2014年10月25日土曜日

AIは人間のように振る舞えない ─身体性の呪縛─

先週の続き。
そもそも人間の意識、知能、知性というようなものは、「人間という容れ物」無しに持ちようがないのではないか、ということを書いてみたいと思います。

「人間という容れ物」とは、端的に言えば、二本の足で歩き、身の回りの作業をこなす二本の手があり、指が十本あり、顔に目と鼻と口があり、というようなことです。
もちろん、AIもそのような身体を作ればいいという意見もあるでしょう。しかし、人間の一生を時系列で見れば、3kg、50cm程度のサイズで生まれ、十数年で大人の身体に成長し、配偶者を探そうとし、子供を産もうとします。次第と身体は老化し、その機能が衰え、最後は必ず死を迎えます。人生のそれぞれの状況で、私たちの考え方は身体の変化に合わせながら少しずつ変化していきます。

私たちの意識は、自分の肉体とともにあり、自分の身体という束縛の中で知能や知性を育みます。運動能力の低い身体を持った人が、スポーツで名を上げるために努力する可能性は低く、そのような身体に束縛された意識は、同様にスポーツにそれほど興味を持たないようになる可能性が高いと思われます。


人は暗闇を恐れます。
このような形質は人間の進化の歴史の過程で獲得されたものと思うのです。
何百万年も前、アフリカで暮らしていた人間の祖先は、肉食の猛獣や、他部族の襲撃にいつも恐れおののいていたはずです。視界が利かなくなる夜には、暗闇に恐怖を覚え、ある程度の緊張感を持って生きていた人々の方が生存確率が高くなり、結果的に暗闇を恐れる遺伝子が獲得されていったと思われるのです。超音波で外界を捉えるコウモリなら、暗闇を恐れる必要は全くありません。

暗闇を恐れる人間は、昼と夜とでその心持ちが変わるはずです。
それが知能の発達した人間の文化的生活に独特な彩りを与えているとも考えられます。夜を恐れる気持ちが、黒いもの、隠れているものに何らかの象徴を与え、そこに闇を表現する文化を育んだとも言えるでしょう。


リチャード・ドーキンスの名著「利己的な遺伝子」にはいろいろと刺激的なことが書かれています。
例えば家族の中でさえ、それぞれの関係において常にある種の闘争があります。
乳児はなぜ大きな声で泣き叫ぶのでしょうか。何百万年前、アフリカで生きていた人類にとって、乳児が泣き叫ぶことで敵に自分たちの位置を知らせてしまう危険性がありました。もちろん、それによって襲撃を受け死んでしまった家族もあったことでしょう。

では、もし泣かない遺伝子を持った乳児が生まれたらどうなるでしょう?
確かに敵に位置を知られる可能性は低くなります。しかし、乳児が泣かなくなると、親はだんだん乳児の面倒を見なくなるようになるでしょう。
親は子供の面倒を見るべきだという道徳的な問題で解決できる話ではありません。子供を持った人には、いつでもどこでもお構いなく子供が泣くことをどれだけ恨めしく思ったか多少は思い出があるはずです。子供が泣くことは、親に面倒を見てもらうための必死の戦術であり、家族や部族の存亡の危機を招いてでも、そのような形質を得たほうが乳児の生存確率を上げたというのが進化的な真実なのです。


このようにして、人間が持っている意識・行動における遺伝的形質は、人間の進化の過程で獲得したものであり、これがまさに人間が人間たる所以だと思うわけです。

今書いたことは、実はAIが人と同じような意識や知能を持ち得る、という可能性を完全に否定しているわけではありません。
しかし、上記のようなことを考えていくと、AIが人間と同じように振る舞うためには、人間の脳内にある遺伝的に獲得した形質を完全に実装し、年齢とともに人間とほぼ同じ性能を持った肉体が成長するように作らない限り、やはり人と同じような意識を持つことは難しいと思われます。

しかし、そのようなことは人々がAIに望むことからすればあまりに過剰な性能であり、現実的にそのようなマシンを作ろうということにはならないのではないでしょうか。

恐らく「人間のように振る舞う」AIとは、人との会話をそれなりに模倣するようなシステムにしかならず、人と人との関係性を作るというには程遠い状況ではないかと思うわけです。
ぶっちゃけ言えば、もうちょっと気の利いたSiriのようなものが、人とコミュニケーションするようなAIの一つの限界ではないかと私は思っています。

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