2015年6月28日日曜日

トゥモローランド

すごい久しぶりに映画を見ました。
ディズニーのトゥモローランドという映画。予想を超えて面白くて、色々思うところもあったので、たまには映画の紹介でも書いてみます。

トゥモローランドとは一見、未来都市のことかとも思えるのですが、映画を見る限り別次元の平行世界みたいなもの。
このトゥモローランドは非常に科学が進んでおり、多くの世界の科学者、発明家がその平行世界を作るのに秘密裏に尽力していたという設定。

主人公ケイシーはひょんなことからトゥモローランドに見ることが出来るバッジを手に入れ、そのために謎の人たちから何度も襲撃にあいます。しかし、そこに至る描写が非常に断片的で、映画の前半ではかなり多くの謎が積み重なります。
事件に巻き込まれるケイシーも、途中で助けてくれる謎の少女アテナに対して、多くの疑問を口にするのですが、なかなかきちんとした回答をしてくれません。

この辺りの謎を引っ張るテンションに支えられて、中盤くらいまで観る人もほとんど良くわからないまま、謎の男たちに襲撃されるアクションでドキドキハラハラ。
そして、中盤以降は平行世界を舞台に映画は展開していきます。


この映画の見所の一つは、その平行世界の描写。
冒頭、子供時代のフランクが未来世界に驚く様とか、ケイシーがバッジでトゥモローランドを体験する様とか、そこでの近未来社会の様子が詳細に描かれていて、映画を見ていてとてもワクワクします。
未来といっても、多分それほど先の未来ではなく、どれも今ある技術の延長ではあるのが多分心地良いポイント。というのも、どれも普通の人が想像しうる未来だからです。

もし、本当に何十年か先にこの映画を見たら、「あぁ、あの頃の未来のイメージってこんなだったよね」とか逆に懐かしく感じるに違いありません。
それでも、それを非常に細かいディテールで描いていたのはさすがディズニーと思いました。

ただ正直言って、途中まで膨らませた謎が、終盤、解かれていく度にややショボい感じになったのは確か(ご都合主義的で)。
終盤でのケイシーのアイデアも実は今ひとつ理解できませんでした・・・
この辺りは、出てくる設定の数を少なくするなど、多少整理の必要があった気がします。


ただ、この映画の底流に流れている「夢見る人(Dreamer)になれ」という思想が、ひしひしと伝わってきて、私にとってそれがこの映画で一番面白いところではないかと思ったのです。

言葉で言うと「夢見る人になれ」というのは簡単。
言葉だけなら誰も否定しない。だけど、夢見る人は実際に行動を移せば、いろいろなところで問題を起こし、否定されます。
それでもめげないケイシーの向こう見ずさ、明るい未来を信じているその強い想い、そしてラストでのポジティブなメッセージは、映画を観る人たちに、もう一度「夢を見よう」という心地良い希望を与えてくれます。

やや青くさいメッセージではあるけれど、何かに興味を持ち、その気持ちを持続させながら、大人になっても夢に向かって静かに突き進もうとするその強い意志を持つことは、人間にとってどれだけ大事なことでしょう! ディズニーは子供だけでなく、大人にもそういった希望を与えてくれたのです。
私もちょっとだけ勇気をもらいました。

2015年6月21日日曜日

何となく言いたいこと

すっかりブログ更新を怠っています。
以前は無理矢理でも何か書いて、続けることが大事だと思っていました。しかし、ことブログに関しては、もはや自分にとって重要な表現メディアで無くなってきたような気がしてます。

なので、やや独り言っぽいような話を、こっそり書いてみることにしましょう。

最近、私をイライラさせるものが増えていて、それらは同じ根を持っているものではないかと思うのです。
同じ根といいつつ、なかなか文章化するのは難しいのだけれど、ざっくり言うと「局所的な正しさの追求」「責任回避の論理」そしてその結果生じる「コミットメントの欠如」といった感じのものです。


「局所的な正しさの追求」とは、ほんのちょっとした間違いに対して、過敏に反応し、大問題に仕立て上げ、最も問題が極大化するような場所で表面化させ、直接的な間違いをおかした人に対して非難するようなメンタリティのこと。
しかし、間違っていると指摘した内容そのものは全く正しいことだし、それを表面化させる場所も本来そうすべきと規定されている場所です。
今まで私たちは本音と建前で使い分けていて何とか回していたことを、仕事のすべてを建前のフォーマットで表面させようとするようなやり方です。

