなると、従来の金融機関がやっていることのうちのかなりの仕事に影響があるような気がするのです。

例えば、モノが動くときには手数料という形でお金を取ることがあります。
その昔、人が動けば関所みたいな場所で通行量を取られました。その人が商売人だったら、その人が運んだ商品には通行量の値段が上乗せされることになります。そうやってモノは移動距離がかさむほど値段が高くなっていきます。
同じようにお金が動けば、手数料が取られます。誰かに送金する場合もなんやかやと手数料を取られます。確かにATMなどで処理すれば本物のお金を扱っていないようにも思えますが、本質的に銀行はモノであるお金を扱っているからこそ、振込でも手数料が発生するのだと思います。
当然、ビットコインは世界中どこでも相手にタダでお金を送れます。

お金の最小単位は、例えば日本円なら1円ということなります。
利息計算や消費税の計算など、お金の計算で生じる割り算で1円以下の数値が現れます。こういうとき、ルールベースで1円未満は切り上げとか、そういう形で処理することは多いと思います。
これは、何らかの手数料を取る場合、お金が少額であればあるほど遠くに動かしづらいという現象を生んでいるはずです。
ところが、手数料のようなものが無くなることで、少額のお金の移動が圧倒的に簡単になります。そうすると、世界中から一人当たり0.1円徴収するというようなビジネスだって可能になるかもしれません。
そうなると広告収入だけでなく、直接課金なども今よりずっとハードルが下がります。


上の話は結局のところ、世の中の価値を極限まで細分化する流れに繋がると思います。
ネットはたくさんの情報を丸裸にし、それらをいとも簡単に連結させましたが、それとビットコインが呼応すると、今まで切り捨てられたような少額の価値が世界中を駆け巡り、サービスやモノといったビジネスだけでなく、さまざまな個人の行為やささいなアイデアまで値付け、というか価値付けが可能になっていくと思われます。

これは、私がこれまで組織よりも個人に重きが置かれる社会というのをさらに押し進める原動力になるのではないでしょうか。
今後、ビットコインそのものでなくても、ビットコイン的な何かがこれから主流になる可能性は大いにあると思います。好むと好まざるに関わらず、まるで水が低いところに流れるように、世界中にあった流通を阻むダムがどんどん小さくなることで、その水流はますます強くなっていくのではないでしょうか。

ということで、以上、ビットコインにまつわる妄想でした。