この件だけで無茶苦茶深い話ですね。
そもそも、建前とは心の中でみんなが建前だと思っていても、それが建前であることを前提として作られていないので、本気でその建前を守ろうとすることを批判することはできません。
ところが、情報化が何もかも可視化してしまい、今まで見えなかったことが簡単に見えるようになってきました。
我々は過剰な建前と、実際に運用されている本音の差に耐えきれなくなり、過剰な建前側に自分の立ち位置を寄せるしかない状況になっていると思えるのです。

例えば、ある書類を有効とするために、どの役職とどの役職の人が承認する必要がある、といったルールが5年くらい前に作られていて、実際にはほとんど機能していないにも関わらず、ある人が思い出したようにこの承認手順を求めてきたら、あなたはどう思うでしょう。
直前の案件までルール通り運用されていなかったとしても、それを理由に今回もルール通りしなくて良いという理由にはなりません。
あらためて他の人にそこまでやらなくてもよいのでは、と聞いても、皆が「いちおうルールだから」と守ることを求めたりします。
つまり表沙汰にすればするほど、建前的に正しい方向に結論を持っていくしかなくなります。

こんなことがあちらこちらで日常茶飯事に起きるので、どんな小さな仕事も(もちろん指摘する人は決して小さい問題などとは言いません)複数人が絡む結論を出しにくい状況に追い込まれ、これまで10くらいの仕事量だったものが、15や20とかに増えてしまったりします。


「責任回避の論理」とは、自分の範囲を明確にした上で、曖昧な箇所を切り取り、そこは私の責任ではないと言い張る態度です。
ただこれについては、私は多少理解しますし、そのような態度は否定しません。

なぜなら、そもそも日本で複数人で何かの仕事をする際、私たちは役割分担とその責任範囲をあまり明確にしてこなかったからです。
責任範囲を明確にすることを、横の関係である担当者同士で決めることは原理的には不可能です。特に利害が一致しない場合は、そこを調停するのは本来もう一段高い階層の判断者がすべきなのです。

ところが日本の場合、それがあまり機能しないのです。
だから日本の職場では現場がお互いを思い計って、敢えて現場には権限の無い責任範囲について勝手に決めていたのです。
しかし、誰かが「それは私の責任ではない」と言い始めればそちらの方が絶対的に正しく、これまでのように曖昧にものごとを進めることが難しくなります。
これも、最初に書いた建前が建前で済まなくなっている状況と似ています。

しかし、この件については、昔みたいな曖昧な状況に戻すことは出来ないでしょう。管理側の人が正しく各担当者の責任範囲を明確にするようなマネージメントが必要なのです。
ぶっちゃけ、今の日本人には望むべくもないのですが・・・


こういったメンタリティは最終的にコミットメントの欠如を引き起こします。
コミットメントの欠如、とは簡単に言えば、各自が自らの問題領域として主体的に行動しようとしない状態を表現しています。

例えば、とある屋外イベントを計画したとします。
人が集まるから、場所は狭く無いか、トイレは十分にあるか、荷物やクロークはどうするか、音響設備は整っているか、などいろいろな細かい作業が思い付きます。
ところが、コミットメントの欠如があると、例えばトイレが足りないからどうしたらいいか、などと自ら考えません。リーダーが気付いて「トイレが足りないから何とかしてほしい」と指示されても、別の場所に誘導すべきか、仮設トイレを作るか、その場合どのようなタイプのものをいつまでにいくつ増やした良いか、事細かに問い返されたりします。
もちろん、担当している人の立場にもよるでしょうが、自分がそのスタッフの一員だという意識があれば、せめて自ら判断し「何日までに仮設トイレを3個レンタルの見積もりを取ったら⚪︎⚪︎円でした。これでいいですか」くらいまで、自力でやったほうが圧倒的に仕事の効率が良いでしょう。

単にもっと仕事をして欲しい、ということでなく、自分のすべきことの内容にどれだけ自分が直接関係者として関与しようとするか、そういう意識の問題です。
ただし、何をやっても報われない、やらされ感しか無いような仕事では、こういったコミットメントの欠如は簡単に起こってくることでしょう。

こういうのって、日本社会の高齢化と無関係ではないと思うこのごろ。とすると、この先が本当に恐ろしいです。